ミクロコスモスⅠ+Ⅱ。(中沢新一)

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 ミクロコスモスⅠ

ミクロコスモス I

中沢新一(著)
2007年4月8日
四季社
1280円+税

 ミクロコスモスⅡ

ミクロコスモス II

中沢新一(著)
2007年4月8日
四季社
1280円+税

才能のあるウソつき

中沢新一という人は、じつに才能のあるウソつきである。天才といっていい見事なウソのつきっぷりにはほとほと関心させられた。/…中沢自身、「踊る農業、踊る東北」という森繁哉との対談の中で、繰り返し自分のウソのつきかたについて語っている。/〈みんな嘘をつく、だって嘘というものが存在の様式なんだもの〉/〈自慢じゃないけど、ぼくは嘘つきだからね〉/〈歴史なんてものはみんな嘘なんじゃないかなあ〉/などと言いつつ、彼はこう自分のウソに魔術師のルールをつけ加える。/〈ただそれは、だますこととはちがうんだ〉/つまり批評家・思想家のウソはウソのためのウソであり、ひとつの存在様式、または美学なんだよ、と釘をさすのだ。たしかにそうだろう。中沢の文章を読むとき、ぼくたちが一種の酔いをおぼえるのは、そのウソの手ごたえある存在感に酔わされるからだ。(五木寛之:『百の旅 千の旅』:p25-27)

中沢新一は、吐き出されたそのテクストを、テクストとして読むことが、その行為自体が、(最近の私には)楽しい。それはたぶん、五木寛之が指摘しているように、彼が才能のあるウソつきで、彼のテクストが多分に物語的だからだろう。

私はその魔術的なテクストに酔いを感じるファンのひとりだが、その酔いの正体は(たぶん)ズレなのだと思う。中沢新一の魔術は(私が)普段気付かないモノをあらわにしてくれる快楽のようなもので、ボーっとした日常に、二項対立を作り出し、その境界に浮かび上がるものをあらわにしてくれるのだが、何が楽しいって、その二項が尋常ではないことだ。(つまりそのことで彼は 「じつに才能のあるウソつき」なのである)。

それは基本的には〈日常/非日常〉もしくは〈常識/非常識〉であり、普段ボーっとしているときにはこの二項は中心を重ねあった同心円であることで、ひとつのものにしかみえない、というか、単純な二項対立の円環(〈内/外〉の繰り返し)の中に収まってしまう。

ところが、彼のテクストは、私の日常は他者の日常なのか、とか、私の常識は他者の常識なのか、と問いを投げかけてくるものだから(それも古い地層の底から)、それを考えた途端、その同心円は互いに中心をずらしはじめ、その重なり合い(境界)に、今まで見えなかったモノがあらわになる。その快楽の追体験が、私たちに酔いを与えているのだろう。

平面と遠近法でものを考えることはやめる必要がある。ここではふたつの円、ふたつの渦巻き、ふたつの球があると考えよう。このふたつの球は、わたしが素朴に生きている間は同心の球だが、わたしが自分に問いを投げ掛けると、互いにわずかに中心をずらせるのである。(『メルロ=ポンティ・コレクション』:P130 :「絡み合いーキアスム」)

ミクロコスモス

中沢新一の『ミクロコスモス I』と『ミクロコスモス II』は、中沢新一がここ数年のあいだに、新聞や雑誌、コンサート・プログラムなどに発表した評論、エッセイ、講演録を集めたミクロコスモス・シリーズの最初の2刊であり、タイトルは、バルトークのピアノ曲集『ミクロコスモス』に由来している――らしい。

それは小さな作品の寄せ集めであり、読み始めるのに覚悟はいらない。最初から読む必要もなく、気になるタイトルから読みはじめればよい。小品であるが故に、限られた紙面に収められたそのテクストの凝縮感が心地よい。そしてそれぞれに、常識にズレを作り出しながら、普段はなかなか見えない(気づかない)モノを、私たちに向かってあらわにしてくれている。