世界最後の社会主義国家? 野口悠紀雄の『戦時体制未だに終わらず:史上かつてない平等社会』という欺瞞。

午前7時起床。浅草は晴れ。

世界最後の社会主義国家?

昨日、日比谷線の電車の中で、週間文春の野口悠紀雄のコラム『戦時体制未だに終わらず:史上かつてない平等社会』を読んだ。

それは戦後の開発主義批判であり、(私にすれば)何を今更、なのだが、野口は、日本は未だに開発主義――彼のことばでは「戦時体制」という――が続いていて、それで日本はキューバと並んで、世界最後の社会主義国家になっているのだ、という。

桃組の皆さんなら、大笑いしそうな時代錯誤具合なのだが(社会主義国家になっているのなら公共事業は減らないものね)、それで野口は何をいうのかと思えば、今時代は変わっている、と。それは社会的流動性が低下していることに顕著だ、といいはじめる。

しかし、日本社会の特性は、次第に変質してきている。最大のポイントは、社会的流動性が低下していることだ。これが早くから見られたのは、政治家の世界である。暫く前から、2世、3世でなければ、国会議員になるのは難しくなっている。社会的流動性を促進すべき教育制度も、機能を低下させている。受験競争へのエントリーが中学レベルになったため、親の所得が子供の進学経路に影響するようになったからだ。こうして、社会階級は固定されてくる。安倍内閣は「再チャレンジ可能な社会を作る」と言うが、現実の日本社会は、最初のチャレンジすらできない社会になりつつあるのだ。それにもかかわらず、平等社会、一億総中流社会を維持したいという願望は続いている。しかも、新しい社会構造を構築することでそれを実現するのではなく、戦時体制を維持することでそれを実現することが望まれている。(p71)

だましのテクスト

この野口のテクストは巧妙なレトリックに溢れている(つまり文章はうまい)。一読すると、開発主義国家(社会主義的国家)であることで、社会的流動性が低下している、といっているように読めてしまう。(私は最初そう読んでしまった)。

しかしよく読むと、そうではないのだ。つまり、今や現実的に、社会的流動性が低下しているのだから、もう「史上かつてない平等社会」を生み出した開発主義(社会主義的国家)を諦めろ、といっているのだ。

つまり野口は、日本の社会的流動性の低さ、たとえば議員の世襲制をつくだした原因を指摘して、それを批判しているのではない。

日本の社会的流動性の低さとは、階級の固定化、格差の固定化に他ならないのだけれども、その原因を野口は、巧妙に覆い隠しながら、現政権を開発主義的―平等主義的と批判しているわけだ。(なんだかよくわかんないでしょう)。(笑)

それには彼なりの理由があって、それは、(今起きている)社会的流動性の低下――新たな階級権力の発生を是認し、扇動してきたのが、野口悠紀雄(的リベラリズム)だ、ということだ。

野口悠紀雄

野口悠紀雄のファンだという(不思議な)方は、私のまわりにも少なからずおられる――まあ誰のファンになってもかまわないが。ただそういう方々に対して私は、「彼はけっして貴方(われわれ)の味方ではないのですよ」とだけいってきた。

野口悠紀雄は日本を代表する市場原理主義者であり、ネオリベ(新自由主義者)的教義の持ち主であり、その宣教師のようなものだろう――こういう立場を米国では「保守」という。それは日本の「保守」とは違う。

彼は「1940年体制」ということばを使いそれを批判するが、それ(「1940年体制」)とは「開発主義国家」のことだと思ってもらってよいのであって、野口は、開発主義的なものこそ、この国のリベラリズムの進展を阻害しているのだ、といってきた。

そして彼の考える「真のリベラリズム」を達成するのは、「市場メカニズムと競争」(米国的な保守-ネオリベ)を貫徹させることだ、と主張してきたわけだ。じつはこの主張こそ、私のまわりの野口悠紀雄ファンを生んだ原因なのである。

日本のリベラリズムのねじれ 

本来リベラリズム(自由主義)とは、反資本主義・福祉国家の合意である。

社会主義者のように階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、古典的自由主義者のように自由競争が市場における「神の手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考えた。(自由主義:Wikipedia)

しかし日本では、左翼的な近代主義の思想である、反官僚主義、反バターナリズム(父子主義・父権的温情主義)、反国家主義――といった国家的規制を批判する立場が「リベラリズム」なのである。

そのため、(そもそも小さな国家を標榜する)ネオリベ(米国的保守)は、日本では左翼的、近代主義的なものの合意を取り込むことに成功してしまっているわけだ。

なので、本当のリベラリストが絶対に容認しないであろう「市場メカニズムと競争」の貫徹を、(本来それを批判すべき左翼的なものの合意を含む形で)リベラルなものとして選択させることに成功してしまっている――つまり、ちょっと政治経済をかじった程度の正義感は、直ぐにこのわなにかかってしまう。

しかしそのこと(日本のネオリベ化)こそが、日本の社会的流動性の低さ、階級の固定化、格差の固定化を生み出したものではないか――それは他ならぬ野口悠紀雄自身が認めてしまている、というのがこの文春のコラムなのだと(私は)思う。

教わったこと

ということで今朝は2つのことを野口悠紀雄から教わった。

  1. ネオリベの書く文章は、自らが抱え込んでいる矛盾を隠すトラップだらけなので、注意して読みましょうね、ということ。
  2. 安倍政権は、ネオリベ的にみると「敵」らしいこと――安倍晋三のことは、新保守主義者であるとは思っていたけれども、日本のネオリベはそれを飲み込めないでいるようだ。(安倍晋三は、小泉政権というネオリベ路線から必然的に生まれてきた反作用のようなものなのに)。