松岡農相のこと―針千本マシーン(けん制装置)の死。

牽制装置

死者に鞭打つような言説は避けるようにしたいのだが、松岡農相の自殺に関してはひとこと書いておきたい。

松岡利勝氏は、最後の針千本マシーン(けん制装置)だったのだと思う。針千本マシーン(けん制装置)とは山岸俊男のことばで、「嘘ついたら針千本の~ます」の針千本であり、牽制装置であり、つまりはムラ社会的共同体を「安心のシステム」として担保する機能を持った人のことだ。

私はかつて『桃論』(絶版です)で以下のように書いた。

ヒエラルキー・ソリューションの終焉

一方、官製談合のように、談合のシステムに政・官が加わることは、そもそも、相手に対する人格的な信頼を前提とはしていないのです。つまり、談合参加者が決定事項を必ず守る必要を談合参加者の良心に委ねるのではなく、政・官という権限と強制力に委ねていることを意味しているからです。/つまり官製談合は「安心のシステム」だということができます。この「安心のシステム」には、談合参加者が約束を守らない場合、指名から排除される等の何らかのペナルティが違反者に対して課せられる仕組みが存在するのですが、このけん制装置の存在は、相手は嘘をつくかもしれないが、嘘をつけば相手は自己利益を損なうだろうから、たぶん嘘はつかないだろうという相手の意図に対する期待を持つことを可能としていること意味しています。ここで損なう自己利益とは、経済的な損失の実ならず、村八分のようなものも含まれると考えればよいでしょう。(『桃論』)

これが旧来からいわれている、日本のムラ社会的な共同体性だとすれば、昨年から続いている一連の官製談合の摘発、刑事事件化、そして緑資源の官製談合事件は、このムラ社会的共同体性の破壊を意味するものだ、ということは今まで散々書いてきた――例えば「緑資源機構、別の2事業でも大型談合…一両日中に捜索」。

そして今回の松岡農相の自殺である。我々は最後の針千本マシーンを失った。しかし今回のことが何を意味しているかは、ちゃんと考えておく必要はあるだろう。そして私はこの最後の牽制装置の死を悲観することもない。(ただご冥福をお祈りしたい)。

コミュニティ・ソリューションに向かって

私は本来の意味での談合を「コミュニティ・ソリューション」のひとつの形態として考えていますが、この意味での談合が成立できるのであれば、そこには「ソーシャル・キャピタル」が存在していると理解するのです。そのことは、本書で扱う「ソーシャル・キャピタル」が「安心のシステム」を維持するためのものではないことを意味しています。

「信頼」はそもそも社会的不確実性を前提として必要とされるものですが、「安心」は、そもそも社会的不確実性を、政・官を巻き込んだ「ヒエラルキー・ソリューション」で排除した上に存在しようとするシステムであることが理解できるでしょう。そこにあるのは旧来の開発主義の文脈における「公共工事という産業」の閉塞でしかないのです。

本来の談合のシステムさえも正しく機能しないコミュニティでは、そもそも「信頼」が存在していないがために、権限と強制力による「ヒエラルキー・ソリューション」が必要とされたと述べましたが、その意味では、政治・自治体・中小建設業という、地場型公共工事複合体というコミュニティが立脚する「安心のシステム」には、私たちが考える「ソーシャル・キャピタル」は存在していないのです。さらには、このような「安心のシステム」という「ヒエラルキー・ソリューション」そのものが、本書が考察の足場としている「インターネット社会」では、そもそも機能できなくなっていることはすでに概観したところなのです。 (『桃論』)

やはり、コミュニティ・ソリューションに向かって、動くしかない(というか動いている)のだと(私は)思う。