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店主戯言(浅草的思考)060402 2006/4/11〜2006/4/20 "There goes talkin' MOMO"


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2006/04/20 (木)  
【ふと思うことありて蟻ひき返す(2)】

午前7時起床。浅草は曇り時々雨。
時々強い風が吹いている。

17日の東京独演会はいただきものが多かった。
左:栃木限定「エリーゼ」(HN:とどさんより)。右:ココ・ファームのワイン(HN:つつみ◇こりきさんより)

 

ラスク・フランス(HN:どぼんさんより)
 

ありがとうございました。


ふと思うことありて蟻ひき返す    橋 間石
                      (間の字は正しくは門の中に月)

http://www.momoti.com/myself/self050402.htm#050427
(去年の今頃も同じようなことを考えていたのだな)


今朝は、独演会の反省は中休みしてこれで終わろうかと思った。というのも、講演の反省の行為というは、ちゃんとやろうとすると、本が一本書けてしまうようなもので、それを朝の短い時間にやるのは――分割してやっているとはいえ……というかむしろ分割しているせいなのだが――、さすがにつらいわけだ。(笑)

でも、このままでも今朝は、なにか脳みそに火が入らないのもたしかで、ちょっとした外伝を書いて済ませてしまおうと思う――結局反省なのだが……――。

今回、最大の「ひねり」は、共同体(中景)の概念変更である。つまり農業共同体的なものから公界的なものへと基底を変えることで、建設業という職人的な共同体(企業・協会)のあり方に、合理性と非合理性のバイロジックな運動を見出そうとし、それを浮かびあがらせることで、IT化の活動に、更なる「中景」(円環:トーラス:クラスター:企業:協会)構築機能と資本のシステムへの適応性を孕ませようとしている。それは(結果として)、より円環の外とのコミュニケーション接続を容易にするだろと、考えている。


コミュニケーション接続形態については、既に「工作の時間」で三分類して考察をおこなっているのだが、つまり「円環」(たわいもない会話)、「ひねりと2分の1切断×2」(反省)、「ひねりと3分の1切断」(おたく的才能)である。

そのコミュニケーション接続可能性に関しては、私はルーマンの「自己言及システムの理論」を援用しているわけで、つまり「ひねりと2分の1切断×2」(反省)に大きなウエイトを与えてきた。

それは、自己言及が――村上泰亮がいったように(広義の反省)――、なによりも思想の自由を求める活動であり、行動の自由を超えた自由を求めようとする営為だからだ。

そしてそれを、私がこうしてやっているように――ウェブログや、イントラネットで(たとえば「現場状況報告」)――おこなうことを、私のIT化論は実践課題としている。


しかし今回の共同体性の概念転換は、ここに大きな壁をつくってしまった。そしてそれを今回は乗り越えることができなかった。

つまり「ひねりと2分の1切断×2」(反省:自己言及)は、デカルトの『Je pense, donc je suis.』――我思う、故にわれあり――であって、それはニュートン物理学に続く密画世界としての科学、つまり、論理思考、合理であるわけだ。

その合理の極度の偏りが引き起こす生活社会の不合理を問題とし、その対応策を考えているのに、つまり合理性の対極として、対象性の知性を持ち出し、止揚のようにバイロジックを考えているのに、その実践が論理思考だとは、一見、理論矛盾も甚だしいのである。

と考えること自体がバイロジカルじゃないのは承知しているが――バイロジックは矛盾は矛盾のままでいいのだが(笑)――、「考える技術!」を標榜しているからには、その壁は越えておくべきだろうと。

まあ、ここ数日はそんなことを、考えたり考えなかったりしてすごしていたのだけれども、昨日、昼食を食べたあと、ふと思うところがあって、岡潔の『日本の国という水槽の水の入れ替え方』を引っ張り出した。

そこに私の壁の越え方は書いてあった。

『Je pense, donc je suis.』――我思う、故にわれあり――でいいのだ。

cover 日本の国という水槽の水の入れ替え方

岡 潔(著)

2004年4月19日
成甲書房

1995円(税込)




岡 潔の純正数学は、まさしくバイロジックの実践である。

2006/04/19 (水)  
【トリックスター ―060417東京独演会の反省(2)】

午前7時40分起床。浅草は曇り。

昨日は、金比羅さんできつねうどんで昼食。
 
山形から大山さんがいらっしていたのでご一緒した。
なぜきつねうどんだったかというと、たまたまみてしまった8チャンネルの占いが最悪で、ラッキーアイテムが「きつねうどん」だったからだ。(笑)

『縦に書け!』という本を読む。これは私が購入したものではなく、かみさんが息子の担任の先生から推薦されたものだ。

この本のAmazonでのレヴューは見事に二極化している。その理由は簡単で、対立コードは〈アナログ/デジタル〉のバイナリーコードであり、著者の主張は思い切りアナログ寄りであるからだ。アナログ派は賞賛し、デジタル派は批判する、という二項対立になっている。今の時代の白黒思考をみてとれるようで興味深い。(笑)

私は手帳を縦書きで、それも万年筆を使って書く『縦に書け!』の実践者であり、普段はこうしてデジタルに文章を生成している「横に書く」の実践者でもあるので、そんな極端な評価はしない、というかできない。

今や、私の生活においては、横に文字を打ち込むことは日常である。そこに縦書きの書字をもうひとつの習慣として持ち込むことは、単調な日常に、わざと起こす不安定のようなものであり、ささやかな日常の中のバイロジックの実装である。

たとえば、私は主に、面談や、ききにいった講演や、鼎談の内容をメモするのだが、そこで漢字を書こうとして書けないときの不安定さは、記号を使ったり仮名を使ったりすることで、瞬時にその複雑性を縮減しようとすることがある。そこでは流動的なひらめきのようなもの――流動性の知性――が働いているように感じている。

つまり、デジタルな横書きの日常だけでは、創造、気づき、発見、ひらめき――とかそんなものに――、めぐり合う機会が減ってしまう――遇有性が縮減してしまう――のもたしかであり、メモの習慣は、わざとアナログに、それも万年筆を使って縦に書くことによる、日常への切れ目のようなものとなっている。

その日常の切れ目から、日常に上書きされてしまっている非日常が、ふっと表出する瞬間を楽しみたいと思う。つまり――些細なことではあるが、わざと――、日常に非日常が交差する切れ目をつくろうとしているわけで、バイロジックの実装とは、難しく考える必要はなく、そんなことなのだろうと考えている。

なにしろITはフツーにある時代である。その主語(IT)を否定して日常を変えようとしても無理なのだ。バイロジックの実装というのは、「フィロソフィア・ヤポニカ」的にいえば、主語を否定するのではなく、述語の部分に、主語の「否定即肯定」、「肯定即否定」――この「即」というのを使ってみたかったのね(笑)――の思考が働く「場所」をつくりだす、ということだと解釈している。

それは私が「象徴の一部否定」とよんできたものだ。それを独演会では、ギャル文字と松本国三さんのアールブリュッドの相似をもって説明を試みた。



 

それは象徴としての国語を絶対とする方々からみれば、まっく認めがたいものであろう――だから『縦に書け!』の著者、石川九楊さんは怒っている――。しかし、ギャル文字やアールブリュッドといった創造性は、象徴の一部否定から機能していることを,、ここにみてとることができると思う。

それは「ひねりと3分の1切断」であり、「オタク的才能」にしか過ぎないものかもしれない。陳腐なものかもしれない。東浩紀ならデータベース化や動物化とよぶものである。しかしそれを軽視してはならないと思うし、ましてや敵対するものとしてしまうことには私は反対の立場だ。

この象徴の一部否定を、私は「ひねり」とよんでいる。その「ひねり」は、合理に対する非合理、論理思考に対する対象性の知性の機能、つまりバイロジックそのものなのだと考えている。

そこでバイロジカルの解説としての「ペンローズの三角形」という(仮称)「工作の時間(2)」。これは今回初めての試みだったけれども、それなりに楽しんでいただけたろうか。


この三角形を三次元でつくることは不可能だ。理論的にはそうなる。しかし、右の写真は実際に私が紙でつくったもので、工作は雑ではあるけれども、まあそれらしくは見えるだろう。

種明かしは、4月17日に紹介した展開図を組み立てて、ある位置から片目をつむってみると、こう見える、ということなのだ。デジカメは、人間の目の機能でいえば片目をつむった状態なので、それと同じ状態を写し出せる。

それは実際につくったことにはならない、と考えるのは論理思考だろう。しかしそれを擬似的にではあれつくってしまうのは対象性の知性だ。つまり、「出来ない」は「出来る」なのである。そして部分部分を見れば矛盾だらけであるけれども、全体としてそれらしく見えてしまう、そんなものだ。

そしてレヴィ=ストロースの神話のアルゴリズム式の紹介。

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
 (:はアナロジー関係)

手持ちのフィギュアの関係で、ガメラとギャオスで解説。(笑)

a=ギャオス x=ギャオスの機能
b=ガメラ   y=ガメラの機能

簡単にいってしまえば、ギャオスもガメラも似たようなものだ、と。(笑)

ギャオスが悪さをする。そこにガメラがやってきてギャオスと戦う。そのとき、ガメラはギャオスの機能とたいして変わらない状態になる。それがFx(b)、ギャオス性をあびたガメラだ。

これは平成ガメラ三部作の三作目をご存知の方ならすぐにピンとくるだろう。イリスを育てた少女にとって、ガメラは家族を殺した敵だった。つまりガメラは人類の味方なのか敵なのか、部分部分をみると矛盾もあってよくわからない。でもまあ全体としては味方なんだろう、ということだ。(笑)

物語の終わりには、ガメラはギャオスをやっつけてしまい、ギャオスの存在はなくなる。それが a-1 だ 。そして街に平和は戻り、ギャオスはのいない状態(でもガメラはいる) Fa-1(y) になる。

つまりガメラのおかげで、ギャオスが悪さする世界秩序 Fx(a)は、ギャオスのいない世界秩序 Fa-1(y)に書き換えられている。ここでのガメラ (b) は、神話でいう「トリックスター」的な存在である。しかしこの神話のアルゴリズムでは、中沢新一が指摘しているように、トリックスターとしての b の機能をうまく表現できていない。なので、中沢新一にならって、キアスム図式を援用してみた。



キアスムの思考では、yes or no、dead or aliveのような二者択一的思考が成り立たない。つまりガメラのやっていることもギャオスのやっていることもたいして変わらない、なのだが、その敵なんだか味方なんだかよく分からないガメラのおかげで、世界秩序の転換は起こり、めでたしめでたしの世界があらわれる。神話の構造である。

つまり、これを公共事業という産業や企業活動に置き換えてみれば、秩序的転換、つまり創造性を企業が実装するときの図式としてみることが可能だろう、というのが今回の独演会の中心的考察対象である。つまりここでの問題は、では、企業におけるトリックスターってなに?ということだ。

つまりここに b の資質というか、bを生み出す社風というか、まあそんなものとしての、バイロジックの必要性を考えていくわけだ。(明日に続く……のか?)


■参考

縦に書け!―横書きが日本人を壊している

石川九楊(著)

2005年6月30日
詳伝社

1000円(税込)








2006/04/18 (火)  
【060417東京独演会の反省(1)】

午前6時20分起床。浅草は曇り。


昨日の独演会は当日参加の方も多く、予想以上に楽しくできた。
何時ものように懇親会も楽しかった。
参加いただいた皆様、会場を提供いただいたサイボウズ社に感謝である。

昨日の講演は、講演自体が自己言及(反省)であり、芸にはなっていない。
うまく説明できないところもあったし、はなしの展開がうまくないところもあった。
ただ、毎日考えてきたものを、半ばパロール的に、遇有性をも含ませながら、紡いでいった。

そんな反省のような講演についてまた自己言及するのは、私が二クラス・ルーマンが好きだから、というだけではなく、私が、コミュニケーション接続的には、「ひねりと2分の1切断×2」しかできない不器用さしか持ち合わせていないからだ。

つまり昨日はこういったわけだ。

私は「ひねりと3分の1切断」ができない。

「ひねりと3分の1切断」を「オタク的才能」とよんできたように、それはある時代が表出させた才能(思考の構造)のようなものだろう。

 

人間(ホモサピエンス・サピエンス)の能の構造が、もう何万年も変わっていないとしたら、その才能は、その環境にあるのであれば、誰でもが使える(表出する)ものであるはずだろうが、しかしそれは、私からみると絶望的に手の届かない才能に思えるのはなぜだろう。

「ひねりと3分の1切断」は、対照性の知性が大きく機能している、とわたしは考えている。
それは個人的に内包されるならば、空想の世界で終わってしまうものだろうが、情報として表出すれば、芸術や文学といった創造となる。
ヘンリー・ダガーをみよ!

しかし残念ながら、私はアールブリュッドを生み出す資格も能力も持ち合わせていない。
出来ることは、「ひねりと2分の1切断×2」=論理思考(ロジカルシンキング)か、若しくは円環としての「たわいもない会話」である。

論理思考というのは密画的、科学的な思考だ。
そこでは原理(のようなもの)は見つけられるかもしれない。
しかし創造はそれだけでは生まれない。
つまり昨日フリーハンドで書いた絵。

これはラカンの「シェーマT」のパクリだけれども、「バイロジック」の見取り図だと考えてもらえばよいだろう。
論理思考と対象性の知性の交差に生まれるバイロジックは創造性を孕む。

私はある時期の日本的経営には、これを実装できた時代があったと考えている。
G・リッツアはそれを「超合理性」とよんでいるが、私は村上泰亮が「企業がおこなう開発主義」とよんだものとのかさね書きをしたい衝動に今は駆られている。

 

それは技術革新を制度化している企業組織のことなのだが、たとえばトヨタのカンバン方式やキャノンのセル生産方式のような「合理のシステム」は、じつは論理思考だけでは動いていないのではないか、という仮説である。

ということで、ここから企業という共同体性についての考察が始まるのだが、今朝は9時を過ぎてしまったのでここまで。
続きは明日にでも。

2006/04/17 (月)  
【ガメラ対ギャオス】

午前8時起床。浅草は晴れ。

本日の独演会の主題は、次の擬似的な代数式で表現できるだろう。

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
 (:はアナロジー関係)

これはご存知、レヴィ=ストロースの神話のアルゴリズム式で、分離→結合→分離のオートポイエーティックな関係が表現されている(と私は解釈している)。

そして「非合理性に合理性を上書きする」ことだ(と私は解釈している)。

この代数式をどう説明しようかと、式を眺め続けてた結論は、ウルトラマンと怪獣の関係だった。
しかしウルトラマンは手持ちにちょうどしたものがなく、今日はガメラとギャオスを使うことにした。(笑)

 

この神話のアルゴリズム式において重要なのは、バイロジックだ。

『芸術人類学』,p75をまとめた)

このバイロジックの解説用には、新たな「工作の時間」を準備した。

これだけでなんだかわかった人は、きっとバイロジカルな脳みその持ち主だろう。

「バイロジック」は創造性の源泉のようなものだ。
それは、べつに新しい概念ではなく、私はだいぶ前からこれを使ってIT化論を展開してきている。
つまり「考えるIT化」だ。

そしてこれをどう実装するのか――私たちの日々の活動の中で使えるようにするのか――、については今日は社会システム論を援用してしまう。

 コミュニケーション=「情報/伝達」の差異の理解。
 バイナリーコード。つまり Fx(a):Fy(b)=〈Fx(a)/Fy(b)〉=Fx(b):Fa-1(y)

そしてオートポイエーシスとしての自己言及(反省の行為)。
その自己言及については、今までどおり円環とメビウスの帯のカットモデルを使う。

ただ今までと違うのは、ひねりと三分の一カットモデルへの評価で、これを

 Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)

の b のトリックスター的な仕事として評価してみようと考えている。
つまりバイロジックの機能によって、つながりをつくることにおいては、二分の一×2モデルよりも、複雑性は縮減されているということだ。


■参考

神話のアルゴリズム (英文です)
 → http://www.angelfire.com/de/jwp/anthropology.html

『芸術人類学』
中沢新一(著) 2006年3月22日 みすず書房 2940円(税込)

2006/04/16 (日)  
【Still Crazy For You】

午前7時起床。浅草は曇り。

相変わらずセミナー内容のまとめをしていた。

BGMは『Still Crazy For You』


趣味の問題といわれればそれまでだけれども、中沢新一の『芸術人類学』―「友愛の歴史学のために」は大きなインスピレーションを与えてくれていて、改めて網野善彦を読み直してみようと思った。

『無縁・公界・楽』を読みきるには、思考のDNA組み換えが必要だった――それが今までわからなかったのだ――。「アジールの原理」というか「公界の原理」は思いのほか現代にも生きているし、使える概念であることを確認していた。

たとえば、「桃組」では、「IT化は飲むことだ!」というすさまじいテーゼが機能している。その飲むこと、つまり宴会――その最高峰としての「無礼講」――は、アジールであることが、『中世の再発見』にはちゃんと書いてあった(見過ごしていた)。私たちは知らず知らずのうちに「公界の原理」を実践していたわけだ。(笑)

『ところが、日本人の場合はどうしてもそれをやりたいんですね。いまならカラオケですが.どこへ行ったってやりたいわけです。実はそこでいろんなことが決まってしまうという事情があって、宴会に参加もせず酔っ払えないヤツはダメだというような一種の加入儀礼になっています。』

『ヨーロッパの場合は、宴会の場はアジールですから、そこへ仇が飛び込んできても、みんなと何かを食べてしまったら、その男を殺すこヒはできません。宴会の場は、一種の無縁の場をも体現しfているわけで、宴会の変化はヨーロッパにおける無縁の世界の変化をも表しているという意味で.、網野さんの問題と重なってくると思う入.てす。』(阿部謹也:『中世の再発見』,p137)

この引用の中でも『実はそこでいろんなことが決まってしまうという』という箇所には、まさにその通り!なわけで、思わず笑ってしまった。

しかし最近は、会社の宴会は嫌いな若者が多いのだよね。


「公界の原理」は、私が「日常の中の非日常」とよんでいるものだが、それを「公界の原理」とよぶことで、経営(マネジメント)との関係性を明確化できると直感した。

つまり「資本の原理」――簡単にいってしまえば経営――というのは、「公界の原理」がその根底で動いている、とはっきりと意識すること。
その文脈上で営まれているものである、とはっきりと意識すること。
そこからはじめると、〈合理/非合理〉の絡み合った糸は、意外とすんなりとときほぐれるように思うし、やらなくてはならないこともあきらかになる。

たとえば、楽市・楽座はそもそも「公界」であり、その原理の具現化だったし、貨幣の持っている匿名性や「数の原理」、そしてクラインの壷的な貨幣の運動はその一端である。
(これについては、明日の独演会でその取入れを試みてみたい。)

会社も協会も、もとをただせば、「組合の原理」(公界の原理)が働いている。
こう考えることができると、そこに農村共同体的な合理のシステムが上書きされてできたものが日本的経営だということができる。

そうすれば日本的経営の持つ「超合理性」の可能性は理解しやすい。
つまり、マネジメントでの、〈共同体/組合(公界)〉というハイブリッド、〈合理/非合理〉のハイブリッドを理解することができるだろう。

そしてそれがハイブリッドだということは、バイナリコードで考える、ということでもあって、たとえば、そこに更なる「合理のシステム」の上書きをしようとすれば、それを受けるだけの「非合理のシステム」も必要だということだ。単純な白黒思考ではなくなる。

それを、「非合理性に合理性を上書きする」と表現してきたわけだが、合理だけでは会社はうまく機能しない。非合理も必要。
若しくは合理のシステムをうまく機能させるには、非合理的な基底が必要だということだ。

つまり、今の時代に機能するだろう「中景」(会社や協会や地域社会)は、そういわれ、我々がそうだと思い続けてきた「農村共同体」的なモノというよりも、「公界の原理」を残したハイブリッドなのだということだ。

では、その公界的な非合理性とはなにか。合理の上書きとはなにか。
というところを、IT化論と関係させながら、まとめあげる手がかりがつかめれば、明日はうれしいな、と思う。(笑)

しかし、合理のシステムの絶対性(密画的)に慣らされていると、思考のDNA組み換えをおこなわないと、難しいのはたしかだが、私自身が今、この思考のDNA組み換えをを楽しんでいるのもたしかだ。(笑)。


■BGM

Still Crazy For You (初回限定盤)(DVD付)


2006年4月12日

クレイジーキャッツ&YUMING
東芝BMI

1350円(税込:Amazon価格)







限定盤(10inch アナログジャケット仕様)

日曜の夕方6時30分は「シャボン玉ホリデー」だった私には、たまらないものが出てしまった。
松任谷由美に、谷 啓(ヴォーカル)、植木 等(台詞)、犬塚 弘(ベース)、桜井センリ(ピアノ)。
それに今は亡き、ハナ肇(ドラム)、安田 伸(サックス)、石橋エータロー(ピアノ)の演奏をライヴ音源からサンプリングしてある。つまりある種のマッシュアップ=ハイブリッド。

「複製技術時代の芸術作品」の時代に、生きていてよかったのかのかもしれないと思う。想像界のものでしかなったものが、シュミラークルには過ぎないとはいえ、技術のおかげで、アナログコード(ミーム)として鼓膜を振動させてくれる。まあ別のいい方をすれば、想像界と現実界が直結しているのだけれども、そんなことどうでもいいじゃない、といってしまえる。そういう時代に生きているのだ。そして好きな音楽を聴ける自由を謳歌している。植木等の「お呼びでない」は、なにかのんびりしていておかしい。(笑)


■参考

中世の再発見―対談

網野善彦&阿部謹也(著)

1994年8月15日
平凡社ライブラリー

1223年(税込)





『芸術人類学』
中沢新一(著) 2006年3月22日 みすず書房 2940円(税込)

『増補 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和:
網野善彦(著) 1996年6月15日 平凡社 1223円(税込)


2006/04/15 (土)  
【無縁・公界・楽(友愛の歴史学のために)】

午前5時50分起床。
浅草は曇り。

月曜日の独演会の準備、24日の空知建協さんでの新入社員教育の準備とかをちゃんとはじめる。
BGMは甲本ヒロトの歌う『桜のころ』

 ひとつだけ決めよう
 あとは自由
 約束しよう
 あきらめない
 あきらめない ただ
 それだけがルール

歌えるようになった。(笑)


『芸術人類学』は、最終章「友愛の歴史学のために」を読む。読むのはいいのだけれども、どうしても来週からのセミナー構想とダブってしまう。

この章は外伝・『僕の叔父さん 網野善彦』というか、故網野善彦氏へのオマージュであり、網野が『無縁・公界・楽』でひかりをあてていた「無縁」という概念の、現代への対応を考察、展開している。

テーマは「自由」であって、ここのところ――「動物化」もそうだが――、「自由」という概念には惑わされることが多くて、ちょっとばかりめげていた私には、ちょっと「ひかり」をもらったような気がする。

ここでの中沢は――たとえそこに誤りやウソがあったとしても――とにかく展開がうまいなぁ、と思うわけで、はなしにひきつけられてしまった。

私が中沢を知ったのは、五木寛之の『百の旅 千の旅』を読んだのがきっかけで、そこにはこう書かれていた。

『つまり批評家・思想家のウソはウソのためのウソであり、ひとつの存在様式、または美学なんだよ、と釘をさすのだ。たしかにそうだろう。中沢の文章を読むとき、ぼくたちが一種の酔いをおぼえるのは、そのウソの手ごたえある存在感に酔わされるからだ。』(『百の旅 千の旅』,p27)

そのウソに酔いたかった。しかし、はじめての中沢新一は『フィロソフィア・ヤポニカ』だったわけで、それは(私にとっては)酔うに酔えない不幸のようなものだった(笑)。けれども、「友愛の歴史学のために」は、五木のいうとおり酔える。


さてその内容は、といっても、今の理解ではメモ的にしか書けないけれども、興味のある方のために――いるのか?――書いてみる。

ここでの中沢は〈農業民/非農業民〉、〈定着/非定着〉、〈縁/無縁〉,〈共同体/組合の原理〉のバイナリーコードを使って考察をすすめる。もちろんそれぞれの項目は対応している。

(この区分は、中沢が『悪党的思考』で使っていた〈区切られた空間/なめらかな空間〉のバイナリコードにも対応しているだろう――「千のプラトー」だね――。)

共同体は農村的。安定した同一性をそなえた空間。
農業民。定着。土地に人々は結びつき、それを土台として権力は成り立つ。
人々を結びつけるさまざまな「縁」でできている。
人の社会的地位はその縁によって決定される。
同一性の原理が働く。
排他的な超越する神。「正しさ」を支える法の神。

組合は非農業的、アジール的。同一性をもたないトポス。
非農業民。非定着、無縁。「原始・未開以来の自由の伝統を生きるもの」(網野)
「数の原理」で組織される(年齢や年次や受けたイニシェーションの回数など)。
同一性にかわっての差異を尊重。個性の重視。
霊的ではあるが肉体性をそなえた神。
未知のものを表現する芸術の神、文学の神。

かつての人々の暮らしは共同体から組合へ、組合から共同体へ、というリズムをもって、ゆるやかな交代を繰り返すようにつくられてきた。

組合というような考え方がじっさいに生きていた社会では、共同体は自分を否定する組合を内部に抱え込み、組合は共同体の土台の上に花を開かせるというような、弁証的な関係がうまく作動していた。
(ここはとても大切な指摘だと思うわけだ。)

都市と国家があらわれると事態は複雑化する。
(権力絡みの問題だね。)

権力(天皇や大名)がつくったものでない自由都市は、農村的なもから生まれたのではない。
都市が形成されるとき、いったん農村的な構造層が解体され無縁の存在となって、都市住民となる。

資本主義も組合の原理、「無縁」の原理。
資本主義の「数の原理」は貨幣。
貨幣は市場に自由と平等をもたらした。
近代を開いた。

都市は共同体の延長上には生まれてこない。
都市が生まれたきたのは、人類の脳の中の、組合的原理が作動している潜在的な場所から。
都市は貨幣と貨幣が支える無縁の空間と密接する。

『近代を生み出したこうした諸テーマが「人間的自由」の実現の試みとその致命的な挫折に深く関わっている。資本主義の発生は、「人間的自由」の可能性を宿した人類の脳の構造の必然であるのに、なぜそれは私たちの世界から公正さやよろこびを奪うのか。都市の発生もまた必然であるのに、なぜそこに現実となっている「自由」は、こうも不公正ばかり生むのか。』(『芸術人類学』,p374)

この引用箇所は、私が「ちょっとばかりめげていた」ことなのだけれども、つまり私は「資本主義が好きだ」。けれも、資本主義故の問題も多いという今日この頃。

私が「資本主義が好きだ」というのは、中沢のいうように、そこにアジール、公界を感じるからで、無縁はなによりも「自由」の概念だ、と考えるからだ。

わたしは、引越し常習者であり、定住しない、それこそ網野のいう「職人」のような生き方をしてきた。そして今浅草にひきつけらるようにして住んでいるのは、ここが「公界」の匂いのするところだからだろう。

(誤解されている方も多いかと思いますが、浅草は個人主義の街なのです。いろんな人がいますから流動性は高いのです。しかし、プライバシーを大事にします。相手の生活を尊びます。人情の有無ではなくてもっと深いつながりがあります――【Republic.com―インターネットは民主主義の敵か】――。)

しかし、そんな私が地域再生や中景――つまり共同体――にこだわるのは、自分でもなぜだろうと思う。

たぶん、人類の脳の構造は、そういうものも好きなように出来ているのだと思う。
(なんというオチだ。これが「ひかり」かい?)(笑)

つまり、これも昨日の「公共とねじれ」と同じことをいっているのだろうと考えるわけだ。
トーラスとしての共同体と組合の原理としてのメビウスの帯のハイブリド。


(引用:『芸術人類学』,p91)

浅草は多少なりともこのモデルで動いている。
トーラスの中心は浅草寺という「無」。
(浅草寺の「無」の構造については『アースダイバー』に詳しい。)

その「無」の深遠にひきつけられるように集まってきた人々の「楽」としての共同体(トーラス)。
つまりその共同体は――権力の構造の中では、課税免除はないけれども――農村のそれではなく、職人、芸人、商人という、アジール、公界の原理、組合の原理で動くメビウスの帯を内包している。

企業や協会もこれでなくちゃいけい、というのが私の考え方なわけで、つまり「非合理の上に合理を上書きする」とか、〈日常/非日常〉ってこれなんだろうと思う。

こうして読んでいくと『芸術人類学』っていうのは、マネジメント原理について書かれていると思うのだけれども、なので当然にこのはなしは月曜日の独演会でもやります。(笑)


■頂き物

西村さんから、オホーツクの流氷あけの毛蟹が届いた。
ありがとうございます。m(__)m
ミソがたっぷり詰まっていた。やっぱり毛蟹はオホーツク。


そしてカレーはオリエンタル。(笑)
オリエンタルカレーからはノベルティが届いた。
  


■参考

芸術人類学

中沢新一(著)

2006年3月22日
みすず書房

2940円(税込)







僕の叔父さん 網野善彦

中沢新一(著)

2004年11月22日
集英社新書

693円(税込)





無縁・公界・楽増補 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和

網野善彦(著)

1996年6月15日
平凡社

1223円(税込)





cover百の旅 千の旅

五木寛之(著)

2004年1月1日
小学館

1400円(税込)




フィロソフィア・ヤポニカ フィロソフィア・ヤポニカ

中沢新一(著)

2001年3月10日

集英社
2600円(税別)




悪党的思考悪党的思考

中沢新一(著)

1994年
平凡社

999円(税込)




アースダイバーアースダイバー

中沢新一(著)

2005年5月30日
講談社

1890円(税込)






オリエンタル・カレー
 → http://www.oriental-curry.co.jp/


■BGM

桜のころ

作詞:甲本ヒロト
作曲:坂本隆一

2002年6月12日
ワーナー・ミュージック・ジャパン

1260円(税込)




2006/04/14 (金)  
【絵日記的】

午前5時45分起床。浅草は曇り。
はっきりしない天気が続いている。


昨日は、夕方から映画「ナルニア国物語」をみてきた。
 → http://www.disney.co.jp/movies/narnia/shell_content.html

ベンヤミンの作法にならって「くつろいで」。
ポップコーンをボリボリと食べながらみていた。

ストーリーは面白いとは感じなかった。
だから〈面白い/面白くない〉のバイナリーコードで話せば、「面白くなかった」で終わってしまう。
それじゃ途中で飽きたのか、といえばそうではなく、おしまいまでひきつけられた。

それは、ベンヤミンがいったように、映画というのは、『人間の意識によって浸透された空間に代わって、無意識に浸透された空間が出現』しているからだ。

つまり、映像、CGは素晴らしいと思った。それは、個人的にみる夢が集団的知覚になっている、若しくはその逆に集団的知覚が個人的な知覚になっているようなもので、無意識が総天然色で可視化されているようなものだ。

つまり無意識の衝動、無意識の視覚を体験できる。
その異常心理が、ハッピーエンドで終わることで、私はちゃんと現実に戻ることができる。
家に帰ってから、洋服ダンスに入り込もうなんて思わないわけだ。(笑)


帰りに本屋により、中沢新一氏の『芸術人類学』を購入。

芸術人類学

中沢新一(著)

2006年3月22日
みすず書房

2940円(税込)






まずは短めの、そして私的に興味沸くタイトルである「公共とねじれ」を読んでみた。
この「ねじれ」とは、私たちが使う語彙では「ひねり」のことだ。

『つまり、人と人との間につながりを発生させるのが社会であり、そのような社会的コミュニケーションの実現されて状態を象徴するものが「トーラス」のトポロジーであるならば、人がみずからの限界を超えた「外」の領域との間のコミュニケーションを発生させる通路を象徴するものが、ねじれをはらんだ「メビウスの帯」または「クラインの壷」のトポロジーであり、公共空間が完全なものであるためには、その二つの異質なトポロジーがひとつに連結された空間が設計されなければならない。』(『芸術人類学』,p95)

はい、その通り。(笑)
この指摘は私のIT化論と寸分の違いもない(ことがわかる人は何人いるだろうか?)。

(引用:(『芸術人類学』,p91)


晩酌を寿司屋で軽く済ませ、太巻きをおみやにして、自宅で食べた。

 

導き地蔵にある八重桜は満開。
 

湿気を孕んだ空気のせいか、浅草寺のライトアップがいつもよりきれいにみえた。

  


■参考

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読

多木浩二(著)

2000年6月16日
岩波現代文庫

945円(税込)





ほぼ日刊いとい新聞 - はじめての中沢新一。
 → http://www.1101.com/nakazawa/

2006/04/13 (木)  
【動物化】

午前6時30分起床。浅草は曇り。
本日も遅めの更新。
時間の関係もあり、扱っている内容も広範囲で、相変わらずまとまらない戯言である。


『人間は決して「人間的」な部分だけで生ぎているわけではない。たとえば食物を食べなければ人は死ぬ。どんな建物にもトイレは必要である。そして食堂やトイレをどこに配置するかで、人々の動線はけっこう支配でぎてしまう。』(東浩紀:『自由を考える』,p34)


一昨日もその前の日も、日記の終わりは東浩紀氏の壁のようなものだったわけで、それは「動物化」(東浩紀)として知られているもだ。

古いタイプの「中景」なき世界でも、安心や自由は「まあ、あるでしょう」というご意見。
これは否定できない。ごもっともなものなのである。

動物化は都会でのはなしでしょ、といいたい気分なのだが、公共事業という産業のスポンサー(つまり納税者)は、都会の人たちが多いのだから無視もできない。(笑)
国交省の本丸も都会にあるしねぇ……。(笑)


インターネットが民間に開放された頃は、リバタリアンから見ればそれはユートピアの具現化にみえたはずだ。
そこにあるのは、自己責任的な自由でしかないのだもの。

小室直樹先生(あんまり好きじゃないけれども)はこう言った。

『そこへ突然、一五〇年に一度の資本主義の革命、情報革命が襲来した。これは、資本主義本来の姿に立ち返る革命である。』(『資本主義のための革新』,p2)

(私はまんまとだまされた)

しかしそのユートピアも、住人が増えればいろんなやつはいるわけで、(昨日の)「迷惑メール」や、昨今話題の「情報漏洩」のような問題も起こる。

そこには最初から信頼も、その基底となるソーシャルキャピタルがないのだから、それが自分にとって迷惑だと感じられるなら、当然セキュリティ(安全)はほしいわけだ。

しかしそこでセキュリティとして実際に機能するのは、政府(法律、制度)ではなく、情報技術の実装であることを昨日は書いた。

しかし考えてみれば、情報技術の実装で可能となるセキュリティは、ソーシャルキャピタルの機能等価物にしか過ぎない。つまり、逆に考えれば、ソーシャルキャピタルが機能すればセキュリティは不要なのである。

今や絶滅危惧種だろうけれども、戸締りしないコミュニティはその昔はざらにあったわけだ。つまり「中景」である。たとえそれが『心でっかちな日本人』の産物だとしても、その機能は等価だと私は思う。(だから最近の私は「信頼」じゃなくて「安心」でもいい、と言っている。)

『セキュリティの語源は、配慮や関心を意味するcura(care)に、欠如を意味する接頭辞seが付いたもので、人が安全に安楽に配慮なしに生活することだと。』(大澤真幸:『自由を考える』,p223)


まるでインターネットのような社会」に向けて時代は流れているのは確かだろう。バーチャルとリアルな世界の境界が曖昧になってきている。それを「リバタリアニズムのOS化」とよんでいるわけだけれども、そこでは、中景が機能しなくとも、確かに情報技術の実装で工学的にセキュリティは可能となるだろう。動物化はある。

そこでは、「管理訓練型権力」――人の内面に規範=規律を植え付けよとする権力(つまり中景)――に替わって、「環境管理型権力」(マクドナルド化)が機能する。それは工学的に人間の行動を規制することの可能性だ。

『ジョージ・リッツァという社会学者の『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)が、一九九九年に翻訳され、一部で話題になりました。この本は、マクドナルドの消費者管理の一例としてイスの硬さをあげています。イスが硬ければ、長いあいだそこに座っていられないわけで、客は何となく去っていく。そうやって消費者を回転させている。あと、これは都市伝説かもしれませんが、マクドナルドは込み合ってくるとBGMの音量を上げているとも言われますね。これらはまさに、人間の「動物的」な部分に訴えかけた管理です。』

『テーマパークの設計や都市計画の専門家はそんなことばかり考えていると思うんですが、この「動物的な限界」を、いかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の大きな方向だと思うんです。繰り返しますが、これは従来の価値観からすると、良いとも悪いとも言いがたい。ビッグ・ブラザーが「食事は三〇分で終えろ」と命令する社会と、イスが硬いせいで何となく三〇分で食事を終えてしまう社会と、「管理」という点では同じ効果が起きているわけですが、そのどちらが良いのかはよくわからない。』(東浩紀:『自由を考える』,p34)

このシステムの特徴は、管理訓練型権力と違って、多様な価値観の共存を認めてしまう寛容さを持ち合わせていることだ。なので自分がOSに準拠している限り、その権力の存在はまるで空気のようなものに思える。

権力によって管理はされているのだが、その存在に疑問を感じない。それは、貴方がワードを使おうと一太郎を使おうと、それともテキストエディタ文章を書こうと自由であるということと同じだ。その違いはささいなことでしかないが選択の自由はある。Windowsで動くという限りにおいてはね。

Windowsの比喩が嫌いなら、もっと範囲を広げてしまってもかまわない。ファイルコンバートの情報技術は、貴方がMacを使おうがLinuxを使おうが 全てを等価なDigital Fileにしてしまう。その違いはささいなことでしかない。趣味の問題でしかない。(笑)

しかしこの比喩では、Digitalでなければコミュニケーションできない、というのがミソなのだ。つまり、Digitalである限りにおいては自由なのである。

この「…の限りにおいては自由である」ということ、そしてその制限に疑問がないということがOSなのであり、OSとはインフラのことである。リバタリアニズム的OSというのもインフラである。



このOSでは、工学的な管理や「動物化」が強調されているわけだけれども、その特徴は痛みを伴わない、ってことだろうか。

工学的につくられるセキュリティには殆ど痛みはない。いつのまにかそうなってしまうことでセキュリティなのだ。だから厳密に考えなければ自由は自由として機能する。まったくよく出来ているわね、と感心する。(笑)


私は戦略的には〈OS適応/適応〉の境界あたりを狙っているわけだが、つまりそれは「管理訓練型」と「環境管理型」の境界にある「灰色」なわけだ。

最初にクラスターをつくるとは「管理訓練型」に対応し、ひねりは「環境管理型」OSに対応している。その両義性をもって、「環境管理型」OSの先を行こうとしている。

両義性としての灰色は、〈OS適応/適応〉のバイナリーコードを無理やり色分けするのではない曖昧なものだ。それはいいところもあるし、悪いところもある。OSに完全適応していないので、時々落ちたりもする。しかしそれは古臭いのではなく、むしろOS適応の先にあるものだと思う。

「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」(川俣正)という戦略。


例えば公共事業という産業は、このOSにとっては灰色状態であるべきだと考えている。

公共事業という産業への情報技術の実装の具現化は、いまだにCALS/ECということになるのだろうが、これがあんまり機能していない理由は簡単である。

建設(特に土木)という世界は Digital だけではコミュニケーションが不可能なのだ。

もちろんちゃんとDigitalも使えるが、むしろ Digital じゃない方が複雑性は縮減できたりするわけだ。(笑)
自然を相手にするとき、人間は曖昧さをもっていた方が対応は早い。


しかし対外的にはアカンタビリティの必要性が強調されているのも事実だ。
これは私ら灰色です、って言えない悲しさがある。
なにしろ税金が使われる産業である。納税者からの信頼性は不可欠でなのである。

しかし、その納税者の多くは灰色が読めないときたもんだ。困ったもんだ。(笑)

ではその信頼を得るために公共事業という産業はなにをしたのだろうか。
情報技術を実装したことはした。CALS/ECだ。

それは工学的な「環境管理型権力」(マクドナルド化)が使われているのはたしかだ。しかし公共事業のそれは情報技術だけでは実装できない。

たとえば――電子入札はなんの為にあるのかは意味深なのだけれども――、電子入札という情報技術は、それだけでは機能しない。そこには必ず法や制度がある。

こんなメールをいただいていた。
---------
○○県の総合評価落札方式は、なんと紙入札に戻るようです。正確には、電子入札形式の書類(ダウンロード)を紙で提出するハイブリッド方式なんでしょうか?

・入札の方法
(1) 入札書、工事費内訳書及び総合評価技術提案書は、2(1)の日時及び場所に持参して提出すること。
(2) 入札書及び工事費内訳書は、封筒に入れて封かんすること。封筒の表面には、工事名、工事場所及び入札者の商号又は名称を記載し、入札書在中の旨を朱書すること。
(3) 総合評価技術提案書は、(2)の入札書等とは別の封筒に入れて提出すること。
(4) 入札に関する詳細は、総合評価落札方式条件付一般競争入札心得によること。
---------

これは、重要なのは法や制度であり、情報技術ではないことを端的にあらわしている。本来CALS/ECはアカンタビリティの確保に目が向いていたのだけれども、いつの間にかそれも形骸化しててしまっている。つまり今の公共事業にとってたいして意味はない情報技術になってしまっている。

 国交省のCALS/ECアクションプログラムをみよ!
 → http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/13/130315_.html

ことわっておくが、それを悪いことだとは私は思っていない。
OS灰色地帯というのはこういうことだし、つまり公共事業という産業は、情報技術の実装ではOS適応化はできない、というだけのことだろう。

ただ法制度で環境管理(マクドナルド化)を進めるようとすことは、情報技術の実装とは違った意味を持ってしまう。それは「管理訓練型」OS対応アプリケーソンが、闇雲に環境管理型OSに対応しよとしているようにしか思えない。

つまり私のことばだと「ひねり」がない。
ナイーブ過ぎるのだ。

それは、情報技術によるセキュリティの確保とは違い、痛みを伴う変化となる。

つまり、なんだかわからないけれどもWindowsを使うのではなく、無理やりWindowsで動け!といっているようなものだ。そして動かないやつは退場しなさいと。

品格法や改定独禁法なんかは、まさにその具現例なのだろうが、それは公共事業という産業が機能する社会(つまり地域社会)のコードも読まずに、ただ闇雲にOSに乗せようとしてしているように思える。クラッシュして当然だろう。

今必要なのは灰色を灰色として認識させる技術なのだと思う。
その技術開発を怠ってはいけないということだ。


■参考

リバタリアン→リバタリアニズム 
 → フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

【OS】
 → http://www.momoti.com/myself/self060101.htm#060111
 ※ここで書いたメタレベルでの戦略は半分はあきらめている。(笑)


小室直樹経済ゼミナール 資本主義のための革新

小室直樹(著)

2000年11月1日
日経BP社

2520円(税込)





山岸俊男『心でっかちな日本人』心でっかちな日本人

山岸俊男(著)

2002年2月25日
日本経済新聞社

1470円(税込)





マクドナルド化する社会マクドナルド化する社会

ジョージ リッツア (著)
 George Ritzer (原著)
 正岡 寛司 (翻訳)

1999年5月
早稲田大学出版部

3675円(税込)



アートレスアートレス―マイノリティとしての現代美術

川俣正(著)

2001年5月1日
フィルムアート社

2520円(税込)








2006/04/12 (水)  ▲
【安心と技術と信頼】

私が通常使用しているメールアドレスはso-netのものだ。
ドメイン momoti.comでもアドレスは発行できるが使ってはいない。
使い続けてきたアドレスを変えるのは大仕事になってしまうからだ。
(単に面倒だ、ということだ)(笑)。

so-netのメールサービスには、迷惑メールのフィルタリングがある。
当然無料である。
たぶん今は何処のメールサーバーもこのぐらいはやるだろう。
 

このフィルタリングの精度はよく、私が普段使っているメーラーに迷惑メールが届くことは殆どなくなった。

ただ、迷惑メールはサーバー内で振り分けられているだけなので、サーバー内にはちゃんと残っている。
それに、時々、迷惑じゃないメールにも [meiwaku]のラベリングがおこなわれていることもある。
なので、確認と削除の手間は必要なままではある。

上の図では287KBの迷惑メールが保存されてたままだ。
これが何万通と送信されているかと思うと、花粉症の花粉を想像してしまう――私は花粉症ではないが――。

それに、細い回線を使ってインターネットに接続してきた私のような世代には、迷惑メールはリソースの無駄遣いにしか思えない。

たしかに迷惑メールは迷惑ではある。
が、しかし誤配のシステムでもある。
匿名性や誤配のシステムは民主主義の要である。

インターネットが自由な公共圏であろうとすれば、迷惑メールのような問題は、必然として生じてしまうのだろう。

インターネットは、人間の歴史からみれば、生まれて間もない公共圏でしかない。
そこには今のところ道路使用許可のようなものはないわけだ。

私のIT化論は、インターネットの精神文化への共感から始まったものだが、それは自発性(ボランティア)、草の根(グラスルーツ)、開放系(オープン)への共感である。

つまり(私的には)インターネットの魅力は、その精神文化に支えられた自由にあった。
今考えれば、その自由は自己責任的なものに過ぎないけれども、そしてそこには、ナイーブな問題を孕んでいるのはたしかだが、それを理解した上でも、それは旧来の因習の一部否定による創発の可能性を感じていたたわけだ。(だから私は起業したのだ)。

そして、自由こそインターネットであり、ユーザの自由は守られるべきものだと相変わらず思っている。
しかし、そんな理想とはうらはらに、今やインターネットの自由は、岐路に立たされているのだろうと思う。

自己責任的な自由が機能する公共圏は、(ソーシャルキャピタルがないと)どうしてもフリーライダーの餌食になってしまう。
私自身「迷惑メール」には、かなり辟易してきた。

つまり、インターネットという街路では――昨日のことばでは――ジェイン・ジェコブスが『街路に対する「信頼」』とよんだものが機能していない、のだと思う。
(街路的信頼―ソーシャルキャピタル―を構築するにはあまりにも住人が多くなりすぎた)。(笑)

そこでインターネットが(最低でも――ソーシャルキャピタルとしての「信頼」の構築が難しいとして――)民主主義的な公共圏として機能していくには、手っ取り早くは二つの対策があると思う。

ひとつは法対策。
もうひとつは技術対策。

どちらもユーザの自己責任を離れてしまうことで、インターネットの自己責任的自由を信じる方々からみればアレルギー的反発を感じるものかもしれない。

つまりここでは、〈ユーザに自由を与えるが責任も押し付ける/ユーザの自由は少し制限するが安心して利用できるサービスを提供する〉のバイナリコードが運用者側に働くからだ。

運用者ってだれ?

…という疑問はともかく、おそらく多くのユーザは、インターネットの運用・利用に関しては後者を望むだろう。
私もインターネットと付き合い続けるには、そうした方がよいだろうと単純に思う。

そこで先の二つの対策だが、法はこの世界ではあんまりあてになっていない。
迷惑メールに関しても法律がないわけではないが、ただ前例がないので(笑)、常に問題が起きてからの対策でしかなく後手にまわざるをえないし、国境を越える国際的な法規制は容易ではない。
 → http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2005/05/10/7535.html

つまりここであてに出来るのは技術対策だということになる。
ジェコブス的「信頼」の機能しない世界で、「ユーザの自由は少し制限するが安心して利用できる」、そういう「安心」(山岸俊男のいう「信頼」ではない「安心」)を提供するのは、今や情報技術でしかなくなっている。

行政に任せるよりは数万倍確実だと皆思っているだろう。(笑)

so-netはOP25B(Outbound Port 25 Blocking)を5月から導入予定だし、それに伴うサブミッションポートの提供は既に開始されている。
 → http://www.so-net.ne.jp/corporation/release/2006/060126.html


さて、私たちがここで考えなくてはならないのは、「信頼」の機能しない生活社会において「安心」を得ようとすれば、その「安心」を提供するものは今や「技術」であるということだ。

子を持つ親として気になるのは、ジュニアケータイ市場である。
(うちの子供もケータイを持っている)
その主目的は犯罪防止であろうし、セコムEZのようなサービスは今後増えていくのだと思う。
 → http://www.secom.co.jp/service/cocosecom/human/child.html

つまり、今や工学的に生活社会の「安心」や(行動の)「自由」はつくられていくってことだ。
確かにここでは、旧来の「(日本的)安心社会」は絶滅危惧種化してしまうだろう。

しかし、それがいいこなのか悪いことなのかは分からない。
(だって安心だし自由でもあるんだもの)。(笑)

でもノスタルジッアに浸る必要もないのだと思う。
なぜならジェコブス的「信頼」も工学的なものだからだ。

私のIT化論はそこに可能性をみているということだ。


■参考

財団法人インターネット協会 有害情報対策ポータルサイト ―迷惑メール対策編―
 → http://www.iajapan.org/anti_spam/portal/index.html

【情報の非対称性】
 → ソーシャルキャピタルについての当サイト内検索結果

『信頼の構造』信頼の構造

山岸俊男(著)

1998年5月15日
東京大学出版協会

3360円(税込)





自由を考える自由を考える―9・11以降の現代思想

東 浩紀(著) 大沢正幸(著)

2003年4月30日
日本放送出版協会

1071円(税込)







【未更新】

午前7時20分起床。浅草は雨。

今朝は日記を書く時間が無く、朝の更新をあきらめた。
あきらめたのはよいが、習慣をずらすと脳みそが着火しないのでなにか具合が悪い。
一仕事終えたら更新したい。

2006/04/11 (火)  
【Republic.com―インターネットは民主主義の敵か】

午前7時起床。浅草は雨。

アメリカ大都市の死と生

J・ジェコブス(著)
黒川紀章(訳)

1977年3月1日
鹿島出版会

2310円(税込)





うちの近所は、ジェイン・ジェコブスが『街路に対する「信頼」』とよんだものが機能しているのだろう。うちの息子は学校から帰るとそのまま外へ遊びに出かけ、夕方まで帰ってこないのが常だが、特に心配はない。
ご近所で子供たちと遊んでいる限りは安心である。

浅草は、ホームレスも、外国人も、やくざも、おかまも、職人も、芸人も、その他諸々の人々がいるにしては(というよりも「いる」からだろうが)、まちが安定している。

それはいつも街路(歩道)を見ている人たちがいるということだろう。
街路が公共性をもって機能している。
ご近所の家には塀がないし、町内には信号機もない(車の交通量は少ない)。
もちろん店舗はいつも外を見ている(ジャスコはない)。
見ているといっても監視しているわけではなく、ただ普通に生活しているに過ぎないのだけれども……。

『短い言葉で表わすならば「信頼」ということである。街路に対する「信頼」は何年間にもわたって、おびただしい数にのぼる歩道でのちょっとしたつき合いから形成されてくるのである。「信頼」はバーでピールを飲むために足を止めたり、食料品店のおじさんから話しかけられたり、売店の売子に話しかけたり、パン屋で、買物に来た他の人とパンの品定めをしたり、ソーダ・ポップを飲んでいる男の子たちに「ハロー」と挨拶したり、「夕食の用意ができましたよ」と呼ばれるまで通りを通る女の子たちを眺めていたり、腕白小僧たちをさとしたり、金物屋の主人から商売の話を聞いたり、ドラヅグ・ストアのおやじさんから一ドル借りたり、近所の赤ちゃんをほめたりすることから生れてくるのである。その習慣は多種多様である。』

『このようなことはちょっと見ると一つ一つとてもつまらないことだと思われるかも知れないが、全体を集めてみたらつまらないどころの話ではない。このようなあまり程度の高くない気まぐれな、公共の場での人のいろいろなつき合い――こういった接触は大ていの場合偶発的に見えるが、いろいろな目的があって行なわれ、全部が全部自発的に行なわれるものであって、決して他人によって強制されたものではない――を寄せ集めてみると、公の場の中でお互いが誰なのかがわかるし、社会的な尊敬と信頼のきっかけなり、個人的なよりどころとなると同時に、近隣住区のたよりどころになるのである。街路に対する信頼がないということは街路にとっては一つの災難である。街路に対する信頼を高めることは制度化しえないものである。といっても、街の一人一人の個人に委ねてしまうという意味ではない。』(『アメリカ大都市の死と生』,p68〜69)

都市計画を勉強したことのある方や建築家を生業又は志す方々にとって、ジェコブスの四原則はよく知られたものだろう。

1.都市の街路は必ずせまくて、折れ曲がっていて、一つ一つのブロックが短くなければならない。

2.都市の各地区には、古い建物ができるだけ多く、残っているのが望ましい。まちをつくっている建物が古くて、そのつくり方もさまざまな種類のものがたくさん交ざっている方が住みやすい。

3.都市の多様性、ゾーニングの否定。都市の各地区は必ず2つあるいはそれ以上の働きをするようになっていなければならない。

4.都市の各地区の人口密度が充分高くなるように計画したほうが望ましい。人口密度が高いのは、住居をはじめとして、住んでみて魅力的なまちだということをあらわす。

ジェコブスは、都市のもつ多様性、とりわけ、それまで想像もできず興味もなかった人たちや習わしとの出会いを可能にする公共の場としての都市を高く評価しているのだが、その考え方に、ソースティン・ヴェブレンの影響があるのは、宇沢弘文氏の指摘のとおりだと思う。

つまりリベラルなのだ。そしてそこには共同体性への志向をみることもできる。なぜなら民主主義は広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とするからだが、それがジェコブスのいう魅力的な都市の街路(歩道)にはあるように思える。

このジェコブスの『街路に対する「信頼」』の対極が、「ゲーテッド・コミュニティ」ということになろうか。
 (例えば http://www.tnprobe.com/extra/iga_r3.html を参照)。


インターネットも街路である。

「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである」(チャーチル)ことを認めるなら、インターネットは街路(都市の歩道)でなくてはならないのだと思う。

つまり、それまで想像もできず興味もなかった人たちや習わしとの出会いを可能にする公共の場としてのインターネットである。

それは偶然と誤配の可能性を楽しむことでもある。

私は毎日、このウェブログが誤配されることを楽しみにしている。
誤配は書いた意図が通じない、曲解されてしまう、ということでもあるけれども、それよりも知らない誰かが、これを読んでくれることを楽しむ気もちの方が大きい。

このウェブログはmixiにそのまま複写もしているが、それはマイミクとよばれるコミュニティの方々への配信のためである。誤配を望むものではない。
間違いのない新聞配達や郵便配達のようなものである。

ではmixiは、「ゲーテッド・コミュニティ」ということなのだろうか、という問いは考える価値のあるものだと思う。
そうでもあるようだし、違うようにも思える。
実際に、偶然と誤配の可能性を楽しむこともできるし、閉じたクラスターで、気の合う仲間同士の会話も可能だ。SNSはその両面を持ち合わせいる。

 → http://www.momoti.com/myself/self060103.htm#060125
 → http://www.momoti.com/myself/self060103.htm#060126

たぶんそこで誤配を機能させるのは自分自身の意思の力、情熱ということなのかも知れない。

しかし その情熱は民主主義による「自由」に対する情熱というようなもので、そんな面倒なものに頼らない自由のあり方があるのなら、その情熱も機能しないだろう。

自由に対する情熱なき自由。
つまり動物化ということになるのか……。
ん〜、今日も東浩紀で行き詰まりである。(笑)


■参考文献

インターネットは民主主義の敵か

キャス・サンスティーン (著), Cass Sunstein (原著)
石川幸憲 (翻訳)

2003年11月30日
毎日新聞社

2000円(税込)




coverヴェブレン
宇沢弘文(著)

2000年11月28日
岩波書店

2625円(税込)






動物化するポストモダン動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

東 浩紀(著)

2001年11月20日
講談社

735円(税込)




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