急増する“イチャモン”保護者―キレる「お客様」。

“イチャモン”保護

急増する“イチャモン”保護者 無理難題に学校疲弊」(Sankei WEB)

イチャモンとは何か。小野田教授によると、当事者の努力では解決不可能で、学校の責任能力も超えている理不尽な内容の「無理難題要求」。/例えば、「子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい」「自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ」「親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ」「今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ」…。いずれも実例だ。

なぜ、90年代後半から増えたのか。保護者の調査はしていないので仮説だが、70年代後半から80年代前半に、中学校を中心に校内暴力が社会問題化し、「あるべき教師像」が揺れた。/そして、その世代が就職するときは日本経済はバブル期で、教員・公務員の人気は低かった。この世代が小学生の親になるのが90年代後半。「教師への尊敬の念がなく、自分と同等という潜在意識があり、垣根が低くなったのでは」と小野田教授は分析する。(以上:Sankei WEBより引用)

お客様化

(私は)この記事を読んで、森真一(著)の『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』にある『キレる「お客様」』を思い出していた。

日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代

日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代

森真一(著)
2005年7月10日
中央公論新社
740円+税


現代社会で生活している人びとは、「消費者」や「顧客」としてふるまう機会が増大しているのです。ただし、日常生活での私たちの経験をより正確に表現するには、「消費者・顧客」というよりも「お客様」といったほうがよいと思います。消費社会化した現代社会で暮らす人びとは、「お客様」としてふるまう機会や場が増加しているのです。(森:p185)

Sankei Webの記事中の仮説は、「教師への尊敬の念がなく、自分と同等という潜在意識があり、垣根が低くなったのでは」というものだったが、むしろ教育がサービス化・商品化されてしまっていること。それに伴って子供も保護者も、教育の「お客様」化していることに原因があるのではないだろうか、と(私は)思う。

消費主体(客)としての〈私〉

先に紹介した内田樹の『下流志向』では、子供たちが教育サービスの買い手として――つまり消費主体として自己を確立してしまっていること。つまり交換の原理が支配的な心的システムの持ち主になってしまっていることを、「学びからの逃走」の原因として指摘しているが、“イチャモン”保護者の心的システムも、「学びからの逃走」と同根ではないだろうか。

つまりキレる「お客様」の文脈で読んでみた方が、急増する“イチャモン”保護者は、(私には)理解しやすい。

つまり、この国の市場主義がたどり着いた「お客様第一主義」――過度の「お役様」化は、消費者を神様と勘違いさせることで成り立っている。そしてこの似非神様は「お客様」と扱われることでしか、もはや自尊心を満たせない。

だから客としての〈私〉は、サービス提供者の態度によってのみ支えられていることで、ほんの少しの欲求不満でも、自分を傷つけるものと感じてしまい、激しい攻撃性につながる。

お客様は神様ではない

しかし神様=純粋贈与は、無償の贈与を行うからこそ神様なのであって、経済的交換としての見返りを求める「お客様」は、神様でもなんでもない。

そのことを〈私〉に悟らせるシステムを、この国は構造的に持っていない――神様でないことを〈私〉に知らしめる中景(例えば地域社会)は既に絶滅種なのである。

つまり、昨今教育の市場化圧力が強いのだけれど、市場原理=交換の原理が、教育の現場に波及すればするほど、クレーマーとしての“イチャモン”保護者と「学びからの逃走」をする子供を増やすだけでしかないだろう、ということだ。