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店主戯言00212_02 2002/12/11〜2002/12/20(中旬)  "There goes talkin' MOMO"


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2002/12/20 (金)  
【@岐阜】

桃知@岐阜です。
良い天気でございます。

本日は午前中、岐阜県建築士事務所協会さま、午後から、岐阜県建築工業会さまのサーバーのメンテナンスをします。

最近やたら面倒な話している私ですが、元々の仕事って、これなんですよねぇ、と思ったりいたしました。(笑)

しかし、この(↓)問題の前では、私の元々の仕事も減らざるをえないのです。

○○です。

今朝の店主戯言の中国新聞、効きました!
完璧なボディブローです。
「どうしたらいいんか、わからんのです」
この言葉は、今自分の置かれている状況にも合致します。
彼はもっと辛いのでしょうけど、出てくる言葉は一緒なんですね。

忘年会でも酒を飲みつつ、そんな事ばかり頭をよぎってます。

○○さんは経営者です。

「どうしたらいいんか、わからんのです」・・・
それが、「忘年会でも酒を飲みつつ、そんな事ばかり頭をよぎってます。」というのは、今という時代の経営者さまの本音なのだろうな、と思います。

私のやり方は、「わからないから考える」というものですが、これは既存の成功の法則を一度否定してしまうことが始まりなのです。

でも、これも私のようなフリー・エージェントにして始めて可能なことかもしれません。
抱えていることの多い経営者さまには、既存の成功の法則を一度否定してしまうことは難しいはずです。

この場合の答えのひとつは、経営者だけが悩むのではなく、すべての社員が、自らの問題として「わからないから考える」ということができるのか、ということだと思います。

2002/12/19 (木)  
【意味のある仕事】

■「建設業の再生に向けた基本指針」案

スーさん@Fe1号さまのメール。

今朝の朝日新聞によれば、大手・準大手ゼネコンを対象と
 した債権の買い取り基準案を産業再生機構が示したよう
 ですが、事業縮小や統合前提とのこと。 中小への連鎖
 反応も考えられ、またしても雇用不安に拍車がかかるのでは?

http://www.asahi.com/business/update/1218/002.html

建設通信新聞2002年12月16日にはこのような記述があります。

「市場を通じた淘汰の徹底」を原則に、経営基盤の強化などに向けた企業の取組みを促進し、再生可能な企業に限定」して事業再生を支援する考え。

建設業版再生指針には、公共投資削減による影響が大きい中小・中堅建設業の再生に向けた考えも盛り込む。具体的には
1・不良・不適格業者排除の徹底
2・コスト管理の徹底や新聞や進出などの経営革新の推進
3・相互補完的な企業間連携の推進
4・産業再生法などによる事業再生支援
5・セーフティネットの整備など

まず、『「市場を通じた淘汰の徹底」を原則に、経営基盤の強化などに向けた企業の取組みを促進し、再生可能な企業に限定」して事業再生を支援する考え。』という考え方は、完全に理論矛盾していることがわかるでしょか。

「市場を通じた淘汰の徹底」を標榜するのであれば、答えは「政府は何もしない」なのです。
しかし、市場原理主義者の行う「構造改革は」、市場原理を言えば言うほどに、政府は市場に介入せざるを得ないのです。建設業版再生指針は政府の市場への介入以外のなにものでもありません。これが、現政権の「うそ」なのであり、市場原理主義の行う構造改革とやらの限界なのです。

建設産業(特に地場型中小建設業)は、そもそも市場原理が生み出した産業ではない、というのが私の主張です(開発主義)。

つまり、その再編を市場に任せることなど、最初から無理なのです。

特に、建設産業の再生には、「財務」的な問題ばかりではなく、「雇用」の問題が大きく付きまとうわけですから、過剰供給を減らすだけで問題解決ができる、というような問題ではなくなってしまっているのです。

潰すことで、新しい産業(新しい雇用の場)がポンと生まれることが、サプライサイド的な政策の根底にありますが、そんなことはありえないのは、経済学を知らなくても自明の理でしかないはずです。

やるのであれば、雇用対策も含めて、政府は、堂々と介入するべきだと思います

スーさんの指摘である「この動きは中小への連鎖」は、建設通信新聞の伝える「中小・中堅建設業の再生に向けた考え」となって表出してくるのは確かでしょう。

しかし、これは少しも具体的ではありません。ここに並べられた5つの項目のどれをみても、旧来から言われ続けている「お題目」でしかありませんし、ここでも「市場を通じた淘汰の徹底」を標榜される可能性があります。

→制限付一般競争入札のような「似非マーケット・ソリューション」の導入。

お題目政策、ワンフレーズ政策が、小泉内閣の特徴ともいえるものですが、それはいかようにも解釈できることで、実は行き当たりばったりの政策であり、非常にあいまいな解釈が可能な政策となることが可能なのです。

→証拠に、「構造改革」の将来に何があるのかをいまだに現政権は提示しておりません。

政策が非常に単純で子供じみているのです。
そして、その政策の失敗を反省するスキームも、この「考え」には内在していないようです。

■意味のある仕事

問題は「雇用の問題」です。
潰すことで、新しい産業(新しい雇用の場)がポンと生まれるようなことはありえません。

中高年の雇用の場の確保もさることながら、『来春の高校卒業予定者の就職内定率,男子49.7%,女子44.1%と極めて厳しい状況』というニュースは、雇用不安が若年層にも広がっていることで、この国の不安(将来に対する希望の欠如)は深刻化していることを伝えています。

しかし、私は単純に建設産業の淘汰が雇用の場の喪失を意味するから反対である、という理論展開にも限界を感じています。

それは、建設業に従事することが、「意味のある仕事」なのか、もし、そうでない(つまり、市民社会から、「公共事業という産業」が「意味のある仕事」として認識されていない)ことで、今という時代の公共事業パッシングを生み出しているとすれば、「公共事業という産業」が「意味のある仕事」として認識されていないことには、問題は解決できない、と考えているからです。

シグモンド・フロイドは、幸福の秘訣を「仕事と愛である」と言います。それは、「意味のある仕事」を持っているかどうかということ、そしてもうひとつはまわりの人との「人間関係の質」こそが、幸福の秘訣だということです。

『桃論』は、この問題を考えているわけです。
ですから、単純な公共事業擁護論ではなく、「公共事業という産業」の内側からの変革と、そのインセンティブを感じることのできる政策の必要性を主張しているのでした。

私に、このような考えをもたらしたきっかけの記事を以下に紹介いたします。(ちょっと古いですが・・・)

中国新聞 不況ひと模様4

ということで、今日は岐阜県庁へ行って参ります。

2002/12/18 (水)  
【人間らしい・・・】

■羽子板市

浅草寺は昨日から羽子板市が始まっております。
私もちょっと冷やかしに行ってまいりまして、ついでに大黒屋さんで、天丼でも食べようかと寄ったら、あら、待っている人が沢山、の状態でしたので、永井荷風先生がご用達であったフジキッチンまで行ってタンシチューを食べてきました。

私は、普段、家にはほとんどいない、という仕事をしているわけで、この時期になると、こうして近所をうろうろしながら過ごせるわけです。

まあ、昨年はお尻の病気でえらい目にあっていたわけですが、それに比べれば、今年ははるかに穏やかな日々なのでした。

■お酒は連荘、でも今日は休みの予定

昨晩は、新橋の「美良」というお蕎麦屋さんで一献した後、青山二丁目にある「くどう」というお鮨屋さんでのダブルヘッダーでした。

どちらもしっかりしたお店ですが、特に新橋の「美良」の蕎麦は絶品!でございました。
また行きたいと思うのでした。

お酒のお付き合いは、それこそ毎晩続いているのですが、でも今日はお休みです。
そろそろ本格的に休憩しなくてはなりません。

■ジレンマ

朝日新聞のサイトから

官製談合防止法初適用へ 北海道・岩見沢市が丸ごと主導
落札率100%、年16件も 岩見沢の官製談合疑惑

岩見沢市は、これで官製談合防止法初適用、という汚名をいただくことになってしまうのでしょうが、問題は、排除勧告を受けた後が心配だ、ということです。

つまり、指名停止の問題と入札制度への単純な「マーケット・ソリューション」の導入です。

岩見沢は公取委の調査後すぐに、一般競争入札+電子入札の導入等の単純な「マーケット・ソリューション」の導入で問題解決をしようとしていたようですが、それは単なる発注者の保身行為であることは「桃論」で指摘しているところです。

そして、今度は指名停止の問題です。
指名停止を岩見沢市内の多くの業者の皆さんが受けることで、強烈なデフレ圧力が地域経済に対してかかることになるでしょう。

地域の公共工事というのは、ある種の地域貨幣的な働きをするのですが、お金が外に出て行く(つまり、岩見沢の工事が、岩見沢の業者以外に流れることとなってしまうこと)ことで、その役目を果たすことができなくなってしまいます。

この時期の排除勧告(つまり指名停止)は、経済的にも、「公共工事という産業」のイメージの面でも、強烈なマイナスの効果しか生み出しません。

だからといって、特別な「配慮」があることもないでしょうが、行政は、「公共工事の問題」から自分自身を切り離すことなく、単純な「マーケット・ソリューション」以外のモデルとなるような、公共工事のあり方を是非に考え出して欲しいものです。

なぜなら、今、岩見沢が直面している問題は、全国どこでも起こりうる問題だからです。
ここで、横須賀市のようなモデルが、ベスト・ソリューションとなるようでは、この国の行政は機能停止しているに過ぎないことを理解すべきです。

■倫理(共感と使命感)

そこから先はわれわれがどう「動くか?」

この言葉は、桃知さんとお会いして以来ずーっと私たち発注者と言われるものに対して与えていただいてきた問題そのものでした。

一人一台パソコンを早くから導入し、インフラ整備にも極的に取り組んで参りました。いつも利用していただいている我が○○もIT化という取り組みの一環だったわけです。

発注者はITをどう活用するのか、という問いに対し、地方自治法に規定されたもの、従来からあった事務を効率化するための道具であり、ここしばらくもこの方向で行くのではないかと、周りの状況、IT関係の内部会議に出席して素直に感じる感想です。

この県で内部から見れば、県のコア・コンピタンスは何か?
スペシャリスト足りうるのか?などを想定し、将来のあるべき姿を目指した「BPR」に取り組むなんて全くないのです。
書類を少なくしよう!手続きを1/2にしよう!?????
住民の生活をスムーズに進めるため、組織内の決裁権限はどうあるべきか?窓口をシンプルにしよう?将来の県という組織のあり方は?・・・
目の前の事務を片づけるのに精一杯です。

業界の方々がどう動くかと考えるとき、従来の枠組みに囚われることなく、世界観を大きく持った上で悩むべきです。発注者なんて湯飲みのなかだけしか見てませんよ。

井の中の蛙の方がまだましです。湯飲み中のハエの姿しか今は想像できません。

桃論読みながら頭の中をよぎった思いです。

世界観・・・それがミームです。

そして、A木さまよりのメール

店主戯言は、ようやく「倫理」の話になってきましたか〜。わくわく。。
一昨年、参加した某経営コンサルタント研修で下記のことを学びました。
企業倫理について、明大の中村瑞穂教授は8項目に分類しています。
事業関係倫理(産業スパイ、贈収賄など)
消費者関係倫理(製造物責任)
投資家関係倫理(損失補てん)
従業員関係倫理(セクハラなど)
地域社会関係倫理(工場閉鎖)
地球環境関係倫理(環境破壊)
政府関係倫理(脱税)
国際関係倫理(人権抑圧国向け投資など)
ある経営者は「リンリでメシが食えるか!」と叫びますが、倫理の出発点は人間の共同生活を維持するための自発的に守られる規則・ルールです。
個人では容認される行為でも、企業では袋だたきにあうのが昨今の風潮。
経営倫理は「効率性・競争性」と「人間性・社会性」の拡大均衡を図るため、「人間性・社会性」に載せる「重し」「重り」だという説があります。
これを中小建設業がどうそしゃくして、実行していくのかが2003年の課題ではないでしょうか?

はい、私のある部分は、A木さまご指摘の「2003年の課題」に向かって走り出しています。

2002/12/17 (火)  
【人間らしい生活2】

■ゴジラ

昨日は、浅草東宝まで、「http://www.godzilla.co.jp/」を観に行ってまいりました。

両者リングアウト引き分けみたいなストリーで、終盤に向いストーリーはだんだんつまらなくなります。ゴジラの造型は、前回の白目をむいたものよりは良いかなとは思いますが、それだけではゴジラファンは満足はしないでしょう。

この年になってもゴジラを観に行くのは、徹底的な破壊のカタルシスみたいなものを求めてなわけです。子供の頃に観たゴジラは子供たちのアイドルでしたけれども、今は存在意義が違うのです。

しかし、どう考えても8686との同時上映はやめていただきたいなぁ、と思うのです。
8686もつまらないわけで、今回の「つまらない」の相乗効果は、各席の寒さ(浅草東宝ときたら20人も客はいなかったのである)と、作品のできの悪さの相乗効果で私の心は相当に冷え切ってしまったのでした。

■ちょんまげ天国

というなんとも中途半端な気持ちで映画館を出た私は、そのままROXの4Fに向かって、癒し系のCDでも買って帰ろうと・・・

そして買ってきたものが、「ちょんまげ天国」

和む、和む・・・そして、これもミーム・・・(笑)

■浅草桃塾の感想

浅草桃塾のメーリングリストには、受講者の方々から講義の感想をいただいていますが、その感想が、それぞれの方々が自分のビジネスと「私のはなし」を重ね合わせながら考えておられる、という特徴があります。

その理解の程度に差があるのはどうでもいいのです。大切なことは、自分のこと(仕事)を、自らの言葉で語ることを始めている、ということです。

一冊の本の内容を、
その「背景」とか「著者の思い」や「理論的根拠」を著者自身から解説してもらえるという、非常に野心的なものでした。

(ざっくり)

特に最近の桃知さんは「IT化」を「どうやって実践」してゆくかその方法論をかなり具体的に模索されているのだなあ・・・と強く感じましたね。
でも、そこから先はわれわれがどう「動くか?」の世界なのですが・・・・

■そこから先はわれわれがどう「動くか?」

(↑)の発言は、浅草桃塾のメーリングリストに、まにあ1号さまが投稿したものです。

そこから先はわれわれがどう「動くか?」という問いが、最近の私の問題関心事であることは、皆さん周知のことだと思いますが、それについても、浅草桃塾ではちゃんとお話をしているのでした。

そのアプローチが、まず「自分のこと(仕事)を、自らの言葉で語ること」でしかないのではないだろうか、というのが今の私の考え方です。

そして、そこでのキーワードは「つながり」と「くさび」なのです。
つまり「ソーシャル・キャピタル」の存在です。

これは、けっして新しいものの考え方ではなく、旧来の日本の文脈では「しがらみ」というような言葉でいわれていたものです。

この「しがらみ」文化からの脱却こそが、日本の近代化の大きな目的であった時代がありました。都市文化というのは、その「しがらみ」の否定形としての表出のようなものだと、私は理解しております。

確かに「しがらみ」は、組織の腐敗(例えば政治的な腐敗)を生み出すことで、ヒエラルキー・ソリューションの悪い部分を表現する言葉となってしまっていますが、では、なぜそうなのかといえば、それは「倫理観」の欠如、ということになるでしょう。

■「自分は役立っている」

この「倫理観」の欠如という部分をないがしろにしてしまえば、私が釈迦力になってIT化の文脈に乗せようとしているソーシャル・キャピタルもまた、組織の腐敗を否定できるものにはなれないのです。

それは、市民社会との「つながり」を編集できないことで、地場型中小建設業はこの閉塞を打ち破ることは絶対にできないままでしょう。

自らの所属する内集団的組織(会社や行政)の為には、倫理や法に歯向くようなこともしなくてはならない。

そんなことが、一人前の組織人(社会人)の証であるかのように言われる組織行動が、高度経済成長(右肩上がり)という環境での制度・慣行であったとすれば、私たちは、環境変化に対してもっと敏感になってしかるべきであり、そこで制度・慣行を変えていくのは当然のことなのだと思います。

それじゃ「倫理観」というのは何か?といえば、それは「自分の組織」という内集団を超えた、外のコミュニティに対して、自分は役立っている、という実感でしかないと考えるのです。

→あなたは、自ら(の組織)と外の社会との接点(くさび)足りえているのだろうか?

皆さんは、自分の会社以外のところで、「自分は役立っている」という実感を持てますでしょうか?

これを考える最良の方法が、自分のこと(仕事)を、自らの言葉で語ることなのです。
そこで「自分は役立っている」ことをどこまで話せますでしょうか?

これは実際に言葉に出さなくても、まずはよいのです。
大切なことは自分自身のことを考える、ということです。

多分多くの方々は、そこで恐ろしいほどの「つながり」のなさを実感されるはずです。

でも人は変われるものです。
それが相互依存行動と相補均衡の考え方につながります。

■そしてアマルティア・セン

結局、倫理観を考えていると、いつも結局はセンに行き着いてしまいます。

→「共感」と「コミットメント」

佐和隆光がコミットメントに「使命感」という対訳を与えていることの意味を理解していただきたいのでした。

2002/12/16 (月)  
【人間らしい生活?】

■桃論の感想が届く

拝啓
こんにちは、初めてお便りします。
○○と申します。
本日、「桃論」中小建設業IT化サバイバル論を、読み終わりました。
すばらしいです。このようなものの見方があったとは、まさにそうだと思います。(少し難しかったですが)
長野県知事にもこんな考えわかってほしい。
当社では、最近コアコンピダンス経営による経営計画書ができあがりました。来年一月一日より実施します。
コアコンピダンスを追及すればするほど、公共工事がいかに薄情なものか求めがいのないものなのか、ジレンマでしたが、コアコンピダンスそれすら要求していなかったのですね。
厳しいですが、私どもいろいろ学びがんばりたいと思っています。
桃知先生におかれては、お体に気をつけられ頑張ってください。また、よろしくご指導お願いします。  
敬具

意外と「桃論」の感想って私には届かないのですが、この感想を読んで、私はとても嬉しくなりました。

なぜなら、「桃論」をちゃんと読んでくださったからです。
読まないとこの感想はかけません。

読んでいただいたことに深く感謝申し上げます。
ありがとうございます。m(__)m



■浅草三丁目象一町内会もちつき大会

昨日は町内会のもちつき大会でした。お相撲さんも沢山参加しておりまして、子供たちは、お相撲さんと一緒にもちつきができたりします。出来上がったおもちは、皆さんに振舞われまして、下町ならではの賑やかさと和みを感じることができました。こんな浅草もいいでしょう?

しかし、目の前で杵と臼でついたもちを食べたのは何年ぶりだろうかと考えたのですが、多分30数年ぶりでしたね。
■家宝到来

北海道の熊谷さまから、噂のmomoZが届きました。それもケースに入っておりまして、決め細やかなお心遣いに感謝申し上げます。m(__)m

これは「家宝」決定品でございます。(笑)
よく見ると「(社)空知建設業協会」というステッカーがはってあったりしまして、本当に芸が細かい!

熊谷さまありがとうございました。
■新宿駅南口

夜は新宿駅南口へいってまいりました。
恒例の新宿サザンライツでございます。
なにか年毎に寂しくなっていくような気もしますが、それでも沢山の人出でございました。
見るだけなら、ただでございますから、究極のデフレ・イベントでございますね。(笑)

2002/12/15 (日)  
【おだやかできもちのよい日曜の朝】

■浅草桃塾2回目

昨日は浅草桃塾の二回目でございました。

今回の内容は『桃論』の概観を、ひたすら私がはなす、というようなものでしたが、それを私の経験則を基に構成しながら展開させていただきました。

そういう意味では、本書は、個人的な経験の自己解釈とその体系化をおこなったものだということができるでしょう。これに対する批判はいくらでも考えられますが、そもそも、私たちは、日々の経験から多くのことを学習し、その学習の中から人生を送る上での知識や知恵を体得して生活しているものでしかありません。そう考えることができれば、私の経験則は、私だけではなく、この本を読んでくださる皆さんとっても何がしかの参考になれるかもしれないと考えるのです。 『桃論』 p17,18

『桃論』は、私がこう(↑)書いたように、ある意味、とても個人的な私の経験則の記述なのです。

■「ストック=ゼロ」の状態

私は、自分自身のサラリーマン時代を振り返って、それを「失われた20年」と認識しています。それは、自分自身が、既存の社会的なシステムからドロップアウトしたとき、つまり「何者でもない」ところからリスタートしたした時、今という時代に自らの存在を自らが自覚できるような感覚が無いこと、つまり、己のアイデンティティーの無さ、「ストック=ゼロ」の状態を実感したからです。

「ストック=ゼロ」の状態というのはかなり虚脱するものです。
・・・いったい私は今まで何をしていたのだろうか?

 リストラに遭って再就職を求め、職安(ハローワーク)に行って、「あなたはなにができますか」と問われた時、「前の会社では部長でした」などと答える人がよくいるといいます。問われているのは「あなたはなにができますか」であって、「あなたはナニサマでしたか」ではないのです。(※橋本,p36)まさにこの指摘は私のためにあるような状態でした。

 自分が「なにものかである」というところから、「なにものでもない」というところに居場所をずらすと、人間はかなり虚脱するものです。 『桃論』 p38

■コミュニティ・ソリューションとソーシャル・キャピタル

しかし、私は今、こうしてまがなりなりにも生活を維持し、『桃論』という本を出すこともできるようになったのですが、『桃論』に書いてあることとは、「これはなぜなのか?」という、私による私自身の考察なのです。

 インターネットが私に教えてくれたものとは、なにものでもない私(の考え方)への共感という人間の行動の存在です。少なくとも、ホームページを介して私にアプローチしてくださった方々は、私という人間の判断を、資格とか、学歴とか、所属団体というような、既存の権威のようなものを「ものさし」にした方々ではありませんでした。なぜなら、私のホームページには一切そのようなものは記載されていないからです。私のホームページにあるものは、「中小建設業のIT化」に対する誰にも負けない(と私が勝手に思っている)情熱のつまった文字だけなのです。私がホームページだけを媒介とした仕事をしていて、それがなにがしかの仕事を私に運んできてくれるのは、私のホームページにある情熱への共感の結果なのだろうと考えています。 『桃論』 p40

これは「どうしてなんだろう?」と考えること、つまり、自分自身の活動とその結果を常に考えることから、私の中小建設業のIT化論は生まれ、それが『桃論』という形にまでなり得たことを、自分自身で不思議なことだ、といつも思っています。

なにしろ、こういう生き方(私自身の今)は、私が受けた教育の中にはなかったものなのです。ですから、「なぜ?」はいつも自分自身で考えるしかないのです。

その「なぜ?」を考えている思考の中から、私の活動の深層に流れるものが、実は、コミュニティ・ソリューションとソーシャル・キャピタルの考え方にあるのではないのか?というのが、今現在の私が、私自身を考えたときの一応の解答なのです、というのが、昨日の私の話のコア部分でした。

そして、私はこう言ったはずです。

私の技術のミームは、新しい消費のミームを形成できる、ということによってコア・コンピタンス足りえるのです。ですから、私の後を追う方々が出てこられても、私が作り上げた消費のミーム(市場)の中で商売をされることは、なかなか大変なことだと思います。つまり、私の技術のミームが作り上げてきた消費のミーム(市場)で商売をされるということは、常に私の土俵(リング)で戦うことを強いられる、ということだからです。

それは、例えば、リングに上がったボクサーが、いきなり蹴りを入れられるような感覚です。それはボクシングでは反則かもしれませんが、でも私のリングではOKなのです。なぜなら私のリング上のルールは私が作り上げたものだからです。

昨日の浅草桃塾はこのような話が続くのですが、その内容をここで書き続けることは、それは無理というものです。新しい本が1冊書けてしまいますから。

■ということで、参考文献

新版コミュニティ・ソリューション
金子郁容(著)
岩波書店
cover 「わからない」という方法
橋本治(著)
集英社新書
cover
ソーシャル・キャピタル
ウェイン・ベーカー(著)
中島豊(訳)
cover そして・・・

『桃論』
cover

■ついでなので、今週の読書

昨日の私の話の中から、・・・私が失われた20年間で読んだまともな本は、それこそ5.6冊しかありませんでした。20年間でたった5.6冊です。それだけ現状に甘んじているだけで、「なぜ?」を考えることもなく、勉強もしていなかった、ということです。でも、今の私にとって5.6冊の本というのは、1週間の単位で読む本の量でしかありません。

もし、心の奥底に、今の自分自身に対する「なぜ」という気持ちがわいてくるのであれば、そして、自分自身を考えるような思考の基盤とする「考え方」を不幸にして持っておられないならば、まずは「量」を読むことが大切です。「量」を読むことによって、それは単なる点から線へ、そして自らの思考が面として構成されてくることを実感することができるでしょう。

→自分自身のバージョン・アップを通じて、己のアイデンティティを実感する。
→モノの所有が己の自己表現の一部であった時代が終わるとき、己のアイデンティティを実感できる唯一の方法は、己が何らかのバージョン・アップをしているという実感なんだろう・・・

ということで、今週の読書は、佐和隆光の『資本主義はどこへ行く』を取り上げたいと思います。
cover 『資本主義は何処へ行く
佐和隆光(著)
NTT出版 2002年12月4日

私が単純な市場原理主義信奉をやめた大きなきっかけは、佐和隆光の『市場主義の終焉』、.岩波新書なのです。佐和隆光は、今という時代の認識方法としての、工業社会→ポストマテリアリズムという時代推移の考え方を私に教えてくれました。

この『資本主義は何処へ行く』は、かつての私のような、単純な市場原理主義信奉者の方々に是非に読んでいただきたい本です。

己が正しいと信じていたものが否定されることはつらいことですが、そこに己が何らかのバージョン・アップをしているという実感をもてるのであれば、それはきっと幸せなことなのだと思うのです。

追加:

この本に関して大切なことを書くのを忘れていました。
桃論の中で、私はこんなことを言っています。

ここでいう「コミットメント」とはアマルティア・センのいう「コミットメント」なのだが、この理解はとても難しい。センのいう「コミットメント」に関しては『合理的な愚か者』(アマルティア・セン,大庭健ほか訳,勁草書房,1989)を読んでほしい。正直にいえば私も未だにセンのいう「コミットメント」は理解できていない。

今回、佐和はアマルティア・センのいうコミットメントに対して「使命感」という対訳を与えています。

これは私にとっても大変なバージョン・アップなのです。

だからといって、強者にとっては「住みいい社会」なのかと問われれば、私は首を傾けざるを得ない。弱者の悲鳴を耳にして、優勝劣敗は自然の社会と社会の不滅の法則であるとして、平然と構えておられる強者はそうは多くはあるまい、と私は考える。アマルティア・センのいうように、他人への共感(シンパシー)と使命感(コミットメント)が、自己利益の追求に勝るとも劣らぬ、人間の行動規範なのである。いいかえれば、多くの人びとは、経済学の教科書に登場するような「合理的な愚か者」(rational fool)ではないのである。貧困、格差、差別、環境破壊、弱者切り捨てなどを、優勝劣敗の当然の結果だと考える「強者の理論と倫理」の信奉者は、そう多くはいないはずである。p135-136

2002/12/14 (土)  
『桃論』ベストセラープロジェクトはとりあえず終了としましょう】

■本日は浅草桃塾です

今日は午後から浅草桃塾の第二回目を行います。
今日は、『桃論』を最初から最後まで解説いたします。

それで、もう一日年明けに【補習】をすることになりましたが、なかなか日程調整がうまくいきませんでしたが、1月11日(土)に行うことにしました。

場所は六本木です。
この日は桃知会の新年会も兼ねようかと思ったり、いろいろと考えているところでした。

今日の懇親会は、「杉」でうどんすき。
鳥取からの受講生さまに松葉蟹の差し入れをいただいております。

楽しみです。

『桃論』ベストセラープロジェクトはとりあえず終了としましょう

『桃論』が発売されまして早くも1ヶ月が過ぎました。
皆さんの熱いご支援のおかげで、とも大きな成果を達成することができました。

それは、皆さんのご協力のもと進められてきました、『桃論』ベストセラープロジェクトでございます。とても素敵な勲章をいただくことができました。それが、これ(↓)です
八重洲ブックセンター(本店)
●11/24〜11/30
順位 書名 著者 出版社 本体価格 前回
順位
9 『桃論』中小建設業IT化サバイバル論 桃知利男 エクスナレッジ 1,600
http://www.jmam.co.jp/best/best.html#yaesu より)

これは、私にとってはノーベル賞よりも嬉しいものでございます。
(といっても、ノーベル賞なんてもらったことも、もらえるはずもないのですが・・・)

後にも先にも、もうこんなことはないかと思いますが、今回のプロジェクトが有言実行(シュシュトリアン)となれたことには、なによりもご支援いただいております皆様との「つながり」を感じることができ、「なにものでもない」私を、ここまでご支援くださる、人と人との関係の損存在とその深さに、感激いたしております。

有言実行が達成できたのも、皆様のご支援の賜物と感謝申し上げます。m(__)m
『桃論』ベストセラープロジェクトは、とりあえず終了としたいと思いますが、今後はロングセラーを目指したいと思いますので、さらなるご支援をお願い申し上げます。

今後は「amazon」でのランキング向上で楽しみたいと思います。

2002/12/13 (金)  
【続々・雇用の問題】

六本木の打合せを終え、一旦帰宅後、ヨシカミでハヤシライスを食べ、御徒町の吉池に鯨を買いにいって戻ってきました。

こんやはハリハリ鍋です。

■雇用の問題の続き

第一生命経済研究所の試算によれば(10月28日発表)、デフレ下で不良債権処理を加速した場合、2004年度までに4万4000社が倒産、45万人が失業し、国内総生産は6.7兆円減少するといわれています。

この試算は、主要行が抱える破綻(はたん)懸念先以下の不良債権15.4兆円を04年度までに処理することが前提となっていますが、この間に年率1%の物価下落と10%の地価下落が続くとすると、それだけで年間2.9兆円の不良債権が新たに発生することになります。これらの新規発生分を合わせると、04年度までの不良債権の処理額は22.3兆円に膨らみ、8兆円の不良債権が残ることになります。

デフレの背景には16.5兆円の需要不足(GDPギャップ)がありますが、デフレ下での不良債権処理を解決するには、最大で30兆円規模の財政措置が必要だ、とこの試算はいっています。

一方、日経ビジネス11月18日号の「ビジネス世論」によれば、ボーナスの使い道は、預貯金が7割で借金の返済が3割という比率のようです。

その理由、一位、雇用や所得の不安に備える(38%)、二位、老後や退職後の生活に備える(27.5%)、三位、近い将来にまとまった出費の予定がある(20%)、というようなものですが、失業も含めた将来に対する不安が、個人消費を抑えて、それがデフレをスパイラル的に進行させていることが理解できるかと思います。

■不良債権処理は必要だが・・・

私は不良債権処理は絶対に進めるべきだ、という意見です。
これは経営者責任を明確にすることを前提に、公的資金の導入も必要だと考えています。

しかし、それは第一生命の試算を引き合いに出すまでも無く、失業を増やすことになるでしょう。

特に建設産業は、公共投資の減少と民間投資の低迷の影響が非常に効いていますから、不良債権処理に伴う貸し渋りや貸し剥しは、致命傷になると考えています。つまり、今の政府の姿勢が続けば、建設業が雇用の受け皿として機能することはない、と考えています。

しかし、梶原宅岐阜県知事がいうように、地方における公共事業とは、景気の下支えをする、特に雇用不安をなくすという社会的政策な意味が大きいのだと考えます。

特に、地方の経済は今や壊滅的な状況であり、地域経済が自力的に回復基調を取り戻し、雇用の場を生み出すには、規制緩和や市場原理の導入だけでは、何の答えにもなっていないことに、為政者はそろそろ気付かなくてはなりません。

■自治体発注の小口公共工事を沢山出す

私は、金子勝がいうように、公共事業の予算は地域にすべて配分し、自治体発注の小口の公共事業を地場の業者向けに沢山出すような政策が必要だと考えています。そしてこれには、ある意味スタンプ貨幣(有効期限付の地域貨幣のような意味合い)のような役割を持たせることも必要だろうと考えています。

そして、重要なことは、この公共事業が、単に雇用の場を提供するといった、現状を維持するだけの痛み止め(モルヒネ)になってはならない、ということです。

ここでこの公共事業は、地場型中小建設業の質的変化をもたらす為の、積極的な投資の役割を果たさなくてはなりません。

この文脈に、自治体CALS/ECを位置づけるというのが『桃論』の主張なのです。
『桃論』のいうところをもう一度引き合いに出せばこうなります。

例えば、中小建設業が、雇用の最終受け皿となってしまっていることで問題が閉塞しているとすれば、そして、自治体CALS/ECが受発注者双方の情報リテラシイの向上をその目的にできるなら、建設業に従事している方々の情報リテラシイの向上を通した技能向上を通して、雇用の流動化の一端を担うことも決して無駄なことではないでしょう。雇用のミスマッチの解消には、なによりも個々人の能力開発が必要なのです。(ここでいう能力とは、もちろんスキルだけではなく、柔軟な発想力、前向きな姿勢なども含まれます。このような個人の能力開発が進んでいくことにより、単純に雇用されるだけではなく、起業するという動きも活発化してくるでしょう。)またなぜそのような取り組みが「今という時代」に必要なのかを、地域社会に対して自治体と中小建設業が説明責任を負うことも、自治体CALS/ECの目的であるべきだと考えるのです。

これを10年程度のスパンを設けて計画的に進めていく必要があるでしょう。

今の時代に、地場型中小建設業は大切な産業であることは、私が主張しつけていることですが、それを、「だから現状維持でいいのだ」という風に考えてもらっては困るのです。

「公共工事という問題」のひとつは、地方財政の体力的な限界と雇用対策の必要性とのトレード・オフの関係にあります。

しかし、地方において、公共工事に依存する雇用をすぐに劇的に変えることは困難なことでしかありません。建設業に代わる雇用の受け皿となる産業はいまだに存在していないのですし、明るい構造改革がいう「530万人雇用計画」は微塵の姿もみせてはいないのです。

この問題は、地場型中小建設業が自らが変わることでしか解決のつかない問題である、そして変化には時間が必要である、ということを、為政者と建設業界は共に認識し、共にこの問題に取組む。それが自治体CALS/ECの大きな目的であって何が悪いのでしょうか。

■参考文献

失業克服の経済学
橘木俊詔(著)
岩波書店
cover セーフティーネットの政治経済学
金子勝(著)
筑摩書房
cover
長期停滞
金子勝(著)
筑摩書房
cover

■そして、11・18札幌講演の詳細

日成建設さんのサイトに、11・18の札幌での講演の詳細がアップされました。
ご覧くださいませ。

http://nissei-kensetsu.co.jp/cemnar.htm

そして日成建設さまありがとうございます。


【今朝は出勤】

13日の金曜日、今朝は9時から六本木で打ち合わせがありますので、余裕を持って8時頃には家を出る予定です。

この時間に地下鉄に乗るのは何年ぶりだろうか?などと流暢なことを考えておりましたが、朝は気忙しいので、帰ってきたら「続々・雇用の問題」をやる予定でおります。

ではまたお越しくださいませ。m(__)m

2002/12/12 (木)  
【続・雇用の問題】

まにあ3号さまからのメールです。

「雇用の問題」という部分にレスいたします。

先月から読んでいる「道路特定財源」の本で、梶原岐阜県知事の言葉が非常に気になっております。

・・・・ここから・・・
[公共事業の限界]

なぜ公共事業かというと、税金でやらないと何ともならないからです。
そういう公共事業が戦後長い間、景気対策に使われた。これが色々な誤解を生むもとになってます。公共事業と言うのは本来、経済政策ではないんです、景気対策で需要不足の面を公共事業で補う、下支えするというのが限界なんですよ。公共事業で景気が良くなるということはあり得ないんです。

今、学者で、「公共事業をやっても景気が良くならなかったではないか」、「乗数効果が落ちているではないか」という話ばっかりする人がいますね。
そんなことは当たり前で、下支えをする、特に雇用不安をなくすという社会的政策な意味が大きいですよ。

だから、地方によって景気の下支えするための公共事業が必要なところは、産業構造における建設事業のウエートが高いんです。そういうところこそ、景気対策で公共事業によって下支えして、そして失業者の激増を抑えなければならない。そうしないと社会不安になるから。そこまでが公共事業の限界なんです。

(以上、本より抜粋)

この部分を読んで、建設業の存在価値を最近のメディアだけが誇張して伝える部分に公共事業に関わる自らが訴えていかなければならないと感じています。

その反面、実際の仕事場では、「言われたことだけやって、契約した期間を波風立てず存在していれば金がもらえる」的に存在している人間も居るわけで、私が現在携わっている”現場技術業務”という仕事に「講釈ばかりで何も仕事の出来ない中高年の最後の砦」みたいな環境にしたくないと私は常々思う訳です。

それは、私の仕事環境に限らず、みな同じだと思いますが、最近の現場では「土木は経験工学だ!」などとあぐらをかいている中高年管理職に、反旗をひるがえすような若者が現場におりまして見ていて頼もしく思ったりもするわけです。

雇用の問題とは、、「雇用すべき人間の資質」まで考えなければ、私達の環境を救えないのでは?とも考えます。

『桃論』で、私ははこんな風にいっています。

 しかし、「公共工事という問題」は、コスト縮減、品質の向上、透明性の確保、業務の効率化といったCALS効果、つまり「マーケット・ソリューション」だけで解決できるほど単純なものではありません。

 そのひとつが、地方財政の体力的な限界と雇用対策の必要性とのトレード・オフの関係です。地方において、公共工事に依存する雇用をすぐに劇的に変えることは困難なことでしかありません。建設業に代わる雇用の受け皿となる産業はいまだに存在していないのですし、明るい構造改革がいう「530万人雇用計画」(※ 島田晴雄,『明るい構造改革』,日本経済新聞社,2001 )は微塵の姿もみせてはいないのです。この問題を、特に都市部の方々には、なかなか理解していただけないところに「公共工事という問題」が閉塞している大きな原因があります。

 これは「雇用の流動化」という問題ですが、この問題の解決は言葉でいうほど簡単なものではありません。例えば、建設業の雇用はそれこそ全国に分布していますが、新しい雇用を生み出すといわれるサービス業やベンチャー産業は都市部に集まってしまっています。つまり、地理的な制約からも流動化にはそもそも限界がありますし、全く異なる産業・職業分野での流動化は、雇用のミスマッチ問題を浮きださせているだけです。ここでは一例として広島県がおこなった地域雇用ニーズ調査におけるIT能力のミスマッチを提示しておきましょう。(※「表」参照)そもそも雇用の流動化は個々人の持つスキルの変化であることで、徐々にしか起こらないのです。このような状況下で公共工事が建設業の雇用を支えることは決して間違った政策ではありません。

 しかし、公共工事が建設業の雇用を支えることで、雇用の流動化を阻害しているとすれば、そして地方財政の体力的な限界と雇用対策の必要性とのジレンマを生み出しているとすれば、さらには、このような公共工事が利権政治の温床になっているとの批判を受けているとすれば、これらの「公共工事という問題」に対して、自治体と中小建設業が、お互いに「公共工事という産業」の立場でIT化を通してできることを考えることを、「戦略」として自治体CALS/ECの文脈に組み込むことで、はじめて自治体CALS/ECが生きた政策となると考えるのです。

 本書はその具体策をここで示すものではありませんが、例えば、中小建設業が、雇用の最終受け皿となってしまっていることで問題が閉塞しているとすれば、そして、自治体CALS/ECが受発注者双方の情報リテラシイの向上をその目的にできるなら、建設業に従事している方々の情報リテラシイの向上を通した技能向上を通して、雇用の流動化の一端を担うことも決して無駄なことではないでしょう。雇用のミスマッチの解消には、なによりも個々人の能力開発が必要なのです。(ここでいう能力とは、もちろんスキルだけではなく、柔軟な発想力、前向きな姿勢なども含まれます。このような個人の能力開発が進んでいくことにより、単純に雇用されるだけではなく、起業するという動きも活発化してくるでしょう。)またなぜそのような取り組みが「今という時代」に必要なのかを、地域社会に対して自治体と中小建設業が説明責任を負うことも、自治体CALS/ECの目的であるべきだと考えるのです。

『桃論』は、雇用の問題に関してはこの程度しか触れることができなかった、というもどかしさがありますが、この短い文章に、私の「公共事業という問題」に対するIT化アプローチの雇用の問題に対する考え方は収斂されています。

私は地場型中小建設業が従事する公共事業の目的を「地場経済の活性化と雇用の確保」にあると言い切っています。地場型中小建設業とその地場型中小建設業が従事する公共事業の問題を議論する出発点は、この目的をきちんと認識することからしか始まらないと考えています。

昨今の国交省の言い方でおかしいと思うのは、景気対策や雇用確保の公共事業という目的には触れずに、社会資本整備という狭い視点に公共事業の議論を転化しようとしていることです。

地場型中小建設業が従事する公共事業の目的は、社会資本整備はありません。たとえそうであったとしてもそれは二義的な問題でしかありません。

その議論がないがしろにされてしまうから、「脱ダム」や横須賀市方式の入札のような、レッセ・フェール(自由放任)を前提とする急進的な政策がまかり通ってしまっているのだと思います。

問題は「地場経済の活性化と雇用の確保」という目的から公共事業をどうするのか、なのです。

そして、それは、単純に目的を変えることで「答え」が生まれるものではない問題であることを、議論の前提として理解すべきなのです。

この事実を広く市民社会に言えない行政は、責任逃れをしているとしか私には思えません。

業界側からの情報発信(それさえもほとんどされていないが・・・)にはおのずと限界があることを、発注者は理解しなくてはなりません。

逃げるな発注者!なのであります。



【復活】

■とりあえず復活でございます

ご心配のメールをいただいた皆様、ありがとうございます。

ちょっと復活したものですから、浅草寺付近を散策して参りましたが、羽子板市の準備が着々と進んでおりまして、年の瀬を感じさせてくれるのでした。

■ボブルビーのヒップバック

CWJの高橋さまから、出版記念のお祝いとして、ボブルビーのヒップバックが届いておりました。ありがとうございます。m(__)m 非常に嬉しいです。

私は、ボブルビーのバックの愛好者で、パソコンを持って移動するときには、二台あるボブルビーのどちらかを使うことが多いのです。

私を目にしたことのある皆さんの中には、私がへんてこりんなバックを背負っているのを目撃している方々も多いかと思いますが、あれがボブルビーのバックです。

今回いただいたものは、ヒップバックで、まだ製品としてはラインナップされていないようですが、早速身に着けてみたところ、なかなか調子がよいのでした。

早速、明日から使わせていただこうと思います。
中身は、もちろんジョルナダですね。



【宇都宮から戻る】

体調不良でございます。(T_T)
なので今日は休日扱いでございます。

夜にでも更新できるかも・・・しれません。

2002/12/11 (水)  
【気合を入れて・・・】

■改ページ

12月は画像を多用したせいか、文字を書くのも重くなってしまいましたので改ページいたしました。

■体調不良?

昨日は津から帰宅後ダウンしてしまいました。
帰りの近鉄でも新幹線でも「におい」がだめの状態が続いていて、特にタバコのにおいを体が受け付けないような状態になっていたのですが(私はヘビースモーカーです)、晩御飯を食べたら突然気分が悪くなってしまったので早々に眠ってしまいました。

今朝は無事に目覚めておりますが(笑)、今年も残りわずか・・・年内、体が持つのか、というような状況でございます。

■雇用の問題

ところで、最近の私の関心事は「雇用の問題」です。

私は公共事業の問題のいくつく先の一つは、雇用つまり失業の問題だと認識しています。

労働が市場化されている社会では、失業というのは、社会全体を支えているシステムの機能不全を生み出すだけでしかありません。

今後建設産業からの離職者(その多くは失業ということになるかと思いますが)が増えるのは当然に予想されるところですが、その問題に対する解答がないのが、今と言う時代がかもし出しているなんだかよくわからない不安の根源にあります。

これは政策でしか対応できない、というのが私の立場で、市場に任せただけでは雇用は生まれません。

この問題は「桃論」でさわりだけ触れていますが、中小建設業や公共事業のIT化が、この雇用の問題の解決策のひとつになれるような方策を考えている状況です。

というようなメールをお送りした、スーさま@Fe1号からの返信です。

如何なる狙いで「どんな社会にしたいのか」を示している
  議員さんは少ないですから。 高齢者ににわか仕込みの
  iT技法を教えたとてワープロソフトが使えてもそれだけ。
  積み重ねた「人生経験」と重ねて使いこなせる方は・・
  限られますよね。

 ・それより不安は・・・ 若年層フリーター。
  これといったスキルを獲得していけないとしたら、10〜
  20年後には、みんな生活保護されるようになるのでわ??
  少子高齢化に加えて税金払いができない層が増えるのだと
  したら・・ 日本沈没。
  優秀な方々が海外流出する事態もさることながら、それより
  人数が多い層の不労・浮浪?が引き起こす事態が気がかりです。

このあたりの議論は、先にも紹介していた玄田有史の『仕事のなかの曖昧な不安』がとても優れた考察をしていると思いますので、皆さんにも一読をおすすめいたしたいと思います。

玄田は、スーさまの指摘にもある若年層の失業の問題を取り上げていますが、それが若年層の仕事に対する意識的な変化というようりは、この雇用のない時代に中高年の既得権としての雇用を守るがための結果であることをデータを駆使して見事に指摘しています。

→パラサイト・シングルは、そのような親の既得権にパラサイトしている。

若年層のフリーターと呼ばれる方々が継続的な雇用を望まないのかといえば、そうではないということです。

自らの仕事を通して、自らの自己実現を図れる企業組織が望ましい企業であることは、多くの人間関係論者の指摘してきたことですが、それが企業というよりは、社会的な障害によって阻害されているとすれば、この国の企業多くは、なすすべもないのが実情なのかもしれません。

今の日本が抱える問題の一面は、「所得格差」ではなく、「仕事格差」にあることは間違いの無いところでしょう。格差を是認する立場の方々には、それはたいした問題ではないのかもしれませんが、『桃論』はそのような格差を是認する立場にはいない、ということで、そして多くの地場型中小建設業が、雇用の受け皿としての機能を剥奪されている現状にあることで、私の今の関心は「雇用の問題」となっているようです。

『桃論』

さて、『桃論』ですが、先週の北海道遠征では合計281冊の受注をいただきましたので、早速八重洲ブックセンターに発注をしておりましたところ、月曜日に今のところ265冊しか準備できない旨の電話がありました。

取り急ぎ、250冊分については発送のお願いをしましたが、『桃論』はやっぱり品不足のようでございます。一方amazonでは、2,3日中の発送可能状態となりました。先週はお取り寄せ状態でしたから、状況はやや改善されてきているようです。

■そして『桃論』は難しい・・・

一昨日の「津」にての懇談にて、『桃論』は難しい本ですね、という感想をいただきましたが、それは「答え」が書いてないからだと、著者としての私は思うのです。(笑)

『桃論』は、公共事業という問題に立ち向かうときの「心構え」を書いた本かもしれません。
そのように読んでいただくことで、決してあきらめることなく、自らの職業を自らの言葉で語りながら、私と一緒に、地を這うように戦っていただける方々が増えていくことを望んでおります。

■今日は鹿沼へ

本日は、浅草 10:10 東武急行南会津 273号 新鹿沼 11:42で鹿沼へ参りまして、鹿沼市民情報センターマルチメディアホールにて講演を行い、夜は宇都宮に宿を取ります。

いつも御贔屓いただいております栃木建協青経連の皆様と楽しく過ごして参りたいと思いますが、問題は体が持つのか?でございますね。


momo
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