鏡像としてのWeb。

午前5時30分起床。浅草はくもり。「Web2.0と建設業―4月20日CCPM合同勉強会での講演用PPT」にひできさんからトラックバックをいただき、その関連で、yokoさんから「Web2.0のロゴ―Web2.0 Logo Creator by Alex P」にトラックバックをいただいた。大変ありがとうございます。

へその緒の接続先としてのWeb

私のいう、Webは鏡像である、というのは、Webにへその緒がつながっている、というのと同意であって、「ボロメオの結び目」でいう想像界(お母ちゃんとへその緒で繋がっていた幸せな記憶の接続先)がWebには機能代替的にあるということだ。

それは簡単に言ってしまえば「つながりたい」という気持ちの受け皿のようなもので、ウェブはそこへ収斂していくと考えている。(子宮的構造

円環モデル

Webを鳥瞰すればスケールフリー性を持つのだろうが、それは徐々に、小さなランダムネットワーク(閉じた円環=「円環モデル」)の集合体になっていく(宮台真司のいう「島宇宙」の概念と似たようなものだ)。

ただ個人は、その閉じた円環(コミュニティ)の一箇所に留まる必要がないことで、ムラ社会的なものとは違った原理で生きることになるだろう。つまりWeb上の円環(コミュニティ)は、参加・脱退の自由は保障され、また同時に複数の円環(コミュニティ)に自分を置くことが可能だということだ。

多重コミュニティの限界

ただ、Webでは、多重円環(コミュニティ)性は保証はされているものの、多くの人々は、多重の円環にいることの、その分裂性に耐え切れるわけでもなく――個人の情報処理能力の限界と言ってもいいだろう――、徐々に自らを置くコミュニティの数は限られたものとなるだろう。

つまりWeb上の円環(コミュニティ)とは擬似パトリ(若しくはパトリの機能代替)のようなものであり、そこが自らにとって拠って立つ地面でありえる限りにおいて、個人はそこで鏡像としての自己を確認することとなる――逆説的には、鏡像が映らないコミュニティには居る価値もない。

だがその鏡像は、鏡像段階の子供のように、理想の像でなくてはならないのかもしれない。

話は飛躍しすぎるかもしれないが、鏡像=キャラと考えてみてもよいだろう。そもそも「私は」の行き着くところは「我輩は猫である」なのである。自分のキャラをWeb上で立てることは、「私は」の行き着く先としては妥当だと(私は)思う。――詳しくは「なぜ私のブログでは、「(私は)思う」と私を()の中に入れてしまっているのか、ということ。」をご参照いただきたい。

Webの再編

閑話休題。だとすれば、Webはロングテール的に、無数の小さなランダムネットワークの集合と、そのランダムネットワークのプラットホーム(これが恐竜の頭だ)から成るグラフ的配置に向かって再編成されることとなるだろう。そのプラットフォームの中心が今はSNSであり、mixiの躍進は、そう考えると理解しやすいかと思う。

と同時に、(検索エンジンの高機能化もあって)、Webにおけるスケールフリーネットワークの大きな島であった、ポータルサイトはその力を失うだろう。それは、Yahoo!や楽天のようなポータルサイトは、個人の鏡像としてはいささか焦点がぼけているからだ――楽天のTBS株買収という「あせり」の正体はこれだろう。