[店主戯言00202 2002/02/01〜2002/02/28 "There goes talkin' MOMO"

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2002/02/28 (木)  
【構造不況への錯覚】

桃知@ANK 329 福岡(0925) - 新潟(1055) 特割 予約番号0113である(笑)。
得割でも28,500円もするのよ。。。

昨日の小郡での講演は,約1時間しか時間がなくって,しょうがないのでミーム理論からみた経済取引と言う話に絞って行った。
その後の懇親会で,あるお方から最大級のおほめの言葉をいただいたのだ。

『あんたになら,だまされてもええと思ったわ』

ぎょ!私は一瞬鳥肌が立った。
若い女性にそういわれるのならまだしも,なんでこんな油ギッシュなおやじに。。。

最近はまっている橋本治の『「わからない」という方法』(集英社新書,2001年4月22日)に,「構造不況への錯覚」についての記述があった。

構造不況は,「もうこの業種は儲からない」という種類の不況であって,「もうこの業種はいらない」ではない。かつてのような利潤は期待できなくとも,必要なものは必要なのだ。

高度成長の時代,日本は「必要だから」という理由で多くの会社を生んだ。「必要だから」というのは,いささかウソのまじった美しい表現で,「絶対に儲かるから」という理由で,多くの会社が同業種の中に増殖した。-そのことによって,業界の規模が膨れ上がった。それは建設業界だけではない。高度成長という一時的な異常事態の中で,業界の規模ばかりが膨れ上がって,しかしその「必要」は去る。必要な業種は必要だが,しかし,一つの業界にそれほど多くの会社はもう必要ではないのである。

構造不況とはそういうものだが,しかし,多くの人間は誤解していた。誤解するのも当然で,多くの人間は,会社というものに依存して生きている。「業界に存続理由はあっても,我が社に存在理由はない」というのは,いたって飲み込みにくい事実だからだ。そこで,構造不況と同時に,快夫者の存続を賭けて「異業種への参入」という事態が起こる。「あっちの業種はまだ儲かりそうだから,ウチもそれをやろう」である。企業というものは,利潤追求を本来とするものだから,それをやるのも仕方のないことではあるが,それをしてある変化が起こる。つまり,本業の退廃である。「これは儲からない」で,会社が本業に対して熱心な目を向けなくなる。だから,その業種事態は相変わらず必要であるにもかかわらず,そこに退廃が起こって,なんとなく,「もう不要な業種」という錯覚が起こってしまうのである。構造不況における大錯覚とは,これである。

橋本治は,「桃知利男」,そして今は懐かしい,「The pinkhip World 」という,このサイトの最初の名前の生みの親である。
つまり,彼の作品の「桃尻娘」からイマジネーションをいただいている。

彼は私よりもちょうど10歳年上で,経済学者ではなく,東大文学部国文科を卒業した作家様だけれども,時代を見つめる目は経済学者の比じゃないことは明らかなのね(彼に勝る時代の目を持つ経済学者を私は知らない)。

『「必要だから」というのは,いささかウソのまじった美しい表現で』とか,『高度成長という一時的な異常事態』なんていうフレーズは経済学者には絶対に書けやしないのよね。

ということで,まもなく着陸態勢だ。
機体の揺れも激しい。。。新潟空港でこれをアップする予定だ。

2002/02/27 (水)  
【お釜天国】

桃知@博多である。

まず,昨日の訂正から。
松雪康子(誤)→松雪泰子

ご指摘mail二通。まずはタロサさま。
ども。タロサ@似非哲学者←ただのミーハーです。(爆)

松雪康子さまご夫妻。康子でなく、泰子が正解だと思います。

欽ちゃん走りでダイエットしてましたでしょうか?(笑)

そして賢賢さま。
PS.どうでもいいことですけど・・・
  店主戯言2002/02/26 松雪康子→松雪泰子だったような気がします。

あんたら詳しいな。。。同じような体型して。。。★\(^^;

さて,昨日の私といえば,一日中機嫌がよかったわけだ。
もう,MLでもちゃんと返事は書くしね,なに言われても,なにが起きてもニコニコしていた。

こんな日は年に一度の特異日みたいなもので,そうめったにあるもんではない。

なので,ちゃんと田吾作でふぐも食べられた。
あんみつ姫でお釜さまと遊ぶことができた。

それも久保島さんと一緒にね。
神様に感謝しよう。

そして,こんな歌を歌っていた。

おかま,おかま,おかま,おかまと遊ぶと
あたま,あたま,あたま,あたまがよくなる(?) →歌え!「お魚天国」のメロディーで。

で,私の幸せは昨日で燃え尽きてしまったようだ。
今日は朝から幸先が悪いのだ。

。。。。今日のメルマ占い。

●総合運 60点
なかなかタイミングの合わない運気です。今日のあなたは、すこし嫌だな
あ、と思っても、やりたいことを思いきってやるべきです。いままでやり
たくても、なかなか踏み切ることのできなかったことは、迷いを捨てて、
飛びこんでみましょう。状況が変わることをあなたはあまり好まないよう
ですが、今日は新たなものにチャレンジをすると、現状を打破できるよう
です。やりたいと思ったことは大抵、できるときなので、がんばってくだ
さい。

●恋愛運 99点
充実したあなたの時間の使い方こそが、今日の最高の運勢を呼んでくるで
しょう。最高の運勢を導いています。なにするにせよ、あなたが思う方向
へと進んで行くように感じるでしょう。

●仕事運 68点
ちょっと気苦労の多い運気です。今日のあなたは、やることなすこと裏目
に出て、動けば動くほど、どつぼにはまるような一日となるでしょう。や
らなければならないことは、いつもの倍以上の労力を要します。

一挙に気分が重くなる。。。なぁ。

2002/02/26 (蚊)  
【博多着】

桃知@博多である。
福岡行きの飛行機,私のシートの後ろは松雪康子さまご夫妻+お子供さまであった。

このお子様,なかなかにぎやかなお方で,私の大切な睡眠時間は大幅にカットされたわけだが,まあ,いいだろう。
子供は元気な方が宜しいのだ。

って,私はこれが書きたかっただけだ(ミーハーっていうんだろう,こういうのって)。
今日はふぐとお釜が待っている。うふふふ,なのね。



【お出かけ前に】

■今日の予定

今日は福岡まで飛んでいって,夜は久しぶりに久保島さんご一家と「田吾作さん」でふぐを食べる予定だ。
本当は昨年末に通販で食べる予定が入院のため食べられなかったわけで,そのリベンジである。

二次会は「あんみつ姫」(しかし,ここのアドレスはすごいなぁ)で,お釜さんたちからパワーをいただいてくるぞ。

つまり,今回の博多は全く仕事はなし(福岡では改めて4月19日に講演会がある予定)で,明日の小郡での講演と28日の新潟への移動の便を考えると福岡を基点に動くのがベストだと考えたわけだわね。

■歯が痛いということ

ところで,私の歯医者通いは,現在,歯石の除去と虫歯にキャップ作業が主なのだが,昨日は久しぶりに麻酔をかけられて歯をギューンと削られた。この擬音は,うぃ〜〜んでもいいんだが,なんかね。。。

麻酔が切れるとそれなりに痛い。そして歯石の除去作業っていうのが,これも恐ろしい作業なわけで,歯茎と歯の間に道具(刃物だわね)を入れてがりがりと歯石を削るわけで,歯茎はめくれて痛いし,血も出るわ。。。なのでつまり,今も痛い。

■信頼という概念の分類への試行

信頼という概念の分類は村上泰亮+山岸俊男という手法を試行している。

山岸俊男は信頼を次の二つに分類する(『信頼の構造』,1998年5月15日,東京大学出版会,35頁)。

1・相手の能力に対する期待としての信頼
2・相手の意図に対する期待としての信頼

1は例えば今日私はふぐ料理を食べるのだが,そのときのふぐを調理する板前さんに対する信頼。
2は夫は浮気をしてはいないと信じている妻の場合だ。この場合,夫に浮気をする能力がないと考えているわけではないものね。

例えば原子力発電所に対する住民の不安を考えてみよう。近くに原子力発電所が建設されるという計画が発表されれば,住民はその安全性について不安を感じるだろう。それに対して,電力会社や政府は原子力発電所の安全性のPRを行い,原子力発電所には何重にも安全装置が設定されており,住民が放射能にさらされる危険が存在しないことを説得しようとする。この場合,電力会社や政府は,問題は原子力発電所の「能力」であり,住民の不安は原子力発電所の「能力」に対する不信に基づくものであると考えている。(山岸,1998,36頁)

つまり,これが「1・相手の能力に対する期待としての信頼」次元の話。

これに対して,電力会社や政府がいくら安全性をPRしても,住民の不安はあまり低下しない場合が多い。これは住民には電力会社や政府の「意図」に対する不信があって,電力会社や政府は本当のことを住民には知らせないだろうと思っているからである。(山岸,同)

つまり,これが「2・相手の意図に対する期待としての信頼」次元の話。

信頼をこのように分割することは,我々がミーム理論をもってIT化を考えるときに大切な示唆を与えてくれる。
それは,この二つの信頼に対する錯誤は結果として次のような結果を生み出すからだ。このことは公共工事についてもあてはまるんだわね。

この場合,電力会社や政府は,問題は原子力発電所の「能力」であり,住民の不安は原子力発電所の「能力」に対する不信にもとづくものであると考えている。
これに対して,電力会社や政府がいくら安全性をPRしても,住民の不安はあまり低下しない場合が多い。これは,住民には電力会社や政府の「意図」に対する不信があって,電力会社や政府は本当のことを住民には知らせないだろうと思っているからである。電力会社に対する信頼を,電力会社の側では「能力」の問題だと考えているのに対して,住民側では「意図」の問題としてとらえているいるような場合には,電力会社による安全性のPR活動は,ほとんど効果をもたないものになってしまうだろう。

で,これを村上泰亮の情報の相互作用に例えればこう(↓)なるのかなと。。。

1・第一種の情報的相互作用,超越論的な枝の情報→1・相手の能力に対する期待としての信頼
2・第二種の情報的相互作用,解釈学的な蔓の情報→2・相手の意図に対する期待としての信頼

つまり,1・相手の能力に対する期待としての信頼は,第一種の情報的相互作用を基本とし超越論的な枝の情報を多く含み,2・相手の意図に対する期待としての信頼は,第二種の情報的相互作用を基本とし解釈学的な蔓の情報を多く含有する。といえるのではないか,と言うこと。

なんでこんな阿保みたいなことを考えているかっていえば,私は建設業のIT化っていうのは顧客との信頼の構築ツールだと考えているわけで,例えば建設CALS/ECさえもその文脈上に存在するわけだ。

この信頼の構築っていうのを,信頼の「能力」(機能って言ってもよい)の面からだけ進めているのが昨今の建設行政だとしか思えないわけだ(なのでやたらと決まりごとが多くなる,そして「能力」の押し付けは建設業界にだけ向けられる)。

しかし,その「能力」とは,それは例えばふぐを調理する板前さんの免許のよううなものであり,うまいのかまずいのか,なにか心に残るような料理なのか,またこの板前さんの料理を食べたいと思うのか,といった次元とは別な話であることに気がつくべきなのだ。

つまり,能力は「市場参入条件」にしか過ぎない(ぞしてこの参入条件のハードルは恐ろしく低い。何故低いのかは,一連の開発主義の議論で既に述べた)。

例えば,建設屋さんが受注した工事を工期内にきちんと仕上げてくれるだろう,という信頼は,私がいう「狭義の技術のミーム」(建設業許可・技術職員数・ISO9000&etc.)によって担保されるわけだ。それはふぐを調理する板前さんの免許のようにである。さらに,内向きな努力(コストダウン・リストラ等々)さえも「能力」の範疇であろう(逆にコストダウンは品質とのトレードオフから不信を招くかもしれない)。

じゃ,建設業における「2・第二種の情報的相互作用,解釈学的な蔓の情報→2・相手の意図に対する期待としての信頼」とは何かと言うことなんだな。これが,広義の技術のミームであることを説明できるようにしなくちゃいけないわけだ。が,今日はやらない。(笑)

2002/02/25 (月)  
【タロサ帝国の憂鬱の憂鬱】

「タロサ帝国の憂鬱」を読んでいたら,ピクミンネタに反応してくれて以下のような話があった。

 で、これが我らが建設業にぴったり当てはまるというのが、俺の師匠である桃知さんの意見である。

 確かに。。。

 建設業はお役所に献身的に仕え、お役所を守るために戦い、そして今、食べられて死のうとしている。あぁ、俺たちはピクミンだったのである。

さすがは,「発注者はお役所論者」のタロサ。
タロサにとっての「あなた」はやっぱり「お役所」だったわけね。

私は(↓)のようにのたまったわけだ。
つまり,ピグミンは建設屋さんだ。そして「あなた」はなんでもいい,あなたが思い浮かぶ「あなた」を入れて見ればいいのだ。

例えば,お役所,政治家,納税者,国民。。。あなたが思いつく顧客をそこに入れてみればいいのだな。
私なら「市場原理」と読み替えるが。。。

これはいいテストかもしれないなぁ,と思ったのだ。
あなたはピクミン,あなたにとっての「あなた」は誰?

そして,タロサ帝国の本当の憂鬱はこれかな(↓)。
流行とは望んでも手に入らないから流行るのであって、愛に満ちた世界では愛の歌などは流行らないのだ。

哲学者タロサの言うことは半分正しい。
流行とは手に入りそうだから流行るのである。

そして,信頼のミームは,みんなが信頼できる社会では必要とされないのだわ。
逆説的には,だから信頼は大切なの。だから愛は大切なの。

そして建設業再生のキーワードはこれなんだと思う。



【頼みもしないのにミームは今日も飛び回る(まるでスギ花粉のようにね)】

さて今週も,今日も他人(ひと)のふんどしシリーズではじめましょう。

おひさしぶりです。
○○○@ムネオハウスの近所です。(^^;;

先週、○○工務店で有名な中標津に吉川さん&長谷川さんがいらっしゃって桃知ミームの伝承をしていただきました。

桃知さんの生ミームを聞く機会がなかなかありませんが吉川さんのお話もとてもわかりやすく、私としてはもう少し聞かせて欲しいと思わせる内容でした。
ミームのお話と同時に空知建協さんの活動もお聞きして「動き出してる」のだなぁ、と大変参考になりました。

ミームを自分の言葉として理解するには時間がかかると思いますが、吉川さんからミームの概念を非常にわかりやすく教えていただきました。

きっと、おいで下さった吉川さんが一番感じていたことと思いますが、この地域の建設業のミームは「ムネオのミーム」と感じたはずです。(あの人が居れば何とかしてくれるというミーム)

上手く言い表せられないのですが、この地域独特の依存と依頼のミームが、切っては切れない鎖のように絡まっているのだと感じます。

最近(いや、以前からの自分を取り巻く身近な環境もそうです)思うのですが、北海道というところは「悪いミーム」の培養地なのではないかと・・。

最近のムネオ騒動に始まり、雪印グループ、サッポロビール(ビール園で前日の残留物を翌日に混ぜて飲ませていたという
あれです。)
狂牛病責任に潔くない武部農水相(ムネオの事言っていられるのかと失笑してしまいます。)
民事再生法のそうご電器もがけっぷちのエアドゥも・・・

そういう北海道から脱却するには、こつこつ小さな事からでも良いミームを生み出していかなければなりませんね。

話題は変わりますが、

「愛の歌」、嫌いじゃありませんけど、結構えげつない歌だなぁと思います。
ゲームの主人公(ピクミン)は、実体は「北海道ミン」だったりして・・・。

「明日があるさ」という歌が昨年ヒットしましたが、あれは前向きな歌なのか、諦めの歌なのかわかりませんね。
私はあれが嫌いな歌です。

「お魚天国」の歌も連呼で訴える「ポリンキー」(お菓子)のCMソング、「だんご3兄弟」の焼きまわしっぽいですが、狂牛病のおかげもあって追い風になってるようですね。
実際、私も買い物に行ってあの歌がかかってると思わず口づさんでますし。

昨日、札幌への移動中、片道6.5時間の車内で古いカセットを聞きながら替え歌を考えてしまいました。

その歌は「飾りじゃないのよ涙は」

サビのところから・・・。

仕事は(が)CALSじゃないのよ はっはー
「コア」だといってるじゃないの ほっほー
ミームがあるのか御社は はっはー
逃げ切るだけならいいけど ちょっと悲しすぎるのCALSは おおおー

これを井上陽水で聞いたという人は明らかに40代以上。
中森明菜だったら40代以下・・・。
という私は中森明菜と同じ歳。

すいません、こういうゴ(ミ)ミームを明日事務所で振りまくのでしょう(笑)

#失礼しました。m(_._)m

それで,在北海道ミーム散布隊からのメール。
(↓)までくると,例えばウルトラマンのAタイプとBタイプとの区別がつくのと同じようなものなのかな,と笑っておりました。

吉川です。

珍しく「PPTの感想」を広く求められいたので
私も以前頂いていたVer5.4と5.8を自分の視点で比較してみました。

大きな違いは
●「広義のミーム」のわかりやすい説明として「エンドユーザーが車を選ぶ理由」を3枚も足されているところですね。
これは非常にわかりやすい!
ついでに「怪しげな中国娘が出てくるとなおgood」だったかもしれませんね。(笑)

●それから、「開発主義」の最初の説明としての入門概説が2枚削除されています。

これはつまり、「市場」へのアプローチを「時代変化」から「環境変化」へ求め替えられている処から来ていると
考えます。

「CALSはぼったくりバーである」というテーマに関しては依然として解答がありませんね。
これは「参加者」への特典なのでしょうかね?(笑)

それより、なにより(桃知さんのもとめられているPPTへの率直な感想から離れてしまいますが・・・・)
徹底した細かいディテールへのプロとしてのこだわりに感動しました。
たとえば

@各ゼネコン社長の念頭挨拶のまとめを
V5.4「時代変化に対応・・・」→V5.8「環境変化に対応・・・」

Aポスト工業社会への解説として
V5.4ではふれていなかった「80年代バブルの日本」を
「国民総脳軟化症の時代」と切って捨てるフレーズを追加

B各PPTに簡単なタイトルを全て追加
V5.4では一部タイトルなしのページがありましたが、
一般公開用に全てのページにタイトルが加えられました。

いや、変わった点を探して喜んでいるわけではなく解説用のPPTが常に「生きている(変化している)」事が驚きですなのですよ。
レジュメのPPTがいつも変化していることは気づいていたつもりでしたが、こんなにもきめ細かく修正されていたとは!

「スギ花粉の用にミームを振りまきに行こう!」といつも言っておられますが、この「ミーム」はやばいですね。
このように細かく日々進化しているので!(笑)
これからも、師匠の「ミーム」の変化に敏感にならなくては!

と、あそんでないで「GB」の勉強にもどります!
つかの間でしょうが、どうぞゆっくりお休み下さい。

なんの,私は全然休んでいないのだよ。
昨日は一日中栃木建協さんのイントラの設定と勉強会の準備に費やされたわけだ。疲れたわ。

今日は午前中は肛門科と歯科へ行ってくる(この黄金の組み合わせは,いつまで続くのだろうか?)。
その後はもの凄くアナログな仕事をデジタルを使ってやらなくてはならない(これは秘密)。

明日は福岡に飛ぶ(謎)。
27日は山口県建築士事務所協会さんで講演(小郡)。これは岐阜の向井会長とご一緒。

そう,問題は28日の新潟講演ってことだわ。
なので福岡なの(わかった?)。

2002/02/24 (日)  
【お知らせ】

昨日は岐阜からの帰り,久しぶりに四谷の後楽によって帰ってきた。
ビール4本。冷酒1本。お鮨はたくさん。。。

で,相当に疲れていたらしく,帰ってみたらばったんQ〜で寝ちまったと。
なので,目覚めは相当に早く午前3時。それからずっと仕事。。。又寝なおさなくてはならない。

■中小建設業IT化概論(5.8版)

さて,出版予定原稿のアウトラインをパワーポイントで作っているのだけれどもね,その5.8版(ってたいした意味はなくて,個人的なバージョン管理の番号なのだな)をダウンロードできるようにしました。

興味のある方は,是非読んで(というより動かしてみて)ください。
そしてご感想をいただければ,嬉しいです。

(↓)のURLからダウンロードしてくださいな。
http://briefcase.yahoo.co.jp/cd4sonet/
「桃知の宝箱」ホルダ内のBDD5_8.zip

■2月28日の新潟でのセミナー

それから,2月28日に私は新潟で(社)新潟電設業協会と(社)新潟空調衛生協会の両技術委員会様主催の技術フォーラムで,80分だけですが講演を行います。ここでは,ミーム理論(さわりだけですが)から見た中小建設業におけるIT化の話をする予定です。
新潟近辺の方でどうしても私のミーム理論を聞きたいと言う方は,今回主催者様のお計らいで限定10名様(正確には8名様なの,先約お二方あり)の部外者枠をいただきましたのでご検討ください。
場所は新潟テルサ,時間は13:30から,参加費は2000円です。
詳しくは私までメールをください。

では,一人で風呂に入って寝るとしましょう。

2002/02/23 (土)  
【うどん食べたい】

桃知@岐阜なのである。本日も昨日に続いて朝から内藤建設さんでイントラネットの研修。
つまり,ミームのプールの勉強会なのだった。なので今日も朝から忙しい(お風呂も入らないといけないし,チェックアウトの準備もしないといけないし,荷物を送る準備もしなくちゃいけないし,,朝ごはんもたべなくちゃいけない。。。そして,お迎えは8時20分)。

と言うことで,今日も他人のふんどし(吉川さんからのメール)。
>今日もミームは飛び回る(まるでスギ花粉のようにね)。
>→本当はこれは反則なんだけれどもね。
すみません、ごの部分の「真意」がよくわかりません。
「良いミームを意識して、自ら振りまかねばいけない」と
言う風に受け止めたのですが・・・・

うふふ。。。。なのだわねぇ。
まあ,太田ジオさん曰く,(↓)ってことだよ。

ももさんの戦略は、「意図的に」に加えて「排他的に」「他が真似したくなくなるように」というのも同梱されてますが。
でも競争ってのはそういうもんですからね。
そのえげつなさが気に入ってるわけですから、ますます磨きをかけてくださいね。
詳しくは2月15日参照

そして,うどん星人2号から生存確認メールだ。
→先日うどん星人2号と紹介したのは元祖うどん星人だった,。。。ごめんよ,うどん星人。。。

さて、数日前の店主戯言に、うどん星人2号からのメールが紹介されていましたが、
あれは「元祖うどん星人」さんのほうですね。文章がどことなくチャーミングですもの。

そういう私「うどん星人2号」は、18日に徳島入りし、初体験の徳島ラーメンを駆け
つけ2杯たべて、その晩香川入り。
翌19日の朝から昼までの間に、丸亀市を中心に、さぬきうどんの店を4軒ほど回って
から大阪に入り、
一仕事のあと昨日20日は冬の京都をちょっとだけ寄り道お散歩して、最終の新幹線で
家に戻ってきました。

わずか3時間の京都滞在ですが、冬の特別公開で茶室などを見てきました。
東山で人力車を多くみかけました。というか、身近な鎌倉や浅草でも照れくさくて乗
った事も無かったのですが、歩き疲れていてつい、ふらりと乗ってしまいました。
いや、驚きました!
単に学生がアルバイトで引いているくらいだろうと思ったら、それなりに職人気質な俥夫。
余裕のある時間と目的地をいうと、さっと最適なコースを出してきました。
しかもたった15分の中に、それなりに素人では気づかない見せ場(ViewPoint)か
ら、名物料理屋の話、そしてちょっとした世間話の中からこちらの業界、興味まで読
みとって、それに関わる建物のエピソードなども漏れなく。

到着すれば、すぐさま領収書。その領収書、下にはハガキがついていて、今日のった
感想を後で返せるようになっています。「冬」バージョンのステッカーもくれ、春夏
秋冬4枚を集めるとオリジナル景品まであるのだとか。リピーター確保の対策も万全。
妙に座席が暖かいなと思ったら、下にはホカロンが忍ばせてありました。
些細な事からでも差別化をはからないと、生き残っていけない商売、さすがだと思います。
それに比べたら......ああ、言うまい、です(^x^)

(ざっくり)

その際は、うどん菌によって以前よりかなり膨張しておりますので目を縦に細めてみ
てください。

ふとmemeと打っていて、「momo」さんが「meme」を語るのに因縁を感じました。
そのうち「mama」や「mimi」「mumu」といった新たなミームちゃんが、桃知さんによ
って創造されるのではないかと期待しています。
どうぞこれからも「毒」をたくさん振りまいて、あちこちに中毒者を増やしてください。
「院内感染」で一気に.......といいのもいいかもしれませんね。
そのためにも、どうぞお体をお大事に.....

とりとめのない内容で失礼しました。
おくればせながらのお見舞いと快気お祝い(一緒(笑))でした。

うどん星人2号も元気そうでなによりだぞ。あいかわらずのうどん娘のようだ。
うどん菌によって以前よりかなり膨張しておりますので

。。。なによりである。「うどん娘」で興行でも打とうかね。
主題歌は(↓)だ。

うどん,うどん,うどん,うどんを食べると
頭,頭,頭,頭がよくなる。

うどん,うどん,うどん,うどんを食べると
体,体,体,体が膨らむ。

最近流行ってるらしい「お魚天国」の替え歌にしてみた。。。くだらんな,やっぱし。

2002/02/22 (金)  ▲
【愛の大目玉】

桃知@岐阜である。今朝は忙しいのでチョコットだけ(得意の,他人のふんどしで相撲を取るである)。

愛の大目玉、私も興味深く読んでおります。
いつも難解な言語をちりばめて我々を翻弄しつづける、田中流の挑
戦であるのかもしれません。

端からレッセ・フェールを唱える政治は,責任回避以外の何者でも
ありません。福祉・医療,環境,教育,雇用,産業4項目への傾注
投資が平成14年度当初予算案の柱たる所以です。

SPA!は田中さんのミームプールのひとつなんですね。

でも予算云々の顛末は、公共投資をあれだけ断わり、部下をナデ切
りにしたから必然的にそうなったんじゃないかな。
端からレッセ・フェール云々は気ままな公私混同という意味合いを
含めて田中さん、あんたのことだよ。

でもそれは田中さんが長野県知事という立場に飽きてや〜めた、と
いっても戻る流れではすでにない、なぜなら田中ミームは形を変え
て増殖するから。
知事のストレスからアトピーが酷くなっても、何度も入院するのは
ひょっとして任期途中で…なんてことになってももちろん同じ。
すでに「TANAKAという冠というか着ぐるみ」が別の呼び方のものに
なっても、そのミームはすでにいくつものミームを飲み込んでより
強いミームに変貌して一人歩きしているのだ、きっと。
う〜む、ミームおそるべし、ですね。

でもこの強烈なミームは私のミームとまったく相容れないものでは
ないはずです。
かりに私が抵抗勢力であったにしてもです。
そうなると田中ミームに勝てるミームを持って消費のミームを取り
込めない限り明日はない、というより逆に田中ミームの毒性の少な
い部分を取り込むことを考えなくてはならないでしょう。

横須賀方式は別名「毒饅頭方式」…食って死ぬか、食わずに死ぬか
であり、最低制限価格がくじ引きで決まるという凄まじい方式であ
るようですね。
勉強しまっせ、頑張りまっせ、、いちばん札でも運がなければ未来
永劫、失格しつづける業者もでるこの方法には疑念を感じます。
問題は横須賀市があまりに先行して、まわりの市町村では旧態依然
の入札を(たぶん)しているということ。
他の市町村の業者にとっては宝くじですものね。おいしい、おいしい。

余計なことですが、尾道→岐阜→東京→岐阜と移動した人と、岐阜
→尾道→東京→岐阜と移り住んだ人は言葉使いで区別が可能なんだ
そうです。

昨日の横須賀の二世会の件で個人宛に来たメールはこれだけ。
だけどもこの面白さ! ○さん,ありがとうございます。

でもこの強烈なミームは私のミームとまったく相容れないものでは
ないはずです。
かりに私が抵抗勢力であったにしてもです。
そうなると田中ミームに勝てるミームを持って消費のミームを取り
込めない限り明日はない、というより逆に田中ミームの毒性の少な
い部分を取り込むことを考えなくてはならないでしょう。

この(↑)フレーズは(二世会じゃなくて田中ミームのほうですが)私が期待していた意見でもあります。

まあ,二世会さんのHPの件は,いろいろな方が自らのサイトで意見を述べているので,私の当初の目論見は成功したといえましょう(謎)。

今日もミームは飛び回る(まるでスギ花粉のようにね)。→本当はこれは反則なんだけれどもね。

2002/02/21 (木)  
【田中康夫ミーム】

桃知@のぞみ9号で大阪へ向かっている最中である。
今日は大阪の鹿島建設関西支店さんで,鹿島関西事業協同組合・青年部会合同研修会での講演の仕事だ。

さて,新幹線の中で何をしようとしているのかというと,(↓)の戯言にも引用した田中康夫長野県知事の発言をメモろうとしているわけだ。

つまり,多くの建設屋さんの勝手な思い込みで作り上げたCALSにおける電子入札や電子納品等といった技術的な問題なんて,市場の主義の変化の前では,どうでもいいことなんだ,ということを改めてはっきりとさせておかなくてはならない,ってことだわ。では,早速はじめましょう。

以下はSPA!2002年2月26日号,146頁に掲載されている『田中康夫の愛の大目玉』というコラムからの転載である。

真の公共投資はカンフル剤に非ず。
2項対立を超えたケインズ主義を
小泉改革が指向する,よりアメリカ型の個人競争中心社会,市場中心主義社会,優勝劣敗社会,リスク・テイカーにより 大きなチャンスが与えられる社会は日本に相応しいのか,と立花隆氏は月刊「現代」で疑問を呈し,社会主義的な平等制・公平性・公正性の要素と日本の伝統的国民性を合体した40年体制の長所と,資本主義経済が有する活力と自由の精神を結合せねば,未来は望めないと慨嘆します。

日本という社会が不幸なのは,デフレ・スパイラル回避すべく今こそジョン・M・ケインズに学べ,と声高に語る抵抗勢力とやらの景気刺激政策も,所詮は周回遅れの"異訳”にほかならぬ点です。財政拡張や公共投資がケインズ政策,との捉え方は浅薄です。

構造改革と景気対策は二律背反ではなく,凡そ普段は僕と意見を異にする佐伯啓思氏の言を珍しく借りれば,将来に掛けて社会を安定させ,経済活動の確かな基盤を作り出す為に不可欠な活動こそが公共政策なのです。

詰まりはカンフル剤的な公共事業という名の景気対策は最早意味を持たず,万sね意的な長期デフレ不況だった20年代にケインズが鋭くも唱えた公共投資も実は,資本を政府が公共的に管理し,将来のイギリス経済の土台を作るべく,生活のアメニティや都市の設計の為に用いてこそ,アメリカへの資本逃避を防止し得る,との理論だったのです。

"異訳”としての迷走するショウ・ザ・フラッグではなく,実体のある判り易さを兼ね備えたショウ・ザ・ドリームを長野県に於ける改革から全国へ,と繰り返し申し上げる真意も,この点に存します。目指すべき社会像を政治が示してこそ,市場は投資意欲を掻き立てられるものです。

端からレッセ・フェールを唱える政治は,責任回避以外の何者でもありません。福祉・医療,環境,教育,雇用,産業4項目への傾注投資が平成14年度当初予算案の柱たる所以です。

私は田中氏のこの考え方を70%は支持できる。いつのまにこんな理論武装が出来たのだろうかと。。。笑ってしまった。(笑)
つまり,長野県の建設業界の皆様,皆様が仮に抵抗勢力だとすれば,この田中康夫ミームに勝てるミームを持って消費のミームを取り込めない限り,田中知事には勝てないってことだけは確かだわね。

ということで名古屋でアップロードだ。


【官僚制多元主義のジレンマ】

表題は今はまっている青木昌彦先生の造語であるが,偶然なのか?私が参加している二つのネットで,この言葉を思わざるをえないようなサイトがが同時に紹介されていた。

横須賀建設二世会
http://www.y-kniseikai.gr.jp/

さて,このサイトの話をする前に,私の立場を明らかにしておこう。
それはまず,私はいわゆる横須賀市方式の電子入札制度を肯定する立場にはないということ(それは,例えば私の昨日の戯言とか,最近の講演を聞いている方は理解されているだろう)。

そして,ミームの培地であるインターネットにおいて,彼らが自らのミームをネット上におき,市民社会とのコミットメントを行おう,とすることに対しては肯定的な見方をしている,ということだ。

このことを前提に理解いただいて,横須賀市の若き建設業経営者の方々の気持ちを逆なでするかもしれないが,このサイトの取り組みをミーム理論から考察してみたい。

まず,この二世会の目的を彼らはこう語る。
私たち建設業者の多くは官公庁から発注される工事で生活の糧を得てきました。それ故、私たちの心は官公庁に向いていたようです。
今ここで「本当に我々に工事を発注しているのは誰なのか」を認識し、過去の多くの反省に立って、今後 我々が市民の皆様にどのようにしたら理解していただけるのか、また どのようにしてお役に立てるのかを考え、行動して行きたいと考えています。

これは,公共工事の真の発注者が官ではなく,あくまでも市民社会であるとの理解に基づき,市民社会へのコミットメントを意識したものと理解することができるだろう。その部分はまったく正しい。私は【いまさら顧客の問題】でこう(↓)書いている。たぶん,この文脈を一番よく理解できる方々がこの会の方々なのかもしれない。

そのような意識(今の私の言葉で言えば「(業界)ミーム」である)に対して,現在,公共工事は「ダメ」というレッテルを貼られているのではないか?というのが私の視座である。つまり,問題は,この「公共事業はダメ」というレッテルを貼るのは誰なのか?という問題なのだ。それは少なくとも発注者ではないだろう(スティグリッツの定理を考えて欲しい)。それは,間違いなく市民であり納税者である。つまり公共工事に対する消費のミームの存在,そのミームの保持者の存在を意識する必要があるだろうということである。

→この問題を役所と建設業界がITを活用して問題解決するものが「CALS/EC」でなくてはならない,と私はいっているわけだ。

でも私の持っている長波の視座は,実はそんなこともたいした問題にはしていないのだ。私は将来的には,公共工事の(発注・管理という事務的な意味での)発注者さえも「官」ではなくなるのではないだろうか(特に自治体の工事),と考えている。例えば,それはNPOとかNGOかもしれないし,町内会かもしれない。何がしかの第三者機関かもしれない。つまり必ず市民社会の逆襲があると考えている。戦後日本が捨てた福祉国家の三本柱の一つが市民社会に他ならないわけで,その復活にしかポスト工業社会における我々の自由を担保できるもの(平等と自由雇用のトレードオフの調整機能)はないであろう,と考えているわけだ。

そして地場型中小建設業,自治体発注の公共工事は市民社会の文脈の中に存在するものとなる,と私は考えているわけで,じゃなかったら,なにもたかだか中小企業の経営を考えているだけのこのサイトで福祉国家の考え方や,比較制度論的な考え方を持ち込むこともないのだわ,ということである。

結論を言えば,地場型中小建設業が今はじめなくてはならないことは,市民社会(町民でも村民でも県民でも国民でも何でもいい。)といかにコミットメントするのか,と言う努力だろう。生き残れるのはそれが出来た企業でしかない,というのが私の結論になると考えている(というのはまだそこまで考察が及んでいないからだな)。

さて,今回の話しを理解するには,まずミーム理論の基礎を理解していただく必要がある。それは経済取引が大きく分けて二つの情報の交換(exchange)であるということだ。

その二つの情報とは,
・価格と量の情報
・経験と解釈と信頼の情報,である。

→下記の図を参照。
 →市場ってなんだろう。
 →市場を形成する二つのミーム(技術のミームと消費のミーム)

ミーム理論から見る横須賀市方式というのは,信頼のミーム(つまり経験と解釈と信頼の情報)の欠如故のものである,と言えようが,それも下記の図を参照して理化して欲しい。
 →今までの公共事業。
 →信頼の情報が欠落するとどうなるのか。

つまり,横須賀市方式が生まれた発端とは,業界自体が持っていたミーム(業界のミーム)が,消費のミームの信頼(支持)を失った,ということになる。

しかし,この理解さえも実は片手落ちであり,業界のミームというよりは公共工事システム(公共工事複合体:公共工事にかかる既得権益を構成するすべての方々)の持っているミームが消費のミームの信頼を失っている,と理解するのがが正しい,と考える。

つまり,今の状況は公共工事にかかるすべての関係者が自らから作り出したものだと,いえなくもないということだ。
それは,解決策は自らが変るしかない,ということだ。それは,建設屋さんもお役所も政治家もである。

 →このような視座は,ミーム理論において非常に興味深い仮説を我々に与えてくれる。
  →自らのミームは自己崩壊のミームを内在している,という仮説。
  →つまり,横須賀市の状況は日本全国,どこの地場型中小建設業もその危機を内在している,という仮説。
  →そして,自らのミームが自己崩壊のミームを内在しているとすれば,その崩壊の危機への対応とは己自身の変革にしかない,という仮説。

問題はその信頼が欠如した消費のミームの持ち主(つまり顧客だ)は誰なのか?ということに他ならない。
それを彼らは自らの経験を持ってこういうのだ。

『今後 我々が市民の皆様にどのようにしたら理解していただけるのか、また どのようにしてお役に立てるのかを考え、行動して行きたいと考えています。』と。

→この理解はまったく正しい。というのが私の理解である。
→そして彼ら(建設屋さん)だけでなく,この視点を持たなくてならないのは発注者としての横須賀市であり,すべての公共工事にかかる方々なのだ。

ただ,これに対して私はこういうしかない。(昨日の戯言より)
私は正直言うとだ,今始めても既に手遅れかもしれないって思っている。それが本音なわけだ。
例えば昨日私は藤沢にいたのだけれども,藤沢市もすでに電子入札(制限付き一般競争入札,つまり横須賀市方式だ)に向けて動き出しているし,先週滞在していた新潟の長岡市も電子入札(制限付き一般競争入札,つまり横須賀市方式)に向けて動いている。

これはどの自治体(市レベル)に行っても聞こえてくる,若しくは実際に動き出している事実で,例えば松阪市(三重県)や三条市(新潟県)となると,電子入札なし!の制限付き一般競争入札(つまり横須賀市方式−電子入札)が動き出している。

これは国交省のCALSとは別の文脈で動いていることに注意しなくてはならない,ってずっと私は言っていたわけで,実は地場型中小建設業が直面する最初の危機というのは,これなのだよ。つまり公共建設市場の市場化。

みんな気が付くのが遅すぎるし,これに対して何の対策ももてない(今日も運ぶ 戦う 増える そして食べられる)。
ただ闇雲に反対するだけ,というのが落ちで,そこに政治家とかなんかを引っ張り出してくるのが関の山なのだ。

結果的に,それはお役所と建設業界の溝を深めるだけで,お役所さまは益々態度を硬化するだけだろう。

つまり,一度失った信頼のミームを回復することは非常な困難を伴うということだ(一連の雪印の経緯を見よ!)。
そして信頼回復の作業は,建設業者だけの仕事ではなく,それは官の仕事でもあるということだ。

→ただし,それを価格の情報だけをメトリックにするようなやり方は官の責任逃れにしかならない。
→田中康夫氏が珍しく(?)いいことを言っている。『端からレッセ・フェールを唱える政治は,責任回避以外の何者でもありません。』(SPA!2002年2月26日号,146頁)長野県知事もなかなかいいことを言っているじゃないか。

それから,気になることは,彼らが横須賀市方式への対立概念としている国交省のCALSだが,それを甘く見てはいけない,ということだ。
それについては【CALSはぼったくりバーである】に書いたところなのでよく読んでいただきたい。ただ,これについてはいろいろとメールをいただいてはいるが,皆さんの理解は今一甘いなぁ,というのが正直な感想なのである。(これは確かに上級者編なのだ)

→一言付け加えればCALSっていうのはレーガノミックスが生んだ生産技術なのだよ。
→つまり,これは思想として市場原理を内在しているということだ。
→もっと具体的に書けば,横須賀市方式よりも地場型中小建設業に対する影響は大きくなる,ということだ。

参考までに以下のURLを紹介しておく。
http://www.dokokyo.or.jp/kikanshibk/kikanshi0108/tokusyu1.htm
ついでに私の講演用PPTを1枚。敵は官公需法らしい。

と,ここまで書けばとミーム理論で私が何を言おうとしているのかがご理解いただけただろうか?
それは,我々は今何をしなくてはならないのかということを考える作業だ。

そしてそれは,『集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する』という命題への己の変革作業なわけだ。
→ついでに書くが,昨日の鈴木宗男氏の悲惨さは,『集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する』という典型事例だと理解している。

と言うところで,以下のようなメールをいただいていた。
昨日の【愛の歌】ネタである。

2/20付け店主戯言拝見しました

愛の歌。私きらいです

あの中のピクミン=中小地場建設業(建設コンサルも入っているかも)とするなら
“きっと食べられたことさえ分からず死んでいくのかも”とふと思いました

うちの会社で電子納品の話が出て、何とかしなきゃねえと話が出てきて
思わず言ってしまいました
「煙突は危ないよと言葉で言っても分からない。煙突に手を押し付けてやけどをさせないと
その煙突は危ないと分からない。そんな人しかおらんのでないかい??うちの会社」
それを聞いていたうちの上司はまあまあと言っておりましたが・・・

これってうちの会社だけの話じゃないと思うんですよ
別に電子納品がどうとかいうことではなく。すべてにおいて

技術は天から降ってくる、情報は天から降ってくる
絶望的な受け身体質
なんかそんな雰囲気がこの業界を覆っているような気がして・・・
(うちの会社だけですかね?)

だからきっと食べられて胃液に漬かって激痛が体を走るとき
「ああ、食べられたんだああ 外でなきゃあ」
と思いながら消化されるのかも・・・

桃知さんはどう思いますか?

どう思うってね,ほとんどの皆さんは市場原理という消化液で半分は溶けていますよ,っていうのが私の答えだろうな。

と,いきまいたところで(笑),私はこれから大阪へ。
仕事が終われば岐阜へ向かい,本日は岐阜泊である。(貧乏暇なし,ってやつだわけれども,貧乏暇あり,よりはいいのだろうか?)

2002/02/20 (水)  
【早速訂正】

師匠、ピグミンじゃないっすよ。

ピクミンです。濁点はつかない。

綴りは「PIKMIN」です。

タロサでした。

そうか。俺たちはピクミンだったのか。。。

タロサありがとう。


【愛の歌】

昨晩は,横浜の端っこからTAXIで帰ってきた。1時間10分ぐらい。JRより絶対に早いのだ。
その代わり,時間を金で買うような真似をしたわけだからその代償は大きいわけだ。(ToT)/~~~お金

(今頃になって)ずっと気になっていた歌のことを書いてみる。
そう例のピグミンだよ。
ぼくたちピクミンあなただけについていく
 今日も運ぶ 戦う 増える そして食べられる
 いろんな命が生きているこの星で
 今日も運ぶ 戦う 増える そして食べられる

ひっこぬかれて たたかって 食べられて
 でも 私達 愛してくれとは言わないよ
 ひっこぬかれて たたかって 食べられて
 でも 私達 あなたに従い つくします

すでに皆様はお気付きであろうが,なんか地場型中小建設業のテーマソングみたいだなぁと思ったわけである。
つまり,ピグミンは建設屋さんだ。そして「あなた」はなんでもいい,あなたが思い浮かぶ「あなた」を入れて見ればいいのだ。

例えば,お役所,政治家,納税者,国民。。。あなたが思いつく顧客をそこに入れてみればいいのだな。
私なら「市場原理」と読み替えるが。。。

しかし,残酷な歌だと思わないかい。なんでこれが「愛の歌」で,なぜヒットしているのだろうか。
そういう空気が時代を覆いつくしているのだなぁ,とつくづく思うのだ。こんな時代がいい時代なのかね?

さて,大阪でやらかした一日中桃知漬け講義の感想が届いていましたのでご紹介。
まずは,お題は「ファンレター」。

はじめまして。

1月末の京都3連戦、お疲れ様でした。
亀岡で初めてナマで拝見し、
次の日の舞鶴もいきました。
会場で「私のホームページ見たことある人?」
という質問があって、
私も手を挙げたのですが、
真正面に座っていたにもかかわらず
見事カウントからもれていたようです。

そして、18日(きのう)の大阪もお疲れ様でした。
それも行ってました。

とにかく面白かったです。

それと、最後の「今始めろ」という言葉が
かなり響きました。(聞きなれてるはずなんやけど?)

まず手始めにセンセにメール出してみます。

これからもがんばってくだはい
ということで終わります。

もう一つ。
○○県の○○です。
昨日の大阪でのセミナー有難うございました。
かねてより、桃知さんのお話を聞きたいと思っておりました。
桃知さんの強力なミームを受けて「よしやるぞ!!」と思いました。
頑張りますのでご指導よろしくお願い致します。
まずは、御礼まで。

私は正直言うとだ,今始めても既に手遅れかもしれないって思っている。それが本音なわけだ。
例えば昨日私は藤沢にいたのだけれども,藤沢市もすでに電子入札(制限付き一般競争入札,つまり横須賀市方式だ)に向けて動き出しているし,先週滞在していた新潟の長岡市も電子入札(制限付き一般競争入札,つまり横須賀市方式)に向けて動いている。

これはどの自治体(市レベル)に行っても聞こえてくる,若しくは実際に動き出している事実で,例えば松阪市(三重県)や三条市(新潟県)となると,電子入札なし!の制限付き一般競争入札(つまり横須賀市方式−電子入札)が動き出している。

これは国交省のCALSとは別の文脈で動いていることに注意しなくてはならない,ってずっと私は言っていたわけで,実は地場型中小建設業が直面する最初の危機というのは,これなのだよ。つまり公共建設市場の市場化。

みんな気が付くのが遅すぎるし,これに対して何の対策ももてない(今日も運ぶ 戦う 増える そして食べられる)。
ただ闇雲に反対するだけ,というのが落ちで,そこに政治家とかなんかを引っ張り出してくるのが関の山なのだ。

結果的に,それはお役所と建設業界の溝を深めるだけで,お役所さまは益々態度を硬化するだけだろう。
と言う話を私はミーム理論を使って説明していたのだな。

だからこそ,岐阜県の行っている建設CALS/ECというのは貴重なわけ。
今日も某県の建協さんが郡上建協さんを訪問するようだけれども,上っ面だけでなく,そこに通っている精神を是非理解して欲しい。

それは,公共工事の発注者としてのお役所と受注者としての建設屋さんが,ともにコミットメントすべきは誰なのか,という問題なわけだ。(答えは地域住民,地域社会)

公共工事においては,発注者としてのお役所も受注者としての建設屋さんも所詮同じ穴のなんとかなのだ。IT化におけるデスクローズを利用しながら,共に「信頼」を得る作業を私は建設CALS/ECと位置づけているわけで,その信頼を得なくてはならない相手は誰かという問題を無視したら,(今日も運ぶ 戦う 増える そして食べられる)だけなんだろうと思う。

つまり,建設CALS/ECは市民社会とのコミットメントのための道具なのだ!
しかし,これをずーっと声だかに言い続けてきても,ミーム理論でそれこそ理論整然と説明しても,どれだけの方々がそれに気が付いてくれているのかと思うと,わたしゃ泣きたい気分になるんだよ。

だからわたしゃこう開き直るしかない。
私の関与先だけ生き残るね!って。この市場原理万能の世の中に食べられないように,ってね。

で,次のファンレターだな。
 昨日は、どうもありがとうございました。
こんなに有益な講演を無料で聴かせていただいていいのかな?
と思いつつ、充実した時間を過ごさせていただきました。

 ただし、あまりに内容が濃いのでまだまだ未消化の部分も多くありますが、
とりあえず、「ミーム」理論の一端は理解できたつもりです。

 私は社内の情報化をまとめている立場ですが、昨年の一連のウィルス騒ぎで、
ややセキュリティ重視に視点が移りすぎていたのを、再度オープン化に軸足を
戻すべきだと痛感いたしました。

 また、今後積極的なIT投資を具申していくに当たっても、「受注を増やす為の
道具にするのだ。」というお話を聞き、意を強くいたしました。

次に受講のチャンスがあれば、是非参加したいと思っております。
今後ともよろしくお願い致します。

そうIT化は仕事を確保する道具なのだ。
昨日紹介した西部の言葉を再引証すると,
ITが「新機軸」をもたらすというのが過(あやま)てる楽観論であることについては本欄ですでに指摘した。つづめていえば,ITという「情報の機械」は未来が「確率計算可能なリスク(危険)」としてとらえられるかぎりで機能するにすぎず,「確率計算不能なクライシス(危機)」としての未来には「人間の組織」によって対応するほかないということである。

この文脈では,この危機を乗り越えるのは「人間の組織」によって対応するほかないということだ。
つまりIT化は「人間の組織力」のためのものである。その「人間の組織力」を私は社風と呼び,組織の持っている「技術のミーム」って呼んでいるわけ。

この文脈を理解しないと,私の言っているIT化は絶対に理解できないし,御社のIT化投資は「溺れるものはわらをも掴む」の「わら」にしかならない。つまり,沈んでいくだけだ。

2002/02/19 (火)  
【ミームは今日も飛び回る(まるでスギ花粉のようにね)】

東京駅午後11:23分着の「のぞみ」で大阪から帰る。自宅には12時ちょっと過ぎに到着だ。昨日は一日中喋り捲っていたわけで,さすがの私も少々ばて気味なのだわ。参加の皆さんもご苦労さまでした。

さて,唐突にだ(これもメモである),西部邁氏曰く。
「改革」における最大の疑問点,それは市場(あるいは民間)活力を市場化(あるいは民営化)だけで高めることができるのか,ということである。経済学説史の上で市場活力について本格的に論じたのは,ただ一人,シュムペーターである。彼のいわゆるノイエ・コンビナツィオン(新結合あるいは新機軸,あるいはイノヴェーションつまり革新)の内容は,「新商品,新技術,新原材料,新販路そして新組織」の五項目からなる。それにもとづいていえば,そうした五項目にかんsぬる「新しい実態的企画」が自由化によって民間から陸続と生まれてくるかどうかということである。
ITが「新機軸」をもたらすというのが過(あやま)てる楽観論であることについては本欄ですでに指摘した。つづめていえば,ITという「情報の機械」は未来が「確率計算可能なリスク(危険)」としてとらえられるかぎりで機能するにすぎず,「確率計算不能なクライシス(危機)」としての未来には「人間の組織」によって対応するほかないということである。
(Voice2002年3月号,234頁)

私は決して西部を全面的に支持する立場にはないが,彼のいう上記の太字の部分は,まったく正しい,と言わざるをえない。
そして私の主張するIT化とは上記の文脈に収斂する。

例えば,手段的情報化(あえて情報化と書く)である,表計算,ワープロ,原価管理,CAD等々(ついでに電子入札や電子納品も)は,今建設業界が抱える諸問題の解決策にはならない,それらは仕事があるという期待を前提としてはじめて機能するだけである。つまりITという「情報の機械」は未来が「確率計算可能なリスク(危険)」としてとらえられるかぎりで機能するにすぎない。

しかし,今建設業界,公共工事が抱える問題はなにか。それは仕事が減っていく,仕事がないという状態がいつまで続くのか,その状況がどこまで深刻になるのか「確率計算不能なクライシス(危機))としての未来」なのであり,そこには「人間の組織」によって対応するほかないというのが私の現在の結論であり,私のIT化へのアプローチとは,そのための(つまり「人間の組織」のための)IT化を考察しているに過ぎない,ということだ。

こんな投稿の引用はいかがだろうか。
いつものA木さま。
 きょう2つのセミナーを取材ではしごしました。
○○○教授が登場した○建協セミナーと、○主催の受注力強化セミナー。
や〜あ、物足りない。100年周期の産業革命に突入しているの
に、従来型の経営コンサルタント手法で勝ち残り戦略を導けるのでしょうか?
 「それができないから苦労してるんじゃないか」という視点がまるでない。
「そんなに脅してどうすんの?」が印象でした。脅すわりには「解答」が
一般的で、これは罪が重い。。
 ただ、○○○サンの話は「実行予算が会社をつぶす」「業界の聖域が現場代理人
だ」という言葉には納得。。。。

そして一人風呂さま。
敬愛なる桃知大痔主様へ!
12日の上級者セミナーを体験してから、私し一人風呂は大変迷っています。
だんだん背中が桃色に染まってきています。
以前から私は○○○教の熱心な信者だったのですが、桃色教にいや
桃知教に私の頭脳が占領されつつ有ります。
これは、桃知教祖のミームが私に伝播しつつある証拠ですね。
北海道の建設業界には○○○教の信者が結構多いはずですが、
そのうち桃知教に駆逐されるかもしれません。
なんとか私の理性の中で○○○教と桃知教の両立を図ってみたいと
思います。
追伸  お持ちの不動産大事にしてください!

そう,ミームは今日も飛び回る。まるでスギ花粉のようにね。

2002/02/18 (月)  
【覚書】

大阪で目覚める。早起きしてオリンピックの複合を見ていたが残念な結果。
かつての日本の強さを知っているだけに,なにか今の経済状況とラップしていて寂しい。

今朝の今回の書き込みはメモの作業(要するに忘れないためのメモ,それをここに書いてどーすんだ,という意見もあるだろうが,ここは私自身のメモなのよ)。
Voice3月号の小浜逸郎氏のコラム『「対話」はどこへ行った』から。

考えてみれば,他人への「知らん顔」は,日本人の得意技だったともいえる。不特定多数の集まる場所では相手を人とはみなさず,相互に「沈黙」と「無行動」が守られることを秩序が維持されている状態とみなして,その空気に過剰に安住し,よほどのことがなければ腰をあげようとしない。そのくせ,オープンな飲み屋などでは,まわりの迷惑もお構いなしに身内同士だけで「イッキ飲み」などのバカ騒ぎで盛り上がる。「ヒャクショーの心性」は変っていないのである。永らく事をあら立てずに済んできたというこの国の社会的現実が,そうした「慣れの意識」を助長したのだろう。
「対話」への踏み込みは,たしかに状況次第でそうとうの勇気を要するし,それが成果を上げる見込みも少ない。しかし,人生どちらに転んでもたいしたことはない,という腹をくくった覚悟をお互いにもう少し日々の実践に生かそうではないか。それは時代が要請しているように思える。

これは,(↓)に書いた『集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する』につながるんだろうな,と思う。



【信頼のフレーム】

大阪行きの「のぞみ」の中でビールを飲みながら,これを書いている(つまり,書いているのは2月17日なのだ)。
本日18日(つまり本当は明日だ)は,朝から講義があるので忙しいのだよ。

そうそう,講義のネタばらしをしておかなくてはなりませんな。
http://www.yoi-kensetsu.com/keieikakusin/sem_it.html

私の話が朝から晩まで聞けて,そのうえ授業料は全額国庫補助。
ミーム理論から,現在私がもだえ苦しんでいる「信頼のフレーム」理論まで聞けるかも?。
その上実践事例まで。。。盛りだくさんなのである。

世の中には,アンビリーバブルなモノが存在する。これもその一つだろう。
おかげさまで満員御礼のようですが,これで定員(25名)が埋まらなかったら,わたしゃこの仕事はやめたほうがよいってことだわね。(笑)

さて,ミームばやりの昨今,勝手に話が一人歩きして拡散しないうちに書いておかなくてはならないものがある。
つまり,私がミーム理論を持ち出して描き出そうとしたものは,地場型中小建設業における技術のミームであり,それは経営学ではコア・コンピタンスとか呼ばれものである,と理解していただければよいわけだ。

そして,その技術のミームを「狭義の技術のミーム」と「広義の技術のミーム」に区別し,狭義の技術ミーム(例えば建設業許可,技術者や重機の保有数,ISOの取得状況,等々は(建設と言う技術の複製の容易さと,官主導による技術的平準化のため)個々の建設企業を特徴付ける(つまり差別化の)要因としては機能的な限界がある(二義的なものである)ことを指摘した。

それはすなわち,個々の建設企業を特徴付けるものは何か,ということを結果的にだが強調するものとなる。
つまりそれ(個々の建設企業を特徴付けるもの)とは「広義の技術のミーム」に他ならないわけだね。

→(参考)こんな絵でわかるかな?

ここで言う「広義の技術のミーム」を,私は「信頼とか信用とかいうような,なんだかよくわからないけれども,とても大切なもの」という表現をし,2月14日の【芝田山親方曰く】で書いたコピー機の話しを例としてあげた。

しかし,このような比喩さえも「信頼」については曖昧なイメージ表現としてしか存在していないだろう。
つまり,私は「広義の技術ミーム」を企業が持っている「信頼」とほぼ同義に使っているが,この「信頼」という言葉さえも,あまりにも漠然とした概念であり,ここがミーム理論の限界だろう,とは思うのだ。

さらに,このメトリック(ミーム)はメトリックであって解決手段じゃないと私が強調するのはなぜだろう。
それは,このミーム理論の行き着く先が日本的経営の賛美に陥りやすいからである。それは結果的に組織的な経済取引・慣習を正当化することになってしまうだろう。

しかし,今地場型中小建設業が直面してる問題とは,今までの組織的な経済取引・慣習が持つミームが消費のミームを掴み切れていない,という事実なのである。ミーム理論はその問題を明らかにするためのメトリックでしかない。

そこでだ,問題は「信頼の質」と言う問題なのだ。
なので,今後しばらくは,我々(つまり,私とあなただね)は「信頼」というものを考える作業をすることになるだろう。

「信頼」,この漠然としたものの正体を探る作業を通して,我々は地場型中小建設業の存在意義とそのコア・コンピタンスをより鮮明に描き出すことができると考えている。そして,当然にIT化はコア・コンピタンスの最大化の過程として存在する。ということだ。

それで,そんな面倒なことを何からはじめればいいんだ,と皆さん悩むだろう。そこで,ここでは,ある一つのメッセージをめぐっての考察というアプローチをとろう。

それは,『集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する』である。(山岸俊男,『信頼の構造』,1998年5月15日,東京大学出版会)

ここではアカロフの「レモンの市場」の話しとかね,当然にゲームアプローチ,進化ゲームアプローチもありなのでね,その辺も一緒に理解してしまおう。つまりだ,この作業によって,先に我々が「広義の技術ミーム」と呼んだものが,自他による共進化的な形成過程を持つことを確認できるだろうし,それは環境のパラメータに左右される。その過程こそが地場型中小建設業の経営なのだと私は思うのだわ。

と言うことで,教科書は,当然に山岸俊男,『信頼の構造』,1998年5月15日,東京大学出版会,だよ〜ん。
って,えびす缶ビール2本(350ml×2)完飲。で,まだまだ大阪には着かないじょ。

2002/02/17 (日)  
【クレームのお話し】

12日に空知でやらかした講演の感想。I岡さんありがとう。

12日の岩見沢講演お疲れ様でした。
あの後、私は、すぐに北海道の最北端のすぐ下である幌延町の現場へと向かいました。
返事が遅くなりました。

ミームのお話を生で聞かせてもらいましたが、かなりの衝撃を受けました。
遺伝子→文化子→企業経営戦略とつながるなんて・・・
お話の中で、クレーム対応にまつわる部分がありましたが、1月にISO2000年版移行のための講習会の話の中でおもしろい記事がありましたので紹介します。
ただ、詳しい出所がわかりませんが、ある文献にあったそうです。(OHPに映し出されたものを、書き写してきました。)

クレームについての話

アメリカのある調査

1)その製品やサービスについて不満を持っているお客様のうち実際に苦情を言う人は4%だけで他の96%は無言である。
2)期待を裏切られたお客様は、1人の人が8〜16人の人に言いふらす(5人に1人は20人以上に言う)。
3)期待を裏切られたお客様のうち91%は、二度とその会社の製品やサー ビスを買わなくなる。
4)苦情について会社が誠意をもって解決する努力をした場合は、苦情を言ったお客様の82〜95%は、それまでの関係を続行する。
5)不満・苦情が解決され、満足に転じたお客様は、5人の人にその満足 について話す。
6)1人の新しいお客様を開拓するコストは、従来のお客様を維持するコストに比べて5倍も高くつく。

クレーム対応の良さが、いいミームを振りまくということを聞いたとき、この記事の内容を思い浮かべてしまいました。
この調査からいくと、○○さんの方針はいいところをついていますね。
○○さんが、アンケートで困っている部分というのは、上記1)の96%が無言の部分ではないでしょうか?

それでは、次回3月の御来道を楽しみにしております。

よい理解だと思う。このクレーム話はミーム理論で経済取引を考えた時の一つの事例として考えていただければよいのである。
でも問題はくどいぐらいに言うが,それじゃ御社は動けるのか?と言うところに尽きる。

動けなかったら何故そうなの?っていうのをミームは見つけてくれるわけだ。



【新潟ミーム培地計画】

新潟にて金,土と二日連続で計4回のイントラネット研修を行ってきた(長岡市にて2回,上越,三条市にて各1回)。
この模様は新潟電設業協会さんのHPに既に紹介されている。

(しかし,さすがに疲れた。。。)

今回の一連の勉強会は操作説明というよりも,ミームの培地としてのイントラネットの機能を理解していただくためのもので,内容的には確実に経営者向けのものであった。

前回(7日8日に新潟市で行った際)の感想をいただいていた。

先日7・8日の受講者から感想を聞いてみましたのでご参考まで。

N子社長:分かり易かった。最初の話は自分には高度でこれはと思ったが中身に入るととてもよかった。会社にはまだイントラ入れてなかったが決心がつきそうです。ありがとうございました。

Gさん:掲示板、回覧板、会議などこんなに便利かと思った。自分は慣れてないのでついていくのがやっとだったが楽しかった。また、受けたい。

K社長:イヤー先生の話に大変刺激を受けた。新潟ももっと頑張らなくてはと反省した。自分は永年パソコンも活用してたがイントラネットの機能を解説してもらって良かった。各委員会や理事会などもこれを活用すれば時間もマネーも断然変わる。大変goodだ。

というような反応でした。ありがとうございました。

皆さん,ご苦労様でした。
問題はITがどうした,なっていうものではない。皆さんがどう動くのか,動けるのか,ということなのだ。

つまり答えは明確なのであって,それは「今すぐ動き出せ!」だ。
それは,我々に残された時間はあまりにも少ない,ということでもある。

さて,この一連の新潟シリーズの仕上げは2月28日に新潟テルサ行われる技術フォーラムにおける私の講演(80分)ということになる。80分と言う短い時間に,ミーム理論からの市場理解と皆さんのコア・コンピタンス(競争力),そしてそれがITとどう結びつくのかを凝縮してお届けする予定である。

本人が言うと眉唾っぽいけれども,この話し聞かないと本当に損すると思うのだよ。
昨日,三条(勉強会最終回)でフライングしてミーム理論から見るイントラネットの話を少しだけした。
早速次のようなメールが届いた。

桃知先生のミームのお話、大変勉強になりました。
2月28日テルサ伺います。
今後ともよろしく、お願い申し上げます。

そう,2月28日は新潟テルサに集合だ!って,これは一般公開はしていないのだわ,たぶん(笑)。
どうしても聞きたいって方は私にメール頂戴。主催者様に聞いてみるからね。

2002/02/16 (土)  
【人生いろいろ】

桃知@引き続き長岡です。
今朝は忙しいので,昨日いただいていたメールを転記してお茶を濁します。。。

まずは,最近のおなじみ(そして私と同じ言葉で喋れる数少ない私の理解者)A木さまより。
お題は「私は私情原理主義者」。

 A木@建○新○です。
桃知さんと太田さんはやはり危険人物です。
われわれ“私情原理主義者”としては。
サハリンへ取材に行って、ロシア市場における「リスクの正体」を
じっくりと見てこようと試みましたが、奥が深い…。ただ、感じたのはロシア市場の
目に見えるリスクと、日本市場の目に見ないリスクでは、どっちも
どっちという感じです。日本のビジネスは見た目にはリスクが少ないように
見えますが、本当はとてもリスキーな閉塞環境(将来的に)ではないかとあらためて
感じました。
でも「出る」と寒い、ぬるい風呂のようで、こっちのほうが立ちの悪い環境かも知れ
ませんね。

大丈夫,私は市場原理の押し売りはしていないつもりだ。
じたばたしないでいこうぜ,みんな。(ってこれが危ないって言われているわけだ)

そして,久しぶりのうどん星人2号さま。
お題は「ミームちゃん」

桃知様 こんにちは
56豪雪以来の被害の出た大雪に見舞われた岐阜県も
なんだか日差しも春っぽい今日この頃。どうやらそこまで来ているようです。
師匠は、お元気そうで何よりです。
ご病気の方も、快気もすぐ近くですね。

「ミームちゃん」全開バリバリ。
師匠もバリバリ、日本中を飛び回り大忙しですね。
インフルエンザも、頑張っていますが、桃毒には勝てない?
しかしながら用心するに越した事ありません。
ちびっ子から移る風邪は、何故か大人には強烈らしいですから。

八木沢さんの会社の若い衆おもしろいこと。
一人で、うけてました。
桃毒の使い道!!「そうよ、現場でも使う大切な道具ですよ。現場へ行く時も忘れないでね。」ですよね、師匠。

と言うことで、余りにもお忙しそうなので・・・お体いたわってくださいね。

最近,みんなミームに毒されてしまったな。
だから言っただろう,ミームは移るんだよってね(って,わたしゃ再び風邪ひいちまったらしい。誰だ移したのは。。。)。

それで,その(ミーム)理解を一番まともな文章で表現しているのがタロサだな。
タロサの言うとおり,ミームはメトリックなのだ(つまり「ミームはポチ」である)。

これは絶対に問題解決ツールにしちゃいけないものなの。(タロサ,君は偉い!)
ミーム中毒者はこれを肝に銘じろ!

そして二死満塁さんからだ。
お題は「考え方(日本ベース)」

桃知さん西原@二死満塁です。

17日予約の方いれました。よろしくお願いします。

[考え方(日本式ベース)]について2002/2/14
にまとめました。

自分が桃知さんメガネをかけてCALS、経営を
学んでいくなかで、考え方が変わっていった話
といった感じですが、よろしかったらお読みください。

http://www.a-lab.jp/newsite/news/news.html

わたしゃ明日(17日)には大阪へ入るわけで,その夜は太田ジオさんと二死満塁さんと市場原理パーティを予定しているわけで,17日の予約とは,その市場原理が爆発する中華料理屋のことだ。

で「考え方(日本ベース)」についてはまだ読んでいない。みんなで読んで感想を送ってやってくれ!
思考することに何の無駄もない(しかもタダだ!)。

というところで今日もお仕事にでかけるのだ。

2002/02/15 (金)  
【風邪ひきそうだぞ】

午前中長岡,午後から上越と二連ちゃんでのイントラ講習を終えてホテルに戻った。
喉はがらがら,せきが出る。風邪ひいたか?

さて,低迷を続ける地場型中小建設業にとっては,奇跡のような事態が起こるかもしれない。
それは政府が打ち出した「インフレ対策」への姿勢である。

気の早い江藤・亀井派は,早速,「財政発動して公共工事を出せ」ってやらかしたけれども,これはフライングだ。
ミーム理論では,あくまでも小泉さんにこれを言わせなくてはならないわけで,江藤・亀井派がそれを言ったところで国民は決してそれ(赤字財政による公共工事)を支持したりはしないだろう。大事なことは公共工事が国民の支持を受けることなのだ。(わかってねぇな,亀井さん)

さて,この「インフレ対策」だけれども,本当に公共工事の形で財政発動されればこれは「神風」なわけで,しかし,この神風は瞬間風速だから神風なの。つまり地場型中小建設業にとっては最後のチャンスってことだよ(このあたりは後でちゃんと書く)。。

さて太田ジオさんからメールが届いた。
なにがなんだかわかっている数少ない理解者だな,この人は。

ももちさん、おおた@営業帰りの休憩中です。せんでんしてくれてありがとうご
ざいます。

>例えば太田ジオさんが,なぜあれだけ強烈な市場原理支持者である(ご本人は
>そうは思っていないかもしれないが)かなんか疑問でもなんでもないわけ。そ
>う,一人で事業を始めた方々は,多かれ少なかれそういう性格の持ち主なわけ
>だ。

これを私は、単純に「不幸」とか「不徳の致すところ」と呼んでます。鮫が泳い
でいないと酸素を取り入れられなくて死んじゃうように、既得権益破壊のために
闘っていないと神経が不安定になってしまう病気なんですよね。なにもしないま
ま年とって、死ぬ間際に後悔する、ってことをなぜか想像しちまうんですよ。そ
れがいやでいやでしょうがないからやっちゃうわけ。

>世の中の人間がみんな俺(桃知)みたいなのばっかしだったらどうする?

間違いなく第三次(大惨事)世界大戦だわね。
スリルとサスペンスを栄養にして生きてるやつも多数の中にはちょっとだけ存在
して、それが多数派だと世界平和のためには絶対いけないってことだね。

>でも,すべての方々にとってそれが最善のルールだとは思えないってことだ。

皆が幸せになるのはやはり、日本的社会主義でしょう(ばらまきすぎで破綻しちゃっ
たけど)。中国人もそういっていました。タイミング間違えばわたしら国賊だね。

>それはだね,私自身がこの市場原理のルールの中で活躍できている一番の理由
>が「偶然」だっていうことを知っているからだ。

「偶然」なのは周辺環境の部分で、その環境を裏読みして「意図的に」やってる
わけですね。ももさんの戦略は、「意図的に」に加えて「排他的に」「他が真似
したくなくなるように」というのも同梱されてますが。でも競争ってのはそうい
うもんですからね。そのえげつなさが気に入ってるわけですから、ますます磨き
をかけてくださいね。

ここで一つ補足しておけば,私がどんな戦略を企もうが,それがうまくいくのか,いかないのかなんていうことは,本当に「偶然」に頼っているだけなのだ。絶対(100)うまくいくなんてことはありえないわけだ。つまりギャンブル=市場原理なのだわ。


【CALSはぼったくりバーである】

桃知@長岡である。
私はけっこうこの街は好きなのだ。まあ,冬は除くという条件付だが。。。

さて,13日の講演では,CALSの説明はほとんどしなかったわけだけれども,少しは触れる必要もあったので(つまりCALSの話を期待してきた方々もいたわけだ)少しだけお話しをした。でも,それはそれで上級者編と言うこともあり,通り一遍の話しでも失礼だろうから,やらかしたのが「CALSはぼったくりバーである」理論なわけだ。

つまり,こういうことである。
現行のCALS/ECを見ると,やろうとしていることは「電子入札」と「電子納品」の二つなわけだ。

私は常々この幼稚さ加減を本来のCALS文脈に照らし合わせて批判しているわけ。
つまり,「電子入札」と「電子納品」は単なる「制度・慣習」の電子化にすぎず,その解を導き出している環境と原理を変革するようなものではない,ということだ。

つまり,環境=単にITが普及した。原理=昔と同じ。
この(↑)環境×原理=電子入札と電子納品=国交省のCALS/ECなわけだけれども,この環境と原理のパラメータの値は,残念ながら今の時代,地場型中小建設業には意味を持たないことは説明を要しないだろう。

つまり,この方程式で幸せが舞い込む地場型中小建設業は一社もないということだ。

で,今回はこれをかなりひねくれた考え方をして覗いてみたわけだ(まあ,今回と言っても,このイマジネーションのオリジナルは先月25日に行った盛岡の講演の時である)。つまりこれは,CALS/ECのこの「敷居の低さ(幼稚さと言ってもよい)」は何故なのか?という切り口である。

バー「CALS/EC」は,一見,店構えはどこにでもある普通の店で,お酒も「電子納品」と「電子入札」しかおいてない。これは普通に言えば,せいぜいサントリーオールド程度の酒だということで,高級な舶来品でもないし,昔から十分慣れ親しんだような雰囲気をかもし出しているわけだ。それになにやら特典がついているようにも見える。看板にはこう書いてある。

『当店の入り口をくぐることで,あなたの商売繁盛は国が保証する。。。。』(。。。。の部分は文字が霞んでいて読み取れない)
つまり,この店はだれでも簡単に入ることは出来るわけだし,なにやら楽しいこともありそうなわけだ。

でも問題はね,一旦入ったバー「CALS/EC」は,実は性質の悪いぼったくりバーであるって話しなんだ。(笑)

つまり,ここから先が実は昨日のセミナーが上級者編であった理由なわけで,ここで「CALSって何に?」っていうのを,本当に理解していないと私の話にはついてこれない仕組みになっていたのだな。なのでここでもあえて答え(話の続き)は書かないでおこう。

→つまり,13日にこの話しで笑えた方々は,すんごく素敵な方々なわけである。

それで,ここまでの話しを読んでも,なんのことかわからない方々は,それはそれで実に幸せな方々(知らないってことは幸せなこと)なわけで,なので,わざわざ知ってしまうこともございませんから,そのまま穏やかに消えていただければよいわけです。

それじゃ,あんまりに不親切だと言う方々のためにヒントぐらいは書いてあげましょう。

まず,2月13日の【吉川さんのための覚書】にでてきた,吉川さんからのメールのワンフレーズ。
桃知さんはそれを「市場主義的思想の具現化の一つなんだよ」と
明快に答えられまして。。。

。。。って,まあ,これが答えだな。

次に,私がいつも使っているPPTを一枚。
DoDのCALSの定義→MIL-HBK-59B

それから,これも私の常套句。
■CALS定義(MIL -HDBK-59-B)による「国交省CALS/EC」の解釈

「国交省CALS/ECは、公共工事システムを支援するために、デジタルデータの生成、交換、管理、及び使用をより一層効果的にするための国土交通省と建設産業界の戦略である」

それで,ここでこう考えてほしい。
国交省CALS/ECは,『国土交通省と建設産業界の戦略である』っていうけれども,じゃ,建設産業界って具体的に誰のこと。。。ってね。その誰かがぼったくりバーの用心棒なわけだ。つまり彼らはお店側の方々なわけ。そしてあなたはいつもお客さん,っていうことだ。

それでもわかんない方は(↓)でも読んでみて。
たぶん,余計なんだかわかんなくなるとは思うけれど。。。



【私個人は市場原理主義で動いているのである】

断っておくが,私は個人事業主であり,己と言う資本と市場というルールだけを頼りに生きているわけで,私の生き様は主流経済学派(つまり新古典の方々だ)が仮想する経済合理的な人間(個人)なのだ。

それは個人事業主(もしくは小規模事業主,ベンチャー)の方々の特徴なわけで,例えば太田ジオさんが,なぜあれだけ強烈な市場原理支持者である(ご本人はそうは思っていないかもしれないが)かなんか疑問でもなんでもないわけ。そう,一人で事業を始めた方々は,多かれ少なかれそういう性格の持ち主なわけだ。

だからって言ってね,じゃ私が強烈な市場原理支持者かって言えばそれは違うわけだ。
なので,私はよくこういう質問をするわけだ。
世の中の人間がみんな俺(桃知)みたいなのばっかしだったらどうする?
そういう状況を想像してみろって。
それが市場原理主義者が仮定している世の中ってもんだ。

で,この前,吉川さんはこう答えたわけだ。
『リスキーな世の中ですね』

そう,そういうことだ。

つまり,私個人は市場原理というルールが大好きなわけだ。だからこうしてるのよ。
でも,すべての方々にとってそれが最善のルールだとは思えないってことだ。

それはだね,私自身がこの市場原理のルールの中で活躍できている一番の理由が「偶然」だっていうことを知っているからだ。



【Thanks!】

13日のセミナーの反響を沢山いただいていておりました。
各々に返事を書く時間がないので,ここでまとめて御礼を申し上げる次第です。

ありがとうございます。

2002/02/14 (木)  
【芝田山親方曰く】

昨晩は芝田山親方(元六十二代横綱大乃国)も交えて新宴会兼快気祝いを賑々しくやらかした。
そこで親方曰く。

『根性は後から付いてくる!』

そうだ,それがミームっちゅうもんである。
ということで,昨日のセミナーのおさらい。

制度・慣習=環境×原理という方程式で眺めれば,IT化っていうのは制度・慣習なわけで,環境と原理の乗数だ。
つまり,IT化を考えるときには環境と原理を理解できなければ,そのIT化は何の効果もないということ。
というところでそれ(方程式のことだ)が理解できたとして,環境の考察(市場の考察)は略して以下結論から。

結局,経済取引をミーム理論で眺めれれば,それは技術のミームと消費のミームの相互作用なわけで,消費のミームは技術のミームの何を購入しようというのかと言えば,それは信用とか信頼とかブランドとかいう,「なんだかよくわからないけれども大切なもの」を買っているってことなんだと思うわけです。

 →で,実はこれがコアです。

例えば,リコーのコピー機とゼロックスのコピー機,これの技術的な差異って実は競争力じゃないってことですわ。

 →メーカー名をはずしたら一般人は多分どっちがどっちかわからない。
 →つまり,ゼロックスの営業マンがリコーのコピー機を売っても誰も気がつかない。
 →つまり技術力の差ってなに?ってことだ。

つまり複製が容易な技術を基盤にする産業の場合,技術のミームを構成する「狭義の技術」は実は競争力じゃないってことなわけだ。で,これの究極の形が建設業界だと。

 →つまり,だれでもできるから公共事業。
 →1級建築士,土木施工管理技士,技術士,その数が技術力なのか?

だからコアは「なんだかよくわからないけれども大切なもの」であるわけで,つまり,ゼロクスのコピーを買うと言うときは,実はゼロックスの持っている「なんだかわからないけれども大切なもの」(それは例えばブランドのイメージ,営業マンの持っている信用,信頼,保守メンテナンスシステム and etc.)を買っている,ってことですな。

で,この経済取引を情報というメトリックを眺めてみれば,その取引は「価格と量の情報」と「信頼の情報」で成立しているわけで,例えば公共工事の場合,「信頼の情報」が崩壊しているっていう状況なわけだ。で,その信頼の情報を崩壊させている消費のミームを持っている方々は誰かということ。→これは有権者なわけ。だから公共工事の顧客は国民なわけ。

というところで,面倒なので結論の結論。
IT化は,その「なんだかよくわからないけれども大切なもの」(それが組織のミーム)の拡大化の過程なんだ,と言う話を酔っ払いが愚だ巻きながら,確信犯で1時間も時間をオーバーさせ,ミームを振りまいていたと言うわけですわ。

と,言うことで,今日はこれから歯医者だ。そして新潟へ移動だ。

2002/02/13 (水)  
【吉川さんのための覚書?】

昨日はANA 070 札幌(千歳)(1935) - 東京(羽田)(2110)で空知から帰る。
高速道路は嘘のように空いていて,羽田空港−蕨間はわずか50分。新記録か!

昨日の私は空知建協の方々と協会イントラネット構築の目的についての勉強会をしてきた。
空知の皆様,本当にご苦労様でした。これからも宜しくお願いします。

午前と午後のWヘッダーだったせいか少々疲れたのだけれも,さっくそくこんなメールが届いていた。
桃知大痔主様
岩見沢まで寒い中ご苦労様でした。
帰社後桃知商店のHPを見ていました。
大変面白く参考になります。
又メールしますので宜しくお願いします。
これから一人で風呂に入ります。
私は思わず絶句してしまった。
この『これから一人で風呂に入ります。』という,あまりにも唐突なフレーズはいったいなんなのだ!

「一人で」という部分の深遠さはどうだ。
だれもが近寄りがたい「一人」がここにはある。

それにしても,なぜにわざわざ「一人で。。。」と書かなくてはならなかったのだろうか,と私の思考はとんでもないころへ飛んでいってしまうのである。

見事に詩的なメールだ!
恐るべし岩見沢。

さて,帰りの飛行機は吉川氏と一緒。
その吉川氏からのメール。

おはようございます。
北海道連戦は大変お疲れさまでした。

初めての「生ミーム話」。。。参りました。白旗ですね。

半年前に法政エクステンションで、
「CALSを突き詰めて考えて行くと産業変革、
産業移行としての農業政策まで行き着いてしまう」
とい話を掘さんより聞き、激しいショックを受けた事を
昨日の事のように覚えています。
桃知さんはそれを「市場主義的思想の具現化の一つなんだよ」と
明快に答えられまして。。。
私はそれに「自分のこのアタマでは着いてイケねぇや」と
しばらく、落ち込みました。

最近は少し立ち直ってきていたのですが、
また、ミーム話でぶっ飛びました!!

なんとミームの正体の一面は
「人間が本来持つ、本質的・普遍的な原理原則感覚」
つまり「倫理観、であったり宗教観であったりする感覚」なのですね・・・・
国境を越え、人種を越えたそんな超越的な位置に視座を置き
建設業とそれを取り巻く環境を考える・・・

参りました。
入院中の有り余る時間で、こんな深い思考にたどり着かれていたのですね。
だから、私、言ったじゃないですか?退院後の桃知さんが怖い・・・と。
どんな深い思考で何を考えつくかわかったモンじゃない・・・って。(笑)

結論。桃知さんにじっくり考える時間を与えてしまうと、何処までいってしまうか
わからないので、つねに忙しくさせて深く考えさせないこと!!
とりあえず、今日のセミナーで復讐・・・もとい、復習です!!

なに言ってんだろね,この人は。私は深く考えていたのではなくて酒が飲めなかっただけだ。それがすべてだ。
というところで(調子に乗ってだ),昨晩の帰りの飛行機,ビールで酔っ払ったついでに話した内容を書き留めておこうか。

エスピアン・アンデルセン曰く,
『福祉国家を取り巻く諸問題は,労働市場と家族が機能不全に陥っていることと密接に関連している。両者がうまく機能していないのは,それらが革命的変化のなかで必死にもがいているからである。労働市場は見たところ完全雇用と平等とを同時に達成できないでいる。家族は,かつて社会的統合の中核であったが,いまや不安定と,多くの国々では,出生率の頭打ちに見舞われている。要するに,われわれはディレンマと二者択一(トレード・オフ)の問題に悩む新しい政治経済学の時代を迎えているのである。ポスト工業社会は多くの奇跡を約束する社会かもしれないが,おそらく平等はそのなかに含まれないだろう。だから,われわれの「黄金時代」への郷愁はますます募るのである。』(エスピアン・アンデルセン,『ポスト工業経済の社会的基礎』,2000年5月10日,桜井書店,P21)

ということで,私はまだこの文脈を完璧に自分の言葉で語る術をもたない(私は出来ないものは出来ない,わからないものはわからない,と素直に認めるのだ。それに出来たからってそれがどうしたってことだ。って開き直ってどうすんだよ)。だからね,紹介できなかったのよ,エスピアン・アンデルセン先生は。でも我々が直面する問題は,間違いなくこの二つの機能不全(労働市場の機能不全と家族の機能不全)に帰結しているってことだ。そして,そもそも我々が目指そうとしているポスト工業社会が「平等と雇用のトレード・オフ」を内在しているということはどういうことなのか,ということだ。

もう一つ「比較制度分析」。
『第3に,官僚制多元主義国家は,ますます競争的となるグローバルな(金融)市場のなかに埋め込まれつつある。したがって,このような環境から国内の利益集団を保護するための規則装置は,それ自体の不整合性や不足の結果を生み出す種子を作り出す。もはや金融当局は,護送船団システムの下で期待されていた伝統的なガバナンスの役割を果たすことはできず,能動的にであれ受動的にであれ,危機に反応する上で市場規律の力を受け入れざるをえない。』

『しかし近い将来に,こうした状況が,日本の国家の性質にたいしていかなる影響を及ぼすかについては,いまだに明確になっていない。一方で,グローバルな規模で競争を展開する産業(輸出産業)や国家競争から距離をおくことによって,管轄諸官庁は自らの正当性と存在意義のために,市場指向型の運営に向けてなんとか自己適応を図ろうとしている。他方で,政治家の後ろ盾を得て,官僚制多元主義的な継続を模索してる生産性の低い部門が存在する。また,政府による保護という長いあいだに養われた予想によって支持されてきた銀行の限度を超えたソフトな予算制約の帰結−不良債権の危機的累積−も未処理である。しかし,こうした状況を維持する官僚制多元主義的な運営費用は,競争的産業や将来世代に対するツケを回すことを通じてしか賄われえない。しかしそれによって,グローバル市場における産業の長期的競争力は損なわれることになるので,そうした二重の傾向は長くは両立しえない−この問題は,筆者が10年以上前に「官僚制多元主義のジレンマ」と呼んだものである。このジレンマが,長期的な政治経済学の停滞をもたらすのか,あるいは低生産性の伝統的利益集団への官僚制多元主義的な保護を抑制し,政治経済と金融部門におけるソフトな予算制約をシステミックに閉じる方向で解決されるのかは,政治ドメインにおける投票者兼税支払者の集合的選択に決定的に依存していくことになるであろう。(青木昌彦,『比較制度分析に向けて』,2001年6月29日,NTT出版,P376)

官僚制多元主義国家とは,そのモデルは勿論日本である。それは開発主義(村上泰亮)国家のインカベント増大→官僚制多元主義国家というような意味合いで私は捉えている。

ここで,私が注目するフレーズは『政治ドメインにおける投票者兼税支払者の集合的選択に決定的に依存していくことになるであろう。』で,これは,公共工事の真の顧客はだれかという問いの答えでもあるってことだ。(まあ,地方官僚にこの文脈が届くのはいつになることやら,っていう諦めみたいなものもあるが。。。)

あとは何を話したっけ。。。
市民社会とのコミットメントの話か。まあ,それはいいだろう(笑)。つまりだ,こういう話を飛行機のなかでビールを飲みながら(ってそれは私だけだが)話している我々は世間一般では「馬鹿野郎」と言うんだわ。

ということで,今日は午前中肛門科へ行って,午後から赤坂で講演。
夜は赤坂で新年会兼快気祝い。総勢30名を超えたようだ。めでたい。
そして今日はなぜか大乃国さんまで来る。なんなんだこの集まりは?

2002/02/12 (火)  
【「考え方(日本式ベース)」】

岩見沢のホテルで午前3時30分に目覚める。暖房を切って寝たらさすがに寒くて目覚めてしまったわけだ。外は雪が降っている。
それでも6時間は眠っただろうか。早起きしたので戯言でも書いてね,それからオリンピックでも見ようと思うのだ(頑張れ!清水だ)。

さて,二死満塁さんからのメールだ。
【いまさら顧客の問題】の戯れ言の続きです。

>TOCが公共事業で意味を持つには比較的容易に受注
>が可能であるという市場を前提としなくてはならない

TOCはプロダクトアウトという批判結構あるのですがそうではありません。
TOCのノートなどは、TOCを使った生産管理を書いているので当然プロダクトアウトになってます。
しかしTOCは考え方(日本式ベース)であって生産管理のみではないのです。
例えば商品開発プロジェクト管理に使うクリティカルチェーンとか、マーケティングに使う思考プロセス(TP)とかサプライチェーンマネジメントとかあります。
これからも色々な物が出てくるでしょう。

という所はまぁ細かい話で桃知さんの興味の対象じゃないと思うのでおいときます。

おいておく必要はない。大事なところだ。

まあ,世の中にはいろいろなマネジメント・ツール(という言葉自体が最初から曖昧だが)があって,それらは同じように言うんだよ。そう,「考え方であって,○○のみではないのです。」ってね,これはツールの持つ常套句であるんだ。

マネジメント・ツールは一応にそう言うのだよ。「これは手段じゃない,思想(考え方)だ」ってね。そしてそれは確かに一理はあるんだ。ただし,それはイコール「考え方」っていうよりも,これらのツールは必ずある合理目的を持って導入される(考案される)のだけれども,その目的というのがなんらかの「考え方」(思想って書くがこれも曖昧だ)に支配されているってだけのことだろう。

それで,TOCの場合,それが「考え方(日本式ベース)」ってわけなんだろうかね。
私はTOCについては,そのあたり(背景のことだ)まで突っ込んで考えてみたことはないのでわからないが,仮に「考え方(日本式ベース)」っていうものが背景にあるとすれば,問題は,それじゃ「考え方(日本式ベース)」っていったいなに?ということだろう。

例えばトヨタやソニーも考え方(日本式ベース)に存在しているのだろうし,地場の中小建設業だって大阪の町工場だって,北海道の牧場だって,「考え方(日本式ベース)」に存在しているって言えばそうなんだよ。わが国の70年代の繁栄も「考え方(日本式ベース)」があってのことだし,バブル後の日本経済の衰退も「考え方(日本式ベース)」が背景にあると言っていいのだろう。

多分,そんなんじゃないって反論があるだろうが,それじゃ,大切なことはなにかといえば,その背景にある思想(ここでは「考え方(日本式ベース)」)を的確に表現して伝えることだと私は考えているわけで,それが出来なければ出来るようになるまで思考することだろう(私はそう思っているのでそうしている)。じゃないと議論は不毛なものとしかならない。

私自身の興味も「考え方(日本式ベース)」にある。そして,それをいまだによく理解できないでいる,というのが本音だ。私が日々ここで思考していることとは,そのことに他ならない。そしてそれは,「私はなにものなのだろう」ということを考えていることでもあるわけだ。それはすなわち己の存在の根拠であろう「考え方(日本式ベース)」を探求し続けている作業でしかない。なので地場型中小建設業に起こる危機は己にも降りかかってくる危機だと考えているだけだ。

つまりその理解のために,私は様々なメトリックを用いようと試みる。それは,最近で言えば,開発主義(村上泰亮),比較制度分析(青木昌彦),福祉国家→ポスト工業経済(エスピアン・アンデルセン)というようなメトリックだが(ミームもそうだな(笑)),そのツール(眼鏡といってもよい)であるそれらのメトリックの理解が最初の壁となって存在しているわけで(若い頃にもっと勉強しておけばよかったと言っても,これらは比較的最近のものなので恨めしいのだわ),それを毎日ここでごちゃごちゃとやっているというわけなのだ。そしてその中で「IT」はなにが出来るのかと考えているだけだ。

今必要なことは,思想(原理・環境)(「考え方(日本式ベース)」)を見極めるということなのだと思う。今我々が直面している問題とは,小手先の技術論で解決できるような問題ではない,ということだ。そこからツール(制度・慣習)の良し悪しを見極めても遅くはないだろう。

先に,『マネジメント・ツールは一応にそう言うのだよ。「これは手段じゃない,思想(考え方)だ」ってね。』って書いたけれども,例えばCALSもそう言っていたのだ。そして,私はそれに惹かれてCALSに興味を持ったわけで,私もかつてはこう書いたはずだ「CALSは手段じゃない,思想(考え方)だ」ってね。そしてその原理(CALSの持つ思想的な背景)を考えていくうちに,この国の持つ「制度」とのミスマッチングに気がついただけだ。そして「制度」というものに興味を持ったのは確かなわけだ。それが今の私の始まりだったわけでもある。そういうことだ。

2002/02/11日 (月)  
【今週の予定】

今日の私は,「ANA 065 東京(羽田)(1400) - 札幌(千歳)(1530) 」で北海道入りする。その後岩見沢まで車で移動して,本日は岩見沢泊。今日は新しいRIMOWA(No.6228 キャビン・トロ-リー,こいつは立てるとぐらつくので大阪鞄材さんから安く譲っていただいていた)の使い始め(9日の栃木建協さん訪問の時も実は新しいRIMOWA(No.6223 アタッシュ)だったのよ)。新しい仕事を始めるときには,なにか一緒に新しいものを使い始める,っていうのが私の癖(といよりも縁起担ぎ)かな。

明日12日は空知建協さまの事業者団体ベースでのIT化のスタートアップである。くしくも栃木建協さんと空知建協さんは同時期のスタートとなるわけで,両団体の成功のために暫くの間,私はこの二つの団体のIT化戦略を全力でバックアップすることとなる。
12日は「ANA 070 札幌(千歳)(1935) - 東京(羽田)(2110)」で帰る予定。多分疲れてばたんキューだろうな。

翌13日は赤坂で講演。申し込みが開始されるやいなや,あっという間に定員を超え,さらに倍に定員を増やしても受講できない方が出るという具合で,前人気はすごい!。この講演は現時点で私の中小建設業IT化概論といえるようなもので,出版予定の本の背骨を構築しているもの。このHPを読んでいるような方にとっては理解は出来るだろが,初めて私に触れる方にはまず理解は無理だろうと考えている。なにせ細部にわたる説明はしない予定であるし,専門用語はそのまま使わせていただく予定なのでね。そういう方々には,何だこの野郎は!と思っていただければよいのである。それが狙いだ。

→この13日の(多分スピード感溢れる)講演の詳細説明付が,知る人ぞ知る(と書くのは主催者様があせって人を集める必要はない,との意向なので。ヒントは○○基金(笑))18日の大阪での講義(講演ではない。朝から晩までの正真正銘の講義である)なのだ。

13日はこの講演の後に気の置けない方々との「新年会&快気祝い」を予定している。
こちらも総勢30名弱。賑やかになりそうである。

14日は午前中に歯医者(現在2週間に1回ペースに落ちている)。夕方長岡へ移動。
15日16日と新潟県電設業協会さんのイントラネット勉強会を各々Wヘッダーで4回。長岡→新潟→長岡→燕三条と駆け回る。
16日中に帰宅予定。

そして17日は大阪へ移動して18日の講義に備えるわけだ。
17日は,大阪で新年会&快気祝いを密かに行う予定でいる。



【いまさら顧客の問題】

二死満塁さん(と私が勝手に名づけた)からのメール。

2002/02/10 (日) の戯言は相当考えさせられます。

私はTOCにこっているのですが、これ日本式生産管理の
焼き直しです。
そこで日本式経営について色々よんでいます。

(ざっくり)

ISO9000は明らかに問題があると多くの指摘を貰いました。
私は日本式生産管理は、多くの企業で日本式経営に広がっ
ていないと思うのでそこが最近の興味の対象です。
(建設業では日本式生産管理もありませんが)

(ざっくり)

>つまり,一生下請けなんだな。
> ここで止まると後が続かないよ。役所のお気に入りになるというのが
> 最大の経営目標なのね。それは今までとなんら変わらない。

という所本日NEWSで挑戦してみました。
しかし現実みれば難しい所ですね、、、

日本式の経営っていうのは,これは定理が難しいかもしれないが,私は二度の石油ショックを乗り切ったあたり,つまり70年代の日本企業あたりを最高の成功例として理解している。このあたりを研究対象にされている方々は沢山おられるので(例えば【制度・慣行=環境×原理】の伊丹敬之もそうだし,村上泰亮もその範疇でよめないこともない)このあたりを考えてみるのはいいことだと思う。

ただし,その成功も日本という制度(開発主義と開発主義がよりどころにしている背景がある)に適応した経営方式なのであって(その後過剰適応となる),つまり経営とは制度依存なのだ,ということを念頭におかないと,昨今のなんでもアメリカ方式(主流経済学的)的な考え方と変わらないものになっちゃう(つまり二者択一的な単純バカボン理論に陥る)ので注意が必要だろう。

TOCにいてはラッセル社から出ている小林英三さんがらみの本である,小林英三,『制約理論(TOC)についてのノート』,2001年8月7日(第2刷)と,M.L.スリカンス,M.M.アンブル(著),小林英三(訳)『シンクロナス・マネジメント』,2001年2月25日を読んではみた。けれども,私の興味の対象ではない,というのが率直な意見だ。つまりそれは建設業(地場型中小建設業)の多くを支える経営原理の問題なのである。つまりその原理とは建設業が製品のない受注産業であるという部分と,売っているのもはなに?という部分に収斂する(もちろんそれも制度に依存してのことだ)。

TOCの考え方は,建設業の製造業的な側面(これもなにか変だな。建設業は製造業とは明確に違う。作るという部分と解釈しよう)においては,つまり生産方式の効率化という部分では,何らかの利益を建設業にもたらすかもしれない。しかし今,建設業が抱える問題とはそういうこととは違う,ということだ。

今多くの地場型中小建設業が抱えている問題とは,ひとことで言えば「どうすれば受注できるのか?」という問題につきるだろうし,その問題の根源には,将来に渡る長期的な展望(つまり公共工事の市場っていうのはどうなるの?)に対する不安がある。例えば(極論だが),TOCにおける生産効率化を図った建設業者があるとしても,その効率化を実際に遂行したい現場がない(現場がなければそもそも本社機能さえ維持できない),ということだし,その状況がある程度長期に続くのであれば自社の継続的な存在さえも危ぶまれる,ということだ。しかし,TOCが公共事業で意味を持つには比較的容易に受注が可能であるという市場を前提としなくてはならない。それは無理な前提(仮定すること自体が意味のない前提)だと考えるのが自然であろう。

さらに,もう一つ(蛇足的だが),TOCの生産方式の効率化という部分は,雇用確保目的の公共工事の場合(現在,ほとんどの地方公共団体発注の公共事業がその目的で執行されている),生産活動そのものが労働集約的にならざるを得ないのであり,そもそも生産性の低さを云々するのはその主義に反している,というのが私の意見である(しかし,現実は価格のメトリックを第一義とする発注者が増えてきている。その理由は5日のPPTを見て欲しい。もしくは13日のPPTも講演後ダウンロードできるようなのでそれを見てほしい。)。本来ならワークシェアリングでもなんでもして,公共事業は雇用を守らなくてはならない。それがこの国の現状における公共工事の最も大切な機能だ,と私は理解している。→こう書くと安心する地場型中小建設業の方々が沢山おられるかもしれないが,私の考え方はそんなに甘くはない。

それから,引用符が着いている部分,つまり,
>つまり,一生下請けなんだな。
> ここで止まると後が続かないよ。役所のお気に入りになるというのが
> 最大の経営目標なのね。それは今までとなんら変わらない。
というのは,二死満塁さんの以下のメールに対する私のリプライである。

官公庁←→公共工事専門建設会社は元下間の関係と捉えています。
元請の言うことは絶対です。マーケティングを行うのは元請(官公庁)
の仕事です。

この理解は一理ある(確かに現況はそう見えるだろうし,かつてのような公共工事が沢山ある時代はこれで良いかもしれない,と私も思う)が,現状の仕事がない,公共工事は右肩下がりで減少し続けている,先行きは闇だ,という現実はでは,この思考は思考そのものの閉塞を招くだけである。つまり,「官公庁←→公共工事専門建設会社」理論では,その理由(工事の減少)は役所のマーケティングの怠慢(もしくは能力の欠如)だけにある,ということになってしまうのではないだろうか。

つまり地場型中小建設業は,
>つまり,一生下請けなんだな。
> ここで止まると後が続かないよ。役所のお気に入りになるというのが
> 最大の経営目標なのね。それは今までとなんら変わらない。
ということなんだ。

それはすなわち現状の問題をなにも解決はしない。つまり,減り続ける公共事業という環境変化に対して,自らは何の打開策も提案できないままだろう。

仮に打開策を民(受注者)が官に提案しなくてはならない,として,それを官が採用する根拠はなんだろうか?そして民(受注者)から官への提案はいったい誰が評価するのだろうか。せいぜい出来ることといえば直接的か間接的(政治家やロビー活動を経由するという意味で)の官への圧力程度に収斂してしまうだろう。

そのような意識(今の私の言葉で言えば「(業界)ミーム」である)に対して,現在,公共工事は「ダメ」というレッテルを貼られているのではないか?というのが私の視座である。つまり,問題は,この「公共事業はダメ」というレッテルを貼るのは誰なのか?という問題なのだ。それは少なくとも発注者ではないだろう(スティグリッツの定理を考えて欲しい)。それは,間違いなく市民であり納税者である。つまり公共工事に対する消費のミームの存在,そのミームの保持者の存在を意識する必要があるだろうということである。

→この問題を役所と建設業界がITを活用して問題解決するものが「CALS/EC」でなくてはならない,と私はいっているわけだ。

でも私の持っている長波の視座は,実はそんなこともたいした問題にはしていないのだ。私は将来的には,公共工事の(発注・管理という事務的な意味での)発注者さえも「官」ではなくなるのではないだろうか(特に自治体の工事),と考えている。例えば,それはNPOとかNGOかもしれないし,町内会かもしれない。何がしかの第三者機関かもしれない。つまり必ず市民社会の逆襲があると考えている。戦後日本が捨てた福祉国家の三本柱の一つが市民社会に他ならないわけで,その復活にしかポスト工業社会における我々の自由を担保できるもの(平等と自由のトレードオフの調整機能)はないであろう,と考えているわけだ。

そして地場型中小建設業,自治体発注の公共工事は市民社会の文脈の中に存在するものとなる,と私は考えているわけで,じゃなかったら,なにもたかだか中小企業の経営を考えているだけのこのサイトで福祉国家の考え方や,比較制度論的な考え方を持ち込むこともないのだわ,ということである。

結論を言えば,地場型中小建設業が今はじめなくてはならないことは,市民社会(町民でも村民でも県民でも国民でも何でもいい。)といかにコミットメントするのか,と言う努力だろう。生き残れるのはそれが出来た企業でしかない,というのが私の結論になると考えている(というのはまだそこまで考察が及んでいないからだな)。

2002/02/10 (日)  
【今週の読書】

午前中は肛門科へ行き消毒。だいぶ良くなってきた感じはするが。。。
さて,今日は久しぶりに「こんどく」でも書こうかと思ったわけだ。

最近は改めて書くことはなくとも,逐次参考にしている図書は紹介しているので,まあ私の読書癖を追いかけている方々(そんな方々がいらっしゃるから世の中は面白い)も,そんなに寂しい思いはしなかったのではないかとは思ってはいるが。

猪瀬直樹+M日本国の研究企画チーム『一気にわかる!デフレ危機』,2001年9月5日,PHP研究所。

この本はだいぶ前に読んでいるものなので,もしかしたら以前に一度紹介しているかもしれない。
猪瀬氏の構造改革についての話は,なるほどなぁ,とは思うけれども私はそんなに興味はなくて,この本を再度引っ張り出してきた大きな理由は,この本に収められている上武大学商学部講師の田中秀臣氏の『既得権としてのサラリーマン』を読み直すためだ。

ここでの私の関心は「終身雇用制」等に代表される日本的経営(特に雇用のスタイル)についてである。
田中はこう言う。

『ところが「IT革命」的構造改革論者は,日本の情報化についての認識が遅れているから「中抜き」が進展していないのだという。つまり人事課や経営者の意識が古いと(一部は正しい主張だが)のたまうのである。』

『だが,そもそも日本の中間管理職はアメリカのケースとは違う構造を持っていると思われる。なぜなら日本の企業システムが,いわば情報共有型であることは以前から指摘されている。上から下まですべてがゼネラリストであり,スペシャリストは一般的ではない。またフォーマルな交渉よりもインフォーマルな接触(勤め帰りの一杯)でコミュニケーションを深めるといわれている。』

『アメリカのほうは知識分散型の企業システムであり,極端にいえば自分の仕事しかわからない。そのため情報の集約と上下の意思伝達の媒体としいえ中間管理職が必要であった。それが「IT革命」の進展によって,コンピュータのネットワークに置き換わった。しかし日本の中間管理職は,職務能力で差別されているのではない。いってみれば,部長でも課長でも平社員でも仕事の内容に極端な「特化」はない。平社員でも部課長のやっている仕事のおおよその見当がつくだろう。』

『そのためコンピュータのネットワーク化が,日本企業の知識共有的システムを効率化させることはあっても,中間管理職の削減などの雇用形態の激変に結びつく理由がないのである。』

『むしろ日本の現状で,中間管理職が削減されているとすれば,それは「IT革命」による「中抜き」や,また中間管理職の不効率化が原因になっているのではない。中高年サラリーマンの人口構造的賃金圧力が最大の原因であろう。つまり年功序列制度や終身雇用制の制度的欠陥というよりも,長期的な展望もなく高度経済成長の幻影に引きづられて大量に新卒社員を採用してしまったことが,いまや蹉跌となっている。制度の失敗ではなく,制度援用の失敗なのである。』(255,266頁)

この考え方を私は支持する。例えば私がセミナーでよく使う「専務,常務,部長,課長なんていうのはニックネームでしょう?」っていうフレーズは,まさにこのことなのだ。もともと日本型の企業(特に地場型中小建設業)ではその組織はフラットにちかいものなのだ(それは,この時代にはうってつけなスタイルだ,と言うのが私の主張だ!)。そして『そのためコンピュータのネットワーク化が,日本企業の知識共有的システムを効率化させることはあっても,中間管理職の削減などの雇用形態の激変に結びつく理由がないのである。』という田中の指摘は良く覚えて置くように。

昨年こんな話題があったのを覚えているだろうか?
NTT労組、11万人リストラ案を条件付き容認へ
51歳以上6万人弱が新会社へ転籍

 NTT労働組合(津田淳二郎委員長、21万2000人)の定期大会が29日、高松市内で始まった。津田委員長は、社員約11万人を転籍・出向させる会社側の合理化案を受け入れる条件として、賃金減額分の100%保障などを要求する運動方針案を提起した。そのうえで「提起した要求を実現することを前提に、この枠組みのもとで大筋として受け入れる」と述べ、合理化案を条件付きで容認する方針を明らかにした。運動方針案は30日に採択される見通しで、今後の焦点は労使交渉に移ることになる。

 会社側が示した合理化計画は、東・西地域会社などが行ってきた設備保守業務などを新しい子会社へ外注化。51歳以上の全社員6万人弱に新会社への転籍を、設備保守や故障修理を担当する50歳以下の社員5万人強にも新会社への出向を求める内容。津田委員長は「あくまでも転籍・出向によって生じる賃金減額分の100%保障が受け入れの前提だ」と強調している。会社側は50%保障を主張しており、この点が労使交渉の最大の焦点となる。

出展: http://www.asahi.com/business/situgyo/K2001082900294.html

田中は言う。
『最近,NTTが中高年層の大幅な減給や再雇用契約の見直しなどを公表した。もちろんまっさらな「経済合理性」や「生産性」だけを基準にするなら正当であろう。しかし,問題はそれで失われる「社会資本」の損失が,契機が回復したときでさえ,そう簡単には回復できないものであることを忘れれはいけないということだ。雇用システムの基礎にある回復しがたい社会的紐帯にこそ,いま関心がむけられるべきではなかろうか。」(252頁)

私の土俵に戻って,さて私がここでなにを考えているか?というと,前掲した『そのためコンピュータのネットワーク化が,日本企業の知識共有的システムを効率化させることはあっても,中間管理職の削減などの雇用形態の激変に結びつく理由がないのである。』(田中)という部分からのイマジネーションである。

例えば,私の本業である個々の企業のIT化(と簡単にはいうが,このIT化自体の理解も結構難しいのだけれどもね)の場合,その障害の第一義的なものは「人の反ITの意識」にあるわけで,それも一般的には若い人達よりもどちらかと言うと長年勤めてきた方々(はっきり言えば「年寄り」だな)に多い。

それは単純にパソコンが使えない(日本語入力が出来ない,ダブルクリックが出来ない and etc.)というなものではなくて(そんなもの練習すればどんな方でも短時間で覚えちゃう),こんなもの(つまりIT化)で仕事が出来るのか,と言ったような言動で表出する意識であり,それはみずからの組織内での地位(それが多くは社会的な地位でもある)が,IT化によって失われてしまうのではないかという危惧意識が根底にある,と理解している。

しかし,上記の田中理論を読んで欲しい。IT化はあなたの地位を脅かしたりはしないのだ。つまり,『コンピュータのネットワーク化が,日本企業の知識共有的システムを効率化させることはあっても,中間管理職の削減などの雇用形態の激変に結びつく理由がないのである。』

最近の私は,個々の企業が行うIT化を企業ミームの拡大化作業と位置づけている。企業の(特に狭義の技術力の差異が付けにくい地場型中小建設業の)コア・コンピタンスは企業の文化,つまり企業のミームでしかない(田中の言葉では(企業の持つ)「社会資本」)。

いまや私のミーム先生(笑)になってしまった(って勝手にそうしたのだが)村上泰亮はこう言う。

『企業をどう捉えるべきだろうか。一方では,企業を,契約によって結ばれた経済的交換の集まりであると見る考え方がある。この場合,企業はいわば個人の単純和と理解される。ここでいう単純和とは,個人に企業が分解されるということ,及び企業活動が瞬間瞬間の市場経済に分解できるということの二つを意味している。企業の生命は,ごく短期でもありうるのである。』

『しかし,現実を見れば,企業は相当の長期にわたって行き続けると見るのが自然だろう。すなわち,企業の構成員の間では対話が行われ,われわれの言う第二種の「蔓の情報」が飛び交い,「われわれ」意識が創発し,そこから緩やかながら「企業文化」が成立してくるのが,むしろ普通だろう。この傾向が強ければ企業はまさにみずからの文化子を持ち,それを意地拡大しようとする存在として理解される。言い方を変えれば,企業が交換の束であることは確かだが,そこには社会的交換の要素がかなる含まれ,特定されない,暗黙の,長期にわたる亜契約の集まりであるとするのが,一般的理解としては自然である。』(反古典概論161頁)

つまりだ,『中間管理職が削減されているとすれば,それは「IT革命」による「中抜き」や,また中間管理職の不効率化が原因になっているのではない』(田中)。問題は,中間管理職の方々が,(今と言う時代の持つ文化の下で)正当な企業のミームの伝承者であるのか?という問題なのだと私は考えるわけだ。ミームは複製され続けることを望む。そして,個々の企業のミームの始まりは創業者(多くの地場型中小建設業では経営者でもある)のミームであるだろう。

その場合,『初期の資本家は,金儲けもさることながら,自分の考える技術と組織の「文化」を実現し押し通すことに生きがいを感じていたと思われる。現在の経営者の動かしているものも同じであろう』(村上154頁)という言葉を信じるならば(経営者を絶対視しているようで私はこの言い回しはあまり好きではないが),中間管理職は経営者のミーム(この時代に「自分の考える技術と組織の「文化」」を持って経営を継続していこうとする意識だ)の代弁者足りえているのか,という問題だろう。

つまり,なにが言いたいのかと言えば,IT化は決して中間管理職を中抜きしたりはしない。
むしろ経験と実績に裏づけされた(つまりキャリアだな)中間管理職の強力なミーム拡大ツールなのである。ただし,あなたが正当な(この時代に通用する)ミームの持ち主なら,という条件はつくが,である。

2002/02/09 (土)  
【おやすみなさい】

午後から宇都宮の栃木建協さんへ出向いて,協会イントラネット構築の打ち合わせをしてきました。
土曜日にもかかわらず,青年部のCALS検討委員会の方々をはじめ,親会さんから参加の方もおられ,大変にぎやかに最初の打ち合わせをしてきたわけです。

皆さんご参加ありがとうございました。
私といえば,例によって例のごとく,喋りだしたらかっぱえびせん状態で,ミーム話までしてしまったわけですが。。。

さて,協会ベースのIT化の指針は,「教育,教育,教育」(ブレアだなぁ)若しくは「啓蒙,啓蒙,啓蒙」に尽きてしまいます。
それから大事なのは事務局さんからの積極的な情報発信と,役員さまレベルでの積極的なネットワークの参加。
本当にこれだけ出来れば立派なネットワークがすぐに動き出すわけです。
といってもこれがなぜか出来ないのでして(理由はあえて書かなくとももわかりますね),そこをなんとか動かす仕組みを考えること(つまりネットワークがネットワークとして機能しない理由を探し出して対策を考える)が,すなわちIT化なのだと思います。

ミームはこういうときにも問題点を見つける便利なメトリックとなります。
→つまり「ミームはポチである」。

さて,栃木建協さま,とにかく,サイは振られたということです。
まあ,振られたからには勝ちにいく。
それが博徒の生きる道だ,って誰が博徒なんだ。★\(^^;

ということで,今日の私のミームは凶暴性が弱いようで,もう寝たいと言っております。
ミームにしてみれば,ただの乗り物の私としては,ミームの命令には忠実なのでした。

では,おやすみなさい。

2002/02/08 (金)  
【宅ふぁいる便】

今朝方(↓)のような文章を書くと一日中気分がよくねぇなぁ(私はそういう性分なのである),と思っていたら,それを察してか,新企の岡田さんが私宛の巨大なファイルを宅ふぁいる便で送ってくれた。ヒットだぜぇ!

ファイルを送付した旨のメールはモバイル(新潟から帰りの新幹線の中)で受け取った。曰く。

メール添付ではなく、「宅ファイル便」にて送付します。
ご存知かもしれませんが、大阪ガスのサービスです。(無料)
このサービスは、ありがたいです。
(宅ファイル便からメールが届きます。)
決してウィルスではありませんので、受け取ってください。

そして,宅ふぁいる便からはお預かり伝票URLがメールで届いたわけだ。
そして今それを自宅でダウンロードしているわけだな。

こんな便利なサービスが無料で使える世の中なんだ。わたしゃ知らなかった。知らないってことは幸せではあるが,損はするな,確実に。信頼できる相手同士ならこのサービスはすこぶる便利だ!岡田さんありがとう。



【新潟です】

桃知@新潟です。今日も新潟です。
昨晩はしゃれ亭で「のど黒」を食べました。そして地鶏つみれ鍋を食らいました。
うまかったです。

昨日のメールサイズ制限の話はね,いろいろな反響をいただきました。
でも,サイズ制限についてはどうでもいいことなの。

つまり会社の都合ってやつですからね,それをどうこう言っても始まらない部分が多いじゃないですか。結局会社が悪い,っていうのもつまらない結論だしね。それに,この手の話(メール制限でメールが送れないってお話し)は,私には日常茶飯事的にあることなんだわ。

ただ,今回の話は,自分たちの前提が当たり前だと思っている。つまりネットの中の見えない相手のことを考慮する余裕(気持ち)が双方になかった,そういうことを言っているわけよ。

つまり,最初にmailサイズ制限があることを「知らせる」のが円滑なコミュニケーションの前提じゃねぇかな,と思う。
→それぐらい最初に教えろよ,ってことだ。そうすりゃ最初から送らない。
→つまり,わたしゃショセン部外者であ〜る。ので,相手先の社内ルールは知らない。

ネットでのコミュニケーションでは,双方とも「知らない」のが始まりだから,世間一般的に常識だとされている(これも曖昧だな)以外の特別な社内的(個人的)なルールは「知らせる」というのは絶対に必要なわけだ。

そうすると,逆に私のほうからは「聞く」という行為があってもよかったわけだけれど,今回のは「知らせる」のが普通だろうね,というようなニュアンスだ。

例えば,私のような場合(モバイルが多くて細い線しか使えない)であれば,そう(モバイルが多いので,でかいファイルは送らないでねと)「知らせる」のが,相手にとっても結局はね,良いことになると思うわけだ。
→そうすれば最初からでかいファイルなんか送らない。
→わたしゃいつも外にいるので,でかいファイルを送ってもらう時は自宅の別のmailアドレスにしてもらっています。

つまり,昨日のはね,たかだか,「知らせる」「聞く」という,それだけのこと(コミュニケーションの基本)ができないのはなぜ?という,人間的な側面の話なのであってね,mailサイズ制限は二義的なものなの。まあ,そういうことだわ。

それでね,『「知らせる」「聞く」という,それだけのこと(コミュニケーションの基本)ができないのはなぜ?』という問題,これは考えると結構深いのだわ。13日のセミナーも結局ここに収斂するのか。。。

2002/02/07(木)  
【制度・慣行=環境×原理】

まずは一お連カウンターが27万ヒットなのだけれども,該当者は現れてくれないのね。まあ自己主張しないとその存在がわかんないっていうのがこのデジタルな世界の特徴なわけで,切番該当者がいらっしゃらない場合には,今回は前後賞で差し上げますので,該当された方はメールをくださいな。

さて,今月13日の講演で使用するPPTは結構大きくて(107枚,自分でいうのもなんだけれども内容的にも面白いと思のです,ってこういう時に限って受講者の皆様のウケは今一なのだわ,実は。),生身で4Mbを超えるのでZIP形式で約1.8Mbに圧縮してメール添付で主催者様に送ったのですけれども,主催者様のメールサーバーは,君はデブなのでここは通れない,っていうんですよ。障害物競争の梯子くぐりやってんじゃないんだからねぇ,と思うのです,この時代にねぇ。それで,意地になって何度も送ってるんですけれども,当然にダメなものはダメなわけでして(笑),まあ,奥の手のAnonymousFTPを使うことにしたのですが。最初からそうしておけばよかったなぁと思っております。しかし相手さんが相手さんだですからねぇ,まさかそんな小さなサイズの制限付けているなんて思わないじゃない,ねぇ。

さて,今回は5日のセミナーのはなしの続きなのでした。
昨日予告しましたたように,5日のセミナーのPPTが岐阜県建築工業会さんのHPからダウンロードできるようになったみたいです。
BDD04_2.zip 926kb 解凍するとマイクロソフト パワーポイントファイル,お題は「建設業のIT化ってなんだろう?」になります。
URLは,http://www.gifu-cia.or.jp/,フレームのあるHPですので,必要な方は「新着案内」からお入りになられてダウンロードしてください。
そして,この(↓)メールの紹介と続くのでした。
...岐阜での太田さんとのコラボ
如何でしたでしょうか。
昨年の11月札幌での桃知・太田セミナー
は私にとっては贅沢過ぎでした・・・
今回の参加者も同感でしたでしょうね。
競争力=環境×原理
解説を期待してます。
は〜い。なのです。
この「競争力=環境×原理」は,正確には「制度・慣行=環境×原理」であって,これは伊丹敬之一橋大教授が『経営の未来を見誤るな』(2002年2月10日,日本経済新聞社)で展開しているものをぱくったのでした(笑)。

この伊丹先生は日本的な経営に「人本主義」っていう名前を付けて,昨今態度の大きい(笑)アメリカナイズされた株主主権のような経営の考え方に対して警告を鳴らされている方ですが,私は基本的には伊丹先生が大好きなわけです。

それでは,「制度・慣行=環境×原理」を地場型中小建設業に対して考察してみましょう,っていう最初の取り組みが5日のCALSセンターでのセミナーなのでした。と言うところで,まずは言葉の定義からですね。

最初に「環境」ですが,これは経営を取り巻く環境ということで,この理解は問題ないでしょう。問題はその経営を取り巻く環境っていうのはいったい何?ってことになるのでしょうが,それは「市場」ということだと思うのです。

→その「市場ってなに」を理解するためのちょっと新しいメトリックがミームってことです。
→このあたりのさらに突っ込んだ考察は13日にします(が,専門用語の解説はしませんので悪しからず)。

この市場というものを考えていくと,そこには環境としての市場と,市場原理っていうときの「原理」もあります。つまり「原理」っていうのは結構難しい概念で,例えば伊丹先生のいう「人本主義」っていうのも原理なわけだし,これと対極にある株主重視っていうのも原理なわけですが,つまり経営が立脚する基本的な考え方とでも理解しておけばいいんじゃないだろうかと理解しています。それで,これは当然なのですけれどもね,この「原理」っていうのはその企業が属する国や地域によって違うわけで,それはこの「原理」というのはは歴史的・文化的なものに依存しているってことも忘れちゃいけない,ってことですね。

「制度・慣行」っていうのは,それらの「環境」という変数と「原理」という変数(そう簡単に変数になっちゃいけないんだろうけれどもね,変数の部分もあるし,定数の部分もあるし,そういう複合体と考えたほうがよいかもしれません)の変化の乗数によって生み出される個々の企業の具体的な行動です。

伊丹先生はこれを薬のたとえ話にしているので紹介します。例えばある病気になったとして,それがその人の置かれている「環境」です(これはわかりやすいですね)。それで具体的な薬や治療法(これが「制度・慣行」)を選ばなくちゃいけないのですが,その時に自分の体質を知らないと,体質に合わない薬や治療をしてしまって逆効果になることもあるし,さらに治療への考え方も西洋医学と漢方とでは全然違うわけで,それを見極めなければならないってことです。このときの自分の体質が「原理」であり,治療への考え方も「原理」である,ということだ,と私は理解しております。だから原理を構成する要素も複数あると考えたほうがよさそうです(間違っていたら指摘してください)。

つまり,建設業を取り囲む市場の変化と言ったとき,例えば工事量が減ったとか,低価格入札が増えたとか,談合が出来なくなってきた,っていうのが「環境」つまり病状ですね。それで,その病状にも原理原則があって,なぜそうかと言えば(あえて胆略的に書きますが)今までのケインズ経済的な経済政策が陰を潜め,新古典主義的な主流経済学派さんの考え方が,本当に主流になってきた,ということと,ミームメトリックで見れば,消費のミームに公共事業(本当は「今までの公共事業システム」って書くのが正解でしょう)はダメダメという空気が充満しちゃっているためで,これはむしろ「原理」だと私は分類しているわけですが,「環境」と考えたほうがわかりやすいかもしれませんし,今回はそれでも問題はないでしょう。

ここで,もう一つの原理である個々の企業が依存している経営の原理というものも考えなくてはいけないわけで,それじゃ個々の企業が依存している経営の原理ってなにかなぁと。その最大のものを私は開発主義の影の部分を支えてきた毛細血管機能と理解しているわけです。それから地場型中小建設業の原理で特徴的なものといえば,非常にドメステックな産業であること。労働集約的な産業であること,などなど。。。

つまり,環境は変化している,それに対して経営の原理は戦後の高度成長期からの引きずりのまま,つまり原理は普遍だ,とすれば,制度・慣行が変化しなくてはならない。もし制度・慣行はなるべくそのままにしておいて,でも環境の変化はどうしようもないものだから,それじゃ経営の原理を変えよう(つまり人を重視した経営から資本の効率性,大企業なら株主重視なんていうようなもの)にしようとする,というような考え方(メトリック)を私たちは持つことができるわけです。

実際の企業活動はこんな(↑)単純なものじゃなくて,どんなに小さな企業でも,さまざまな「制度・慣行=環境×原理」の方程式が経営におけるさまざまな局面で行われていると考えられますし,その束が一つの企業における「制度・慣行=環境×原理」となって表出してくる,と考える方がより実態を掴めると考えています。

私がこの方程式をお気に入りなのは,「環境」が決まれば一義的に処方箋(「制度・慣行」)が決まるっていうものではないってことなんです。つまり「原理」(自分ってなに?自分が依存している原理原則ってなに?それは今も通用するの?)を考えなくちゃ答えは出ないってことなのですね。つまりIT化っていうのは「制度・慣行」の部分を多く担っているものだと考えられるわけです。

ですから,「地場型中小建設業におけるIT化ってなに?」という命題を考えるときに,その「環境」と「原理」を見る目を持たなければその答えは得られない,ということです。その「環境」と「原理」を見る(私が新しく手に入れた)目(メトリック)こそがミームなわけですね。(つまりミームはポチである)

もともとこの作業は,私が地場型中小建設業のIT化を考えるときに一貫して行ってきた作業ではあるのですがで,私はそれをただうだうだと書き連ねていたわけで,こうしてある一つの方程式と一つのメトリックにめぐり合えたおかげで,今までの何千行かが,たったの一行「「制度・慣行=環境×原理」に納まってしてしまったってことなんだろうと思うのです。(だからね,読書は大切なのだよ。)

ということで,大体わかりましたでしょうか?ってわかりにくいですよね。ミームについても散々言われているのですよ,「わかりにくい」って。でも,セミナーを聞いていただくと皆さん一様に「わかった」って言ってくれるわけです。つまりこれは私の文章表現能力の低さ故なのですが,出版予定の本ではもっとわかりやすく書くように努力しています(それが私のミームの私に対する命令なんですよ)。ということで,メールの主さまには今月12日に詳しくご説明したいと思います。

今日はこれから新潟で新潟県電設業協会さんと新空衛(本名忘れた。。。)のイントラネット講習会で新潟へ向かいます。
では,皆様,今日と言う日が素敵な一日になりますように。ごきげんよう。

2002/02/06 (水)  
【やっぱり私は岐阜が好きだ】

昨日の太田ジオさんとのコラボレーションは深夜まで続き(わたしゃ喋っているうちにすっかり体調が戻っちまったわけよ),ソフトピア内での懇親会(参加してくれた皆さんありがとう。北沢さん,鈴木さん,仲矢さん,遠くからの参加ありがとうございました。),それから久しぶりに大垣のmachikoさんにより,妙に話のあうママと久しぶりに話をし(と言う割にはなにを話したのかさっぱり覚えていない。宇佐美さんお世話になりました),それから宿泊先の岐阜に戻ったのだけれども,真直ぐホテルへ戻ればいいものを,ちょっと柳ケ瀬で道草を食らい,ついでに帰り際味噌煮込みうどんも食べて宿に入ったのは当然午前様。太田さん,長時間お付き合いくださいましてありがとうございました(あなたとの会話はいつも楽しいです)。

昨日の私たちの話ってのは「市場経済における競争力とは−標準化と差別化について−」という,それは単純なお題じゃないわけだ(単なる技術論的なIT話ではないという意味でね。しかしCALSセンターもこんなセミナーを準備できるところまできたわけで,堀さん,あんたは偉い!)けど,太田さんは岐阜県の方々に敬意を表して,くどくどとした前置きを省いて(つまりその部分は皆さん既にご理解済みという解釈ね)核心部分の話をしてくれました。これは喋る側にとっては結構考える(迷う)部分なわけよ。

さて,私の話は「競争力=制度・慣行=環境×原理」という視座から,ミーム理論を使って「競争力」と言う部分を「ここほれわんわん」してみたわけだ(ミームはポチである)。早速反響のメールが届いていたのでご紹介しましょう。

今日は、特に内容の濃い講義でした。

最近たまたま手にした「<競争優位>のシステム」(加護野忠男氏 PHP新書)という本のなかで企業の風土・信用は競争力の根源であるとか、それが価格競争に巻き込まれない為の差別化の企業価値になるといったくだりを目にしていたことと、そして今回のミームのお話では、かなり内容が前回よりも具体的にお話いただいたので、感覚的には言わんとされたことをより感じることができたと自分では思っております。

悪いミームの伝播については、以前友達に薦められて読んだ「無責任の構造」(岡本浩一氏 PHP新書)の内容を思い出しました。

桃知さんからは、怒られそうですけど、役所(○○市)の関心を最初に引くということで一応、電子納品モドキをやってみましたが、根本的には、もっと地域に目を向けないとということですね。

とにかく、Webベースのイントラをやってみます。

今は、電子納品を餌(脅し)にして工事写真を全部デジタル写真にしてしまったので、現場の人間も毎日、コンピュータを使わざるを得なくなくなり、また、実際の工事量の減少の実感と桃知さんのミームの伝播効果で下地は少しはできているのではと思っていますし。

懇親会でお話いただいた、問題点の発見の手段がそのまま問題点の解決になるわけではないということも肝に銘じておきます。

この方は,中津川セミナー(私が起業した年に岐阜県で行った3回のセミナーの最後のもの)の時からの私の講演を聞いて下さっているそうなので,この理解の深さもなるほどなぁ,と合点がいくわけです。こういう方々が沢山いるんだ岐阜にはね。やっぱり私は岐阜が好きだ。

ところで昨日はセミナー終了後に岐阜県建築工業会のIT委員会を同所で開催。
そこでだ,昨日のセミナーのPPTを岐阜県建築工業会のサイトからダウンロードできるようにお願いしてみたらOKとなったわけ。なので準備が出来たらお知らせするからね,しばし待たれよ,なのだ。

今日は以下で帰京後打ち合わせ1件。
岐阜 9:45 東海道本線快速(熱海−米原) 名古屋 10:03
名古屋 10:20 のぞみ 52号 東京 12:00

2002/02/05 (火)  
【今日の講演】

まずは,一お連のカウンターもまもなく27万になります。今回の切番ゲッターの景品はオリジナルタオル(ただいま作成中。お届けには少し時間がかかります)です。27万ゲッターの方は忘れずに店主へメールです。

ひたすら眠り続けて体調の回復に努めたおかげで,何とか今日は過ごせそうなところまでには復調したかと,そんな状態です。早速沢山の方からお見舞いのメールをいただきましてありがとうございます。

さて,本日の講演は,IT話ではないわけですね。つまり,「市場経済における競争力とは−標準化と差別化について−」というお題なわけで,今日のお話しは,「市場経済」という曖昧なものものを前提とした「競争力」についてのお話しなわけ。こう書いただけでもなんのことかわからないじゃないの,ね。

それで,私のものの考え方っていうのは,建設業(に限らず全てのドメステックな企業)っていうのは制度依存だ(つまり水槽の中の金魚ね)って言うものなので,本当はこの制度(環境っていってもよい。今回の話ではつまり「市場経済」だ)を徹底的に考察することからはじめないと気がすまないわけ。

つまり,競争力ってことを考えるとき,そこにはこういう方程式があるんだ。
競争力=環境×原理
 →なんのことだかわかる?今日のセミナーに出席した方だけはわかるのよ。

だけどもね,今日は1時間20分ぐらいしか喋れないのでね,その部分はあっさりとすごさなければならない。すなわち結論から入る。つまり,なんで建設市場は縮小しているのかということね(環境のアメリカリズム化)。そこからね,中小建設業の原理の話をしなくてはならない。つまり,ミーム理論がここで出てくるのだよ。そしてそのミーム理論から中小建設業における「競争力」とはなにかと言う話をする予定。この話は結構斬新だし面白いと思うし,ことの核心を突いていると本人は思っているわけね。

まあ,倒れない程度にエキサイトして喋ると思う。お楽しみに,って,いったい何人さん受講するんだろう,こんなセミナーねぇ。
わたしや,個人的には一番素敵なセミナーだとは思うんだけれどもね。

2002/02/04 (月)  
【デジタルコミュニケーション】

桃知@岐阜で熱を出してうなっていました。体中が痛く,特に胃が痛く,全然ご飯が食べられません。
今日は鹿島建設名古屋支店様に招聘いただき,鹿島名古屋事業協同組合経営トップIT研修会での講演でした。

久しぶりの4時間枠だったのでうれしくてしょうがなかったのですが,なにせこの体調です。立っているのもままならず,途中椅子に座りながらのお話となってしまいました。なんとも情けなく,本人はかなり悲しい気持ちなのでした。

それで,講演終了後,もう体中が痛くて,寒気はするしで,TAXIで岐阜の本日のお宿まで移動してきたのでした。
ホテルについて,風邪薬を飲み2時間ほど寝ましたら,だいぶ体も楽になったものですから,こうしてここに書いているわけです。

今日の話は例によって「ミーム」の話なのですが,それは,私が今岐阜にいて,風邪をひいて具合が悪い,ということを,ここに私がこうして書けば何百人の方々に認識されるわけですが,もし何も書かなかったら,その事実は認識されないということ。

例えば,私は店舗も持たず,営業活動もせずに仕事を得ているわけですが,それはインターネット上にある,この「ももちどっとこむ」がミームを発信しているということ,そしてインターネットとはミームが手に入れた新しい培地(プール)に他ならないこと。

そういう話をしておりました。
つまり,これデジタルコミュニケーションなわけで,ミームの伝播はコミュニケーションによって行われるわけですね。

ということで,わたしゃ,又寝ます。



【顧客至上主義】

これから名古屋出張なので忙しくしている。
なので,まあ,こういう話題を振ってお茶を濁しておこう。

こういうメール(↓)なんだけれどもね。
2月1日の戯言。少し目から鱗が落ちやした。ポロポロ。

顧客は国民でなく役所であるというのが私の考えでしたが、師匠の
書かれたロジックで考えると、確かに国民が顧客であると思われま
す。

ですが。それでも現在の状況では、対役所という考えでなければ、
仕事が受注できないというのも現実としてあるわけで、これは役所
が役所である限り、続いていくことだと思ってます。

結局は役所の意識が変わらない限り、業者の意識も変わらないわ
けで、そういう意味では相変わらず役所指導の業界であることに変
わりは無いですな。

んー。と考えると、この業界ってほんとに顧客優先主義ですね。(笑)

んじゃまた。

まあ,これが普通の考え方だろう。
でも,この思考のループの中で仕事はどんどん減っていくわけだ。つまり建設業界はこのシステム硬直がもたらす危機に対して何の打つ手もないってことか。

そここにあるのは諦めかそれとも甘えか?まあ,そんなものんだろう。役所と一緒に心中するつもりならそれでよいけれども,民間企業の経営者としては極めてつまらない発想なのである。

役所を変えることが出来るものはなにもない,という発想って,本当は建設業界が守ろうとしている秩序というだけのものじゃないだろうかね。わたしゃ,そう思う。結局,役所が変わらない限り業界も変わらないと泣き言をいいながら,それを変えないようなベクトルを持っている(出している)のは,むしろ受注者側(建設業界)じゃないのだろうかね。

役所が,役所がと言いながら,それが一番心地いいのは結局建設業界だったりするんじゃないか。まあね,(↑)のメールの方のところはそんな状態じゃないのは知っているけれど,それさえも,市長が変わる度に仕事が取れる取れないなんていう部分に対する不満だろうから,結局前述の思考の中で閉塞しているだけだ。仕事が取れる立場であれば,それを批判することもないだろうし,この場合,顧客優先主義っていうよりも,ただ既存のシステムにこびているだけだろう。

それから,公共事業っていつまでも役所が発注元だとは限らない,って私は思うわけ。
志木市の例っていうのはそこまで考えていたほうがよいと思うわけだ。

つまり,建設業界は市民を味方につけろってことなんだけれども,そんなこと言うと「役所が変わらないから」って言い訳いうのが精一杯なんだろうなぁ。つまり営業する気がないとしか私には思えないわけだ。

ということで,名古屋へ向かう。

2002/02/03 (日)  
【休み】

体の調子がわるい。
今日は休みにさせていただきたい。

2002/02/02 (土)  
【寝る】

浜松から帰ってきた。浜松駅には鈴木自動車の新型車がいつも展示されているのだけれども,今回の展示品はMRワゴンラパンで,スズキの軽自動車は良くできているなぁ(と言っても乗ってみたわけじゃなくて,そのスタイリングとか居住空間の作り方とか,見た目だな),と感心。スズキっていうのは町工場の香りを持つ日本最後のものづくり会社なのかもしれないなぁ,と思った。

と言うことで,本当は中小建設企業にとって,今流行の経営のスタイル,例えばシェアじゃなくて利益重視,株主を第一に考える,なんていう米交流の経営がいかに役に立たないものであることを書こうと思ったのだけれども,今日は疲れた。なのでそれは明日のココロだ。お休みなさい。



【私たちは,なぜこうして地場型中小建設業にこだわり続けてるのか】

北海道のA木さまからのメールを紹介しましょう。志木市ネタについてである。
わたしゃ,この人の持っている考察の視座が好きだ。A木さんも私も事物を観察する際に思考の眼鏡をかけていることは確かだし,それがなくては何も考えられない。しかし,A木さんのメールを読むと,その思考の眼鏡が何かに押し付けられたものではなく(つまり型にはまったというやつだ),眼鏡の選択さえも自由にできる,ということに気付く。これはね,ちょっとやそっとでは出来るものではないのよ。

A木@○設○聞です。
開発主義の日没のカギを握るのは、やはり「市民」ではないでしょうか?
志木市の件は、ある意味で言えば議会制民主主義の自殺行為です。

ただし、公共工事にまつわる「胡散臭さ」「癒着」という消費ミーム、政策決定の欺瞞(鉛筆をなめる)、議会の機能不全という現状を打開する実験的な手法だと思います。米国ではNPOのサードパートナーが技術的な考察を加えて市民に対して徹底的に情報公開し、それをもとに行政が判断するという手法をよくとっていますが、志木市の例はその初期版ではないでしょうか?

 しかし、日本ではNPOが育っていないため「お前たちが決めたんだろう」という行政の責任のすり替えに利用される危険があります。

 自治体の首長は選挙になると、よく「一人一人の住民の意見を聞いて、町をよくしていきたい」と言いますが、実際には「一人一人の意見を聞くことなんて無理だし、そんなことをしていたら、何も判断できない」と思ってるはずです。

 しかし、ITが発達してくると、一人一人とは言わないまでも、これまで考えていた以上の住民から簡単かつ瞬時に意見を徴集でき、しかもそれを行政判断に生かせたり、理事者側が数多くの情報を発信できる時代になります。
行政における新たなビジネスモデル(?)は、公共工事の計画・設計から発注、管理を変質させ、地元に税金を収めているとか地元の雇用を支えているという地場建設業者の既得権を奪ってしまう可能性(われわれにとっては危険性)があります。
開発主義の日没とは、公共工事のフロー効果をまったく認めない消費ミームを作り出すことなのでしょうか?

 じゃあ、そこから地場建設業者はどうすべきかを、じっくり考えていきたいと思っています。

ここで次の一文を読んでいただきたい。
 神野 これも佐和さんの著作を読んで感じることですが,日本の場合は市民社会がきちんとできていなくて,市民社会の社会契約として政府ができていないものですから,逆に政府に,「国民は行政に甘えるな,自分で自立して生きていきなさい,それこそモラルハザードだ」と言われると,なるほどと思ったりするのです。しかし,それはおかしいのであって,われわれが共同の問題を解決しようと思っているのが政府なので,自分たちが甘えているわけではないと言い返すべきでしょう。
 そのために結局なにが起きているのかというと,指摘をなされていますが,市場経済と国家主義が結びついてしまっている。本来市場経済と相容れない国家主義がなぜ幸せな結婚みたいなかたちで結びつくのかといえば,それは市民社会が抜けているからですよね。

(以上引用は佐和隆光(編),『「改革」の条件 至上主義の貧困を超えて』2001年11月22日,岩波書店,114項。神野直彦灯台経済学部教授のことば)

確かに私も「市民」だと思う。昨日書いたように「社会とは,市場,政府,市民社会という三本脚の椅子(スツール)」(佐和隆光)だろうし,なぜにこの国が開発主義の日没(ポスト工業社会への日の出)に苦労しているのかと言えば,市民社会という脚が欠け落ちているからだ。開発主義は村上も指摘するように国民国家を前提とした国家主導の経済政策である。その開発主義の過程で,われわれは確かにモノ・カネ的には豊かになった,国民総中流,村上の言葉で言えば新中間大衆の出現である。その結果としてわれわれは多くのもの(モノ・カネ)を得た。そして多くのものを失った。
そして私はこう自問するのだ。私たちは,なぜにこうして地場型中小建設業にこだわり続けているのかと。

そのはっきりした答えは今は(以前はあったが今はそれとは違うと言う意味だ)わからい。たぶん,多くの方々(当事者も含め)にとっては,余計なお世話なんだろうと思う。しかし,少しはええかっこしいで言わせていただけるのならば,そこには,今と言う時代に日本という国が抱える危機が集積されているからだと,そしてそれは私自身にふりかかる(いつ起きても不思議ではない)危機だと,つまり自分自身の問題だと,そう考えているからだ。

つまり今このドメインで起きていることは,このドメインに関係のない(と思っている)多くの方々が経験する可能性の高い危機(失業の危機だとか,貧困の危機とか,不平等の危機とか,そして根本的な問題としての人間として社会とコミットメントするための手段を失う危機というよなもの)を抱えているのだと思う。そして,その危機とは明日はわが身(私のことだ)に降りかかってくる危機なのだと感じているからだと,そう自己分析しているわけだ。

ということで,これから私は浜松出張なのである。

2002/02/01 (金)  
【息抜きに自分のことを考える】

桃知@息抜き中です。
息抜き中にここに書き込むということは,ここは私の思考の場であり,息抜きの場でもあるのだな,といまさらながら感じておりました。そういう本来極めて個人的な楽しみであるものを,わざわざこうしてオープンにするということは,私のミームはかなり凶暴なのでしょう。

そして今,ミームはコンピュータとそのネットワークという,新たな外部処理装置−電子媒体−をつくりだした。
インターネットの出現は,新しいニッチの出現というにはとどまらず,新しいプール(培地)の出現である。
(佐倉統)

私のようなものが,こうしてインターネットを利用することで,まがりになりにも三度のご飯をいただくことができる,という事実こそが,私をして,インターネッの精神文化を信じ,ミームの存在を理解するに至った理由なのだと思うのです(昔なら完全無欠の失業者です)。

つまり,今の私の思考は極めて私の個人的な経験上に成り立っているわけで,それを世間一般におこる事象に対して拡大していく作業をしている,と言ったらわかりやすいでしょうか。そういうことをずっと続けているわけです。なので,私の職業はコンサルタントという仕事なのですが,なにをコンサルしているのかというと,かなり定義はあやふやなのかもしれません。

私は確かにシステムを作るという意味では技術的なコンサルテーションもします。しかし,このHPに訪れてくださいます方々は既にお気づきのように,私という存在は,思考することを許されている,もっと極論すれば,思考することでご飯を食べることを許されている人間なのだと感じています。

例えば,2月4日の講演からミームのお話しはデフォルトな設定とします。そして今までIT社会,情報社会と表現していたものをポスト工業社会と統一して呼ぶことにしました(内容的にはあまり変わりませんが,どうしても今までの視点では抜け落ちているところがあると感じています)。

ポスト工業社会と言っても,米国流もあれば欧州流もあります。日本は今までは米国流に目を奪われていた(それが主流となってきていた。それはそれで価値はあります。なにせポスト工業社会を米国は達成しているわけですから)けれど,この国は,その米国流がベストなのかという疑問は,私自身の中では日増しに大きくなっていくのです。

ではどのような形を取るのがベストなのか,そして,その中で,制度依存の極めて強い地場型中小建設業はどのような戦略を持って自己を変態させていくのか,という部分を考察できるような形に私自身も変態していくわけす(沢山の方々の肩を借りながら)。これは今に始まったものではなく,このHPを立ち上げてからずっと続けている作業なのですね。だからいつも答えは「わからない」なのです。

私の分析の前提は,「ポスト工業化」という変化は制度的なあり方に依存している,というものである。これは,現在の制度的あり方が国民的な方向性を大きく(過度とも言えるほどに)決定していることを意味している。(アンデルセン)

京都(舞鶴)からメールをいただきました。発注者の方です。勇気付けられました。ありがとうございます。

舞鶴の講演会では、お世話になりました。
私なりの、感想を送信します。
 ・易経
   窮すれば 則ち変ず    変すれば 則ち通ず

  危機(危険・機会)に際し、変身を遂げてこそ道は開ける
   危機はチャンスである


【思考行き止まり】

午前中,歯医者に行って虫歯の治療(なにせほとんど自宅にいないのでのんびりやっているのよ)して,その後肛門科に(これも久しぶり)行って消毒(って気休めみたいなものだけれども)。その帰りに,これまた久しぶりに樽屋さんへよって「おじやうどん」を食べてきたわけだ。おじやうどん,冬は格別だなぁ。ただ,最近私の嗜好が変わったのか,ちょっと塩辛く感した。

今日はこれからこの戯言を書いて,PPT作成で一日が終わる予定なのだ。まず2月4日(月)の名古屋での大講演(4時間もらっちゃったもんね,クローズな講演なので一般の方々は参加できませんが,4時間も喋れるなんて芸人冥利につきるのだ)。それから翌2月5日の建設CALS/ECセンターでのミーム爆発講演2月13日の赤坂でのウルトラ難解な(専門用語の説明は一切しません)講演(これはもう予定数の倍ぐらいの申し込みがあるらしくて,主催者様は会場を広げる,と言っておりましたが,はたしてどうなることやら)。そして2月18日には,知っている人は知っているだろうけれども,知らない人は泣いて悔しがる朝から晩まで桃知漬けという(これは講演と言うよりは)講座を大阪で予定している(全額国庫補助という超お得講座なんだなこれが)し,2月21日にも大阪で秘密講演があるのでね,今日中にそれらの資料を作ってしまう予定にしている。

ということで,昨日ペンディングしていた志木市のお話し(←まだ読んでない人は読んでからどうぞ)。これは,公共工事の本当の発注者は誰?っていう命題を考えるサンプルとしては面白いかもしれない。例えば,北海道のY川さんからこんなメールをいただいた。

ところで、志木市の件ですが。。。
このニュースには、ちょっとびっくりしました。
私なりに、底の浅い思考で懸命に考えてみました。

>公共事業の透明性を高め、市民の行政参加を促す

と言うことですが、額面通りには受け止められないですね。
自治体発注の工事にも「超低価格入札・ダンピング・叩き合い」の波が押し寄せ、日常化してしまっています。
財源不足のおり、低価格化は望ましいところですが、成果物に瑕疵が会った場合、発注者責任は逃れられませんね。
しかしながら、業者の体力も急激に下がっている昨今、いずれ低価格落札のひずみ(手抜き工事の可能性)は出てきてしまう。

ならば、「市民の行政参加」という美辞麗句に名を借りて一般市民に「発注者責任」を負ってもらっちゃおう!
「市民が選んで発注した工事」だから「行政は認めざるを得なかった」という大義名分がつけられる。

「市民の行政参加」に名を借りた体の良い「責任逃れ」なのでは。。。。?

う〜ん、何か違いますねぇ・・・・わかりません。降参です。

実は私の答えも「わかりませ〜ん」なのであ〜る(その理由は後の記述を読んでもらえばわかるだろう)。

まず建設業界の顧客とはだれかを考えよう。その時に,その市場(つまり建設市場)を,民間工事と公共工事というドメインに分けて考えるべきだ,と仮定することにしよう。そして,公共土木工事依存型の地場型中小建設業と,民間建築工事を中心とした地場型中小建設業では一体全体何が違うのだろろうかと考えてみよう。

まず,民間と公共というドメイン別にみればその両極のモデルは以下のようなものとなる。(全て元請工事だと仮定する)

A社:公共工事100%,民間工事0%
B社:公共工事0%,民間工事100%

この場合,一般的な(ってなにが一般的なのかという議論は今回は無視だ)答えはこういうもん(↓)だろうと思う。

結論から言っちまうと,このA社もB社もな〜んの違い(差異)はないってことだ。
正確に言えば,A社とB社は,営利目的の民間企業ということにおいてなんの違いもない。違いがあるとすれば公共工事と民間工事という市場が依存している制度の差に過ぎない,ということなわけ。ただそれさえも本来各々の企業にとって非常に利己的な選択であってね,その民と公のどちらの市場を選択する(依存する)か(そもそも建設業を営むのか否か)は,各々の企業が勝手に決めればよいだけのことだから(特に中小零細規模であればあるほど),つまり,あなたは民間,あなたは公共なんて誰も指図しちゃいない,ってことにおいて(企業経営という側面から覗けば)民間と公共というドメインを分ける必要もないということだわね。

以上は,市場原理支持者は多分こう答えるのだろうなぁ,と想像しながら書いたわけ。私は企業経営という側面(サプライサイド)から市場としての民間工事と公共工事を考えるときにはこの視点でいいと思っている(つまり公共も民間も本来経営側の相違なんてたいしたものではない)。この視座は,公共工事に依存しようが民間工事で生きようが,本来それは個々の企業の自発的な選択なのである,ということを強調する。あなたは,だれかに強要されて(アウシュビッツの収容所のように絶対に逃げられない状況で)今の事業をしているの?ってことだ。多分,これがほとんどの国民の皆様が建設企業を見る共通した目じゃないだろうか。

でもね,多くの公共工事依存型の地場型中小建設業は,戦後の高度成長を支えた開発主義のその裏側(暗の部分)を支える役割を担うことで(その時代時代の日本を代表する産業から漏れた低機能な単純労働雇用の受け皿,農村部の疲弊の防波堤),政治的,政策的に増殖した産業である,というのが私の認識であるわけ。だから建設業は高度に制度依存型なわけで,上の答えじゃつまらない。(だからいつも考えている)

そういう背景を無視してしまうと,現実的な問題として,公共と民間の営業ってぜーんぜん違うと言う部分を説明できなくなってしまうわけよ。公共と民間では,同じ会社に存在する営業担当者でも,夫々持っている文化(ミーム)が違う。このあたりは業界の方々には説明不要なことだろうけれど。

じゃ,問題はその違いってどこから生まれるの?なのでね,ここで考えるのは公共建設市場ってなに?もっと絞り込めば,建設市場の上に「公共」って言葉がくっつくんだけれども,それじゃ「公共」ってなに?ということなんだろうと私は思っているわけだ。

公共って本当に何なんなのだろう。
この明確な答えを私は持ってはいないのよ,じつは。わからない。多分私の日々とはこれを毎日考えていることなんだと思う。

本当に公共性ってなによ。(↓)でわかるかい。>ALL
*こうきょう【公共】
こうきょう【公共】
社会一般の人びと(に関すること)。
用例・作例
―の建物
―事業・―機関
【公共組合(―アヒ)
公共の利益を目的とする、社団法人の組合。例、健康保険組合。
【公共企業体(―ゲフ―)
国や地方公共団体の出資による公共性の強い企業体。
【公共施設】
公共のための施設。道路・公園・公民館・図書館・国公立学校など。
【公共職業安定所(―ゲフ―)
国民が希望する職業につけるように紹介したり雇用保険を扱ったりする役所。(職業)安定所。職安。
【公共心】
私利にとらわれず、公共の利益を優先させようと心がける気持。
【公共性】
公共の生活(利害)にかかわる度合。
用例・作例
―が高い(強い)
【公共団体】
法令に基づき、国の監督のもとに活動を行う法人。例、公共組合。
用例・作例
地方―
【公共放送(―ハウ―)
スポンサーの出資にたよらず、国庫の補助を受けたり視聴者から料金を取ったりしてする放送。⇔民間放送
【公共料金(―レウ―)
水道・電気・ガス:郵便・電報・電話などの料金や、汽車・電車・バスの運賃など、国民全体の生活に深い関係の有る事業の料金。政府や地方公共団体による規制を受ける。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


ここでは,公共ってなによ?って考えるのはこれ以上しない。とりあえず,公共建設市場っていうのは,こういうものの建設にかかる部分としておこう。それで,志木市の場合だ。志木市が想定する方式では,議会(議会制民主主義の根幹をなす制度)があるにもかかわらず,公共工事の場合には,それを市民の代表とはみなさない,ってことなんだな。

つまり,公共工事に関する限り,議会の機能を疑っているわけで,議会機能のある部分を直接市民に委ねる,というものだろう。これが第一義的には官側のアカンタビリティの確保(ていのいい責任逃れ)にあるのは,Y川様の指摘の通りミエミエなわけで,それは疑いもないけれども,そんなことを議論してもつまらないだろう。

なのでこんな風に考えるのはどうだろうか。例えば上の辞書引用(↑)では,【公共心】を「私利にとらわれず、公共の利益を優先させようと心がける気持。」としているのだが,公共工事に関しては,議会側にこの「私利にとらわれない気持ち」の全てを期待することは難しいという判断が官にあるのだと思う。これは,公共工事における技術ミームの保持者であるとした官と建設業者に,議会(の多分一部)も加えなくてはならないという解釈をしておこう。っことで,結局,このお話しは「公共工事複合体」の議論になっちまう。これは開発主義における問題として村上泰亮が最も危惧した部分であり(つまり開発主義は既得権益を作り出し,それゆえに日没させることが難しい),これが公共工事はダメダメというレッテルを貼った消費ミームを作り出した張本人でもある。

→なんども書くが公共事業の顧客とは国民の皆様である。
→この認識が出来ない限り,この閉塞からの脱却はできないであろう。

で,ここで,建設CALS/ECセンターのH所長(全然隠してないなぁ)からのメールを突然にもちだすことにしてしまうわけだ。

いつも戯言楽しく読んでます。
1月28日の北海道A木さん、凄い理解力ですね。
ただ私が読んでいて気づいたことは、建設事業の個々の特殊性の整理が十分でない為、公共事業と民間事業では異なる対応があり、読者によっては反応が違うと感じました。
私なりに整理してみたのですが、的を絞った話でないと理解出来ないのではと思います。
この整理は理解しきれていない言葉足らずのものですが論点整理が必要と感じ、あえて挑戦してみました。
ご指導下さい。

私は志木市(が提案する)方式を評価する。なぜなら,この方式は公共建設市場を縮小させている消費ミーム問題の打開策の一つになるかもしれない,と言う意味でだ。極端な価格メトリックを公共建設市場に持ち込み市場の崩壊を起こすよりはいくらかはましなものだと思う。つまり,志木市方式は意思決定のプロセスを市民と共有するという意味で前向きなのである。
これについては以下の意見が参考になるかもしれない。

 役所の意識改革とは、ひとことで言えば役所ゆえの組織の論理に縛られず、目的に対して直線的によいと思われることをどんどんやっていくことに尽きる。役所は実態としては縦割り組織であり、部ではなく課、課ではなく係の単位での意思決定が積み上げられるのが実状だが、形式的にはヒエラルキー型の組織であり、最終的な責任は政治家である首長にあるとされている。役人は責任をとれないし、またとるかのような言動はしてはならないと訓練されている。そこには、部課を超えた役所横断的な利害調整や改革が積極的に推進される環境は確実には生まれにくい。ヒエラルキー型の組織では、自分よりも上のレベルでの意思決定を公然と批判したり、勝手に覆すことはできない。特に外からのプレッシャーに対しては、組織そのものを守る必要から、見え見えの建前論を貫いてでも、組織として決定した事項を守ろうとする。

 役所は法律によってさまざまな規範に縛られている。いかにそれが実態と乖離していようと遵法的であることが第一に求められる。極論すれば、法律的には役所はいかなる政策でも失敗してはならないのだ。大型プロジェクトの破綻処理が遅れる理由は、そもそも破綻の認定や処理方法が法律で想定されていないからであり、役人に法律を超えて機動的に対応せよというのは、彼らの職業意識に反するところがある。

 これらの役所的な組織の論理は、風通しの悪い老化した組織であるならば、民間組織であっても程度の違いはあってもありうることだ。行革の目的は、さまざまな仕掛け導入を通じて、戦略的に役所の意識改革を図ることである。役所の論理を突き崩そうとすれば、役所の内部だけに向いている役人の目線を住民に向けさせる以外にない。役所は住民のために奉仕するという基本的論理に反対するものは誰もいないからだ。そこで、行革の理念として

 @住民を顧客とみたててその満足度を高めるようにつとめる

 Avalue for moneyの感覚を鍛える

等のマーケットの論理に見立てた理念を打ち出すことが必要となる。ただし、これは役所を意図的に企業的な組織に置き換えた表現であって、企業ではない役所ならではの理念が別に必要になる。もちろん、そちらの方が重要だ。そこで、

 B住民に原則としてすべての情報を公開し、結果で住民を満足させるのではなく、意思決定のプロセスを住民と共有することで住民の満足度を高め公共性を鍛えなければならない

 C役所は間違わない、万能であるという建前を放棄し、事後的な責任ではなく手続きに対する責任をっていることを自覚する

 D役所はまちづくりの脇役であって、法律やさまざまな政策のノウハウに通じた技術者集団に徹するという自覚を持つ

 E役所は役所でしかできないことをする組織であり、それ以外のことはできるだけ抱え込まない

といった理念を打ち出す必要がある。民間的組織との類似性を強調しすぎると、利潤の最大化や規模の拡大といった行革とは反するものに波及する可能性がある。役所の場合には、自らの活躍するフィールドを自分で決める必要があることと、民主主義を支える組織であって税によって財源調達するという宿命から、住民との関係を重視しなければならないからだ。

以上の引用は,小西砂千夫『財政システムにおける公と民の関係』(http://www.stylebuilt.co.jp/konishi/tax/p5-22.htm)から。

それから,私が今興味を持って読解中な本に,G・エスピン・アンデルセン,『ポスト工業経済の社会的基礎』っていうのがあるのだけれども,アンデルセンの言う,福祉レジュームの統一的構成部分としての「労働市場」,「家族」,「福祉国家」の相互作用の『家族』という機能単位の認識や,また,佐和隆光が『本来,社会とは,市場,政府,市民社会という三本脚の椅子(スツール)なのですよね。ヨーロッパの社会科学者は,そのように社会をとらえているはずです。ところが日本の社会科学者は,市場対国家,あるいは市場対政府という二項対立の図式で社会問題を考えたがる。市民社会という脚が一本抜け落ちる結果,議論が素朴に走る嫌いがある。』(『「改革」の条件 至上主義の貧困を超えて』,110,111頁)と言うときの『市民社会』とい言う部分に,なにか光明を見出すことができるのではないだろうか,と思っていたりするのであが,まだまだインスピレーションにもなっていない。。。つまり,私の思考の行き止まりである。

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