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建設業に貢献するIT化
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2006/02/10 (金) ▲ ▼
【家族の痕跡】
午前7時起床。浅草は晴れ。
今朝は、昨日に引き続き精神分析医 斉藤環さんの書籍をご紹介します。
家族の痕跡―いちばん最後に残るもの
斉藤環(著)
2006年1月10日
筑摩書房
1575円(税込)
Amazonで、この本についてのカスタマーレビューは、今朝の段階で1件しかないのですが、これがまた散々なわけで、☆はひとつなのです。(内容は各自でご確認ください)
そのカスタマーレビューを読んで感じたのは、「ただ読みきれていないだけでは?」というものです。
この本のお題は「家族」です。それは個人の心的システム(精神分析の対象)では環境でしかありません。
そして「家族」は最小の社会システムであり、それがシステムであるということは、家族システムをとりまく他のシステム、つまり環境もあるということです(フラクタル的にですね)。
斉藤環さんがラカン派精神分析のスキルで家族について書こうとすれば、エディプス三角関係までになります(つまり昨日書いたボロメオの結び目−「未熟」の概念)。
しかしそれだけでは「家族というシステム」は記述できないのだと思います。そこで斉藤環さんは家族の記述に「システム理論」(昨日書いたものですね)を導入しようとしています。
つまり「家族はシステムなのだ」という仮説を持って書かれているのがこの本なのです。ですから精神分析の本かというと、ちょっと違うのですね。エッセイ形式で書かれた家族システム論とでもいえそうなものです。
そのシステム論の最初の記述が、ダブルバインドです。
ダブルバインドについては
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kyotsu/1999/9906doublebind.htm
ダブルバインドは、家族療法アプローチですが、これは精神分析に、システム論のコミュニケーション定義を持ち込んだものでしょうね(断定できるほど詳しいわけではありません)。
コミュニケーション=「情報/伝達」の差異の理解
母−子、父−子の関係もコミュニケーションの関係としての理解ですね。
そして何よりも感じるのは、斉藤環さんは、今という時代の「家族」というメディア(つまり「よき家族」のイメージ=「価値観」)の正体を記述しようとしているのだな、ということです。
それが成功しているか否かは別として、システム論アプローチとしては全うな態度ではないかとわたしは思うわけです。
このアプローチで、時代をさかのぼって考察していけば、「家族」というメディアの時代変化がわかるわけで、それは今という時代の特徴(「社会」)を記述できる可能性があるということです。
つまり、二クラス・ルーマンの『情熱としての愛』の日本の「家族」版になるわけですが、それを斉藤環さんに要求するのはお門違いでしょうかね。(笑)
というわけで、わたし的には非常に面白かったわけです。
内容的には、引用できるところがたくさんあると感じていますので、逐次ご紹介していきたいと思います。
2006/02/09 (木) ▲ ▼
【0203東京独演会補足(2)】
午前7時起床。浅草は晴れ。
■精神分析的なアプローチ
さて、昨日中途半端なまあ終わった『象徴界としての「感情」(そして「技術」について』です。
誤解を覚悟の上で、簡単に言ってしまえば、このような心の状態は「未熟」だということです。特に英米流の「自己責任」概念からみれば、個人の領域では精神的な未熟なのであり、社会的には近代化の未熟ということになるのだと思います。
自己責任を強調します例のOSのもとでは、未熟であることにオブセッシブに過敏のようで、「感情」を合理的にコントロールしようとする方々が増えています。それはまじめであればあるほどにそのようなのです。(心理学化する社会)
例えば自己啓発セミナーなんていうのはその端的な例ですが、そこまでいかなくとも、自助マニュアルやプチ心理学系の本は書店に溢れ、「コーチング」等の「感情の知性」を商品とするものにも需要があるようです。(もっと驚くのは、カウンセラーのような職業を希望される方々が多いことです)
わたしはそのような「感情の知性」をナイーブに喧伝する方々が、脊髄反射的にだめなのですが(笑)、それもまた「自己コントロールの檻」、つまり自己責任へのオブセッション(時に不合理とわかっていながらある考えや感情がしつこく浮かんできたり、不安なほど気掛かりになること)でしかないからです。
結局、合理の行き着く先は非合理なわけで、であれば「なにもそこまで、自己責任とやらで自分を追い詰めなくともいいじゃないの」と思うのです。
もちろん、オブセッションは芸術的な創発の要因であることもは確かですが、その創発(例えば美術作品や舞台芸能等)が共感を得るのは、まあ、明るいオブセッションじゃないのか、と思っています。
まあ、これはある意味個人的な領域でもあり、それで幸せである人もおられるでしょうから、これ以上の個人の部分に関する言及は控えます。
ただ、「感情」を合理的にコントロールしようとする傾向は社会化されているように思えるわけです。精神分析からみると社会の個人化のようなものです。例えばそれが「社会のマクドナルド化」です。
その基本原理は、「効率性(efficiency)」あるいは「計算可能性(calculability)」、「数量化(quantification)」、「予測可能性(predictability)」、「テクノロジーによるコントロール」ですが、それが官僚制と同様に形式合理性を持つことで、グローバルでありコミュニティ志向でもある、第一象限のものとなります。
社会全体がマクドナルドの店内だと考えればわかりやすいでしょうか。
(参考文献)
マクドナルド化する社会
ジョージ リッツア (著)
George Ritzer (原著)
正岡 寛司 (翻訳)
1999年5月
早稲田大学出版部
3675円(税込)
心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか
斉藤環(著)
2003年10月16日
PHP研究所
1470円(税込)
自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
森真一(著)
2000年2月10日
講談社選書メチエ
1680円(税込)
■社会システム理論からのアプローチ
さて、このマクドナルドの店内のような社会を、「社会システム」として考えるのが「社会システム理論です」。
今のわたしは、精神分析よりも社会学(社会システム理論)寄りでものごとを考えているわけですが、「社会システム理論」は、何かを全体的に考えるとき、それを「システム」として捉える考え方です。
ニクラス・ルーマンによれば、社会には「法システム」、「経済システム」、「教育システム」のような「サブシステム」が多様に存在し、それぞれが影響を与えあっています。(「システム/環境」の二分コード)
その総体が「社会システム」なのですが、これとは別に、人間の心のメカニズムである「心的システム」も存在しています。この心的システムと社会システムとを区分して考えるという点に、社会システム理論の特徴があります。
それは、ルーマンの言葉では「人間の思いが社会を動かすのではなく、人間が行うコミュニケーションが社会を動かす」(つまり、思ってるだけじゃだめなのね。情報を発信しましょう)ということなのですね。ですから、わたしのIT化論の拠所としては、こっちの方がしっくりきます。
ただ、社会システム理論は、『「人間の固有性」や「セクシュアリティ」、あるいは「言語の獲得」といった、人間においては普遍的、かつ一回限りの過程を解き明かすことが苦手』(斉藤環,『心理学化する社会』,p173)なので、そのあたりの押さえは、精神分析的なアプローチを用いているわけです。
そんなわけで、「公共事業という産業」をシステムとして考えてみると、今までは「社会資本整備」というハードだけに注目するか、「地域経済と雇用への影響」、そして「その弊害(財政赤字、配分の政策)」などの経済的側面とかで扱われてきました。
「地域共同体の機能」に至っては、極端な場合「公共事業という産業」を除外して扱われていたわけです。だからこそ、それらのシステム間の相互作用に注目しながら、全体としてのシステムを考えています。
それはわたしの「IT化」においてもそうであり、わたしのIT化は、企業ベース、事業者団体ベース、地域再生と分類できますが、それは単独で存在するのではなく、(それぞれは境界を持ちますが)相互作用をもったものであろうとしています。
つまり主体(個人、企業、協会、行政機関など)間の相互作用に注目しているわけですが、主体が相互に影響を及ぼし合っていて、絶えず進化(変化するという意味)的に動くためには、そこにはコミュニケーションの発生が必要なわけです。
『社会的、文化的進化の過程は、コミュニケーションの見込みが高くなるようにチャンスを変形し拡大する過程として、つまり社会のなかに諸社会システムが形成されるさいの基軸となる諸期待が強固になる過程として解釈されなければならない』(ルーマン)
つまり、社会システム理論は、この相互作用によって、社会全体を動かす雰囲気のようなものが「創発」するのだろうと考えているわけです。
そこでは(システムからみれば)「バグでしかない人間」はやはり重要で、システムはシステムとして閉じているのですから、そこに創発性を持ち込むのは、「バグである人間」であるということです(つまり感情を象徴界とした未熟な人間?)。
なのでわたしは、「バグはバグでいいじゃない」と考えているわけで、それをあまりネガティブには考えないのです。むしろそれを積極的にシステムの中に持ち込みたいわけです。
というわけで8時30分です。今朝はここまで。
2006/02/08 (水) ▲ ▼
【0203東京独演会補足(1)】
午前7時起床。浅草は晴れ。
今朝は、0203東京独演会の補足を部分を書いていきます。
■リバタリアニズムについて
「リバタリアニズム」を、最近の講演では社会の主流OSとして説明しています。
このリバタリアニズムの理解には、森村進氏の『自由はどこまで可能か』に依っていますので紹介しておきます。
自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門
森村進(著)
2001年2月20日
講談社現代新書
756円(税込)
このOSの基底である「自由」(権限理論と自然権)については、2006/01/11【OS】で書きましたが、政治経済的には市場主義であり、配分の政策を認めないOSですから、公共事業という産業にとっては天敵のようなOSであるわけです。
OSというのは、私達の世代も含め、若い方々の多くは、このOSに(よくて)首までどっぷり浸かっているということです。ですから、意識しないとその存在も気づけないと思います。
わたしは、このOSを根底から覆すことは不可能だ、と考えていますが、それにもかかわらず、共同体の機能を重視する立場を「あえて」とっています。
それは政治哲学的な共同体主義からのアプローチではなく ―結果的には「共同体主義」になってしまいますが― 【久々にミーム】で書いたように、元々は生物学からのアプローチでした。
例えば2月6日に紹介しました『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論』で、日高先生がいわれている「集団の中で育つ人間」(p90)という考え方を、「ジーン/ミーム」の進化戦略として、わたしは違和感なく共有できます。
ですから子供の教育を考える場合でも、共同体の最小単位である「家族」だけではなく、「学校」の必要性をいいます。
さらには「学校」の機能の限界を理解した上で、地域共同体による教育、そして職業を通じた社会性の発展(OJT)も視野に入れることになります。(種的基体)
(佐倉)『学習の効率だけを追求して横割りのシステムができたとおっしゃいましたけれども、もともと近代の教育制度ができたときに、たぶん社会性までを学校で教えるという話ではなかったんだと思うんです。求められていたのは、読み書き算盤に始まるリテラシー教育ですよね。そういうものを身につけていくのが、たぶん市民としての必要な教養だった。社会性のようなものは家庭、あるいは地域共同体で身につけるという暗黙の前提があって、そのうえで、プラス・アルファとしての教養や、学問を身につける場として学校があったと思うんです』(日高,p161 佐倉統氏との対談における佐倉氏のことば)
だからこそ、「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包 している」という考え方を、わたしの仕事(建設業に貢献するIT化)の基底に置くことができます。
そこでは、企業の行うIT化−事業者団体ベースのIT化−地域再生が、基底の理念を共有して存在できます。
(そのためには、基本的に人間の共同体としての「種」は、参入脱退自由でなくてはなりませんが…・・・)
これに対して、リバタリアニズムは、個の権限理論、自然権を最優先する個人主義ですから、共同体性は否定の対象でしかありません。保守的なリバタリアンが、(よくて)「家族」という共同体を重視する程度です。
『ディヴィッド・ボウツが 『リバータリアニズム入門』 の中で 「家族は、私たちが世の中や道徳的諸価値を理解する際に、ほとんどのことをそこで学習する制度である」と言っているのはその代表である』(森村,p 146)
このボウツの意見でさえ、リバタリアンにとってはぎりぎりの許容なのすが(実は公立学校の必要性もないというリバタリアンも多いのです)、極論すれば、(よくて)社会性に関しては家庭以外の共同体で学ぶ必要はない、ということなのでしょうが、これに対する反論は意外とシンプルなものです。
それは、「子供に対する教育を放棄した家族の場合、子供はどこで社会性を身につけるのでしょうか」というものです。
結果的にそれは社会的な不安定を高めるだけでしょうし、その対策としての社会的コストを高めるだけでしょう。
市場を機能させるにも、人間が最低限共有しなくてはならない社会性は、必要なのです。
リバタリアニズムには「家庭」にしてもそうですが、市場主義の支持にしても、利他性に対するナイーブな信奉に支えられています。(それはたぶん、同じ宗教を信じている、という範囲においてでしょうが……隣人愛)
それは山岸俊男先生の信頼の研究にみられる、アメリカの学生の方が、日本の学生よりも〈他者〉を「信頼」しやすい、という結果と関係するように思えます。(私たちは、基本的には無思想なわけで……)
しかし、今の米国をみると、ゲーテッド・コミュニィテイや拳銃を持った信頼というのも、なんだかなぁ、とわたしは思うのです。
それからこれは問題提起でもあるのですが、日本の近代化に伴う共同体性の崩壊には、開発主義(公共事業という産業の生みの親)が、その役目を果たしていたことも確かなのです(つまり戦後に最盛期を迎える公共事業という産業が、リバタリアニズムの呼び水となったということです)。
公共事業という産業はその反省に立って、共同体主義的な「機能」(共同体を支える機能)を自らのものとしていく必要があるのだと考えています。
それから、「もはやこれ(リバタリアニズムのOS化)を根底から覆すことは不可能だ、と考えています」と書いたのは、わたしの共同体主義的な戦略は、上書きの戦略となるということです。
このOSが機能していることは認めざるを得ないのです。しかし私たちはOSよりもいつも(少しだけ)先を行こうとします。それがオブセッシブ( 強迫的)なもではなく、自発性に基づくものであることで、わたしたちは「ひねり」を繰り返すことができるのだと思います。
■象徴界としての「感情」について
このリバタリアニズム的なOSは、人間の精神にも変化をもたらすと考えています。ただしそれは「象徴界がなくなってしまう」というような構造的な変化ではないでしょう。
人間の精神構造を、ラカンのボロメオの結び目でわたしは理解しているのですが、この構造自体は、ホモサピエンス・サピエンスがこの世に出現して以来(20万年か30万年かわかりませんが、まあそのぐらい)変化していないと考えています。
それは、環境が変化したからといって、遺伝子がおいそれと変化しないのと一緒です(生物の進化はのんびりとしたものです)。
ただ、本来「集団の中で育つ人間」が、家庭という共同体もたいして意味をもたなくなるような―若しくは共同体性は(よくて)家庭にしかない―社会に放置されるのなら、原初抑圧不全がおきます。つまり父性(ファロス)による母子一体状態の全能感の抑圧が不完全にならざるを得ません。
それは母−子(2の関係=1+1=2=1)から、母−父−子(3の関係)への未熟、つまり社会性の未熟を意味します。(1.5の関係)
ただ、構造としての象徴界がなくなることはありませんから、従来の共同体性が象徴界として機能しない、そして(本来の)宗教がそれを埋め合わせしない社会では、「感情」(そして技術)がその埋め合わせをしてしまっている、と考えています。
ということで、今朝はここまです。
2006/02/07 (火) ▲ ▼
【ちゃんぽん(白)】
午前7時起床。浅草は曇り。
昨日は左耳の調子が悪く、完全休養日としたのですが、ちょっと外へでないと、ますます調子が悪くなりそうなので、お昼は、四丁目のハイラルさんへ出かけ「ちゃんぽん」を食べました。
のれんを見ると、一瞬「ちんぽん」かと見間違うのですが、ちゃんと「ち」の下に、小さな「ゃ」があります。(笑)
厨房のステンレスもピカピカに磨きこまれていまして、調味料の入れ物もこぎれいで気分がよいのです。わたし好みの店であります。
浅草のちゃんぽんの主流は、黒い(醤油ベース)あんかけ麺ですが、ハイラルさんのは塩味で、ちゃんと豚骨スープなのです。それに麺も浅草では珍しくちゃんぽん麺です。
見た目は、ちゃんぽんに「よく似ています」。キャベツともやし、にんじんにたまねぎ、そしてきくらげ。(ほんの少しですが…)なるとさつま揚げ、豚肉も入っています。
たぶん浅草一ちゃんぽんらしいちゃんぽんといえましょう。しかし、これもまた「もどく」なのです。
もど・く(他四)〔雅〕1 あしざまに批評する。非難する。2 何かに似せて作る。表記「{抵牾く}」とも書く。浅草人の嗜好を取り入れてか(?)、豚骨の風味も香りも控えめですし、食べてみると、薄めの豚骨スープのタンメン(ただし麺はちゃんぽん)という感じす。Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
けっしてまずくはありません。通えば癖になりそうでもあります。お昼時にはお客さんも多いのです。
たぶん、本場の方々の「ちゃんぽん定義」から評価したら、許されるものではないのでしょうが、これも間違いなく「ちゃんぽん」なのです。その根拠は「ちゃんぽん」と名指しされているからです。
客が「ちゃんぽんひとつ」とオーダーすると、「はい、ちゃんぽんお待ちぃ〜」と出てきす。客はそれを「ちゃんぽん」として食うのですから、これは「ちゃんぽん」なのです。それ以外にちゃんぽんがちゃんぽんである根拠はありませんね。(笑)
2006/02/06 (月) ▲ ▼
【久々にミーム】
午前7時起床。浅草は曇り。夕方は雪の予報が出ています。
まずは、昨日の補足を書いておきます。昨日、「種」の説明で「日本語」を事例としましいたが、「種」のテリトリーとしては広すぎますね。「方言」の方が適当です。「種」は、テリトリー性を持った、パトリのことばでなくてはなりませんね。
人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論
日高敏隆(著)
2006年1月20日
文春新書
746円(税込)
この本の著者である日高敏隆先生は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』や『延長された表現型』の翻訳者としてわたしの記憶にある方です。
わたしはミーム論者であるという意味では、ダーウィニズムを普通に受け入れています。それはまず、世界は神が創ったんじゃない、ってことを受け入れているということです。日本では進化論を受け入れない方は少ないかと思います。
かといって、科学的にすべて説明できる(還元論)とは考えていなくて、「遺伝/環境」の二分コードでは、どっちもあり、がわたしの立場です。
わたしはミーム論という極めてダーウィニズム的な概念を使いながらも、世界は(宇宙は)神が創ろうが、神がいなかろうがどうでもよいわけですし、遺伝も環境もあんまり気にしていません。
ただ進化(変化)はある。それだけを信じているだけです。
それが可能なのは、養老孟司先生流にいえば「無思想」を信じているからなのだと思います(『無思想の発見』)。
さて、わたしが文化の進化論的アルゴリズムであるミーム概念を多用したのは、2002年から2003年頃で、最近は、ほとんど「ミーム」という語彙を使うことはなくなりました。
それはその当時、ミームに代わる文化的遺伝の概念(ミメーシス)を整理するための語彙を持たなかったためです。つまりミーム概念を使うより他なかったのです。
ミームとは文化子、つまり文化的な遺伝子のことですが(例えば「言語」「方言」)、昨日書いたとおり、哲学的、現代思想的(社会学的?)語彙を持たない頃、「ミーム」という(生物学的な)語彙は、情報の生成、複写、淘汰というメカニズムを、(概観的に)整理するにはとても便利な語彙だったのですね。
そんなわけで、『桃論』は経済学と生物学のことばで書かれています(それしか使えなかったものですから……)。
まあ、今は使わなくなったといっても、「ミーム」という語彙を手放したわけでもないのですね。
例えば、昨日延々と書いた「バロックの館」の解説にしてみても、ミーム概念を使えば、「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包 している」と書けば済むことなのです。ですから、今でも(時々)リーズナブルに使わせていただいています。
「ことば(語彙)」は、コミュニケーションの道具ですが、じつはもっと根本的な機能があります。
それは、ことばで「ものごとを考え、それを整理する」ということです。
つまり、ことばは思考のツールなのです。
ことばを、思考のツールとして使うことは、遺伝子的に(身体的に)私たち(ホモ・サピエンス・サピエンス)にプログラミングされているものだ、とわたしは考えています。
ですから誰でもことばでものごとを考え、それを整理し、そしてそれを伝えます。
これは遺伝子的なものだと考えています。
ただ、その遺伝子的な機能がすべてを司っているわけではなく、そこには環境も必要なわけです。
つまり、使える語彙が増えれば(学習、習得すれば=環境)、考えることも、そしてその概念をまとめることも、リーズナブルになるのは当然だということです。
そこでは、「遺伝/環境」のどちらも機能しているのだと思います。
遺伝的なものは身体的なものですから、得手、不得手は当然にあります(個性=身体的なもの)。しかしそれを補完するのは環境だ、ということです。
「好きこそ物の上手なれ」というように、それはスパイラル的に成長するのだと思います。(しかし、このマッチングはどうしたらできるのかはわかりません。ヒントとして考えているのは、「三つ子の魂百までも」です)
わたしは、考えることをreasonableにしてしまおう、とたくらんでいるわけです(考えるIT化)が、そこでは、「わからない」というのは、まず第一に、ある概念を整理する語彙を持ち合わせていない、ということだと考えています(ここにも得手不得手は当然にありますが)。
ただ、ことばが「思考のツール」だといっても、それは所詮自分自身のために整理するだけのことで、その整理したこよを、<他者>に完全な複写として伝えることが可能か、というとそれは難しいわけです。
つまり「係数a」((c)養老孟司)には、やっぱり個人差があるわけで(遺伝的、環境的)、「はなせはわかる」は、「まあ、そんなことはない」のだと思います。
わたしは養老先生の「話してもわからない」という意見を支持していますが(笑)、それがなぜかといえば、デジタル信号と違って、アナログな情報であるミームは、100%完全コピーは不可能だからです。
この情報の誤配に、「バグ」としての人間観は生まれてくるのですが、しかしこの「複写ミス」(誤配)こそが創発のシステムのひとつだったりするわけで、人間〈社会〉は面白いのですね。
コミュニケーションは、この誤配も孕ませながら、生成されていきます。そこから「情報/伝達」の差異の確認という、コミュニケーションの定義は生まれてくるわけです。
さて、この「思考のツールとしてのことば」というものが理解できると、「考えるIT化」とわたしが呼んでいるものがなんだかわかってくるのですが、それを簡単にいってしまえば「イントラネットはミームプール」だということです。
そこでは正確さを求めても(合理を求めても)、かならず誤配(非合理)は生まれます。なぜなら、情報はミーム(アナログ信号)だからですね。
けれどもその非合理性の中にも(非合理性だからこそ)、志向性(意思)は生まれてくるのじゃないか、というのが、今のわたしの仮説なのです。
2006/02/05 (日) ▲ ▼
【バロックの館解説(ただし途中で飽きました)】
午前4時起床。もう一度寝ようとしたのだけれども、右手薬指の先端に違和感があって、なにか気になってそのまま眠れなかったので、新書を一冊読みました。
世界をよくする現代思想入門
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高田 明典 (著)
2006年1月10日
ちくま新書
819円(税込)
『・・・・・・現代思想では「目的を離れて、正しいとか正しくないとかを議論することはできない」と考えます。・・・・・・つまり「正しい」とは、「Aという目的のもとでの正しさ」でしかなく、まったく無制限に「正しい」といえるようなものはないという「基本的な立場」をとります。』(表紙から)
「わからないという方法」((c)橋本治)を使うコンサルタントとしては、こういっていただくと助かるわけです。(笑)
現代思想というとなにか「哲学的」な感じがしますが、哲学が真理を探究するものだとすると、現代思想は、真理を探究しないのですから、非哲学であり、その分楽そうに思えます。
しかし現代思想と付き合うとなると「哲学的」は必ず出てくるのもたしかで、哲学する訓練なんぞ受けていないわたしは、この現代思想との付き合いには苦労させられています。
だいたい哲学的なものにふれた始まりが、四十五歳にして出会った『フィロソフィア・ヤポニカ』(中沢新一)という書物なのでして、それは超変則的契機、且つ遅すぎた春のようなものす。
でも、『フィロソフィア・ヤポニカ』という本は、なにかわたしを惹きつけるものがあって―わたしのIT化論と「種の論理」の相性の良さへの直感でしょうか―、わからないなりに、なんとか読みきろうと努力はしてきました(未だにわからないところだらけですが)。
それは、田邉元の「種の論理」の中沢新一的解釈を理解しようする過程なのですが、その過程をとおして、様々な哲学的―現代思想的な思考方法を少しずつではありますが、理解するようになってきたわけです。
ただわたしは「真理を探究する」なんて気は最初からありませんから(笑)、その思考方法を「建設業に貢献するIT化」という目的の為に貢献させようとしています。
つまり、目的を離れて、正しいとか正しくないとかを議論することを最初から放棄しています(笑)。つねに目的があって、その目的に向かって地図を描き、実践する。それをただ馬鹿みたいに繰り返しているわけです。それは昔も今もそうです。(目的合理)
ただ「現代思想的」を知らない頃のわたしは、理論実践において起こる失敗(非合理性)は、システム(つまり地図)のせいではなくて、実行する人間のせいだ、と考えていたわけですが、それが少しは修正されてきたのもたしかです。
つまりシステムからみると、「システム/環境」という区分はあって、環境というのは人間なのですが、その環境としての人間こそが、実践の失敗(非合理)をもたらす「バグ」だと考えていたわけです。
ですから、そこでは問題解決方法(ソリューション)は意外と単純で、なるべくなら人間をあまり介在させない、もしくは人間の仕事そのものをシステマティックにしてしまう、というものになります(そのためにシステムはより高度化される必要があります)。
でも(その思考の変化遍歴は省略しますが)、最近のわたしは違った考え方をするようになっています。つまり「バグはバグ」でいいじゃない、なのです。(笑)
合理性を追求すればするほど、非合理性はでてきてしまうわけで、それなら非合理を「あるものとして」もっとポジティブにとらえようとしています。
バグを孕むことで<社会>はシステムではなく、創発性もつことが出来る、つまり進化(変化)する(ある目的から見て、よいほうにも、悪いほうにも)と考えています。
そして、その非合理性をリーズナブルにしてしまおう(合理の中に取り込もう、非合理を積極的に利用しよう)とする地図を、今は書いています。
でもそこには真理=答えはないのですね。合理の限界はある。でも目的合理であろうと思考しています。つまり「骰子一擲」なわけです。
という長い前置きをして、一昨日のセミナーで評判の悪かった(つまりこの戯言で提示されてはいるけれども、なんだかよくわからない)「バロックの館」について説明を試みます。
これは、二階建ての建物の側面図です。「A」が一階部分、Bが二階部分です。
この建物の特徴は、二階部分(B)には窓がないということです。
二階部分の採光は、一階部分(A)に開いた小さな窓を通して行われています。
出典元である、ジル・ドゥールーズの『襞―ライプニッツとバロック』にはこう書かれています。
Bは『「襞によって変化をつけた布」をはりめぐらせた閉じた個室』
Aは『「いくらかの小さい開口部」のある共同の部屋:五感』
わたしは「B」を「個」(個人、魂)と解釈しました(以下はすべてわたしの「係数a」によるかってな「解釈」です)。つまり、そもそも「個」には窓はなくて、個だけでは「世界」とつながらないのです。
そして「A」は「種」(種的基体、身体、コミュニケーションのもととなる共有理解)です。簡単に言えば共同体的なものです。
「A」には小さな窓が開いていて、個(B)は、種(A)に接続することで「世界」とつながる窓を持つことができる、ということです。
ただし小さな窓が開いているのは、「種」の構造的均衡(基体として成り立たせているもの)を破ぶろうとする個の行為的実践が加わることが必要です。
「襞」とは、「種」の否定性を肯定するものとしての(矛盾を抱えた)「個」があらわれる、ということです。(「種の論理」)
つまりね、まず人間は勝手に「人」じゃない。(個)人は種的基体から生まれてくるということです。例えば、日本で生まれ育ったわたしは、日本語で考えたりコミュニケーションしていますが(日本人)、それはわたしが日本語を遺伝子プログラムとして持っていたのではないということです。
日本人とは日本語で思考する人々のことですが、日本語で思考したりコミュニケーションする「私」は、日本語圏という社会(種)に接続したことで形成されてきた「個」なのだ、ということです。
これがわたしの「個/種」、「個人/社会」の関係の最も基本的な理解なのです。
基本的に(種)に変化が起きないことは、それはそれで幸せなこだとは思いますが、ただそれは「内包/外延」の外延を無視できる場合、内包=社会=世界(内包に外延が無縁の場合)にしか起こりえません。
では、インターネット社会で、それがどこまで可能かといえば、どのような(社会的な)「種」においてもそれは不可能でしょう、ということです。
つまり、わたしの仕事の対象である、公共事業という産業という「種」で考えてみれば、世の中がどうかわろうが、公共事業はなくならないのだよ、という「信念」が機能している限り、基本的に(種)に変化は起きません。
ただ、誰かが、「俺たちはこのままではちょっとまずいんじゃないのか」と気づいた(その契機は内包を外延から見たということです)。そのとき一階部分の窓はようやく少し開いたということです。
つまり、「種」の窓を開けるのは「個」なのですね。でも気づいただけではだめで、ここに継続的な(オートポイエティックな)行動が伴わないと、また窓は閉まるわけです。(ひきこもり)
と書いていてきて、わたし自身が完全に飽きてしまいました。(笑)
本当は、なぜ閉じていると強度が低いのか…などなどを書かなくてはならないのでしょうが、それは昨日の予告どおりで(「昨日「反省は後程行いますが、それも退屈であり、冗長なものとなるかと思います」と書きました)、書いて説明するのは冗長なのです。
しゃべった方がずっとコストは低いように思います。(笑)
ですので後は簡単に言います(書きます?)。すいません。m(__)m
「だから閉じてひねれ」「そして窓を開けろ」。
そのためには、「動き出せ!えぶりぃばでぃ!」
「そして繰返す骰子一擲」(でもここ一発!)ということですね。
図の出典は、(図にも書いてあるように)ジル・ドゥールーズの『襞―ライプニッツとバロック』ですが、未だに理解しきれておりません。(笑)
襞―ライプニッツとバロック
ジル・ドゥールーズ(著)
宇野邦一(訳)
1998年10月20日
河出書房新社
3150円(税込)
2006/02/04 (土) ▲ ▼
【お稲荷さん】
午前7時起床。浅草は晴れ。
昨日のセミナーの後、長谷川紀子さんからいただいた、神田志乃多寿司のお稲荷さん。
実は、太巻きと和菓子もいただいたのですが、セミナーの懇親会後に向かった町内会の集まりで、皆でおいしくいただいてしまいました。
まあ、お稲荷さんは隠しておいたわけで、ちゃんと無傷で自宅に届いたのです。
浅草でね、神田志乃多寿司のお稲荷さん、といえば、お稲荷さんのロールスロイスのようなもんです。
これはレンコンの一片が寿司飯と一緒に入っているのがみそでして、その食感と、お揚げの味付けと、寿司飯のハイブリッド感が絶妙なわけです。
今朝の朝食としておいしくいただきました。
長谷川さん、ありがとうございました。
昨日の独演会の資料を公開いたします。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダ、BD060203.swf ファイルです(FlashPaperファイル)。
独演会にご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
昨日の講演は「芸」になりそこないですし(人に聞かせるまで洗練されていないとう意味。昨日は最初にそれをお断りいたしました)、テーマが「企業の行うIT化が(建設)業界のためにもなりそして地域再生にもつながることは如何にして可能なのか」というものですから、退屈であり、冗長なものだったかと思います。
反省は後程行いますが、それも退屈であり、冗長なものとなるかと思います。
2006/02/03 (金) ▲ ▼
【データベース入替中】
午前7時起床。浅草は晴れ。
今日は「東京独演会」です。東京独演会はいつも実験的な意味合いが強いのですが、それはとても部分的(局所的)なものの確認であったり、新しい概念の導入であったりしています。
今回も実験的な意味合いは大きくて、それは、企業が行うIT化(イントラネットの導入、活用)を、極力、経済学(経営、ビズネス)の言葉を使わないで語ろうとするものです。
それは、「合理性/非合理性」の「非合理性」を「ある」ものだと認めることからはじまります。
そしてそれを消却不可能な「魂の問題」として(神秘的なものとして)括弧に括ってしまうのではなう、リーズナブルな問題として扱おうとする試みです。
つまり非合理性こそが、創発としての社会システム(創発性、創出、想像、創造)なのですが、それを合理的(リーズナブル)な問題として企業のIT化に組み込もうとする試みです。
それは、「考える技術」のデスカウントのようなものなのです。(笑)
今日のセミナーは、その理論的な部分の確認と、(わたし自身の)「伝える技術」の確認の意味を持った実験的な試みです。
それは、5月開校の法大ECにつながるテーマでもあることで、わたしにとっては大切な一日でもあるわけです。
わたしは、普段の講演では、ほとんど前準備をしません。(笑)
わたしのデータベース(手持ちのPPTとわたしの脳みそ)をフル回転させながら、「話し言葉」としての講演をその場で組み立てていきます。(デコード−エンコード)
それを「パロール的」と呼んでいるのですが、言ってみれば、それがわたしの「考える技術」でもあるわけです。
しかし今回は、かなりの部分を、新しいPPTとして作成しています。
それはデータベースの大きな入れ替えをしているということでもありますね(9・11総選挙の後、今までの言説では通用しない(素朴すぎる)部分が多くなったこともたしかなのです)。
ということで、午前中もう少しPPTを作りこんでから、講演に出かけたいと思います。
2006/02/02 (木) ▲ ▼
【明日のセミナー】
明日のセミナーの内容を検討していました。
■2006年2月3日(金)東京独演会 ―建設業の現状と戦略的IT化(企業編)―
明日は「局所的な専門知」をまず使います。つまり、「企業におけるイントラネットとは何をするものなのか」という局所性を指し示します。
そして、その局所性を指し示しながら全体性への仮設道路の設置を試みてみようと思います。それは閉じたネットワークであるイントラネットの局所的な動きが、どうしたら企業経営の全体性に波及し、さらには外部とのコミュニケーション接続に成功できるのか、ということです。
こう書くとたいへん面倒なことを言っているようですが、実際にはなしを聞いてみればたいしたことはないかと思います。
例えば、バロックの館(個人と共同体の関係=「種の論理」)ですが(これは明日も使います)、一階部分をイントラネット(企業)、二階部分を社員と置き換えればよいわけです。
では、社員がイントラネット(企業)に接続することで、世界とつながるということはどういうことでしょうか。
それもイントラネットという閉じたネットワークであるにもかかわらず、それは如何にして可能となるのでしょうか、ということを説明していきます。
ここでのキーワードは、やはり「ひねり」なのですが、明日はそれを「工作の時間」を使いながら、「アイロニー」の概念を借りながら説明をしていきたいと思います。
当日の受付もいたしますので、お気軽にご参加いただければと思います。
アイロニー〔irony〕〔文芸用語で〕反語。表現技法として用いる、事実に反する言い方。〔狭義では、皮肉・あてこすりなどを指す〕 イロニー。Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
【浅草―札幌 コール&レスポンス(笑)】
午前4時30分起床。浅草は晴れ。
■from mixi
昨日の日記、【リハビリ(マクロ的な視点)】に関して、mixi日記にて、北海道のA木さんからコメントをいただきました。
以下そのやり取りを引用いたします。
01日 19:56 北海道のA木
>「05年12月の有効求人倍率が1.00倍になり、92年9月以来13年ぶりに1倍台に回復した」という報道が昨日ありました。
ある番組で専門家は「地域間格差があり、依然として低迷しているのは、公共事業への依存度が高い地域だ」と指摘していました。でも、景気のよい地域でも建設業の方々に聞けば、やはり厳しいと言われます。
2006年02月01日 20:39 ももち としお。
『全国の景気は、企業の旺盛な設備投資や個人消費の堅調さを背景に、持続的な回復傾向を示している。しかし、公共投資への依存体質などから、一部地域には出遅れ感も残っている』という先日の日銀支店長会議と同じような見解になるのですね。(本当はmixi日記を引用していますが、メンバー以外は読めませんので肝心なところだけを引用しました)
つまり「公共投資が景気回復を遅らせている」
このロジックは基本的には間違っているのですが、複雑性の短縮としての効果は抜群です。
リバタリアニズム支持者はこれ一本でくるでしょうね。
それを如何にズラすかです。
そこでは景気回復という語彙は使いたくないのですね。
…地震です。(笑)
2006年02月01日 21:04 北海道のA木
リバタリアニズムとは、レッセフェールとイコールでしょうか?
>そこでは景気回復という語彙は使いたくないのですね。
確かに「景気が悪い」「遅れている」という言葉はもはや通用しないですね。では、それをどう戦略的に上書きするか、と言う点に、智恵を出す必要があると思います。
例えば、北海道を日本における「サスティナブル・アイランド」と位置付け、静脈産業の中に建設業をビルトインする手もあると考えます。しかし、時間がかかりすぎます。
………………………
ということで、今朝はこの続きを書きます。
■コメント(戦略の概観)
リバタリアニズムに関しては、まずは(↓)を参照 していただくことにして…。
http://www.momoti.com/myself/self060101.htm#060111
レッセフェールの方が古い概念で、リバタリアニズムはその進化系と理解しています。 リバタリアニズムはジョン・ロックとアダム・スミスの流れをくみます。つまり自然権論と経済学という2つの理論的背景をもつ強力な自由主義思想ですね。
レッセフェールのおおもとは「重農主義(フィジオクラシー)」です。重農主義は、涸れることのない大地というコルヌコピア(無尽蔵の富を生み出す不思議な器)を前提としています。つまり「富の増殖」は貨幣からではなく、大地から発生するのだと考えたのですね。
つまり『大地にたいして人間が労働をおこなうことによって、大地は豊かな恵みを人間に贈与してくれる、しかも無償の贈与を与えてくれるのだ、と思考しました。』(中沢新一,『愛と経済のロゴス』,p125)
重農主義の影響を受けたアダム・スミスも、富の源泉は貨幣ではなく労働であるとしていますから、貨幣が貨幣を生む(貨幣のコルヌコピア化)現在から見れば牧歌的でさえありますね。(笑)
それはさておき、わたしの経験だと、表層的な説得力というか動員には経済の言葉は優位です。お金はメタ欲望(欲望を満たす可能性への欲望)ですから、無いよりはあった方がずっといいわけです。
「儲かる」とか「利益アップ」などというキャッチは、メタ欲望をくすぐるからゆえに有効なのです。そしてメタ欲望は心的な欲望ですから(一般的な欲望は身体的です)、尽きることはありません。
ですから「消費による自己実現」という選択肢が強調されている今は、自己実現がメタ欲望の範疇で語られても不思議ではないわけです。
だからと言って、公共事業という産業が、素朴(ナイーブ)に「公共投資による景気回復」、「公共投資による景気回復の地域間格差の是正」といった経済学的な言葉(メタ欲望的くすぐり)を使うと(かつてはわたしも使っていましたが…)揚げ足を取られます。
つまりそこには、「公共投資が景気回復を遅らせている」 というようなOS的な言説が待ち受けています(それもどうにでも解釈できるデータ付きで…)。リバタリアニズムの言説には、揚げ足取り的なしたたかさがあります。
このOSの前では、今までの公共事業という産業の戦略は、あまりにも素朴すぎました(というよりも戦略がなかった)。
そしてメタ要望をくすぐるような動員も、どこかの選挙のように内輪で終わってしまうのです。それは公共事業を請け負う建設業の言葉である限りです。そしてそれを再帰的に繰り返しているわけです(円環)。
ですからそこを何とかして飛び越えたいわけです。
例えば、私たちが「公共投資による…」という言葉を用いるのであれば、それは公共事業を請け負う建設業としてではなく、地域の言葉として政治にコミットする(コミュニケーション接続する)必要があります。それはパトリ(地域)の自発的な意見、自己決定の意見としてです。
つまりパトリの「依存から自発へ」の戦略転換です。パトリ(育成環境:地域、つまりは中間共同体)を大切にする心情が故に、より上位の共同体に働きかける。それはメタ欲望からはじめても、メビウスの帯の中央線を伝えばそうなります。
ただそのためには「ひねり」(依存から自発へ)の誘発と、誘導は必要です。それを可能にするのが、「動き出せ!えぶりぃばでぃ!」なのだと考えていますし、その具体策としての事業者団体ベースのIT化であり、地域再生フォーラムであり、地域SNS構想です。
つまり「魂」の問題として、まずは建設業から「依存から自発へ戦略転換しなくてはならない」、そしてそれを公共事業という産業に広げ、地域に広げ、というのが、わたしの主張だったわけですし、それは今も変わりません
わたしは5年程前に、「もう間に合わないかもしれない」と言った人です。その頃、今のおきている危機(パトリという地域共同体の壊滅の危機、そしてそこでおこる公共事業という産業の壊滅の危機)を危機感として共有した人たちはわずかでした。
でもまだあきらめないわけです。たしかに時間はありません。戦略的には時間を短縮させるしかないのだと思います。その方法は多層レイヤーだと考えています。
つまり、キーワードはパトリ(過剰流動性と地域共同体の喪失への抵抗)です。その志向を持つすべての活動(その中にはなぜか今のOSに馴染んでいるものもあります)に、地域の建設業はコミットしていく必要があると考えています。
「動き出せ!えぶりぃばでぃ!」ですね。
ということで、8時30分になりましたので今朝はここまで。(笑)
今日は明日のセミナーの準備をしますので、その内容(予定的なものですが)は、後程アップします。
2006/02/01 (水) ▲ ▼
【リハビリ(マクロ的な視点)】
午後4時、桃知@引き続きリハビリ中です。だいぶどのって(福島の方言)きました。こんな時間帯に戯言の更新をすることは滅多に無いのですが、リハビリの一環としてこのテクストを書きはじめます。
わたしは「過剰な流動性に人間は耐えられない」という立場でものごとを考えています。それは私的な経験からです。
わたしは、(結果的には)「@の右側」を否定しながら(自己責任とやらに扇動され?)、この仕事を始めたわけですが、気がついてみれば(未だに個人事業主ではありますが)「桃組」という種的基体をつくっていました。
それは、ある意味、「@の右側」でしかないわけですが、それが「@の右側」を否定しながら起業したわたし自身が求めたものであることに興味を持っています。
簡単に言ってしまえば、わたし自身が、「@の右側」の否定という、過剰な流動性には耐え切れなかったのだと思います。(笑)
そして、「桃組」という種的基体のおかげで、わたしの今があるのだと考えています。つまりキーワード(わたしが考察の対象としているもの)は過剰な「流動性」という現実と、(無くなってしまった?)種的基体です。
流動性は「流動性/多様性」という二分コードにあります。近代化とは、流動性を高めるシステムですが、流動性の高まりは(種的)多様性の喪失を意味します(日本中何処の街へ行っても同じ風景…)。
公共事業という産業の生みの親である「開発主義」も、近代化(産業化)のシステムですが、それは流動性(例えば労働人口の流動性)を高め、また家族共同体や地域共同体という種的基体を壊しもしました。
しかし、開発主義の流動性に人々が耐えられたのは、流動しないものとしての、家族共同体や地域共同体や会社共同体(中景:種的基体)に接続した自我があると思っていたからです。
そこでは、『家族や地域や自分の利益を高めるためには流動性が必要だ』(宮台真司氏のことば,『波状言論S改』,p81)というかたちで(流動性に)正当性が与えられてきました。
しかしそのような中間共同体がなくなり、それに接続した自我が宙ぶらりんになったとき、人は、社会は、(家族や地域を忘れ)「自分(自我)の利益を高めるためには流動性が必要だ」というリバタリアニズム的OSに乗らざるを得ません。
そこでも、経済合理的な視点が蝶番となって、流動性とともに多様性(個が個であること)を保障しようとしているのですが、はたして人々はそれに耐えられるのでしょうか。
わたしは耐えられるというよりも、中間共同体的な種的基体が機能しない状況では、代替物でそれを穴埋めすることで、やり過ごそうとする傾向が大きくなるだけだろうと考えています。
その代替物とは「感情という象徴界」です。(それについてはここではこれ以上ふれません)
「05年12月の有効求人倍率が1.00倍になり、92年9月以来13年ぶりに1倍台に回復した」という報道が昨日ありました。(以下記事の引用は、MSN毎日インタラクティブ)
厚生労働省の資料は(↓)にあります。
→ http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/ippan/2005/12/index.html
これに対して、『きめ細かな改革と同時に、きめ細かな政策をしてきた結果だ』(安倍晋三官房長官)という意見もあります。
一方、『ただ、雇用調整をしやすいパート、派遣ら非正社員の求人の伸びに支えられており、正社員になれる人とそうでない人の格差の広がりをうかがわせる』とメディアは伝えています。
『パートを除く有効求人数は150万人で92年9月の1.2倍なのに対し、パートの求人数は71万人と3倍。新規求人数(70万6294人)のうち正社員の割合は44.9%で、1年前と比べても0.6ポイント下がっているのが実態だ』
この「正社員/非正社員」の区分では、非正社員の求人数の増加、つまり(雇用の)流動性のさらなる高まりをみることができます。
しかし、非正社員の求人数の増加(流動性の高まり)とは、仕事の代替可能性(マニュアル化)を前提としています。
つまり簡単な仕事→代替可能性→仕事による自己実現とは縁遠い仕事の増加です。それは多様性(仕事を通した自己実現の可能性)をなくしています。
つまり、ここでは、経済合理的な視点が蝶番とはなっていますが、流動性とともに(仕事を通しての自己実現の)多様性を保障することができません。
ただ、流動性から収益を上げることによって、経済というシステムが回っているのは否定しようもない事実ですから、このシステムに執着する限り、「勝ち組(仕事を通して自己実現できる)/負け組(仕事を通して自己実現できない)」の区分は生まれます(そして多くは後者でしょう)。
負け組は、せめて「消費を通して自己実現する」ことで、多様性の穴埋めをしようとします。ただ、そのシステムも、使えるお金の限界はありますから、「下流社会」というような言説もでてきます。
はなしは脇道にそれますが、「下流社会」というような言説は、「仕事による自己実現/消費による自己実現」の二分コードをもったシステムの中でのはなしです。
それは「仕事による自己実現/消費による自己実現」の二分コードを持たない方々にとってはどうでもよいことなのです。世の中にはこの二分コード以外の生き方もないことはないのです。
つまり、最近はこの「仕事による自己実現/消費による自己実現」の二分コードのシステムから、そんなものは意味はないと脱退してしまっている方々も多いのわけです、そしてそのような方々を受け入れる中間共同体もありません。(ひきこもりやニートの問題)
さて有効求人倍率のはなしに戻りますが、地域間格差も拡大傾向にあるようです。
『都道府県別でトップの愛知県(1.61倍)は92年9月の数値を0.07ポイント下回ったものの、東京都(1.54倍)が0.62ポイント改善するなど、有効求人倍率が上位の都道府県の多くは92年9月時点を上回っている』
『これに対し、下位県は最下位の沖縄県(0.41倍)が0.11ポイント増だったのを除けば、青森県(0.44倍)が0.06ポイント減、高知県(0.48倍)が0.18ポイント減、長崎県(0.55倍)に至っては0.55ポイント減と半減しており、大半が92年9月の水準に戻ってはいない』
ここでは「景気のよい地域/景気の悪い地域」の区分がはっきりしてきていること(二極化)をみることができますし、景気の悪い地域から景気のよい地域への(雇用の)さらなる流出を想像することは容易だと思います。
ベキ法則に従って、人口の偏り、地域間格差(疲弊した地域のますますの疲弊)は進んでいるのだと思います。
それは過剰な流動性を背負った個人の問題として「流動性/多様性」の問題、そして中間共同体の喪失に再帰します。
このような視点から、わたしは「あえて」地域再生をいいます。ただそれは、公共事業という産業の必要性とは直接的にはつながりません。
ですから戦略が必要なのです。地域再生の中に如何に公共事業という産業を位置づけるのかです。
6時になります。けっこうくたびれました。(笑)
【つづきは後程】
午前7時45分起床。浅草は曇り。
昨日は左耳の調子が悪く一日中脳みそが使い物になりませんでした。左耳から入った音が頭の中で反響しているような感じなのです。
午前中はなんとかがんばってみましたが、午後からはまったくダメで、大事を取って安静にしていたおかげか、今朝はだいぶよくなりました。
ということで、昨日の続きは後程。
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