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店主戯言040201 2004/02/1〜2004/02/15 "There goes talkin' MOMO"


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2004/02/15 (日)  ▲
【日曜日】

昨日のANA便での帰り、バレンタインデーということで、なぜかチョコレートのサービスがあった。

今朝は早朝より確定申告の準備中。
お昼過ぎに税理士先生に提出する資料のまとめぐらいは出来上がる。

わたしは多分、商業簿記の何級だかには合格してはいるのだが、その後の現実の重みのない生活が長すぎて、ほとんど有名無実な状況であるからして、自分で確定申告する能力もなければ、そんな時間もないので、税理士先生依存状態なのである。

まあ、なんともな季節ではあるが、個人事業主がこの国で商売をしている限り、ショバ代は払わなくてはならないのだ。


さて、熊本の緒方さまより。

Y=aX が個人の能力をあらわすのであれば、これがどのように世間に影響するのか?

この人が残したものは、結果的に Y=b ならば、次の人は、Y=bからスタートする。

引き継いだ瞬間から Y=aX+b で動き出すはずであるが、これは変化する。

Y'=a'Y=a'・aX
A=a'・aとすると
Y'=AX+b

能力は、世間のフィルターという解釈が入ってしまうのである。

このa'がひじょうに曲者と考えます。

このa'、一体何なのでしょうか。
歴史が証明するだけです。

a>0と解釈しますが、Aは負の値にもなります。

また不思議ですね。
考えれば考えるほどわからない。

師匠の考えを聞きたいですね。

それでは、股

>結果的に Y=b ならば、次の人は、Y=bからスタートする。

係数aは個人の特性であり、Y=bからスタートすることはない、というのがわたしの立場なのであるなぁ。

係数aは、あくまでも個人の特性であり、全てはゼロからスタートすると考えた方が良い。

生まれながら・・・というのもあながち否定はできないと考えてはいるが、それをいうと「お前は還元論者か」と言われるだろうな。

まあ、半分はそうなのだけれども、後半分にわたしはかけているのだ。
馬鹿は死ななきゃ直らないかもしれないが、直る部分もあるだろうと。

それが係数aだと思ってもらえばよいだろう。

仮に、Y=bからスタートできるのであれば、我われは遺伝子的に何か知識とか知恵とかを遺伝していることになるだろうが、それはありえない、というのがミーム論者なわけだ。(ただ遺伝子的な特性はないとはいわないが、ここでは触れない。)

bというのは、個人が生まれながらに持っている特性じゃなくて、むしろ、無意識、若しくは意識的に取得したミームのことだろう。

無意識若しくは意識的にという注意書きが入るのは、このbは、環境であり、世界イメージであり、文化といえるような、比較的模倣容易なミーム(Mb)と、学術的な研究のような比較的模倣が難しいミーム(Mb')があると考えてよいからだ。

つまり、その複製の容易さ程度で大雑把に二つのbがある。

係数aは、個人に宿るミーム(つまり後天的に取得したもの)でしかないが、Mb(複製容易なミーム)は、我々が生活している世界では環境として存在するものだと考えてよいだろう。

つまり、緒方さんのいうのは、このMbである。

これは、時系列的に醸成されてきたミーム(文化:技術や消費のミームを含む)であって、たしかに、係数aが進化するバイアス(偏りへの力)として機能するだろうし、個人の係数aは、相互作用を通じて、世間というミーム(Mb)へ影響を与えることにもなる。(これはミーム論の基本理解である)

しかし、Mb'(複製困難)はそうはいかない。
これは例えばわたしにとってのダーウィニズムである、反古典の政治経済学である。

ダーウィンが残したMb'も村上泰亮の残したMb'も我われの無意識のうちには存在しえないものである。

それどころか、わたしはダーウィン(とその継承者)も村上泰亮(とその継承者)も踏み台にするどころか、追いつける見通しさえないでいる。

しかし、理解し、踏み台にしている方々もおられるだろう。
(例えば、ダーウィニズムにおけるR・ドーキンスの存在)

つまり、係数aは、あくまでも個人の特性なのである。
全ては原則ゼロからスタートすると考えた方が良いだろう。
(しかし、繰り返すが、還元論者はそうは言わないだろう)

はなしをMbつまり、模倣容易な環境的存在のミーム(つまり文化だ)に絞れば、、確かに環境は、個々人の係数a形成へのパラメータとして機能はするだろうし、それは一方的環境ではなく、双方向の環境として存在するだろう。

ただ、私たちはこれを難しく考える必要はなく、自分自身の世界イメージの形成において、それが環境との相互作用でつくられることを、解釈学的に理解できていれば良いだけなのだと思う。

ここで解釈学的にと断りをいれたのは、それは「正解の思い込み」ではない、ということである。

それが村上泰亮のいう世界イメージであり文化子なのだ。

つまり、わたしがそう解釈できなかったら、そうではない、ということである。
その解釈する力が係数aである。

そして、これはあくまでも個人の特性なのである。

2004/02/14 (土)  
【時間軸という戦略基準】

桃知@岩見沢であり、午前4時30分に目覚める。
今日は浅草に帰る。
午後からお客様がおいでになる予定。


鱸さまより。

鱸#まだ勤務先/来週の英語プレゼンの準備で辛苦!!なので、またしても「現実逃避」行動に入ります。

> このコラムの内容は、わたしが新春講演会でやったものと> 見事にシンクロする。> (聞いていない人には申し訳ないが・・・わかんないだろうな。)>

 お気を悪くしないように!! 聞いていた方々でも「わかんない」と思った方が多いはずです。  =わかったようなフリは出来ても・・・・ > (怒)小生!

 やはり、「価値観、育ち、その他モロモロ」が、みなさま異なり ますから、上手な言い換え(通じる話)を企まないといけないと 思ってます。(そこまで、日本語でいう「サービス」をするか 否か、 ここも話者の価値判断なのだと思っております。)  =ズーニーさんではありませんが、英語の「 agree to disagree 」   (小生、海外プラント工事出稼ぎ時代に泣きました!!)

 話がそれていきますが・・・ 「わからないもの」の一局面。

 「不同意であることに同意する」( agree to disagree )
  =ナルホド! ここまでは、貴君と小生は同じ意見(利益の合致?)   
でも、こっからは意見が異なってきますねぇ。 で・・・

 その違いが歴史なのか、哲学なのか、立場なのか、利益なのか・・
  = Stakeholders ;利害関係者と翻訳されますが、もっと深い意味を奴らは話してます(話してると感じてました)。

 で、感情的もつれに発展すると「あいつは俺が嫌いだから反対なんだ」 ってなことになりかねない。 最悪、戦争に至るかもしれません。

 同じ「単語」でさえ、各自の解釈は違って不思議はありません。
 =別の出稼ぎ時代に美国国防省の担当官から直接聞きました。
 「棒陰具」社では、海・空・陸・海兵からの「飛行機」注文をうけるのですが、各々と「言葉の定義・解釈」から見直したそうです。

 それぞれの方面ごとに「方言」を持ってますが、棒陰具の窓口が「ある担当者一人」だと「馴染んだ解釈」を頭に浮かべ、結局は要求仕様と違ったモノをつくりこみにいく・・  

 こんな失敗があったそうです。(某十両先頭獏劇機)

 結論は・・ 無し!でっす。 でわ、股!


「通ずるはなし」というのを自分で解釈しようとするとき、わたしはそこに時間軸をおいている。

それは、「今」なのか、「近々」なのか、「そのうち」なのか、「やがて」なのか、である。(これは思いつきで書いている。ので、もっと適切な表現があるかとも思う。)

新春講演会の時間軸は「今」と「そのうち」の混在なのである。

多くのビジネスマンは、「今」か、せいぜい「近々」の視野の中でpresentationを繰り返しているだけだろう。
それもなぜ今これをしているのか、も理解できずに・・・。

しかし、普段のわたしの仕事の時間軸はもっと長いのである。
それも今なにをしているのか、だけは理解できている。

つまり、「今」なにかに気づいてもらう(それは「今」わかることではない)、気づくことで考えていただく、考えていただくことでようやく「通ずるはなし」となっていくことを想定している。

その想定する時間は、わたしが理解にいたった時間とイコールなので、はじめての場合は、かなり長い時間軸を想定しなくてはならないし、わたしは、いまだに「わからない」ことの方が多いのだから・・・。

そのような時間軸に対する視点をもちながら、わたしの言動は行われているのだ、と理解していただければと思う。

それは何ゆえになのか、といえば、かなり簡単なはなしで、わたしの商品とは姿かたちのないミームだからであり、このミームは人が動くことで(表現型として確認できることで)初めて伝播が確認できるものだからである。


つまり、わたしの技術のミームは、消費のミームの要求に対応してしている、というよりは、それとの積極的な相互作用の繰り返しの中で、より積極的に消費のミームを作り出そうとしているのであり、その成果は消費のミームの表現型にしか確認できない、ということである。

つまり、「今」よりも「そのうち」なのであり、「やがて」なのである。
ここにわたしのビジネスがある。

この考え方を理解していただいてくれる方々が、わたしの生活を支えてくれているのだと理解している。

このヒントは村上泰亮に教わったことなのだが・・・。


「通ずるはなし」には、時間軸を設けることが必要だろう。
それは己の技術のミームの特性(商品特性)と市場のミームとの相互作用の予定時間を予想する、ということでもある。

それがなければ、己のとる戦略などありはしないのだろうと思う。


今までのはなしにピンとこないかたもおられるだろうが、少なくとも、わたしには約6年という時間軸の中で醸成してきた消費のミームがあることを理解していただければ、と思う。

わたしは常に自分自身で実証実験をしている。
直ぐに効く特効薬はなく、常になんだかわからなくて考え、仮説を持ち、それを実証しようとして行動している。

これが「地を這う」やり方なのだ。
そしてそれ(わたしの生き様)が説得力(ミーム力)なのだと思う。


平和建設の長谷川さまより。

24日、空知での山岸先生の講演とパネルディスカション、素晴しいですね。
みんな動いている、もの凄い勢いで・・・なんだかとても感動してしまいます。

今、私は動けないけれども、本だけは寝る間を惜しんで読み込んでいます。
小さい時から読書は好きな私でしたが、昨年から読み始めた本(店主戯言で紹介された本とそれに関係する本)の数は今までの年間の読書量では最多量?です。

一冊が難しいから読みきれないので、それに関係する本を次々と買ってしまうから忽ち本の数が増えてしまうのです。
つんどく状態の本も結構な数であるし、そしてメモカードも多数なのです。

さらに会社にも念願の読書コーナーを作りました。
そこに、昨年から私が読んだ本を全部並べてしまいました。(笑
社員や出入りの方々にも自由に読んでもらえればいいなぁと願っているのです。
ミニ図書館は「平和文庫」と名づけました。
平和文庫にはもちろん桃論、桃論の背景、他店主戯言で紹介された本が並んでいます。
置く本は私が選択しています。
小説類は置かない方針です、私は小説が大好きなのですが。

昨年からの私は先生が店主戯言で紹介された本を買って読んでいます。
当然として平和文庫は桃知ィズムで溢れているのであります。
社員が一人でも多く桃知マインドに触れることがうちのIT化への推進エンジンです。
だから、平和文庫には密かな期待もしてしまっているのです。
これからも先生がご紹介する本はすべて私が買って読んだら平和文庫に寄贈します。
昨日、棚に置かれているファイルを見たら、何人かが本を持ち帰っていました。
あっ、貸し出し?動いている・・・嬉しかった、これはとっても嬉しかったですね。

なんだか仕事の楽しみがひとつ増えたようで平和文庫を作ってからご機嫌な私です。

知価社会、みんな本を読もう!ラーニングゴールを発見しよう!!
今という時代に、やりたいことを実践してみたいと思うのです。

この平和文庫も、昨日の岩見沢建協のイントラネットも、24日の山岸俊男教授の講演も、今の時点での消費のミームの表現型なのである。

それはゴールではなく、長い時間軸の一時点の断面である。

たとえば、こうして平和建設さんで、「本」を読んでくれる方が増えてくれることは、わたしの時間軸では「そのうち」か「やがて」の可能性を高めていることを意味している。

それがどのような形で現れるのかは、わたしの想像をはるかに超えることになるだろう。
平和建設、楽しみな存在なのである。

2004/02/13 (金)  
【経済と心の行く末は、仮想の他者を信頼できるか否かにかかっている】

13日の金曜日、ジェイソン・・・?

とても沢山のことが同時進行的に推移している今日この頃、本日は岩見沢建協さまのイントラネットのスタートアップである。

昨晩、まにあ・1号さまの運転で岩見沢入りしたのだが、さすがの豪雪地帯、積雪は相当なものである。


今は雪が止んでいるのだが、朝食をとっているホテル1階のガラス窓から、除雪作業の様子がよく見える。

働く重機、働くおじさん、こんにちは、である。


さて、スーさん・1号@Fe関係(面倒なので、通り名の鱸さん、と書く)から、このところ興味深い新聞記事がドキュワークスファイルで送られてきていて、わたしも非常に楽しく拝見させていたいている。

鱸さんは自分の興味の対象をファイリングされているわけで、今回いただいた2通はどちらも朝日新聞の夕刊に掲載されている「ヒト科学」のもの。

わたしはまったくその存在さえしらなかったので、非常に感謝している。


最初にいただいたのは、2月9日付けのもので、カルフォルニア工科大の下條信輔教授による「利己と利他」と題されたコラムである。

本当はその内容をここに掲示すればよいのだろうが、それは著作権の問題で反則行為だろうから、本当に最初と最後の一文を。
(ドキュワークスのOCR機能大活躍 (笑) )

経済が発展すると人々はせちがらく、利己的になるものだろうか。経済市場の進化と人の心は、どう繋がっているのだろう。

実験文化人類学者エンスミンガーらの国際プロジェクトで、利他行動、つまり自分を犠牲にしてでも他人に利する行動が、経済活動と関係することが示された。


ここで利他といっているのは無制限の自己犠牲とは違い、他人を信頼することで自分もより良く生きようという、平凡だが健康な発想だ。

これはドーキンスの有名な「利己的遺伝子」説とも矛盾しない。この説が受け入れられた理由は、逆説的だが、動物の「利他行動」をもうまく説明するからだ。

利他行動は生物行動学上の大間題で、全体主義的に説明されることもあった。「たとえ自分を犠牲にしても、種全体が保存され繁栄すればいい」というように。

しかしドーキンスらによれば、動物の利他行動は相手との血縁関係によって偏りがあり、煎じ詰めれば自分の遺伝子を少しでも多く複製し、次世代に残す目的に寄与しているという。

利己的遺伝子説もまた、特殊な場合を除き利他と利己は矛盾しないと言っている訳だ。

こどもや所属集団のために自分が多少我慢することはヒト社会でも普遍的に見られるし、協力を高く評価する本能的性向はヒトという種で特にはっきりしている。

訴訟社会、権利主張社会といわれるように、現代の表層では利己主義が幅をきかせている。

しかし深層では他者への信頼を糧に、マネー社会が成熟すると見ていいのだ。

ただインターネット上の株取引やオークションに見られるように、ITとグローバリゼーションが「他者」をますます間接的、仮想的なものにする。

直接会っているときに働いた身体的で暗黙的な信頼が、うまく作動しない場面もあるだろう。

汚職やインサイダー取引、そしてテロのような内在的矛盾を、先進社会は乗り越えてゆけるだろうか。

経済と心の行く末は、仮想の他者を信頼できるか否かにかかっている。

このコラムの内容は、わたしが新春講演会でやったものと見事にシンクロする。
(聞いていない人には申し訳ないが・・・わかんないだろうな。)

「仮想の他者を信頼できるか否か」とは、山岸俊男のいう「信頼」なのだ。

そしてインターネットとは、いまそこにある、社会的に不安定で機会コストの高い社会なのである。(この意味もわかんねーんだろうなぁ)

と、今日はここまで。

2004/02/12 (木)  
【解釈学的な】

飯田で行っていたServerの移転作業もなんとかうまくいったようで、今朝はDNSが浸透しているのが確認できた。(まだメールは不安定だが・・・)

DNSというのは非常に面白い仕組みで動いていて、その情報の伝播は、まるでデジタルなミームそのものである。

現時点でミームはまだアナログ情報として存在しているのだが、それがデジタルになったとき、たぶんこんな風に伝播していくのだろうなぁ、とDNS(インターネット)を考える度に思うのだ。


さて、本日は、夕方に北海道入りの予定で、それまでの時間は20日〆切の原稿の書きはじめを予定している。

凡その構想はできているのだが、書き物というのは、書き始めがなかなか大変であって、これがななかなか手がつかないものなのだ。

なんとか今日中に始めないと、スケジュールが詰まっており、20日の脱稿は危うい。(笑)


桃知さん、伊藤です。突然、お邪魔します。

ヤッシー氏の講演を聞いてきました。ホムペにも書きましたが、わけがわかりませんでした。私には、桃知さんの「一般的信頼」だの「マリアビリティ」だの「ミーム」だの「コミュニティソリューション」だの「第二種情報的相互作用」たちのほうが、難解なはずなのに、すーっと入ってきます。

ヤッシー氏の言葉は流暢で、それこそ流れるように、ハキハキと話をしていました。ただ、なにか断片的で、断片と断片をつなごうと努力しましたが、私のようなキャパの低い人間には、できませんでした。

ただ、大衆迎合的な感じがしました。私も、大衆なので、官僚、行政、長野県職員のこき下ろし方は、「パチパチ」ものでした。でも、やはり違う、あれではない、今の私は、そう思いました。


2/24行けるものなら、貯金下ろしてでも行きたいのですが、今回は、行けません。残念(-_-;)
では、お元気で。ご自愛ください。

伊藤さま、ありがとう。

長野県知事の言動は、薄っぺらい、というか軽薄というか、わたしにはそういう風にしか思えないことが多くて、それはたとえば、村上泰亮の言葉を借りるならば、「解釈学的な」レベルが低次なのだろう、と思う。

ここで村上のいう「解釈学的な」という言葉を持ち出してしまったが、それはおおよそ以下のようなことである。

『わたしたちの営為とは、必然的に「解釈学的」な−つまり自分自身を取り巻く現実を不断に解釈することによって、より高次のレベルから自分自身を見ようとする−ものになる』

『それはまた、われわれ−日本人同士および日本人以外の国民−が、ともにそれぞれの持つ現実の解釈を突き合わせて、相互に理解する作業である』

この己の行っている「現実の解釈」に対する自己認識が足りないと、その多くは独善的にならざるを得ない。

つまり養老猛司氏のいう「現実の重み」 脳内の一次方程式 Y=aX の係数aが足りない状態である。

政治家、特に一国のトップがこれに陥る状況を「独裁」と呼んでいいと思うのだが、多分今の彼には、「はなせばわかる」は通じない。

多分「はなしてもわからないだろう」。
彼は「わからないことがわからないのである」

それがなぜかを説明する必要もないだろうが、そもそも Y=aX の係数aが足りない状態だからである。

それは己の「解釈学的な」態度に対する真摯な姿勢が不足しているからに他ならないのだが、それはなぜかというと、それを感じる能力 係数a がない・・・というトートロジー状態に陥る。

つまり、「はなしてもわからない」状況なのだ。


さて、まだまだ紹介したいメールは届いているのだが、それは明日以降ということにしよう。

なにしろ今日は、原稿書き始め!なのである。

では、股。(^^ゞ

2004/02/11 (水)  
【脳味噌が鼻からたれている】

やたらとウイルス付きのメールが届く今日この頃、わたしといえば、ずっとひとつのことに熱中していて思考能力はゼロ。

脳味噌が鼻からたれているような状況なわけで、今は外で一杯やって帰ってきたところ。

なにか考えろといわれても無理。
だめ。
不可能。

なので、
きょうは、
お休み、えぶりばでぃ・・・(笑)。

2004/02/10 (火)  
【@飯田】

桃知@まだ飯田である。
妙烈(こんなことばはない)に忙しいので、大盛さんからのメールを読んでいてくれ。(大盛さんありがとう)

毎朝,寒いですねぇ。
まいどまいどの 大盛 です。

桃知さん!元気・・・・・・・・ですよね。。。
________________________________

「へん」な人間 について

2004/02/06 (金)  【フツ〜に感じる能力】を読んで思うこと,メールさせて頂きます。

>だからこそ信頼が必要だとフツ〜に感じているのだ。
この言葉のみについて考えていました。

桃知さんに教えて頂いた  「わからない」という方法 橋本 治 (著)  を読んで学んだことなのですが,「へん」と「へんでない」という話を,会社内の信頼というものにあてはめてみます。

会社組織という枠の中で生きていればその人は「へんでない」人間になります。この「へんでない」者同士は信頼関係というものが強く構築されています。

一方,会社の枠から少しでもズレている人間がいると,「へんでない」人間から見れば,そういった人間は「へん」になり,いくらずば抜けた能力や人間性があっても信頼がなかなか得られません。

仕事でドジを踏んでも,「へんでない」者同士なら信頼回復は容易いものです。その反面「へん」な者は,信頼回復は非常に困難なことであり,「こいつはダメだ!」というレッテルが貼られます。 このレッテルがまた,なかなか剥がれないんですわ・・・・。
 
しかしですね・・・・
大盛が自ら進んでここでいう「へん」になろうとしているわけではないのですが,そこは強化された「天の邪鬼的発想」の大盛です,「へんでない」というグループにいてたら,太田ジオの太田社長の言う「大丈夫だバイアス」と同じで,少々の危険も危険に感じなくなるんだ!と考えています。

「へんでない」方々から言わせると,この考え自体が「へん」であって,やはり,人間的に信頼が弱い・・・・「こいつはダメだ」というレッテルを貼られるどころか,焼き印まで押される。となります。

信頼というのは必要だと,大盛自身も痛感しております。
仕事をキッチリするから信頼がおける。 彼ならこの調査を任せられる。 という信頼を得ようと自分なりに試行錯誤しているのですが,会社から「へん」のレッテルを貼られると,やっぱ,信頼を得ることが思わぬ所で難しくなっています。

でも,会社という枠の中ではなく,これが社会(業界)となると,ホンマに恐い話ですよね。 この先どうなることやら・・・

では,失礼します。

少しだけ補足。

『会社組織という枠の中で生きていればその人は「へんでない」人間になります。この「へんでない」者同士は信頼関係というものが強く構築されています。』

ここで大盛さんがいわれている「信頼関係」とは、「信頼」ではなくて、「安心」なのだ、ということだね。

じゃ。

2004/02/09 (月)  
【わたしがマニュアル化を嫌う理由】

桃知@飯田である。
午前3時に目が覚めてしまった。

昨日、茅野駅で借りたレンタカーを操り、一台の車を抜くこともなく、ただひたすら全ての車に追い抜かれ、夜の中央道をよたよたと走って飯田に着いた。

わたしはゴールド免許の保持者であるが、なぜそうなのかといえば、運転しないからなのである。なにせ車も持ってない。(笑)

こんなやつにゴールド免許なんか持たしていいのだろうか。
わたしはある意味走る凶器のようなものである。

ただ、わたしはそれを自覚しているので、法定速度を守りながら無理せず運転しているわけだけれども。

この運転免許に限らず、わたしがかつて取得してきた資格は、今のわたしの生活にはほとんど不要なものとなってしまった。

梅棹先生が、国家資格というのは、国が認めた情報を扱う資格だといっておられたけれども、今や日本国非公認の情報を扱うわたしには、その文脈はいらないようである。

わたしは情報を扱っている。
しかし、その情報は、まだわたしのものだ、ということだろうか。
そもそも国家の興味の対象にもないか・・・(笑)。


さて、唐突に、村上泰亮曰く、である。

『…技術革新は、ノウハウの考案、企業メンバーによる学習、組織の改変などを必然的に伴うが、それらは人間(経営者から末端の作業者までのすべての階層の企業メンバー)の中に、いわゆる、「人的資本 human capital」として体化され(蓄積され保持され)なければならないだろう。』

『それらの技術的知識の或る部分をマニュアル化することは可能だが、マニュアルが完成するためには知識体系の完成を必要とする。常時進行する技術変化の下では、常に書き改めなければならないマニュアルよりも、ある程度の一般的知識水準の下で試行錯誤の自由が与えられながら変化に機敏に対応する人材の存在が有効だろう。こうして人材雇用の長期化という課題が生じる。』

『ただし、人材雇用の長期化については、次のような点に注意しておく必要がある。人間がマニュアルに勝る理由は、変化への機敏な対応能力という点にある。』

『適応能力を高めるためのの投資は、日本で最も巧みに利用されてたOJT(on-the job training)、ヨーロッパで比較的愛用されている off-the job型の訓練制度、アメリカで顕著な、外部からの人材雇用(引き抜きのための高給料や引き抜き後の調整コストなどは一種の投資である)など種々の形を取りうるが、それらの間には一長一短がある。』

『これらの三つの方法は、先に挙げたものほど現場の状況に縛られていて企業固有性(firm-specificity)が強く、一般性が弱い。つまり、変化への適応能力の幅は、後のものほど優れているはずである。』

『だが反面、一般的適応能力の幅が広い場合ほど、人材の企業外流出の可能性は高くなり、雇用の長期化の形は崩れて、人的投資の成果を回収しにくくなる。この両面のプラス・マイナスのバランスを見ながら解を探っていくのが、人材雇用政策の中心的課題になるだろう。』

『それを左右する大きな要因は、予想される変化の幅の大きさであり、その幅が大きいほど一般性が要求される。現在、日本型雇用制度の見直しが云々されれているが、その理由の一つは、おそらく予想される変化の幅が大きくなってきたためである。』
(以上、『反古典の政治経済学要綱』,p181-182より)


この村上泰亮のことばは、今あなたの問題関心がなににあるかで、いかようにも読めるものであろうが、今回は、わたしのマニュアル化嫌いの視点ら読んでみよう。

こんなことを早朝から試みているのは、今のわたしが、法大エクステンションカレッジの準備、つまり、『反古典の政治経済学要綱』読書会の準備をしているからなのであるが・・・。(笑)

わたしのいうマニュアル化とは、ある技術標準だけのことではない。

わたしがいうのは、その技術の標準化から派生する人の行動のマニュアル化をも含む。わたしはこれ(人の行動のマニュアル化)を批判している。

この視座は、上の村上のことばの範疇を超えてしまっているように思われるかもしれないが、村上が「思想の自由」を第一義に掲げていることを知っていれば、この視座があながち間違いではないことに気づかれるだろう。(といっても村上泰亮を読んだことが無ければ、それさえ無理だろうが・・・。)

そのような視座から見れば、人間の行動に対するマニュアル化が、この環境変化の大きな時代には、周回遅れのランナー(標準化という)であり、わたしのいうモルタル化でしかないことを読み取れるはずである。

つまり、この周回遅れの標準化が有効であるのは、その産業の文化子が比較的安定的な場合(村上流にいえば、費用低減効果が見られる場合)、つまりある程度の長期的な安定が予想できる場合に限られるのであり、今という時代の環境変化への適応という文脈では、むしろ障壁となりかねない。

「公共工事という産業」の閉塞とは、その文化子(つまりミーム)が、消費のミームとの相互作用の中で大きく変化していく過程(それは進化論的には当然のこと)で、その保持力と伝播力が衰えていることにある。

これが環境変化である。

そして、『人間がマニュアルに勝る理由は、変化への機敏な対応能力という点にある』となるのだが、その「変化への機敏な対応能力」とはわたしのいうマリアビリティに他ならない。


これに対して、実際にマニュアルを運用されている方々が、アニュアル化の何がしかの効用をいわれる方々も多いのも事実である。

わたしはそれを認めていないわけではない。
たしかに、何がしかの効用はあるだろう。

ただし、それは、村上の言葉を借りれば、「ある程度の一般的知識水準」がない場合であろうし、「ある程度の長期的な安定が予想できる場合」に限られるだろう。

マニュアル化が有効機能する最初の条件とは安定した環境(技術のミームのESS化)なのである。

マニュアル化・・・たとえばISO9K'sのようなQMSが御社で有効に機能(機能というのもいささか大雑把な使い方である)しているのであれば、それはなぜかと自問してみればよい。

それは機能するような環境があるからである。
では、その機能する環境とはなにか。

まずは、QMSが適応能力として機能するには、その技術のミームが比較的安定を見込める環境にある場合(簡単にいえば受注の先行きが見える場合、それは長期でも短期でもかまわない)でしかない、ということである。

またもっとマクロ的に見れば、雇用のグレーゾーン(受け皿)として「公共工事という産業」が機能するなら、新規雇用に対しての「ある程度の一般的知識水準」として、マニュアル化は確かに有効だろう、とわたしでさえ思う。

しかし、雇用のグレーゾーンとして機能する、とは、「公共工事という産業」が、ある程度の長期的な安定が予想できる状況のことなのである。

つまり、「公共工事という産業」においてマニュアル化が何がしかの期待に答えてくれるるのは、浮遊的な雇用を絶えず受け入れながら雇用のグレーゾーンとして機能する場合だし、「公共工事という産業」の技術のミームが「ある程度の長期的な安定が予想できる場合」に限られるだろう。

これは同じことを言っているに過ぎないが、逆説的にはこうも言える。

マニュアル化(QMSといってもよい)が機能するためには、我われは、「公共工事という産業」という環境を守らなければならない。


しかし、今や、「公共工事という産業」は「予想される変化の幅の大きさ」が大きな産業なのである。

そして、この予想される変化の幅への対応とは、技術的な改善程度で対応しきれるものではない。

我われが直面しているものは、もっと根本的な変革なのである。

わたしのIT化(特に事業者団体ベース)とは、この「公共工事という産業」の環境を守りながら、根本的な変革(それは「公共工事という産業」ではたらく人の変革であり、マリアビリティの必要性である)をいっているのである。

しかしそれは、マニュアル化では絶対に達成はできないのである。
マニュアル化は新しい技術のミームを生み出すことはできないであろう。

マニュアル化はマニュアル化が機能する環境があてこそ機能するものである。つまり、技術論の範疇をでることはない。

わたしはこのような視座から「公共工事という産業」におけるISO9k's熱を批判していることで、その関係者からはすこぶる評判が悪いが、もっと広い視点を持っていただければ、わたしの行動はISO9k'sが機能する環境を作ろうとしていることがわかるだろう。

この環境が壊れれば「公共工事という産業」におけるQMSは機能しようにも機能しないのである。


つまり、このような環境認識に立てば、我われは、そもそもこの環境変化の大きな時代には、マニュアル化だけでは適応能力に欠けることが理解できるはずであるし、もっと率先してやることがあるだろう、とわたしはいっているのである。

村上泰亮が今生きていて、「公共工事という産業」の混乱を見たらなんんというのだろうか。意見が聞きたくとも彼はいないのである。


もっと率先してやること・・・。
それがわたしの場合、わたしのいう「IT化」なのだが、これにはマニュアルはな〜いし、どんなマニュアルにも載っていないのだ。(笑)

2004/02/08 (日)  
【食ったぞ、高知】

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ずっとリンク済みだと思っていたのだが、確認していたら忘れておりました。m(__)m

うり坊のひとり言は、新年会にもおいでいただいた橋邊さまの反省の行為である。


さて、高知は、食った食ったで、腹いっぱいであった。
まず、なによりも驚かされたのは、鰹のたたきのうまさである。

砂辺さんに連れて行っていただいた「縄のれん」という居酒屋のたたきは、今までわたしが食っていたたたきとはいったい何だったのか、と思うほど鮮烈なうまさであった。

その他、ちゃんばら貝や川海老(手長海老)のから揚げやら、はらんぼの塩焼きやら、う〜ん、うまずぎるぞ高知なのであった。

砂辺さんと別れたあと、腹ごなしに市内をぶらぶらと歩いていると、「高知ホルモン」なる看板が目についた、

高知ホルモン!
このあまりにも攻撃的な名称の前に、わたしは店に入る衝動を止めることはできなかったのだ。

ここの白眉はホルモンのから揚げである。
ホルモンがから揚げされて出てくるという、爆笑ものなのメニューなのだが、予想を裏切るうまさなのであった。

腹を空かしてこの店に入るならば、ビールとこれがあれば、十分だろう。
素晴らしい。

ここでは、馬のレバ刺しとホルモン(脂たっぷり)とねぎ塩タンを喰らう。

先に食べた鰹のたたきのにんにくとの相乗効果で、ゲップをすると口中にんにくくさい。(笑)

その後なぜか果物屋でモンキーバナナ、路上の焼き芋屋で焼き芋を買い、ホテルに帰ってから食べたため、胃袋に血液が集中してしまい、あっという間に爆睡であった。


おかげさまで、昨日の朝は、未消化状態の胃袋が重いし、ゲップをすると相変わらずにんにくくさいのだったが、それでもしっかりと朝飯(お粥)を食べ、お目当てのイチゴ狩りに、西島園芸団地へ向かう。

ここではイチゴを腹いっぱい食べる。
さすがにもぎたてはうまいなぁ、と感心しきりなのだが、20分も食べ続けていたら、もうなにも入らなくなってしまった。

さすがに、腹いっぱいで動けないので、暫く温室のブーゲンビレアの花の下で、珈琲を飲み、タバコを吸いながらぼーっとしていたのだった。

これは極楽であった。
花の香りも素晴らしく、とても居心地の良いところ(なによりもタバコが吸える)なので、考え事をするだけに、また来ても良いなと思った。

その後空港へ移動し、空港内にある「司」という店で、懲りもせずまた鰹のたたきを食べる。

さすがに「縄のれん」までとはいかないが、空港の食堂でも十分にうまいじゃないのと、鯨料理も一緒にオーダーし、日の高いうちからからビールを飲む。

ああ、ゲップである。

(ざく)

年に3、4回産業振興センター主催のセミナーに参加していますが、桃知様のセミナーが唯一「睡魔」が訪れなかったセミナーでした。

(ざっくり)

さて、セミナーについてですが、「信頼性」と「反省」という言葉が私には一番響きました。

施設などで「言葉では無い情報の共有化」が必要と親しい人には日ごろ話をしていたのですが、いま一つ行動(IT活用)に至らせる説得力が無かったのですが、桃知様の話を聞いて、この「信頼性」と「反省」をクローズアップさせれば説得出来るとの確信を得ました。
これ早速、今後の営業先で使わせて頂きます。

高知は「寒い」(^-^)ですが、おいしいものや自然という固有の資産がありますので、また是非、おいでてください。

おお、感度の良い方である。
今度高知におじゃますることがあれば、一緒に食おう。

ということで、今日のわたしは飯田へ移動なのである。

2004/02/07 (土)  
【@高知】

桃知@高知である。
雪が降っているのである。ぱらぱらとだが。

当然に寒いのである。
ぜんぜん南国土佐ではないのだ。


さて、昨晩は、砂辺さんとゆっくりと飲んだ。
以下は飲みながら、語りながらまとめたこと。

我われのマリアビリティ(可塑性)こそが環境変化への適応能力である。
環境変化へ我われが適応できるとすれば、それはマリアビリティの可能性だろう、というのがわたしの仮説である。

それじゃ、マリアビリティとはなにか、というところで、係数a もそうだな、キャパシティもそうだな、信頼とか信頼性という社会的知性もそうだな・・・とまあ、いろいろと可能性のあるものをピックアップしてきては考えてみる。

そして考えているうちに、それらの特性は一つの固体のなかで共進化するのものなのではないか、と気づいてきた。

その共進化する特性の総合力のようなものを、固体に宿るミーム力って呼んでもいいのじゃないのか、と考えている。これも仮説である。

問題は、IT化はこここで何をするものなのか、ということである。

つまり、この共進化する特性のうち、IT化は特になにに視点をあてて、その特性を伸ばそうとするのだろうか。

わたしはそれはまず第一に情報を発信する能力(信頼性)だと考える。

そこに、わたしのIT化は、「反省」という行為をプラスする。
「反省」の行為が固体にもたらすものは、暗黙知という情報が見える能力である(信頼)。

つまり、情報を発信する能力(信頼性)と情報が見えるという能力(信頼)の共進化を図ろうとする。

その「反省」の行為は、ITを使って行うことで、「共有化」を試みている。

この「反省の共有化」は、ITの同報性故に可能なものなのであるが、これは固体の所属する集団(コミュニティ)メンバーに共振し共進化をもたらすのではないか。これも仮説である。

スパイラル的な共振による共進化。

これは従来の情報化が掲げるデータの共有化からは一歩か二歩進化したIT化なのだと思うし、ナレッジ・マネジメントのより具体的な仕組みを提供することになるだろう。

それにしても、雪がガンガン降ってきたぞ。
今日はイチゴを食べにいくのだ。

2004/02/06 (金)  
【フツ〜に感じる能力】

昨日、岐阜県建築士事務所協会での打合せで、協会の隣にある菊屋ベーカリーで、向井会長と寺田さんと大月さんとで、珈琲を飲みながら、シュークリームを各自二つづつ食べた。(異様な集団であった)

それが見事に腹持ちしていて、帰宅してからも食欲がなかった。(笑)


さて、本日は、高知での講演のためANA561 08:35発 09:55着で高知へ飛ぶ。
高知には知り合いはいないのだけれども、四国での講演の際、ことあるごとにおいでいただいていた砂辺さんと久しぶりにお会いできる。


・・・あの濃厚なOFF会から一週間が過ぎました。リアルコミュニケーションとはデジタルのそれより、まさに現実の重さを知らしめるものでした。

濃厚スープを飲んで、腹痛を覚えたような感想があります。
吐き出せば楽になるのでしょうが、私は吐きません。

正直言って、名簿に会社名が出せないほど、まだ会社ぐるみの師匠のいうIT化に持ち込めない私にとって、知り合えた方々の会社のHPを見て、へこみました。ついつい自社のあり方と比較してしまったのです。・・・まぁそれは、それとして。

金子郁容はコミュニケーション・ソリューションは利害関係がある場合なし得ないと言ってます。事業団体において当然起こるそれを解消すべく、「信頼」というものに師匠は思考されたのかと、私は推理なんぞしてしまうわけです。唯一の師匠からの言葉が「筋をまちがえるな」というのは、私の今年のテーマになりそうです。

最後に「可塑性」は、私の心の奥にグサリきました。
油粘土は私の幼少の頃の一番の友達でした。この歳になって、また、それに向き合うことになろうとは。
会社を変形(時代に適応した形=IT化)させてしまおうとしている私はヘタしたら、会社から引き離されてしまうのかもしれません。
その時は、その時ですね。

今の気持ちは、柴咲コウの「いくつかの空」です。
http://www.universal-music.co.jp/shibasaki/upch1327.html
ちなみに私のネットコミュニティは、この二つです。
http://www.universal-music.co.jp/shibasaki/upch1327.html
http://jbbs.shitaraba.com/sports/10221/nosonosonoso.html
ここでインターネット文化を体験しています。

う〜ん、なんて返事したらよいのかわからなくて、暫く保留していたメールなのだが、なにか「筋」を勘違いされているような気がする。

わたしがいっていることは、『会社を変形(時代に適応した形=IT化)させてしまおうとしている私はヘタしたら、会社から引き離されてしまうのかもしれません。』という意識こそが問題だ、ということである。

これはある意味「わたしだけが・・・」という自意識と「他の方々は・・・」という自惚れに満ちている。

これでは確かにだれもついてはこないだろう。

違うのである。
情報はただ流れるのだ。

その情報の質をどう高めるのかは己の問題なのである。
それがつまり「芸」である。

自意識過剰が別に問題なわけではない。
むしろその方が良い、というのがわたしの意見である。

問題は、それが自分の問題として、自分の中でどう咀嚼されているのか、つまり、自覚しながら行動しているのか、ということだろう。

他を責める前に、己の芸の未熟を反省すべきなのである。
(ただし、わたしの弟子を自認する方々を除く。わたしは弟子は責める。それは師匠の特権である。)


私たち(つまり桃組)が表現型として持とうとしている(持っている)世界とは、別になにかと対峙しながら、なにかの境地にたどりつこうというような高尚なものではなくて、自分の問題としてフツ〜にそうしていたらそうなってしまった、というようなものなのだ。

わたしは何かの境地を目指して勉強しているのではなく、ただ勉強したいから勉強しているだけである。

その後の結果は、あくまでも付随的なものでしかない。

わたしは勉強をして己の芸を磨き、そしてなにやら覚書のようにここに書いている。
そのことがフツ〜の生活なだけだ。

ただ人間には確かに係数aがあることは確かで、わたしがそれを情報として発信したとき、ああ、これはフツ〜にそうしていたらいいのだな、と思える方と、そうじゃなく難しく考える方と、まったく無視される方との三種類の方々が確実におられる。(大別だが)

(わたしも情報をキャッチしたとき、上の三つの態度の、「難しく考える」を除くいずれかの態度をとる)

桃組の方々の多くは、フツ〜にそうしていることのできる特性を持った方々なのだと考えているし、無視されたからといって、最近のわたしは、ただ己の芸の未熟さを思い知るだけである。

ただ難しく考えられるのは苦手なのである。

それから、ここが大切なのだけれども、わたしは、バーチャルとリアルな空間をまったく区別せずに生活している人間である。

つまり、浮世離れした、自己逃避のようなバーチャルな空間にはさらさら興味がないのである。
なぜならそれは信頼を必要としないからだ。

わたしのいっている薄い紐帯とは、決して居心地のよい空間をではない。
むしろその逆である。

だからこそ信頼が必要だとフツ〜に感じているのだ。

2004/02/05 (木)  
【法政大学エクステンションカレッジ2004年版】

昨晩、三重建協さまでの仕事を終え、岐阜のホテルに入ったのは、午後11時を過ぎていた。

別に酒を飲んでいて遅くなったわけではなく、システム管理をする職員の方々の勉強会を午後5時過ぎから始めたため、気がつけば午後9時になってしまったのである。

それから、名古屋までノンストップの近鉄特急に乗り、JR東海道線へ乗り継ぎ岐阜へやってきた。

チェックインして部屋に入ると、さすがに小腹が空いていたのだけれども、近所に食事をするようなところもないので、宇都宮の友人からいただいていた高麗人参茶を飲み、風呂に入って寝たのである。

そして今も、高麗人参茶を飲みながらこれを書いている。
『海馬/脳は疲れない』の池谷裕二氏によれば、頭のよくなる食物はあるらしく、その一つが高麗人参らしいのだ。

病は気から、ではないけれども、わたしは「薬」がとてもよく効く体質なので(多分気のせいなのだろうが)、高麗人参も効いてくれることを心から願っている(笑)。

まだ、その気配はないが・・・。


さて、今年も法政大学エクステンションカレッジでの桃塾(HELP2004)を開講すべく準備していて、おおよそ以下のような内容になる予定である。

講座名 人を育てるIT化講座(建設業編)
IT化による新しい建設業の可能性
概要  建設業のIT化には「市場環境の制約をどう超えるのか」という命題が立ち塞がっています。その命題の前では単なる技術論的IT化は力なく閉塞してしまうだけでしょう。本講座では、IT化で扱う情報、市場に流れる情報の本質を理解することで、従来のIT化が持っていた市場環境の制約による閉塞を超えようとする取組みについて、その基本的な考え方と具体的な手法を多様な事例を通して学びます。
 その対象は、個々の企業ベースのIT化にとどまらす、事業者団体ベースのIT化から、公共建設政策にまで及びますので、建設業経営者、IT推進担当者だけではなく、行政担当者やITベンダーまで「公共事業という産業」に関心のある皆様が参加できるものとなっています。
対象者 中小建設業経営者、IT推進担当者、自治体職員、ITベンター等、中小建設業のIT化に対して興味のある方、さらには「公共工事」に対して興味のある方
受講料(一般) 一般:60,000円、法政大学卒業生:54,000円、法政大学学生:48,000円
定員 15名
希望時間帯 13:30〜17:30 (240分)
カリキュラム 開講月日 曜日 講師名 内容
4月24日 桃知利男+ゲスト講師 IT化論
・IT化への仮説
  IT化の実践
   ↓↑
  マリアビリティ(融通性・適応性)が高い
   ↓↑
  キャパシティが大きい
   ↓↑
  よき社員
  →その集合体としての競争ある組織とは。そしてIT化はこの仮説をいかに実現しうるのか。
その実践の重低音としての
・コミュニティ・ソリューション
・ミーム論
・反省の場としてのイントラネット
IT化事例考察:企業編(1)
・事例から考える
IT化技術論
・イントラネットを構築しよう(1)
5月8日 IT化論
IT化事例考察:企業編(2)
・事例から考える
5月22日 IT化論
IT化事例考察:企業編(3)
・事例から考える
事業者団体ベースでのIT化の取組み(1)
・理論と実践
・事例から考える
6月5日 IT化論
IT化事例考察:企業編(4)
・事例から考える
事業者団体ベースでのIT化の取組み(2)
・理論と実践
・事例から考える
6月19日 IT化論
IT化事例考察:企業編(5)
・事例から考える
事業者団体ベースでのIT化の取組み(3)
・理論と実践
・事例から考える
7月3日 IT化論
・自分のことを自分で語る日
後援団体 サイボウズ(株)

問題は、毎回行う「IT化論」というところで、今回はここに一本のコアを設けたいと考えている。

それは、『反古典の政治経済学要綱』の読書会をしよう、ということである。

それも、単なる読書会ではなく、『反古典…』のどの部分がわたしのIT化論とつながっているのかのマッピングのような作業となるだろう。

そうすることで、『反古典…』の限界も理解していただけれるかと思うし、『反古典…』、つまり開発主義(これこそが「公共工事という産業」の生みの親である)を超えるなにものかを捕らえることができるだろう。

なので、今回は教科書に、『反古典…』を追加してしまおうか、と考えている。

多分、そんな講座だとわかれば、受講者はぐっと減るだろし、採算性どころのはなしではなくなってしまうこともわかってはいる(もともとHELPは、講師のわたしにとって採算性は問題外に悪い、というか開講する度に赤字なのだ)。

しかし、年に1度ぐらいは、ちょっと骨のある講座をやってみたい、と思う今日この頃なのである。

そして、骨のある勉強をしてみたい、という方々の「あつまり」というのも体感してみたく思うのだ。


今年は、このHELP2004と同時進行的に、北海道での「葉月桃塾」の開催も計画されている。

こちらもたいへん楽しみなのだが、今年は、こうして、なにかと皆さんとは「まじめな」講座でお会いできる機会が増えてくるのだろうと思うのだ。

わたしが「桃論」の中で目指していたのは、考える、そして理論武装した土建屋なのである。

それはミーム力が強い土建屋ということである。
私達に宿るミームは淘汰の洗礼を絶えず受けている。

それは自己複製子の宿命ではある。
その淘汰の中を生き残る、とはどういうことなのだろう、と考えているのがわたしなのである。

それはミームビークルとしての固体の問題とも直結してくる問題なのだが、そこにマリアビリティ(可塑性)を考えている。

さて、今日は岐阜で打合せを二件。
そして帰京である。

2004/02/04 (水)  
【久しぶりにCALS批判】

熊本からのメール。

先日紹介していました
電子納品実施状況実態アンケート結果が熊本県のHPにアップされました。

http://www.pref.kumamoto.jp/project/cals/torikumi/doboku/160119.html

人吉支部は、事前協議をすれば、100%の電子納品実施率です。

発注者が事前協議を行いさえすれば、業界側は準備OKという結果でました。
これもひとえに桃知さんのおかげと業界の努力の賜と思います。

この結果を全国にPRしてください。

人吉の皆さん、ほめられたぞ。
素直に喜ぼう。

第1段階の電子納品に慣れる戦略は今のところ成功しているようです。

レベルを0〜3の4段階に分け、まずは、簡単なところからスタートし徐々に難易度を上げていく。

来年度から、レベル1に難易度を上げる予定です。
戦略は第2段階への布石を打つ年度になります。
第2段階は、データを利活用できるようにする。

そのため、データ形式やファイル形式を絞り込んでいきます。
研修内容も充実する予定です。

レベルを上げていく上での課題もたくさんあります。
今後とも頑張っていきたいと思っています。

(ざっくり)

わたしは、熊本県のCALSの勧め方を評価している。
それは少なくとも、人間への視点をもった取組みであるからだ。

それはアプローチの仕方にあらわれていて、電子入札ではなく、まずは電子納品から進めている。

それも4段階のレベルにわけ、まずはレベル0からである。
これは事前協議による単純なファイルの交換である。

無理をしないのである。しなくてもよいのである。
まずは基本的な情報リテラシィの確保に主眼を置いている。

ここに着目しているところをわたしは他に知らない。
そしてそれに答えようとする業界がある。

「公共工事という産業」の内部関係が、CALSにおいて共進化できるものがあるとすれば、まずはこのような地に足の着いた視座(人間への視座)を持たなくてはならい、とわたしは主張している。

翻ってみてみれば、国交省のCALS/ECにはそれがない。
なぜなら、あのシステムは超越論的な第一種情報でしか成立していないからだ。

我われが情報的相互作用でやりとりする情報は、第一種の情報だけではない。

むしろ解釈学的な第二種の情報、経験と解釈と信頼の情報の方がはるかに大きい。

「公共工事という産業」とは、この第一種と第二種の情報の積としてのミームである。

その第二種の情報無視することで、透明性や公正性を成立させようとするCALSは、わたしのIT化論からいえば、一時代前の古い概念のIT化でしかない。まあ、当事者はそうは思わないだろうが(笑)。

この第一種情報だけが情報である、という考え方は、新古典経済学派の市場モデルに由来する。

なぜなら新古典経済学派とは、第二種情報を無視することでしか成立しえない市場モデルを想定しているからだ。

故に、CALSはマーケット・ソリューションの具現化にしかならないのだが。

人為的なシステムは、確かになにかの目的に構築される。

それが最終的には人間のために構築されたものであっても、人が使えない(コントロールできない)システムは本末転倒なのである。

人為的なシステムが失敗する場合、そこには生身の人間への視座が欠けている場合が多い。

人間の感情というものは、システムが正常に稼動するプラスの要因になる場合もあるが、どちらかといえば、マイナスの要因になる場合が多いのも確かである。

だからといって、そのマイナス要因である人間の感情を無視してシステム運用を設計をしても、そのシステムが正常に稼動する可能性は限りなく低いのである。

ということで、今日のわたしは津へ出張。

2004/02/03 (火)  
【リベラル】

昨日は、午前中ばたばたと仕事をこなし、雨も降っていたのでタクシーにて新宿の小田急建設さまへ。

午後の4時間、IT化の基本的な考え方についての講演をする。

講演後、懇親しながら生ビール・・・何杯飲んだのかはわからない・・・。
じつはウコンの在庫が切れていて、ウコン中毒のわたしは今朝が少々心配ではあったのだが、今までの蓄積が効いているのか、今朝も元気ではある。


先週、滝川(北海道)の不二建設さまで行った勉強会の様子が、不二建設さまのホームページに掲載されたのでお知らせである。

と書いて、ここでふと思い当たることが・・・。

つまり、先月不二建設さまに先立って勉強会をした日成建設さまのホームページを見に行けば、ここにもちゃんと勉強会のの様子が掲載されている。

12月のメニューには、芦別建設協会で行った研修の記録もあって、わたし自身が、このサイトで決してやることのない行動の記録を掲載していただいている。

両社に感謝なのである。


さて、いただいていたメールから。

岩手県建設業協会の会員でございます。
日頃は大変お世話になっております。

このたび当社のHPで懸賞企画を実施いたしました。
よろしければ桃知商店へのリンクをお願いしたいです。

突然のメ−ルでございますが、よろしくお願いいたします。
  http://www.vijp.com/asahiofc

このサイトへのリンクはどうぞご自由になのである。
しかし、この「懸賞企画」にはかなりびっくりさせられた、というか笑ってしまった(失礼)。

なんと「井戸掘削工事を抽選で1名の方にプレゼント」なのである。

しかし、わたしゃ掘ってもらうところがない・・・。


桃知さん、こんにちは。
私は○○と申します。えっと、前に「中部地方整備局で研修やってけど、目が死んでた。」って書かれた際に、「そりゃそうかも」って一度メールしました。
3年前に一度岐阜で講演を聞いて、それから読者です。

1月30日の戯言で、
>【今年は、『反古典の政治経済学要綱』読書会をやりたい】と書かれていますが、ぜひお願いします。参加しますんで!

私は、この本を全部「よ見」ました。
「読め」ませんでしたけど。

桃知さんの言われる、「エッセンス詰まってる」のは分かるのですが、理解するには裾野が広いから、準備からやっていかないと駄目だな。と思い、大切に本棚にしまってあります。

前段階として、「クルーグマン教授の経済入門」/「景気と経済政策」小野善康を読んでみました。

経済学の教科書は、読んでもそれが、実際の経済とどうつながるのかさっぱり分からなくて、放り投げてきたのだけれど、これらは良く分かる気がしました。

なんか身近と「つながってる」感じがして、割とすんなり入っていけたからです。
でも「教科書に書いてあった経済学ってなに?重要じゃないの?どうつながるの??・・・わからない」

桃論でも、「反古典」を引用というか基礎にされていて、それ自体は戯言を丁寧に読んでいると、分かった気になる。でも自分で説明しようとするとできてないし・・・そういう強制機会があったら、自分も準備するから、カツが入りそう・・・なのです。


P.S.
前に紹介されていた、「あなたの話は、なぜ「通じない」のか」読みました。すごいですね。これで1400円は安すぎます!

ちょっと事情があって、小論文講座ってのを受講していたのですが、この本一冊あれば足りたやん・・・3万円・・・

それに、3章以降は、メディア力、信頼、共感、なんか桃知さんが言われていることと、すごく重なっている気がします。

分野は異なってるけれど、なんか白無地のジグゾーパズルで、意外なピースがはまった感じを受けました。

それで、(本の紹介とは生意気で申し訳ないですが、いつも紹介をいただくばかりで申し訳ないので、許してください。)

岡田斗司夫「ぼくたちの洗脳社会」朝日文庫も、近くのピースではないでしょうか。
 
〜これからの企業は、「なぜ」これをしなければならないのか、という価値観・世界観を明確に示す必要があります。同時にその価値観・世界観に賛同する人は、こういう風に力を貸してくれ、と具体的に提示する必要もあります。

そして力を貸してもらえたら今度は、貸してくれた力によって何ができたのか、きちんと報告しなければなりません。

 価値観の提示、具体的要求、成果の報告

この3つがそろってはじめて、イメージキャピタルは増大します。消費者がサポータになる、とはこのようなことなのです。 (同書P184)〜

オタキング岡田さんは、それをするのは「洗脳なんだ」と主張されています。
〜ミームの伝播〜かな?価値観の掲示=建設業からの情報発信?

岡田斗司夫「ぼくたちの洗脳社会」は既にこのサイトで紹介している。
それもただで読める・・・(笑)

詳しくは店主戯言、1998年(このサイトを立ち上げた年だ)の12月22日を注意深く読んでいただければと思う。

わたしは、情報社会(インターネット社会)の概観として、岡田の「ぼくたちの洗脳社会」を紹介している。

あの頃のキャパシティで、よくここまで読んでいたものだなぁ、と自分で感心するのだが、今のわたしはもっと詳細にインターネット社会をイメージできている。

そして固体(一人ひとりの人間)がこの時代に適応することの意味も。
まあ、それは仮説の範囲をでることはないが・・・。


おぐたんから。
昨日(もう一昨日になろうとしていますが)はありがとうございました。
いつもいつも申し訳ありません。(ぶつさしはすごかったです。感激。奥様にもよろしくお伝えください。)

私は昨日はじめてまともに桃知さんとお話できたような気がします。

いえ、良く考えてみればまだ初めてお会いしたときにはいくらか自分の言葉で話せたような気がしますが、昨日は久しぶりにきちんと話をさせていただいたという感じです。(その間の何年か私はいったい何をしていたのでしょう。なんか背伸びしていたような気がします。つまりカッコをつけて、わかったようなふりをして、なにもわかっちゃいないんだ。)

昨日もお話しましたが、新年の講演会で最も私の心に響いたのは社会的安定の世界、つまり桃知さんのお話には、我々が穏やかに暮らせる社会を実現することがベースにあるということです。
 
どんなヒーローだろうが、有名だろうが、人をあつめられようが、金を稼ごうが、乱世を望むリーダーは少なくとも私はいりません。

この桃知さんのIT化という運動は、一将功成って万骨枯るの反対なのだといまころになって気づく私はアホであります。

 人を見たら泥棒と思え→そのかわり自分もそうみられる。

 これって官庁そのものでは?!

取締の思考がますます強くなっていく公共工事を取巻く現状。
今回の経審改正の中にもそんな雰囲気が感じられますが、こんなんでいいのか?こんな方向性でこのまま行っていいのか?

では我々はなにが出来るのかという問いが、新年講演会からずっとひっかかっていましたが、昨日からなんだかうずうずするような気持ちが湧き上がってきます。

 桃知さんは生ですと、特に心に感染するんですよね。
 桃インフルエンザですかね。
 
なんとなく、自分達が本当にすべきこともわかってきたような気がします。

ということで、今日も小田急建設さんで講演。

2004/02/02 (月)  
【個人事業主の憂鬱】

朝から事務的な仕事をフル回転でこなしていた。
山のように届いている郵便物を一通り見回せば、要返信が沢山ある。

ペンで字を書くのは思い切り苦手なのだが、これもビジネス、こなしてナンボ。しかしわかってはいるのだが、なかなか手はつかず、ついパソコンで処理できるものを優先してしまっている己がいる。

支払いもしなくてはならないし、請求も確認しなくてはならないし、やりたくないことばかりの憂鬱な月末、月初めなのである。

今日は午後から新宿で講演があるので、なんとか午前中にできることは済ませておきたい。

ということで、今はここまで。
現在午前9時41分。

2004/02/01 (日)  
【2月になってしもた】

cover『嘘つき大統領のデタラメ経済』
ポール・クルーグマン(著)
三上義一(訳)
2004年1月15日
早川書房
¥2,200円(税別)







なんともすごい書名なのだが、大好きなクルーグマンの本となれば、これを買わずに、そして紹介せずにいられようか。

といってもこれは彼の書き下ろしの最新版経済書ではなく、クルーグマンがNYタイムズに連載しているコラムを集めたものである。

いうなればインスタント・ジャーナリストとしてのクルーグマンの店主戯言集である。

わたしは、クルーグマンに対して、わざざわ「大好きな」という修飾語をつけるようなミーハーなファンなので、「うん、うん、ブッシュは馬鹿だ!嘘つきだ!」とついうなずいてしまう。

そして、彼がいうようにそれを糾弾しないマスコミの姿勢にも憤りを感じる。
マスコミは得てして強いミーム志向であり、そのオピニオンリーダーになろうとする。

それはミームが適応し生き残る戦略としては最適なのだ。
そしてその戦略を強いミームへのすりより戦略といってもよいだろう。

マスコミは、一見弱いものの味方のように見えるときもあるけれど、それはえてして、弱いものが実はミームである強い場合が多いのである。

翻って「公共工事という産業」をみれば、今や「公共工事という産業」のミームは強いものでもなんでもないわけで、マスコミはこれになびく必要はない、と判断するだろう。

むしろそれを糾弾する強いもの(ミーム)の味方につくのは当然なのである。
その方がメディアとしての自らのミームは適応し生き残る可能性が大きいのだ。

こうして「公共工事ダメダメミーム」はスパイラル的に限界質量を超えて均衡してしまったのであって、これを覆すのには、相補均衡論でいう「熱血先生」のような強いリーダーシップを持った方々がとても沢山必要なのだ。

それはなにかのカリスマである必要はない。
正しく、公共工事のミームを体現し表現できる方でよいのである。

消費のミームは不安定なものである。
均衡はするが、その均衡が長持ちしたためしはないのである。

ところが、「公共工事という産業」においてリーダーシップを持つとされる方々が、旧来の価値観の範囲でしか思考を繰り返さないことで、そして自らの情報を発信しないことで、この「公共工事ダメダメミーム」という均衡は破れないでいる。

我われは、ミームの進化ゲームの中にいることを忘れてはならない。
つまり、そこには情報を必要とする人間がいるのだ。

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