昨日中に、ほぼ「ももち ど ぶろぐ 2」の準備が整いましたので、今後の新規エントリーは「ももち ど ぶろぐ 2」で行います。
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現在、「ももち ど ぶろぐ 2」を準備中である。(昨晩思い立った)
]]> それは新しいブログというようりも、「ももち ど ぶろぐ」の増築のようなもので、その大きな理由は、エントリー数も1200を超えていて、(このサーバーの環境では)新規投稿や再構築に時間がかなるようになってしまったことだ。それで現在増築中なのだが、増築とはいっても新規のブログをつくっていることにかわりはない。そして今回は、せっかくなので、「ももち ど ぶろぐ 2」を、オール電化ならぬオールPHP化をすることにした。
テンプレートは「ももち ど ぶろぐ」からの流用なので問題はないはずなのだけれども、PHP化することで起こる問題もある。(が、まあなんとかなるだろう)。
ということで、今日明日中にでも、移行予定なのである。
]]>それはなみならぬ気迫のようなものまで感じてしまうのであり、このホテル自体が着々と進化している※ことのひとつのあらわれのように感じてしまった。
※このホテル自体が着々と進化している
ホテルサンプラザは新しいホテルではないけれども、トイレはウオシュレット付になったし、部屋でインターネットが使えるようになった(要LANケーブル)。以前は、三井グリーンランドという冠がついていたのだが、今はそれがとれ、ただのホテルサンプラザになった。それとなにか関係があるのだろうか。岩見沢のシティホテルとしてがんばっているなと思う。
以上、新千歳空港にて記す。
]]>昨日は「岩見沢生活空間創造システム」の岩見沢建協会員向けの説明会を行った。今朝はそこで使った資料を掲示をしておこう。
解説は、浅草に戻ってから書く予定。(無事帰れるか心配だけれども)。
]]> 午後2時50分。無事浅草へ戻る、というか台風の影響はほとんどなかった。浅草は台風一過の蒸し暑さ。さて、今回の説明会についてだ。簡単にいってしまえば、協会イントラネットは円環(閉じた輪)として機能させていたものであり、今回取り組むブログ化は、その閉じた輪のトポロジカルなジャンプとしてのメビウスの帯だ、ということ。
それがブログであるのは、第一義的に各自は勝手に動く、しかし自律的な「個」であるということで、そのことによってのみ、「個」(会員企業)は組織(岩見沢建設協会)に帰属しながらも自由であり、組織の強度と多様性を担保するということだ。これはつまり「種の論理」なのだが、それになんの意味があるのかは、たいした問題ではない。(多くはこれを言語矛盾だというだろうが、この矛盾こそが戦略であることの理解は、岩見沢建設業協会はIT化の実践を通して理解していただいている)。つまり、私たち(公共事業という産業)に残された、種的基体が種的基体としてとれる戦略 Strategy は、今やそんなに多くはない(というか殆ど無い)。
ただこの戦略が厄介なのは、(種的に)自律かつ自由に活動する「個」という部分であって、つまり、岩見沢建設業協会会員の皆さんが、自ら目的と理念を持って情報を発信していくことでしか推進できない、ということだ。今回は、その意志を全会員がひとつにするために説明会を行ったのである。がんばっていきましょう!
]]>つまりこれは、私が「ブログ化」と呼んでいるものなのだが、これが今までの協会ベースのブログ化と決定的に違うのは、同時に岩見沢建設協会39社の各社のブログも立ち上がる、ということだろう。すべての会員は情報発信者となる。
そのことで「協会のブログ化の難しさ」は、ある程度解消されることになるだろう。なぜなら、各自の書くブログ(情報発信)は、岩見沢市の情報であることで、岩見沢建設協会という円環をゆうに超えることになるからだ。それは協会という閉じた円環がひねりを持つことと同義であり、つまりは「メビウスの帯1/2切断×2モデル」となるだろう。
]]>
自分の家が持てず簡易な宿に寝泊まりし、仕事が見つかったときだけ働きに出る ―― これは、ドヤ街と呼ばれた地域の簡易宿泊所で寝泊まりをしていた、主として日雇い労働者と呼ばれていた人たちのワークスタイル、ライフスタイルと変わらない。
だとしたら、ネットカフェ難民は、特段目新しいものでもなく、50代が多いというその年齢構成も、山谷のようなものだと思うし、5400人という数が多いのか少ないのかは判断できないが、今も昔も、たいしてかわらないものが、この国にはある、といえるのじゃないだろうか。
その状況を政治的に利用しようがしまいが、それは森永の勝手であるし、私は森永卓郎という人にはそれを期待しているので、今回はネットカフェ難民が、政治経済学的にどうした、というような議論はしない。
ただどんな社会でも、なんらかの理由で(自発的であろうがなかろうが)社会から締め出される(あるいは逃げ出す)人々はいる、ということだ。
そういう方々の避難場所がアジールである。アジールは、社会統制的(権力や社会的主流)には反しているかもしれないが、その存在のおかげで、また社会が安定する装置のようなものだ。そういう意味では、ネットカフェも現代のアジールとして機能しているのだろな、と思う。
しかしそのアジール性は、なにかかつてのドヤ街とは違うような気がする。その違いとは、円環とリゾームの違いのようなものか。山谷には、テリトリー性(地域としての円環・紐帯)があったように思うのだが、ネットカフェという名指しには円環(なんらかの紐帯)を感じない。ネットカフェ難民と呼ばれる人々は、まるで点のように存在しているように(私には)思える。
今、出来ようとしている。そしてそれは、従来の形のスラムとは違った、いわば地域横断的な新しい形の「分散型スラム」である。 (森永)
ただ彼らは、完全に孤立したわけではなく、世界とつながる窓として、ネットに回路をつないでいるのだろうか。
典型的なネットカフェ難民は、普段はネットサーフィンをしたりマンガを読んだりしていて、派遣先から仕事の依頼メールが携帯に届くと働きに出るという生活を繰り返しているのである。
自分のPCを持たない人でも、インターネットにつながったPCは、まるで自分の家のように機能しているのかもしれない。まだ(かろうじて)つながってはいる。
]]>"新川"は、天然の麦わらですり身を包み、蒸気で加熱した蒸しかまぼこです。筒状に巻かれたこのかまぼこは、板付きかまぼことは違う素朴な雰囲気を醸し出しています。
このかまぼこの表面にある凸凹は、麦わらで巻かれていた跡であって、つまりこれは板のないかまぼこなのだが、その食感はやさしい。
今回は、阿知須町 てしま旅館の肉みそも一緒にいただいたので、それをつけて食べてみた。肉みそ+かまぼこのマッシュアップは、初めてなのだが、葉唐辛子の辛味が効いていて、かなりいけてる。
]]>この場所では、元々は三太郎という店名で営業していたらしいのだが、この度、系列の「たかのはし」(盛岡では屈指のふぐ店らしい)を抱き込んで、ダブルネーミングで新装開店とのことだった。
とにかくも、ここは、家庭的な料理がうまい。なんというか、とても浅草的なのであるが、どこかで私的浅草よりも上品なのはどうしてだろうか。(笑)
三太郎 (割烹・小料理 / 盛岡)
★★★★☆ 4.0
盛岡市中央通1丁目11-21
019-653-0811
[盛岡グルメマップ]
「日本人の働き方は「タグ」と「ソーシャル」で変わる|『ソーシャル・ウェブ入門』から読み解くウェブ・広告・メディアの未来(1)」
まだちゃんと読んでいないのだけれども、糸井重里的 Web2.0論 のようなものなのかな、と思う。所感は新幹線の中ででも書いていこうと思う。なので続きは、午後1番ぐらいにアップする予定。ということで、また後程。
]]> 追記僕の中で一番問題意識があったのは、やっぱり「グーグル(以下Google)」だったんですよ。」/Googleが登場したことの意味は、詳しい検索エンジンというところだけじゃないと思って、実際にGoogleがその後進化して、本性を表してくるプロセスを見ていると、「何か今までと違うぞ」と思ってきた。うまく説明できないけど、Googleの中には、ツリー構造じゃないものを感じていたんです。その気持ちが、わだかまりとしてずっとあったんですね。
「ツリー構造」という語彙で表現されているものは、それは、プレモダン的なツリーの構造、ということになるだろう。(→図:浅田彰: 『構造と力』:p236)
糸井さんの感じたつツリー構造が、プレモダンであろうが、モダン→ポストモダンとやってきたら、またプレモダンのようなものに戻った、というツリーでも、どちらでもよい(たぶん日本にはその両方がある)。
そして糸井さんは、Googleの中に、ツリー構造じゃないものを感じた、というのだが、それは、真っ当な感性だろう、と(私は)思うし、私は「ツリー構造」とは言わないけれど、限定経済学でとらえきれないゴーイング・コンサーンとしてGoogleをみてきた。
その理解のために普遍経済学アプローチをつかってきた。
糸井さんはそれを、ネットワーク的にみている、ということだろうか。
まあそれはよいとして、では問題は、この「ツリー構造じゃないもの」の正体なのだ。それは、糸井さんの言葉では、「リンク、フラット、シェア」というネットの要素ということになるだろう(つまり私の言葉だと「広くて薄い紐帯」)。
HUB能力とは、広くて薄い紐帯 narrow ties――つまりリンクをつくる能力であり、コミュニケーション能力であり、つながりをつくる能力である。「円環モデル。(法大EC’06第3回講座)」
糸井さんは、それを作り出しているものを「タグ」だという(正確には「タグ的」なもの、といった方がよいかとは思う)。
タグ、つまり Tagging、Social Tagging 、Folksonomyは、階層分類学としての分類ではなく、つまりユーザーの手で自由に分類する、ということだ。それは、オライリーの Web2.0 meme では重要な要素のひとつで、特に目新しい指摘でもない。
そしてもうひとつ、今回出てくるキーワードが「ソーシャル」なのだが、(私は)ここで、糸井さんのはなしに興味を失ってしまった。
Tagging は、Social Tagging 、Folksonomy なのであるので、Webでのそれは、当たり前の話でしかないわけで、いまさら「Web2.0」論 の焼き直しのようなはなしにつき合う気もない。
事例には、朝日新聞と日経の記者が共同で仕事をするとか、日立と松下でもいいし、業界が異なっていてもいい。もちろん国籍も問わない。ツリー構造の組織の中で完結しない仕事をする場合、すぐに使える共同作業のインフラはもう準備されてしまった。というようなものを挙げているのだが、これもどこかで聞いたようなはなしだろう。それもだいぶ前に。
つまり、「ツリー構造の組織の中で完結しない仕事をする」などということは、ずっと前からあったはなしだし、そしてそれは、その昔もネットを使えば可能であった。(個人事業主の私は、その昔から、そうしないと仕事にならなかったわけだしね)。
では、その昔と、Google以降ではなにが違うのか、といえば、「ツリー構造の組織の中で完結しない仕事をする」場合、すぐに使える共同作業のインフラが、今は、無料(タダ)で使える、ということだろう。
今回の糸井さんのはなしには、この視点(無料経済)が欠けている。
そのことで、Gpogleがつくりだしたツリー構造でないものの本質、を(一部)見失っているように思うし、話が妙に古臭い(たぶん糸井さんもツリー構造の中ではなしているのだろうな、と思う)。
もっとも、それは私の個人的な感想であり、ツリー構造の典型のような「お役所仕事」を持ち出せば、日本人の働き方は「タグ」と「ソーシャル」で変わる、はまだ有効な指摘だろう。IT化の最後尾を走り続けているのは、今も昔も「お役所仕事」であることは、かわりないわけだからね。
そしてもうひとつ付け加えるなら、ツリー構造の意味するもの、だろう。それは階層なのか階級なのか(階層と階級は違うものだ。詳しくはそのうち書こう)。
無料経済がその破壊の対象としているものは、階層なのである。階層とは、お金に換算できるものを〈買える/買えない〉という二分コードで区分したときに生まれるツリー構造である。
Googleが破壊の対象としているのは、この階層としてのツリー構造であることで、じつはフラットなのだ、と私は思うのだが、まあ今回はこんなところで。w
]]>ブログの投稿なんていうのは技術的には難しいものではなく、協会のブログ化での一番の課題は、誰が何を書くのか、に収斂してしまう。 それは最初に乗り越えなくてはならない壁なのだが、なぜそれが壁なのかといえば、ブログはとても私的なものだからだし、協会は公(おおやけ)なものだからだ。(その生い立ちをみれば、この両者は水と油のようなものだろう)。 (「協会のブログ化の難しさ。」)
結果的に「くうけんブログ」は、葉月会が「それ」を請負ってくれることになったのだが、最初から飛ばしているな、と思う。
私にとっては、東日本で一番うまい焼肉である南大門(深川市)にやられた。「怒涛の焼肉屋 南大門 深川市」
それは切り札だろう、と。Yahoo!の検索結果では、堂々の1位だ。
そしてこのカテゴリがいい。「食うぞ!空知だ 」だものね。
しかしだ、それよりもなによりも、ああ、食いたいぞ!と私は指をくわえるのである。
午前7時起床。浅草は晴れ。
本日は、岩手県建設業協会広報IT委員会出席のため、盛岡出張。10:02発 12:22着のはやてを利用する。
]]>ところで、普遍経済学のトポロジーにある純粋消費ってなんですかね、とたずねられ、ああそういば純粋消費のことを何も書いてこなかったよねと。それはたぶんに片手落ちだと思うのでこのエントリーを書くことにした。
純粋消費は「一生遊んで暮らしたい」という欲望のことだ。それは象徴界に「交換の原理」が居座る消費社会では第一義的な欲望だ。それはまた、我々の人生に現実にあったある時代への渇望でもある。
]]>この理解には、日本の戦後高度成長期(消費社会=国民総中流の時代)以降の、「子供」という存在を考えてもらえばよい。
「子供」は遊んで暮らしているし、それどころか社会的に「保護」されてもいる。
この国では(というより近代化の進んだ国では)、成熟しない者は、社会の再生産に加わる責任を負わない。つまり何の生産に関与しなくとも(労働主体でなくとも)、社会的に非難されることはない。(モラトリアム)。しかし彼(女)らは消費主体としては一人前なのである。
団塊の世代である自分たちはお手伝いをして褒めてもらう、つまり「労働」により「家族という最小の社会」で認めてもらうところから社会関係に入っていった。ところが今の子供はお金をもって店に行けばお客様扱いされるのであり、いわば「消費」から社会に入る。大きくいえば現代では「社会システムの全体が、『労働主体』ではなく、『消費主体』中心に構築されて」いる。そして「消費主体として生きるというのは、集団に帰属せず、個人の欲望を軸にして生きる」ことだ。(内田樹)
消費社会は象徴界を「交換の原理」が支配した社会であり、象徴の貧困もしくは「中景」あるいは「象徴界」の衰弱の時代である。そこでは誰もが、消費主体(消費する者)として自己を確立するしかなく、商品であろうがなかろうが、どんなものでも記号化され消費の対象となる(消費される)。 それはまた、「集団に帰属せず、個人の欲望を軸にして生きる」ことを意味するのは、内田先生のいわれるとおりだ。
ただ純粋消費はちょっと違うのである。たとえれば、「純粋消費者として生きるというのは、想像界的集団に帰属し、個人の欲求を軸にして生きる」ことだ。
モラトリアム期の「子供」は、労働主体であることを免除れ、その上、手厚く保護された特権階級なのである。あるのは欲望ならぬ欲求だけである。それを純粋消費者、と(私は)考えている。
それが純粋消費主体ではないのは、純粋消費者に主体はないからだ。(つまりは鏡像段階だ)。その立場を、労働主体だろうが、消費主体だろうが、「主体」となることで去勢された我々はそれを欲望の対象としてしまう。
その欲望は、(大人になっても)よく記憶している無意識、というような不思議なものであることで、今という時代には特によく機能していると(私は)思う。しかしその欲望の対象は、そもそもが欲求レベルなので、この欲望を達成しようとすると、その行動は実に子供っぽくなるか動物的なものとなる。(笑) (以下、欲望と欲求は区別して記述しない)。
ここでラカンの精神分析を持ち出せば、純粋消費は(ボロメオの結び目では)無の悦楽の位置にあたる。
この「無」は「無」とはいっても何も無い無ではなく、それは想像界、象徴界、現実界の三つの界の重なりにある。それを例えるなら、光の三原色(RGB)の重なりが白である、ということだろう。
つまり、白は白からいずるものではない――これがインクの三原色だと、白は黒になるが、それも同じことだ――、と同様に、無は何も無いところから生まれているのではなく、むしろ無は、無を生み出すための前対象の集合のようなものだ、ということだ。
この場合の前対象とは記憶にならない記憶つまり無意識のことだ。純粋消費も、この無意識的なものが機能する消費であることで、純粋消費の「無」とは、主体が無いという「無」なのである。つまり「一生遊んで暮らしたい」というのは、他者との関係(社会的関係)には責任を負わない、一切の「主体」的なものからの免除された悦楽なのだ、と(私は)考えている。そしてそれを「自由」と考えている人も多い。
この欲望を「自由」として肯定した戦略が浅田彰の「スキゾ」だろう。 それは「子供」であり続けることの肯定的戦略である。つまり「 《パラノ人間》から《スキゾ人間》へ、《住む文明》から《逃げる文明》へ」(『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』)なのであるが、当時、キッズ・子供=弱者という単純な理解からスキゾは弱者の戦略として理解されていた(と思う)。
その弱者が逃げる対象は、贈与の円環(プレモダン的な贈与共同体の呪縛)であるのがいかにもなのだが、その呪縛を交換の原理によって断ち切ることで〈私〉は自由を確保しようとする。しかしそれは、実際(現実の生活)では、労働主体<消費主体、収入<消費、である続けることでしかないのであって、いたずらに消費(モノでの充足)を刺激する。なので多くのマーケティング関係者は浅田に好意的であったわけだ。
(浅田彰: 『構造と力』:p236)
消費主体として逃げ続けるスキゾ・キッズは、たしかに共同体性破壊の大きな要因となった。しかしそれは新たなる不自由の始まりでもあった、と(私は)思う。スキゾは、なによりも消費主体であることで、個人の欲望に忠実である。しかしそのことで、この戦略は破綻するしかなくなってしまう。
なぜなら、逃げ切れなくなってしまう、のである。単に消費主体であり続けるのなら、やがて逃走資金は枯渇する。(笑)
逃走資金がなくなれば、(普通は)働いてお金を稼ぐのだが、クレジットカードや消費者金融(今思えばすばらしい名指しである)の信用取引が普及すると、(一時的に)収入(資産)<消費であることが可能となる。しかしそれは、いつまでも続くわけがないのは当たり前なので、〈私〉の信用は、交換の原理によって値踏みされ、多くは労働主体に戻ることを強要される。
ここでスキゾは、あらかじめ強者である者に有利に働くことになるだろう。つまり、最後まで逃げ切れる可能性が高いのは、もたざる者(弱者)ではなく、職業的「強者」(成金)か、親の資産への依存者なのである。そのことで、スキゾは弱者の戦略ではなく、強者の戦略となる。
それが単に消費に回せるお金の〈多/少〉の差異ならまだ挽回の希望もあるが、マーケティングが、縦の差異(ファーストクラスとエコノミーの差異だね)をつくり出した途端、それは社会的・文化的な格差(縦の格差)として固定しはじめる、というか実際にそうなった、といわれている今日この頃。
それをまがりなりにも抑止してきたたのは、安倍さんの嫌いな「戦後レジーム」だろう。国民総中流を目指した開発主義である。それは消費主体<労働主体であることを強調した政治経済システムであった。それが、消費主体>労働主体を生み出す母体となった(経済成長をもたらした)こともたしかだが、私は戦後レジーム、開発主義は、簡単に批判されるだけのものではない、と考えている。
我々は純粋消費を欲望する。これは否定しようがない。純粋消費は、消費主体として社会とのかかわりを始めざるを得ない我々には、消したくとも消せない欲望だ、と考えるしかないのである。なので、私たちは何かといえば擬似的に同じようなものをつくろうとする。それも止めようがない。
だから問題は、その欲望に近づくための手段となる。そのひとつがじつは共同体性なのだが(前述の「戦後レジューム」)、多くの共同体性が破壊された今、我々はITを利用してそれを実現しようとしているように思える。
それはまず「金融資本主義は労働力を必要としないのだから、ニートもフリーターもたいした問題じゃない。では、それでよいのか。」ということである。
金融資本主義は「交換の原理」の強烈な強調でしかないことで、そこでは(マルクス経済学では)究極の商品であった労働力さえ、じつはいらない。 労働者は労働主体ではなく、ただ消費さえしてくれればよいのである。(消費主体――つまり消費するためのお金さえ持っていればよい存在)。 極端なはなし、金融資本主義では、ニートでも、フリーターでも、ひきこもりでも、消費さえしてくれれば、なんでもよいのである。(それらは、たいした問題ではなくなってしまう)。
金融資本主義(株でもFXでも先物取引でもなんでもよい)で生きるなら、我々はべつに労働主体であることを強要されないだろう。金融資本主義の流れにうまく乗ることができれば、「一生遊んで暮らしたい」は無理としても、社会的再生産の枠に囚われず、労働主体<消費主体として存在することが可能である。
さらには、交換の原理に値踏みされる――時給850円も、じつは労働主体であることの回避実践なのではないか、と思えたりもする。(スキゾは、ここである程度うまく機能している、といえるのかもしれない)。
そしてもうひとつは「鏡像としてのWeb」である。インターネットは、擬似的に、心理的に、「保護」の機能代替としての母性的なもの(共同体性)をつくりだしている。金融資本主義や、交換の原理の値づけが徹底すればするほど、我々の欲望は無意識の表層にある「子供」を志向してしまう。
それはなによりも「主体」であることの回避なのだが、それは「鏡像段階」と同意である。主体でないものは母性的な「保護」を渇望することでインターネットはますます母性的になっていくだろう。つまり、インターネットという母性的なものに包まれながら、金融資本主義で生きる(もしくは時給850円で生きる)。
そのような生活をしている(ニートでも、ひきこもりでも、オタクでも、名指しはどうでもよい)彼(女)らは、「想像界的集団に(薄く)帰属し(軽くへその緒がつながっている)、個人の欲望を軸にして生きる」ことで、純粋消費を擬似的に実践しようとしている可能性がある、ということだ。そこでは、「労働は善である」というかび臭い開発主義時代の価値観は壊れてしまっている。
しかし「労働は善である」という価値観もまた、純粋消費へ近づくための手段のひとつなのである。(戦後レジューム)
私は、「純粋消費」という欲望は、この国では強調される必要はない(それは存在するが、ことさら強調の必要はない)と考えている。例えばそれは、浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。ということだ。
つまり、この国の人々は、集団に帰属しながら、個人の欲望を軸にして生きることを追求してきたのだ、と。それは、「純粋消費」に一番遠いところにいるよう思えたものが、実は一番近いところにいた、ということだ。
それを徹底的に壊しているのが、昨今のネオリベ的風潮だと(私は)考えている。私から言わせてもらえば、小泉さんはネオリベ的政策を強調することで、「純粋消費」の中の欲求的なものを刺激し、その獲得手段としてただ消費主体であることを強調している「スキゾ」の焼き直しをやったとしか思えないのである。それは強者の戦略であり、格差を再生産することは先に書いた。
なので私は、こんな時代に、インターネットという母性的なものに包まれながら、金融資本主義で生きる(もしくは時給850円で生きる)という戦略に共鳴する部分を持ちながらも、集団に帰属しながら個人の欲望をあきらめないこと(つまり「種の論理」)を考えていたりするのである。(それは私の「自由」の追求、つまり「思考の自由」としてである)。
最後に、Web2.0 の無料経済の純粋消費性にも簡単にふれておこう。といっても、次のフレーズでことは足りてしまうだろう。
例えばGoogleの無料経済が、多くの方々に受け入れられてしまうのは、それが純粋消費に近づこうとする手段としての、単なる消費主体ではないなにものか、だという期待からではないだろうか。ということで、午前6時起床。浅草は曇り。
]]>近所のスーパー(ダイマス)で皮が真っ白なナスが売られていた。それは国産の白茄子(青茄子)とは違い、本当に真っ白なのである。
]]> 名前はクララというらしい。白いだ円形のナス。米ナスよりも、皮と実の間に苦味がない のが特徴。ナスステーキが最高です。 (http://www.ringo111.com/Clara.html)
しかし私は、油揚げと一緒に炊いたのである。(冷えた茄子の煮物が食べたかったのだ)。
油との相性はよいようなので、軽く油でいため、それから油揚げと一緒に煮物にしてみた。
若干煮くずれしてしまったが、それはトロリとして、予想を遥かに超えてうまい。次はステーキにでもしてみようかと思う。
]]>2007年9月20日追記:当日の様子を画像でまとめてみた。
]]> レッドブル台東区の浅草寺参道をF1マシンが練り歩く――。9月28~30日に静岡県の富士スピードウェイで開かれるF1日本グランプリ(GP)に参戦する「レッドブル・レーシング」(オーストリア)のマシン、レッドブル・ジャパン提供=が9月19日、浅草寺でGPの入賞祈願をする。/チーム関係者の知人が浅草在住で、浅草観光連盟に「F1を浅草に呼びたい」と、持ちかけたのがきっかけ。台東区とウィーン市第1区が姉妹都市ということもあり、実現したという。/マシンは、三社祭のみこしが置かれる台車に載せられ、19日午前10時に雷門前を出発。その後、仲見世通りを練り歩き、午前11時半から浅草寺で入賞と安全の祈願を受ける。/先導は高張りぢょうちん。浅草芸者衆が手古舞を、とびの頭たちが木やりを披露して盛り上げる。午後0時10分からは浅草寺東側通路で車体を地面に下ろし、エンジンをかけるなどの「お披露目」もあるという。(asahi.com:F1マシン 浅草「行脚」-マイタウン東京)
これは、よほどのことが無い限り、見物に出かけることに、(今)決めた。
なにか、ドキドキしてきてしまった。(笑)
浅草で、それも浅草寺で、F1マシンがエンジンに火をいれるなんて、前代未聞だよ。
観音様もさぞかしびっくりされることだろう。(ご利益があるかないかは知らないが)。
しかし、浅草もRedBullも、なんでもありだよな、と思う。たとえなにか事故が起きようが、わたしゃこういうのが大好きだ。
追記
午前6時50分起床。浅草はくもり時々雨。
9月19日は、鹿児島行きの予定が入っていることが判明。
]]>]]> 私家版・ユダヤ文化論第6回小林秀雄賞(新潮文芸振興会主催)は30日、内田樹(たつる)さん(56)の「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)に決まった。(YOMIURI ONLINE)
何はともあれ、市田先生、おめでとうございます。
しかしだ、ふと我にかえれば、わたしゃ「私家版・ユダヤ文化論」などという怪しげなタイトルの本は、まだ読んでいないのよね、と。
それで急ぎアマゾンへ注文したりするのだから、まったくよい読者(消費者)である。(別名「カモ」という)。
内田樹(著) |
さらにだ、そもそも小林秀雄賞ってなんなんだよ、と。
これも急ぎWebを検索してみれば、Wikipedeaには、早々と内田先生の名前が載っていた。
日本を代表する文芸評論家・批評家の小林秀雄の生誕100年を記念として、新潮社が新たに創設された学術賞である。日本語表現豊かな著書(評論・エッセイ)に毎年贈られる。但し、小説・詩・ノンフィクションは対象外である。
第1回(2002年)
* 橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」(新潮社)◎
* 斎藤美奈子「文章読本さん江」(筑摩書房)
第2回(2003年)
* 岩井克人「会社はこれからどうなるのか」(平凡社)◎
* 吉本隆明 「夏目漱石を読む」(筑摩書房)
第3回(2004年)
* 佐野洋子「神も仏もありませぬ」(筑摩書房)
* 中沢新一「対称性人類学 カイエソバージュⅤ」(講談社)◎
第4回(2005年)
* 茂木健一郎「脳と仮想」(新潮社)◎
第5回(2006年)
* 荒川洋治「文芸時評という感想」(四月社)
第6回(2007年)
* 内田樹「私家版・ユダヤ文化論」△
おおなるほど、意外と身近な本が受賞しているのね、ってことで、うちにある本(読んだ本)には◎印をつけてみた。打率は4割4分4厘。
△は、もちろんこれから読むので、私の小林秀雄賞読書率は5割を超える、と。(だからどうした、なのだが)。
ということで、「私家版・ユダヤ文化論 」の感想文は、アマゾンから本が届き、読み終え次第に書こうと思う。
2007年09月08日(土) 追記
追記 午前7時起床。浅草はくもり。(笑)
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