どぼん、若しくは宮崎県知事が辞意表明し宮崎県警が週内にも強制捜査へのりだすことについて。

これで談合がらみでは今年3人目の知事の辞任。

宮崎県知事が辞意表明県警、週内に強制捜査へ

宮崎県の官製談合事件で県議会の不信任決議を受けた安藤忠恕知事(65)は3日、県庁内で記者会見し「県政混乱の責任は重大。職を辞することで混乱の長期化を避けたい」と述べ、辞意を表明。4日付の辞職願を議長あてに提出した。談合事件への関与は全面的に否定し「今後も身の潔白を主張していく」と述べた。福島、和歌山両県に続き、談合事件が知事の辞任に発展した。/不信任決議を受けた知事が辞職したのは1976年の岐阜県知事以来、2人目。 /宮崎県警は3日、別の談合容疑で県環境森林部長の税所篤三郎容疑者(58)を逮捕。これまでに出納長ら県幹部4人が談合容疑で逮捕されており、県警は県幹部の供述などから安藤知事の関与は濃厚と判断、週内に強制捜査に乗り出す方針。(引用:Chunichi Web Press ) 

福島、和歌山、宮崎と続いている、この談合事件がらみの騒動は、世間的には、単なる〈善/悪〉という二分コードによる悪の糾弾でしかないだろう。

しかし、私的には公共事業という産業が基盤にしていた(というようりも日本人がその生活の基底としてきた)、贈与的共同体システムの破壊の顕在化、若しくは開発主義終焉の痛みだと考えている。

(あまり報道されていないので目立たないが、市の単位での同様な事件は、眩暈がするほど、ある)。

そしてこの痛みの多くは、結局は、地方の建設業界で、そして地方で、働き、生活している方々にしわ寄せされてしまう。

知事(や市長)や、贈収賄の当事者がどうなろうが、それは知ったことではない――自業自得である、というか私はそういうヒエラルキー・ソリューションは絶対に「どぼん」となるから、別のシステムで動かなければならないと主張してきた(そのおかげで大いに嫌われてきたのだが……)――。

問題は公共事業という産業で、そして地方で働く人々、生活する人々なのである。しかしその視点は世間にはない――つまり一蓮托生だと思われている――。

06041802.jpgそれは(私が)第四象限(つまりパトリのこと)とよんでいる、贈与の原理を基底とした、共同体システム(生活)の崩壊である。(これが「どぼん」の最大の問題点だ)。

たしかに贈収賄はよいわけはない。それは法の名のもとで罰せられてしかるべきだろう。

しかし今回の連続した騒動で、決定的にわれわれが失うものはなにかと考えてみればよい。それは「悪」ではないだろう。ましてや「善」を得ることもできないことに気づくだろう。

われわれが失うのは、この世のどんなつまらないもののなかにも、かならずなにかのかたちをした「理」があり、この世は数え切れないほどの「理」でできている、というわれわれ日本人がもっていた感性なのだと(私は)思う。(談合とはそんな「理」をもった贈与のシステムであった)。

12月9日の「街的」セミナー in 大阪では、江さんと、こんな視点で、街的(つまりパトリである)を、時間の許す限り話し合いたいと思っている。