存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集。

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ここのところ、『存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集』を読んでいる。この本は不思議な力があって、読んでいると妙に落ち着く、というか、なにか心が安定するのである。

存在することの習慣

存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集

フラナリー・オコナー(著)
サリー・フィッツジェラルド(編)
2007年3月20日
筑摩書房
4200円+税

かといって、べつにヘンな本ではなく、フラナリー・オコーナーという、たぶん殆どの人は知らないであろう(勿論、私も知らない)米国の女流作家の書簡集である。

存在することの習慣

「存在することの習慣」、“the habit of being”とはなんなのか。/この書簡集の存在を早くに日本に紹介したのは大江健三郎で、「人生の習慣」と訳している。どこかの女子大の同窓会かなにかでの講演でとりあげているのだが、いかにも説明しづらそうにこう語る。「あたしがとくに語りたいのは、フラナリー・オコナーの根本思想のひとつといっていい、『人生の習慣、habit of being』ということについてなんです。それはちょっとわかりにくい考え方で、しかもいったん理解すれば、若い女性の皆さんの、それこそこれからの人生、生きてあること being のために役に立つと思いますから。」 でも、明快な説明はできず、読めばわかる、と言う。「皆さんがこの書簡集を読まれることで、すぐにも具体的にそれを納得されると信じています。そしてフラナリー・オコナーが、こういう『人生の習慣』の人だったのか、ということを理解すると同時に、『人生の習慣、habit of being』ということの、なかなか単純にはつたえがたい意味をあなた方がはっきり自分のものにされるだろうと思うんです。」(『人生の習慣(ハビツト)』) 読めば、きっとわかる。(青山南:ちくま3月号より)

フラナリー・オコナー

オコナーの人生は短かった。学生のときに早くも作家としての才能を見出されて注目を集めたはいいが、それからまもなく、いきなり難病に襲われ、歩くのも不自由になって遠くへはほとんど出かけられなくなり、故郷の南部の小さな町で母親と暮らしながら、作品を書きつづけ、三十九歳で亡くなったのである。思うように動けない彼女には手紙はとても大事なコミュニケーションの道具で、顔も知らない熱心な読者とも長年にわたり真摯な手紙のやりとりをしている。(青山南:ちくま3月号より)

いきなり長い引用で初めてしまったのは、あたしはフラナリー・オコナーについて何も知らず、ただ青山南さんの「ちくま3月号」の紹介記事を頼りに、この本を購入し、そして今読んでいるところだからだ。

Everyday I Write The Book

この書簡集を読み始めて、最初に頭の中にうかんだのは、エルビス・コステロの 「Everyday I Weite The Book」というやや古臭い歌である。あたしは "Everyday, everyday, everyday I write the book"と頭の中で繰り返していた。毎日本を書くように生きる.、なんて素敵な人生だろう。

と書くと、フラナリー・オコナーは幸せな人なのか、と思われてしまいそうだが、そうでもないのは、上記の青山南のテクストを参照していただければ分かるだろう。

確かにフラナリー・オコナーは、毎日本を書き、そして手紙を書いていたけれども、それも自由が利かなくなる身体との折り合いをつけながらであることで、彼女は、「存在することの習慣」、“the habit of being”を身につけていく。

それは確かに大江健三郎のいうように、(この書簡集を)読めばきっとわかる、というようなもので、それを(あたしの)下手なテクストで説明するのは無粋でしかない。

Everyday I Write the Blog

ただ「存在することの習慣」、“the habit of being”とは、たとえばあたしの「存在することの習慣」、“the habit of being”でもあることだ、と書けば、なんとなくわかってもらえるだろうか(まあ、そんなたいしたものではないが、わたしにも習慣はある――存在するための)。

それは、この本を読む前から薄々気付いていたことで――だからこそこの本を買ったのだけれども――、あたしは、本の代わりに、そして手紙の代わりに、毎日ブログを書いているということだ。それも規則正しく、つまり「エブリディ・アイ・ライト・ザ・ブログ」なのである。

ただフラナリー・オコナーの手紙と根本的に違うのは、オコーナーの手紙が特定の個人宛に書かれていたのに、対してあたしが毎日書いているブログは、届け先不明なのである。そしていつも誤配されることを楽しみにしている。