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店主戯言050801 2005/8/1 〜2005/8/15 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を創造する
2005/08/15 (月)  
【二重螺旋逆転】

午前5時30分起床
 浅草は くもり

村上隆の絵は好きです
 なまぬるくないのが 好きです

これは 「Reversal D.N.A」と題されたもので
 つまり 「二重螺旋逆転」です

その名のとおり
 ネガポジの反転したイメージによって“DOB君”が描かれています
 「かわいい」はずの DOB君は
 ますます融解し
 目の数もどんどん増えていき 見事にグロテスクです

わたしはこの絵に
 「かわいい」への「萌え」(逆転したエロスと解釈しています)が
 光と影を逆転させると
 「死への衝動」(タナトス)になることを 見ていました

つまり この絵の光と影は
 とても バロック的なのです

バロックは 民族を代表する文化の誕生を宣言します
 そして なによりも 自然主義であり リアルな印象を
 見るものに与えようとするのですが

しかし さすがに 「Superflat」
 バロックの特徴である 光と影は なんと「Reversal」 なのです

そして たとえば DOB君が D.N.A なのだとすれば
 「Reversal D.N.A」 つまり 「二重螺旋逆転」が示唆するものが
 私たちの持っている D.N.Aの記憶の

それも とても古い層に(つまり 無意識に)
 結びつこうとしているように感じています

それはとても 縄文的なもののような気がします

この絵は 版画版が売りに出ていて ほしいなぁ と思うのですが
 2450ドルもします
 だれか 買ってください ^^; 

2005/08/14 (日)  
【ブルデュー再読】

午前7時起床
 浅草は 晴れ

『私がその結末を目にすることは絶対にないでしょうが、そんなに大きな危険もなく告知することができると思います。あらゆる集団的構造―家族、アソシエーション、国家―のこうした破壊のプロセスを長引かせておくなら、いまだかつてまったく見たこともない知覚不可能な結果―都市部における暴力等、その徴候はすでにあります―が出現するのを目の当たりにすることになるでしょう。』

『一方の手で節約(経済化)したものの代価は、他方の手で支払うことになるのです。実施されつつある破壊プロセスの影響はかなり経ってからでなと分かりません。時間をかけなくてはならないでしょう。』

『医療システムが崩壊するよりも前に、なおも沢山の献身的に尽くす看護したちがいますし、言ってみれば、システムの意に反してシステムを救う沢山の人々がいるからです。学校システムも同様です。フランスの学校システムは内部崩壊の途上にあります。となれば誰が黙っていられるでしょうか、こんな……

非常事態の時に。』(『政治』 ピエール・ブルデュー p68)

政治―政治学から「政治界」の科学へ

ピエール・ブルデュー(著)
藤本一勇(訳)

2003年12月30日
藤原書店

2310円(税込)




 郵政民営化に:賛成 = 構造改革推進派 = 小さな政府
 郵政民営化に:反対 = 構造改革反対派 = 大きな政府

この「わかりやすい」というだけの
 キャッチフレーズが 強調されていることの問題点は

上に引用した フランスの社会学者
 ピエール・ブルデューの言葉でも 明らかなのだと思います

今 日本が直面している非常事態とは
 郵政の民営化の問題だけでも
 大きな政府か 小さな政府かの問題だけでもないはずです

本当の危機とは  たとえば ここ(↓)に
 氷山の一角として 浮上しているもの
 そしてその背景にあるものだと考えています

 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/neet_and_freeters/

たとえば ここにある ニートの問題は
 (ブルデューの言葉を借りれば)

あらゆる集団的構造―家族 アソシエーション 国家―の
 こうした破壊のプロセスを長引かせておいたために生まれた

いまだかつてまったく見たこともない
 知覚不可能な結果の一部でしょうし

「中景」の喪失の過程なのであり
 希望の喪失の過程なのであり
 欲望の喪失の過程なのであり

その解決策が
 郵政民営化に:賛成 = 構造改革推進派 = 小さな政府
 なのだとは どうしても思えないでいるのです

今 私たちが反省しなくてはならないものは
  『剥き出しの経済力に施された新自由主義的な粉飾』であり
 つまりそれを代表するかのような

 郵政民営化に:賛成 = 構造改革推進派 = 小さな政府
 郵政民営化に:反対 = 構造改革反対派 = 大きな政府

という粉飾された フレーズなのだと 思っています

(この かわいそうな元自民党支持者に
 どなたか 納得のいくように説明してください)

ブルデューはいいます
『この十数年来私たちに提供されてきた類の、剥き出しの経済力に施された新自由主義的な粉飾は、その構築のために大変な黒が重ねられてきた社会秩序を極めて深刻な形で破壊する過程を生み出しています』(『政治』 ピエール・ブルデュー p66−67)

2005/08/13 (土)  
【悪党的】

午前7時起床
 浅草は くもり

小泉純一郎首相の言動を考えていました
 8月11日に書いたように それには

なにかのいかがわしさ を感じるからであり
 なにか気持ちが悪いからです

それは 法治国家の最高権力者としては異質な
 鎌倉時代末期から南北朝時代にあった
 「悪党」性を 手本にした似非悪党的なものではないのか
 と考えています


週刊 ビジュアル日本の合戦(8)
楠木正成と赤坂・千早城攻防戦

2005/08/16
講談社

定価(税込):580円










鎌倉時代末期から南北朝時代にあった「悪党」性
 それは 楠木正成に代表されるものです

楠木正成は 後醍醐天皇に仕え
 鎌倉幕府倒幕に活躍した武士ですが

そもそもは 法治の枠の外にいた 悪党でした

それは 通常我々が考えるような武士ではなく
 友愛と忠節のモラルにしたがった
 当時の東国の武士団(鎌倉幕府)とは
 まったくエートスを異にする 悪党的武士です

その記述は  中沢新一さんの 『悪党的思考』に詳しいのですが
 小泉首相のやり方は
 なにかこの悪党的を模倣しているように思えます

悪党的思考悪党的思考

中沢新一(著)

1994年 平凡社 999円(税込)







小泉首相が 楠木正成的だといえるなら
 自民党内の反対派 と呼ばれる方々は
 東国の武士団(鎌倉幕府)のようなものでしょう

彼らは

『律令制度によって開拓されはじめた農耕地とそこに生きる農民の支配者として勢力をたくわえていった武士団』であり

『律令国家の法治主義的な土地制度によって開拓され、律令計量され、配分され、税を徴収されるような空間』に棲む

『「仕切られた空間」からもたらされる富を支配する武力を持った権力』
『悪党的思考』 p49)

を代表する方々なのだと思います

これに対して 悪党とは ボヘミアン的であり
 友愛と忠節のモラルにしたがった
 交換体系のモラルは通用しないのです

『戦闘における儀礼が行われているというのに、そのもたもたした速度が気に入らないといって、彼らはいきなり石を投げつけてきたり、奇襲をかけたりする。』
『悪党的思考』 p49)

正成は 「悪党」にして山岳ゲリラ戦の名手であり
 その戦術は 「悪党の戦法」と呼ばれています

それは 正々堂々とは ほど遠く
 現実的な勝ち負けにこだわります

そこには 『平家物語』 たとえば
 有名な「敦盛最後」に描かれるような
 人間同士の感情の交流も 戦いの美学も見えません

鎌倉方の武士が 堂々と名乗りをあげているところへ
 いきなり石つぶてを浴びせ
 馬上から落ちた武士に 悪党たちがいっせいに襲い掛かる

相撲とプロレスの異種格闘技戦を
 相撲のルールでやろうと 合意しながら

仕切りの最中に いきなり相手の顔めがけ塩を投げ
 ひるんだ隙に ラリアットをぶち込むプロレスラー
 のような戦術なのです

そこには 戦闘における
 儀礼主義の持つ意味などありません

それで 東国の武士は
 悪党を野蛮な奴等だと馬鹿にしていたのですが
 結局 馬鹿にしていた 悪党に 倒幕されてしまいました

小泉首相のやり方は なにか
 これに近いなぁ と感じています

そして そのような剰余価値的トリック とでも呼べる戦術も

『太平記』が 民衆に支持をされたように
 また 国民に支持される可能性が高いのだと思います
 日本人は このような痛快さを 好むのかもしれません

今の日本では 武力で政権をとることはできませんから
 小泉首相的 「悪党の戦術」は

人間のなかにひめられた自然(ピュシス)の力へ
 向けられているように思えます

それも
 手段(自然)として それを 束ねてしまおう
 というような ものとしてです

そこに わたしは 気持ち悪さを感じている
 と 自己分析しています

そもそも「悪党」とは
 その人間のなかにひめられた自然(ピュシス)の力を
 放埓にふるう人たちのことなのですが

その意味で わたしは自らを「悪党」と称していました

しかし 鎌倉時代でもなく
 南北朝時代でもなく 今という時代に
 人間のなかにひめられた自然(ピュシス)の力を
 放埓にふるうためには

つまり 今という時代に  「悪党」 であるためには
 突き詰めれば 「自由」であるためには
 つねに カントの倫理学にある

「自由であれ」という 自らからの命令

そして「他者を手段(自然)としてのみならず
 同時に目的(自由)として扱え」という自らからの命令に
 忠実であろうとしてきました

これらは「自然」からは出てこないものです
 カントのいう「義務」や「至上命令」は
 それは実践的(道徳的)な次元でのみ存在します

それは わたしが わたしに命令することで可能となるものなのです
 わたしが わたしに課した 義務に従おうとしているのです

しかし 首相のやり方には
 この 「自由であれ」という命令
 そして「他者を手段(自然)としてのみならず
 同時に目的(自由)として扱え」という義務を
 ないがしろにするような

つまり 人間の自由そのものを否定するような
 人間のなかにひめられた自然(ピュシス)の力を
 「私」の命令でではなく

手段として 自然のままに
 「他者」の素手でつかみ出されるような 不快感を
 わたしは 感じているのです

2005/08/12 (金)  
【考える技術】

午前6時起床
 浅草は くもり

今日あたりから 夏休みの方も多いのかもしれません
 わたしは まだ少し仕事が残っています

オープンセミナーのご案内に
 2005年9月6日(火) 東京独演会  『考えるIT化〜工作の時間(その1)』
 を掲示しました

「工作の時間」は
 今年の法大ECで 初めて行ったものですが
 最初は単なる思いつきでした (笑)

この思いつきは
 法大EC 葉月桃塾 そしてその後の講演等を通じて
 「伝えられるもの」となるよう わたしなりに 洗練を続けています

「伝えられるもの」とは 「技術」として という意味です
 ミームと言ってもいいでしょう

その技術は考えるための技術であり
 創出の仕組みであり

「考える技術」とわたしが呼んでいるものですが
 まあ 図化すると(↓)のようなものです

しかし とにかく この図はわかりにくいのです
 説明するのに とても時間がかかります

この三つの輪のトポロジー(創出のトポロジー)の出処は
 ラカンの「ボロメオの結び目」です
 
その理解からはじめるのであれば
 最低でも 今年の法大ECのような時間が必要です
 (4時間×7=28時間)

つまり 「考える技術」を モデリングを中心におくことで
 その理解を容易にしようとする試みが
 「工作の時間」なのです

しかし 「工作の時間」には
 創出のトポロジーの理解を伴わないと
 「考える技術」が リアリティを欠く
 というパラドックスがあります

上の図では それは「さらなる2分の1切断」として
 おかれているものです

これを 如何に 限られた時間で伝えるのか
 これが 今回の東京独演会での わたしの課題

つまり 「象徴の一部否定」になります

「創出」は ただ考えるだけでは 生まれません
 デコードするための語彙と
 エンコードするための データが必要です

そのベースが 「考えるIT化」です

「創出」は ふつうには あらわにならないような力を
 けっして自然的とはいえないやりかたで
 引き出そうとするモノの媒介を経て生まれ出るものです

それが 「考える技術」 です

昨日のお昼
 きんじょのつるやさんで 鰻を食べました
 
肝焼きで 一杯やってしまったのですが
 まあ 夏ばてしないように ですか (笑)

2005/08/11 (木)  
【欲望】

午前7時30分起床
 浅草は くもり

昨日は 新田さんのお世話になり
 尾道水道を挟んで
 尾道の対面にある 向島(むかいしま)へ行ってきました

目的は 昨日書いたとおり
 アイスキャンデーを食べる です(笑)

その店の名は 「花月」といいます
 なんともおもむきのある店です
 
昨日は 甘酒のアイスキャンデーと
 アイスコーヒーをいただきました 
おそろしく レトロなたたずまいですが
 尾道の夏には とてもお似合いだと思います

店先には テーブルと椅子があり
 そこで アイスキャンデーを食べていると
 こころは 少年の日に戻るような 爽快さを感じました

それにしても 甘酒のアイスキャンデーです

その発想の大胆さと
 味覚的繊細さには 完敗でした

できることなら 大量に 持ち帰りたかったのですが
 この店 お持ち帰りの場合には
 新聞紙でくるんでくれるだけですから

東京までの4時間以上の移動に
 耐えられるわけもなく それは断念しました

しかし 向島から 持ち帰ったものもあります
 それは クマゼミです
  
浅草まで連れてきたのは ♀です
 途中 食用のパッキンを購入し
 その中に入れて運んできました

♂も捕獲したのですが さすがにうるさいので
 持ち帰りを断念しました
 ♀は鳴かないのです

西日本では ポピュラーなクマゼミも
 浅草では めったにお目にかかれません

いつも浅草寺で 鳴いているのは
 アブラゼミ なのですね

さて 尾道への行き帰りの車中では
 『悪党的思考』を 再読していました

悪党的思考悪党的思考

中沢新一(著)

1994年 平凡社 999円(税込)

(今年の法大ECを受講された皆さんは
 比較的楽に 読みこなせるはずですので
 是非トライしてみてください)



首相の権力の掴み方には
 民主主義の枠で捕らえきれない
 とても 異様なものを 感じています

首相の主張は
 巧妙な 表象代理 であることは 8月8日に書きました

 郵政民営化に:賛成 = 構造改革推進派 = 小さな政府
 郵政民営化に:反対 = 構造改革反対派 = 大きな政府

これは 思考の短絡化であり
 このロジックが 単純に成り立つものでないことは 明瞭です

確かに 最新の世論調査をみると
 今回の選挙の争点は 郵政民営化ではない としています

しかし そうしながらも 首相の支持率は高いのです
 わたしの興味は ここにあります
 つまり 権力の掴み方 です

民意というようなものを
 むんずと わしづかみにしようとする
 そのやり方には

民主主義の枠を超えた
 なにかのいかがわしさ
 なにか とても 古臭いものを感じています

郵政民営化反対派を
 「生贄」のようにしながら 得ようとしているもの
 解体しようとしているものとは なんなのでしょうか

わたしは まだその姿を把握しきれていませんが
 
そこに見えるのは 人間のもつ
 自然としての「欲望」の掴み方とでも
 いえるようなものではないかと考えています 

2005/08/10 (水)  
【境界面】

午前5時30分起床
 尾道は くもり

昨日は 三和鉄構建設さんにて 勉強会をしました
 ご参加の皆さん お疲れさまでした

「工作の時間」をしました
 むずかしい はなしは しなくなりました(笑)

最低限のことを
 工作をしながら はなしをしました
 パロール的にです

それは わたしのクライアントの皆さんが秘めた
 「考える力」とでもよべるものを
 技芸をもって
 引き出そうとする試みです

その技芸は 職人的であり
 「悪党の技術」のようなものであり
 即興のようなものであり

人間のなかから
 ふつうだったらあらわにならないような力を
 けっして自然的とはいえないやりかたで
 引き出そうとするものです

それは 象徴的二元論的思考からぬけだすために
 現実界との境界面に 限りなく近づこうとする
 そんな 試みだと 自らは 理解しています

勉強会を終えて 一献
 さすがに 尾道だけあり
 みなさん 釣りをされます

釣り人は 境界面に近づいていく 悪党のようなものです
 境界面とは 海面であり水面であり
 海中と海上
 自然と非自然
 あの世とこの世の境界面です

それは なめらかな空間としてあり
 その境界面に「うき」はあります

ピュシス(自然の力)である 魚は
 そのままでは けっして 海上
 つまり我々の視覚的現実の世界に
 現れるものではありませんが

釣り人とは その自然の力を
 釣りという技芸をもって
 この世にあらわにしてしまう
 とても 悪党的な ものを孕んだ 人々なのだと思います

そして キャッチ&イート
 すばらしい!(笑)

ということで
 今日は 渡し舟(地元の人はフェリーと呼びます)に乗って
 島に渡り アイスキャンデーを食べてから
 帰ります

2005/08/09 (火)  
【尾道へ行ってきま〜す】

午前4時30分起床
 浅草は 晴れ

今日は 尾道へ参ります
 暑いんでしょうね ^^;

昨日 わたしが機上にある頃
 灰色の党は 灰色であることをやめました

それは 予想していたことではありましたが
 やっぱり ちょっとショックでした

わたしは 自民党の支持者であることを
 明らかにしておきます

ただ 参議院は よくやった と言うしかないでしょう
 わたしの中では
 参議院は なんだか わかんない存在でしかなかったのですが

今回は 良識の府 であることを
 あらためて 示してくれたのだと思います

つまり 二院制システムの 顕示のようなものですが
 それが この時期に 起きたことが
 なにを意味しているのかは
 わかってはいませんが…

政治は そもそも その構造が アポリアです
 (アポリア:一つの問いに対する答えとして相反する二つの見解が等しく成立する場合)

賛成 反対 どちらにも 一理あります

だからこそ
 採決のシステム(多数決ですが (笑))による結果を
 尊重しなくてはならないのですが

それで その採決の結果の解釈も
 見事に アポリアなので 笑うしかないのです(笑)

それは 政治の世界が
 つまり 代議士の皆さまが 見事に 代理表象にはまっていることの
 あらわれなのだと思います

つまり 自分の都合のよい方に
 (人に知られず)置き換えしたら 勝ちなのです

代理表象の典型は
 資本という剰余価値の発生システムに典型的なものです
 例えば

 労働力の:交換価値 = 使用価値

これは表象のトリックなのですが
 労働力の交換価値と使用価値は=ではありません
 ≠です
 労働力の使用価値は 交換価値を上回ります

この差異が 交換の原理での 価値の増殖を可能としています

今回の代理表象の典型は 首相の言う

 郵政民営化に:賛成 = 構造改革推進派
 郵政民営化に:反対 = 構造改革反対派

ですね
 解散は 郵政解散 と置き換えられていますし
 ガリレオ・ガリレイを引き出しもしていました
 
しかし こんな単純な置き換えで この暑い最中に
 選挙をしなくてはならないのですから

首相を殴り倒したい人は
 沢山おられることでしょう(笑)

代理表象は シニフィアンがシニフィアンを
 表象する 表象のトリックでしかなくて
 思考の短絡(ショートサーキット)ですが
 その短絡こそ 剰余価値を生み出します

でも  この置き換えは
 人に知られず 置き換えできることが 要なのであって

人に知られずできるのか と言ったら
 けっこうバレバレですものね

つまりね 私たちは
 「わかりやすさ」は 疑ってみることも必要なことを
 けっこう 学習しています

国民は馬鹿じゃない

今回の 代理表象は 自民党にとっては
 剰余価値を生み出すことはないでしょう

単純すぎる
 それにつきます

しかし それにしても この時期に 選挙です
 まさに 骰子一擲 (笑)

「公共事業という産業」に
 今回の結果が どう影響するのかは わかりませんが
 あまり かんばしいものではないことは
 たしかなように思えます

さて 出発の準備です
 なにがあっても 元気にいきましょう!

2005/08/08 (月)  
【決戦の月曜日】

午前4時30分起床
 網走は 晴れ

「またあたらしい一週間が始まります」
 とテレビは言っていますが

今のわたしには 曜日の感覚はありません

しかし 今日は 決戦の月曜日なのですね
 郵政民営化法案は どうなるのでしょうか

「だいたい民主政治からファシズムに移行する過程の中で、ファシズム的政治家のやることはただ一つ。それは恐るべき政治の手続きを単純化してしまうこと」
(フレードリッヒ・マイネッケ)

「官から民へ」と総理が繰り返すうちに
 我々日本人は 「官」と「民」しかないという二分法
 に陥ってしまいました

「代理表象」というやつですね
 思考のショートカットのことです
 これは人を騙します マジックのようにです

でも社会のトポロジーは
 「官」(公)と「民」(私)だけでできているのではないのですよ
 「共」を忘れてしまいました
 つまり 中景の喪失ですね

「共」は地域社会であり コミュニティであり 
 「中景」であり 「種」です

その「種」を 政治的に代表するのが代議士であり
 「種」を機能させるシステムが 本来の 議会制民主主義です


議会制民主主義は 「種」間の差異を均そうとするシステムです
 そこには
 二分法 つまり白黒だけではない
 灰色があります



「人生は黒か白かだけではなく、黒と白の間にある灰色の部分に面白さがある」
(池波正太郎)

しかし 灰色の党である
 自民党も いよいよ おしまいなのでしょうか

今日は 午前中ちょこっと打ち合わせし
 お昼の便で 浅草に戻ります

2005/08/07 (日)  
【北見へ】

午前5時30分起床
 浅草は くもり

今日は
 JAL1183便   東京羽田 10:30発 → 女満別 12:10着で
 再び北海道へ飛びます

北見市の 北見東急インで開催される
 「地域再生フォーラム inオホーツク2005!」 に参加します

これは 網走建設業協会様の主催によるもので
 講演者のラインアップは次のとおりです

「北海道とオホーツクの近未来」
 自由民主党幹事長 衆議院議員  武部 勤 氏

「公共事業を含めたこれからの北海道経済」
 国土交通大臣政務官 参議院議員 伊達忠一氏

「メリハリある地域再生を支援する財政運営」
 財務大臣政務官 参議院議員 段本幸男 氏

そして わたしも 講演の時間をいただいていて
 お題は 「つながりのある地域社会」 です

ごらんのように とても政治的な 場を提供いただきましたが
 「種の論理」をベースとした
 政治的 ではない はなしをする予定です

どこまで できるかはわかりませんが
 小道具もつくりましたよ (笑)

では 行ってまいります

2005/08/06 (土)  
【とんぼ帰り】

午前5時起床
 岩見沢は ガスがかかっています

昨日の岩見沢は とても蒸し暑く
 地元の皆さんも 暑い 暑いとおっしゃられる
 
わたしも 涼を求めにきた身でもあり
 ちょっと期待はずれではあるけれども

でも東京よりは
 ずっと涼しく感じていました

さて 今日は とんぼ返りで
 法政EC最終回です

明日は またとんぼ返りで(?)
 北見へ行きます

2005/08/05 (金)  
【ギャル文字】

午前5時起床
 浅草は くもり 連日湿っぽいのです

今日は 空知建設業協会 広報IT委員会に出席のため
 ANA 059 東京(羽田)(10:00) - 札幌(千歳)(11:35)で 
 北海道入りします

明日の法大ECには
 羽田から直行の予定です

最近 気になっていたものにギャル文字があります
 別名 へた文字とも 呼ばれているようですが

これは ネットやメールなどで
 主に女子中高生において 使われてる文字(らしい)です

らしい というのは
 実際に ギャル文字のメールなんて
 もらったことがないからです(笑)

まあ それはさておき
 例えば 「おつかれさまです」は
 こんな風になります

ちょっと:ぉ⊃かれさま?〃す
そこそこ:ぉ⊃ヵゝれ±ま?〃す
とことん:ぉ⊃ヵゝяё±ма?〃£
 (ギャル文字変換( http://mizz.lolipop.jp/galmoji/ )による)

これは 文字記号を 構成する形でデコードし
 部品化し それをデータベースとしています

そして その部材を エンコードすることでうまれた文字が
 ギャル文字であり
 つまり 一種のハイブリッドなのだと思います

もちろん この文字で書かれる文が
 反省の次元を経由していることはないでしょうから
 わたしの表記では「は〜い・ぶりっど」的なものでしょうし
 
東浩紀さんのいう 「動物化」の文脈で
 理解可能なものかもしれませんし

さらには 正高信男さんがいう
  「サル化」というのも ありなのかもしれません

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人

正高信男(著)

2005年7月25日
中央公論新社

735円(税込)






この本の分析は 当たっているのかもしれませんが

わたしは これを使う 女子中高生を
 「ケータイを持ったサル」だと
 批判する気持ちには まったくなれません

ケータイや ITについて いまさら
 「なければよい」的な 批判は 的外れだと思います

ITが普通にある時代に 人間として
 如何に生きるのか を わたしはいつも考えていますが

ギャル文字でさえ
 その ハイブリッド つまり 「オタク的才能」は潜むのでしたら
 わたしは そこに「望み」をみつけたいと思います

しかし ITをもって ギャル文字を使って表現されるものを考えると
 胸が締めつけられそうになるのも事実です

昨日 子供の日記を見ていて その思いを強くしました
 これがギャル文字です
 
デジタルをもって このような文字で
 子供ではない彼女たちが(これは小学一年生のものです)
 表現する(他者に伝えようとしている)ものを 考えるとき

そこには 精一杯の
 悲しみにならない(自覚できない したくない) 悲しみが
 あるように思えて しかたがないのです

では 出発の準備です

2005/08/04 (木)  
【技術のようなもの】

午前6時起床
 浅草は くもり とても湿っぽい朝です

ラジオ体操の精勤証をいただきました


昨日は 来客があり 打ち合わせをしました
 初めてお会いしたのですが
 比較的スムーズにコミュニケーションは進みます

共用できる語彙があること
 お会いしたことはないけれども
 お互いに なにかを知っていること
 共通する知人がいること

そして「技術」のようなものの存在
 
8月2日に紹介した
 宮本常一さんの 『空からの民俗学』に
 鍛冶屋についての記述がありました

『岡山県美作の山中は作州鎌の産地だが、そこからも古風な鎌がわれわれの故郷へ送られてくる。それは作州鎌でなくてはならないという百姓が何人もいるからである。』

『広い世の中の片隅で仕事をしており、何のかざりけもない生活をしているのだが、けっして孤独ではない。』

『多くの人、それもほとんど生涯顔をあわすことのない人びととの間に強い絆があって結ばれて仕事をしているのである。』

『すべての刃物が機械で作られるようになったら、こうしたこまやかなしかも強い人間関係は切れていってしまうのではないかと思われる。』
空からの民俗学 p90-92)

鎌は純生産のための道具であり 「技術」ですが
 その「技術」自体が HUBとなって
 人と人とを結びつけてゆくさまを
 宮本は 書き留めておいてくれました

ここには 「情愛」 つまりは「想像界」的基体を必要としない
 「つながり」(ネットワーク)の発生を見てとれます

宮本の言う「強い絆」とは
 私たちの言葉では ウィークタイズ
 つまり 広くて薄い紐帯のことでしょうし

わたしの言う 「技術」とは
 語れるなにか なのですが

語れるとは そこに 自由と愛があるからです

はっきり言えば
 わたしは この「技術」のようなものが HUBとなって
 人と人とを結びつけてゆくさま

「情愛」 つまり「想像界」を基体としない 「つながり」を
 人と人との結びつきの理想形のように考えています

ここでは ラカンの 「シェーマL」は 関係ありません
コミュニケーション(つながること)に対する欲望ではなく
 技術に対する 愛と自由を通して 他者と結びつくのです

このような 愛と自由にあふれた 「技術」は
 いつでも 個人に帰属します
 
それゆえに 個は際立ち
  種に溶けることはなく 種は 個の際立ちによって 普遍性を持ちます

もちろんその技術は 種が個に与えたミームですし
 愛と自由にあふれた 優れた技術を持つ者こそがHUBです
 もちろんその多くは 悪党的なものです

これが 田邉元の 「種の論理」における 「個」です

中沢新一さんは これを「悲哀なき固体」と呼んでいますが
 それは西田幾多郎の固体概念である
 「悲哀の固体」とは対照的な言葉として使われています

しかし

『すべての刃物が機械で作られるようになったら、こうしたこまやかなしかも強い人間関係は切れていってしまうのではないかと思われる』

という 宮本の指摘は とても強烈です
 それが 現実化しているのが 今という時代だと 思いますし
 だからこそ 再び「悪党の技術」なのだと思います

しかし それは 「象徴としての技術」では ありません
 
 

2005/08/03 (水)  
【法大ECのまとめに向けて】

午前5時起床
 浅草はくもり

葉月桃塾最終回の内容をPPTにまとめました
 http://www.momoti.com/HZ050730.zip
ご入用の方は ご自由にお使いください

※葉月桃塾2005で使用したPPTは以下に移動しました。2005/12/31
http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip (葉月桃塾2005フォルダ)

昨晩から 法大EC最終回に向けての整理を進めています
 今朝は その まとめの試みからはじめます
(完成品ではありませんので
 テクストとして 不完全なのはお許しください)

情報社会学序説さて今回の テキストである
 『情報社会学序説』
 公文俊平さんは次のように言っています

情報化以前の近代社会では
 国家の意思を決定し実行する「政府」
 (公の領域と原理)と

私人としての 企業や個人が行う
 最も主要な社会的活動としての
 交換の場となる「市場」(私の領域と原理)が
 二つの主要な構成要素でした

しかし
『情報化局面の出現とともに、まさにこの第三の可能性が広く現実化して、「共の領域」とでも呼ぶことが適切な第三の領域が、「共の原理」を伴って台頭しつつある』 (『情報社会学序説』 p167) と

わたしは この見解に 異存はありません
 なぜなら  公文氏の言う「共」とは (わたしの言葉では)
 インターネット社会における 「コミュニティ」に 他ならないからです


さらに 「共」は 「種の論理」でいう 種的基体です

それは インターネット社会では
 地域的・属性的制約の強弱という極を持ちます
 つまり 第T象限と第U象限です

そのうち 地域的 属性的制約が強い「共」(つまり第U象限)は
 近代化の過程において 「別の名」の下に
 換喩されたり 隠喩されたり
 置き換えられたり 圧縮されてきたものです
 
社会の情報化において 新たに表出した「共」は
 なりよりもまず
 グローバル指向とコミュニティ指向の両方を兼ね備え
 地域的・属性的制約の弱い 第T象限のものですが

しかし 社会の情報化における 「共」の表出とは
 デジタルなコミュニティ(第T種象限)ばかりを意味するのではなく

土地的制約(テリトリー性)をもつ
 コミュニティ(第二種象限)を含むものだと考えています

それは 地域社会であり 家族であり 会社であり 協会であり
 中景であり ある意味 象徴界であり
 「種」の必要性を言うのですが

なぜならそれは そもそも
 人間の心の構造のバランスをとるために
 必要不可欠なものだからです
 

さて 公・共・私を
 トポロジーとして表現すれば (↓)のようになるかと思います
 
これは 一見なんの問題もないように見えますが
 じつは とてもなやましい位相関係を示しています

それはなによりも 「共」の位置としてです

「公共事業という産業」で考えてみましょう
 (「公共事業という産業」とは
 主として自治体と 自治体発注の公共工事を行う
 地場型中小建設業のことです)

まずそこには 「共」の位置(象徴界の位置)に
 国→自治体→企業(技術者)という 片務的な関係を持った
 「象徴としての技術」があります
 
それは本来 類として「公」の位置に あるべきものですが
 開発主義を 母とする 「公共事業という産業」では
 「公」の位置にあるべき国(類)が
 「共」の位置を占めようとしてきました

これが ヒエラルキー・ソリューションであり
 代理表象でしかありません

これは 田邉元が 「種の論理」において
 「種化した類」 として批判したものです

類(公・国)が大きくなりすぎると
 種(共であり 中景であり 地域社会です)は
 機能できなくなり また個の輪郭がぼけてしまいます

個が生成される基体は 類ではなく種だからです

つまり 「種化した類」においては
『共の原理が、他の二つの原理と誤って「混合」される場合―「混同」される場合―に可能性のある、有効性減少や深刻な腐敗』(『情報社会学序説』 p173)
を生み出す可能性があります

一方 その反省から そして 財政問題の顕在化から
 ここに市場原理(交換の原理)を単純に持ちこむ
 マーケット・ソリューションが 流行のように行われていますが
 それは 交換の原理が 簡単に共を隠喩してしまうからです

しかし それは 単なる代理表象であり
 思考のショートカットであり
 とてもナイーブなものの見方であることは

「全体としての経済」を
  トポロジーとして見ると はっきりとします
 

このトポロジーでは 「共」の位置に 「交換」がありますが
 ここに 「交換」が位置するためには
 「私」の領域に 「贈与」がなくてはならないのですし
 蝶番として 「純粋贈与」が必要なのです
 (この意味は深い! というか 核心です)

「全体としての経済」のトポロジーが示していることは
 「贈与の原理」が機能しなままに
 アダム・スミス的テーゼである
 「神の見えざる手」だけが 「共の原理」として強調されるのであれば

この状態も
『共の原理が、他の二つの原理と誤って「混合」される場合―「混同」される場合―に可能性のある、有効性減少や深刻な腐敗』(『情報社会学序説』 p173)
を生み出す可能性が高い ということです

公共事業とは
 それは本来  共の領域で 共の原理で機能することで
 「全体としての経済」のバランスを保つことのできるものでしょう

つまり 共の原理とは
 贈与の原理と交換の原理のハイブリッドではないでしょうか

それは コミュニティ・ソリューションの可能性であることで
 ウィークタイズ(広くて薄い紐帯)の可能性につながるものです

同じ 位置を占めるもの同士の混合は ハイブリッドではありません
 それは シニフィアンが シニフィアンを 代理表象する
 思考のショートカットです(正解の思い込み)


しかし 問題は なによりも
 動き出そうとしても 身体が動かないことかもしれません

つまり 「象徴としての技術」(共化した公―ヒエラルキーソリューション)と
 「交換の原理」(共化した私―マーケットソリューション)という

二重の「象徴の鎖」に
 身体は縛られたままであるのですが
 この象徴も 代理表象のようなものです

そこでは 働きたくとも身体が動かないという
 閉塞(ニートの文脈)が 支配気味になってしまうのだと思います

私たちは この問題に対しては
 絡みついた鎖を  ひとつひとつ解きほぐすように
 真正面から取り組んできましたが

今の段階で提出できる「桃論」が
 象徴の一部否定と(可能な限りの2分の1切断×2)なのです
 

・問題解決のためのメモ:

私たちは 「交換の原理」(資本主義)で生きる
 そしてその原理が居座る
 中景の喪失した 「共」に生きる
 困難を抱え込んだ 人間であることの理解からはじめる

「交換」が「共」を代理表象することで
 また科学的が 「共」を代理表象することで

「共」の機能不全は起こり
 中景は喪失し 想像界は機能を失う

「交換の領域」において
 「共の原理」を可能な限り機能させるためには
 「純粋贈与」を純粋贈与への意識をもって
 「贈与」を贈与の原理をもって 可能な限り機能させる

現実的な問題として 「純粋贈与」への意識とは
 公・共・私の 「公」への関心であり

「公」とは「共」(種)における それぞれの集団の
 上位の集団からの「まなざし」への意識である

それは「種」を基体とした
 会社や 協会における 地域社会であり 市民社会であり
 市場や 政府においては
 国際社会であり そして 自然である

「公」の「まなざし」の意識なしでは
  「共」(種)は内に閉じるだけであり
 それは 閉じた円環であり 他者とつながらない

「共」が「公」の「まなざし」を意識することで
 閉じた円環は 「メビウスの帯化」する可能性を孕む

2005/08/02 (火)  
【宮本常一再読】

午前5時30分起床
 浅草は くもりですが 時々雨も降っているようです
 今朝は 8時30分には 丸の内へ行かなくてはなりません

夏場は ちょっとした遠征から帰ると
 翌日一日は 機能不全気味なのです
 つまり 身体も脳みそも 動きが悪いのです

そんな時は 無理をしないで
 冷房の効いた部屋で タバコを呑みながら
 コーヒーも飲んで
 ばけーっと 本でも読んでいるに限ります

空からの民俗学

宮本 常一(著)

2001年4月16日
岩波書店

1050円(税込)




宮本常一の著作は 沢山所有しています
 そして沢山読んできました

いつも そこで感じるのは 宮沢常一という人は
 なによりも 土から生えてきたような百姓であり

強い 貧困への嫌悪と 純生産への畏敬を持ち
 生産技術と生活技術を生み出す(その基底にある)
 人間の意志を 尊重する人だ ということです

ここでいう生産技術と生活技術とは
 わたしの感覚では 「悪党的」に近いものです


これは 空からの民俗学の161ページにある写真です
 この写真について 宮本常一はこう書いています

『干されているものを見ると手縫いのものはないようである。いつの間にかわれわれが身に着けている下着はすべて購入品に変わってしまった』

『つぎのあたったものを着なくなったのは昭和三五年頃が境であった。・・・そしてその頃から流行が、自由な意志によっておこなわれるよりも商業資本の企画によって左右されるようになって来る。』

『今年は何がはやるかということが、前もってわかるようになった。いつの間にか人間の意志がかすんだものになってゆきはじめた。』

『古い農家に住んでおちついた生活をしている人たちも、その生活の中に新しい商業資本の意志が浸透しつつある。ただ興の深いのはこの家の柿木である。』

『とはいっても柿の実をとってはいない。まだ枝に残っている。柿の実をとってたべることはなくなっても、柿の木は伐らないで残してある。この実の赤い色は心を豊かにしてくれる。』

『文化は一様に一斉にすすんでいくのではなく、ひとりひとりの意志と技術を持つ人びとのからみにあいによってすすんでいったものであるが、この写真の中からはそうした人間の意志をまだ読みとることができる。』

ここにあるのは 中景を知り
 中景に住みつき そこに 住み続けてきた人間の営みの
 その技術に重きをおいた 現実を見ようとする目なのだと思います

この写真の撮影年である 昭和46年は
 西暦では 1971年です

『その生活の中に新しい商業資本の意志が浸透しつつある』
 時代であったと思います

それを生み出したのは 今になって検証すれば
 戦後の開発主義的政策であるといえるでしょうが

宮本のテキストは
 日本を まず象徴(官製)が支配し
 ついで 交換(商業資本)がそれを上書きしようとする
 その波打ち際を
 その鋭敏な目を持って 描き出していると思います
 
昨日の「悪党の技術」の文脈で言えば
 土木技術とは 本来 「悪党的」をもって
 自然と対峙してきた 非自然としての人間のたくみなのですが

しかし その技術も その富が固定化されることで
 新たな構造(開発主義とその衰退)の中で 覆い隠され
 権力の下に 再組織化されてしまった ということです

開発主義の幕引きの中で
 「公共事業という産業」の再構築を目論む
 今のわたしの立場には

『文化は一様に一斉にすすんでいくのではなく、ひとりひとりの意志と技術を持つ人びとのからみにあいによってすすんでいったもの』

という 言葉は 含蓄がありすぎます

そして 思うのです
 新しいカメラが ほしいなってですね (笑)

2005/08/01 (月)  
【悪党の技術】

午前4時起床
 浅草は くもり

久しぶりにラジオ体操に参加してきました
 第一だけで いっぱい いっぱいになってしまうのは
 相変わらずです

今朝は 7月30日の葉月桃塾の反省からはじめます

中沢新一さんの言うように
 「全体としての経済」を 想定するとき
 「公共事業という産業」の持つ技術とは
 このトポロジーのどこにあるものでしょうか

それを考えることから
 葉月桃塾の最終回は はじめました
 
例えば
 経済の領域では 贈与が純粋贈与に触れるとき
 「純生産」が生まれます

それは 古い時代の農業がそうだったように
 麹菌を扱う職人的技術がそうであるように

人間が 自然に対して行う繊細な労働により (贈与)
 自然(大地)が 与えてくれる豊穣です(純粋贈与)

そこにあるものは 自然(純粋贈与)を
 いとおしむような 技術です
 
しかし これが 我々の持つ技術でないことは確かです

空知を流れる川に石狩川があります
 石狩川の名前の由来は
 アイヌの言葉で「イ・シカラ・ベツ」(曲がりくねった川)であるように
 石狩川は 開墾当時 原始河川で 川筋は曲がりくねり
 頻繁に洪水を引き起こしていました

そのため 石狩川の治水は
 洪水を制御するという考え方に基づき
 河口部から順に直線化する捷水路事業が 行われました

捷水路事業は 「土木技術」ですが
 この技術は 自然に対する 贈与ではありませんし
 純生産を生むものではありません

それは
 自然のはらわたを 素手で あらわにするような
 「悪党の技術」です
 
このような 「技術」に対する
 ナイーブな批判は 今や 世間にあふれかえっています

例えば 石狩川は 自然を破壊し景観をズタズタにした
 悪名高き直線化の代表になってしまっています

しかし 石狩川の捷水路事業は
 単に 洪水対策 という目的だけで行われたのではありません

ショートカットで 水流を速くすることで
 泥炭層である 河床は 自らの流れで削られます
 それは 流域の水位の低下を意味します

それが 泥炭層におおわれ
 稲作に向かなかった 石狩川流域で 稲作が可能となった基なのです

水位が下がることで 泥炭層の地下水は 石狩川に吸いだされ
 泥炭湿地は 農作土の搬入を可能とし
 農業を可能にしました

これがなければ 今の空知は 北海道はありません

「悪党の技術」は 労働を通して 自然の見えない内部世界から
 何者かを「富」として取り出してきます

そこにあらわれてくるものも「自然」なのです
 そしてその「技術」に巧みなものを「職人」と呼びます

つまり 土木技術とは 本来 「悪党的」をもって
 自然と対峙してきた 非自然としての人間のたくみなのであり

その末裔としての 技術者が
 私たちだと言うことができるでしょう

すべての思考は この自覚から始まります

しかし その技術は その富が固定化されることで
 新たな構造の中で 覆い隠されて
 再組織化されてきました

それが 「交換の原理の支配する技術」であり
 科学的であることで そして官製であることで
 「象徴としての技術」となった 建設の技術なのだと思います
 
「公共事業という産業」は
 その「悪党的」を覆い隠しながら
 新たに展開される社会構造の中で
 「象徴としての技術」によって
 自らを「交換の原理」に位置づけようとした 経済であり技術です
 
ですから そこに 単純(ナイーブ)な
 「交換の原理」(市場原理)を持ち込むことも
 官製 (象徴)を強くすることも
 「公共事業という産業」を取り巻く
 問題解決策としては たいして 意味がないということです

それは ラカンの 「ボロメオの結び目」で言えば
 繰り返される 象徴界の隠喩でしかなく
 ただの堂々巡りなのです

それは 贈与 交換 純粋贈与が バランスよく機能しなくてはならない
 「全体としての経済」を
 構築できない ものであることを 理解してほしいと思います

誤解を恐れずに言えば
 「公共事業という産業」には 「想像界」が
 「贈与の原理」が 足りないのです
 現実界と純粋贈与に対する 配慮が足りないのです
 
ですから (↓)なのですね
 
象徴の一部否定です
 それは 「悪党的」の否定ではありません
 むしろ 自覚から生まれるものだと思います
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