店主戯言050102 2005/1/16 〜2005/1/31 "There
goes talkin' MOMO"
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2005/01/31 (月) ▲ ▼
【悪党・喘息に苦しむ】
8時30分起床。
浅草は晴れ。
アクセス・カウンターがまもなく888888を刻みます。
切番ゲッターの方は、迷わず店主へメールをください
多分、予想では明日の午前中かな?
今回の景品はレトロシリーズ。
部屋の整理をしていたら、懐かしい、今では入手不可能なノベルティが出てきましたで、思い切って差し上げます・
例えばこんなの(↓) 写真提供:お嬢
この他、ハンドタオルとか、まあ、色々あります。
ところで、わたしの体調は、喘息が出てしまって不調。
今日は、様子を見ながらの活動になります。
では。
2005/01/30 (日) ▲ ▼
【悪党・無縁の者】
午前7時25分起床。
浅草は晴れ。
札幌で怪我をしてしまった右ひざは相変わらず痛い。
悪いことには、なにか股関節も痛いのであって、これは安静にしていないとまずいなぁ、と直感的に感じる。
さて、今回の北海道ツアーのお供は、網野善彦の「無縁・公界・楽」を選んだ。
増補 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和
網野善彦(著)
1996年6月15日
平凡社
1223円(税込)
網野氏は昨年亡くなられたが、民俗学的なものが好きであったわたしにとっては、ずっとスーパースターであり、昨年来読み始めた、中沢新一氏が、網野氏の甥っ子であることを知ったときには、背筋がゾクゾクッとするような、興奮を感じたものだ。
最近のわたしの関心事は、もっぱらアルバート=ラズロ・バラバシが「新ネットワーク思考」において指摘した、ネットワークのスケールフリー性にある。
簡単に言えば、それが社会的な環境であるとき、私たちは如何様にそれに適応するのか、できるのか、ということを考えている。
それで、少し前から、ネットワークと企業の関係を復習する意味で、今井賢一氏と金子郁容氏の共著、ネットワーク組織論」を読み直していたのだ。
ネットワーク組織論
今井賢一/金子郁容(著)
1988年1月26日
岩波書店
2205円(税込)
ネットワークとは、<他者>(もしくは環境)との関係性の編集のことである。
編集という意味は、「自己否定的変態」によって(わたし自身が変化することで)、つまり、外に向かって新しい文脈を広げることで、環境に働きかけをすることができる(環境を変えることができる)ということだ、と考えている(当然にそれは「私→外」だけではなく「外→私」でもある円環的なものである)。
ネットワークにおいて重要なものは意味(物語)と信頼である。
この二つの重要性は、特にHUB能力、コーディネート能力において顕著だ。
そのHUB能力のことを、わたしは「適度度」と考えており、わたしのIT化論とは、この能力を如何にして己のものにしようとするのか、という命題に収斂する。
「ネットワーク組織論」に倣えば、HUB能力とは、棟梁のごときである。
『現代の企業にはかつての棟梁のような編集能力が求められる。中世の棟梁は、中世の人々が自分たちの意思を後世に残すために百年以上の時間的視野であの大伽羅群を建設するという仕事を引き受け、単に大工、左官、技師などのネットワークを組織するだけではなく、設計者や美術家のような異質な分野に属する人たちををコーディネートしたのである。』(「ネットワーク組織論」,p233−234)
まあ、ここまでは違和感のないところだろうが、多くの方々は、ところで、この二冊の本、つまり「無縁・公界・楽」と「ネットワーク組織論」はなに関係があるの? とお思いだろう。
確かに、この二つ、一方は民俗学であり、一方はネットワーク論である。
普通は異質なものとして分別されるものであり、同じ思考のテーブルに並ぶことはない、というのが、今までの思考のネットワークなのだ−つまり、クラスター型。
しかし、クラスター型に思考を閉じたところで、今やそれはなんの意味も持たない。せいぜい生まれるのは中途半端な専門家なのである。
今必要とされるのは、オタク的な能力なのである。
それはまるでつながり続けるシナプスのようなものだと感じているし、それこそがHUBとしての能力の基底なのだ。
(オタク的能力については、19日に書いた「■オタクの条件」を参照していただきたい)
では、なぜつながったのか。それはこの一文にある。
『企業が異質なものにどうかかわるかということに関してまた別の示唆を与えてくれるものに、最近の中世歴史研究者が注目している「無縁」という概念がある』(「ネットワーク組織論」,p235)
「無縁」である。
無縁は主従関係とは縁がない公界に生きる人々である。
例えば、今試行していたmixi。
これは無縁である。主従関係からは無縁のコミュニティである。
インターネットは、基本的には、無縁・公界・楽なのである。
『山の方からは山の幸を持った人々が、海の方からは海の幸を持った人々がやってきて、そこで出会いの効果をする場なんですね』(網野善彦を継ぐ。,p108)
わたしは、これと同じ感覚をインターネットに感じていたし、mixiにも感じることができる(まあ、それはmixiの居場所を考えれば当然だろうが)。
この『山の方からは山の幸を持った人々が、海の方からは海の幸を持った人々がやってきて、そこで出会いの交換をする場なんですね』で、果たしてわたしは山の幸、海の幸に値するものを持ちえるのだろうか。
インターネット社会における「幸」、それが「意味と信頼」なのだと考えている。
そしてそれはHUB能力であり、適応度ともなるものだろう。
ということで、今回の読書は、後戸的に中沢新一氏と浅坂憲雄氏の共著である網野善彦を継ぐ。を併読すれば尚理解はしやすいだろう。
尚、無縁については、これはラカンで言えば無意識なのだ。
であれば当然に、今後もこの戯言で多用することになるかと思うので、詳しい説明は、その時々にでも。
網野善彦を継ぐ。
中沢新一/浅坂憲雄(著)
2004年6月25日
講談社
1260円(税込)
古い中国の諺。
「賢いウサギは三つ穴を掘る」
2005/01/29 (土) ▲ ▼
【悪党・取り急ぎ】
昨晩、皆さんと別れ、ホテルに戻るべく、タクシーを拾おうとしたら、さすが金曜のススキノ、タクシーがない。
しばらく待ったが、全て実車。
どこに行けばタクシーの乗れるのだ・・・。
待つこと約20分。
さすがに寒いし、このままでは凍死する、と命の危険を感じた私は、タクシーを求めて彷徨った。
それでだ、凍結した歩道に足を滑らせ転んだのだ。(笑)
今朝は右ひざが痛い。
打撲傷+皮が剥けた。
写真は撮ったが汚いので載せるのはやめる。
ということで、今日は浅草へ帰る。
2005/01/28 (金) ▲ ▼
【悪党・の食い方】
午前6時30分起床。
浅草は快晴。
今日は札幌へ向かう。
昨晩、清司にて鮨を食らう。
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いつもの定番
たこの薄造りとお造り。
金目鯛のカマ、炙り。
金目のカマの部分を炙りで食したのは初めて。
脂がのっていて、それはおいしかった。 |
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トロ炙り。
煮ハマ。
コハダ。
トロ。
ウニ。
数の子。
まる蟹、お椀。
ビール3杯。
以上、所要時間1時間。
清司さんも、このカメラ・オヤジには参っているだろう。
写真を撮りながら、鮨を食べてはいけない、下品だ。
食べたものの写真を並べるっていうのも、下品だ。
まったくしょうがない奴なのである。 |
自宅に戻って、そろそろ食えるだろう、ということで、昨年中に届いていた、ばんぺいゆ
from Office eggをいただいた(ばんぺいゆは収穫後直ぐには食えないのである)。
勿論、一人で全部食べたわけじゃない。
これは、なんと言っても香りがすばらしい。
口から鼻に抜ける鮮烈な香りは、全ての邪念を払うかのようだった。
さて、mixiでのA木さまのご発言から。
無意識の文章? |
詩人、谷川俊太郎はあるラジオ番組で「詩を書くときに、頭をひねり、気の利いた言葉をつないで書こうとしているわけではない。無意識の底からわき出る言葉を詩として表現している」と言っていた。
まさに桃知さんの指摘する「芸術家は無意識の世界で勝負する人たち」なのだ。
これに対して、凡人が文章を書くときは、頭をひねりながら言葉を絞り出す。しかし、誰でも一度くらいは、不思議なくらい「すらすら」と文章が書けた、という経験があるはず。そのときは、無意識の底から言葉がわき出てくるからだろう。そして、その文章は必ず人の心に響き、ある種の「熱」を持つ。
わたしは文章を書くことを生業としているが、芸術家ではない。だから、無意識の底から次々と言葉がわき出るというわけにはいかない。反省の毎日である。 |
|
ラカンに原初的抑圧という概念があって(言葉による去勢?)、それは無意識と意識の壁のようなものなのだろう。
その壁を、自由に行き来するものが、昨日の戯言に書いた「無限小」だ、と言うのが中沢新一氏の理論なのだ。
わたしは、IT化の利点を、反省の行為の共有と言っているが、それはまず、テクストに書き出すという、意識的行為を繰り返すことで、そこに生まれる何かが(物質的なものか?)、原初的抑圧の壁にろ過されて無意識に沈殿していくことだと考えている。この考え方は、一連の中沢理論と対立することもなく、だからわたしは中沢新一氏の言っていることが、とても腑に落ちているわけだ。
ただ、テクストに書き出すというと、携帯メールやblogなども、そうかもしれないのだが、携帯メールやblogやそれこそmixiに蔓延しているものは「声的な文字」なのである。
わたしは「声的な文字」は、無意識的なものだと考えている。
反省の次元を経由することがない。
つまり、これは新たに沈殿するものではなく、すでに無意識に備わったいる語彙なのである。
本質的に情動という、抑圧されたエネルギーをもった語彙なのである。
ゆえに、声的な文字には攻撃性が多分に含まれている。
ゆえに、動物的なものでもある。
この「声的な文字」が氾濫し、反省の次元を失っているのが、今という時代の特徴であると、わたしは考えている。
それゆえ、A木さまの次の問題提起の根本原因が、そこにある、とも考えている。
公務員ダメダメミーム |
2年前に「公共事業ダメダメミーム」の次は「公務員ダメダメミーム」がまん延するだろう、と予想していたが、最近、公務員に対する風当たりが一段と強くなってきた。
現代のような閉塞的な社会では、誰かをたたく「魔女狩り的」な風潮が強く、公共事業をバッシングしていた風は、今度は公務員に向かっている。
公務員批判は今に始まったことではないが、以前と明らかに違っているのは、役所側も「ポストの削減」や「賃金カット」「定数削減」などの具体策を示している点だ。
しかし、先日の新年会でAさんが話していたように「それで職員の志気が高まるのか」「市民が望む行政サービスは低下しないのか」という議論が十分に行われないまま、とりあえず批判をかわすため…という姿勢が感じられる。
「あの橋は無駄」とか「あの建物は必要ない」という議論なら分かるが、公共事業は無駄というのは神格論争に近い話。同じように「あの部長はいらない」「あの課長は役立たず」なら分かるが、公務員はダメという話もおかしい。そろそろ役所側がきちんとした情報発信をしていかないと、将来に大きな禍根を残すのではないか。 |
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「公共工事ダメダメミーム」にしろ、「公務員ダメダメミーム」にしろ、過剰な攻撃が、素朴というかナイーブに行われているように感じている。
わたしは、このナイーブさが怖いし、その理不尽さには身もだえさえする。
この過剰な攻撃の当事者(つまり市民)の多くは、悪気はない。
「公共工事ダメダメミーム」にしろ、「公務員ダメダメミーム」にしろ、当のご本人は、「正義」の意見だ、と思っていることだろう。
しかし、民主主義にとって、このナイーブさほど怖いものはないのは、歴史が証明してきたことではないのか。
素朴でナイーブな過剰な攻撃。
これもまた抑圧された無意識のなせる業だろうし、反省といういう次元を持たない(はいぶりっどな)ゆえに起こるものではないだろうか。
だから、少なくともわたしは、そんな風にならないように、考えて、表現する、という習慣を持とう、と「桃組」関係者には主張している。
A木さまは、職業的に、日々反省の繰り返しをする。
なので、無意識に、無限小としての語彙とつづり方が沈殿しているのだろうし、また新たな沈殿も起きやすいのだろう。
しかし、多くは、せっかくITという反省の道具を得たのに、その使い方を、己の情動に任せてしまうだけである。もったいない。
わたしの、この日々の戯言も、結局は反省の行為であり、考えて、表現する、訓練、鍛錬だと考えている。
なので、基本的には休むことなく、こうして続けてきたのだ。
じゃないと、悪党、ここまで文章は書けない。
そして、その繰り返しでしか、自分自身に宿る、素朴でナイーブな過剰な攻撃性というのは抑えきれないのも事実なのだ。
そして、<他者>からの素朴でナイーブな過剰な攻撃に対しては、沈黙することもなく、過剰に反応するのでもなく、自らの変化による表現を持って、地道に、地を這うように理解を得ることしかないのだと思う。
(↑図引用:「対称性人類学」 p251。図をクリックすると大きな画像が見れます)
ということで、ある方からのメールを引用して今日は終わろう。
とっても不思議なことがあります。桃組の方々と話しているのと
その他の業界団体で話しているのではまったく違うのです。
まるでみんなバックミラーをみて経営しているみたい。
・昔は。。。
・ウチは特別で。。。
みーんな後ろをみて経営しているような気がする。こんな事を
業界団体がずっと言っていたら、発注者だけでなく、有権者も敵に
まわすし、それが回りまわって、今の問題を作っているような気さえして
きます。
それに比べて桃知さんの指導したところのすごいことっ!
みんな自分から変わろうとしている。このすごさはなんでしょう!
ホント、桃知さんがどうやってみんなを変えていったのか本当に
すごいなぁーっと思ってしまいます。やっぱあのくらいエネルギーを
もってやっていくことでみんなが変わっていくのかも知れません。
桃知先生の仕事に比べたら我々の仕事なんてまだまだ薄っぺらだと
痛感する次第です。
桃知先生の業界における役割はやっぱ、さらに重要になるって
事だと思っています。これからも活躍ください。
応援しています。
○○
p.s. つまらんメールですみません。あらためて桃知先生のすごさに
感動する次第で思わずメールをうってしまいました。 |
ありがとうございます。m(__)m
2005/01/27 (木) ▲ ▼
【悪党・なぜ夫婦は同じ布団で眠なきゃいけないか、について解説する】
さて、本日は、もうひとつ。
これは、昨日のmixiネタ。
なので語尾が通常の戯言とは違うのはご勘弁ください。
まずはおなじみの玄田有史さんの言葉の引用からはじめます。
http://www.asahijobplatz.com/column/?id=25
------------------------------->8
『「仕事と家庭の両立」とよく言いますが、2つのものを両立し続けるのは、とても大変。片方がコケると両方ともコケてしまいます。でも、3つあれば、1つが崩れても、残りの2つで支えられます。3つ目とは、全身全霊を傾けられるもの。本気で遊ぶってことです。地域活動でも、ボランティアでも、NPOでもいい、自分とは直接利害関係がない3つ目の居場所を作っておくことです。』
------------------------------->8
これは人生の三輪車、トポロジーの考え方なのですね。
新春講演会でさんざん披露した考え方ですが、皆さん飲んで忘れたでしょう。(笑)
講演会に参加できなかった方は、本日の戯言に少し書いておきました。
つまりですね、別に夫婦でなくてもいんですが、悲しいなぁ、と打ちひしがれたとき、受け入れてくれる何かがないと辛い、とか、よし頑張るぞ!っていうときにね、そのエネルギーの素みたいのがないとそれも沸かないじゃないですか。
わたしは、その基底は夫婦(恋人・家庭)だと思っています。
他の二つは、これから見れば補助的なものだろうと考えています。
じつはそれがエロスです(ほんとはエロスだけじゃ足りなくて「死への衝動」っていうのがあるのだけれども、今回は詳しくは触れません−「死への衝動」これが「腹をくくる」ってことだ)。
これが円滑じゃないと価値の増殖って起きないのだろうと思うのでした。
そして、この三輪車もきちんと回らない。
逆説的には、仕事でつまずいても、遊びでつまずいても(笑)、エロスがあれば大丈夫!
だから、夫婦(恋人・家庭)は、人生の後戸なのだ。
つまり愛だ。
【悪党・数学の勉強中】
午前7時22分起床。
浅草は晴れ。
素数に憑かれた人たち
ジョン・ダービーシャー(著)
松浦俊輔(訳)
2004年8月30日
日経BP社
2730円(税込)
中沢新一氏の影響で、「超実数=実数+無限小」の勉強を始めたが、中沢新一氏が「対称性人類学」で紹介していた、数学者エイブラハム・ロビンソンの「超準解析学」なんか、わたしの脳みそでは、とても読めそうにないわけで、手元にある数学関係の本を引っ張り出してきて、無限小の記述があるものを探してみたら、・・・あった。
それが「素数に憑かれた人たち」だ。
これは、昨年の秋ごろ、宮崎空港内で購入し、そのまま放置されていたものだ。
(宮崎空港の書籍売り場は、小さいのだけれども、品揃えは相当マニアックっというか、こだわりが感じられるもので、とても素敵な空間なのだ)
ということで、昨晩からこの本を読んいた。
読み物として面白いが、まだレヴューが書けるほど読み込んではいない。
無限小 +0(正の無限小:プラスゼロ)に関しては、今のところ無限大∞の逆数位にしか考えていないのだが、まあ、それだけでも、超実数をある程度は説明できるわけで、まあ、便利なものだ。
それは純粋贈与、贈与、交換という全体性の経済における商品の理解には欠かせないのだね。
商品が実数(第1種の情報)だけで差別化できないとき、その実数が纏う付加価値的なもの(第2種の情報)が、無限小であることで、その商品は競争力を持ちえると記述できてしまうからだ。
まあ、問題は、では経済の仕組みの中で、そのその無限小を生み出すものはなにか?だわね。
価格(定価・売価)じゃないのさ。
それは実数だもの。
2005/01/26 (水) ▲ ▼
【悪党・マイブーム−三輪車の絵を描いて理解するという方法】
午前4時30分起床。
咳がひどくておきてしまった。
風邪気味なので、日曜日からお酒は断っている。
咳が止まらない。微熱がある。
まあ、この程度の症状なのだが、週末は札幌に入ることもあり、大事を取っていた。
なのでビールの画像はない。(笑)
今日の浅草は寒そうである。
対称性人類学―カイエ・ソバージュX
中沢新一(著)
2004年2月10日
講談社
1785円(税込)
「対称性人類学―カイエ・ソバージュX」にある、「無意識は言語を構成する」というフレーズにとても惹かれていていた。
例えば、反省の行為と、身体的鍛錬による無意識へのろ過浸透について、以下のようなトポロジーでの理解が可能だとしよう。
無意識と言葉、そして身体の関係(フィードバック・ループ)から、アイディア、スピード、実行力−係数a、マリアビリティ−(これが経済的活動においてはコア・コンピタンスとなりえる)が生まれる、というのがわたしの理論であり、「考えるIT化」の根底に流れる基本理論だ。
さて、中沢新一氏による「無意識は言語を構成する」(言語体系と無意識の関係)とは以下表の関係である。(p79)
言語構造 |
シンタグマ軸 |
パラディグマ軸 |
意識系 |
メトニミー(換喩) |
メタファー(隠喩) |
無意識の運動 |
置き換え |
圧縮 |
これはどういうことか。
我々が普段おこなっている(多くは無意識的に)、メトニミー(換喩)は、無意識における置き換えの運動と、メタファー(隠喩)は圧縮の運動でと、密接に関係しているということだ。
たい焼きはメタファー
たこ焼きはメトニミー
白雪姫はメタファー
赤ずきんはメトニミー
メタファーとメトニミーの説明は省略するが、これらは無意識的に口に出る場青が多い。ただし、その語彙がなければメタファーもメトニミーもない。
ということは、無意識の中に、語彙が沈殿されている、と考えている。
そしてその沈殿は、語彙を使わないことにはおこりようもないだろうから、後天的なものが大きいようにも思える。
しかし、それは後天的というようりも、「思い出せない記憶」が言葉を使うことで目覚めたようなものではないのか、とも考えているけれども、よくはわからない。
まあ、言語においては、『無意識の側から自律的な運動をとおして突き上げてくる「みずからを構成しつつある秩序」と、できあがった言語体系として「すでに構成された秩序」とが、おたがいを規定しあい、せめぎあいを演じている場所に、具体的な言葉は語りだされているということだと思います』(中沢,p79)ってことだろう。
無理やり書けばこんな感じかな。
ついでに書けば、「みずからを構成しつつある秩序」というのが倫理であり、「すでに構成された秩序」とは道徳であろう。
こんな感じで、最近のマイブームは、三輪車の絵を描いて理解するという方法なのだ。
これは、ともすれば二項対立的な思考になりがちな、自分の思考の偏りを防ぐために使用している。
対立を防ぐ、ということは、ハイブリッドな哲学の基本になるのだろう、と考えているが、ただ、全てがこのTopologyに当てはめることは無理であることはいうまでもない。
人間的なものだけだ。
2005/01/25 (火) ▲ ▼
【悪党・新年会姿】
午前7時起床。
浅草は晴れ。
22日に行った新年会の写真が、mixiに何枚かあがってきたのでご紹介。
|
ビンゴをするニワトリ。
撮影:嵐を呼ぶ男さま
今年の干支である酉にちなんでのきぐるみ。
昨年のサルと違うのは、シャツの上から被るだけなので、ズボンはそのまま、ということだ。
ただ、これはかなり暑い。
なので着用は、ビンゴ・ゲームの時だけだった。 |
ゲスト:春風亭美由紀
撮影:ハッシーさま
お昼ごはんから、二次会までしっかりお付き合いいただいた。
写真は、フラム・ドールの特設ステージで、お得意の芸を披露中のもの。
当然、お昼の講演の時とは衣装が違う。
「桃組」にもしっかりファンをつくったようで、大モテだった。
新年会については、自分で撮った写真は少ない。
わたし主催の新年会ではある。
つまりわたしは勧進元なのだけれども、ただ勧進元だからといって、偉そうにしているわけもなく、まあ一緒になって遊んでいる、というよりは、わたしはホストのように振舞う。
新年会、わたしはHUBとして機能し、場を提供する。
それがわたしの最も大切な機能である。
そしてその場を作り上げているものは、ご参集いただいた皆さんのパッションだろう。
その得体の知れないものが、どのような形になるのかは、わたしにもわからない。
ただ、わたしは、そのパッションを目覚めさせる術(すべ)を少々身に着けている悪党なのだ。
わたしの新年会は、その得体の知れないもの(パッション)がぶつかり合う、即興芸の舞台である。
参加された皆さんは、観客即役者であり、役者即観客である。
皆さんそれぞれの役を自分で決めて演じている。
まずは演じることを楽しみ、そして時には観客となり、<他者>の演じるものを楽しんでいる。
新年会は、観客即役者、役者即観客という円環的時間なのだ。
観客即役者、役者即観客という円環的時間は、己の身体が眠りにつくまで続く。
それは非日常の時間であり、空間だ。
それをハレという。
だから、翌日目覚めると、ケの現実に疲れがどっと噴出す。(笑)
2005/01/24 (月) ▲ ▼
【悪党・フォトシネマで遊ぶ】
7時30分起床。
浅草は寒い。
昨日は、かみさんがダウンしてしまい、非依存的生活能力の乏しいわたしは、なるべくなにもしない、という生活をしていた。
だいたい自分で食べるものも作れないのだ。
料理といえば、カップヌードルにお湯を注ぐことがせいいっぱい、不憫なのは息子である。
一日、わたしの非料理的食事に付き合わされていたわけだから。
そんな中、mixiで、うどん☆人・2号さんが紹介してくれた、フォトシネマのデモンストレーション版で遊んでみた。
直感的に使ってみても、こんな風(↓)に出来上がるわけで、ああ、これは使えますねぇ、と関心。面白い。
http://www.momoti.com/beer/index.html (掲示終了→必要な方はメールにてご連絡ください)
うどん☆人・2号さんによる解説(一部抜粋)
私はこれを個人や小規模の設計事務所さんに、プレゼン用のツールとして勧めています。
特にクライアントさんへの第1回目のプレゼンには、詳細な仕様設計ではなく、どういう建物か、そこでどんな暮らしがおくれるか...という重要な役目があります。
そこでは玄関の間口がいくらとか、天井高さは何mmあるか...ということより、クライアントが設計者の設計した建物をどう理解してもらうかが大事。
通常はスケッチと簡易なパース(透視図)や平面図、立面図などを用意して、話しをしていきます。
ですが、これを自分の生活に結びつけていくことはとても難しいのです。
そこで、このフォトシネマの出番です。
プレゼンをする建物の周辺の写真(公園、素敵なオープンカフェ、街路、駅...)を撮り、
またその建物そのものでなくても、設計コンセプトを表すようなイメージ写真などを用意、イメージスケッチや透視図とともに、このフォトシネマで仕上げます。
そしてノートパソコンにいれて、クライアントに。
するとこの映像を見たクライアントの頭の中には、ぱーっとイメージが広がり、そしてすでに自分がそこ(環境、家)に住まうような感覚にもなります。
中には朝おきてジョギングする自分の姿が浮かぶかも知れないですし、家族を送り出したあと、カフェでゆっくりお茶の飲む姿が浮かぶかも..... |
そう、このフォトシネマは略画的なのだ。
それは図面が密画的であることの対極にある。
論理的には、人の心に響くプレゼンテーションとは、密画的に略画的の上書きを施したものだと考えている。
それはたとえば、CALSの電子納品(密画的)だけでは、市民社会に対するアカンタビリティは達成できない、というわたしの主張につながるものだ。
22日の講演で話したように、人間的なものは三輪車なのである。
そのとき重要なものは画像。
そしてキャッチ・コピーとなる。
まあ、これはマーケティング論だな(笑)
ということで、22日新春講演会のPPTを掲示したのでご利用ください。
→BD050122.zip -zip 528KB
2005/01/23 (日) ▲ ▼
【悪党・休み】
今日は休みです。(^_-)-☆
2005/01/22 (土) ▲ ▼
【悪党・新年会】
午前9時起床。
浅草は晴れ。
今日は当店の新年会。
まずは講演会の準備からはじめなくてはいけないわけだね。
2005/01/21 (金) ▲ ▼
【悪党・プルコギを食らう】
午前7時起床。
昨日のCALS/EC MESSE 福井コンピュータブース、「電子納品への取り組み事例と課題」で使用したPPTをダウンロードできるようにしました。
→ →BD050120.zip -zip 2.08MB
レポートは嵐を呼ぶ男さまです。(ほんの一部だけ修正)
いつものようにセミナー会場での講演をイメージしていたので、「セミナー案内」を見ましたが、「桃知商店」の名前がありません?
とりあえず「福井コンピュータ」のブースを見つけるために会場をウロウロ。
見つけました!福井コンピューター。
黒の超ミニスカートのユニフォームを着た「おねえちゃん」にアンケート用紙の記入を頼まれ、サッと記入し「ボールペン2本をゲット」。
いました!いました!pinkhipさん。パソコンのセッテイング中。
ベンダーさんのブース内のミニミニ会場です。「もうすぐ始まります」のアナウンスがありましたが、着席しているのは3人!
pinkhipさんと顔を見合わせ思わず苦笑い。定刻通りセミナーが始まりました。
セミナー中も「黒い超ミニワンピースのお姉ちゃん」がチョロチョロしていて気が散って重要なことを聞き逃しているかも知れません。
以下私のメモより。
予想通り「電子納品は得意でありません。」という挨拶で始まる。
mixiの桃組コミュニティの「電子納品」についての掲示板でのメンバーの意見の紹介
・現場は2重手間
・事前協議がない
・痛くもかゆくもない
・発注者のスキルのばらつき(受注者の対応慎重)
・写真だけで電子納品?
・発注者の熱意?
CALSの問題点
・地場中小企業、発注者共にITリテラシーが低い
・IT化のインセンティブが低い
・CALSの目的自体が時代遅れである。
事業者団体ベースの紹介
・岩手県建設業協会
建設業界全体のITリテラシの強化のため
国交省主導のCALSではほとんど国交省の仕事をしてない中小企業には関係ない
北海道の建設業協会と○○建設業協会のアンケートの比較
・電子納品、電子入札に対応できるか?
・北海道は北海道開発局があることにより電子納品、電子入札に関するスキルは高い!
・しかし協会に求めることは「電子納品」に関するセミナーを求めている。
→「電子納品」どうするの?というのが現実!
多くの中小企業は自治体の仕事しかやっていない。
・地方自治体と国仕事は違う。
・国:社会資本整備
・地方:地場経済の活性化、雇用の確保。
岐阜県の取り組みの紹介
・自治体ベースでCALSを考える場合
・地場の中小建設業は「重要な産業」であるという前提で取り組んでいる。
長野、宮城はその視点がない。
・地場の中小建設業は必要ないという視点(でも除雪はやってね)
岩手の紹介
・岩手県と岩手県土木振興協会と建設業協会の三位一体の取り組み
・岩手県は県営工事3割削減(知事のマニフェスト)
・イキイキステップアッププロジェクト
・最低限のITリテラシーを身に着ける。
CALSのボロメオの結び目
・国交省・自治体・中小建設業の三位一体の取り組みはダメ!
→市民社会がない→限界
CALSの目的
・市民社会へのアカンタビリティ
・市民社会が理解できる電子納品
市民社会・自治体・中小建設業の三位一体
→CALSの目的
市民社会への視点がない、電子化、CALSは意味がない
ネットワークでは
意味と信頼がほしい
意味:物語
市民社会へ向けて発注者と中小建設業は「同じ穴のムジナ」
技術論も大切だけど、哲学をベースに行動しないとダメ
芦別建設業協会の取り組みの紹介
・発注者と業者が一緒に考えよう。
・市民サービスとしての公共事業を一緒に考えている。
「へんてこりんな」電子納品の紹介します
・表現としての電子納品の可能性の追求。
ご存知「平和建設」大洗作業所のPPTの紹介
周りのブースで他社のベンダーさんが一生懸命自分の会社の商品を説明しているのに大音響でPPTを展開。
急に人が集まり始める。(笑)
PPTを見終わった後
「わたしが認めている唯一の電子納品はこれです。」
このPPTは、自治体、地域社会には受けてます→難しくない。
商売の原点→繋がる、異質なものと繋がる、
公共事業→市民社会と繋がる。
意味と信頼を市民社会に伝えられる電子納品でないと意味がない。
みんなが幸せになる仕組みを考え直さなければならない。 |
さて、昨日はこの(↑)の仕事終了後、タクシーを拾おうかと外で待つこと30分。
タクシーがこない!
しかたなく「ゆりかもめ」で新橋経由にしようかと、乗り込んだとたん、誰かが何処かで非常停止ボタンを押したらしく、ゆりかもめ飛べません!
しかたなく、湾岸線で新木場へ。新木場からは有楽町線で月島へ。月島からは大江戸線で両国まで。そして歩くこと約10分、ようやく目的地の巨牛荘へ着いた。
http://www.gnavi.co.jp/wdi/kyogyu/
そしてまずは一杯。
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そして、ケジャン、レバ刺、豚足。
ケジャンは独特。
つるりとした触感がすばらしい。
残り汁は後でお楽しみがある。
豚足は、とてもやわらかい。 |
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さらに、上タン、プルコギ。
タンは味付けがしてあって、焼き上がりを何もつけずに食べるスタイル。
そして、ここのプルコギは絶品なのだ。
特徴のある鍋の周縁は水。
蒸焼なのだが、なんともいえない程うまい。
そして最後はウドンで締める。
そのときケジャンの残り汁を少し混ぜる。
もの凄く美味い!っていうのはこのことを言うのだ。 |
ということで、今日は夕方に国土交通省へ行かなくてはならない。
2005/01/20 (木) ▲ ▼
【悪党・浅草】
午前8時起床。
浅草は晴れ。
結局、昨日中に帰京したのだが、今朝の女満別空港の状況を見ると、既に欠航になっている便もあるようで、今回の骰子一擲は、まあうまくいったということだろう。
今日は、2005年1月20日 CALS/EC MESSE 福井コンピュータブースにて講演。
昨晩のビール。
オホーツクビール(エール)である。
OKBというラベルも誇らしい。
OKといえば、我々の間では「オホーツク」なのである。
女満別空港の夕餉での一杯である。
右の写真は、スープカレー(マトン)
北海道におけるスープカレーの位置づけは、今や札幌ラーメンのごときであり、ここ女満別空港にまでその生息範囲を広げてる。
都内にも、スープカレーの店は増え続けているようだ。
今回は、マトン入りを食べて見たけれども、なかなかうまい。
マトンは好き嫌いが激しい肉だが、わたしは大好き。
特に、空知で食する、マツオやカネヒロのような、タレに漬け込んであるタイプのジンギスカン(鍋)はたまらない。
じつは、都内では今、ジンギスカンが隠れたブームなのである。
わたしも数店舗、取扱店を確認済みではある。
ぼちぼち紹介できるかと思う。
今回のおまけ。
これは、北見の「治助」のテーブルにあったもの。
さすがだ、寒さが違うのだ。
さて、お約束の、今回の北海道ツアーで使用したPPTを掲示したので、必要な方はダウンロードしていただければと思う。
→ →BD05017.zip -zip 2.95MB (掲示終了→必要な方はメールにてご連絡ください)
室蘭と北見では、話の内容は違うのであるが、今回のは室蘭で使用したPPTである。
ただ、基本的には同じPPTを使っているので、北見もこれで大丈夫だろう。
ただ、PPT中の非表示スライドは確認していただきたい。
非表示スライドは、実際、室蘭の講演では飛ばしてしまったものだ。
ただこれは、最初から非表示にしているのではない。
講演中にPPTを選びながら話すので、その選ばれなかったものが非表示、ということだ。
では北見での講演は、全部話したのか、といえば、使用したPPTはもっと少ない。
それは時間的な制約のためで、わたしの講演時間は、どんどん押されて、当初予定されていた2時間30分から1時間30分へと短縮されてしまった。(芦別の方々のプレゼンはとても面白かった)
さらには、室蘭が「事業者団体ベースのIT化入門」、北見が「哲学のあるIT化」という、フォースの違いもあので、実際には、北見では室蘭の非表示部分を多く使っている。
共通しているのは、インターネットが実社会に及ぼしている影響(スケールフリー)と「表現」に触れる部分、つまり、イントラネットを使った反省の行為について。
そして、経営の本質は、投資とその回収の骰子一擲であり、人材教育(IT化教育)は投資であることだ。
ということで、まにあ・1号レポートを参照にしていただければ、と思う。
【 桃知さんのまとめの講演・企業ベースのIT化
】
今回は話し言葉の速記でまとめています。
芦別建協・芦別市役所がやろうとしている事・・・それは
「公共事業という産業」について、
役所で公共事業を担当している発注者
実際に作業をしている受注者
どちらも、「おなじもの」を土俵にしているわけなのです。
北海道は公共事業の依存率が高いのだからそういう部分を含めて考えて何でもかんでも「価格」で解決する事が本当に良いのか!?という事を、受注者と発注者が一緒に考えていかなくてはいけないのではないでしょうか?
これが事業者団体ベース(建協ベース)のイントラネット構築という事であろう。
芦別がやった事、
事前に打ち合わせ、終わってから反省・検証これを受発注者が顔をつき合わせて出来た!というのが大きな意義!
「インターネット」というものが我々にどのような影響を与えているのか?
これを考えるのが、協会ベースのIT化。
では、個々の企業ベースのIT化は何なのでしょう?
「現場状況報告」が中心なのです。
私(桃知)のITコンサルテーションの中身はコレ一つ。
アナタたちの会社ではじめて御覧なさいよ、出来ね〜から!
「表現」・・・たとえば「俺の現場をみんなに見て欲しい!」
と思うような心の中に「パッション」が無いとダメ。
「現場状況報告?そんな事やって、何になるんだ?土建屋は違うだろ?
土建屋は現場にでてナンボだ?」
そんな声が聞こえてきて、みんな失敗するんだ。
現場からアクセスフリーで、インターネットがあればどこからでも入れる
という環境を作らなくてはいけない。現場同士をつなぐ、現場のネットワーク。
電話線もつながらないよ・・・というようなところでも「家に帰ってから」
「飯場にかえってから」ならつながるでしょう?
情報がない・・・という事はどう?いうことか?現場で何もしていない・・・
ということなんですよ。
「今日、私は何をやっているか」これを主張・表現する場がイントラネット。
インターネットが生まれてしまったのだから、公共事業がこんな事(ジリ貧)
になってしまったのだよ!インターネットがなかったら皆さんもっと幸せだったはずなのだよ!知らなかったでしょ?
わかるかい?わかんないよなぁ?じゃ、説明しようか?
インターネット社会について考えてみようよ。
今のインターネット社会は二つの方向性があるのさ。
グローバル化とコミュニティ化だね。
1〜4までの象限(空間)が今という「インターネット社会」というわけ。
それじゃ、皆さんは今、何処にいるんだろう?
世界に羽ばたけるか?
地域で好かれるか?
世界に羽ばたき、地域でも好かれているか?
地域で好かれないと何も出来なくなってしまうんですよ。
不景気というのは「お金」が回らない状態なわけですよね。
じゃ、お金をあちこちに回す、そう!バラまきゃいいわけですよ。じゃあ、
お金をどうやって「バラまく」か?それを真剣に考えたのが「ケインズ経済学」さ。
お札をカラーコピーしたら捕まるでしょ?だから、公共事業なのさ、公共事業で、お金をばら撒いて・・・そしてそのお金でみんな飲みにいくでしょ?そこでおカネを使うわけだ。
公共事業は「飲むため」にやってるんだよ!(笑
でも、このケインズ主義者は・・・・もう皆ご存知だよね?
植草さん・・・う〜ん、手鏡で死んでしまったね?
亀井さん・・・その名のとおり静かになってしまったねぇ。
インターネットがこのケインズ主義をぶっ飛ばしてしまったわけさ。
不平等のカタマリがインターネットなのさ。
インターネットは閉じないネットワークで不平等のカタマリなのさ。
インターネットは閉じていないから破裂しなくて・・・いつまでも膨らみ続ける。
これをスケールフリーネットワークというのさ。
貧乏人はますます貧乏に・・・金持ちはますます金持ちに・・・そういう世界なのさ。
インターネットがもたらしてくれたものがコレさ!
つまり、
「これからどうやって食っていけばいいんだ俺たちは?」という事を考えるのがIT化ということなのさ。
おれは「現場代理人しか出来ない!?」と言って、「じゃあ、アナタかわいそうね、失業手当三倍あげよっか?」とは絶対にならんよね?
これから、もっと仕事がなくなっていくんだぜ、そんな中で「自分はどうしたらよいか?」
を真剣に考える事がIT化なのさ。わかるかい?
つまり、自分自身とは何だ?自分はどうしたらよいか?考える。これが哲学というもでしょ?
生物としての私。
おっぱいに吸い付いている私。つまり、おっぱいを飲み、しっことウンチを垂れ流している状況、これが完全無欠の幸せの状態なのさ。
今、これ、オレがやったら残念ながら病院に連れて行かれるでしょ?本当はそうしたいんだけど・・(笑)
だから、つながる・・・ために言葉を使うのさ。
我々は言葉で考える生き物でしょ?
考える能力・・・語彙・ボキャブラリ。これにより「考える」「表現する」能力が決まってしまう。
この考える場所が「サイボウズ」なのさ。
ここで皆考え方を変えないといけないのさ。
今日はね「複雑系」の話をしたかったのですよ。でも時間ないね。
世の中にはね、フラクタルというものが存在するのですね。
社長様の考え方という物が会社の中に同調して存在してゆくのですね。
そして、それで「均衡」してしまうのですよ。
ロシアの人形マトリューショカ!
社長、専務、常務、部長、課長、係長、ヒラ・・・どれをとっても会社が分かる。
この「均衡」のまま固まってしまう、動的に変化できなくなってしまうとどうなると思う?
環境は変わっているのに自分は変化できない・・大体そういうものは絶滅してきてしまってましたよね?
じゃあ、何が変化に対応できる、変化できる?進化できる?
これはミームというものしかないのさ。今日はミームの話は時間的に出来ませんけどね。
唯一我々が生きていて動的に変化できるもの・・・これはミーム。
「情報はただ流れている、問題はそれが見えるか見えないか?」である。
Y=aX のaをどう扱うかかなんですね。
aは北大の山岸先生は「社会的知性」、養老猛司は「現実の重み」桃知は「マリアビリティ」と言っている訳なんですね。
情報が「見える」という事。この情報は有益なのか否かを判断できる力を養う事。
必要な情報は「自分で取りに行く」事です。
たとえば、今とんでもないメールが来るでしょ?
「アナタの精子50万で買います」だってさ。本気にするかい?本気にして相手にしたら逆に100万位取られるかもしれないじゃないですか?
だから、この貰ったメール(情報)は信頼に値するかどうかをしっかり考える事が出来る能力・・・これを「情報が見る能力」というわけだ。
信頼・・・私はアナタを信頼するという能力
信頼性・・・あなたに私が信頼してもらえる能力。
つまり信頼性を高めるためには、情報を発信しないといけないのさ。
中国語を習いに行くと一番最初にやるのは何だと思います?
話す、聞く、書くでしょ?まず、情報を出すからなんですよ。
だから「情報を出すトレーニングをしなきゃいけない」んですよ、わかります?
現場は現場の情報を出す。という事を徹底するわけです。
これを繰り返して、徹底してゆくと、「情報が読める」ようになるわけなのです。
ITを使って自分で自分自身のことを語る。ということなのです。
これを私は「ITを使った反省の行為」といって来たわけです。
つまり、情報を出すと情報をつかみやすくなるという事なのです。
まずは自分の能力精一杯に言葉で語るわけなのです。
言葉で語りつくせない位自分の現場を語る。
これを社員教育と呼ばずして何を社員教育と呼ぶか!
投資は何処にするのか、何にするのか?「社員」しかナイでしょ?
皆さんの会社の社員の情報を語る能力を上げる・・・ここに投資をしないで、一体何処に投資をするんですか・・って話なんですよ。
投資しないものに回収はありえないでしょ?社員に投資しない社長に一体何が回収できるのですか?
社員の「脳みそ」に投資をする・これがIT化イントラネット。
反省の共有化。
一人一人が行っている反省・・が全ての社員で共有できる。これがイントラのすごさなのさ。
個々の社員がともに動的に振るえ同調する「共進化」するとこれはどうなるか?
エラいことになるわけなんですよ。
これを同調させる仕組みがイントラネットであり、サイボウズなわけなのですよ。
サイボウズをコミュニケーションツールと決め付けてしまう・・・とそれで終わってしまうんですよ。
考えなくなってしまう。
個(社員)は種(会社)のミームの中で育つんですね?そのときに会社の社風の中に「お前頑張って変化しろよ」というミームがあるとすると、その社員は変化を始める。そうなると、個々の社員が同調し変化をはじめ、環境変化に対応できるわけなんです。
これを種の理論といいます。
この種が不変であると・・・個が変われなくなり、種はますます変われなくなり、絶滅へ向かってしまうわけなのです。
イントラネットを使ったIT化は間違いなく社員を鍛えます。
ただ、いくつかの条件があります。フリーハンドで書けということ、あ、ひとつありましたね。写真のサイズだけは600×450ピクセルコレに統一してますね。
最初はイヤになるくらい書けないんですよ。
わずか3〜4行書くのに1時間も2時間もかかるわけなんですよね。
でも決めちゃいけないんです。いつ、何をどう書いてもいい。これを徹底する事です。
今日私が言った話を職員に話してもらわないとだめですよ。
これはアンタたちのために言ってるんだぞ!アンタタチ個々のマリアビリティを高めないと結局アナタタチがドボンになってしまうんだぞ!とですね。
これはマニュアルでは対応できないんですよ。誰も対応できない。
PDCA・・・フィードバックには二種類あるのです。
ひとつめは「負のフィードバック」
ところがコレだけじゃやっていけないのさ・・・ここに「正のフィードバック」を入れてあげないといけない。これがこれからの変化の大きい時代に生き残っていける条件なのさ。
骰子一擲(さいころいってき)人生における一番強烈な骰子一擲
自分自身の人生がいつまでたっても偶然に左右されてしまうのさ。
自分の意思で自分の人生を決めるのが「哲学」ってもんで、それをデジタルで行うのがIT化なのです。
と、言うところで時間がぴったりですね。プロでしょ、私?
言ったとおり、きちっと時間で終わらせた。素晴らしいですね。
本当はもう少し、複雑系の話をしたかったのだけれども、それはまた、改めて機会があればしゃべりましょう。
みなさん、今日はありがとうございました!
【吉川所感】
今日の桃知さんは、よほど体調が回復されて調子が良かったのか、芦別の素晴らしい発表に触発されたか、のっけから「アジテーション・モード」全開のしゃべり。思わず、「速記」も話し言葉でまとめてしまった。
建設業の企業ベースのIT化を「現場状況報告」の真摯な繰り返しに求め、自分が会社がどうあるべきかを考えてゆく事こそがその目的なのであるとされる。
そして、そこ(現場代理人が現場状況報告を書けるようにする)に投資する事が、企業ベースのIT化の目的の全てであると非常にシンプルに力強く語られた。
つまり、投資の対象は「人」であり、回収も「人」を通してのみ実現するという事なのである。
これは、結局は建設業に関わらず、どんな業種であっても結局は同じ事なのだと、最後は私自身も結局一受講者に徹してしまった芸には脱帽でした。 |
2005/01/19 (水) ▲ ▼
【悪党・@北見】
午前6時起床。
北見は曇り。
今日は午後からセミナーがあり、予定ではもう一泊して明日帰京の予定だったのだが、明日の天気予報をみると、北見地方は暴風雪。
女満別空港は、道内でも屈指の、飛べない、降りられない、飛行場であるわけで、明日の予定(午後3時から都内で講演)を考えて、大事をとり今晩の最終便で帰ることとした。
二日続けてレバ刺を食べていた。
内臓系の食べ物、特に生は、好き嫌いがあるだろうから、一概に、皆さん美味しいからたべましょうね、というわけにもいかないだろう。
しかし、上の二つは、わたしにとっては、どちらも記憶に残る美味しいものであった。
左は、室蘭の「一平」のもので、ルイベ状態になっている、
右は、昨晩の懇親会場であった、北見の「治助」、タマネギのスライスは以外によくあう。
今日のホテルは、インターネット接続サービスがあるのだが、なぜかうまくいかない。
本来であれば、昨日の講演用PPTをアップする予定でいたのだが、H"でつないでいる現状では、それもままらない。
なので、本日の講演用PPTと併せて、明日にでもアップしたく思う。
さて、いろいろとお伝えしなくてはならないこともあるのだが、今日は、講演会までの時間を、自分のために使いたいので、後はmixi日記に載せたものを引用して茶を濁す。m(__)m
■オタクの条件
さて、mixiを使っていて改めて感じたことですが、それはオタク的なものの再評価です。
岡田斗司夫によるオタクの定義。
1・進化した動体視覚、つまり、映像に対する感受性を極端に進化させた「眼」と、
2・高性能のレファレンス能力、つまり特定ジャンルにとらわれず、ジャンル間をクロスオーバーする能力と
3・飽くなき向上心と自己顕示欲を
もつ人間たち。
才能だけではオタクにはなれない。オタクになるためには、天文学的な経済的、時間的、知性的投資を必要する。努力と精進、そして自己顕示欲が門を開ける鍵である。
らしいのです。当てはまりそうな方が何人かこの桃組にもおられますね。
だから、特定の分野だけに関心を持ち、ひとりで引きこもっているのは、オタクとはよばないのです。
アニメオタクとか、○○オタクというような使い方はオタク的ではないのです。
むしろ多面的な関心と交流が特徴なのであり、群がって活動する傾向が強いのです。そして自己顕示欲が強いのでして、引きこもるわけがありません。
そして、オタクはクリエーターであるよりは、優れた「評論家」が多いのです。「作品の良さを理解して言葉にできる」のです。評論は人と人とを、人とモノとを結びつけるわけで、つまりネットワークを作ります。
でも、優れたクリエーターではない場合が多いのですが、まあ、それでも何も表現しない方々よりははるかにクリエーター的ではあります。
まあ、こんな按配で、オタク擁護を書き始めると終わらなくなるのですが、私がリンクの多いHUBと呼んでいる方々って、たぶんに、オタク的なんだなぁ、と感じているわけです。
つまらないのは、中途半端な専門家ですね。
オタクは「○○オタク」などと専門分化された存在ではないことを再確認しよう。(笑)
専門分化された方々は、まにあ、とかコレクターなのね。
だから、「まにあ・1号」なのですね。(笑)
2005/01/18 (火) ▲ ▼
【悪党・室蘭で食う】
午前6時40分、室蘭にて目覚める。
今朝の室蘭は曇り。
昨晩のビール。
「一平」にて。当然にやきとりで飲む。
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室蘭のやきとりは少々変わっていて、正肉というと、なぜか豚肉。
それもたまねぎがはさんである(たまねぎは北海道の特徴のように思う。岩見沢でも美唄でもたまねぎだった)。
お店の人に聞いたら、タレで食べる方が多い、とのことなので、初めての地、素直にそうしてみた。
これは、見た目はくどそうなのだが、なぜかバクバクいける。
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そして〆。
なぜか、見た目そのまんまのラーメンサラダ。(笑)
そして、まにあ・1号さまによる昨日の講演レポート。
【 事業者団体ベースのIT化入門編 】
岩手建協のイントラにアクセスして「事業者団体ベースのイントラ」を
見せる事からはじめる。
コミュニケーションをデジタルにすると、二次利用、三次利用できるところ閲覧状況→Excelで実演。
次に、空知建協のイントラ
協会から各会員への連絡がデジタルでDocuworksを利用しながら行われている
様子を実演。
IT化の一つの具体的事例として協会イントラを見てもらう事で具体的にイメ
ージを図ってもらう手法。
そして、「事業者団体」協会イントラネットの意義について講演が始まる!
建設CALSつまり電子入札・電子納品を進めて「何かいいことはあったかい?」
という投げかけからスタート。
仕事取れてないよね?だから一部の方からはIT化に対する否定的拒否的なイメージが湧いてくるのもやむをえない。
でも、ちょっと我慢して聞いてね。ITはそんなに悪いものじゃないんです。
まず、自らの身の上話「インターネットにHPを開設」から
楔さんの紹介、そしてウィークタイへ。
そして、これからは時代はスケールフリーネットワークの世界に移行してゆ
くという事、つまり、
・カネ持ちは、ますますカネ持ちに。
・貧乏人は、ますます貧乏に。
楽天、ライブドア、Yahooなど、本当に少数が一人勝ちするような世界。
1:不公平
2:フラクタル、自己相似性
3:無限大・・・閉じない ベキ法則、パレート法則、80:20の法則。
マーケットソリューションの世界。
CALSはもともとこの世界を志向している。
と、言う事は、我々(建設業界)はコミュニティソリューションを目指さない
といけない。ということ。
その、きっかけとしてのイントラネット。
そして芦別建協のイントラ。
ITを使って何をやるかを「発注者と受注者が同じ土俵で考える」
ここを「発注者と一緒に考えられる」というところまでもっていけないとダメ。
やる意味がない。その一つの「例」としての芦別協会イントラ。
「濃くて狭い紐帯」が必要。その核となるのが「協会IT化」なのである。
そして必要な事は「考えるIT化」つまり各企業ベースでのIT化。
まず、IT化で扱う情報は「ミーム」である。
では、ミームとはなにか?
「つながる(コミュニケーション)為のツール」・・・言葉
「考える為のツール」・・・言葉
例えば「虹の色」
日本では7色、欧米では6色(藍色がない)どちらにしても「言葉」があるから7色とか6色とかが「伝わって(コミュニケートされて)行く」
言葉はコミュニケーションツールであり、コミュニケーションツールとして
IT化を図る必要がある。
言葉は考える為のツールであり、考える為のIT化を図る必要がある。
「情報はただ流れている、問題はその価値が分かるかわからないか」だけなのである。
情報の価値が分かる(情報が見える)IT化にしていかなくてはならない。
情報はカネである。
CALS・ECの時代・・・情報は自分で探しに行く。
情報が見える力 Y=aX 係数a(マリアビリティ)をあげてゆく行為。
「マリアビリティ」・・・すぐに姿形を変えられる能力!
情報が見える能力を上げるためには、情報を発信する能力をあげなくてはならない。
イントラを推進してゆく上で最も重要な事。
1:スケジュール
自分で情報を出す事の第一歩。私は忙しいんだよ!という自己表現。
2:現場状況報告
現場のIT化、もっともマリアビリティを高めたいのは「現場代理人」なぜ
ら建設業はいうまでもなく、「現場が稼ぐ」からである。
・自分の現場を自分の力で表現する。
・現場が見える力を育てる。(現場の中に流れる情報をつかめるようになる)イントラネットを使った「反省」
この反省の行為により、言葉で語れる知恵だけでなく言葉で語れない知恵もつかみやすくなる。
サイボウズを使って自分自身のことを語るからはじめよう!(考えるIT化)
これは実は効果がものすごく高いのである!
なぜなら、「投資」と「回収」・・・
つまり、今まで、お金を何に「投資」してきたか?社員に「投資」してきたか?
社員に投資して回収する・・・これがビジネスの姿であろう。
我々のやっているIT化は分かりやすく言えば「人に対する投資」なのである。
一人の社員の書き込みを全員で見る。
一人一人の社員(個)の成長を会社(種)の成長にしてゆく。ということなのである。
大事な事は「フリーハンド」で書く。
フォーマットでミームは見えない。フォーマットで固めてしまうと「アタマのモルタル化」がすすんでしまう。
最後に平和建設のPPTでしめる!
最初から「人に見せよう」として施工する。
このあたりの「見せようという気持ち」が良い施工につながる。
表現する力がつくということは自分自身が変化してゆくという事でもあるのだ。
【 吉川所感 】
久々に聞いた入門編は随所が細かくリニューアルされていて、桃論全般を俯瞰するイメージでとても分かりやすい入門編。私自身が非常に楽しめました。このレベルだと受講者は当然のように一人も眠る事が無く、最初から最後まで引き込まれるように聞かれていました。
久々に時間をオーバーして引っ張った熱いセミナーでしたね。
熱いセミナー、ありがとうございました!!! |
使用PPTは後ほど。
本日は北見へ移動、その後、網走建協の方々と会議が予定されている。
2005/01/17 (月) ▲ ▼
【悪党・北の大地へ】
午前5時30分起床。
浅草は真っ暗。
まずはお知らせから。
新年会も申し込みは、一応明日まで。
忙しい方も、忙しくない方も、浅草で、是非F2Fの醍醐味を堪能しましょう。
お申込・詳細はこちらから(↓)
→ 2005新春講演会&新年会のご案内(無事終了いたしました)
ということで、今朝は、ANA 053 東京(羽田)(08:00)
- 札幌(千歳)(09:35) で、北海道入り、その後、陸路、室蘭までの移動し、室蘭建協さんにて講演。
なので時間がありません。
では、ほな股!。(笑)
2005/01/16 (日) ▲ ▼
【悪党・語彙をひとつ増やす】
8時45分起床。
浅草は雨。
予定されていた雪はない。
ただ、しとしとと雨がふっている。
風邪気味な身体は、徐々に回復に向かいつつあるようで、今朝は36.4℃まで戻った。
今朝方、本を読んでいて意味のわからない語句があった。
「頽落」というものだ。
なにか心に引っかかるものがあり、まずは、いつも使っているMicrosoft
Bookshelfで調べてみたが、該当するものはなく、それらか、わたしの手元にある辞書をひいてみたが、どれも載っていなかった。
(つまり、たいした辞書は使っていない)
それで結局ネット検索。
これが一番わかりやすかった。
http://eda.s68.xrea.com/archives/000192.php
そこ(↑)にあったテクスト(↓)。
ハイデッガーは日常的に行なわれる人との付き合いや気遣い、好奇心とか仕事も非本来的という。人間の頽落ともいう。作家筒井康孝の解釈によれば
(人は)非本来的な生き方をしていると思ってない。自分は有意義な生活を送っていると思っている。本人は生きがいを感じているが、この人は本来的にやっているのか非本来的にやっているのか分からなくなる。これを曖昧性という。これは頽落であり、頽落していることによって安らぎを得ている。 |
じつは、今日読んでいて(というよりはトイレで目を通していた)、「頽落」という語句を目にしたのは、清水博先生の「場の思想」という本だ。
場の思想
清水博(著)
2003年7月17日
東京大学出版会
2940円(税込)
この中で「頽落」はこう使われていた。
『現在でも、日本は場の文化の国である。しかし日本の現代社会の場は出会いの場ではない、それは群れあいの場である。』
『自分自身の死と向き合って生きようとしない人々が互いに群れ合い、お互いに依存し合うことによって見せかけの安心感を得ている社会、それが現在の日本の社会である。』
『群れ合い方にもさまざまなタイプがあり、また群れ合うことがつねに悪いわけではない。群れ合いの社会を作り出すのは頽落した精神である。』
『問題はその頽落した精神にある。頽落した精神がつくる群れ合いの場では、生死の非日常性を日常的な安逸性が覆い隠してしまう。さらに日常的な多忙さに追われて、自らを深く省みる余裕がない。』
『そこでテレビを見たり、買い物をしたり、ゲームに夢中になったり、さまざまな気晴らしに心を奪われて生きることが、死の不安を忘れさせてくれる。』
『そして人々は安楽を人生の目的として追い求めようとする。精神の頽落によって生まれる場がさらに頽落した精神を生み、人々の創造的精神を空洞化するのである。』(場の思想 ,p137)
まあ、こんあ具合だ。
清水先生の「群れ合いの場」を、山岸俊男先生のいう「安心社会」と重ね合わせて読むことで、この文脈は理解できようか、と思う。
そして山岸先生のいう「安心社会」が、個の精神の頽落していいる社会であることもわかるだろう。
逆説的には、「安心社会」の対極にある「信頼社会」は、個の精神の頽落していない社会、ということもできよう。
しかしだ、言うは易しく、実践は難しい。
頽落的だ、と言われてしまうだろうが、わたしは依存の人であることを自覚している。
この世界にどっぷりとつかることは心地よいのである。
なによりも、考えなくとも済む。
「自らを深く省みる余裕がない」ではなく、「自らを深く省みる必要がない」のだ。
その自覚の上で、こうして、ネット上ではあるが、自らを省みる(反省の)時間を毎日つくり、なにかしらの省みる実践を試みている。
そしてそれが、「広くて薄い紐帯」というものをつくりだしてきたのも事実だと思う。
そして思うに、そこには、ある種の緊張感は必要なのであろうと思う。
そえは「自らを深く省みる必要はある」よいうようなもので、それは、外に向かうものと、内に向かうものとの二が同時に起きるものだろう、と感じている。
それは安心社会でもなければ、ばらばらな個の集合の社会でもない。
自らを省みる(反省の)ことから生まれる信頼のようなものが機能しているコミュニティであり、ネットワークであるように思う。
すなわち、「広くて薄い紐帯」なのだろうと考えている。
▼
■桃知商店謹製■
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