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店主戯言050902  2005/9/16 〜2005/9/30 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を創出する
2005/09/30 (金)  
【骨折】

午前6時10分起床 室蘭はくもり
昨晩は8時過ぎには寝たので 10時間近く眠ることができた
ちょっと回復したか

今日も 昨日に引き続き 室蘭建設業協会 協会イントラネットの操作講習(会員の皆さん向け)
仕事が終了後 夜のANA便で東京へ戻る

協会イントラネットの操作講習(会員の皆さん向け)
会員の皆さん向けに行うこれは じつは講演よりも難しい(楽しい)芸だ

例えば 途中1回の休憩が入るのだけれども
それはちょうど半分のところじゃなくて 前半の方が後半よりも ずっと長いとか

単なる操作講習ではなく 流れに「起承転結」を持たせているとか
まあ ほとんど話芸の域のものであって
それがうまくいったときには 個人的にはとてもうれしい

それは傍目にはわからないような小さな差なのかもしれないけれども
後々にはアクセス率という 数値で表現される シビアなものでもある

気の抜けない 真剣勝負の時間だから 疲れもするが
操作講習は 協会イントラネット成功の絶対条件というだけだはなく
個人的には 芸の時間として 好きな時間なのだ


昨晩は まにあ・1号さんとまにあ・1号さんの舎弟さんと夕餉
室蘭市中央町の乃ざきで牛鍋
 
わたしの地元のお気に入り 米久ほどの切れはないけれども
やっぱり北海道 タマネギ入りでも ちゃんとした牛鍋である

そして ざんぎ
 
まあ 鳥のから揚げ(のようなもの)なんだけれども 北海道では「ざんぎ」なのね
違いはわたしにはわからない(笑)

さて 相棒の ThinkPad ディスプレーの枠が骨折してしまった
まったく 今時の若い者は骨が弱くて困る
カルシウムが足りないのじゃないのか と言いたくなる
  
かたちあるものは壊れる それは自然の理だけれども
10年もThinkPAD使っている者から言わせてもらえば
こんな壊れ方をしないのが ThinkPadじゃなかったのかと言いたいわけだ
丈夫なだけが取り柄なのが ThinkPadじゃなかったのかと言いたいわけだ
まあ アロンアルファでくっつけておこう(笑)

ということで シャワーを浴びて 朝ごはんを食べてこよう

2005/09/29 (木)  
【軽くやばいとき】

午前4時起床
早く寝れば 早目覚める
室蘭は 晴れ

昨日は午後6時過ぎに室蘭へ入り その後長谷川さんと鳥辰中島店で夕食
室蘭の焼き鳥の特徴である 豚肉とタマネギ
なにを食べてもおいしい
特に鳥のから揚げ(半身)は熱々で皮はパリパリ
カーネルおじさんがかすんでしまう

じつは 一昨日岩手屋で調子に乗って飲みすぎてしまい体調は悪かった
それでも 生中一杯 レモン酎ハイ二杯いけたわけで
鳥辰中島店
体調が万全のとき スーツを脱いでまた来たいと思った いい店だった


気持ちの整理―不思議なくらい前向きになる94のヒント

斎藤茂太(著)

2003年2月
三笠書房

560円(税込)





この本 昨日の出掛けに寄ったampmで 何の気なにし購入したのだけれども 「あたり本」かもしれない

見開き二頁にひとつのヒントが書かれている 読みやすい それが94項目
どの項目も浅いし 考察もない ただ やさしい言葉で書かれている 

「不思議なくらい前向きになる」っていうは誇大な表現かもしれないが 落ち込んでいる時って まともに本も読めないだろうから これでいいのだろうなと思うし 「軽くやばい」ときには結構転換が効くかもしれない

「軽くやばい」っていうのは 『81「別のキャラクター」が出せる人間関係の中に入ってみよう』 で考えさせられたことだ

斎藤先生曰く
悩みっていうのは 今の状況 今の環境の中では解決のつかないことが多いわけで ほんとうはこれで環境にあわせて自分を変えてしまえればよいのだけれども でもそれはなかなか難しい

ではどうするか 斎藤先生は一時的にでも環境を変えてみようって言うのだ
例えばサラリーマンなら転職するとか 独立するとかね 勇気のある人はそれでもいいっ言っている まあ 建設業なら転業か廃業するってことだろう

でもここで言われているのは そんな大きな変化ではなくて 例えば海外旅行に行くことで 日本の常識から離れてみるとか 今までになかった新しい人間関係に入ることで 新しい自分のキャラを出してみようっていう程度のものだ

今の固定化された人間関係で固定化された自分の役割とかキャラではなく 違った人間関係の中に入っていって 違った自分を出してみることで 気分転換程度にはなると言っているわけだ そう「軽くやばい」ときのね

固定化されたキャラっていうのは たしかにとても居心地の悪いときもある いじめの問題なんかは 転校することで 環境が変わることで いじめられキャラから脱出できることもあるだろう

「別キャラ」は固定化された「私のキャラ」(ペルソナ)の窮屈さの逃げ場所としては悪いものではないだろうし 最近はそれはとても手軽にあって気軽に使われているのもたしかだろう それは 匿名性を持つバーチャルなコミュニケーションだ

わたしも普段 「mixi」でバーチャルなコミュニケーションを楽しんでいるが でもこの 「mixi」は SNSという性格上 「別キャラ」を使うのは少々やっかいだ

「研究対象としての「mixi」」という記事では
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0509/14/news040.html
「mixi」における固定化されたキャラに対する不安が指摘されている

『mixiは今後どう発展するだろうか。国立情報学研究所の大向一輝氏は「個人の“多重人格性”を保持しながら、サービスをどう進めるかが課題」と指摘する。ユーザーは現実社会で複数のコミュニティーに所属しており、コミュニティーごとにさまざまな“顔”を使い分けていることが多い。mixiは、すべてのマイミクに対して同じ顔しか見せられないため、マイミクが増えるにつれ息苦しくなってやめてしまうユーザーも少なくない。』

なるほどね “多重人格性”の保持とか コミュニティーごとのさまざまな“顔”の使い分けっていうのが必要な時代であり たぶんそれはビジネスにもなる時代なんだろうなとは思うけれども わたしはむしろ 「mixi」の別キャラが使いづらいところが気に入っている

なぜなら わたしの実践である「考えるIT化」は 言ってみれば匿名性のない 「固定即別キャラ」を構築していこうとするものだからだ

「固定即別キャラ」っていうのは 自分が変わることで 環境をも変えるってことでね 変わっていくわたしがわたしだよ!ってことだ

「悩みっていうのは 今の状況 今の環境の中では解決のつかないことが多い のだが ほんとうは環境にあわせて自分を変えてしまえればよい」ってことだし

それは気分転換になるわけもなく まあ「あいつは(よくもわるくも)変わったな」 と環境から認めてもらうことで つまり環境に働きかけることが可能となる

わたしは 肝心の仕事(というか現実)の世界でのキャラ 大事なのはこれじゃない と単純に思っているわけで つまりそれは素の私だ

それを棚上げして 別人格で気分転換ができる人 それでストレスの解消ができる人って本当はとても幸せな人じゃないのかと思う(つまり「軽くやばい」程度)

そもそも わたしは “多重人格性”とか コミュニティーごとのさまざまな“顔”を使い分けできるような器用な人間でもないし 仕事の顔と普段の顔とネット上の顔が一緒になるように そんなIT化を考えているわけで つまり仕事での「信頼」って そういうところからしか生まれないのじゃないかって考えている

特に建設業の場合 世間から押し付けられたような「業界ペルソナ」があるわけで これは少々生き辛いキャラだ
だからと言って 別キャラで気分転換してもどうにもならないわけでね 「固定即別キャラ」を構築していくしかないのだと考えている

2005/09/28 (水)  
【係数aの支配】

午前8時起床 浅草はくもり
二日酔いの朝だ 今日は午後の便で室蘭へ移動する

昨晩も銭湯へ行った 寒かったので遠出はあきらめ 近所の曙湯へ
曙湯の脱衣所の天井
写真
まるで山鹿の八千代座のようだ(笑)

それから弁天で晩飯
寒いので 鍋焼きうどんに天ちら
写真 写真

その後 向島の隠れ家 岩手屋へ
岩手屋で食べたもの
こんにゃくサラダと目玉焼き これでハイボールをいただく
写真 写真
だんだんなじんできたかな(?)

さて 今朝の本題(?)

脳を鍛える

立花隆(著)

2000年3月30日
新潮社

1680円(税込)




わたしが初めて読んだ立花隆の本はこれであって それは5年前のことだ
昨日も書いたように 立花隆ってあんまり好きじゃない けれど その膨大な読書量と知識には 素直に「ごめんなさい」と言うしかないわけで 時々引っ張り出しては読んでいる

最近 この本(だけではないが)にインスパイアされ読み始めたのが 23日の戯言に紹介した『テスト氏,未完の物語』

テスト氏,未完の物語

ポール・アンブロイズ・ヴァレリー (著)
粟津 則雄 (訳)

1967年5月31日
現代思潮新社

2520円(税込)






立花はこんなことを言っている

『ヴァレリーの「テスト氏との一夜」を読んだことがある人はどれくらいいますか?(手をあげる人なし)』

『まあ、いまどきヴァレリーを読もうという人はあまりいないのかもしれないけど、この人は、一九四五年に亡くなって、死んでから半世紀以上たつわけですが、いまでも十分に読む価値のある人です。』(p120)

(手をあげる人なし)っていうのは 当時立花の授業を受けていた東大生で それは うひゃひゃひゃひゃ であるのだが 勿論わたしも読んだことがなかったのだから とやかく言える立場でもない

当然 5年前にこの立花本を読んだときには ヴァレリーなんてまったく興味の範疇外なわけで わたしの記憶にも残らなかった(つまりこれが 人間はわかることしかわからないっていう「係数a」 だね)

最近立花を再読していて ヴァレリーの名前がわたしの脳みそにインプットされた
それは ヴァレリーが マラルメ(例の「骰子一擲」の人ね)の弟子にあたる人だったからだ

ここでも 立花の面白い話があって

『マラルメを読んだことがある人どれくらいいますか?(ほとんどなし)ランボーは?(かなり手があがる)』

『マラルメはランボーなんかよりはるかにすごい人ですが、フランス語で読まないとどこがすごいのか、ぜんぜんわからないでしょう』(p138)

やっぱり うひゃひゃひゃひゃ であるのだが わたしだってマラルメを読んだのは(それも日本語で)最近のことだから笑える立場でもない

つまり5年前 わたしはマラルメを知らなかったし 当然ヴァレリーなんて知るわけもなかった(「係数a」が低い)
だから 立花のヴァレリーのはなしは 記憶にも残らなかった
つまり 情報はぜんぜん見えていなかったわけだ

しかし 中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』 をきっかけとして知ったマラルメの「骰子一擲」という詩は 今や わたしの思考においては特別な位置にあるわけで つまり 「骰子一擲」を知ることで 立花のヴァレリーばなしは 見えてきたわけだ

でも それだけでは 『テスト氏,未完の物語』を買って読もうなんては思わない
たぶんこんなの読んでも一銭にもならないし 実用的にはなんの役にもたたないしね(笑)

つまり じつはもうひとつ背中を押したものがあったわけだ
それは偶然に 『こころの科学 123号 』 で 中井久夫さんの「ポール・ヴァレリーと青年期危機」という論文を読んでしまったってことだ

こころの科学 123号 (123)

特別企画 ひきこもり
斎藤環(編)

2005年8月
日本評論社

1400円(税込)





これは斎藤環つながりというか 玄田有史つながりというか
ひきこもりつながりというか ニートつながりというか
そういう縁で購入したものなのだが 斎藤環や玄田有史を知らなかったら買うこともなかったものだ

それには ヴァレリーの青年期を「眼高手低」(理念に実行が伴わないこと 香山リカの言っていた 自信がないけれども変にプライドが高いだ)との解析があった(それがひきこもりの入り口に立った青年の多くの思いだ)
それで このヴァレリー ひきこもり期間が二十代から五十歳までとやたらと長い

これで決定的!
わたしの今の興味は 「動きたくとも動けない」(ニートの文脈)にあるわけで 『テスト氏,未完の物語』を迷わず購入したわけだ

本は 直感的に買う事も多いのだが(下手な鉄砲も数打ちゃ当たる) こうしてネットワーク的につながっていくものも多い

当然読んでもわからないものもある
でも 知のネットワークは 今回のように後からつながることも多く 人間はわかることしかわからないっていう「係数a」は 間違いなくわたしを支配しているのもたしかだろう

ということで 今回の旅の友は当然 『テスト氏,未完の物語』 である

2005/09/27 (火)  
【引いて見る(考える技術)】

午前6時起床 淺草は くもり

昨晩は銭湯へ行ってきた
浅草四丁目の曙湯
入浴料 大人400円 子供80円
昭和24年に建設された建物は 平成2年度 台東区まちかど賞受賞
レトロな銭湯だ

浴槽はふたつあり ぬるい方でも43度ある
熱いほうは 足は入れたけれども 肩まではつかれなかった

わたしは家では39度から40度のお湯につかっているわけで
熱い湯の中 苦虫を噛み潰したような顔をして 10数えてきた

風呂上りのお約束 コーヒー牛乳 1本120円
たまには銭湯もいいもんだ

それから ふらふらと 喜美松へ  ハツのあらいで一杯

その後 爆睡!(笑)

ということで 本日の本題(?)
わたしの興味の範囲は 一見 滅茶苦茶なわけで
まったくまとまりが無いように見える

中沢新一や 香山リカが出てきたかと思えば
オタクもでてくる 今日は銭湯に コーヒー牛乳に ハツのあらいだ

そんなもの IT化とは関係ないじゃないか とか
何が言いたいのか さっぱりかわからない とか
あいかわらず苦情は多いのだが 今日は言い訳じみたものを書こう(弱気?)

それは「引いて見る」というわたしの実践についてだ

立花隆って
なにかエラソー過ぎてあんまり好きじゃないけれども

これは少なくとも彼の影響でやってみょうとしたことなので 彼の名前を出しておく

←(『脳を鍛える』の特別付録)












自分ではいろいろなものが見えているつもりでも
本当の意味では なにも見えていなかった ということはよくあることで

それはパンフォーカスのように
本当は ピントは曖昧なのだけれども あっているような気になっている
(つまり 錯覚ね!)

わたしは別に立花に言われてそれに気づいたのではないが
私の専門領域でさえ 見えないものはある
つまり世の中 「わからない」ことばかりだってことは わかっていた

例えば「ミーム」論は その典型で
『桃論』では 「ミーム」という眼鏡を使って 対象を見ていたのだけれども
それで全てが見えるわけじゃないってことは 書いた後に気がついた(笑)

ましてや 問題解決作を考えるとなると 「ミーム」のフォーカスでは
どうしてもピントは甘いわけで じゃどうしようってね わたしでも悩み考える

もっと微分し細部を事細かにしていこうか
フツーはそう考えるのだろうけれども
でもわたしは違う方法を選択したわけで
つまりそれが 「引いて見る」って方法だ (結果的に微分はしているが)

「引く」とは 大きな視点で見るということで つまりカメラでいう「引き」である

 引くことで 全体が見えてくる
 即物的な見え方の全体像が見える
 ものごとの流れの意味づけができるようになってくる
 表面的な現象だけではなく 深層構造が見えるようになる

そう立花は言った

たしかにそれは間違いではなく 例えば IT化を考えるとき
技術的なものを見つづけるだけなら 局所しか見えなくなる
組織の構造や 人間心理の構造
社会という環境の構造 つまり
それらの複合体としいての 経営の中に IT化は見えてこない
引くことで IT化の位置が 経営の全体像の中に見えてくるってことだ

その経営でさえ部分である
今の時代 経営は複雑である 複合体である
わたしのような個人事業主でさえ
なにかひとつの技術だけで それだけを熱心にやり遂げることが
経営的成功とイコールではないことは 日々身をもって体験している現実だ
ましてや あっという間に技術は陳腐化してしまうITの世界である

だからわたし自身 経営者として 商売人として
「引いて見る」という技術を身につけようとしたわけだ
自分の専門領域を 引いて見ることで
全体の中でのわたしの位置づけが見えるよう努力してきた

それは わたし自身の立ち位置を探すことと同義であり IT化という狭い領域を
経営のさらには人間の営みの中に 意味あるものとして位置づけようと努力してきたってことだ

しかし それも簡単なことではないのは当然で それはいまだに難しい

なぜなら 「引いて見る」ことの実践とは
対象に対する視点を単に遠ざけることではなく 膨大な専門外の 知識(レンズ)を持ちながら それらを組み合わせて 対象にフォーカスをあてる ということだったからだ

引いて見るときには 対象が専門的になればなるほど 専門外の知識が必要とされる
専門外の知識という複数のレンズを通してみることで 今まで見えなかったものは見えてくる これが「引いて」なのである

つまり「引いて」とは 細部に焦点を当てるときのピントの位置なのだけれども
複数枚のレンズを組み合わせることで それは変化し 組み合わせによって 細部は より鮮明に見えてくるってことだ

それはやってみなくてはわからない「方法」だった 実践の理論である

わたしは ごちゃごちゃと不器用にそれを繰り返し 確かに複数枚のレンズを手に入れた けれどもそのレンズは まだ曇っているのはたしかで それがわたしのIT化が 理解不能に見える理由のひとつだろう

香山リカなら 60%で満足しなさい って言うのかもしれないが
わたしは ぜんぜんそうは思っていない

なぜならわたしの複数のレンズの精度は まだ60%にもなっていないからだ
せいぜい30%か40%だろう それはちゃんと自覚している

足りないところだらけなのはたしかだけれども
でもわたしは それを自分に無いモノだとは思っていない
すでに「方法」は身についている けれど ただレンズは曇っているだけだと考えている
(そう思うことが 引いて見ることを続ける大切な要因である(笑))

だから いつまで生きるかしらないけれども
死ぬまで それを磨き続けようと思っている

それが「引いて見る」っていう方法であり
別名 「考える技術」ってやつだ

これは 「お金 地位 名声 美貌」なんかとは 無縁のものかもしれないが
それ(レンズの曇りをはらう)は わたしのもっとも大きな欲望であることで
昨日の【香山リカの講演】にでてきた
無意味な自身の無さも 無邪気な自己愛にも 精神が冒されずんでいることはたしかだし
わたしが日々 ぎこちなくても動き続ける その動くための原動力になっていることも確かなのだ

以上 言い訳まで(笑)

2005/09/26 (月)  
【香山リカの講演】

午前9時起床 淺草は晴れ

〈雅子さま〉はあなたと一緒に泣いている

香山リカ(著)

2005年7月10日
筑摩書房

1365円(税込)






筑摩書房の広報誌である「ちくま」は
わたしの愛読書のひとつであり 毎月欠かさず読んでいる

そこには その月の新刊紹介を兼ねたコラムがあるのだが
香山リカさんのこの本は 最新号で斎藤美奈子さんが紹介していた

わたしは香山の持っている 高度な脱力感と言うか
頑張らない力と言うか
肩の力の抜け具合がけっこう好きだし この本に関しても
なんとなくいけるかな という予感があって だいぶ前にAmazonに注文していた

それが昨日ようやく届いたのは
 同梱をお願いしていた別の本がようやく発売されたからだが 早速
一通り目を通してみた

かなりいけてる と思う

この本は女性の幸福について考えている
<雅子さま>という 週刊誌的話題を 「あなたと一緒に」と
みんなの問題として敷衍している

読者としての対象は女性なのだろうが
男にとっても読み応えは十分にある

なにせ 多くの男たちの欲望の対象は女性なのだからね
(じゃ無い人もいるけれど (笑))
あなたのパートナーはどうしたら 幸せになれるのだろうか
それとも なれないのだろうか
隠れて考えてみるのも 悪くはないだろう(笑)

さて昨日は 香山リカさんの講演を 聞いてきた (笑)

台東区の男女平等推進フォーラムでの講演で
演題は 『まず、自分を認めてみよう』 〜楽しい人生のための処方箋〜である

わたしが勝手に演題をつけるとすれば
「鏡像段階 ごらんこれがお前だよ」となるだろうが
まあ そういう講演内容であったということだ

現在 香山は 精神科医と大学教授との二足の草鞋をはいている

大学で教鞭をとり始めたとき 彼女は
病院で診る患者とは違って
元気な若者に会えることを楽しみにしていたらしい

たしかに学生は 明るく元気に見えた
しかし ひとりで香山のところに相談にくる学生の多くは
普段のよさ(明るさ 元気のよさ)が消えてしまっていた

私は誰にも好かれていないのではないか
私は両親からも愛されていないのではないか
私は卒業しても居場所がないのではないか

自分自身に自信がない
そんな不安を抱えて 彼らは香山のもとへやってくる

そしてこう告白するのだ
恋人や友人や両親と一緒にいる時は
明るい人間 前向きな人間の「フリ」をしている
私は 演技をしているのだ と

もしも 自分が「素顔の私」を見せてしまったら
みんなは自分から逃げていってしまうのじゃないか
自分自身に自信がない
だから普段は演技をしている
他者から嫌われないように と努力している

でもそれは
本当の自分ではない仮面(ペルソナ)

自宅に帰っても 両親の前では いい子を演じている
自分の部屋に戻るときが ホッとできるはずなのだが
最近はそうじゃなくなってきた

ケイタイメール

メールが着たら 「即レス」がお約束
当然 メールでさえも
明るい自分を演出しなくてはならない

「即レス」は大事な友愛の証
目覚まし時計のベルでは目が覚めないが
ケイタイメールの着信音では どんな時でも目が覚める (笑)

毎日そんなことばかり
自分の仮面を演出するのに エネルギーのほとんどを使い切る
だから 他にエネルギーが回らない
そして 疲れている 生きるのがしんどい… と彼らは言う

だからと言って 完全に自信喪失しているわけでもない
どうして自分だけがこんな思いをしているのか という思い
特別な自分でいたい という思いは強い

例えば就職相談
多くの学生は 私が就職できるようなところはあるのでしょうか と謙虚らしい
しかし その言葉を鵜呑みにして 就職先の情報を提供すると
怒り出す学生もいる (笑)

(それはそうだ 自分をよく見せようとしているのは
 自分に自信がないからだけじゃなく
 なにか特別な自分として 他者に認められたい
 他者の目に写る自分(鏡像)を 信じていたいからだ)

自信がないのに プライドは高い
かなり現実的でない夢を持っている

(まあ悪いことばかりではないけれども)
(自己愛人間)

「自分らしく生きたい 輝きたい」
これは魅力的だけれども危険なものでもある と香山は言う
(わたしも言う)

自分自身に自信はないが
特別な自分でいたい という心の傾向は 学生に限らず
香山の患者にも多く 一般的な傾向なのかもしれない

自分の持っているものは見えない
でも自分の持っていないものばかりが見えてしまう

この心理的状況下では
自分の持っていないものが気になってしかたがない
その無いものを取り繕い
自分の仮面の維持にばかりエネルギーが使われるので
それだけで精一杯になってしまう
…疲れる

それで 自分と違うもの つまり他者を思うところまで
他者を気遣うところまで エネルギーが回らない

つまり みんな自分のことだけで精一杯の
ギスギスした社会になってしまっている

例えば 10年ほど前までは
心の病に対する社会的な理解は低かったけれども
香山の患者が社会復帰をしようとすれば
それを受け入れてくれる会社は少なくはなかった
少々のことは 受け入れる鷹揚さが社会にあった

最近は 心の病に対する社会的理解は高まってはいる
けれども 香山の患者が 社会復帰しようとしても
それを受け入れてくれる会社は 少ない

世知辛い世の中になった と香山は言った

香山リカからの提案

本当はもう十分に自分らしいことを理解しよう
新しいものを取り入れる前に
今自分が持っているものを再評価しよう
みんな 自分でしかできないことがある
それはどんな些細なことでだとしても

お金 地位 名声 美貌
それは賞味期限の短い喜びだ
一瞬の喜びは付録のようなもので 心をまぎらわしてはくれる
しかし それは限りがないもので
心を満たしてはくれるものではない

答えを出すのは先延ばしにしてしまおう
即断即決が言われる時代だけれども
決まらないことは先延ばしにしてしまおう
「リセット」と若い人は言うけれども そんな衝動的なことではなく
迷ったら 先延ばしにしてしまおう

60点とか65点の自分を認めよう
100点か0点か
黒か白か
郵政民営化か否か(ほんとうにそう言ったのだよ(笑))
そんな二者択一の圧力が強い社会だけれども
人生は そんなわけにはいかない
60点の自分を認める それは勇気が必要なことだけれども
60点でも65点でも そういう自分を認めよう

皆で弱音を吐き合えるようにしよう
人間 いつもいい子であれるわけも無いし

ダメな自分 弱い自分をさらけ出す勇気をもとう
さらしたところで 人間関係がだめになるわけでもないだろう
自分の弱音を出せない自分は 他者を認められるわけもない

香山は ラカン派の精神分析医であり
わたしも 考えるIT化の基底に
ラカンの精神分析を援用していることもあるが
それを抜きにしても
わかりやすい しかし 深い問題提起を孕んだ講演だったと思う

2005/09/25 (日)  
【チャーリーとチョコレート工場】

午前7時起床
淺草は くもりか小雨
TXで ポケモンをみていた 脱力した朝だ

昨日は 遅ればせながら チョコレート工場を見学して
ウンパ・ルンパにはまってしまった
おすすめ度 ★★★★★(笑)

この映画 物語的には水戸黄門的に安定していて
特にどうってこともなく
映画を観たら 無理やり感動しなくちゃいけない
と脅迫概念を持つ人は 肩透かしをくらうだろう

けれども ティム・バートンが わざわざ
ジョニー・デップ主演 ダニー・エルフマン音楽で映画を作るには
こういう安定した物語(下敷き)は必要だったのだ と納得してしまうほど
この映画は ある意味ぶっ飛んでいる

それは 談志が言う イリュージョンのようなもので
古典(型)を下敷きにしているがゆえの 表現における
イマジネーションの発揮というか きらめく展開の可能性なわけで
映像表現と音楽の力で 人間はトリップできることを
まざまざとみせつけられてしまった

映画館には 子供が沢山いたけれども
こんな映画が観れる今時の子供達は本当に幸せだなと思う

もちろん ジョニー・デップは
「シザーズハンド」の時のようにかっこいいし
こういう性格的にちょっと問題のあるキャラは彼の独壇場だ
(はさみを持っているシーンもちゃんとあったし)

しかし今回は
なによりも ダニー・エルフマンの音楽が凄い!
特に ウンパ・ルンパソングとそのダンスは それだけで

 「今日も観に行こうか」

とわたしを 誘惑しているわけで それは 文句なしに楽しい!

ウンパ・ルンパ族は チョコレート工場で働いている「ショートピープル」で
(映画には関係ないけれどもランディ・ニューマンの曲名を使ってみた)
体長70センチ 小太りで 浅黒い肌をしている
もちろん「族」というくらいだから たくさんいるのだが

でも そのたくさんが ひとつのキャラクターなわけで
みんな同じ顔 同じ体形をしいている
わたしはパタリロに出てくる タマネギ部隊を思い出していた

 
 (わたしのPCのディスクトップの壁紙はウンパ・ルンパになりました)
  
 (パタリロ系デザインであることがわかるだろうか)

まあ さらに詳しくは 映画館かここ(↓)で確認していただくとして
 http://www.oompainvasion.com/

わたしは すっかりウンパ・ルンパソングとそのダンスに魅せられてしまい
帰りに オリジナルサウンドトラックを買ってきてしまった

チャーリーとチョコレート工場 オリジナル・サウンドトラック

2005年9月2日
ワーナーホームビデオ









ウンパ・ルンパのダンス音楽は4曲

2.オーガスタス・グループは 派手なインド映画風で
 ビートのきいたエスニックサウンドになっている
 映画では ウンパ・ルンパの水中(実際はチョコレート)レヴューがつくのだが…

3.バイオレット・ボーレガードは 70年代のファンクを彷彿させるファンキーなナンバーで
 ウンバ・ルンバは ジャンプスーツ姿で ディスコ風に決めていた

4.ベルーカ・ソルトは 後期ビートルズ+トッドラングレンのハイブリッド
 ウンバ・ルンバは 乙女のように舞い踊ってしまう

5.マイク・ティービーは クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」もどきで
 ウンバ・ルンバは フレディ風に長髪を振り乱し歌うのだ
 (ビートルズ風の映像もあった・・・たぶん)

映画館では わたしも家人も 笑いをこらえるのに必死だった
いっしょに踊りたい! とさえ思った

DVDの発売が待ち遠しい
振り付けを覚えなくちゃいけない (笑)

 2005/09/24 (土)  
【カントク】

午前8時35分起床 浅草はくもり時々雨
TXで 幻星神ジャスティライザーの最終回をみていた
脱力の朝だ

監督不行届

安野モヨコ(著)

2005年2月15日
祥伝社

840円(税込)






この本の主役は「カントク」である
「カントク」は実在の人物で 名前を 庵野秀明さんという

TVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」や
映画「キューティハニー」などの監督をされた方で

1960年生まれ(わたしより二歳年下)の真正のオタク(第1世代)であり
オタク第3世代(つまり今の萌え系)が生まれる基盤をつくってきた方だ


作者である 安野モヨコさんは 庵野監督夫人であり
つまり この本は 庵野監督観察録のようなものである

この本は わたしが例によって研究用に購入してきたものだが(笑)
家人はこれを読んで大笑い
「カントク」は わたしそのものだ と言うのだ

たしかに 漫画の「カントク」キャラは わたしに似ている
わたしも見た瞬間にそう思った


ぼさぼさの髪 ひげずら 広いおでこ ややでぶ
わたしを漫画にしたら たぶんこうなる(笑)

さらに この絵を見ると 使っている椅子も同じようだし
バーベQあじに ベビースター カブキあげ バッカスチョコ
非常食のラインナップも見事に同じだ

基本的生活能力の無さも 同じだし
ときどき見受けられる 不思議な行動も同じようなものらしい

なるほど そう言われれば確かに似ているわけで
それで家では
わたしは すっかり「カントク」になってしまっている

「あなた それは変よ」
「ああ・・・カントクだからね」

こんな会話が フツーに成り立ってしまっている

2005/09/23 (金)  
【あなたをおいかけてきたわたしも年をとりました】

午前6時起用 浅草は はれ

昨日はけっこうまじめに仕事をして過ごした
夕方から錦糸町のアルカキットへ出かけ
新星堂で 山下達郎のアルバムと
春風亭昇太のこども向け落語のCDを買う

SONORITE(初回限定盤)


山下達郎

2005年9月14日
ワーナーミュージックジャパン

3059円(税込)







ぞろぞろ

春風亭昇太

2004年7月7日
ソニーミュージックエンタテインメント

1835円(税込)




その後 いつもの くまざわ書店に立ち寄り
でぶ称賛の本と ヴァレリーを買う

でぶ大全


ロミ&ジャン・フェクサス(著)
高遠弘美(訳)

2005年9月15日
作品社


2940円(税込)



テスト氏,未完の物語

ポール・アンブロイズ・ヴァレリー (著)
粟津 則雄 (訳)

1967年5月31日
現代思潮新社

2520円(税込)






これらは 連休用に揃えたものだけれども
既に二枚のCDは一通り聞いてしまった
今は 昇太を聞きながら この戯言を書いているが
今日は 山下達郎さんのアルバム『SONORITE』について少し書こうと思う

今回のアルバムで わたしの贔屓は
「12.2000トンの雨 (2000t of Rain)(2003 NEW VOCAL REMIX)」と
「13.WHEN YOU WISH UPON A STAR 〜星に願いを〜」だ

「2000トンの雨」は わたしが 山下達郎にであった頃に 好きだった山下達郎であり
「〜星に願いを〜」は わたしが今 好きな山下達郎だ

わたしは 彼をオタク的な音楽職人であり
かれの音楽は質の高い シミュラークル ハイブリッドだと理解している

彼の洋楽(ポピュラーミュージック)に対する知識は膨大であり
彼そのものが 巨大なデータベースをもった宇宙である

そんな彼の作品は そのデータと 日本的なもの(日本語)との
シミュラークル ハイブリッドとして生成された
力学的なエネルギーを持ったものであることで
わたしのこころを惹きつけててきた

わたしが十代の頃に出会った 山下達郎は それはオシャレな音楽だった
四畳半のかび臭い部屋で
暑い日には エアコンもなく 麦茶を飲みながら
寒い日には どてらを着て コタツで昆布茶を飲みながら
そんな現実を背負って聞くには ためらいが沸くような
キラキラした別世界の音楽だった

でも J-POPなんて言葉は微塵もなく 歌謡曲にも
演歌調のフォークソングにも食あたり気味で
英語のROCKがフツーに流れれていた時代に
(アメリカの文化があこがれの対象であった時代に)
彼は 日本語で歌うロックの方法を示した
そう彼は 方法(ルール)をつくった

それは時代のちょとだけ時代の先を行っていて
かと言って古臭くもなく
なによりも 彼の音楽に対する膨大な知識量は
なにか ROCKを聞くときに感じる罪悪感を中和するような安心感があった

つまり あの時代 安心して聞けるROCKだったことで
あの右肩上がりの能天気な時代にいたわたしには
これが「僕らの時代」の音楽なんだってね
そう思い込むのは十分な説得力があった

それからアルバムは出れば無条件で購入するし
コンサートがあれば 最優先で足を運び
リアルタイムで彼の音楽と生きてきたし
彼の紹介する音楽も 嫌というほど聴いてきた

そんな思い入れがあるからだろうか
「SONORITE」に感じたのは 「ぎこちないなぁ」 なのである

わたしたちは 今
若いミュージシャンの可能性を嫌というほど見せ付けられている
今や 若いミュージシャンが
フツーに洋楽(特に米国の 特に黒人音楽)を吸収し
それを民族的な特性をもつ 己の肉体を通して シミュラークルしてくる

軽々ハイブリッドの壁を乗り越え 表現を豊かにしていることに比べると
彼の新しいチャレンジ(ハイブリッド)は
そのぎこちなさが際立っているように思う

それは 頑固な技を持った職人が
最新鋭の機器を前にして 苦闘している姿に通じるようなものだ

だから わたし的には
「2.KISSからはじまるミステリー [feat. RYO(from ケツメイシ)]」は
まったくいただけないし
「11.太陽のえくぼ (ALBUM REMIX)」も 違和感の方が大きい

つまり 時代のちょっと先を行っていた彼が
時代に乗ろうとして 時代にちょっと先をこされてしまったように感じるのだ

むしろ たんたんと
歌いたいものを 歌っている(服部克久のアレンジも素晴らしい)
「忘れないで」や「白いアンブレラ」そして「「〜星に願いを〜」が
今の わたし的には ここちよく感じる

これは古臭いのかもしれないが
歌が非常にうまくなっているのも確かで 職人的には
老練の域に達したとも言えるのだから その職人的なものを
前面に押し出したアルバム
(曲ではない 作品としてアルバムである)を聞きたい

わたしの願いはただひとつ
山下達郎ディナーショーを みてみたい

あなたをおいかけてきた わたしも 年をとりました

2005/09/22 (木)  
【かなわない…と思った】

午前6時40分起床 浅草はくもり
寝不足の朝だ

♪きょうも あさから げんきなうんち
でてきたから きょうも しあわせよ しあわせよ♪

かなわない…と思った

書斎で仕事をしているときは 教育テレビを
(音を消して)流しっぱなしにし
別の音楽を それにハイブリッドしていることが多いのだが

今朝は テレビのスイッチを入れた途端
上の歌が流れてきて ふいうちをくらってしまった
今の子供たちは ある意味 幸せかもしれない

朝から 税理士先生とご相談
消費税の予定納税について
やっぱり 親方日の丸には かなわない…と思った(笑)

さて 今朝は 少し寝不足気味だったのは
昨晩 盛岡から戻ってから ちょっと調べごとをしていたからで
それは立原道造の 「盛岡ノート」についてだ

佐藤実氏の「深沢紅子と立原道造」という著作を
盛岡駅に隣接したショッピングモールにある書店で購入した


深沢紅子と立原道造

佐藤実(著)

2005年7月20日
杜陵高速印刷株式会社出版部

1800円(税込)














立原道造は わたしの嫉妬の対象であり
憧れではなく
純粋に かなわない… と思う人だ

それは三好達治をして

 人が 詩人として生涯ををはるためには
 君のやうに聡明に 清純に
 純潔に生きなければならなかつた
 さうして君のやうに また
 早く死ななければ!
  ―立原道造君を憶ふて―

と書かせた 夭折の詩人であり建築家であった人で
生まれは 日本橋だし
記念館は 東大の弥生門の近くにある
まあ ご近所って言えば ご近所の偉人だ

この本には 「盛岡ノート」の原典写しが掲載されていて
わたしは それを見て狂喜してしまった
そしてまた かなわない…と思った

立原は昭和13年9月から10月まで 静養のため
盛岡の深沢紅子(画家)生家の別荘に滞在した

「盛岡ノート」は 盛岡での叙景や心情を綴ったのものだが
わたしは なぜかノートのことを知っていた
(だから この本を買ったのだが)

しかしそれは 最近知ったはずで
それを どこで知ったのかが思い出せないのでいたのだ

それで 気になってしまって 夜通し 最近読んだ本を
ひっくり返してみたのだが 結局 わからずじまいで
今朝の寝不足の原因となってしまったわけだ (笑)

しかし わたしが かなわない… と思ったのは
なによりもそのノートの使い方なのだ


(上図 「深沢紅子と立原道造」p103より引用)

横書きの罫線入りノートを縦書につかっていることがわかる
これだけでも 衝撃的なのだった

縦に書く ・・・そうかと思った

わたしはフィールドノートには MOLESKINの罫線なしを使っていて
そこに フリーハンド的に 横書きに文字を書いている
しかし 縦書きの発想はなかった

かなわないなら 真似をする
内容は 真似ができるはずはないけれども
「かたち」から入る それがわたしのやり方ならば
真似をする
早速 罫線入りのMOLESKINを発注することにした

ああ これでデルタドルチェビータミニが 戻ってくれば と思う写真

これは フィールドで使うには
 抜群の使い勝手と書き味をもっている
 思考の邪魔をけっしてしない

しかし… 今は
ねじやまをこわしてしまって
イタリヤへ修理にでている

はやく 帰ってこい
わたしには これを買う 財力はない(笑)

 

2005/09/21 (水)  
【盛岡へもしくは型または天ちら】

午前4時ごろ起床
浅草は くもり

今日は 盛岡へ出張です
協会イントラネット 最初の操作実習付の勉強会です

これはわたしのIT化ではとても大切な位置づけにあります
わたしのIT化コンサルテーションは型を持ちます
柔道でも空手でも剣道でも武道には型がるように
イントラネットの運用 IT化にも型があります

最初に基底としての「かたち」を理解していただくことで
型を身体で覚えることで IT化に個性
つまり武道で言えば「得意技」が生きる可能性を孕ませます
それは組織で言えば
組織という 種の中で生きる個です

型(種)を持った個の自己否定的変態を 「守・破・離」と言いますが
その型とは 別名「象徴」であり「中景」であり「種」であり
「モスラの繭」なわけです
そしてその体系が「種の論理」です

 この「型」の締め付けとそのゆるさは多層構造でなくてはなりません
 でないと「守・破・離」 つまり「種の論理」には成り得なませんね
 それは「飴と鞭」的な「管理の理論」ではありませんし
 個々人の自発的を基底にしたものであることで 論理的なものです
 このあたり 詳しくは9月15日の戯言
 【なぜわたしはサイボウズを使うのか】をお読みいただければと思います


さて盛岡といえば わたしにとってはなによりも冷麺です
ひいきは 盛楼閣ですが
朝から なにやらうれしいのです

しかし 今日の予定では 12時:22分に盛岡駅着で
13時30分には仕事が始まりますから
お昼は若干あわただしくなります
それで 帰りにでも 盛楼閣で冷麺の型を食べようと考えていました

さて昨日は フリーズしていた案件を
一挙に再起動させてしまったような一日でしたので
マルチタスクは望むところだとはいえ
夕方には わたしのCPUも疲れてしまいました

そこで 約束していた子供との銭湯行きを履行し 一風呂浴びてから
帰りにどこかで 一杯やろうか と思ったのですが
あいにくと 雨が降り出してしまい それではと
近所の弁天で はやめの夕餉を すますことにしました

蕎麦屋で呑むのも楽しいものです
蕎麦味噌と 天ちら で一杯やりました


わたしは 弁天の天ぷら 特に天ぷらそばには目がないのですが
昨晩は 天ぷらそばで呑む という気分でもなく
天ぷらだけを注文 つまり「天ちら」で 呑んだわけです

「天ちら」というのは
蕎麦屋で天ぷらだけを頼むときの江戸言葉です
ちゃんとした(?)蕎麦屋のお品書きには
「天ぷらの盛合せ」は 「天ちら」と表記されています

しかし この天ちら(つまり天ぷら)は
天麩羅屋の天ぷらとも違いますし
小料理屋がだすのとも違います
ましてや 天丼屋の天ぷらとも違うわけで
やっぱり江戸の蕎麦屋の天ぷらは 「天ちら」なのです

わたしは あんまり天ツユは使わなくて
多くはそのまま食べてしまいます
これと 蕎麦味噌があれば一杯(どころか沢山…)いけてしまいます

ほろ酔いで自宅に戻ったわたしは
しばらく転寝(うたたね)してしまいました
そのせいで 夜通し仕事をしていたのですが・・・

しかし ほぼ毎日ぐらいに弁天には通っているのですが
飽きがこないのは
やはり しっかりと蕎麦屋の型を土台にした店だからでしょうか
というおちはべた過ぎだわね…(笑)

では 出発の準備です

2005/09/20 (火)  
【To Do】

午前7時起床 睡眠時間4時間
浅草は霧がたれている
海から湿った空気が流れ込んでいる
湿っぽいクールダウン

今朝はなにか 子供のころにさんざん味わった
夏休み最後の日のような気分だ

選挙があって 連休×二発の九月は
ぽっかりあいたブラックホールのようなもので
気力はガクンと落ちる

それでも「やらなくてはならないこと」(To Do)はあるわけで
でもここ最近 ぐーたらを決め込んでいたおかげで
そのつけが 昨日あたりから 表出してしまうのは
アリとキリギリスよろしく
もう三十年以上も続けてきた お約束か

子供の頃から 性根はちっとも進歩していない
「三つ子の魂百まで」とはうまく言ったものだ

たしかに死なないやつがいないように
終わらない仕事もない
すべては時間が解決してくれるだろう

しかし 最近の問題は 肉体的な衰えにあって
歳をとったなぁ〜としみじみと思う
何よりも目が疲れやすい
ディスプレーを 紙代わりに使っているような仕事というのは
これがちょっとつらい
と書いて ブルーベリー系のサプリメントを飲む

わたしは普段 遠近両用眼鏡を愛用しているのだけれども
疲れてくると 遠近が逆になってしまうように感じる
これがちょとつらい
なので 遠視用の眼鏡をかける

と書くと 気合が入っているようだけれども
これが 結構脱力している
たぶん今日は淡々と仕事をするだろう
これも 歳をとったせいだろう

2005/09/19 (月)  
【歩いて帰る】

午前6時20分起床 浅草は晴れ

押上の春慶寺は 自動参詣システムで有名な ハイテク&近代的なビルのお寺だ

昨晩は その春慶寺の近所で 友人たちの家族と会食を楽しんだ
牛島神社の祭礼からの流れである

午前中から家人は 自転車で出かけていた
けれど二日酔いのわたしは完全に出遅れて
夜の会食だけに タクシーででかけた

「言問橋を渡り 浅草通りを左折し 四ツ目通りとの交差点のところまで」

浅草在住なれど 浅草一丁目から三丁目ぐらいしか知らない
浅草ひきこもりのわたしも
最近は このぐらいのことは タクシードライバーに言えるようにはなった

会食はいつものように楽しかった
わたしはなぜか(いつの間にか) 「おたく」だと思われているふしがあり
それも「萌え系」らしく その類のはなしをふられる

わたしは「萌え」の研究しているだけで
「おたく」にはなりきれない中途半端な世代ですよ と説明をするのだが

「萌え」の構造解析なんて 酒を飲んでするものでもないので
猫耳 メイド服大好き ということにしておく (笑)

胃は疲れのピークだったけれども
そんなたわいもない会話で お酒はすすんだ

会食後 春慶寺へ立ち寄った
「春慶寺」 この名前は 鬼平ファンなら ぴんとくるはずだろう
そう「鬼平犯科帳」では
鬼平の親友 岸井左馬之助が寄宿していたお寺だ
 
そうか 左馬之助は ここから 歩いて何処へでもいったんだよな と思った
考えてみれば 押上から浅草の観世音なんか近いものじゃないか

それじゃ わたしも歩いて帰えってみるか と思った
おやじは 単純なのである
 
それで 雪駄履きのわたしは
ぺたぺたと 怪しい足取りで 歩いて帰ることにしたわけだ

道中 あやしいおやじたちがたむろする 魅力的なお店が多くて
なんどか 誘惑に負けそうになったけれども
(岩手屋もあるし…)

まあ 満月の夜
散歩を楽しみながら ゆっくりと歩いて帰ってきた
満月に 猫耳をつけたら 面白いだろうな なんて考えながらね(笑)

2005/09/18 (日)  
【監督不行届】

監督不行届につき
午前11時ごろ 起床 浅草は 晴れ

監督不行届

安野モヨコ(著)











このネタは今使ってしまうのは惜しいので
またあとで…

昨晩も牛島神社の祭礼へ
写真 写真

こじんまりとした 村の鎮守さまのお祭りのようで
なにかほのぼのとするのは
浅草寺の喧騒に少々食あたり気味だからかもしれない

近所にはこれといった飲食店もなく
ようやく見つけたビストロで
友人ご家族と会食後

わたしは また岩手屋へ
すっかり岩手屋劇場にはまってしまった
これがお店ね

そしてこれが お通しね

途中 お客さんと一緒にカラオケに出かけ
また 戻ってきて呑んでしまった
ハイボール

帰宅時刻不明
どうやって帰ってきたのかも覚えていない
当然いまは立派な二日酔い

2005/09/17 (土)  
【ハイボール】

午前6時30分起床 浅草はくもり

昨晩は 牛島神社のお祭り(?)にご招待され
今頃の盆踊りへ

まだ太鼓が届いていなくて
スピーカーから流れているのは オバQ音頭とドラエモン音頭
かなり脱力された民族的舞踏だった

わたしは家人をさっさと置きざりにし
地元の方ご推薦の
「大衆酒場 岩手屋」にしけこむことにした

この店は 暖簾がしぶい
一見では入りくいオーラが漂っている
その上 店の中からは罵声が聞こえてくる
なにかやばそうでもある

しかし ここでひるんではいけない
おもいきってガラス戸を開けた

7〜8人も座ればいっぱいの
レの字型というかコの字型のカウンターと丸椅子

近所のおじさんが常連のようで 5人ほどの客がいた
しかも運がいいのか悪いのか
客同士が喧嘩の真っ最中
こころの中で ワンダホーと叫んだ

喧嘩がおさまるまで お酒は出せないとのこと
しかたがないので
被害をさけるために カウンターのハシッコのTVの直ぐ横に座り
持参した「中央公論」を読みながら
ことの成り行きを楽しんでいた

しばらくして 新参の客の散在に気づいたのか
喧嘩は小休止となり 
わたしはようやくビールを注文することができた

つまみは 卵入りの朝鮮漬
金魚型のあられのようなものが お通しで3個
こころの中で ブラボーと叫んだ

新参者は 店のルール(象徴)を注意深く観察し始めることにした
すると わたし以外の客は
みんな同じものを呑んでいることに気づく

ビールなんてやっているのは 新参者だけなのだ
ビールをさっさと飲みきり
「みなさんと同じものを頂戴」とかなりべたな注文をした
その同じものとは これだ

ハイボール 300円也
店の人はこう言い切った
「これがうちのウリです」

しかも 炭酸水はあの「アズマ炭酸」
吾妻橋のアサヒビ−ルのまん前(興水舎)で作られる
ご当地限定の炭酸水である

先ほどの喧嘩の当事者の一人が帰り
ハイボールの二杯目を頼む頃には
常連客とも なんとなくはなしができるようになって
なにか和やかだったのだが

先に帰った喧嘩相手を追いかけていったもう一人の当事者が戻ってきて
クリーニング屋さんのガラスを割ったという

そいつはやばいね なんていいながらも
またまったりした空間ができあがった頃
ぎゃー
腕から血を流したもう一人の当事者が戻ってきた…

岩手屋劇場 コイズミ劇場よりもずっと面白い!

2005/09/16 (金)  
【1.5の選挙(スーパーフラット】

午前6時50分起床 浅草はくもり

郵政民営化の議論はどこへいってしまったのでしょうね
そう つい最近まで
毎日 マスコミに登場していた あの話題ですよ

消費社会の神話と構造

ジャン・ボードリヤール(著)
今村仁司&塚原史(訳)

紀伊国屋書店
1995年2月19日

2039円(税込)






「郵政民営化」はあっさりと消費されてしまいました
しかし消費=使用ではありません

消費されたのは「郵政民営化」という記号です
それはただの物語でしかなくて
実態(つまり使用価値)はありません

その証拠に その議論はもうどこかへいってしまったのですよ
つまり 商品としての価値は 既にないのです

今回の選挙については
時が経つにつれて わかってくることがあって

先にコイズミさんがやったのは
まず「嫉妬作戦」ですよ と書きましたけれども
でも時間が経てば それだけじゃないことにも気がつくわけです

そのひとつは「1.5の作戦」とでも呼べるもので
これに気づくのには少々時間がかかってしまいました

 
この「1.5の関係」について詳しくは9月7日の戯言を参照ください

「1.5の関係」とは 半分だけ人間のように付き合う ということですが
それは 例えばテレビゲームですね

テレビゲームは
遊び相手(相棒)として まるで人格をもっているかのようですが
あきたらいつでもスイッチオフできる
つまり「1」ではない「0.5」の存在です 半分だけ人間です

匿名性のネットでのコミュニケーションも
飽きたらやめればよいのですから その意味では「1.5の関係」です

子供がぬいぐるみと遊ぶのも
おたくが 二次元世界に萌えるのも(スパーフラット)「 1.5の関係」です

つまり「1.5」とは 遊び相手としての「モノ」との関係です
それは  リアルな世界での
意思を持った人間を相手にするわずらわしさから開放されます
これだと 自己愛は傷つかないんですよね

リアルな世界では 私が飽きたからと言って
「はい おしまいね」は簡単ではありません

恐怖の「二の関係」―ふられた女を追い続けることも
ふった女に追いかけれること―もよくあることです(笑)

コイズミさんは今回の選挙では
二の関係でもなく 三の関係でもなく
「1.5の関係」として 選挙を作り出したのですね

勿論 「1.5」とは「1」と「0.5」の関係ですが ここで重要なのは
「0.5」は国民ではなく
コイズミさん自身であったのだ ということです

つまり「0.5」に自分自身を置くことで
国民に人格ではなく
「0.5」の「モノ=キャラクター」としてのコイズミを提供しました

それはまるで ゲームの中のキャラクターのようにね
そして こう言ったわけです

「YES」or「NO」 どっちかのボタンを押してね
どっちを押しても あなたの自己愛は傷つきませんよ
その上 あなたは政治に参加しているんですよ  ってね

その頃 オカダさんは ジュピターにのって
ゆっくりと椅子から立ち上がる意味不明な親父をやっていました (笑)
  インデックス

IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を創出する
momo
桃知商店
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