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『日本文明・世界最強の秘密』 増田悦佐を読む。

日本文明・世界最強の秘密

日本文明・世界最強の秘密

増田悦佐(著)
2008年3月7日
PHP研究所
1600円+税


増田悦佐さんからのメッセージこの本は、著者の増田悦佐さんからお送りいただいたものだ。しかし、最初に現物を見たときにはさすがにひいた。表紙は日の丸、それに『日本文明・世界最強の秘密』だもの。

しかしいったん読み始めれば、都市論、鉄道論としてガンガンと読める。この本は、「開発主義」亡き後のこの国を考える思考実験である。

そもそも投資会社の偉い人である増田さんから、何故にあたしにこの本が届いたのか、といえば、Web上に撒き散らしているあたしの駄文を読んでくださったからのようで、[「輝く都市」が日本の大人をダメにした。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡]で展開したル・コルビュジエ批判や、地方のクルマ型社会批判に共感を持っていただいた(ような感じ)なのである。

増田さんからのメールを(無礼を承知で)一部無断引用してしまおう。

とくに一連の「街的」なもののすばらしさと、あらゆる人工都市を作る試みのいやらしさについては、全面的に賛成するものです。
 
また、私は、20世紀後半は基本的にル・コルビュジエ対ジェーン・ジェイコブス論争に決着をつける歴史的使命を負っていたと思うのですが、欧米大都市では絶対に正しいはずのジェイコブスが負け、グロテスクな人間機械論者のコルビュジエが勝ってしまいました。現代欧米文明の持つ悲惨さの大部分はこの勝負に起因していると思います。
 
ところが、いつも「人まねばかりしている」とそしられることの多い極東の国、日本の大都市圏、東京と大阪ではなぜかジェイコブスが勝って、平和で豊かな都会人のコミュニティが存続しているのです。

日本の強みとしての大都市圏の鉄道網

そんな増田さんの主張は、今の世の中、なにかと言えば「日本経済はダメだ」というような論調に覆われているけれど、それは「正解の思い込み」のようなもので、「そんなことはないよ」、ということであり、では、その「そんなことはないよ」の根拠は何であるのか、といえば、日本の大都市(特に東京)の鉄道を中心としたネットワーク網の生産性の高さだ、ということだ。そしてその鉄道網は日本の大都市でしか成し得なかったシステムである、とも。

日本経済が世界最強である秘密は何かというと、世界中の先進国でいとばん人口密度の高い大都市圏と、この大都市圏をおおう世界中でいちばん利便性の高い鉄道網を持っていることだ。なぜ諸外国がキャッチアップできないかというと、人濃い密度の高い大都市圏と利便性のあいだにはお互いに相手を高めあう「ポジティブ・フィードバック」の関係があるからだ。(p20)

鉄道型社会と街的

この強みを、さらなる強みとするために、増田さんは、田中角栄的な「地方経済振興、大都市圏抑圧」ではなく、都市重視の経済政策、民間中心の都市開発をすべきだという。

それを様々なデータを使って検証し、「では、どうするのか」まで昇華させているのには、素直に敬服するしかないし、それは理論的な説得力(客観性)を持っている、とも思う。

しかしそれが実現可能か、といえば、全てを「交換の原理」に委ねることが可能であるなら、(都市部への労働人口の集積は)可能である、と(あたしは)言うしかない。

こう書くと、増田さんは単なる市場原理主義者なのか、と思われそうなのだが、上のメールからもわかるように、そんな単純な方ではない。

《日本の大都市圏、東京と大阪ではなぜかジェイコブスが勝って、平和で豊かな都会人のコミュニティが存続しているのです》ということが言えるのは、東京と大阪には「街的」が残っていることを認識されているからで、増田さん的には、それを作り出しているのも、大都市の鉄道網である、ということになる。

東京のような鉄道型の社会の方が、クルマ型の地域社会よりも、はるかに「街的」が表出しやすいのは、その中心的交通機関である鉄道が、否応なしに〈他者〉との共存を強要するからだ。

「クルマ」をもたないあたしらは、歩くことで、ジェイコブズ的な路地への信頼を身に着けてしまうし、「クルマ」のもつ個室的、子宮的〈他者〉絶縁を日常的に享受するのは(引き篭もらない限り、物理的に)不可能である。うちの近所は家々には、塀がなかたりするし……。

つまりこの本、〈都市/地方〉、〈市場経済/統制経済〉、〈鉄道型社会/クルマ型社会〉という二分法で読めないこともないけれど、肝心の大都市の強みの部分に、「街的」がかかわってくることで、読んでいる方は(ある意味)たいへんなのだわ。 

新・都市論TOKYOから

あたしは、東京の鉄道ネットワーク《JRへの私鉄への斜交的接続》(@隈研吾)がつくりだしている、都市の混在性、「リアリティとヴァーチャリティとの接合」を否定しない(というよりも賞賛している)ので、(たぶん)増田さんの言われていることの一面は理解できるつもりでいる。

ただ、先に『新・都市論TOKYO』紹介し、このエントリーへの伏線としてみたのはわけがあって、それは、たとえば東京という大都市の、鉄道ネットワーク網が発達し、機能し得たのは、単なる経済合理性からだけではなく、ある時代の「みんな」の「夢」のありようからだったのではないか、ということだ。

それは、後で紹介予定の、増田悦佐さんの『日本文明・世界最強の秘密』にもつながるところがあって興味深く読んだ。たぶん大都市がなぜ大都市であって、なぜ地方都市よりバイタリティがあって、なぜ生産性が高いのか、というのは、地図と暦を無視した私鉄沿線がつくった「夢」=「世界」(パトリでいう)が機能したからだろう。(その接続には路地を経由しない)。

大都市圏で働くことで、私鉄沿線の「郊外」にある「夢」を手に入れる。その「夢」が、ほかならぬ「私」がつながる(唯一の)「世界」だもの、江弘樹がそんな「家族」を毛嫌いするのも無理はない。

しかしこのロジックが機能する限り、大都市は大都市であり、私鉄は「夢」を売り、人々を寄せ付け、生産性を高め続けることができる。それは基本的には「民間」の力で、である。(逆説的には、私鉄的「夢」のない地方は、旧日本国有鉄道的に、配分を続けることで、また別の「夢」を機能させるしかないわけだ)。『新・都市論TOKYO』 隈研吾・清野由美を読む。 from モモログ

その「夢」のありようをつくったのは、増田さんが毛嫌いする統制経済である「開発主義」という経済政策で、もちろんそれは時代遅れで、これから復活することもないだろうが、否定だけすればよい、というものでもない。

超合理性 

あたしも、生産性を高めることを否定しない。単純に考えれば、日本全体の生産性が1%上がれば、生活水準も1%上昇する。それは悪いことではない。

しかしあたしは、生産性の上昇は、ナイーブな経済合理性の追求だけでは生まれ得ない、と考えている人なのであって、つまりそれは、「超合理性」のことだ。

効率的な生産過程に見る形式合理性に、日本的な実質合理性(和の精神、集団主義等)、理論合理性(教育重視)さらに実践合理性(「稟議制」や「根回し」)を統合した超合理性が自動車産業において実現されたケースである。アメリカの産業がもっぱら形式合理性に偏った特性をもっていたのに対して、日本の産業は四つの合理性を統合した高度な合理性(超合理性)を発展させ、さらに独自の形式合理性をもうみだした。一時的ではあるがアメリカの産業を凌駕するまでに至ったのはこのためであるとされる。『マクドナルド化と日本』:丸山:p297)

合理性

この「超合理性」は、たとえば東京の多くの駅の形態にも表出しているのではないか。増田さんが賞賛されている「通過型駅」(そのあたりにあるフツーの駅)は、形式合理性でそうなっているのではなく、日本的な実質合理性、理論合理性、さらに実践合理性までもが、統合された結果のように(あたしには)思えたりしている。

みんなの夢

それじゃ、その「超合理性」はどこから生まれてきたのか、といえば、社会システム論的には「イエの原理」と答えることはできるけれど、なによりの必要条件は、「みんなの夢」ではなかったのだろうか。

高度経済成長の時代には、大都市圏での私鉄沿線の「夢」を昨日させるためには、同様に、クルマ(マイカー)という地方に住む人々の「夢」も機能していることが必要だったのだ。

私鉄沿線の「夢」も、クルマの「夢」も、「みんなの夢」であることでは機能等価であって、私鉄沿線の「夢」が機能するなら、クルマの「夢」も機能する、というハイブリッド感(うまく表現できないw)。

それは結果的には、「地方の安定は都市部のスラム化を防ぐ」なのであり、都市も地方も、「みんな」が豊かになる、という「みんなの夢」が存在していたからこそ、戦後日本を纏め上げることが可能だったのだし、大都市への人口集中と、私鉄沿線の拡大は、地方の安定があってこそ、可能だったのだろう(今は懐かし集団就職、あぁ、上野駅である)。

最近の政局は、いつでも都市/地方のトレードオフだけど、「夢」を売らざるを得ない政治家は、政策なんてどうでもよくて、開発主義的テリトリー性(選挙区)に立脚するしかないのだから、都市と地方の間を行ったり来たりするしかないのだ(二枚舌)、とあたしは考えている。

しかしその「夢」(クルマ)が、地方の共同体性の崩壊を招いているのは確かだろう。だからこそこの手の問題は厄介なのであって、その厄介さとは「クルマ」に代わる「夢」を地方で持てるのか、というところに収斂してしまう。そしてその裏返しは、東京にも私鉄沿線に代わる「夢」はあるのか、と。

街的

「夢は夜開く」じゃないけれど、そんな「夢」の裂け目から、(否応なしに)表出してしまう「あか抜けしない泥臭さのようなもの―リアリティ」こそが、今、都市に生き残っている「街的」の正体かもしれない。夢、時々敗れて「街的」ありである。

その「街的」の(あたしのいう意味での)合理性は高い。「超合理性」は「街的」を孕む、というより「街的」を基底にしている、とさえ考えていたりするのは、「街的」は、〈実質合理性〉と〈実践合理性〉との塊だからである。だから増田さんの言われる、

壮大な夢を描かず、目先に必要なことを一つ一つ着実にやっていくこと、それが偉大な都市を守り育てていくための鉄則だ。日本は、こうした当たり前のことを当たり前に理解する賢い大衆が主導権を握っている社会だ。(p356)

というのは、「街的」の文脈でこそ機能する。(たぶん)

あたしの心配は、その「街的」の絶滅危惧種化であって、それは、使い古された言葉だと、都市の郊外化、都市のファスト風土化、生活のマニュアル化(カタログ化)として広がってきたものだ。

その推進エンジンは「交換の原理」で、だから「交換の原理」にすべてを委ねれば「街的」は不要なのであり、つまり先に書いた都市部への労働人口の集中が「交換の原理」(ナイーブな経済合理性)だけで行われれば、「街的」は消えゆくだけだろう。

それを強烈に(デフォルメ化)したものが(今の)地方で、地方の郊外化、ファスト風土化、それにともなう共同体性の崩壊は痛々しい。しかし、

地方での生活に自動車は欠かせないのもたしかで、それを否定する権限なんて誰も持っていやしません。だからこそ、そこでは理想としての「輝く都市」は健在なわけですが、その結果が「郊外化」なわけで、個人の利便性を追求した結果、「街」は破壊されてしてしまっています。そこには路地に対する信頼もなければ、ソーシャル・キャピタルも希薄であって、あたしが地方で思うのは、浅草の方が、ずっと(昔の)地方的だよな、ということです。「輝く都市」が日本の大人をダメにした。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 

なので、「街的」を考えることは、地方の処方箋を考えることに直結していたりするのである。この問題での増田さんは、先に書いたようにドライだ。労働人口を、生産性の低い地方から、都市部に集中させるのである。それには説得力がある。

一方あたしといえば、共同体性を身体的に経験せず、郊外化、ファスト風土化の中で育った地方の若者が都会に出てきても、たとえそれが、閉塞的なムラ社会(そんなものはもう無いけれど)からの脱出が目的だとしても、増田さんの言うような「平和で豊かな都会人のコミュニティ」の形成は可能なのだろうか、などと考えていたりする。

街的のフェロモン

「街的」は、東京や大阪という大都市の持っている、「みんなの夢」の裂け目から湧き出てくる生活者の臭いであり、だからこそ人々を惹きつけ、人々を勇気付けるフェロモンであり、〈夢/失望〉の弁証法である。

地方は、「クルマ」社会であるがゆえに、「街的」な合理性である〈実質合理性〉や〈実践合理性〉)は絶滅種であって、その分、人を惹き付けるフェロモンは希薄なのだ。臭いの無い、生活者の姿の見えない街をつくりだしてしまっていることで元気がないのである。

そんな元気のない人々が都会に出てきても、「街的」にはなじまないだろう、とあたしは思っている。そしてその元気のなさは解消されないまま、都市を蝕むのじゃないだろうか。(たぶん) 

あたしは増田さん同様、生産性の向上を追求する立場から、地方はもっとムラ社会的に繁栄してほしいと思っている。その共同体性を担保するためなら、都市(の「街的」を護持する)ために、補助金も支出すべきだ、と考えていたりするのだが、この意見は、「みんな」的に説得力ゼロであることも確かなので、ん~、と唸ってばかりいる。「街的」はこんなあんばいでいつも悩ましいのである。

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輝く都市の「クルマ」はそらアカンやろ。

野口五郎の「私鉄沿線」 改札口で君のこといつ... 続きを読む

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