楽天家、麻生太郎に期待する―とてつもない日本。

投稿日:

とてつもない日本

とてつもない日本

麻生太郎(著)
2007年6月10日
新潮新書
680円+税

午前5時起床。浅草は晴れ。今朝は有料粗大ごみの日。この本は、以前、ひできさんのお父上からいただいたものだ。とっくに読み終えてはいたけれど、特別言及するような内容でもなかったので、このブログではノータッチにしていた。

それをここに引っ張り出したのは、昨日、『麻生氏、幹事長を受諾 「安倍-麻生」体制で党組織を立て直し』というニュースに接したからだ。

麻生太郎は、どこかで子供っぽいし、楽天家である。それは、いいとこのボンボンが、そのまま歳をとった、というイメージが強い。そのためか、麻生さんには、強烈な政治的な主張を感じない。(つまり、この本もそんな感じなのである)。

楽天家

楽天家、というのは、世間一般では、あんまりよく考えていない人、というような意味で使われているかと思う。私も楽天家と言われことがあるし、それを自負しているところもある。

それは、あんまりよく考えていない、というのもたしかにあるが、どちらかといえば、いくつになっても、自分のピークはこれからやってくる、と考えているからそうなる、といった方がよいかと思う。それはケインズのいっている「自発的楽観」(アニマル・スピリット)のようなものだ。

合理性/非合理性それは将来に対する「期待」をどう考えてえているのか、という人生観のようなもので、「期待」とは、数学的な期待値のように合理的に計算可能なものではなく、むしろ得体の知れない非合理な捕らえどころのないものであり、しかしそれ故に「自発的楽観」(アニマル・スピリット)が機能する、と考えている、ということだ。

つまり、将来に対する計算不可能性の自覚、合理性に対する(どうしても消せない)非合理性の存在の自覚、故にそうなる。

それは収益を合理的に計算しようとするような「合理的経営」の精神とは対極的な精神である。

骰子一擲

それを、「骰子一擲」と(私は)呼んできた。環境は、我々にとっては「どうしようもないもの」として存在してしまっているように思えることで、あたかも偶然のように存在する。しかし、我々は偶然に支配されている、と考えるなら、努力は報われることもなく、努力する必要もないだろう。そしてそれは経営ではないだろう、と。

骰子一擲いかで偶然を破棄すべき

(ステファヌ・マラルメ:「骰子一擲」)

偶然は機能している、と理解しながらも、その偶然を破棄すべく、我々は努力を怠らない。非合理性の存在を自覚するが故に、努力を惜しまない。しかしどこかでサイコロの一振りなのである。(一歩踏み出さないことにはなにも始まらない)。 

麻生さんに期待するものがあるなら、私はその楽天さ、と応えたい。ネオリベ化に伴って自民党が失ったものは、「自発的楽観」(アニマル・スピリット)なのだ、と私は考えている。それは非合理性を認める精神であり、人間には、数値には換算できない、白黒つけられないものがある、という灰色、つまり中景の精神だと私は考えている。

この本を読む限り、麻生さんの経済政策とか、地方格差対策にはたいした期待は持てないように思う。そして私の期待は外れるかもしれない。しかしこの楽観さは、よほどの大物か、よほどの馬鹿でしか持ち得ないものだと感じている。麻生さんに期待したい。