考える技術の組織的実装総論(法大EC’06第4回講座)

共同体性

第4回講座は、「考える技術」の組織的実装について考えてみた。組織的実装とは、例えば「社風」であり、「組織文化」であり、企業のミームをつくりだすことである。それは共同体性(閉じた円環)に如何にキアスムを実装させるのか、ということだ。

それをトポロジー的に考えると、閉じた円環を一端切断してひねるという作業であり、矛盾するものを孕んだものを同居させることであり、これはとても難しそうに思える。(キアスムのトポロジー

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(図:日経サイエンス2006年7月号:p26)

しかし、結論からいえば、我々が日本語で考える限り――つまり日本的な社会システムにいるからこそ――それは可能なのだと(私は)考えている。

トーラスとメビウスの帯のハイブリッドトポロジー

トーラス(円環)とメビウスの帯が連結(ハイブリッド)した状態

講座後に新たにPPTに追加した図(講座前の準備では、この図の存在を忘れており、配布資料には載せることができなかった)。  (図:中沢新一:『芸術人類学』:p91)

これを講座では、「イエの原理」――日本的な(第四象限的な)社会システムを参照しながら、それがトポロジー的には、円環とキアスムのハイブリッドである、と結論付けてみた。

この図は端的にそれを表現しているといえるだろう。つまりこれは、トーラス(円環)とメビウスの帯が連結した状態を表わしている。企業や協会といった共同体にキアスム(考える技術)が実装されている様子である。

これの実現は、トポロジー転換として、一端円環を切断するような荒治療の必要はない――その組織に、日本的な(第世運象限的)社会システムが働いているのなら、という条件においてだが――ことを示している。

なぜなら、日本語で考える私たちは――近代化先進国から見れば、未熟な社会であり、未成熟な個人であるかもしれないが、そもそもがバイロジックであるからだ。

近代化

マックス・ウエーバー流にいえば、近代化は合理化の過程である。それは全体性を求める心の断念であり、脱呪術化である――しかしそれは、「合理性の追求の呪術化」(ノベルト・ボルツ)でしかない。合理性の追求は非合理性(というか不条理)に収斂する――。

マクドナルド化

今回はその理解に「マクドナルド化」を参照した。

マクドナルド化と日本

G・リッツア&丸山哲央(編集)
2003年11月30日
ミネルヴァ書房
3675円(税込)


マクドナルド化」(ジョージ・リッツア)は、合理化の過程として理解されているが、私たちが注目するのはむしろ、合理化の行き着いた先にあるディズニーランド化とでもいうべき、非合理性非日常性の存在である。

それは「楽しさ」とでもいえるものだが、今や「楽しさ」は、経営における一つの重要なファクター(コア)である。

ではその非合理性や非日常性は何処から生まれてくるのだろうか。今回はそれを芸術性に求め、「芸術は呪術だ」という岡本太郎の言葉を援用し、インターネット社会の第3象限――グローバル性に置いた。

そしてそれを生み出しているものが、インターネット社会では、”どぼん”である第4象限――共同体性、合理性で云えば実践合理性――であることを示した。

GC空間 合理性と非合理性の4象限 

つまりわれわれの視点はいまや――「楽しさ」というような非合理性の母体としての――第4象限に対してのものとなる。つまり、「楽しさ」というような非合理性の母体としての共同体性とは如何なるものか、ということである――それが今回のテーマであった。

それを「トーラス(円環)とメビウスの帯が連結(ハイブリッド)した状態」として理解したのである。さらに、このハイブリッドな共同体を、「共同体の原理」(農業共同体)と「公界の原理」(組合)にデコードし、それぞれの特徴から「イエの原理」をみるとにした。それは共同体性がどうしても農業共同体的なものであるという思い込み(象徴)の一部否のためである。

今回は、それに時枝文法や、江戸時代における商業や工業の発展の概観を加え、組織的実装に必要なこと――つまり、日本語で自己言及することの環境を準備すること――を示した。

以上が概要であるが、今回はやや脱線的な説明をしてしまい――例えば、西欧的な〈公共性/私〉と日本的な〈公/私〉の違い等――予定していたものを消化しきれなかった。

次回は最終回でもあるので、補習の開催も含め、対応を考えようと思う。