「経済成長は、もういらない」は(一部)「街的」である。

投稿日:

午前6時40分起床。浅草はくもり。

経済成長はもういらない

経済成長は、もういらない ゼロ成長でも幸せな国

佐藤典司
2006年9月11日
PHP研究所
1,400円+税


この本は、今回の移動中に読んでいたのもので、題名はどこか硬い印象だし、扱う範囲はじっさいとても広いのだけれども、やさしい文体とことば遣いで、とても読みやすく感じた。なによりも文章がうまいなと思う。

経済合理性だけなら街は潰れる

広範囲を扱うこの本は一部「街的」でもある。例えばこんな按配にだ。

町やひとつの都市を象徴するのは、ランドマークとなる高い塔や市庁舎ばかりではない。むしろ、その町で評判のレストランや、喫茶店という場合も少ないくない。なぜなら、そこに暮らし、集う人々の気持ちが、一番出やすいのが、そういった場所だからだ。がさつな町には、がさつな店しかない。お金のことばかり考えている街は、そこかしこがギラギラしている。(p37)

これは「街は店に宿る」ことであり、なぜ私が「浅草的」を書くのに、たべものばかりを書いているかの一つの回答のようなものだ。

脱線するが、私のサイトを「くいものばかりですね」という方が時々おられる。それは地方の若い経営者に多いのだが、そのことばには、あきらかにこの「たべものサイト」を蔑む気持ちが見て取れる。

私は笑って、「そのようなものでございますね」としか答えないのだが、彼らの合理性志向からすれば、このサイトなんぞは、ただ無駄なもの(非合理性)の羅列にしか見えないのだろう。

非道理性と合理性ただ私は――彼らの多くが地域再生にかかわりながらも(JCとかね)――地域―街(パトリ)がなにものかを知らないことを不幸だと思っている。

彼らにとっての地域再生は経済合理に沿った再生なのだろう。けれども、経済合理性だけであったからこそ「街」は潰れてしまうのである。なぜ理解できないのあろうか、と思う。

パトリを知らない若者たち

つまりパトリを知らない人達が、地域再生の主役にならざるを得ないこの国の現状こそが、地方の不幸なのだろうな、と(最近は富みに)感じている。そして地方は日増しに疲弊していく。

経済合理性だけなら、パトリ(第4象限)は消滅してしまうことを知らないのは、不幸なことだ。だがしかし、経済合理性を象徴として抱く者に何を言っても通じないと(私は)思っている。

しかしそれはあきらめを意味しているわけではない。行動経済学がいうように、世の中には経済合理性で動く人もいれば、そうでない人もいる、というだけのことで、私は経済合理性だけでない方々に期待を寄せている。

そして(私は)、経済合理性を象徴界に抱き続けられる人々は(経済合理性が覆い被ったような日本では逆に)減っているのじゃないのだうかとも考えている。

レンタルショップにしろ、コンビニにしろ、日本社会はこの二〇年間、ひとが出会わなくても動くシステム――より正確に言えば、たとえ物理的にひと(店員や客)に出会っても、それを人格同士の「出会い」と意識しないで済むシステムを整備してきた。コンビニやファミレスでは、何回同じ店員と顔を合わせても決して知り合いにならない。そこには独特の匿名性がある。(東浩紀:『郵便的不安たち#』:p258)

つながりたい

こんな世の中だからこそ、人びとは経済合理性――つまりお金だけ――では得られないものを欲望するのだろう。それを端的にいえば「つながりたいという気持ち」――匿名ではなく名前のある関係――なのだと(私は)思う。(mixiの繁栄はある程度それを具現化している)。

そして私が(この反公共事業の時代に)公共事業という産業とかかわり続けているのは、この関係の構築に、地域の建設業は寄与できると考えているからで――公共性=経済合理性だけではないという意味で――、(私的には)この本は、公共事業という産業にかかわる皆さんにも是非一読していただきたい本なのである。

本書の提案である「文化」「自然」「美」「時間」については別に書きたい。