何人もその家卑の前では英雄足りえず。

午前5時30分起床。盛岡はくもり。

昨日に盛岡入りし、岩手県建設業協会の広報IT委員会に出席。その後、岩手建恊青年部総会で講演を務めさせていただいた。その講演内容については、後ほど整理して書きたいと思うが、そこでの私の強調は「何人もその家卑の前では英雄足りえず」であった。

何人もその家卑の前では英雄足りえず

「何人もその家卑の前では英雄足りえず」とは、どんなに英雄的な人でも、その日常生活を見られてしまう家事使用人の前では、(その欠陥を知られてしまうことで)英雄的ではありえない、ということだ。

つまり善人であるような人でもどこかで悪いことをしているものだし、(その逆に)どんな悪人でも、どこかで善を尽くしていたりしているものだ。

今という時代は、英雄的な人(政治家や経営者)でも、マスコミの手にかかれば、大衆は家事使用人のように、その行動を知ってしまう――特にテレビのつくる共同体性はムラ社会的にそうであることは以前に書いた。「テレビという共同体と芸人の進化的戦略―加護ちゃん引退。

独裁者

ここでの戦略は二つあって、そのひとつは独裁者的であることであろう。

しかしこれも、今の日本のような、報道の自由を保証している国では機能し得ない――というか独裁的なもの(針千本マシーン)を排除しようとする圧力が強いのが今という時代(これがWeb化する現実なのだが)――であることで談合(官製談合)の摘発は止まないのだろう。「大阪枚方市清掃工場建設談合容疑」はいったいなんなのだろう。

バルネラブル

もうひとつはバルネラブルであることだろう。

自ら進んで情報を発信する人、自発的にボランティア活動を開始する人は そのことによって自分の立場をバルネラブル(他人から付け込まれたり 利用されたり 非難されたりしやすい状態)にしてしまう。しかしバルネラブルな立場に自分の身をさらすことで、そういった人たちは 情報を創り出し価値を生み出すことができる。

理念(哲学)と目的

バルネラブルであることは、コミュニケーション(〈情報/伝達〉の差異の理解)の本質なのだと思うのだが、そこでも理念(哲学)と目的は必要なのであって、ただバルネラブルであるなら、それは馬鹿のやることだろう。

それ(理念と目的)を持ち合わせていない方々の末路は、独裁者であろうがなかろうが、あまりにも哀れである。

寛容さ

そしてこれはわれわれ一人ひとりにおいて(そしてマスコミの姿勢として)大切なことだと思うのだが、相手のことを許す寛容さは、だれもが家事使用人となれる時代だからこそ、必要なものなのだと思う。寛容さをもち合わせていない社会は、遊びがないことで、どこか辛い。