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店主戯言051002 2005/10/16〜2005/10/31 "There goes talkin' MOMO"



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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を伝える

2005/10/31 (月)  
【アール・ブリュット】

午前6時55分起床
浅草は曇り

宇部からのお土産
林さんからいただいた「月待ちがにせんべい」
 
食べてしまったので中身の写真はないけれど
どんなものかはここ(↓)を見てほしい
 http://www.ubenippo.co.jp/skiji/2005/food/6/6_8.htm

「女の悦楽」としての誕生背景を持つこのせんべいは
勿論 全国展開はしていない宇部の特産品だ
でも通販は可能なようだ

問い合わせ先:セルプ南風
         TEL:0836-31-1044  FAX0836-21-2504

もう一つは 保澤さんからいただいた
萩焼のぐい飲み
 
保澤さんがご自分で焼かれたもので
さすがに山口だ

これも「女の悦楽」であり
「贈与」(技術)と「純粋贈与」(自然)の産物だ

そして最初から「贈与」のものとして生まれ
縁あってわたしのところへやってきた
大切に使わせていただこうと思う

さて 昨日の帰り
上野駅にある明正堂書店で「芸術新潮 11月号」を購入

芸術新潮11月号芸術新潮 11月号 [雑誌]

2005年10月25日

新潮社
1400円(税込み)









こんな本 普段は買うわけはないのだけれども
購入した理由は
表紙の絵が ヘンリー・ダーガーだったからだ

ヘンリー・ダーガーはわたしにとっては特別な存在で
最初に彼を知ったのは
斉藤環氏の「戦闘美少女の精神分析」でである

ダーガーについては
 http://www.tssplaza.co.jp/~visual/k/darger/darger%20top.html に詳しい

その人生と作品は
なぜか(というか当然なんだけれども)わたしを魅了し
わたしはダーガーの画集を購入した

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国でヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ジョン・M. マグレガー (著)
John M. MacGregor (原著)
小出 由紀子 (翻訳)

2000年5月25日
6825円(税込)








ダーガーの絵は
それは彼の「非現実の王国で」という物語の挿絵だ

それはまさに
戦闘美少女(ヴィヴィアン・ガールズ)の物語であり
戦闘美少女の原型を見る思いだったが

おちんちんのついた少女の絵は
(当時のわたしにとっては)
「かなりやばい」ものだった

しかしそこには 孤独の悲壮感はなく
ただ 自らの物語の中で
創造主として振舞うターガーがいる

それはある意味
 健康な自己愛に満ち溢れている

それは消費社会全盛のニ十世紀の真ん中で
象徴(「3の関係」)が機能しなかったゆえに生まれた

データベースモデル((c)東浩紀)的
 ハイブリッド力(想像力)だ …と今は思う

つまりそれは「1.5の関係」であり
 「おたく的才能」と同じ構造を持つ

合理に対する
 非合理としての「芸術」の構造だ

ダーガーの絵は 日本では
 「アウトサイダー・アート」として紹介されることが多い

それは 「芸術新潮 11月号」の特集
「アール・ブリュット」(art brut)の米語訳の読みだが
しかしいくらなんでも 「アウトサイダー」はないだろうなと思う

「アール・ブリュット」は
「加工されていない生のままの芸術」という意味の
フランス語の読みだが こっちの概念の方がしっくりくる

けれども それが意味するところの解釈もいろいろあって
中には気に入らないものもある

曰く かわいそうな人たちの描いた……
同情的なんだろうが 創造がなんだかわかっちゃいないのね
そしてどこかで見下している

そんな自己愛に触れると
 わたしゃ虫唾が走る

それでわたしは「アール・ブリュット」とは
 精神構造的なものだと定義している

つまり「アール・ブリュット」とは
 人間の創造力が働く構造を

その精神構造と孤独ゆえに
 あからさまに見せてくれているもの と考えている

そこには共同体的アイデンティティは微塵もなく
 ただ個人の創造力とデータがある

データを提供しているものは
 消費社会か宗教的な環境であり
 つまりそれは社会(人工環境)であり

つまりその意味で彼らは社会とつながっている
 アウトサイダーではない

しかしそれはダーガーの物語の題名のように
 日常ではなく 非日常である

だから常識的な人々(?)から見れば
 「かなりやばい」と感じるのも確かだろう

しかし それが
 今の時代に 人間の創造力が働く構造なのだ

彼(女)らの作品が 常識的な(?)私たちに問いかけてくるものは

 「創造か退屈な日常か」
 つまり「原初創造性の欠如が退屈な日常なんだよ」
 なのだと思う

それは岡本太郎的には

 『合理に非合理を突きつけ、
  目的志向の中に
  無償を爆発させる』 になるのだろうが

常識的な(?)私たちは そんな人生を送れるわけもなく
現実をかみしめては ただ
自己愛的に 常識的に(?)生きている

そしてわたしの創造(つまり「考える技術」)は
 中途半端に 象徴の一部否定というのだ

つまりちょっとだけ
 「アール・ブリュット」

プチ 「アール・ブリュット」
 その上 「わかっていてあえてそうする」だもの

ハイブリッド(中途半端)と罵倒してくれだな(笑)

ということで「アール・ブリュット」(art brut)に興味のある方は
銀座 ハウス オブ 資生堂で開催されている
「Passion and Action - 生の芸術 アール・ブリュット展」へどうぞ

11月27日まで開催中
http://www.shiseido.co.jp/house-of-shiseido/html/exhibition.htm

2005/10/30 (日)  
【帰ってきた(「か」だらけ)】

午前7時起床
宇部はくもり

昨日は宇部の林工務店さんで勉強会
 写真はなぎらけんいちではない
 
夜は肉を食べた
 写真はマグロではない
 
林さんありがとうございました

午後1時30分
昼食を御徒町のスピガでとり
アメ横で たらこと筋子を買って帰宅

さて「11・5日横浜セミナー」に向けて
思考的には

精神分析的に「公共事業という産業」を捉えらえられるか
を考えていた

それは昨日少し触れたように
「自己愛」のメタファーで「公共事業という産業」読みなおす試みだ

例えばこんなふうに

「開発主義」とは
「公共事業という産業」にとってのマトリックスのようなものであり

それは自然ではなく
人工環境だ

しかしそれが
いつのまにか自然と思えるような
精神構造に社会全体が覆われる

「公共事業という産業」は
おかあさんのホールディング(抱きかかえ)や

母なる胎内に比すべき
「開発主義」という人工環境の中にいた?

ではそのような環境において
「公共事業という産業」の自己愛パーソナリティは
どのような発達を遂げ

そのホールディング環境の破綻は
「公共事業という産業」に従事する人々の

自己愛パーソナリティに
どのような影響を与えるのか?

そこに問題はあるのか?
ないのか?

もし問題があるとすれば
それはどのようなものなのか?

そこに処方箋は書けるのか
書けるとすればそれはどのようなものなのか?

直感的には
この試みはある程度はうまくいかもしれないが
うまくいかないだろうとも考えている

それは玄田有史氏の「希望学」の困難なようなもので?

今という時代の
希望のエネルギー源は

アイデンティティなどではなく
とても個人的な自己愛だからだ

しかしあえてそれをしようとしているのは
日本におけるIT社会は

小此木啓吾氏の言葉を借りれば
「自己愛パーソナリティ」の時代だからであり

それは欧米的でもあるが
ちょっと違う(アース・ダイバー的にね)

(ちょっと違うところに希望があるのと考えるのは
 中沢新一的か?)

では その環境の中で
私たちは ともすればひきこもりがちになってしまう心を踏み越え

動き出すことは可能なのだろうか?
それはどのようにして可能なのか?

そしてそのとき 私たちは 誰を愛して
誰に愛されるのだろうか?

家族を超えて

母はもういないのに?
(新たなる母―マトリックスはあるのか?)

自己愛人間自己愛人間

小此木啓吾(著)

1992年9月7日
筑摩書房

1050円(税込)




それとも 自分自身への愛の中に埋没するのだろうか
自分以外に愛せるものはいないのか

『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』

「か」だらけじゃないか(笑)
面倒な時代だ

2005/10/29 (土)  
【今日は宇部へ】

午前6時45分起床
浅草は くもり

今日は宇部へ向かう
ANA 693 東京(羽田)(1005) - 山口宇部(1140)

昨晩はなぜかてんめいさんご一行が浅草においでになられ
かるく一献

初めてお会いした長崎の弓削先生から
「今の興味の対象はなんですか?}と聞かれ

わたしは思わず
「自己愛」と答える

これ(↓)だ
  
おかあちゃんのおっぱいを飲みながら
うんことおしっこ垂れ流し
でも私は全能なのよ

が否定されているのが 「公共事業という産業」だってはなしをした

わかってもらえたようで
なんとなくうれしかった

出発の準備
忙しい!

2005/10/28 (金)  
【北斎展】

午前6時47分起床
浅草は晴れ 若干のガスが朝の空気に混じっている

今日は盛岡へ出張

昨日は上野に用事があったので
ついでに 東京国立博物館で開催されている「北斎展」へ足を伸ばした

http://www.hokusaiten.jp/



















ウィークデイ それも小雨まじりの午前中だというのに
会場はけっこうな人出で

それも古い夫婦と
外国人がやたらと目立つ

まあそれは
この辺り(台東区)の風景としては

特段珍しいことではないけれども
なにか違うかなとも思う

ここにもスーパーフラットはある >おたくの皆さん
ってことだろうか

わたしはつれと一緒だったので
当日2回券を購入する(上の写真)

これはペアチケットのようなもので 2600円(2回分つまり二人分)
バラで買うよりも400円お得になる

それにチケットの図柄も違うものが同時に手に入るので
偶数人で行く時にはよい選択だと思うし

三人以上の奇数人でも割り勘すれば
少しはお得だ
(……って わたしは何を書いているのだろう)

さて今回の展示会だけれども
 北斎の絵については
 わたしはなにも語れないってことを思い知らされてしまった

ただ圧倒されて
 圧倒されて
 圧倒されてきた

作品についての言及なんて
 まったく意味はない

九十年の生涯 続いた表現しようとする心に
 ただ圧倒された

北斎という人の創出の力に
 ただ圧倒された

表現とその技法にこだわり続け
 描き続けることへ執着し
 生きることを願い続けた

狂人…
 いやただ表現する
 そしてそのために生きることに
 執着し続けた人間だったのだと思う

でもそのエネルギーはどこから生まれていたのだろうか

お土産に(?)分厚い図録を購入 3000円也
その内容にまた圧倒される

開催期間中には6回の展示替えが行われるとのことなので
また行かなくちゃ と思う

(↓)は今回の予習用に読んでいたもの
著者の永田生慈氏は 今回の北斎展のキュレーターだ

もっと知りたい葛飾北斎もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品

永田生慈(著)

2005年8月30日
東京美術

1575円(税込)






お昼は東京文化会館の中にある「フォレスティーユ精養軒」でランチ
 
「本日のランチ」
 カップスープ(コーンクリームスープ)
 真鱈の粒マスタード入りクリームスープと仔牛のやわらか煮込み椎茸ソースの盛合せサラダ添え
 それにパン  1628円(税込)

2005/10/27 (木)  
【トリックスター】

午前7時起床
浅草は雨 肌寒い一日になりそうだ

北海道のA木さんからの質問
 先日、あるシンポジウムで赤字続きの某交響楽団を、わずか1年で立て直した男が、講演でこう言っていました。

 「本来、芸術とは『反体制』『反権力』から生まれたものだ。それなのに、経費の40%も行政の補助金に頼っているのはおかしい。それでいい芸術を生み出せるわけがない」と。
 
 その人物は、楽団員の猛烈な抵抗を受けながら、そのオーケストラに「冬ソナ」をはじめ、演歌やポップスなどを演奏させて、客を呼び込み、1年で5億円の累積赤字を帳消しにしました。

 芸術は「反体制」「反権力」。つまり、抑圧から生まれたものでしょうか?

「芸術的」(昨日書いたやつね)って「芸術」とも「芸術家」とも違うわけで
つまり「的」(てき)なのね

「芸術家」を徹底して生きた人といえば
やっぱり岡本太郎さんなんだろうなぁと思う

岡本太郎の遊ぶ心岡本太郎の遊ぶ心

岡本敏子(著)

2005年3月23日
講談社

1680円(税込)






『合理に非合理を突きつけ、
 目的志向の中に
 無償を爆発させる』(p74)

この言葉は凄いなぁと思うし
芸術ってなに?のひとつの回答だと思う

合理と目的志向は全体の経済のトポロジーでいえば
「交換」からの力だろうし
精神分析的には「象徴界」からの力

非合理と無償とは「贈与」と「純粋贈与」からの力であり
それは「想像界」と「現実界」そして「無意識」からの力だ

そして芸術とは「純生産」であり
「女の悦楽」であり
つまり爆発だ(笑)

そして「遊ぶ心」
『最後は遊びがモノをいう』

糸井重里さんは岡本太郎さんは子供のようだったっていうけれども
それはある意味当たり前で
「象徴界」をいつも否定しているのだからね

「想像界」と「現実界」が直結していて
つまり「近景」と「遠景」が直接結びついていて
もうまるっきし「おたく的」なんだ

でもねやっぱり彼の若い頃の勉強量は凄いみたいで
美術だけじゃなくて
マルセル・モース(贈与論の人)のもとで民族学も勉強しているんだよね

それに人脈も凄いね
バタイユ(普遍経済学の人)とは友達だったみたいだし
持っていた基本(データベース=情報を見る目)が違う

無論私達(の多く)は芸術家じゃない
岡本太郎的には生きてはいないし
生きられないだろう

爆発もしない
おたく的かもしれないけれども おたくにはなりきれない
ただ交換という合理と目的志向の中で生きなくちゃいけない

自然という純粋贈与(無意識)を心の奥底にしまいこんでね

だから……
って書くのは今日はやらない

ただ『合理に非合理を突きつけ』っていうのは
これのこと(↓)だと解釈していいのだろう

「メビウスの帯」
















中沢新一さんは この「反転」を「ツイスト」って言っていたな
「ツイスト」っていうのもいい表現だなぁと思う

ということで 北海道のA木さんからの質問に答えなくちゃいけない

まず今回のはなしって「芸術論」じゃないってことね
この文章には巧妙なトリックが隠されていて

まず『芸術とは「反体制」「反権力」から生まれたものだ』と
『オーケストラに「冬ソナ」をはじめ、演歌やポップスなどを演奏させて、客を呼び込み、1年で5億円の累積赤字を帳消しにしました。』
はまったく関係のないはなしなのね

芸術とは「反体制」「反権力」だから
「冬ソナ」をはじめ、演歌やポップスなどを演奏させ とはつながらない

じゃ冬ソナや演歌やポップスは 反体制で反権力なのかと
反体制であったから 客がきて 1年で5億円の累積赤字が消えたのかと

ぜんぜんつながらない
フツーは逆でしょう(笑)

これは「芸術」のはなしじゃないのね
「経営論」なんだと思う

つまり
「本来、芸術とは「反体制」「反権力」から生まれたものだ。それなのに、経費の40%も行政の補助金に頼っているのはおかしい。それでいい芸術を生み出せるわけがない』
はトリックだね

この「男」はトリックスターだ(笑)
(これはわたしの中では褒め言葉だからね)

だから 「経営論」として読めば
わたしの言う「芸術的」なのね

つまり「ツイスト」(反転)はしている
反転するためには純粋贈与(無意識)はどこかで働いているように思える

芸術か経営かという二項対立を
どこかでハイブリッドさせようとしている

『楽団員の猛烈な抵抗を受けながら、そのオーケストラに「冬ソナ」をはじめ、演歌やポップスなどを演奏させ』
って反転したってことだよね

象徴(自分で作った「社会的」)の一部否定をした
経営として
どこかに嘘はあるけれども
「あえてわかってやっている」んだろうと思うな

こんなの芸術じゃないよって
でもやるしかないんだってね
交換という合理と目的志向の中で生きなくちゃいけない

それじゃ「非合理」を突きつけたのかといえば
それは見えない
むしろそれは隠してしまう

だから「芸術」ではないけれども
「消費されるもの」としては
今という時代にはうまくかみ合ったのだろうと思う

それはたぶん
この「男」は「あえてわかっていてやっている」

つまり経営においては「芸術的」ってことで
あくまでも「的」であり「技術」であり
それはそれで特段褒められることではないけれども
悪いことでもないと思う

経営としてはフツーのことだと思う
変革の時 経営者はトリックスターでいいんだと思う

鹿児島県鹿屋市からメールをいただいた
初めてメールを送ります。
10月20日に、鹿児島県鹿屋市の豊明建設さんのご紹介で、お昼のお食事にご利用頂きました、栄楽寿司と申します。お礼の返事が遅れてしまい失礼しました。「店主の虚言」のページでご紹介頂き、誠に有難うございます。また、鹿屋にお越しの際には当店にお茶でも飲みにお寄り下さい。心よりお待ち申し上げています。
                                        敬具

20日に書いた栄楽寿司さんですね
ありがとうございます

しかし寿司屋からメールをもらったのは初めてだな
なんか楽しい

2005/10/26 (木)  
【「さるにはわからない」けれども「このままじゃおわれない」】

午前5時50分起床 浅草はくもり
今日の予想最高気温は18度 ちょっと寒いね

くりちゃんから久々にメールをいただいた
ご無沙汰です。
いいですねっ、「はじめての中沢新一。」
うらやましい限りです。てか、にくたらしいですね(笑)

そうです、ももちさんが「中沢新一」とよく書いていたはずですが、
その頃は、よくわかりませんでした。

「アースダイバー」で、やっとちょっと楽しくなりました。
ちょっとじゃないですね、むちゃくちゃ楽しいですね。
無職をしてから、なんかしっくり来る気がしたのは正直な気持ちです。
近所を見る目も、世界を見る目も変わりますね。
それほど、いろなんことに目を向けさせる何かがあったです。

それで、読めば読むほどももちさんて、中沢オタクだったんだなぁと思いました。
(ヘビーユーザーですね。)
>そしてわたしのIT化論のネタの多くもここにあることがばれる(笑)
↑おお!と思いました・・。

玄田有史さんが「今の情報化は多様化でなく画一化だ」と書いてはったんですが、
(すごいシンプルに表現されますね・・)

ももちさんが「オタク」とよく書かれてますが、
そもそも、以前は「オタク」と呼ばずとも、「オタク」がいっぱいいて、
組織も職人の世界も、そのどこの世界も
お子も、じいさんばあさんも、みな何かにのめり込んで
なにかに長けていたんかなぁとか考えました。

それは名詞的なことでなくても、みなそれぞれが「個性的」と呼ばずとも、
当たり前のように、みんなオリジナルやったんかなとか。

いま、は
なんかそうじゃない。

そういうわたしは、とっても「一般的」だと思います(笑)

北斎展には行きます。

明るい貧乏のくりより、ほな股です☆

ありがとう くりちゃん
はい わたしはある意味中沢新一おたくです(笑)

それから北斎展には行かなくてはなりませんね
 http://www.hokusaiten.jp/index_jp.html

 
(北斎漫画作成キットで作成
 http://www.adgame-wonderland.de/type/hokusai/index.php
 from「今日の北斎」 http://hokusai.ameblo.jp/

くりちゃんは岡本太郎が好きでしたよね
(岡本太郎は縄文的だね アースダイバー的だ)
一昨日の「はじめての中沢新一。」でも岡本太郎の名前は沢山できていました
(以上 返信風に)

中沢新一の「芸術人類学」は

『芸術というものが人類の心に生まれた瞬間から、それは社会をつくりあげているのとは違う原理に突き動かされていました。社会的なものの外へ超えて出て行こうとする衝動が、生まれたばかりの芸術にはすでにそなわっていました。』(24日の講演会で配布されたレジュメ p17より)

が起点なのね つまり
人間には「芸術が生まれた瞬間」ってのがあることの認識から始まる

これ(芸術的表現)は新人(ホモサピエンス・サピエンス)の特徴なんだけれども
「芸術的」には始まりがあるっていう認識はとても大切なことだと思う

つまり旧人(例えばネアンデルタール人)は
肉体的な構造は新人(まあわたしたちの直接的な先祖 例えばクロマニヨン人)と変わらないのだけれども 芸術的なものは残していない
でも新人にはそれがあるんだ 

勿論 さる(動物)にはなんだかわからないものだ

じゃそれはなぜ?って考える

それで芸術っていうのが社会的なものの超越なら
なんで超越しちゃうんだろうな?と

そしてそれがなぜ新人におきなくちゃならなかったのか?
新人の脳みそになにか起きたんじゃないのか?と考えているわけだ

それは原初の芸術を生み出す人間の「こころの仕組み」を考えているってことだね
そういう「学問」を立ち上げようとしているのが中沢新一なわけで
学問だから まあ大学でやるわけだ

わたしはその「原初芸術的」を「反転」(象徴の一部否定)として考えているのだけれども
それをなによりも「おたく的」なものに感じているのは確かだ

それはある意味縄文的(新石器時代的)であり
バロック的であり 人間の過剰の表出であり
だから「芸術は爆発」((c)岡本太郎)なのだ

例えば村上隆の作品や おたく的なフィギュアなんかはその典型じゃないのかと思う
 
「Reversal D.N.A」(村上隆)

つまりだ 中沢新一のいう
「芸術というものが人類の心に生まれた瞬間」という心の構造は
おたくが「おたく的」であるところの「こころの構造」に顕著に見られると思う

それは「芸術というものが人類の心に生まれた瞬間」ならぬ
「芸術というものが私の心に生まれる瞬間」なのであって
言葉を変えれば「創造の瞬間」なのであって

わたしは その芸術的なもの(社会的なものの超越)が
「私」のこころに生まれる瞬間の構造を考えているってことだ

しかしその構造(つまり仕組み)は おたくだけのものではなくて
日本人のこころには本来色濃く残っているものなんだろうと考えている

でも私たちはあえてそれをこころの奥底にしまいこんでしまっている
無意識の中にだね
(なぜかはここでは書かない)

でもそういう「芸術的」を生み出す「こころの構造」の持ち主が
じつは日本人なんですよ!っていうのが
中沢新一の 「アースダイバーの主張なのだと思う

その「芸術というものが私の心に生まれる瞬間」の構造を
「おたく的才能」とか「反転と3分の1切断」とか
そして「反転と2分の1切断×2」(これは「おたく的」とは違う構造を持つが)というモデルで考えているけれど

村上隆は「おたく的才能」とか「反転と3分の1切断」をわかっていて
「あえてやっている」のだろうと思う(それが「反転と2分の1切断×2」
彼はある意味トリックスターだ
(だから彼は おたくからは おたくじゃないといわれるのね)(笑)

それじゃ なぜそんなことがわたしの「IT化論」において重要なのかと言えば
「公共事業という産業」は
それは「社会的」なものになりすぎた!ってことだ

つまり「社会的」になりすぎたものが 市民社会からその「社会的」を否定されたり
その「社会的」が(外部から強制的に)別の「社会的」に書き換えられようとしているのが
今という時代の「公共事業という産業」だってことだ
(9月11日に旧来の構図での「社会的VS社会的」は決着がついてしまった)

つまり「公共事業という産業」は
「社会的」を強調するあまりに「社会的」に埋没してしまっていて
身動きがとれないのじゃないだろうか

それは自らつくりあげた「社会的」を自ら一部否定できないでいるってことだし
「反転」の仕組みを「公共事業という産業」は内在させていないのじゃないのかってことでもある
(自己否定的変態ができない つまり「反転」しない でもそれは全否定ではない)

つまり「公共事業という産業」の「社会的」とは それが自らがつくりだしたものであることで
そしてその自ら作り出したものに縛られるだけになってしまう構造的欠陥を持つがゆえに
芸術的=創造的が働かないでいるのだと考えていて
だからその意味では 市場原理も官製もたいしてかわらないようにしか思えないわけだ

 これは一般社会でも同じで
 ためしに自分の言葉で「公共事業」の必要性(若しくは不用理由)を書いてみればよいだろう
 そして自らにこう問いかけてみる
 これはどこかで既に言われていた言説(言葉)ではないのか?
 では私はその根拠を示せるのか? 証明できるのか?

 世間の「ことば」を無造作につかうこと それを「社会的」って言うんだ

(はなしを「公共事業という産業」に戻す)
ただ自らの「社会的」の意味の書き換えを自らする仕組みを持ち得ないことで
「創造的」が働かないでいる 「次」(なる何か)を生み出せないでいる
ここで閉塞する(ひきこもる)
(ひきこもりは自らが依存してきた「社会的」の全否定が原因じゃないのか?)

だからわたしは 今必要なのは「芸術的」なのだ!
「おたく的」なのだ!とあえて強調しているわけだ
(おたくは本来ひきこもらない人たちだ)
それは別名「創造的」ってことだね

その仕組みを組織論的に ネットワーク論的に
「公共事業という産業」に埋め込もうとしている

「創造的」の仕組みは 社会的(つまり象徴)が強くなりすぎると機能しない
だから ではどうすればよいのか?を考え理解する

閉塞を打破するために
「創造的」にこころを機能させるには
ではどうしたらよいのか?を考え その仕組みは理解しなくてはならない
それは当然のことだろうと思う

座して待っていても何も起きない!
しかし閉塞にあるとき この当然のことが機能しないのも確かだ
(だから「ノイズ」なんだけれども)

それ(「創造的」)に こころを機能させるにはどうしたらよいのか)が
わたしの言っている「考える技術」だけれども

まあ それは「創造的」の技術だし
「芸術的」の技術であり 「おたく的」の技術でもあるわけで
わたしはおたくを勉強することにしている

そしてそれは日本人なら誰もが本来持っているものなのだと思う
でも それをこころの奥底にしまいこんでしまった私たちは
それを動かす力が(方法が)わからなくなっているのだと思う
(ただおたくの中には偶然か必然か生き残っていた)

新しいことを考えろ! 創造しろ!っていわれても
なにも生まれなかったりすることが多い
誰しも 私の創造(想像)力は どこへいっちゃったんだって思うときがあるはずだ

だからあえて「技術」として 「考える技術」として
創造的の仕組みを体系化して考えようとしている

まあ それがわたしの「IT化論」なんだけれども
(余計なお世話だといわないで欲しい)(笑)
なぜそれが「IT」である必要があるのかは長くなるので書かない(笑)

そしてそれを「あえてわかっていてやる」ってことにわたしはこだわっている
それはわたしが「切断」とよんでいるものだし
「骰子一擲」ってよんでいるものだ

環境に働きかけるってことは
芸術家が自分の作品を世間にといかけることとなにも変わらない

ウェブログを書くのとも本質的には変わらない
ウェブログにコメントを書くのとも本質的には変わらない
(ただ「あえてわかっていてやる」ってことは大切なことだけれどもね)

それはどうしたら他者とつながるのかってことだけれども
それはまた 自分の無意識とコミットしているってことだ

それは無意識の中にしまわれていたもの
つまり「芸術的」であり 中沢新一の言葉を借りれば
流動的知性であり 対象性の知恵を使い始めるってことだ
(まあ これは日本語の特性に負うところが大きいとは思うけれども)

ただ(ウェブログの場合は)書き方によっては
うまくいくときもあるし うまくいかないときもあることを理解すればよい

だからこそ うまくいくように続ける(努力する)んだわね(骰子の一擲を)
それが「考える技術」の要なんだけれども

今「公共事業という産業」に必要なものはなによりもこれだろうと思っている
そこからしかなにも生まれないと考えている

そして このままじゃ終われないと思っている

2005/10/25 (火)  
【中沢新一グレーテストヒット&etc.】

午前7時30分起床 浅草は晴れ
薄い雲が 少しだけ横に走っている

アースダイバーアースダイバー

中沢新一(著)

2005年5月30日
講談社

1890円(税込)






昨晩は 東京国際フォーラムに中沢新一さんのはなしを聞きにでかけた
題して ほぼ日刊イトイ新聞&中州産業大学PRESENTS
はじめての中沢新一。アースダイバーから、芸術人類学へ

午後7時から始まったそれが終わったのは午後11時20分を過ぎた頃だった
4時間20分 休憩を挟んでいるので正味4時間っていうところだろう
わたしは日付を跨ぐかなと期待していたのだけれどもさすがにそれはなかった

写真は入り口で配布された資料の一つ
TOKYO EARTH DIVING MAP
 
進行は三部構成になっていて
 「アースダイバー」
 「カイエ・ソバージュ」
 「芸術人類学」
しかしこの三部構成には大して意味はない
すべては 一遍の長編詩のようにつながっている

いやみになるのはわかっていて書くのだが
わたしは「フィロソフィア・ヤポニカ」で彼の面白さを知ってから
この二年ほどで彼の代表的な著作はほとんど読んだ

cover フィロソフィア・ヤポニカ

中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)






それも「わかろう」として読んだわけで
そして中沢理論を わたしのIT化実践の中に取り込もうとして読んだのであり
そして現実に取り込んでもきた
なので わたしは 中沢新一さんの最も熱心な理解者のひとりだと自負している

だからわたしにとっての今回の「はじめての中沢新一。」は
たしかに「はじめての」なのであり
「アースダイバー」 で彼を知った人に「こんな面白いことも考えているだよ」
を伝えるものであり
中沢新一のグレーテストヒット&etc.であるなと感じた

つまり中沢新一のヘビーユーザーであるわたしには少々物足りない

それはアーティストが所属するレコード会社を変えるときに出す
総括的な「グレーテストヒット」的という意味でである
(中沢新一さんも来年は中央大学から多摩美術大学に所属を変える)

偉大な仕事(グレーテストヒット)をしてきた
でも ニューソング(&etc.)は少しだけねである
でもこれが以外に重要だったりする
それがこれからの彼の方向性を示しているからなのだが
それが「芸術人類学」だ

ただそれは わたしが「考える技術」とか「おたく的才能」と呼んでいるものと
恐ろしいまでに類似している
まあ当然といえば当然なのだけれどもね

でもわたしはそれ(グレーテストヒット&etc)でよかったとも思っている
ひとりでも多くの方々に 「中沢新一的」を知って欲しいと思っている
わたしがこの戯言でごちゃごちゃ書いているよりも
一人でも多くの方々が「中沢新一的」を知った方がずっと効果は高いと確信している
そうすることで(「公共事業という産業」にとっても)未来は少しだけ明るくなるだろう

だからほぼ日刊イトイ新聞&中州産業大学PRESENTSでいいのだ
糸井&タモリと一緒にやることで 1500人の聴衆を集めることができたわけだしね
それは素晴らしいことだ

講演を聴いていて思ったのは
思っていた以上に「かみあうな」であった

じつは中沢新一さんをあるイベントに招聘することをずっと考えていたのだが
なにせ今までの著作が著作であり つまり難解であり
主催者側がひいてしまっているのも確かなのだ

しかし今や 中沢新一さんは「EARTH DIVING MAP」という
とてもわかりやすい「技術」を開発してしまった

それは恐ろしいほど説得力の高いもので
これは「一般向け」にも使えるなと思った

そして実際の講演も わたしのIT化論を聞いている方々は
楽勝で理解できる範疇で話されているし(わざとだろうが) たぶん知らない方でも
じゅうぶんに何かは感じることはできたであろう

そしてなによりも物語(彼のはなし)はグルーブするように流れる
それは素晴らしいことなのだ

(こうなったら 早期実現だな)

これから中沢新一を読んでみたいと思う方へ わたしからのお勧めの二冊
これを読んでいればなんとかなる(笑)
そしてわたしのIT化論のネタの多くもここにあることがばれる(笑)

愛と経済のロゴス愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュV

中沢新一(著)

2003年1月10日

講談社
1575円(税込)




対象性人類学 対称性人類学―カイエ・ソバージュX

中沢新一(著)

2004年2月10日

講談社
1785円(税込)





イベントが終わって 鹿児島からのご参加の井之上さんと浅草へ移動
真夜中の12時近くにめしが食えるのは
(わたしのデータベースでは)24時間営業のファミレスか浅草の「清司」しかない
当然に「清司」を選択して 直行して遅い晩飯をとる
ビールから芋焼酎になる 奄美のはなしになる
「ああ いきてぇ!」と思う

さて今日も お昼に井之上さんとデートだ
待ち合わせはアキバ
なにをするのかは教えられない(笑)

2005/10/24 (月)  
【反射光】

午前7時20分起床 浅草は晴れ

まずは宇部市出張のことから
一昨日のお昼は林さんと一緒に宇部市中央町の「天くに」で天ぷらを食べる

写真はふぐとぎんなん

このお店は天ぷらは女将さんが揚げてくれる

カウンターで食するわけだが この手の店にありがちなストイックさは微塵もない きどりがない

タバコも吸えるし(笑) 店中の雰囲気がとても温かい

たぶん(「たぶん」と書くのは想像でしかないからだが)子宮的温かさというか 母性的温かさに包まれている

それはいつまでも「鏡像段階」にいるようなわたしには とても居心地のよい店であった(笑)

そして天ぷらはもちろんのこと ご飯がとてもおいしい
徳地町周辺の米だそうだが 炊き方もよいのだろう
漬物との相性も素晴らしく めったにないことだがおかわりをした

夜は社員の皆さんと一緒に同じく中央町の「団十郎」にて宴会
ここでは生まれて初めて「金太郎」という魚を食べた
これは「ヒメジ」という魚で 山口県の日本海側(つまり萩周辺)の地魚らしい
赤い小魚で その容姿からか「金太郎」と呼ばれているようだが なかなかキュートな顔つきである(笑)

「中骨が硬いので注意してね」とのことだったが たしかに骨は硬いけれども身離れがよいので食べやすかった 身は白身で海老のような味がする

それで早速ネットで見つけて注文してみた 今回は「平太郎」という魚も一緒だが 宜しければみなさんもどうぞ!
http://www.ja-town.com/doc/6401/H003.html


さて唐突に問題である
(↓)の図は光の反射を図示したものだ
 
(1)光線aをなんというか
(2)光線bをなんというか
(3)図の角度Aをなんというか
(4)図の角度Bをなんというか
(5)角Aと角Bとの間にはどんな関係があるか
(6)(5)を何の法則というか

答え (1)入射光 (2)反射光 (3)入射角 (4)反射角 (5)A=B (6)反射の法則

「公共事業という産業」の問題を通して「中景」(地域、協会、企業。家族、コミュニティ、われわれ)の問題を考えているわたしの基本的な理念は ここ数年(というよりもずっと)変わることはない

つまりその基本的な態度とは 反古典の政治経済学であり 反マーケットソリューションであり
その具体的な活動が 「IT化を通して建設業に貢献する」であり「考える技術を伝える」である

それは入射光のようにベクトルの向き(入射角)を変えず さらに深部に突き進もうとしてきた
それを「入射光a」に倣って「理念a」とよんでおこう

 
しかしこの「理念a」にも「壁」がある それが「現実」である
現実の壁にぶち当たる それはあたり前のように日々繰り返されていることだが
その度に わたしはある選択を繰り返している
そのときわたしには大きく分けて四つの選択肢がある

 ひとつはその壁の前で消滅すること
 ひとつはその壁をすり抜けさらに深部へと突き進むこと(a')
 ひとつは反射光のように反射すること(b)
 ひとつは反射するのではなく現実のラインと水平になること(c)

今までのわたしは (a')にこだわってきた
壁の前で消滅すること つまり思考と動くことををやめてしまうことと
現実のラインと水平になること
つまり「公共事業という産業」を批判する側に与することだけはしないできた

それにこだわることで
思考と行動は(a')と(b)とのハイブリッドになることも経験を通して理解してきた

それはわたしの理念であり「入射角A」である
それがわたしにとっての「維持」であり「変えてはいけないもの」だと理解している 



しかし ここ一、二年年の間に
より鮮明になってきた現実(「公共事業という産業」の急激な衰退と「中景」の喪失)は
ますます厚く不透明な壁となっているのも確かだ

それは(a')のやり方 つまり壁(現実)をすり抜けさらに深部へと突き進むという方法が
ますます困難になっていることを意味している

なぜなら(a')が可能なのは ガラスをすり抜ける光のように その壁に透明度があることが必要条件だからだ
(透明でも壁が厚ければ光は屈折する)

まあ屈折しようとしまいと (a')の方法を遣り通そうとするときには
少しでも先が見通せないといけない

透明度が無いところでやるそれは
最悪マスターベーションにしかならないのは百も承知している

そして問題は その壁が 今年の9月11日に
さらに不透明にそして一層厚くなってしまったってことだ

わたしはその厚い壁(現実)にぶち当たってしまったとき
今回ばかりは(a')が使えないことを直感した
「今回はすり抜けができるような壁じゃないな」と思った

これを経営の一次方程式 「経営=環境×原理」((c)伊丹敬之)にあてはめると
「環境は確実に変わった」ということだ

そしてもう一つ付け加えるなら
この環境がよくなることは しばらくは(もしかしたらずっと)望めないってことだろう

でも深刻ぶることもないのだと思う
思考と実践は「ではどうするのか」に向かえばよいだけだってことだ

だから今 選択は大きくわければ三つあるのだと思う
原理を変えるのか 経営を変えるのか それとも消滅するかだ
(今は間違いなく骰子を振る時だ)

今はどの選択もありだろうとは思うが
わたしは原理(変えてはいけないものを)を変えない方を選んだってことだ
つまり変えるのは原理ではなく経営である
つまり「変えてもよいものを変える」と ただそれだけだ

この選択は深刻ぶってやったわけじゃない
なぜならその手法(b)はじつは意外と簡単だからである

つまり壁にぶち当たったらそのまま跳ね返ればよいのだ(笑)
単純に反射すればよいだけなのだ
(まあ問題はその侵入角度 つまり入射角とその入射の強さだが… 弱けりゃ砕ける)

そしてわたしは 今までよりもさらに強く(b)のやり方
つまり反射の試みを繰り返そうとしている
(そのための材料は持っているつもりだ)

そのひとつが昨日書いた「ノイズ」であり
壁つまり対立を乗り越えるためにあえてノイズとしての存在を強調しようとしたりしている

それは「おたく的才能」の強調だったり
「反転と3分の1切断」の強調だったりするけれども
(あくまでも強調であって基本は「反転と2分の1切断×2」にあることはいうまでもない)

これは今という時代こそ ある意味腹を据える(若しくは開き直り)は必要なのであり
でもそれはそんなに深刻ぶってやるものでもないってことで

ただこの環境変化の波を サーフィンするように
もしくは厚い壁をスキップするようにバウンドしながら
ほいほいと乗り超えてしまおうとする試みである

それはネタばれを前提としながらも
「あえてやっているんだよ」という態度である

しかしそれは理念を変えているのではない
変えたように見えるかもしれないがそれは違う あくまでも反射である
変えてもいいものを変えているに過ぎない

つまり反射では入射角A=反射角Bという「反射の法則」が働く
理念とは入射角Aである
その記憶として反射角Bは理念を継続しているのだ

ということで抽象的な物言いで本日はおしまい
今晩は楽しみにしていた中沢新一の講演会だ

2005/10/23 (日)  
【ノイズ】

午前6時起床 宇部はくもり

どんなに素晴らしいマネジメントシステムであろうが
どんなに完璧な経営の理論であろうが

それは合理主義的に設計をすれば人間は進んで使うものだという
主知主義の思い込みで作られているに過ぎない

そしてこのシステムは 「われわれ」とはなにか?との問いに対して
「会社の一員です」と明確に答えられる
共同体(種的基体)意識の存在を前提にしている

だから「われわれ」が不明確なままであったり
「だからどうした」と言われてしまうような環境では
人の意志をエネルギーとする経営のシステムは機能不全になってしまう

IT化は主知と主意のハイブリッドだ

つまり IT化はよい道具(システム)を必要とするが それは機械的なものであり
その機械の動力源は人間の意志でしかない

昨日は林工務店さんにて勉強会を行う
たぶんわたしは
いつもの日常に突然やってきたカオスのようなものだったろう(笑)

最近のわたしは それを狙ってやっていることはたしかで
あえてカオスをつくろうとしている

それは正のフィードバックの外部からのインパクトであり
反転への外からの力である

例えば11・19地域再生フォーラムin山鹿
日常(ケ)に対するカオス(ハレ)としてのイベントであり
そこにはあえて日常との落差(カオス)をつくろうとしている

例えば昨日の勉強会は
わたしは日常にはないノイズとして振舞う

しかしそれは外圧にしか過ぎないのも確かで 問題はだから
それをいかに自主つまり自分の意志に転換するのかである

ただそれは相手を説得しようとしてできるものではなく
あえ耳障りなノイズであることで 日常という壁(円環)を突き破り
反転と切断というコミュニケーションに結び付けようとする試みである

傷をなめあうのではなく
癒しでもなく
あえて軋轢を生むような ノイズとして振舞う

しかしこのノイズはうるさいだけでは役にたたない
このノイズは「知」を孕むことが必要となる

IT化は主知と主意のハイブリッドだ

おもしろいことを知れば 自らの世界にはおもしろいことがあることに気づく
おもしろいことがあることを知らなければ 世界は繰り返される日常でしかない

おもしろいことは ノイズであり軋轢でありカオスとしてやってくる
そこからしか創造的なものは生まれない
創造はいつでも自主である

そしてノイズがコミュニケーションに結びつくには
いつもどこかで一緒にいるという感覚が必要なのだ

今やそれはバーチャルコミュニケーションにおいて可能だけれども
さらにはリアルな世界でそうあることが好ましいことは言うまでもない

どんなに対立している相手でも 一緒に飯を食べ続けてみればよい
その相手は いつのまにか「私」の世界の一部になる

「私」の世界の一部になってしまった者を
それがどんなに対立していようとも殺すことはできない

(だから逆説的に 役人は建設業界と飯を食うのをやめた)

「公共事業という産業」の信頼とはこの文脈で語られるべきものだと思う
(これについては後日書く)

そしてコンサルタントとしての(?)わたしの信頼も この文脈で考えている
ということで 帰りの時間だ ^^;

2005/10/22 (土)  
【暴力的ニラそば】

今日は山口へ飛ぶ
ANA 691 東京(羽田)(0655) - 山口宇部(0830)

6時前には自宅を出る
この戯言のアップも 山口に着いてからになるだろう
つまりここから先は飛行機の中で書くつもりなのだ

ということで6時30分に 羽田空港第二ターミナル 56番搭乗口に着いた

昨日のお昼
わたしは神谷さん 宇賀神さん 轟さん まさたろうさんと
粟野町深程の「宮入そば」で ニラそばを食べた

ニラそばは 茹でたニラがざるそばの海苔のようにあるわけで
ただ違うのは ざるそばの海苔に比べればはるかに量は多い
写真左は五合 写真右の左側は一升である あわせて一升五合
これを中年五人で食べるのはなかなかの力技なのだが
最後はまさたろうさんの活躍で完食できた
これを「チームワーク」若しくは「協働作業」という(笑)

しかし栃木というところは総じてそばの出し方が豪快というか暴力的である
五合とか一升とかまるで酒盛りだ
それを親の敵のようにして食べるのだ
(だから返り討ちにあう者もいる)

今回のはさらに凄いことになっていて 茹でたニラがどかんとのっているという
そこにはなにか悪意というか暴力的エネルギーを感じるではないか
(言っておくがこれは褒め言葉だ)

思うに たぶんその暴力的なエネルギーとは
都市的なものと田舎的なものの落差ではなないかと思う

ここには 高度経済成長期を育ち あのバブルを経験し
そして失われた10年を生きたわたしが 「まずしかった頃」と呼ぶ時代の
その時代が持っていた暴力性が潜んでいるように思う

それは決して最先端でも「おしゃれ」でもないけれども
そんなものよりも もっとしたたかな生きるエネルギーだ

昨日 私達の食卓の周りには 一匹のハエが飛んでいた
ちゃんとざるの縁に着陸したりしていたが このそばを食うときには
そんなことはどうでもいいわけだ

それはハエが飛んでいる方が正しいのである

表現は悪いかもしれないが 地域が疲弊しようが
「公共事業という産業」がつぶれようが このスタイルをこの店が維持する限り
この店は たぶんいつまでも繁盛し続けるだろう
わたしはニラが歯の間に詰まるのを気にしながらながらそう思った

しかし ここの経営者が 近代的な豪邸に住み
時々はハワイで羽を伸ばしているとしたら
それはもっと面白いと思う

2005/10/21 (金)  
【一人称の述語は破綻しない】

午前5時30分起床
浅草はくもり
今日は鹿沼の神谷建設さんへお伺いする

写真は昨日の鹿屋から鹿児島空港へ向かう途中 福山町から見た桜島
錦江湾を一望する
 
雲ひとつない空 くっきりと浮かぶ桜島 そして海
青の濃淡はおそろしいほどに清々しい!
己の目玉のRGBが機能していることに感謝したくなる

ああ、自己嫌悪

瀬古浩爾(著)

2005年10月31日
PHP研究所

735円(税込)






自己嫌悪ねぇ

わたしは何処へ行っても「楽しそうですね」と言われる
知ってる人ならともかく 初対面の方からも
飲み屋のおねえちゃんからもそう言われたりする
今回の鹿児島ツアー中も同じように言われ続けた

たぶん自己嫌悪なんか生涯無縁に見える人なんだろう
でもそんなに楽しそうに見えるのものかなとも思う

「俺はだめなやつだ」と思うことはいつものことだし
わたしに非があるならそれは100%認めているし
落ち込むときにはとことん落ち込みもする

ただそれを表現しようとは思わない
喋る気もしないし 実際に表現しないし喋りもしない
ただ黙って落ち込むことにしている

と同様に 自己嫌悪していますよ 落ち込んでいますよ という方に対して
わたしは声を掛けることができない
他者の自己嫌悪や落ち込みをどこまで共有できるのだろうか
わたしは他者への慰めを表現することができない
言葉にすることができない

(自己中心的だからなのか?)

今ある現実から始めようとするとき
(例えばこの戯言も 毎朝目を覚ましたときにある現実から書き始めるのだが)
それは常に またそこから始めてみようとする表現になる

始めるために自然と表現も生まれる
始めるために「反省」もする
自己嫌悪するために「反省」しているわけじゃない
ただそれだけのことだ

つまり表現においては愚痴ることもない
わたしは自己嫌悪していますよと自分を慰めるような表現もない
というかそれをやってしまったら「反省」にならない
ただ自分の感情に捉えられてそこから逃れられない

わたしにとっては それはたいした意味はない
一人称で行う「反省」とはそういうものではない
ぞれじゃ時代のスピードにおいつけない
ただそれだけのことだ

「あんたは間違っている」とか
「あんたはおかしい」と他人から責められても
基本的には「わかっちゃいないのはあんただ」と思う

いちいち自己嫌悪していたら こんな商売しているわけないし
どのつらさげて毎日こんな文章を書くというのだ(笑)

だから表現には嘘を孕む
前向きのことしか書かないというのは嘘を孕む
でもそれは当たり前のことだ
今ある現実から「反省」(後ろを振り向きながら)前向きに書くのだから
そこには嘘を孕む

でもそれを自己嫌悪する必要もないと思う
あなたの会社の売上目標(受注目標)でも
あなたの個人目標でも それが嘘でないとあなたは証明できるだろうか?

わたしはその目標を一人称で書き続けているだけだ
(一人称の述語は破綻しない)
意味もなく楽しそうに見えるっていうのは
まあ そんなものだと思う

2005/10/20 (木)  
【@鹿屋】

午前5時起床 鹿屋は晴れ

昨日は鴨池港まで井之上さんに送っていただき 垂水フェリーで錦江湾を横断する
鴨池港→垂水港の運賃は360円
所要時間は約35分程だ

とてもさわやかな天候だったのでデッキで過ごす
タバコを吸いながらね

風がとてもここちよかった
桜島はいまひとつはっきりしなかったけれども 海面からぼこっと立ちそびえるその姿はやはり爽快だった

垂水港には林さんがお迎えに来てくれていてそこから車で約40分 鹿屋へ向かう
昨日は豊明建設さんで勉強会
鹿児島では阿久根建設さんに続いて二件目の関与先となる

わたしが今できることは 「イントラネット(サイボウズ)をベースとした組織のIT化と それを通した組織の活性化のお手伝い」でしかない

いつも書いていることだけれどもイントラネットの導入はとても簡単だ
でもそれが「それを通した組織の活性化」になるためには基本があると考えている

基本だけではなにも生まれないかもしれないが
基本がないところには本当になにも生まれない

そしてそれが「外圧」から「自主」に転換するためには 心のスイッチを入れるための「きっかけ」が必要なのだと思う

だからまずは きっかけとしての「基本」を身体で覚えていただく
(それは経営者にではなく社員の皆さんにだ)

「自主」を強調しながら その可能性を模索しながら……

そんな勉強会を午後8時まで ご苦労様でした
その後はIT推進チームの方々と懇親会

鹿屋ではお昼を食べた店が楽しかった
店の名前は「栄楽寿司」という http://www16.ocn.ne.jp/~eiraku1/

ここの寿司はまず姿が美しい
最初に見たときに綺麗だなと思った

それは基本と創作性のハイブリッドのようなもので 基本を守りながら「反転」を試みている

例えば軍艦の容姿を見よ!
創造性が紙一重で下品さを押さえ込んでいる

寿司屋と蕎麦屋と洋食屋は近所のそれが一番うまいに決まっている

それはいつも食べている味が身体にしみついた「基本」となってしまっているからだ

だから余所の土地で寿司を食べるとき それを浅草の寿司屋と比べることにたいした意味はない
要はただ その店の作品を真摯に楽しめばいよいというだけだ

その時 おおげさかもしれないけれども 自分自身の全人格が表出してしまう
わたしの半生が出てきてしまう
わたしの身体に染み込んだすべてのデータが身体をかけめくっている

だから楽しめないときもある(身体が拒否する)(笑)
「栄楽寿司」は身体が喜んでいた

旅は新しい発見の宝庫だ
飛行機に乗っているときでも 船に乗っているときでも 車に乗っているときでも
宿にいるときでも
仕事をしているときでも わたしの海馬は喜びまくっている

風景が変わることは楽しいと思う
その感覚を わたしは以前よりも深く感じるようになった

歳をとったせいかもしれないが
もっともっと世間を知りたいと思う

2005/10/19 (水)  
【反転(象徴の一部否定)】

午前6時30分起床
鹿児島はくもり
今日は 垂水フェリーで鹿屋市へ移動する

昨日の昼飯
鴨池ハイム28番街にある「まるしん」でランチ
最初にでてきた皿にぎょっとする
おおよそ寿司屋らしからぬ様相のそれは
多重構造をしたパスタとサラダのハイブリッドであり
ドレッシングというかソースもゴマ風味で不思議なものだった

それは「ここは寿司屋だよな」という既成概念を壊す
つまり「反転」(象徴の一部否定)が行われている

まあこのあとはオーソドックスに茶碗蒸しと寿司が六貫
それにかっぱ巻きが出てきて安心するのだが だからこそ象徴の一部否定なのである

すべてを否定するなら寿司屋ではなくなる

食事のボリュームはかなりのもので しっかりと満腹になる
満腹でも仕事はする

鹿児島県建築協会では 来年4月からの正式運用に向けて 全会員へのイントラネット操作講習を進めている

協会員間の連絡にイントラネットを使うことも「反転」である

しかし人間は慣れた環境を自ら進んで変えようとはしないものだ
変えるときには何かの力が働く

フィードバック理論では環境を変えるエネルギーは二方向からのハイブリッド波だ

ひとつは「外圧」であり
ひとつは「内圧」である

この圧力の力関係で正のフィードバックにおける個人のあり方は変わる
「反転」とは本来「内圧」であることで変化の「痛み」は少ない

「内圧」とは「私」自身の心の中のことであり「希望」であり「欲望」である
つまり「反転」には「外圧」と「自主」(希望・欲望)のハイブリッドの力が必要だということだ

昨日の勉強会は この二つの力の渦巻く場のようなものだ
たぶん多くの方々は自主的にやってきたのではないだろう

なんらかの「外圧」で勉強会にやってきたはずだ
本当のことを言えば このProject自体が「外圧」としての性格を持っている

しかし私達は「内圧」つまり「自主」の力が多く働くことを期待している
はじまりは「外圧」だとしても それを強調することはないしそれを否定することもない

ただ少しでも「自主」の力が芽生えることを期待している
「外圧」は必要であるがそれだけでは「反転」はうまくいかない

勉強会でサポート活動をされているIT委員会の皆さんは
ボランテアの精神の体現者である

ボランティアとは自らの自由意志であり「内圧」であり「自主」である
その精神がこのProjectには必要なのである

この精神がProjectに充満することで「反転」に「自主」は芽生えやすくなる
そして「象徴の一部否定」は「私」自身のものとなる可能性が高くなる
(IT委員会の皆さんの協力に感謝だ)


夜は 居酒屋「 くん太」にて一献
ここでも象徴の一部否定は行われていた
例えばこれは サトイモのコロッケである
コロッケで芋と言えば フツーはジャガイモを使うのだろうが
その否定をしてサトイモを使っている 見事な「反転」である
(総じて「創作料理」とはシミュラークルなのであり「反転」が行われやすい)

サトイモを使うこと以外は とてもオーソドックスなコロッケとなっている
これが「反転」(象徴の一部否定)のこつのようなものだ
材料の一部を変えることによって 新しいものを創出している

しかしその試みがすべて成功するわけではないのも当然のことで
このコロッケはその代表的な事例のようなものだ
つまりはっきり言って「わたしの口には合わなかった」(笑)

2005/10/18 (火)  
【希望学】

午前5時35分起床
鹿児島は はれ
予想最高気温は28度 わたしゃ夏服じゃない

昨晩は 阿久根建設の井之上社長 現場サポートの福留社長 インターウェーブの倉橋社長と天文館にある「一成」にてもつ鍋を食べる
たぶんわたしが過去に食べたどのもつ鍋よりもスープが濃厚でありうまい
このスープはうますぎるのでつい飲んでしまう

なのでちゃんぽんはなんとか作れたが 雑炊はスープ不足でつくれなかった
それで次回の楽しみにということになった…

また行かなくちゃいけない

その後天文館をふらふら
これを「夜のボウフラ」という

写真は天文館でみつけた不思議なもの

一見 「天文館不動産」という果物屋に見える

……ただそれだけ(笑)








さて あるフォーラムの企画書を書くのに 玄田有史さん(東京大学社会学研究所 助教授)の「希望学」についての資料を読んでいた

『去年の一月、朝寝ていたら、頭の中にある言葉が突然浮かんできました。それが「かつて希望は社会の前提だった」という言葉でした。』(玄田)

かつて貧しかった時代があった
わたしはその時代のハシッコで生まれた

まだ家にはテレビはなく
冷蔵庫は氷を入れて冷すようなそんな代物しかない時代だった

それが始まりで そこから「希望の時代」を生きた
わたしがモラトリアム期を過ごしたのは高度経済成長の時代だった

開発主義の時代だと言ってよいだろう
時代は貧しさを基底にできるがゆえに

そしてアメリカという(当時の私達には夢のような)世界を見せられてしまったがゆえの
「希望」がそこにはたしかにあった

『希望があるから、それを実現しようとして行動する。勉強したり、働いたり、家庭を持ったり、老後の貯えをしたりする。希望があるからこそ、そこに人間の営みが始まる。』(玄田)

そして私達は無邪気に希望の時代を生きた
そしていつのまにか希望の薄い時代に生きている

『私たちは社会科学というものを勉強していますが、希望があることを前提として、人間の行動や社会の動きを考えてきました。けれども、現代はすでに希望という前提自体が崩れているのかもしれません。』(玄田)

じつはわたしが「IT化」を通して考えていることはこれでしかない
わたしは「欲望」という言葉を使うけれどもそれは別名「希望」であり

わたしは建設業に対して「ニートの文脈」という言葉を使うけれども
それは「公共事業という産業」の
「希望という前提自体が崩れているのかもしれません」ということだ

『もう一つ、希望を失われている象徴的な存在が、「ニート」です。仕事もしていない、学校にも行っていない若者たちが、日本中にたくさんいます。そんなニートが話題になったときに、働く意欲のない若者とか、働く能力のない若者だとか、よく言われました。』(玄田)

『けれども、実際に話を聞いてみると、問題は意欲や能力じゃない。彼らにないのは、働くことに対する希望なんです。だから、もし仕事とか、若者の雇用問題を考えようとするならば、一体、希望はどこからくるのか、希望はなぜ失われるのか、そんなことを明らかにしないかぎり、前には進めない。そんな風に思ったんです。』(玄田)

そして玄田有史さんは(わたしもだけれども並べて書くのはおこがましい?)
それを個人の特性としてではなく 環境との関係で考えようとする

つまりここでは 根性論も精神論もたいして意味を持たない
頑張れない人間に 頑張れ!って言っても 頑張れないってことだ

『希望と言うと必ず「それは人間の心の問題ですね」「個人の感情の問題ですね」「性格の問題で、希望を持てる人と持てない人はやっぱり一人ひとり違うから、個人の内面の問題でしょう」と言われます。』(玄田)

『もちろん、心や内面の問題もあるでしょう。しかしそれだけではなく、希望は個人を取り巻く社会とも密接に関係しているはずです。そんな社会の原動力であると同時に、社会の産物として、希望という存在を考えていきたいのです。』(玄田)

それは社会全体がそうであるように
「貧しかった時代」に比べれば途方もない豊かさゆえのものかもしれない

そこにはオルテガ・イ・ガセットの言う 【慢心しきったお坊ちゃん】があるかもしれない
「公共事業という産業」は豊かさの単なる相続人となったのかもしれない

そしてそれはやはり「心や内面の問題」もたしかにあるだろう
それには精神分析の文脈は有効かもしれない

しかし「希望」ってなんだろうなっていつも思う
(わたしの場合は「欲望」なんだけれども それが結局は動き出すエネルギーなんだ)

『希望があるから、それを実現しようとして行動する。勉強したり、働いたり、家庭を持ったり、老後の貯えをしたりする。希望があるからこそ、そこに人間の営みが始まる。』(玄田)

「社会」という言葉を「会社」や「業界」や「地域」や「学校」や「家庭」に変えて読んでみてほしい

 希望のある会社
 希望のある業界
 希望のある地域
 希望のある学校
 希望のある家庭

2005/10/17 (月)  
【土曜日から日曜日のこと】

午前6時起床
浅草は 小雨

今日は鹿児島へ向かう
ANA 625 東京(羽田)(13:30) - 鹿児島(15:10)
明日の仕事に備えての前日入りである
夜は懐かしい方との一献も予定されている 楽しみだ

一昨日の夜 新潟県電気工事工業組合さんとの懇親会は「官休庵」にて
この店の存在は以前から知っていて 是非行ってみたい店のひとつだった
写真は ふかひれと白きくらげのスープ こりこりとした食感が楽しかった
お酒の品ぞろいも豊富で  なにかいろいろと飲んでしまったようで酔いも深まる

その後三件ほどはしご
最初の店は「やすらぎ」という店だったのだが
この店には衝撃を受けた 詳しくは日を改めて書きたいと思うが
簡単に言ってしまえば若い娘のいない けれども(いやそれだけに だろうか)
気の置けない店をつくりあげている

そこには 強烈なマーケティングと戦略の存在を感じたが
それはある意味「メイド・カフェ」よりもえぐいかもしれない

一方最後の店は 先ごろ急逝された小林前理事長に連れて行っていただいていた店だった
「桃論」を書いている頃だから 三年ぶりぐらになるだろうか
店の人たちもわたしを覚えてくれていた
懐かしいはなしをした
水商売とは言うけれども 流れて行ってしまう物ばかりでもない

昨日新潟でのお昼はCoCoLo本館店(新潟駅ビル内)の長岡小嶋屋にてへぎそばを食べた
新潟へ来たならぜひとも食べたいもののひとつである 
天へぎともりを頼む
へぎそばは つなぎにふ海苔を使っているので 普通のそばよりも緑色が強い
歯ざわりにしこしこ感 もちもち感があり
のどごしはするするとすべるようで 普通のそばとは異なる楽しさがある

わたしはわさびを使わないのだけれども 本わさびが出てきた
白い粉は「砂糖」なのだった
辛味が強調されるとのことだった


新潟から戻ると 地震があった
その揺れ方で 「たぶんこれの震源は茨城だよ 心配ないよ」とわたしは言った

変に慣れてしまうのも問題があるなと思うが
マンションの10Fというのは 震源からの距離と強さによって揺れ方に違いがあることを理解した
(それがわかったところで なんの役に立つのかはわからないが……)

夕方は恒例の銭湯へ 銭湯は楽しい!
風呂上りの上機嫌のまま 夕餉は千束通りの「三楽」へ
鳥モツ鍋を食べた
すき焼きの肉が鳥もつになったものだと思っていただければよいだろう
勿論 お値段はすき焼きに比べたら比べ物にならないぐらいに安い!
そしてうまい!
ビールも飲んだが 新潟での鯨飲が効いていたのか ジョッキ1.5杯が限界だった

2005/10/16 (日)  
【@新潟(反転と切断】

午前7時12分起床
新潟は くもり

昨日は新潟県電気工事工業組合にて講演
休憩をはさんで約2時間
予定された時間を30分程短くした

演題は「事業者団体ベースのIT化について」
これは 既にイントラネットの運用をしている方々
ましてや昨日の聴衆である青年部の皆さんにとっては
抽象的でベタな内容になりかねない

そこで「工作の時間」を組み込むことで
「反転」と「切断」の可能性を
「事業者団体ベースのIT化」に組み込める事を強調する内容とした

「反転」とは象徴の一部否定であり
「切断」とは実行(骰子一擲)である

ここから本来は「考える技術」への展開になるのだが
それはあえて全部割愛した

昼食後の午後の時間
集中力が保てるぎりぎりの時間を2時間と設定し
「反転」と「切断」に集中した

そこからしかなにものも生まれい

わたしがいまできることは
「イントラネット(サイボウズ)をベースとした組織のIT化と
 それを通した組織の活性化のお手伝い」である

間単に言ってしまえば
「まずイントラネットを使って組織内のコミュニケーションを活性化しましょう!」だ

組織とは経営の対象であり
つまり ドラッガーのいうマネジメントの対象のことだけれども
企業も 行政も 業界団体も 軍隊も 教会もだ

昨日上野駅に向かうタクシーの中でふと思った
「俺はいったいなにをしているのだろうか なにをしようとしてきたのだろか」

その最初の「答え」がこれだった

文字で表すとなんて単純なことなのだろうかと思う
たぶん桃知商店の
キャッチコピーはこれでいいのだと思う

しかしこの実践はそんなに簡単じゃないってことぐらいは知っている
七年もこの仕事をしていれば壁のようなものは存在している

それを「コミュニケーション」という

コミュニケーションの質的変化の時代である
しかし対人間のコミュニケーションこそが組織の活力の源泉であることは変わらない

「イントラネットを使って組織内のコミュニケーションを活性化しましょう!」
素敵なスローガンだ

しかし「活性化しましょう!」と言うとき
それは個人のコミュニケーション能力の活性化(向上)のことなのである

それは組織を通して養われる 個人に宿る能力である
そしてそれはすでに 組織外とのコミュニケーションをも志向している

なぜなら今や ほとんどの組織は
たとえそれが公共事業100%の組織であっても
組織内の自給自足が不可能な時代だからだ

組織が存続できる源泉は組織外にある
組織内で悩んでいるマスターベーションの時代(空想の時代)は終わった

しかしそれさえもうまくいかない
コミュニケーション機能不全の組織のいかに多いことか

それは組織を通して養われる 個人に宿る能力であり
つまり組織がそれを育てていないのだ

だからそれは組織内からはじめる
閉じた紐帯(モスラの繭)としてである

そして外へ向かって反転する 捻りを加える
メビウスの帯から 広くて薄い紐帯へ向かう

しかし こんなことでも言葉にしてしまうと
単純なことに思えてしまうから不思議だ
なんて簡単なことだろうと思えるから不思議だ

でも実践者(切断をする人)はその難しさを知っている
だから 考え 行動する(ひきこもらない)
コミュニケーション つまり人間は如何にして繋がるのかをだ
  インデックス

IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を創出する
momo
桃知商店
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