「真面目に書いていない訳ではない」へのTB。

午前7時起床。浅草はくもり。

宮澤さんの「真面目に書いていない訳ではない」へのトラックバック。

他の面白いと思う方のブログでは一切難しい表現がない。 分かりやすく噛み砕いた言葉が出てくる。 よく『美味しいという言葉を使わずに表現してみろ』とある方に言われる が正にそれが当てはまると思う。 美味しいという言葉を専門用語という言葉で当てはめてみると分かりや すい。 どこがどう美味しいかデコード(分解とか分析とか言うと思うが)しないと しっかりとした解説や表現が出来ないものだ。 誰にも分からない独特の言い回しでは正に誰も理解できない。 面白くも無い。 当然だ。

わかりやすい/わかりにくい

基本的に私は、分かりやすいものは疑ってかかることにしているが、そんなことをいっていると世間では、変わり者といわれてしまう。そしてたぶん私たちが伝えようとしているもの(反ネオリベ)は「わかりにくい」ものであることで、変わり者が分かりにくいものを書いているのが、このブログなのだと思う。

だとすれば、少しでも、わかっていただけるように書きたいものなのだが、いかんせん、私のブログはそうはならないのである。

パロール/エクリチュール

確かに〈他者〉のブログを読んでいると、文章がよみやすいな、と思うことはよくある。しかしブログに溢れるものがパロールのようなものなら――パロールは、「解釈は最速である」のがふつうなので、それが「わかりやすい」ということなら、たしかにそうだろう、とは思うが――、それでは、Blogとして書かれたテクストはエクリチュールではなく、井戸端会議(円環モデル)のようなものに過ぎないだろう。

それはそれで私たちの社会に必要なものであることは理解しているが、そんなことはmxiででもやっていればよいのであって、今書いているものがブログであることは、それじゃもったいない、と(私は)いっているに過ぎない。

おいしいという言葉を使わずに「おいしい」を表現してみる

 よく『美味しいという言葉を使わずに表現してみろ』とある方に言われる

の「ある方」とは、私のことなので補足しておく。

『おいしいという言葉を使わずに「おいしい」を表現してみる』とは、書くことはまずなによりも、思考の訓練である、ということでしかない。つまり対象を言葉で表現するとき、必要なものは語彙でしかない――対象をデコードするのは語彙である――ということだ。

創造性デコードされた語彙はデータとなり、そのデータ(語彙)の組み合わせが表徴としてのテクストなら、語彙の少なさは、テクストをけっして豊かな表現にはしないだろう。(マッシュアップ)。

私が〈他者〉のブログを読むときの規準はそんなものでしかない。

つまり私の関心は、語彙(ボキャブラリー)をどう殖やしていくのか、その殖やした語彙(データ)をどう使うのか、という訓練としての書くこと――ブログ化にある。それが「考える技術」でしかない。

そのような習慣から生み出される文体は、結果的には、独自のもとのなるだろう、と(私は)考えている。つまり、わかりやすいかどうかとは、あまり関係がない。

対象との距離

そして、もうひとつは、対象をことばで表現しようとするとき、その対象にどこまで近づけるのか、という問題である。

つまり『おいしいという言葉を使わずに「おいしい」を表現してみる』ことでの表現は、自然に、詩とか俳句のようなものに近づく――そしてそれもまた、結果的には、独自の文体を生み出すことになり、つまり、わかりやすいかどうかとは、あまり関係はないだろう。

自己言及

自己言及とバイナリーそしてもうひとつ、自己言及として書くことを、(私は私自身に)課しているのだが、それは、書いている自分を〈他者〉の目でみている、という自己分裂――でしかないかもしれない。

ただそれは、対象に近づきすぎる自分をどこかで制御してもいる――ことで、私は詩人にも俳人にもなれやしないのだが――、つまりこれも、わかりやすいかどうかとは、(たぶん)あまり関係はない。

ただ、客観性を判断しているのは、いつでも自分自身でしかないことで、そのような態度はこの時代には不可欠なものである、と(私は)思う、と同時に、私たちが伝えようとしている「わかりにくいもの」をどうデコードしエンコードするか、のための微妙な距離感なのだとも思う。