「街的」なデコードとエンコード。

午前6時20分起床、浅草は晴れ。昨日大阪の江弘毅からメールが届いた。それはいつものように退屈な日常に亀裂をつくってくれる楽しいもので、私はその返事を書くことに没頭して仕事を忘れてしまいそうなので、昨日は返信を書くのを保留し、仕事をすすめた。

今朝、江弘毅のメールを再び読んで、返信の一部をブログに書いてしまおうと思った(ブログを書いている時間がなくなりそうなので)。それは(↓)の部分だ。

それと「デコード」「エンコード」って桃知がよく使ってるのですが、街的にはどういう意味ですか???
教えてください。

デコードとエンコード

デコードとエンコードについては、先に「デコードとエンコード。(法大EC用メモ)」に書いてはいて、今でも大きなブレはなく、その意味で使ってはいる。ただ、「街的」には、とたずねねられているので、デコードを中心に補足的にここに書こうと思う(エンコードもデコードされたデータのマッシュアップであるので、同じ文脈で読んでもらえればよいかと思う)。

自己言及とバイナリーコード

あたしたちは日常的に、バイナリーコード(二項区分)を使って対象をデコード(分節化=言葉によるデコード)している。例えば、これは〈水素である/水素ではない〉、〈0である/0ではない〉、〈漢字である/漢字でない〉等。

このような区分には曖昧さは少ない。バイナリーは化学的、物理学的なものは「ゆらぎ」(未規定性)は少ない。

自己言及とバイナリーコード一方、あたしがこのブログで書くたべものや、店では、〈おいしい/おいしくない〉、〈いい店だ/いい店でない〉等のバイナリーを使う。

それは多分に曖昧であるな、と(貴方は)感じるだろう――〈街的/街的でない〉も曖昧であるだろう――。

つまり、「おいしい」と思っているのはあたしなのであり〈読者である貴方〉ではない。つまり(あたしは)「おいしい」を語りながら自分について語っているに過ぎない(それを自己言及という)。

〈おいしい/おいしくない〉のようなバイナリーの判断では客観性は薄くなる。あたしが「おいしい」といっても、「おいしくない」と思う人がいるかもしれない(たぶんいる)。

つまり人によって感じ方が違うことがよくある。こういう曖昧性を孕んだバイナリーが社会の中には多々ある。

この曖昧さを〈ゆらぎ〉、〈未規定性〉と呼ぶのだけれども、ではなぜそのようなバイナリーが〈未規定性〉を孕むのかといえば、バイナリーの判断には必ず〈自己〉が加わるからだ。

そして〈自己〉を規定しているのは「パトリ」でしかなく、「パトリ」はバイナリーを判断している「私ってなに?」〈自己〉の基底である。

それを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるの」であって、それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる――ことで、(そんな自己の行う)バイナリーの判断もまた未規定性を孕み揺らぎをもつ。

「おいしい」と判断している〈私〉を育んできたのは、ほかならぬ「パトリ」である。つまり「おいしい」と判断しているのは、あたしではなく、あたしを育んできた共同体性なのだということだ。

エンコード

エンコードもまた、未規定性を孕んだままのデータのマッシュアップ(ハイブリッド)であることで、いってみれば、「パトリ」を象徴してしまっている――ことで特産品は生まれる。

つまりこれが「街的」ってことだ、といえば、江弘毅はわかってくれるだろう。

※(二クラス・ルーマンは、真/偽、誠実/不誠実、規則に従わない自然なふるまい/規則に従った不自然なふるまい、楽しみ/苦しみ、自己愛/他者愛を挙げて、自己言及とバイナリー図式化が分離する歴史的な経緯を説明している――『社会構造とゼマンティク』)