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建設業に貢献するIT化
考える技術!

店主戯言(浅草的思考)060403 2006/4/21〜2006/4/30 "There goes talkin' MOMO"



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2006/04/30 (日)  
【PPTと試作品】

午前7時起床。浅草は曇り。
気温は高い。

先週の北海道遠征で使用したPPTを公開した。
http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip (yahoo! ブリーフケースの「講演用資料」ホルダ)

→ 2006年4月25日 空地建協新人研修会
  BD060425.zip (MS PowerpointファイルをZIP形式で圧縮)
解説:2006年4月26日店主戯言 【Fx(a):Fy(b) 私をみつめる私】

→ 2006年4月27日 空知建協 IT講習会 「Powerpoint実践コース」
  「技術者の自己表現力の必要性」
  BD060425.swf (flash paperファイル)
解説:2006年04月28日店主戯言 【場の空気を変える】

両方ともキアスムの導入で複雑性の縮減を試みているけれども、キアスム自体の説明が必要なことで、その試みがどこまでうまくいったのかは疑問ではある。

キアスムは表裏の関係のひねりなのだが、下の図ではそれがはっきりみえない方々が多いように感じた。

4月25日は、それを神話のアルゴリズム Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y) で補ってみたが、27日は時間の制約と主題から、「場の空気を変える」という表現に頼ってしまっている。

今後はこの部分にも「工作の時間」を導入する予定だが、試作品としてはこんなのはできてはいる。
 
じつはこれ、ひねる前の、ただの短冊状態を線形と理解できることが重要で、それは円環になる。
そしてひねることで、これはメビウスの帯になる。
そのつなぎ目に神話のアルゴリズムを書き込むと、交点 b が「私」の活動であるとき、それがどんなものかを理解する手がかりとしやすいかもしれないと考えていた。

 

2006/04/29 (土)  
【誤配・偶然】

午前6時20分起床。浅草は曇り。


社会学入門

社会学入門―人間と社会の未来

見田宗介(著)

2006年4月20日
岩波新書

819円(税込)







今回の遠征のお供は、見田宗介の『社会学入門』という新書だった。
私は、見田社会学にははじめて触れたようなものだけれども、この本はまるでパズルを解くように楽しく読むことができた。

たとえばこんな象限図が出てくる。

(引用:『社会学入門』,p18)

これを見た私は、普段使っている下図(↓)の各象限との比較と対称の作業をしていたのだが――それは、ひねりと接続の連続作業――、この脳内パズルは、退屈を知らない。
ちなみに、まだ解は得ていないので暫く退屈することはないだろう。(笑)


それから下左の図は、昨年の法大EC受講者にはなつかしい図かもしれない。
S字波である。これも『社会学入門』の中にあった。
この図は、人間の歴史の五つの局面を表現しているのだが、理解するには、なんの障害もないだろう。

しかし、そこからポンと右の図に置き換えをされたとき、ああ、人に教えるっていうのは、こうするんだよね、と納得してしまった。右の図は、君はね、こういう構造になっているんだよ、ということだ。


(引用:『社会学入門』,p159)

(引用:『社会学入門』,p161)

それは人間社会は「継起的」ではなく「重層的」だということ。
私の言葉だと「非合理性に合理性を上書きする」こと。
「上書き」であって、「重層的」なのであって、無から有が生まれるようなものではないということ。

『ひとつのものが死滅して、それに代わって新しいものが出現するという仕方ではない。ひとつのものは行き続け、その上にたって、新しいステージが展開し、積み重ねられる。』(『社会学入門』,p160-161)

それは私のIT化論でも基底としている認識なのだが――「社会学」というめがねをかければたぶんそうなるのだろうが――、これを納得してもらうのは意外と難しい。

つまり想像・創造においても、データベース蓄積は必須で、守・破・離の守がなくちゃダメだ、と私がいっていることである。別名「モスラの繭」である。

破も離も突然生まれはしない。我々凡人が出来ることは、まずは蓄積なのだと私は思う。
そしてその蓄積をインスピレーションは横切る。

この蓄積に関して、こんな説明方法があったのかと、目から鱗が落ちた。
つまり脳みそが喜んだわけだ。
まさにパズルの醍醐味である。


■誤配・偶然

さて昨日は、おやつに、室蘭にてカレーラーメンを食べた。
味の大王室蘭本店である。
 
カレーラーメンが、室蘭の名物だなんて今まで知らなかったのだ。
しかし、遠征期間中の札幌で、テレビでチラッとみてしまったのは誤配である。(笑)

とりあえず食ってみようと思った。
そして食った。たしかにうまいと思う。

しかしこのカレーラーメンのスープは、本州のそれに比べたら異常なぐらいに濃厚なのである。
たぶん私は三日は続けられない。
しかし週一なら習慣化するかもしれない。

誤配――偶然――は楽しい。
こうして新しいリンクをつくってくれる。

それからこれは、26日の夜、〈揚子江/黄金寿司〉(札幌)で食べたチャーメンである。
 
問題は「チャーメン」という名指し(ネーミング)にあって、私はこれは〈揚子江/黄金寿司〉のオリジナルだと思っていた。

「チャーメン」という名指し(ネーミング)は、私にとってはまったく非日常の語彙であり、浅草にいる限り、聞くことも使うこともない言葉である。

ところが、昨日、室蘭建協さんでのお昼(ちなみに鰻重であった)、IT推進部会の皆さんのおはなしを聞いていたら、「チャーメン」という言葉がでてきたので、思わず聞いてしまったわけだ。

「チャーメンってどんなものなのですか?」

「焼きソバ。ソースとお酢をかけて食べるとおいしい。」

焼きソバ……ああ、そうだよと思った。
「チャーメン」は「炒麺」なんだよ。
まさに音じゃないか。なんで漢字がパッと思い浮かばなかったのだろう。
日本人は象形文字を使うのに、ちょっとばかり近代化されたのかなと思った。(笑)

それはともかく、ここでも誤配はおきた。
ソースとお酢をかけて食べるとおいしい焼きソバを、次は食べてやるぞと思うのだ。

2006/04/28 (金)  
【場の空気を変える】

午前5時20分起床。室蘭は晴れ。

昨日は、空知建協さんで、現場竣工PPTの講習会であった。全国ひろしといえど、こんな講習会をしているのは空知建協さんだけであろう。

そもそも、多くの方々は、現場竣工PPTがなにものであるかも知らないのだろうが、現場レベルでの活動に対して、協会で対応しようとしている。つまり個々の企業、現場担当者のスキルを協会全体に広めようとしているのだが、その意図するところは深い。

講師は会員企業四社の現場担当者さんであった。それぞれのプレゼンテーションレベルは高く、大変立派な講師であった。私は大変にうれしい時間を過ごさせていただいた。

私がおはなししたことは、極めてあたりまえのことだ。
それは、現場竣工PPTの狙いのひとつは、「場の空気を変える」ということである。
ここでもキアスム図式を使ってみた。


Fx(a)は、竣工検査が始まったときのなにか重苦しい空気。
Fa-1(y)は、情緒的な雰囲気さえある和やかさのようなものである。

b は現場竣工PPT、つまり「私」がおこなうプレゼンテーションである。
「私」が情報を発信することで、場は変わる。
まさにトリックスターである。

そのトリックスター(「場の空気を変える」)としてのプレゼンテーションは、次の三つの要件を満たさなくてはならない。

 1・複雑性の縮減
 2・集中化
 3・自己言及

複雑性の縮減は、つまりはシンボル化である。そこでは象徴としての「ことば」、「画像」を使う。
たとえば「高橋メソッド」はその典型である。
 → http://www.rubycolor.org/takahashi/

つまり↓のようなものだ。


集中化の秘訣は「音」である。特に音楽は聴いている者を音の中心に位置づける。彼女をドライブに誘ったとき、BGMはどうしようかな、と思うその気持ちだ。

自己言及は、私のIT化論そのものの実践である。つまり現場状況報告を毎日やりなさいということ。その積み重ねがなければ、現場竣工PPTはつくれないだろうし、場の空気を変えるプレゼンテーションも無理だろう。


終了後、長谷川さんと室蘭へ移動。
一平で「室蘭やきとり」(豚肉)を食べた。
室蘭では、「やき鳥」と表記されるときは鶏肉。
「やきとり」と表記されるときには豚肉であるらしい。
まさに音が訓に注釈を与えている。


2006/04/27 (木)  
【今朝はここまで】

午前6時20分起床。札幌は曇り。

今日は遠征の中の休日……のはずだったのだけれども、空知建協さんのIT講習会 「パワーポイント実践コース」で、「技術者の自己表現力の必要性」についておはなしする時間をいただいた。

ありがたいことである。

しかし、朝はのんびりしていられない。
午前の部と午後の部があるらしく、八時過ぎには神部さんが迎えにきてくれることになっている。

なので今朝はここまで。

2006/04/26 (水)  
【Fx(a):Fy(b) 私をみつめる私】

午前6時30分起床。岩見沢は曇り、というか小雨がときより降る不安定な朝だ。
そして昨晩の雷電食堂、梅割りがまだきいていて、脳みそのフォースも不安定である。


昨日の新人研修、お約束は「可能な限りメモをとりましょう。」であった。
それは忘れないためではない。
忘れるためである。

昨日4時間かけてはなしたのは、キアスムのことだけである。


Fx(a)も、Fa-1(y)も私である。
半人まえなのも、一人まえなのも、私である。
信頼がないもの、絶対信頼を得るのも、私である。

半人まえな私を一人まえにするのも私であり、私を含む会社であり協会であり社会である。
信頼のない私を絶対信頼者にするもの私であり、私を含む会社であり協会であり社会である

「私は私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わない なら、私も救えない。」(オルテガ・イ・ガセット)

b には必ず私がある。

Fx(a):Fy(b)Fx(b):Fa-1(y)

Fx(a):Fy(b) それは、私をみつめる私である。
自己言及する私である。

私 b は自己言及をする。
私 b は情報を発信する。
私 b は動き出す。

これだけのことをはなした。
これだけを伝える為に四時間を費やした。

準備したPPTは100枚を超えていたけれども、使ったのは三分の一もなかった。
でも使わなかったPPTは無駄ではないことは、おわかりいただけるだろうか。

2006/04/25 (火)  
【わからなかったら私の責任である】

午前5時起床。浅草は雨か。

今日は空地建協さんでの新人研修のため、早朝の羽田への移動である。
そのため、日記を書いている時間はほとんどないので、これは深夜に書いている。
仕事の続きで書いているので、右脳はよく動いているかと思う。
なので文章は支離滅裂のはずである。


深夜まで何をしていたかといえば、今日の挨拶文と自己紹介と、ついでに研修内容を考えていたのである。
挨拶文はこれにした。

 ゐTょ±ω⊇ωレニちレ£★ 今日レ£宜U<ぉ願レヽUма£★

ちなみに文字化けではない。(Windows限定だけれどもね)

そして自己紹介。

ももちとしを。
空知建設業協会 広報IT委員会顧問。
IT化とはなにか?については、こんなことをいっている人。


これがわからなかったら、今日は私の責任である。

こんなことは滅多にいわない。

普段は、わからないのは貴方のせいであって、私の責任ではない、といっている。
けれども、今日は特別である。昨日書いたように、新人研修は私の試練なのである。(笑)
かれらに道理を説いて本日限りでつきはなさなくてはならない。

こんなおやじを親鳥と思われては困る。
親鳥は別にいる。
その後姿をみて勝手に成長しなさい。
そして、IT化とは飲むことだを実践し、一人まえの口を利くようになったらたらまたおいでなさい、なのである。


今日は、久しぶりに脳科学系を持ち込むことにした。脳の三層構造と新皮質の非対称性だ。
簡単にいえば右脳と左脳、そして右脳と無意識の関係。さらにいえば、脳内アヘン系のエンドルフィン。
脳内アヘンを持ち出したところで既に論理は壊れている。(笑)

今回用いるのは、先日、平和建設さんの勉強会で使わせていただいたものの改良型になる。
これを使う利点は、複雑性が縮減できることである。
つまり余計な説明が省ける。

私は、文学も西欧哲学も、非哲学としてのフィロソフィア・ヤポニカ(日本哲学)も脳科学も、同じことをいっているとしか思っていない。それぞれは背中合わせに、相補補完的にあるように捉えている。

つまり機能等価であり、私の脳内では、データベース化(東浩紀)なのであり、スーパーフラットなのである。(笑)

私のおもいつきのような創造性は、そのデータベースのデコードとエンコードに過ぎず、だからそれもスーパーフラットである。つまり奥行きがない。(笑)

ただ普段あまり脳科学からの援用をおこなわないのは、あまりにも複雑性が縮減され過ぎてしまうからで、それでは点と点とのつながりである平面どころか、ただの点になってしまうからだ。

ただの点になってしまったら、つまり考えるという趣味として楽しくない。
シナプス結合が生まれない。薄っぺらな創造性はどこへいくのか……。

二千年前に語りつくされた人文系を、科学が証明するからこそ楽しい。否定されたものは非科学なのではなく、まだ科学が未熟なのだと考えればよい。まだまた科学はおいついてはいない。
その思考回路を持ち合わせなければ、思考の自由はない。

しかし、今日はあえて、思考の非自由を用いる。
ただしそれは、「緊張と緩和」(桂雀枝)の基点としてである。
つまり トリックスターb である。つまり乱用要注意である。

ということで行ってきます。

2006/04/24 (月)  
【明日のことを考えていた】

午前7時7分起床。浅草は曇り。

『「一人まえと絶対信頼」についておはなししたいと思います。本日この研修会にご参加のみなさんは、自分の仕事をとおして、一人まえになることを目指されるのだと思います。では、一人まえとはなんでしょう。それは絶対信頼を得ることです。絶対信頼とは、「君に任せた」、と言ってもらえることです。』

昨晩から、明日の新人教育の内容を整理していて、その最初のフレーズを考えていたわけだ。

私は新人教育の内容を考えている時間が好きだ。それは新人教育に限らず、若い方々とのコミュニケーション接続の難しさゆえである。

普段の講演やセミナーは、ある意味鏡の中でおこなっているようなもので、〈情報/伝達〉の差異の理解は容易なのだが、新人教育の場は反射率が極端に少ない。私はそこで自分の姿さえ見失ってしまうことになりかねない。

つまり、可能性の塊であるかれらは、同時に価値基準の定まらない多様体――なんでも吸い込んでしまうけれども定着しない――のようなものであって、私の発したことばへの反射は極僅かしかないのだ。

だから、コミュニケーションは〈情報/伝達〉の差異の理解ではあるけれども、その差異を理解すことは、普段のセミナーなどよりも、もっと感性を研ぎ澄まさせないとできない。しかしそれを4時間持続させることも難しい。(笑)

それに最近は、長いはなしが苦手なのである――その昔は4時間で足りない、なんていっていたのが嘘のように――。1時間ぐらいで、場の空気にひねりを加え、状況を一転させるような、キアスムのようなものが個人的には好みになってしまっている。しかし、これにはとても沢山のエネルギーを必要とする。


理論的には、キアスムの1時間バージョンをワンセットとして、それを4セット準備すればよいのだろうが、そう単純なものでもない。場のひねりを続けてやると、反転が反転して元に戻ってしまうか、そのままこんがらかってしまいかねないし、なによりもキアムスの4セット連続なんて、私がもたない……。だから2セットぐらいは、と考えている。(笑)


明日は、冒頭に書いたように、「一人まえと絶対信頼」について、はなしをする予定でいた。つまり「一人まえ=絶対信頼」の関係であり、それをもう一層デコードすれば、〈半人まえ/一人まえ〉:〈不信/信頼〉のバイナリーコードの対象性である。

ものすごく単純化してしまうとこうなる(キアスム的に)。

 Fx(a)は半人まえ=不信
 Fa-1(y)は一人前=絶対信頼

ではそれを反転してしまえる b とはなんだろう、と考えていく。それははトリックスターなのか?、といえばそうでもあるし、そうでもないだろう。そんなことは「一人まえと絶対信頼」が機能する場を考えれば当たり前にわかる。

たとえば〈半人まえ/一人まえ〉のバイナリーコードを、仕事の場で考えてみれば、(仕事を)「君に任せた」といってもらえるにはどうしたらよいのだろうか。

そこでは、どうしても「守破離」の「守」が必要であることはあきらかだろう。つまり仕事を身体で覚えること(能力)は必要だ。しかしそれは、トリックスター的なひねりではもたらされない。時間軸に沿って積み重ねるものである。そうして得られた信頼を「能力的信頼」とよぼう。

ではその能力的信頼が絶対信頼なのか、といえばそうではない。私はここで久しぶりに下の絵を使おうと考えている。そう信頼には「意図に対する信頼」も必要なのだ。
 
ここからの展開は従来とは違ったものになるかもしれない。それはアジール性の実装と私が考えているもので、レヴィ=ストロースの神話のアルゴリズム式を持ち込む――つまり組織原理に公界の原理を実装する――。すると絶対信頼はこうなる。

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
 (:はアナロジー関係)

a=半人まえな私   x=半人まえな私の機能
b=一人まえな私   y=一人まえな私の機能

簡単にいってしまえば、半人まえの私と一人まえの私はたいして変わらない。(笑)
なぜなら、半人まえな私と一人まえな私とは私である。
しかし、半人まえな私と一人まえな私とは違う私である。

そして じつは(トリックスターの位置にある) b も私自身である、ということだ。
そしてその私は「へその緒」のつながった、「あいまいな私」である。

と今朝は日記を使って、大筋ができたわけだ。(笑)
あとは多様体に簡単に消費されないような、ノイズとしてのキアスムを考えよう。
私がトリックスター b として機能するようにだね。
つまり明日は「芸」でやるしかないのである。2セットだけね。(笑)

2006/04/23 (日)  
【あいまいな私】

午前7時起床。水戸は曇り。

肝臓の仕事が間に合わないのか不調である。
左脳はまだ死んでいるので、右脳的な対象性の知性を働かせるにはいいのだろうが、その前に、パソコンへ向かうのが辛い。気持ちが悪い。(笑)

昨日は主客があいまいに非分離的な状態(つまり左の絵―母子一体)について考えてみた。

それは3月20日に書いたことなのだけれども、日本語のハイブリッドさのおかげか、私たちはどうしても抑圧不全なのである。つまり子宮から出てきてもどこかでまだ「へその緒」がつながっている。

そのための、日本は近代化先進国(英米)からみれば、社会としても個人としても未成熟なのであり、無意識が露出しやすい(とされている)。

それを、あいまいだ、とか「まだモダンでもない」などと非難されているわけだが、「へその緒」がつながっていてなにが悪い、とひならきなってみたわけだ。(笑)

私たちはたしかに「まだモダンでもない」。でもいつまでたっても西欧的なモダンにはならないだろうしなれないだろう。日本語で考えている限りという注釈は付くが……。

だから、デカルトの「我思う故にわれあり」、つまり自己言及(反省の行為)を日本語でやると、我はデカルト的な我にはならない。

我とは西欧的な個人ではなく、「へその緒」がつながった状態。主客非分離的な種の中の個になる。これが日本語版「コギト」の特徴だと私は考えている。

それは無意識が露出しやすいが故に、対象性知性の働く「場所」でもある。我々が日本語でおこなうデコードとエンコードは、それだけでも対象性の知性が働く創造の可能性を孕む。

だから自己言及しましょう、つまり情報を発信しましょう、ということだ。
コミュニケーションは<情報/伝達>の差異の理解である。
これは西欧だろうが日本だろうが変わらない。

我々はうまい具合に「あいまい」にできている。
それを合理で否定してしまうのもつまらない。
「ある」ものは「ある」のである。

2006/04/22 (土)  
【数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである】

午前7時30分起床。水戸は晴れ。
昨晩―というのだろうか、午前2時過ぎに就寝したので、もう少し寝ていたい…ような気もする。



昨日は久しぶりに西原さんの「TOC」のはなしを聞いた。そのときに、ふと気になったことがあったので、休憩時間にちょっと確認してみた。

「TOC」では対立関係図を書いていく――それはデコードである――。そしてその対立の解決――つまり止揚(私のことばでは、エンコード、ハイブリッド)――には「直感を働かせる」。これはまさに弁証法なのだが、問題はこの「直感」の由来である。

「TOCの直感は何処に由来するのか?」それが私の質問だった。答えは、TOCはそれを実装していない、ということだった。つまりそれは外部からもちこむ。個人の資質に由来する。

なぜそんなことを聞いたかというと、つまり私の言っている「考える」技術とは、如何に「直感」を実装するのか、という問題だからだ。そして「非合理性に合理性は上書きできるが、合理性に非合理性は上書きできない」という私のテーゼの確認である。


昨日、私が講演で引用した大好きな言葉。

「数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」

これは、何よりも直感を信じた数学者、アンリ・ポワンカレの言葉である。

最近は、図面が悪いとか、設計が悪いとか(耐震強度偽装まであるが…)が、施工する側からいわれているが、私はそれは、建設業から直感が働く「場所」かなくなっているのだろうな、と考えている。職人的な「公界の原理」が働いていない。

直感とは、流動的思考であり、対象性の知性であり、非合理性であり、フロイト的無意識の思考である。
バイロジックを実装するとは、論理的思考(ロジカル・シンキング)と直感(対象性の知性)の実装である。

私はある合理のシステムが機能するには、非合理性の場所が必要だ、という仮設をたてている。それはことばをかえれば「直感の働く場」である。昨日の言葉でいえば、データの裏づけのない、なんだかありそうな気がするの「ある」である。何かが「ある」と思うには数学や科学の力ではなくて、心の力がいるのである。

その非合理性の場所が「公界の原理」の働く場所である。
 → http://www.momoti.com/myself/self060402.htm#060416

それを第四象限の原理として私は「考ええる技術」を書き換えている。
だからいつも問題の関心は、バイロジックの実装にある。
それを組織と個人において考えている。

それを組織的に行うことがマネジメントだと考えることができれば、そしてそれが種の論理的に個を育てることができるのであれば、日本的経営の面白さが見えてくるだろう。

それを合理性と非合理性のハイブリッドとしての「超合理性」とよぶわけだけれども、それは今日の講演の主題となる。


2006/04/21 (金)  
【なんだかありそうな気がするの「ある」】

午前7時起床。浅草は曇り。
例によって私の部屋は地震過敏なのだが、未明に地震があって目が覚めて、継続して何度か揺れたのがわかった。それから熟睡できなかった。

昨日の午前中は暴風雨だった。午後からは快晴となったので、久しぶりに窓を開けて仕事をしていた。仕事場は言問通りに面している。窓を開けると汚れた空気と騒音が入り込むが、空気清浄機を使った部屋よりも、仕切をはずされ外と直結した空気は、なにか春の開放感を運んできてくれる。

それじゃ、仕事も進むのか、といえばそんなことはなくて、プリンターは突然不調になり、仕事の最後の段になって足りないものがあったり、お茶を飲んでいるときに発作的にむせて、パソコンにお茶を吐き出したり、それで書類がふやけてしまったり、まあ思うようにはならない一日ではあった。

それでも、まあ、仕事は終わればいいんじゃないの、が私の主義なので、別にストレスが溜まるわけでもなく、いつものように、淡々とした日常を過ごした。



今日は水戸へでかける。短い講演の時間もいただいていたので、「ペンローズの三角形」を使った、(仮称)「工作の時間(2)」をしようと思う。もちろんバイロジッカルな思考へのプロローグとしてだけれども、バイロジックの実装は、まずは「世の中バイロジカルに動いているんだな」と思うだけでいいのだと思う。

つまり「ない」は「ある」とたいしてかわらない。「ある」と思えば「ある」のである。「ない」を「ある」に転換する力を創造力という。何かが「ある」と思うには数学や科学の力ではなくて、心の力がいる。

桜の花が咲く頃になれば春は「ある」と思う。それは「感じる」である。春があるのも、喜びや悲しみがあるのも、データによるのではなく、そのように春や喜びや悲しみを「感じる」私があるからだろう。

データによる「ある」はたしかにある(と信じる)「ある」である。データの裏づけのない「ある」は、なんだかありそうな気がするの「ある」である。なんともあいまいなのだが、このなんだかありそうだの「ある」がないと創造は生まれないのだろう。

だから、ただ楽しく、なんだかありそうな気がするの「ある」を工作してこようと思う。(笑)
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