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建設業に貢献するIT化
考える技術!

店主戯言(浅草的思考)060103 2006/1/22〜2006/1/31 "There goes talkin' MOMO"


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2006/01/31 (火)  
【ベタ】

6時45分起床。浅草はうす曇。

耳の具合が悪いのです。たぶんのどと関係しているように思うのですが、ひどいようだったら病院へ行きたいと思います。

さて、リンクさせていただいている「it1127さんの日記」の1月30日、「【気儘に】パトリオティズムあるいは日本の情緒と形」にて、一昨日の【新年会御礼】で使った「パトリ(地域)」という言葉に反応をいただいておりました。

it1127さんは、「パトリ」から「パトリオティズム」に思考を接続されているのですが、「わかる人にはわかるのね」と納得していたりします。

たしかにわたしが単に「地域」とは書かずに、わざわざ「パトリ(地域)」と書いたのは、その意味(パトリオティズム)を文脈に孕めるためでした。


わたしの日記はご存知のとおり、ニュートラルな立場にはなく、ある政治的な意思(価値観)に偏っています。

それは、わたし自身が自分の活動において、変えてはいけないものとしている「建設業に貢献するIT化」に「あえてこだわる」からです。それは「あえて」わたしが私自身にハメた「型」をもって書こうとする態度です。

そこまで自覚的なら、「孕ませる」などといった婉曲な表現方法をさけ、「パトリオティズムにのっとり」とか直接的な表現をすればよいだろう、というご意見もあるかもしれません。

そして毎日なんだかわからないようなことを書いていないで、「日本には建設業が必要です」とだけ書いていればいいじゃないのか、と言われるかもしれません。(それと食い物のはなしですか)(笑 )

たしかに、それはある意味正しいと思います。ですからそれを否定はしませんし、わたしもアジテーションとしての(ベタな)講演を何度もしていますし、これからもし続けることでしょう。

しかしそれは結局内包に向かうのです。

ベタな言説は動員には有効かもしれません。ですからまずは「円環をつくるきっかけ」ならそれでいいわけです。

しかしそれを繰り返すだけなら、じつはそれはそこからは何も出てこれない。(情報を発信できない)
「ひねり」がないわけです。(たわいもない会話)

そしてその円環は、内発ベース(自らが変わる)というよりも、不安ベース(誰かが変えてくれる―依存)が支配的な円環となります。

つまりなにも変わらないのですよ。
それが、ベタな言説の弱さなのです。
だからそれだけでは「ダメ」なのです。


ある政治的な意思(価値観)を持って意見を発するという態度は、「公共事業は必要/不要」、経済学でいえば「新古典主義/ケインズ主義」、昨年の選挙でいえば「郵政民営化賛成/反対」というような二分コードのどちらかを選択する態度です。

もしそこに、「考えること」(理論)の軽視(複雑性の軽視)が支配的であれば、結局は合理的な選択の判断基準は「感情という象徴界」であり、弁証法的(歴史的な人間観)でもなく、「反省」もなく、その選択は「動物化」の文脈で行われます。

たしかにそれは「世界の複雑性の縮減」((c)二クラス.ルーマン)です。
しかし、それは社会の複雑性を見えなくしてしまいます。

その個人の合理的な選択の集合が民意だとされています。しかし、そこにあるのは合理の彼岸の非合理だったりしているわけで(合成の誤謬)、小泉流の構造改革は非合理性の第3象限にあります。

地方の方々に聞いてみれば、「公共工事は不要だ」と考えている人は少ないでしょう。
でもそういう方々も、公共事業反対を表明する政党や個人を支持しているわけです。

「世界の複雑性の縮減」は「ねじれ」という非合理性を抱えるわけです。





だったら、どうするのか、なのですね。

ということで、午前8時30分になります。(笑)
なので、今朝はここまで。

ベタな戦略に上書きする(代わるのではなく上書きです。戦略は襞―多層レイヤー構造―でなくてはなりません)戦略については、明日以降、「考える技術」と関係させながら書いていきたいと思います。

2006/01/30 (月)  
【0218大阪三人会プランニング】

リハビリを兼ねて0218大阪三人会プランニングからはじめました。これは1月21日岩見沢市で遊喬さんとご一緒したときに、やろうと決めたたもので、今回は旧友太田ジオさんとの三人会としてプランニングしています。

会場は、平和奥田株式会社大阪支社さまのお世話になりました。今現在、出し物はまったくの未定なのですが、わたしとジオさんで漫才をやるわけもなく、わたしは「工作の時間」をより一般化した、「工作の時間バロックの館編(改)」を持ち込もうかと考えています。

詳細は逐次お伝えしてまいりますので、関西方面の皆さまは2月18日の予定をご調整いただきながら、てぐすね引いてお待ちいただければと思います。

■060218大阪三人会(案)
【日時】 2006年2月18日(木) 14:00〜17:00
【受講料】 (未定)2000円程度(懇親会費別)
【会場】 平和奥田株式会社 別館2階
大阪府豊中市岡上の町4−1−2
平和奥田株式会社大阪支社 別館2階(豊中北消防署裏)
[地図]
【定員】
【概要】 出演:
桃知利男   http://www.momoti.com/
太田英将   http://www.ohta-geo.co.jp/
笑福亭遊喬 http://www.kamigatarakugo.jp/profile/2001/05/post_39.html

出し物未定
【主催等】 桃知商店
(有)太田ジオリサーチ
【申込み方法】
【お問合せ先】
参加される方の、氏名、所属、電子メールアドレス、懇親会への参加の有無を記載して、店主へメールでお願いいたします。
mailto:pinkhip@dc4.so-net.ne.jp
【懇親会】 19:00より 
「くいだおれ」を予定
http://www.cui-daore.co.jp/
(詳細未定)



【出直してまいります。】

午前7時15分起床、浅草は晴れ。

脳みそに着火するために、なにやら書き始めるのを習慣としているわけですが、今朝はその書き始める前の段階まで脳みそ(というよりは全身)が至っておりません。^^;

どこかに穴が開いていて、なにかが漏れているような状態でして、修繕してしてから出直してまいります。m(__)m

2006/01/29 (日)  
【新年会御礼】

午前7時起床、浅草は晴れ。

今年の新年会も無事終了いたしました。
全国からご参加くださいました皆様に感謝申し上げます。
ビンゴゲームの景品をご提供くださった皆様に感謝申し上げます。
お忙しい中参加していただいた岩井國臣先生に感謝申し上げます。
プロの仕事を見せてくださった麗子さまに感謝申し上げます。
素晴らしいサーヴィスをさりげなく提供してくれた浅草ビューホテルに感謝申し上げます。
そして、裏方でお手伝いくださったすべての皆様に感謝いたします。

「桃組」は出入り自由な中間共同体(種的基体)を目指しています。
それは「桃組」に接続すれば、外につながる窓が開いていることを意味しています。


つまり「桃組」は閉じた共同体ですが、同時に開かれた窓を持った一階部分として、常に「ひねり」を繰り返そうとしています(さもなければただの仲良しクラブで終わってしまいます→「たわいもない会話」)。

その「ひねり」の基本テーゼは、「合理に非合理を上書きすること」です。つまり「合理に非合理を突きつけ、目的志向の中に無償を爆発させる」(岡本太郎)ことで、日常に慢心した心に裂け目(窓)をつくろうとしています。

(昨晩の裂け目はいかがでしたでしょうか?)

「今はあえて」わたしがHUB(窓)になり、皆さんがつながることとして「種的基体」の意味を体感していただこうとしています(リアルとネットのハイブリッドなリアルとして)。

そして「メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)となる」とは、皆さんがその機能(窓)を担うことです。

そのヒミツが「ひねり」であり、「桃組」が種的基体として外とつながる窓をあける方法なのです(つまり「種の論理」。そしてこのことについては、繰り返し詳しく書いていこうと思います)。

たしかにその形成の仕方は、日常の側からみれば、(岩井國臣先生曰く)「あなたは変わった人を知っているなぁ」なのですし、「あなたは変人」なのだと思います。

それを褒め言葉としてポジティブに理解し―だって皆さんも「変人」の知り合いですし、「あなたは変わった人を知っている」のですから―、そして非日常から日常へ、皆さんがそれぞれのパトリ(地域)に戻り、地域を足場にして元気にご活躍していただければと思います。

そして疲れたときには、いつでも桃組にお戻りください。そのとき桃組は、いつでも子宮的な構造をもって機能いたします。桃組は多様なレイヤーの重複構造です。つまり「襞」です。

ということで、今年もありがとうございました。
今後も「桃組」を宜しくお願いいたします。

2006/01/28 (土)  
【国本武春】

午前8時16分起床。浅草は晴れ。

昨日のお酒が残っていて、目覚めてから思考の分断がつながり始めるまで1時間以上かかりました。その間、朝鮮人参茶を飲みながら、国本武春さんの『アジアの祈り』をただ聴いていました。


国本武春さんは浪曲師ですからね― 『アジアの祈り』は浪曲とはちょと毛色の変わったものですが― まあ二日酔いの朝に聴く人はそうはいませんわね。

でも暑い日に鍋焼きうどんを食べると逆に涼しくなるような、そんな効果があるのです。
少し元気にはなれるのです。

元気になれるというのは〈再生のシステム〉が機能しています。そのシステムは〈死/誕生〉の二分コードです。とはいっても、本当に死んでしまったら困りますから、死んだふりをするのですね。

2005/06/17【エロスとタナトス】2006/01/02【初詣という非合理】

わたしは昨晩、今日の新年会に参加のために前入りしてくれた皆さんとの宴会で、いったん死にました(笑)。

目覚めの朝は再生の朝のはずなのですが、どうも具合が悪いわけです。死を引きずっているわけですね。

そこでまたお酒を飲む(向かい酒)という手もありなのですが、今日は新年会の本番ですから、一日死んでいるわけにはいきません。ですから、国本武春なのです。


今日は「桃組」の新年会で、全国から60名ほどの方々が浅草に集います。それは〈再生のシステム〉なのですね。非日常と非合理の時間です。浅草でいったん死んで、また元気に再生していただければ、と思うのです。

2006/01/27 (金)  
【たわいもない会話】

午前4時起床。浅草は晴れ。

今朝も昨日の続きで、「メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になっている」ということについて書きます。

■たわいもない会話

SNS(mixi)にはコメント機能付きの日記がありますが、SNSがまず第一義的に「気心の知れた者たちだけで戯れる居心地のいい空間」をつくるを達成できると、日記は、「たわいもない会話」化(井戸端会議化)します。

それを「工作の時間」では、「円環」(閉じた輪)として理解しています。

これは別に悪いことではないと考えています。つまり共同体的な安全性や信頼性を保つことができれば、日記(会話)は「たわいもない会話」となります(わたしも「たわいもない会話」を楽しんでいます)。

ただ宮台真司氏によれば、『しかしこれは、特殊日本的な現象』(『ネット社会の未来像』,p41)だということになります。

それはインターネットというパブリックな空間が、私的な「たわいもない会話」に支配的なことをさしてのことですが、確かにそうだと思います。

そしてそれはその私的さゆえに、新たなネットワーク接続をつくりだすことがが難しいのも確かだと思います。

「システム論」からすれば、閉じて情報を発信すること、ただそれだけでよいはずなのです。これだけで〈他者〉とつながるはずなのです。つまりこれ(下の図:バロックの館:ライプニッツ的個)ですね。
一階部分(種的基体)に窓のない二階(個)が接続し、一階部分に開いた窓を通して二階は光をとります。つまり種的基体を通して個は世界とつながるわけです。

しかしこのヨーロッパ的なモデルが、なぜか今の日本ではうまくいきません。一階がちょこっと窓を開けてくれればよいだけなのですが、日本でこれをやると、なぜか窓は閉まったままになってしまうのです。


■私生活化(感情という象徴界)

それをわたしは、「私生活化」(「1.5の関係」、想像界と現実界の直結的接続)として考えてきました。つまり「パブリック」(3の関係)の概念がなくなってしまったところで育ってきたのが私達の心理構造だということです。

(パブリックが強いから閉じているのじゃないのか、と考える方もいらっしゃるでしょうが、そうであれば、つまり中景―種的基体―は生きているわけで、それはむしろ歓迎すべきことです。現実は複雑にねじれています)。

1.5の関係は、象徴界(中景)の中抜きのようなものですが、しかし象徴界がなくなることはありません(斉藤環)から、私たちは(無意識に)その穴埋めをしています。

その代替物は「感情」です。ですからパブリックな議論の場を「感情」が支配しています。それは私的な態度であり、深い思考を破棄する態度に思えます。(社会の心理主義化)

だからこそ(抑圧装置としての)「地域再生」が必要だ、というのがわたしの立場なのですが、これがそんなに簡単じゃないのは、この私生活化の原因をつくったのも開発主義(公共事業という産業の生みの親)だということです。

開発主義的な配分の原理は、物質的な自由を国土の隅々にまで拡大し、それを皆さんは享受しているはずです(消費による自己実現)。そしてそれはある意味自由であり、悪いものではないでしょう?

つまり大衆化(一億総中流)は、パブリックが国と直結すること(種」的国家)で可能だったわけですが、そのことで生活社会としての地域(パトリ)の空洞化を生み出してもいます。

国主導の開発主義→大衆化→消費による自己実現→生活社会の空洞化→国への依存(再帰)。

そしてそれは少なからず今も続いていて、それが諸悪の根源だ!というのが、小泉流構造改革を支持されている方の意見でしょうが、しかしこの流れを断ち切ろうとする構造改革もまた、〈生活社会〉の空洞化を加速させているわけです(ねじれています)。

それでこの「ねじれ」を、「ああめんどうくせい!」と一刀両断にしてしまっっているのが「感情」なわけです。(ポピュリズムの台頭)

ということで、ここからの議論は様々な方向へ展開可能なのですが、今朝は本題に戻ります。

問題は、私達の心理的な構造(象徴界)も、このような〈システム/環境〉の影響を受けているということです。

象徴界とは、いってみればバロックの館の一階部分なわけです。つまり「感情」という象徴界は窓を開けないのですね(個は閉じています、一階の二階化?)。

というような背景で、「たわいもない会話」を繰り返すだけでは、ただネットの日常化(ステロタイプ化)が進むだけです(繰り返しますがそれは出来上がった紐帯の維持には有効ですから、けっして悪いことではありません)。

ただ新たな「広くて薄い紐帯」をつくりだす可能性は低いのではないか、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)」に個がなれる可能性は低いのではないか、といことです。

そしてそれだけでは、〈他者〉とのコミュニケーション接続(それも信頼と尊敬の関係)は難しいのではないか、それは公共事業という産業の現状となんら変わりがないのではないのか、ということです。

そのような問題意識から、公共事業という産業のIT化戦略を考えるときに、「考えるIT化」つまり「ひねり」が生まれてきています。

ということで続きは月曜日でしょうか?

2006/01/26 (木)  
【閉じることでつながること(地域SNSについて(2))】

午前5時45分起床。浅草は晴れ。
地震はまだありません…。ず〜っとないとうれしいです。

さて、昨日からの続きです。

3 ウィークタイズ(広くて薄い紐帯)の起点となること

これはず〜っと考え続けている命題です。つまり「どうしたら〈私〉は〈他者〉とつながるのか」ですね。

このことは二つの方向性で考えています。それは<内包/外延>の区別であり、閉じることで、種的基体として機能しながらも、外延としての環境ともつながることを確認しようとしています。


(このPPTはちょっと古いな〜。でも時間がないので間に合わせで。m(__)m)

「広くて薄い紐帯」とは「めったに会わなくても、お互いに信頼と尊敬の気持ちを持ってつながっている人間関係」(玄田有史)のことですが、「桃組」(mixi コミュニティ)は、まず自らが「広くて薄い紐帯」であろうとしています。

それが昨日書いた、「桃組間ネットワークの構築」と「種的基体として機能すること」ですが、基本的にそれは「内包」での出来事です。

でも「内包」ばかりでは、桃組クラスターは「ひきこもります」。つまりメンバーは増えません。つながりは増えません。そこで新たなつながりを得ようとすれば、わたしが定期的に補給してくる新メンバーを待つしかなくなります(「金魚論」を思い出してみてください…)。

そこで重要になってくるもうひとつのことは、メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になる、ということです。それも、お互いに信頼と尊敬の気持ちを持ってね。(笑)

「桃組」コミュは、一年間で四倍程度に拡大しました(昨日現在214名)。そしてそれは少しずつですが増え続けています。このことは、完全にクローズドなコミュニティとしては、上出来だと思います。

そしてそれを可能にしているのが、メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になっている、ということだと思います。最近は、わたしが直接的なHUBになっていない方々の参加も増えてきています。わたしがF2Fでお会いしたことのない方も大勢いらっしゃいます。

つまり(「桃組」は)「閉じていることでつながっている」のですね。ただしこれには注釈が必要で「メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になっている」場合のみ。(笑)

ついでに書いてしまいますが、実践ベース(経営)でのイントラネットを用いたIT化の可能性はここにあります。つまり「閉じていることでつながっている」のです。ただし、メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になっている場合のみという注釈つき。

さらに書けば、「桃組」のメンバーの平均年齢は軽く四〇歳は超えているはずです(mixi ユーザーは若い世代が圧倒的に多い)から、mixi では異色の年寄り集団だと思います。(笑)

そして多くは、職業を通して生活社会(地域)に足場を持つ(ネットはあんまり得意じゃない)建設業の方々が多いわけで、ITに精通しているという条件はあんまり必要のないことがわかります(しかしそのことは、「建設業」という共有認識が多少なりともあるからこそつながっている、と考えることもできます)。


今はこの程度の検証しかできていないのですが、わたしはこの文脈だけでも地域SNSの可能性はあると考えています。

つまり、地域として(まずは)閉じることで、クラスター(共通認識― 足場 ―)をつくりだす。そしてそのことによって外延とつながる(当然、住民に対してのメディア・リテラシー教育は不可欠でしょう)。

仮説ですが、地域SNSの場合、地域(○○町等)という共有認識が多少なりとも残っていれば(それは現在<住んでいる/いない>の区分にかかわらず ―出身―)、多様性を許容する、信頼ベースの地域社会をとり戻すためのローカル・コミュニケーションを展開できる可能性は高いと考えられます(そのことは協会ベース、事業者団体ベースのIT化によってある程度は実証済みです)。

それでですね、ここでまたあらたな疑問が生まれてきたはずです。それは「注釈」です。つまり、「メンバーの一人ひとりが、新たなつながりをつくりだす起点(HUB)になっている」ということですが、それはいったいどういうことなのか、というはなしは、明日に続きます(たぶん?)。だんだん講釈じみてきました…。

2006/01/25 (水)  
【雲がへん?】

今日は、自室にて仕事をしているのですが、窓から見える南の空に見える雲がへんなのです。
気になってしかたありません。

これが午前10時過ぎ。


これが12時ごろ。


東−西に伸びているのですが、飛行機雲ではありません。
なんなんでしょう?



【地域SNSについて(1)】

午前7時起床。浅草は晴れ。

今朝は、「地域SNSに関しては、明日にでも詳しく書く予定ですが」と昨日書いたことを引き継いで、最初に、昨日参考文献として紹介した『ネット社会の未来像―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド3』から、宮台真司氏の(SNS(mixi)についての)発言を抜粋し(p189-190)、その後、わたし自身が実際にmixiを使ってみて感じていることを書いてみたいと思います。


■宮田真司氏の見解

宮台―(…)最近、mixi(ミクシィ)という、ブログ系のサイトが流行っています。ちょっと前までは「はてな」というブログ系日記サイトが流行っていました。これは、万人にひらかれた(オープン・トウ・オール)アーテクチャーですが、mixiは、会員から紹介メールをもらわないと、会員登録できない、クローズドなネットワークになっているんです。

 SNS(ソシアル・ネットワーク・サービス)といって、アメリカから来たものですが、このシステムだと部外者が入れないので、アラシが跋扈できないのです。誰が閲覧したのかという会員リストも「あしあと」というかたちでぜんぶ残りますから。結局「気心の知れた者たちだけで戯れる居心地のいい空間」が、ネット上につくられたということなんです。

神保―誰かが秩序を乱すと、紹介した人も責任を問われるそうですね。

宮台一そうです。本来、不特定多数を相手にし、匿名性が特徴だと思われていたインターネットというメディアのなかに、部外者を完全にブロックして完全に内輪だけで楽しめる、安全で完成されたグ口ーカル・コミュニケーションが登場したんですね。これらをどう評価したらいいのかということです。僕の考えは、両義的なものになります。

 酷薄な流動性に抗って、非流動的なホームベースを確保するという場合、昔ながらの地域共同体を持ち出すことは、いまの日本ではできません。そういうときに、インターネット上で、感情的安全(エモーショナル・セキュリティ)が担保された、非流動的なコミュニケーションの場が生まれるということは、歓迎するべきことだと思います。

 ところが、ネット上の各ソシアル・ネットワークは、近代過渡期段階における「誰でも似たり寄ったりの生活世界」じゃありません。「寅さん」に描かれた生活世界にみずからの生活世界を重ねて感情移入(エンパシー)できたような牧歌的な時代は、SNSがどんなに拡がったところで、絶対に回復できません。

 しかし、問題は単純じゃない。空洞化した地域社会だからこそ上昇する「道徳の押しつけ」「伝統の押しつけ」「相互監視化」に抗って、多様性を許容する信頼ベースの地域社会をとり戻すためのローカル・コミュニケーションを、SNSだからこそ展開できるという面もあるんです。ことほどさように、いまやインターネット化の意義は錯綜しています。(引用終了)


■桃組コミュニティ(mixi)

SNSについてのわたしの見解は、宮台氏とほとんど一緒だと考えてもらってかまいません。まずは両義的なのです。『問題は単純じゃない』のですね。

ただ、わたしが地域再生にSNSを持ち出すことの、自己肯定的な側面(別名セールストークという(笑 )を強調するならば、『空洞化した地域社会だからこそ…、多様性を許容する信頼ベースの地域社会をとり戻すためのローカル・コミュニケーションを、SNSだからこそ展開できる』ということに尽きるかと思います。

わたしはmixi を使い始めて1年程度ですが、それなりに問題意識を持ち、仮定を立て、実証をしてみる、というような使い方をしています。

その最初の意図(1年前に考えたこと)については、2005年1月7日の戯言【悪党・クラスタリング係数からIT化を考える】をご参照ください。

mixiでまず最初に行ったことは、閉じられた(クローズド)なコミュニティとして「桃組」を開設したことです(というか、それしかしていません(笑 )。

現在 214名のメンバーは、原則わたしがF2F(フェイス・トウ・フェイス)でお会いしたことのある方々であり、参加にはわたしの承認を必要とします(つまり基本的に最初のHUBは、わたし自身となります―M0(桃数0)ですね―)。

現在、アクティブメンバーは半数程度だと思いますが、ちなみにわたしのマイミク(SNSにおける何らかのお知り合いとして認定されている方)は257名で、クラスタリング係数は1.2です。

(「桃数」と「クラスタリング係数」についても、【悪党・クラスタリング係数からIT化を考える】をご参照ください。)

アクティブなメンバーの多くは、わたしのIT化論に共感を持って? 一緒に活動をされている方が多いのは当然です。つまり「桃組」とは、まずはリアルの延長上につくられたバーチャル・コミュニティだということができます。そして、このこと(リアルの延長上であること)の狙いは三つあります。

1 桃組間ネットワークの構築
2 種的基体として機能すること
3 ウィークタイズ(広くて薄い紐帯)の起点となること


1 桃組間ネットワークの構築

わたしのIT化は、あくまでも地に足のついた基体―昨日のことばでいえば「依って立つ地面」―をつくろうとするものです。つまり活動自体が特定の地理性に縛られています。(地域クラスター)

そしてわたしの活動範囲は全国にわたりますので、ともすると一緒にIT化に取り組む方々が、地域クラスターを超えて繋がらない、ということになりかねません。

それは自らを外から見る機会(「ひねり」の機会)を失い、結局は閉じた円環に再帰することと同義ですから、IT化が(安易に)種に解けることをよしとする個を生みかねないリスクを大きくしてしまいます。

その解決方法として、新年会や暑気払い等のイベント(祭)、セミナーにおけるゲストスピーカーへの抜擢等、リアルな場面での機会拡大活動を行っています。しかしそれにも限界があります。

ですので、インターネット上に、上位レイヤーである「桃組」を常設することで、F2Fがなくともバーチャルとしてつながることで、その問題を解消しようとしています(まあITの使い方としてはオーソドックスなものです)。

しかしそれは現在のところ、あくまでもF2Fの補助的なものであり、まだメンバー間の信頼判断基準(ベース)はF2Fにあるようです。

それはマイミク数に顕著です。「マイミク申請する/しない」の基準、つまり信頼基準(ベース)は、同じ「桃組」内でも、F2Fに置いている方が多いようです(わたしも基本的にはそうですが(笑 )。これはメディアリテラシィの問題にもつながるような、興味深い傾向だと思います(mixiの特徴である非匿名性を含めて)。


2 種的基体として機能すること

種的基体とは、「桃組間ネットワークの構築」の過程を通し、より実証的にリアル+バーチャルのハイブリッドなネットワークである「桃組」が、信頼ベースの共同体として機能できるようにしようとする試みです。

つまり、『空洞化した地域社会だからこそ…、多様性を許容する信頼ベースの地域社会をとり戻すためのローカル・コミュニケーションを、SNSだからこそ展開できる』かが如何にして可能なのかを、仮想的に検証しようとしています。

それは地域再生における個の存在が(クラスター的に)ハイブリッド(重層的)であることを想定したものです。地域社会というクラスターでは、より下層のレイヤーでは、例えば家族とか会社とか協会とか学校とかのクラスターに重複して個は存在しています。

さらには政治的なレイヤーや趣味的活動のレイヤーもありますから、個人は既に、クラスター重複の存在と考えられます。(多様性)

では、その多様性を保障しながら、信頼ベースの共同体をネット上につくれるのか、という問題です。わたしはそこでは、ネットのもつ縛りの緩さが逆に効果的ではないのか、という仮説をもって、これを見ています。

つまり「桃組」はシステム的には「閉じた円環」ではあるのですが、最初から内的な縛りの緩さを持ち合わせています。メンバーは別次元のクラスターを背景に持っていますし、mixiというレイヤーでいえば、「桃組」以外の多様なコミュニティ(クラスター)に参加しています。

それはつまり、「桃組」自体がウィークタイズ(広くて薄い紐帯)であるということです。



そしてここでの「桃組」は、疲れたときに優しく個を迎え入れてくれる「家族」のような共同体になれるように努めていますし、実際にそれに近づいていると思います。

宮台氏のことばを借りれば「気心の知れた者たちだけで戯れる居心地のいい空間」を「あえて」(境界が見える中に)つくろうとしています。

ということで、今朝はここまでです。続きは明日にさせてください。m(__)m

2006/01/24 (火)  
【依って立つ地面が信頼できるときだけ人は変化に耐えられる】

午前7時起床。浅草は晴れ。
風邪からはほぼ復活しました。たくさんの皆さんからお見舞いのことばをいただきました。
ありがとうございました。

■ホリエモンの逮捕について

この手の話題はじつは苦手で、他人様の不幸にはあまりふれたくはないのですが、思うところがありまして、あえて書きます。

わたしと堀江氏は、年齢(世代)は違いますが、起業の時代背景を共有しています。創業の時期はたいして変わりませんし、わたしもITを扱い、ライブドアもIT関連企業に分類され、(ビジネスモデルは違いますが)上位のレイヤーでは似たようなものかもしれないな、と思うわけです。

例えば(こんな区分になんの意味があるかはわかりませんが)「仕事を通した自己実現を目指したのか/否か」、といえばたぶん「目指した」のであり、その仕事は自己実現のための「創意工夫の必要な仕事なのか/否か」、といえばどちらも「創意工夫の必要な仕事」なのだと思います。

そして彼にあった上昇志向は、わたしが持ち合わせていないものかといえばそうでもなく、つまり仕事における精神的な背景は、あまり差異はないのです。

ただその自己実現のための手段は確実に違っていました。彼のIT化は外を向き(規模的拡大を志向する)、わたしは内面を志向している(規模的拡大を最初から志向していない)ことで、その事業「規模」は最初から大きな差がつきました。つまり勝ち組/負け組でいえば、彼は「勝ち組」であり、わたしは「負け組」なのす。(笑)

しかし、わたしが負け組であることは(最初から)当たり前で、そもそもわたしの自己実現とは「己のバカからの脱出」(バカのまま死にたくはない)であり、わたし自身に向かって(手の届くところでの)自己言及を続けることなのです。

それが資本のシステムに乗っていることが不思議なわけで・・・(つまりわたしのビジネスモデルを真似ても「規模の経済」的には「負け組」に分類されます)。(笑)

ただ言えるのは、わたしは規模の経済で「負け組」に分類されても、決して不幸ではありませんし(自己実現はそこそこ進んでいると思います)、今朝は、塀の「中にいる/外にいる」の差異はある、ということです。


さて、彼が逮捕されたことで、上位レイヤーの見直しが行われる可能性がでてきました(バックスイング)。それは、(日本の)資本主義のあり方は、このままでよいのか/否かという二分コードをもった問題としてです。

それは資本主義というシステムはナイーヴな「自由放任」ではなく、神の見えざる手の中にも「合法/不法」の二分コードや、「万人の万人に対する戦争」を避けるためのシステムが組み込まれることの必然性として語られるものです(それは「いまさら」に過ぎなくても)。

今回の事件は、OSの孕むバグが、OSへの単純適応の結果、「できもの」のように大きくはれあがり、潰れたようなものです。

これに対しては、システム設計(政策→アプリケーション設計)の見直し論(小泉流「構造改革」批判)は少なからず噴出するでしょう。そしてそれは、OSそのもののバージョンアップを要求してくると思います(書換えは無理でしょうが…)。

それは、わたしの立場には追い風かもしれませんが、わたしはそれに対しては慎重であろうと思います。民意の爆発に依ったものは、また民意の爆発で覆されるわけで、その契機は偶発的なものだからです。


さてこんなことと関連しながら、今朝は札幌独演会の反省の続きをしたいと思います。しかし反省といいながらも、それは札幌で直接話されてことではなく(もちろん深く関連はしていますが)、むしろ2月3日の東京独演会の内容を先取りしたものとなるかと思います。


■「ひねり」について

「ひねり」とはまず(わたしのIT化の文脈では)、象徴の一部否定であり、自己言及(反省)による自己の変化― 例えば「現場状況報告」の実践 ―)ですが、自己言及(反省)ができるのは(つまり人が変化に耐えうるのは)、依って立つ基底(地面)があるときだけです。

象徴の一部否定ができるのは、象徴があるからこそで、それは「依って立つ地面が信頼できるときだけ人は変化に耐えられる」ということです。

『この命題が事実だとすると、八〇年代までの日本で「ずれる」ことや「ずらされる」ことが耐えられたのは、近代過渡期の名残りがあって、家族やら地域やら会社やらサークルやら所属するベース(基盤)があって、感情的安全を担保されたからじゃないかと思うんですね。』(宮台真司氏のことば,『ネット社会の未来像―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド3,p156−157)

この認識を、変化(進化)を促すのなら、中間共同体的なものを「ぶっ壊す」のではなく、むしろ基底としての種的基体(生活社会)の再生(維持→変化)を、システム設計に孕ませることが必要なのだ、と理解しています。

これは、わたしのIT化では円環(種的基体)をつくることからの「ひねり」ですし、(少々ベタな言い方ですが)「地域再生」を考えている方々は、共通認識としてこれを持っていてしかるべきものです。

わたしはご存知のように小泉流の「構造改革」には反対の立場です。しかしそれは、近代成熟期としての日本社会の、構造的な変化の必要性(開発主義の終焉)に反対しているのではありませんし、変化(シフト)を否定しているのでもありません。

再び宮台氏のことばを引用すれば、『公共性が「お上に従う」ことから「自分たちのことは自分たちで解決すること」にシフトしなけば社会システムが機能不全に陥るのが、近代成熟期なのです。』(『ネット社会の未来像,p156−157)を「コミュニティ・ソリューション」をシステムの中に取り込むことと理解し支持しています。

であればこそ、現政権による構造改革は、「依って立つ地面」(中間共同体、生活社会)が瀕死の状態にもかかわらず、さらなるその消滅(画一化)を孕んだ変化(シフト…どこへ?)を強要していることで、ハードランディング(機能、マニュアル、自己責任の一点突破)にしかならない、と考えています。

そこでは、変わりたくても変われない方々が多く生まれています(ニートやひきこもりの問題)。

わたしは、地域が(そして個が)変化(シフト)するためには、なにがどう必要なのかを、IT化の戦略として考え、そこに公共事業という産業をどう位置づけるのか、を考えているのわけです―それはたぶんにペシミスティックな作業ですが・・・(笑)。

・・・それにはまず、公共事業という産業が、大なり小なり生活社会(地域社会)を「依って立つ地面」として支えている、という事実を事実として公共事業という産業の〈他者〉(地域社会の構成員)に理解されることを目指しています。

はなしはやや横道に逸れますが、そこでは機能分割による評価は「あえて」必要だと考えます。例えば「大手の行う工事/中小建設業が行う工事」の区分は必要です。それは大手と中小では地域維持貢献機能― つまり雇用機能、防災機能、経済活性化機能、社会資本整備機能等々 ―がそもそも違うからです。

それらを「公共工事」として一括りにすることには無理があります(例えば「経審」)。それは「公共工事は不要といいながらも、自己の安全(防災)は優先してほしい」というような「民意のねじれ」を生じさせてしまい(この「ねじれ」は「ひねり」ではありません)、せっかくの「依って立つ地面」としての地域社会を弱体化させてしまっているだけです。

位置づけ― コミュニケーション接続の過程 ―こそが、「ひねり」を持った円環(依って立つ地面)でなくてはなりません。それを具体的にイメージすれば(現段階では)、発注者/受注者/受益者のコミュニケーション接続(クラスター間接続)と上位レイヤーとしての地域SNSです。

その実現にはボトムアップ(協会ベース、企業ベースのIT化=HUBとしての個を育てる)も必要でしょうし、制度政策的に上から下へ向かって何かをやっていく必要もあります。

つまり、変化(シフト)の過程そのものが双方向性を孕みながら推移することが重要なのです(IT化です)。その必要性の理解(コミュニケーション接続)を、私達は発注者、地域社会へと広げようとしています。それが「ひねり」をもった「IT化」の意味です。

(地域SNSに関しては、明日にでも詳しく書く予定ですが、取り急ぎは、「情報技術と危機管理」に関しての講演の反省、2005/07/16 (土) 【考える−実践】(http://www.momoti.com/myself/self050702.htm#050716)をご参照ください。ここでは地域防災をフックに「依って立つ基底(地面)」としての地域社会―ひねりを持った円環―を考察しています)

 

参考文献

ネット社会の未来像『ネット社会の未来像―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド3

宮台 真司 (著), 神保 哲生 (著), 東 浩紀 (著), 水越 伸 (著), 西垣 通 (著), 池田 信夫 (著)

2006年1月25日
春秋社

1680円(税込)






2006/01/23 (月)  
【風邪】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。

風邪をひいてしまったようで、症状はお腹から喉にきています。昨晩は大事をとって休養しましたので、予定していた作業ができなかったのですが、それにしても喉が痛む朝なのでした。

ということで、今朝は無理をせず、暖かくしてすごしたいと思いますので、ここまでにさせていただきます。

体調がよければ札幌独演会の反省の続きを書きたいと思います。
寒い日が続いております。皆さんも体調にはお気をつけください。
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