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店主戯言00301_03  2003/01/21〜2003/01/31(下旬)  "There goes talkin' MOMO"


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2003/01/31 (金)  
【2月は講演ラッシュなのです】

■雪が降るというジンクス

昨日は、だめもとで名古屋駅へいきましたら、新幹線が走っておりまして(それでも1時間30分遅れとかですが・・・)、この際なので、行き当たりばったりに走っている新幹線に乗り込みまして、無事午後の打合せに間に合うことができました。

しかし、岐阜市内も15センチほどの積雪で、まあ、私が単独で行動するとなぜか雪が降るというジンクスは、見事に生きていることを証明したようなカタチなのでした。

さて、おかげさまで、amazonの『桃論』のランキングは、落ちたかなと思うとまた上がって、まるでジェットコースターのようではありますが、順調に売り上げを伸ばしているようでございます。

お引き立ていただいています皆様には深く感謝申し上げます。

それにしても、『桃論』の評価は、難しい・・・というものが圧倒的でして、そのような感想を聞くたびに、わたしゃ、なにか悪いことをしたかのような罪悪感にさいなまされております。

それで、次のようなセミナーをしてみようと考えたわけです。

■2・14宇都宮講演

オープンセミナーのご案内に、2003年2月14日 福井コンピュータ・トレンドフェア2003(宇都宮 『桃論』−ITを使った楔(くさび)のビジネスについて−アピア(宇都宮)を掲示いたしました。

今回は、ITが扱う情報が「ミーム」であるとの理解からの、「ソーシャルキャピタル」のミクロ的応用についてのお話しです。
こう書くと、なにかとても難しそうですよね。でも、聞けば納得の講演になるでしょう。

今回は中小建設業が「コミュニティ・ソリューション」をおこなうときの実践的なお話です。
難しいといわれている『桃論』なのですが、つまりはこんなことなのかぁ、と理解していただけるかと思います。

講演内容(予定)
・情報=ミーム
・インターネット=ミーム・プール
・ふたつのコミュニケーション
 →ヒューマン・モーメント
 →デジタル・コミュニケーション
・中小建設業の売っている技術のミームとは=コア・コンピタンス

たくさんの皆様のお越しをお待ち申し上げております。m(__)m

■IT化は効率化を超えて

さて、福岡独演会開催を後援いただいている九建日報さまに、独演会開催に合わせて4回分のコラムを書きました。
今回はその2回目を掲示いたします。これは本日付の九建日報にも掲載予定です。


 中小建設業が生きる地域密着型の公共建設市場とは、そもそも効率性や合理的であることは二義的なものです(第一義は地場経済の活性化と雇用の問題です)。ですから、地域密着型の公共建設市場にマーケットメカニズム(市場原理)を絶対としたマーケット・ソリューションを持ちこむことは、地域密着型の公共建設市場の存在意義を崩壊させていまいます。それは地域経済の活性化と雇用の確保という地場型中小建設業の役割を市場から剥奪し、多くの中小建設業から、経営努力(IT化は経営努力です)のインセンティブを失わせている張本人となっています。

 ですから、私のIT化論は、第一にマーケット・ソリューションと呼ばれる、それこそ何でも市場原理(価格という洗剤)で洗濯してしまうのが大好きな方々のそれとは、明らかに違った方法で中小建設業の抱える問題の解決方法を考えようと主張します。それどころか、その対極に位置する、なんでもかんでも権威に頼ろうとしている方々、権威の介在ですべてを解決しようというヒエラルキー・ソリューションの動きにも疑問を呈します。そして挙句の果てにこういってしまうのです。

〈経額学が生み出した既存の問題解決方法(マーケット・ソリューションとヒエラルキー・ソリューション)では中小建設業が救われることはない〉

 私は、今という時代(デフレ不況の時代)にこそ「中小建設業は地域社会の重要な産業である」といい切ります。そして、その重要な産業がIT化を進めることで、私のいうIT化の文脈(コミュニティ・ソリューション)を理解しながら、中小建設業が抱える問題に取り組むべきだと主張しています。しかし、これは必ずしも「公共工事はなにがなんでも必要なのだ」ということを意味してはいませんし、既存の中小建設業や公共工事のあり方を単純に擁護しているわけでもありません。私のIT化論は、IT化を通じて、中小建設業が地域社会(真の発注者)との関係の編集を行いながら、自らの居場所を再編集できる枠組みをみつけだそうとするものなのです。

 それは「中小建設業とは中小建設業と中小建設業の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら中小建設業をも救えない」というようなものです(「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」という、オルテガ・イ・ガセットの言葉を借用)。つまり、中小建設業は自らを取り囲む環境(地域社会の存在)が生み出した存在なであり、そうであれば、その環境を救うことでしか中小建設業は救われない、というところからIT化に対する考え方を出発させるものです。ただし、環境を救うことが、単なる既得権益の擁護を意味するものではないことは当然のことです。

−九建日報さまへの寄稿コラム(4回分のその2)

■■2003年2月8日福岡独演会開催■■
「なぜ地場建設業にIT化が必要なのか」in福岡
福岡建設会館

2003/01/30 (木)  
【長野県のレッセ・フェールその2】

桃知@岐阜です。
岐阜は大雪でございまして、見渡す限り真っ白でございます。

新幹線も止まってしまっておりまして、私は今日は午後から横浜で打合せがあるのですが、さて間に合うのでしょうか・・・

さて、これは、昨日(1月29日)の店主戯言−【昨日の続きを少々】からの続きです。

長野県の田中康夫知事の公共建設政策の特徴は、次の発言から読み取ることができるかと思います。

『逆に言えば、ここにはこういう資材を使うなどということだけを言うべきではないかと…。』

『私たちは予定入札価格を出して皆さんを縛るような集団から脱皮しなければいけないと私は思っているんですよ」』

−以上の引用は「産経新聞長野支局発 田中知事ダイアリー」(1月8日)より

このような発言から窺い知れるのは、田中知事が想定する公共工事の調達方法は、私が真性のCALSだといっている「性能規定発注方式」に近いものであるということです。

この性能規定方式について、私は、『桃論』で以下のように指摘しています。

 さて、「発注者のモノを作る視点」は調達に詳細な仕様を設けることになります。その結果、受注者側の相違工夫は、発注者側の仕様規定において著しい制限を受けます。そのため、その制限の中でのおこなわれる価格競争は、結果的にコストダウンではなく、予定価格帯での単なる「価格の摺り合わせ」でしかなくなります。その結果が「当たり」という表現なのです。

 これが「性能規定方式」(※発注者は必要とされる性能のみを規定し、材料、施工方法等の仕様については受注者の提案を受ける発注方式。受注者の技術力、工夫を活かしやすいことから、新技術の開発による品質・性能の向上や長期的にはコスト縮減にも寄与するものと期待されている)のような調達方法、つまり、「発注者の性能を買うという視点」にでもなれば、最低制限価格は存在しえなくなります。受注者側の創意工夫の結果としての価格の予想は、発注者には最初から及びのつかないところであり、最低制限価格の存在は否定されることになります。さらに「発注者の性能を買うという視点」は、予定価格を超過する価格での契約さえも可能にするということです。このようなメカニズムが本来の「マーケット・メカニズム」であり、「マーケット・ソリューション」の有効性を担保するものなのです。

つまり、大方の条件付一般競争入札の実態が、所詮、似非マーケット・ソリューションであり、「公共工事という問題」に対する発注者の責任逃れや保身であるのに対して、田中知事が目指そうとしているものは、真性のマーケット・ソリューションであり、発注者側の責任逃れや保身を目的としたものでないことがわかるかと思います。

その目的は、「公共工事という産業」の解体だと考えてもよいわけで、レッセ・フェールを身上とする田中知事にとっては、真性のマーケット・メカニズムこそが、最良の問題解決方法なのですから、(田中知事自身においては)性能規定方式的発注システムの採用は、自らの信条に矛盾しない、まっとうな考え方になっているのだと思います。

このような真性のマーケット・ソリューションのスローガンである「レッセ・フェール」(なすがままにまかせよ)は、旧来からの権威や既得権益を壊すにはとても便利な思想であり、強い力を発揮します(フランス革命を見よ)。

つまり、「公共工事という産業」(発注者:官僚、政治家、中小建設業)に対して、何かしらの不満を持つ県民にとっては、自らの不満解決とその政策が簡単にイコールで結ばれてしまう(単純にわかりやすい)「思想」であることで、田中知事は、高い支持率をえているといえるのだろうと思います。

これを逆説的に考えれば、「公共工事という産業」は、まったく県民には信頼されていない、ということでもありますが、それもいってみれば、県民との間に信頼関係をつくってこなかった「公共工事という産業」の高慢さが原因である、というのが『桃論』で「信頼の構築」といっているものなのです。

さて、田中知事の考えるような真性のマーケット・ソリューションでは、完全自由市場であることが前提ですから、公共工事に地域要件を設ける必要はありませんし、クラス別の発注など、そもそも矛盾だらけのものでしかありません。ですから、長野県の公共建設市場は、将来的にはなんの規制も制限もなくなる可能性が高いといえます。

性能規定方式の欠点は(真性のCALSもそうだけれども)、公共工事の目的を、効率的な社会資本整備という部分でしか考えなくなってしまうことにあります。そこに地場経済の活性化と雇用の確保というような、経済政策的としての目的を加えることはありません。

つまり、開発主義の文脈で生み出された、多くの公共工事依存型の地場型中小建設業は、そもそも存在意義が違うのですから、ここで万事休す、と考えたほうが良いでしょう。

さて、田中知事の高い支持率は、小泉政権が成立した当初を思い出させますが、その小泉政権のスローガンである「構造改革」でさえ、いまやその存在自体がデフレ圧力を生み出しているに過ぎません。

だからといって、田中知事の主張は、構造改革論者と大差がない、というような批判をしても意味はないでしょう。そのような主張をしたところで、ただ己の信じる主義の衝突が延々と繰り返されるだけで、状況はなにも変わらないままです。

中小建設業の存在を歴史経過的に擁護する私にとって、田中知事の政策を批判することは一筋縄ではいかないものだと感じています。

それは構造改革論者を批判するときも同様で、論争は主義の対立なのであり、主義の違いは仮定の対立となるからですが、そうなってしまうと、結局は「民意第一」、つまり選挙で判断されるしかないことになります。

結局、この政策が生み出す結果でしか、民意は、自らが選択した方向性が正しいのか否かを判断することはできません。

その結果が、はたして長野県民に対して良い結果になるのか否かは、だれにもわからないのです。政策は仮定を証明しようとする社会的な実証実験のようなものです。

つまり、その結果が出る頃、多くの公共工事依存型の地場型中小建設業、そして「公共工事という産業」が、どのような姿になっているのかも、わからないのです。

ただひとついえることは、田中知事の実証実験は、リスクの大きな実験である、ということです。彼は失敗するとは思ってもいないでしょうが、予期せぬ結果が出たときの備えと、責任の所在だけははっきりさせておいていただきたいものです。

2003/01/29 (水)  
【福岡独演会の宣伝です】

今日は以下の予定で美濃加茂へ移動いたします。
上野 8:41 山手線(外回り) 東京 8:49
東京 9:00 *のぞみ 49号 名古屋 10:36
名古屋 10:43 (ワイドビュー)ひだ 5号 美濃太田 11:21

さて、福岡独演会開催を後援いただいている九建日報さまに、独演会開催に合わせて4回分のコラムを書きました。

今回はその1回目を掲示いたします。これは本日付の九建日報にも掲載予定です。

■IT化に立ちふさがる命題

 中小建設業のIT化には〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉という命題が存在しています。「公共工事という問題」とは、業界の力の及ばない理由で、仕事がどんどん減っていく、ということですが、この命題の前では、どのようなIT化論もたいして意味を持つことはできません。つまりIT化で仕事は取れないのです。

 これは「中小建設業はまるで水槽の金魚のようなものだ」という比喩の一端です。中小建設業にとっては、公共工事の「量」こそが第一義の生命線なのであり、その量をIT化が直接的に増やせるものでない限り、中小建設業のIT化へのインセンティブは働きようもありません。

 この「中小建設業は金魚だ」という比喩は、公共工事を否定する方々の意見を代表するものです。「世の中飼い慣らされた金魚ばかりだから餌がたくさん必要になって国の財布はすっからかん、その上、借金までしなくちゃならない」。そう思っている方々が多いのは確かです。そして、「建設業はもっと自助自立しなきゃいけない」とか、「建設業のような非効率な産業を温存しているから日本は不況から脱出できない」とか、「もう公共工事なんて必要ない」という世論が形成されてしまっています。

 しかし、私のIT化論は、そのような公共工事否定論者が喜ぶようなIT化ではありません。特に、現在の政府が主張するような自助自立の思想に基づいたマーケットメカニズム(価格による競争)重視の問題解決方法は軽薄なものであり、「自助自立」の誤った解釈に基づいた底の浅い議論こそが問題なのだ、という立場で中小建設業のIT化を考えています。

 例えば、地域密着型の公共建設市場に、マーケットメカニズムを導入することで透明性や競争性を高めるという、横須賀市に代表される条件付一般競争入札を、指値制度であり「似非」マーケット・ソリューションであると私は批判しています。この制度の問題点は、中小建設業の経営努力を評価する仕組みが制度的に組み込まれていないことにあります。ここでの競争は「価格」という「ものさし」しか使われないのです。それはある意味当然のことしかありません。マーケット・ソリューションとは、その参加メンバーに対して、効率性や合理的であることを最優先に求め、価格での競争を強要するだけのものだからです。

 このようなマーケット・ソリューションの立場がいうIT化とは、企業経営における効率化や合理化の道具として機能するものであることを強調してしまいます。それで何が悪いのか、と思われるでしょうが、そのような視点で中小建設業にIT化を考えてしまうことは、地域密着型の公共建設市場で生きる地場型中小建設業の「終わりの始まり」にしか過ぎない、というのが私のIT化論の出発点なのです。

−九建日報さまへの寄稿コラム(4回分のその1)

■■2003年2月8日福岡独演会開催■■
「なぜ地場建設業にIT化が必要なのか」in福岡
福岡建設会館



【昨日の続きを少々】

昨日の戯言がらみで、読者さまから教わったサイトです。
「産経新聞長野支局発 田中知事ダイアリー」

このサイトの1月8日付けのところに、昨日の【長野県のレッセ・フェール】に関係する田中知事の発言が掲示されておりました。

『予定入札価格の算出 「考え直すべき」 』

『私たちが予定入札価格を出しています。それには何らかの方程式があるわけでして。(中略)予定入札価格が出ているのに『皆さんが近いところで入れるのは、皆さんの方が話し合っている』というのは、一面では大変失礼な意見だと思っている。皆さんの方がはるかにわかってらっしゃって、私は予定入札価格などというものを出すということも考え直したほうがいいんじゃないかと。』

『逆に言えば、ここにはこういう資材を使うなどということだけを言うべきではないかと…。私たちは予定入札価格を出して皆さんを縛るような集団から脱皮しなければいけないと私は思っているんですよ」』

これは(田中知事が理解してるか否かはわかりませんが)性能規定発注方式の背景にある考え方なのですね。

つまり、発注者視点の「ものをつくる」から「ものを買う」への変化です。
CALSはこの思想の具現化でしかないのです。

私は可能であればこの方式を支持する立場にはいます。

多分、田中知事はここに「長野県」という地域要件をつけてくるでしょうから、この部分でも私とのぶれはなくなってしまいます。

では何が違うのでしょうか。

それは、現実はもっと複雑だ、という理解だと考えます。

まず、技術的な問題として、田中知事の嫌いな大手の建設企業ならともかく、すべての地場型中小建設業が性能規定に対応できる基礎体力(技術力)を持っている、と考える(前提とする)ことは現実的な仮定とは思えないということです。

これに対して、田中知事は「レッセ・フェール」をいうはずです。
つまり、各企業の自助努力で対応しなさいと・・・

しかし、私がいうのは、それには、地場型中小建設業の底上げとそれ伴う時間が必要だ、というものです。その考え方の背景は『桃論』を読んでもらうしかありませんが、昨日の戯言での私の指摘には、それがある程度要約されています。

つまり、以下の部分です。

 今の中小建設業に真正の「マーケット・ソリューション」に対応できる経営力や技術力を持った企業はほとんど存在しないでしょう。つまり中小建設業は金魚なのであり、自ら餌をとることを前提とした「マーケット・ソリューション」の世界で生きるようにはそもそもできていないのです。でもそれは、現在のところは仕方のないことです。なぜなら、中小建設業は政策的に(意図的に)生み出された産業でしかないからです。彼らは忠実に開発主義の文脈で地域雇用の担い役を続け、配分のための毛細血管の役割を果たし続けてきています。このことは、似非どころか真正の「マーケット・ソリューション」もまた、「公共工事という問題」そして中小建設業には、なんの問題解決策にもなれないことを意味しています。

この問題に対する田中知事の発言を探してみたいとは思うし、聞きたいとは思うのですが、「レッセ・フェール」を身上とする方々には、この部分への視点がないのが普通なのです。

ここで、意見は平行線となってしまうのですが、解決策があるとすれば、田中知事と同じ手法を使うしかなかったわけです。(過去形なのは、そのチャンスは今までたくさんあった、ということです)

つまり、「公共工事という産業」と県民との「コミュニティ・ソリューション」です。
しかし、昨日も指摘しましたように、この戦略に関しても、「公共工事という産業」は大きく出遅れたままなのです。

『桃論』という本は、このことをいっているわけすが、そろそろお出かけの準備をしなくてはなりません。続きが書けるようであれば明日にでも・・・では。

2003/01/28 (火)  
【長野県のレッセ・フェール】

田中知事、受注希望入札「離陸には揺れ」
「予定価格は近く全廃したい」

 田中康夫県知事は1月24日の定例会見で、受注希望型競争入札で低率落札が相次いでいることに対して「離陸には揺れがある。恐れてはいけない」と述べるとともに、民間企業の技術力を信じる形で「予定価格を設定すること自体、近く全廃しても良いと思っている」とも語った。本紙記者の質問に答えた。

 委託業務で予定価格に対する最低札の率の平均が45%であったこと、最低では19%の数字が出たことを知事としてどう感じるかの質問に対して、田中知事は「飛行機でも離陸する際には揺れがある。水平飛行するにはエネルギーを使うもの。それを恐れてはいけない」と答えた。さらに「良い意味での淘汰(とうた)がなされると思う」とし「他方で8000万円以下(土木一式工事)を地区内での競争としたが、この金額が良いか否かの議論もある」と述べ試行した後で変更の可能性があることも示唆した。さらに「寡占(かせん)状態が高値安定に向かうこともありうる」とも発言した。

 2月3日から建設工事にも拡大していく際、低価格傾向が社会資本の質に影響を与える可能性を排除する危険性をどう考えるか、との質問には「県庁の最大の事業費は人件費で3割を占める。技術一家を自負する県職員はコンサルに仕事を投げていたが、しかしコンサルに仕切られていたのが実態。これに検査の機能を持たせたい」として検査機能で対応したい考えを明らかにした。さらに企業の技術力を信じるかたちで「予定価格自体、近い将来、全廃しても良いと思っている」と発言した。「価格は市場が決めていくもの」とも述べた。適正施工に関しては「専門家に助言を仰ぐということになろう」ともした。

−以上、2003年01月24日付け「新建新聞」より抜粋引用

この記事を読む限り、田中知事は、公共工事を否定しているのではなく、「公共工事という産業」を否定しているようです。

その端的な特徴は、レッセ・フェール(自由放任)信奉というようなもので、次の二つを柱にしています。

1・官僚制的「ヒエラルキー・ソリューション」の否定
2・マーケット・メカニズム信奉

記事中、再三出てきます『企業の技術力を信じるかたちで』ということばは、非常に心地よい響きを持っていますが、これは強烈な発注者に対する機能否定であり、「公共工事という産業」の怠慢に対する強烈な皮肉なのだと思います。(地方官僚批判)

『「県庁の最大の事業費は人件費で3割を占める。技術一家を自負する県職員はコンサルに仕事を投げていたが、しかしコンサルに仕切られていたのが実態』

ここでは、公共工事における発注者の技術的優位性を前提とした「ヒエラルキー・ソリューション」は否定され、長野県の土木部は、県議会同様に骨抜きにされてしまっています。

そして、『さらに企業の技術力を信じるかたちで「予定価格自体、近い将来、全廃しても良いと思っている」と発言した。「価格は市場が決めていくもの」とも述べた』という、マーケット・メカニズムの強い信奉がそれに追い討ちをかけます。

つまり、田中知事が行おうとしているものは、私が『桃論』で批判している、発注者が保身的に「公共工事という問題」から自らを切り離しておこなう(似非)「マーケット・ソリューション」ではありません。

真性の「マーケット・ソリューション」、つまりレッセ・フェール(自由放任)と考えてもよいでしょう。そしてその目的は、まずは「壊すこと」にあるように思えます。

『良い意味での淘汰(とうた)がなされると思う』と知事はいっています。

でもこれは、多くの長野県の中小建設業にとっては終わりの始まりを意味するだけでしかないでしょうし、これに続く何らかの雇用対策・景気対策的な政策が続かないのであれば、長野県の地場経済は壊滅的な打撃を受けるだけでしょう。

地場型中小建設業にとって、『企業の技術力を信じるかたちで』という言葉の持つ心地よい響きは、真性の「マーケット・ソリューション」が持つ残忍さを覆い隠すオブラートにしか過ぎないのです。

『企業の技術力を信じるかたち』とは、個々の企業の「コア・コンピタンス」の存在を前提として、ということと同義なのですが、そもそも公共工事依存型の地場型中小建設業に「コア・コンピタンス」は存在しない、とうのが私の主張なのです。

私は『桃論』で次のように書いています。

つまり、現行の入札制度の問題点はふたつあります。

 @ 落札者の決定指標として価格の偏重
   →これが「似非マーケット・ソリューション」の問題点です

 A 入札制度が利権構造をつくり出している点
   →これが「ヒエラルキー・ソリューション」の問題点です

 これは日本が抱えている開発主義の残像上でのふたつのソリューション(問題解決策)が行われることの限界です。今までの経済学が考え出したルールは「政府が介在する(ヒエラルキー・ソリューション)」か、「市場に任せる(マーケット・ソリューション)」のふたつしかないのですが、それを司るのは、わが国ではいつでも「お役人」だという前提が取れていません。その前提が取れない限り、このふたつの対極のルールは、結局どっちに振れても、「今という時代」には中小建設業には淘汰の原因ぐらいにしかなれないのです。

 では、自治体発注の工事に性能規定方式のような、真正の「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが問題解決策なのかといえば、これは中小建設業の終焉を意味するだけでしかありません。

 今の中小建設業に真正の「マーケット・ソリューション」対応できる経営力や技術力を持った企業はほとんど存在しないでしょう。つまり中小建設業は金魚なのであり、自ら餌をとることを前提とした「マーケット・ソリューション」の世界で生きるようにはそもそもできていないのです。でもそれは、現在のところは仕方のないことです。なぜなら、中小建設業は政策的に(意図的に)生み出された産業でしかないからです。彼らは忠実に開発主義の文脈で地域雇用の担い役を続け、配分のための毛細血管の役割を果たし続けてきています。このことは、似非どころか真正の「マーケット・ソリューション」もまた、「公共工事という問題」そして中小建設業には、なんの問題解決策にもなれないことを意味しています。

「公共工事という問題」を考えるときの起点はここにおく必要があります。これに対して、比較的大規模な公共工事に対してである「公共工事不要論」の論調で、中小建設業を批判することは、なにかまとはずれの感があります。「今という時代」だからこそ、

〈中小建設業は地域の重要な産業〉

でしかありません。決して不要なものなのではないのです。それは「今という時代」に、政府が「マーケット・ソリューション」を前面にだしておこなっている「構造改革」においても、新しい雇用を担う産業はいまだに生まれようとしていないからです。政府は、開発主義に替わる新しい政策をもって新しい雇用を創出する必要があります。開発主義の幕引き、それが「構造改革」の第一の仕事だと私は理解しています。本書はそのような「構造改革」が進められることを批判するものではありません。

しかし、この田中知事の戦略の背景はじつに巧妙にできています。
そこには、極度に悪化してしまっている長野県の財政問題がまずは根底にあります。

そこで、公共工事を「マーケット・ソリューション」の範疇に置くことを意味付けます。

さらには、その財政問題が、今までの長野県政の放漫的政策によって生み出されたことを強烈に批判し、地方官僚や地方の政治化主導による「ヒエラルキー・ソリューション」の無能さを印象付けています。

それらをフックに、田中知事は県民に対して、「民意第一」をスローガンにした「コミュニティ・ソリューション」(といういようりもミーム・コントロール)のような方法で、2度の選挙を戦ってきました。

ここでは、レッセ・フェール(自由放任)こそ、長野県民の民意であるというような図式が出来上がっていまっているように思えますが、これを「コミュニティ・ソリューション」と呼ぶには、私はいささか抵抗があります。

田中知事がやろうとしているのは、強烈な「ヒエラルキー・ソリューション」(選挙での圧倒的な強さ)を背景にした「マーケット・ソリューション」なのであり、「コミュニティ・ソリューション」とは違うものだと私は理解しています。

「公共工事という産業」が持つ「ヒエラルキー・ソリューション」に対する批判は、私も田中知事も同じようなものです。しかし、問題解決方法が決定的に違うのです。

自らの選挙を「コミュニティ・ソリューション」のようなもので戦ってきた知事が、なぜ実際の政策に「コミュニティ・ソリューション」を使うことができないのでしょうか。私はそれが不思議でなりません。

田中知事は、「公共工事という産業」とのコミットを、最初から否定しているようにしか見えません。しかし、「公共工事という産業」も長野県を構成する大きなコミュニティなのです。

2003/01/27 (月)  
【希望的観測】

1月24日に空知建協の葉月会さんの新年会に出席させていただいたときに、30分ほど、酔っぱらいスピーチをしたのですが、その中でこんなはなしをしました。

私の予想でしかありませんが、3月までに、小泉内閣の構造改革論的政策は破綻し、現政権の支持率は急速に下降するでしょう。

その反動として、景気回復を第一義としいたマクロ経済政策が浮かびあがり、財政支出をよしとした政策が行われるでしょうから、「公共工事という産業」は一時的には潤うと思います。

ただ、それも長続きはしない、というのが(当たり前の)予見なわけで、もし(経済が)少しでも良くなるようであれば、そのときこそ「公共工事という産業」の構造改革に着手していかないと、次の反動としての緊縮財政政策の時には、「公共工事という産業」は、壊滅的打撃を受けるだけでしょう。

これは、私の希望的な予見に基づいたはなしに過ぎないのですが、もし次があるとしたら、それが本当に最後のチャンスなのだろうな、と考えています。

まあ、もしも次があるとしたら、というのは、本当に希望的観測に過ぎないのですが、そのような環境を相互作用的に作り出せればと思いながら、私は小泉+竹中ダメダメミームを発信し続けているわけです。

それから、はなしは変わりますが、小泉さんと握手している自分の姿をポスターにしている議員さん及び議員候補の皆さんは、そろそろポスターを作り直したほうが良いかと思うのですがね。

自らのあさはかさを証明しているようなものでございますし、解散総選挙となりましたら、決してプラス要因にはなりますまい。



【事業者団体ベースのIT化についてのメモ】

美濃加茂市建協さんのメール鯖を自宅にて構築しておりました。

これは、郡上建協さんの二番煎じなのですが、会員各社の社員の皆様にメールアドレスの配布を行うことを目的としています。

本日中に設定をしていまい、29日にお邪魔して設置を行う予定です。
当然、鯖本体は私よりも先に美濃加茂へ送っておかなくてはなりません。

事業者団体ベースのIT化の目的とは、会員各社のITリテラシィ(ITを使った自らの存在位置の編集能力)の底上げにあります。

事務局のIT化も当然必要ですが、それは、会員各社のITリテラシィの底上げのために、事務局が率先してIT化を進めるに過ぎません。

なぜなら、情報発信こそが事務局の最初の仕事なのですから、デジタルな情報発信ができない事務局では、会員各社のIT化の足枷(あしかせ)にしかならないからです。

このことは、事務局の合理理化とか効率化が必要ではないということではありません。
それも必要ですが、それは二義的なものにしかすぎないということです。

事業者団体ベースのIT化は、第一義的に会員各社が、インターネット社会の住人となれるような取組みでなくては意味がないのです。

それを具体的に行うのは非常に簡単なことなのです。
つまり、まずはインターネットへ接続する、というだけのことなのであり、これがコミュニケーション・ツールであることを理解し、実際にデジタルコミュニケーションを体験してみるだけのことなのです。

そのインセンティブを会員各社にもっていただく取組みが事業者団体ベースのIT化ということになります。

そのために、私は協会イントラネットの構築とその活用をフックとした教育の展開を提案しているわけです。

多くの事業者団体ベースのIT化は、インフラは整備しますが、その利用教育はしていないか、そもそも事務局だけのIT化に終わってしまっているようです。

この教育・研修にかけるプログラムを準備していないところに、事業者団体ベースのIT化がうまくいっていない原因があります。

大切なことはシステムを構築することではなく、そのシステムを使いこなすための教育と訓練なのです。

中小建設業のIT化の基本は、中小建設業に従事する方々が、自らインターネットの住人になることから始めるしかありません。

それは、「公共工事という産業」が、インターネットの精神文化にふれるための最初のステップです。

インターネットの精神文化に、いつまでもふれることができないのであれば、私のいうコミュニティ・ソリューションやソーシャル・キャピタルといった問題解決方法を理解できないだけではなく、いつまでも、マーケット・ソリューションとヒエラルキー・ソリューションの間を行ったり来たりしている閉塞から抜け出せないままでしょう。

つまり、技術論的な効率化や合理化を目的としたIT化が、「公共工事という問題」の前ではなんの役にも立たないという命題をIT化が超えていくには(インターネット社会において「公共工事という産業」が自らの存在意義を持つようになるためには)、インターネットの世界に自らを置いてみる、そこから始めなくてはならない、ということです。

2003/01/26 (日)  
【人間関係の資産】

桃知@浅草へ帰ってまいりました。

昨日は奈井江町の砂子組さまで講演。
『桃論』+αというご要望でしたが、いかがでしたでしょうか。

昨日の講演を要約すれば、「ソーシャル・キャピタル」のマクロ的応用とは、楔(くさび)のビジネスである、ということです。

それは、独立し、点在するコミュニティを、楔を打ちながら繋いでいく、ということです。

その楔とは強い紐帯。
楔によって繋がれたコミュニティは弱い紐帯。

いずれも人間関係であり、物やお金ではありません。

この「ソーシャル・キャピタル」という考え方は、「人間関係の資産」とでも呼べるようなものですが、これを距離と時間を越えて広めることを可能としているものがITだと理解していただければよいかと思います。

IT化を否定したり、軽視したりする方々は、この「人間関係の資産」が、F2Fだけではなく、デジタルなコミュニケーションをベースにして成立できることを理解できないだけなのだと考えています。

それは、コミュニケーションをヒューマン・モーメントとデジタル・コミュニケーションの複合体であると考えることができれば、簡単に解決のつくことなのです。

それから、ITが合理化や効率化の道具ではなく、コミュニケーション・ツールだと理解できればよいのです。

そして、このコミュニケーション・ツールとしてのITが運ぶ情報とは、あなた自身のミームなのですね。

講演後、砂川の「山小屋」さんにて懇親会。
→網焼きポーク・ステーキは笑えるほどボリューム満点!

4時間の講演は昨日が今年初めてでしたので、空気が胃袋に入りすぎて、最初はしんどかったのですが、20名さまと楽しく語らいの一時を過ごさせていただきました。

砂子組さんの細かな気配りのおかげで、大変楽しい一日でございました。
深く感謝申し上げます。m(__)m

2003/01/25 (土)  
【芸に対峙するということ】
 




今朝の札幌は雪模様です。一昨日の犬ぞりの写真が届きました。重い私を引っ張っている犬がかわいそうだ、という意見もあるかと思いますが、私もそう思いました。犬さん、ごめんなさい。
■釧路講演

2月13日に釧路で講演をすることになりました。この前後のスケジュールは結構きつくて、12日も14日も講演の予定が入っておりますので、釧路には日帰りで行かなくてはなりません。

■■2003年2月13日釧路講演決定!■■
「なぜ地場建設業にIT化が必要なのか」in釧路
釧路工業技術センター 2階会議室

4時間という限られた時間ですが、一生懸命にやりますので、たくさんの皆さんのご参加をおまちしております。

詳しくは、「オープンセミナーのご案内」をご覧ください。

■「心優しき師匠」というメール

桃知師匠,,,,○○です。

マンマ・ミア!の感想を読ませて頂きました。

> ミュージカル(に限らず興行全般ですが)っていうのは、最初から
> 完成されているものはほとんどなくて、やっているうちに良く
> なってくるのが普通なわけで

あっしの『非常に拙い』価値観からでは,『・・やっているうちに
良くなってくるのが普通なわけで・・』は???なわけです。

私にはミュージカル興行,最初につまらなければ即興行中止
もしくは,大幅な興行縮小の世界と思っちょりました。

違うのなら日本のミュージカル興行は恵まれているな,,と,,(^^;

じゃ,お前は世界の興行の厳しさを知っているのか言えば,,,(^^;

先程『拙い』と申し上げましたのは,,,一つの規準が存在するからでございます。。。

槇村さとる
http://www.hh.iij4u.or.jp/~fcs/

ダンシングジェネレーション[全2巻]
NYバード[全2巻]

など,,,でございましょうか(爆

いや〜〜少女漫画なんて,,,20年近く見てませんでしたが(^_^;)\(・_・) オイオイ

子供に安心して読ませる漫画という事で,妹が昔読んでいた単行本を持ってこさせました。その中に,こいつがあって,久しぶりに読んでしまいました。(笑

物語は,NYを舞台にしていますが,興行は,最初からつまらないと駄目最初の講評が悪く出てしまうと,お客の入りは激減だそうです。

だから,話題作ほど初日こそが勝負,,後は,ロングランになる程,代役が出てきて質は落ちていくのかもしれません。。。

この辺は,間違っていないと思っています(^^;

師匠の仰るような『熟成するまでまとうホトトギス』のような心優しき観客などは皆無のNYのブロードウェイは厳しい世界で,日本のミュージカル興行は恵まれているんだな思ってしまいました。

ただ,,それだけなんですけどね,,,(^^;

メールありがとうございます。

私は、興行的に成功しようがしまいが、そんなことには無関心なわけです。

「マンマ・ミア!」に対して、そこまでの思い入れはないわけで、私のいう『ミュージカル(に限らず興行全般ですが)っていうのは、最初から完成されているものはほとんどなくて、やっているうちに良くなってくるのが普通なわけで・・・』というのは、私が「芸」に対峙る時の、主観(個人的な価値判断)的な楽しみ、もしくは姿勢をいっているわけです。

つまり、私の「マンマ・ミア!」に対する感想(60%の失望と40%の期待)は、私がそう思った、というだけのものであって、「マンマ・ミア!」は、多分世間一般的には絶賛を受けているはずです。

ですから連日満員御礼状態だし、講演の延長も決まっているのでしょう。

ただ、私が「芸」と対峙するときの姿勢というのは、(単純化しすぎを承知でいえば)「芸」には熟成は必要だ、というものなので、だからそういう視点で主観的に見てしまいます。

私にとっては、世間様がどういおうが、興行が途中で打ち切られようが、どうでもよいのです。

むしろ、個人的には好みなのだけれども、世間一般からの評判が悪かったりすると、余計に肩入れしたくなってしまうこともあります。

ですから、今回は失望の方が大きかったのでけれども、3ヵ月後にまだやっているのなら、もう一度見てみたい、とそう考えているのは、私の個人的な楽しみなのであり、私が「芸」に対峙するときの基本的な姿勢でもあるわけです。(主観です)

そのときに、昨日見たよりも少しでも良くなっているれば、個人的にうれしい、というだけなのです。

ですので、「心優しき師匠」というよりは、私はかなりいやらしい観客なのですよ。

2003/01/24 (金)  
【@札幌】

桃知@札幌です。

昨日は、ANA 057 東京(羽田)(0900) - 札幌(千歳)(1035)で予定通り北海道入りいたしました。

千歳空港には、砂子社長にお迎えに来ていただいて、そのまま奈井江町の砂子組さんへ。
そこで、昨日の現実逃避的精神面栄養補給行事である、犬ぞり&スノーモービルのレクチャーをプレゼンピッチを使ってしていただきました。

横尾さんのプレゼンテーションは大変よかったです。
犬ぞりのPPTなんて、日本中探しても横尾さんしか持っていません。

砂子組さんは、前回の砂子組炭鉱さんへお邪魔したときもそうなのですが、プレゼンピッチを使ったプレゼンテーションが非常に上手です。

私のコンサルテーションの一環には、このプレゼンテーションをできるようになること、があるのですが、これは砂子組さんは、すでにクリアしてしまっているように思えます。

その後、特設会場へ移動しまして、青空の下で昼食。
昨日の奈井江町は、風もなく、この時期としてはかなり穏やかな天候に恵まれまして、ご飯も大変おいしくいただきました。

そして、生まれて初めて、犬ぞり&スノーモービルに乗りました。
これは非常に楽しい!やってみないと楽しさがわからないもののひとつです。

犬ぞりは相当にはまりますが、問題は犬が飼えないことですね。

それから、平井寧さんによるディスク・ドックのデモンストレーションも拝見しました。
平井さんは、犬ぞりでも日本を代表するマッシャーなわけですが、大切なことは犬とのコミュニケーションだそうです。

犬に好かれる、犬を好きになりすぎちゃいけない・・・
ソーシャル・キャピタルのようなものかな、と考えた私は職業病なのでしょう。

本来なら写真を添付すればよいのですが、良い写真が取れませんでしたので、後ほど写真が手に入りましたなら紹介いたしたいと思います。

お世話になりました、砂子組の皆さんに深く感謝申し上げます。
ありがとうございました。m(__)m

■意外な発見

犬ぞりといえば、シベリアン・ハスキーを思い浮かべるかと思いますが、実は、シベリアン・ハスキーは一頭もおりませんでした。

現在の犬ぞりレースの主流は、クウォータードック(エリスハウンド)と呼ばれるもので、これはアラスカン・ハスキーとポインターを掛け合わせたもので、すらっとしていてきれいな犬です。

そしてアラスカン・ハスキーという犬も初めて見たのですが、ブルーアイで白い毛、まるでウルトラマンのような顔立ちのきれいな犬でした。

それから、野外でいただいたお昼ご飯なのですが、歌志内に伝わる「なんこ」をご馳走になりました。

「なんこ」とは、馬の腸のことです。
馬の腸を食べる習慣を持った地域は、私にとっては三番目の発見ということになります。

一番目は長野県飯田市の「おたぐり」、そして、熊本(熊本は単純に「モツ」でいいのでしょうか?)、そして、歌志内市の「なんこ」でございます。

私は結構、馬腸食文化にこだわっているのですが、なぜかというと、馬腸食文化を持った方々とは、なぜか非常に相性がよいのです。

なぜなのかは、今後の研究課題です(笑)。

2003/01/23 (木)  
【現実逃避的精神面栄養補給行事その2】

■ダンシング・クイーン

まずは、「マンマ・ミア!」の感想から。

昨日(2003年1月22日、劇団四季のミュージカル「マンマ・ミア!」のお昼の部を観劇してきました。

午後1時30分(正確には5分遅れ)開演、午後4時終演。途中2時40分から20分ほど休憩が入りますので、正味2時間ほどの公演時間でした。

感想は、6割の失望と4割の期待をもって楽しんできた、というようなものです。

ご存知の通り、このミュージカルは、アバのヒット曲で構成されていますが、はっきりいって、アバの曲だけでミュージカルを仕立てるのはつらいなぁ、というのと、ストーリーが「こなれていない」と感じたのが、6割の失望。

でも、やっぱり「ダンシング・クイーン」は最高だぜ!っていうのと、3ヵ月後にもう一度見てみたい、というのが4割の希望というところです。

ミュージカル(に限らず興行全般ですが)っていうのは、最初から完成されているものはほとんどなくて、やっているうちに良くなってくるのが普通なわけで、もう一度「現実逃避的精神面栄養補給行事」にいかなくてはなりますまい、というところです。

『Breakaway』
Art Garfunkel
1975年10月


(↑)まにあ2号さまからの贈り物その2でございます。
■現実逃避的精神面栄養補給行事としてのBGM

最近、私が自宅で仕事をしている時のBGMは、アート・ガーファンクルの『Breakaway』というアルバムがダントツとなっております。

このアルバムが発売されたのは、1975年の10月ですから、かれこれ28年程前になりますか。

当時の私は、高校2年生か3年生(多分3年生)で、なぜか親が発作的に買ってくれたステレオセットで、アナログ盤を回しては、熱心に聴いておりました。

お気に入りは、「.I Only Have Eyes For You」(瞳は君ゆえに)という、オリジナルはフラミンゴスのカバー曲です。

最近の私は、(顔に似合わず)甘たるいバラード調の曲が妙に身体のリズムに合っているようですが、これも現実逃避的精神面栄養補給行事の一環のように感じております。

■今日は北海道へ

ANA 057 東京(羽田)(0900) - 札幌(千歳)(1035)

その後後奈井江町まで移動して(冬道で1時間30分程かかるらしいです)、休憩、昼食後、北海道の1番厳しい時期の雪遊びを砂子組の皆さんにお世話になって体験させていただく予定です。

メニューは、犬ぞり、スノウモービル、フリスビーのデモ(その競技のプロ)等々の予定です。 ほぼ16時頃の終了予定で、その後札幌のホテルへ移動いたします。

これも「現実逃避的精神面栄養補給行事」の一環でございます。
■なんだかなぁ・・・

岩見沢市の官製談合に対する公取委の排除勧告のについて書こうとして、http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/tender_system/を見ていたら、なんだか書けなくなってしまった。

でもこれは少しだけ嬉しくなった。

・市民の目で入札チェック 上田の市民団体が学習会 - 信濃毎日新聞 (20日16時38分)

・・・ 「住民の目には、おかしく映る部分もある。制度を変える必要があるのではないか」「一般競争入札が、必ずしも優れているとは言えない。外部の目を取り入れながら、上田市ならではの方法を作ってほしい」といった要望や提言もあった。・・・


長野県が変な方向に走ってしまっている中、こういう意見を持つ上田市民がおられることに、少しは救われる思いがするのでした。(でも本当はもっと怖いこと考えていたりして・・・★\(^^;)

2003/01/22 (水)  
【現実逃避的精神面栄養補給行事】



ご存知(?)劇団四季による翻訳的歌謡舞台興行でございます。これもサービス業なのでしょうか?観劇できるうちが華でございましょうか?私もサービス業なわけで・・・
■まんま・みゃ〜

はっきりいって、今の私にそんな余裕があるのか、という現実的問題はさておき、今日は午後から電通四季劇場へいってまいります。(午前中は散髪の予定)

当然に仕事ではなく、プライベートな「現実逃避的精神面栄養補給行事」でございます。

息抜き、というわけでもなく、やっぱり現実逃避としかいいようがないのでしょうが、これで外れると結構ショックは大きかったりします。感想は後日ちゃんと書きます(読みたくもないでしょうが・・・)。
cover
新卒無業。』
大久保幸夫(編)
東洋経済新報社
2002年5月7日

この本は半分肯定しながらも、半分否定的に読んでいるわけです。お読みになる方は、『仕事のなかの曖昧な不安』との併読をおすすめいたします。

■2002年の企業倒産集計(金魚論的・・・)

これは、yossyaさんからネタをいただきましたが、私も昨日の朝の葛飾FMの報道で気になっていましたので、ここで取り上げさせていただきます。

企業倒産:戦後2番目の高水準、1万9458件!
→→詳細は帝国データバンクのサイトの「倒産速報&集計」にあります。

それによれば、「業種別では、サービス業(2239件)が過去最高。建設業(5863件)、製造業(3413件)は過去3番目の高水準」とのことで、2002年の企業倒産傾向は、建設業や製造業が横ばいであるのに対して、サービス業が前年比4.9%増となっていることに特徴があります。

さらには、「主因別の倒産動向は、販売不振(1万3068件、前年比2.0%増)は3年連続の前年比増加で2001年(1万2811件)を抜いて過去最高を更新し、初の1万3000件超えとなった。・・・一方、放漫経営(1490件、前年比14.6%減)、業界不振(906件、同4.0%減)、不良債権の累積(344件、同5.0%減)はそれぞれ2年連続の前年比減少となった。」

結局は販売不振、つまり不況を原因とした企業倒産が増えていることがわかるかと思います。(不況型倒産を、私的には「金魚論的倒産」と呼んでおります)

つまり、「2002年の不況型倒産は1万4852件(前年1万4687件)発生、戦後最悪だった前年を165件(1.1%増)上回り記録を更新した」のです。

ここでやっかいなのは、サービス業の倒産が増えていることです。

構造改革論者の目論見どおり、建設業や製造業といったオールド・エコノミーの淘汰は進んでいます(構造改革論者は、たぶん気持ちが良いのかもしれません)。

しかしその一方で、構造改革論者が雇用の受け皿としているサービス業の倒産も増えてしまっています。

確かな数字(サービス産業での雇用の増加率や新規開業数)はつかんではおりませんが、失業率は依然高水準であり、さらには高校卒業予定者の就職内定状況が過去最低であること(後述)を考えると、サービス業が雇用の受け皿としての機能を発揮できていないと考えても良いかと思います。

つまり、不況の問題(それは失業の問題です)は、ますます深刻化しているといえるでしょう。

それはある意味当たり前のことです。

建設業や製造業から失業者が発生すれば、彼等がサービス産業に対して払う金額はおのずと小さくなってしまうのは当たり前のことでしかないからです。

そして、こんな(↓)報道がありました

「厚生労働省は16日、昨年11月末時点での高校卒業予定者の就職内定状況をまとめた。就職を希望する約20万人のうち内定が出たのは60.3%の約12万人。内定率は前年同期を3.1ポイント下回り、この時期としては過去最低となった。厳しい雇用情勢が高校生の就職を一層難しくしている。 」

帝国データバンクがいうには、「年度末を挟んで体力の限界に達した中堅・中小零細企業が脱落していく一方で、銀行が制御できない大型企業の倒産発生も予想され、件数、負債とも増加傾向で推移するものと思われる」というこです。

デフレ不況は出口の見えないところまできてしまっているように思えます。

私は『桃論』において、〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉という命題(金魚論)を持ち出し、今、建設産業が抱えている金魚論的淘汰の問題が、私自身の問題、ひいては今の時代には誰の身の上にも起こりうる問題だといっています。

それは、「デフレ不況+構造改革論」が、日本を包み込んだ水槽のようなものだからです。「デフレ不況+構造改革論」という水質の水槽の中では、弱い金魚には餌は届かないものなのです。

私は、サービス業の倒産増加のような現象を見ると、これから建設産業以外の方々(すべての市民)に起こる災いを、不気味に暗示しているように思えて仕方ないのです。
まにあ2号さんからの贈り物その1

全部で3つあるのですが、今日はその1を・・・
なにか使い道を考えたいと思うのでした。

2003/01/21 (火)  
【消費の正解その2】

cover
『消費の正解』

松原隆一郎(著)
辰巳渚(著)
光文社
2002年12月20日

cover
『日本人のための「論理学」
鷲田 小弥太 (著)
PHP研究所
2002年11月29日

cover
『桃論』
桃知利男(著)
エクスナレッジ
2002年11月30日
■北海道のA木さまより。

正月明けから、「店主戯言」のテーマがずっしりと重たい(?)ので、「これはちょっと生半可なメールは送れない」とじっくりと構えていましたが、やっと仕事が一段して、少しは考える時間が持てました。

近頃、建設業の方々と話していると、市民社会に建設業の実態がよく理解されていない「苛立ち」から、「もう建設業は地元の雇用を支えていけない。失業者が溢れて、初めて我々の重要性に気づくはずだ」、「ダンピング受注によって粗悪な工事が増えて、痛い思いをしなければ分からない」という声を頻繁に聞きます。

しかし「雇用」と「安全」を人質に取って、建設業の理解を得ようという考えは短絡的であり、そこには産業としての戦略性がまったく感じられません。

最近、市民社会が建設業に抱いている感情の一つに「彼らの生殺与奪を握る権利がわれわれの手にない」(極論を言えば倒産が少ない)ことへの苛立ちがあるのでは?と感じています。

例えば、小売業では近くに突然、ライバル店が登場するなど外的環境により常に淘汰の危機にさらされ、製造業でも顧客の満足しない製品・サービスを提供し続けた結果、消費者から「ノー」と言われ、市場で駆逐されるという厳しい現実の中に身を置いています。

このことは、買い手側からみれば、彼らの生殺与奪を握っているのは「消費者=市民社会」なのだ、という「錯覚」があるわけです。(本当は桃知さんの言うように、市場ってそんな単純なものではないが…)

しかし「公共工事という産業」に限っては「発注者」というエージェント(代理人)が、建設業者の生殺与奪を握っており、そのエージェントが不幸にも市民社会から信頼を失っている現実があります。

これにより市民社会は自分たちの手の及ばない「公共工事という産業」に対する、反撃手段は「公共工事不要論」や「マーケットソリューションの導入」しかないのですが、これがボディブローのように利いてきました。

「市民社会が建設業の生殺与奪を握っている」という「錯覚」をどう構築していくのか?

妙案は浮かびませんが、唯一言えることは「国土交通省は地場中小建設業を救えない!」です。

『最近、市民社会が建設業に抱いている感情の一つに「彼らの生殺与奪を握る権利がわれわれの手にない」(極論を言えば倒産が少ない)ことへの苛立ちがあるのでは?と感じています。』という感覚には共感を覚えます。

この感覚には大きく分けてふたつの側面があるように思えます。

それは次の二つです。

・思い込みの消費者
・プリンシパル・エージェント問題(エージェントの信頼の喪失)

これは消費者と供給者それぞれの立場についての問題です。

■思い込みの消費者

「思い込みの消費者」とは、「消費者意識」とでもいいましょうか、思い込みとしての「お客様は神様です」信奉を、消費者自身が持ってしまっている、ということなのだと思うのです。

その発端は、勿論、三波春男先生にあるわけではありません。
今の時代に、消費だけで生活している方々なんているわけないのですから(専業主婦も消費だけの存在ではありません。何かを供給しお金をえないことには何も買えないのです)。

つまり、自分というのは生産者でもあり消費者でもあるわけです。消費者としての私は、物価は安くて品質は高いことを望みますが、生産者としての私はそのようなデフレ圧力の影響で、リストラで失業してしまった、なんってこともありうるわけです。

『人間は多重存在であり、多重論理を生きざるをえない』(『日本人のための「論理学」』、p109)。のですが、消費者という時には、とにかく私は消費者(神様)なのだ、という立場に徹しなければいけない、ような思い込みが、閉塞を生んでいる原因でもあるように思えるのです。

これは、選好基準の多基軸化が関係しているかもしれません(選好基準の多基軸化は、結局二局化を生み出しているようです)し、中間大衆消費社会の病理とか、個人主義が成熟していない、というような論調で語ることもできるかもしれませんが、単純化できるものでもないように思えます。

どちらにしろ、市民社会の実態が、そのような「思い込みの消費者」なのだとしても、「公共工事という産業」が、市民社会から嫌われているという問題は、供給者側(つまり「公共工事という産業」に大きな理由があると考えるのは当然のことだと思います。

■プリンシパル・エージェント問題(エージェントの信頼の喪失)

90年代に大きく傷ついたのは、日本政府、地方政府、政治および経済システムに対する信頼だと思います。金融や財政や企業経営 の実態が隠蔽された(つまり情報が人為的操作によって隠匿された)ことによる不信です。

自分たちは、自分たちに嘘をついた、三菱自動車も雪印も協和香料も日本ハムも鈴○宗○もやっつけたのに、なぜ「公共工事という産業」は、トカゲのしっぽ切りの繰り返しばかりで、やっつけることができないのか、という気持ちが市民社会にはあるのでしょう。それで、ますます憎らしくなってくるというか・・・

つまり、これに対する企業・供給者の市民社会(顧客)に対する正直さが回復されなければ、経済的な交換は資本主義創生の頃に戻らざるをえないのだと思います。

これについては、『桃論』のLesson18「発注者と市民社会」に私の見解を書いておきました。一部引用いたします。

■発注者と市民社会のエージェント問題

 結局、今の公共工事システムでは、公共工事対する「消費のミーム」は、発注者と市民社会との関係で簡単に変化する曖昧なものでしかありません。ここでは、この理解のために、発注者と市民社会との関係を「プリンシパル・エージェント問題」という考え方を用いて考えてみましょう。

エージェント(代理人)とは、依頼者(プリンシパル)に代わって依頼者のために働く人間のことですが、「今という時代」の発注者(政治家もです)はこの文脈上に存在しているという認識でいいでしょう。公共工事が信頼を構築できないでいるとすれば、それは、このエージェント問題が問われている、ということでしかありません。

 発注者である自治体が、公共建設市場における唯一の「消費のミーム」の持ち主として機能しかつ市民社会が認める正当な市民社会の代理者であれば、「公共工事という問題」に内在する信頼の問題は存在しないと考えることができるでしょう。つまりこの状況とは、発注者の意図に対する信頼、が市民社会の「消費のミーム」の中に織り込み済みだということです。発注者は市民社会に対するサービス実現の手段を第三者から調達する必要があるのは当然のことですが、その調達の行為が市民社会からの信頼の上に成り立っていれば、公共工事に対する信頼の問題も存在しないのです。

 このような視点からわかることは、発注者と市民社会の間には「プリンシパル・エージェント問題」が存在するということです。エージェントは依頼者の利益を代表すると同時に自分自身の利益も考えて行動します。したがって、二人の間の利益が一致しない場合、エージェントは自分の利益を重視して依頼者に不利益を与えてしまう可能性がありますが、これをどうやって避けるかというのが、プリンシパル・エージェント問題(省略して「エージェント問題」)なのです。(※山岸,2002,p125)

 つまり、公共工事の依頼者(プリンシパル)を市民社会とすれば、エージェントとしての発注者は、正しく市民社会の利益を考えているのか、という問題がクローズアップされます。山岸によれば、この「エージェント問題」の典型的な解決策が江戸時代における「目付制度」であり、イギリスのパブリックスクールの教育だというのですが、つまり、この「エージェント問題」は、「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」に対する大きな需要を生み出すのです。(※山岸,2002年,p126)

 そうであれば(そうであることは間違いありませんが)この「エージェント問題」は、それでは、公共工事の依頼者としての市民社会は、その代理人としての発注者が「品質保証済みの人材」であることをどのような方法で確認するのか、という問題を提起しているといえます。

 結論からいえば、発注者は、自らが「品質保証済みの人材」であることを証明するすべを持ってはいません。正確には「なくしてしまった」といったほうがよいかもしれません。それは「公務員」という既存の権威と信頼の崩壊を意味しています。市民社会に対する自らの意図の信頼は、自らの「公務員」という社会的身分に一任されているだけでしかありませんが、問題はその社会的身分の失墜なのです。これは、「今という時代」では、既存の権威的な物差しがたいして機能しなくなっていることを意味しています。「ヒエラルキー・ソリューション」が絶対の問題解決策であった時代はもはや終わろうとしているのです。

■権威の崩壊

 私たちは、既存の権威がすでに機能しなくなりつつあることを知っています。アカンタビリティやパブリック・インボルブメント(※PI:政策形成の段階で人々の意見を吸い上げようとするために、人々に意思表明の場を提供する試み)が昨今の公共工事でいわれている背景には、市民社会という公共工事に対する「消費のミーム」の持ち主の台頭と同時に、「既存の権威」の崩壊という問題が内在しています。それは既存の権威の「信頼の崩壊」といってもいいでしょう。

 「今という時代」は、学歴や、職業や、資格や、例えば中小建設業の場合、経審や建設業許可やISO云々(つまり「技術のミーム」であり「能力」の信頼の担保)、そういうもので自らが「品質保証済みの人材」かどうかをプリンシパル(市民社会)に対して証明することの限界が表出している時代ということができるでしょう。それはなによりもメタ情報としての「信頼」、「ソーシャル・キャピタル」が形成されていないことを意味しています。

アローの言葉を借りれば、「それらは目に見えない制度であって、実は、倫理や道徳の原則である」ことこそが「ソーシャル・キャピタル」なのですが、既存の権威の崩壊は、その倫理や道徳の原則としての「ソーシャル・キャピタル」が、ますます重要なものになってきていることを私たちに教えてくれている、といえるでしょう。

 いわゆる「公共工事パッシング」と呼ばれるものは、市民社会が公共工事に対してもっている「消費のミーム」でしかありません。「ソーシャル・キャピタル」の欠如とは、「公共工事という産業」が、市民社会との関係性の蓄積を怠ってきた「ツケ」のことですが、その「ツケ」こそが「公共工事ダメダメミーム」形成の根本にあります。つまり、「公共工事ダメダメミーム」という市民社会が公共工事に対してもっている「消費のミーム」は、エージェント(ここでは発注者だけではなく「公共工事という産業」の構成員、つまり、発注者、政治家、建設業界)が自ら生み出したものでしかないのです。

 つまり、ここでも「相互作用」は機能しているということです。「公共工事という産業」の「技術のミーム」は「消費のミーム」に規定されているだけではなく、相互作用的に「消費のミーム」を作り出してきたということです。ですから「公共工事という産業」が旧来からの「技術のミーム」や「安心の担保」にこだわればこだわるほど、「公共工事ダメダメミーム」という「消費のミーム」は相互作用的にその勢力を大きくするだけなのです。

■自らが環境を変える

 市場をミーム論から見ることで、「公共工事ダメダメミーム」は、中小建設業にとってさらに厳しい状況へ均衡し、その均衡のスピードはますます速まっていることが理解できるはずです。私たちがここで恐れなくてはならない事態とは、一旦均衡してしまった状況を元に戻すことは非常な困難を伴う(不可能かもしれない)ということです。

 このような状況に、中小建設業が、今までのように貝のように口を閉ざしたままであるのなら、状況はさらに悪くなるだけでしょう。一方、発注者は、公共の領域に「マーケット・ソリューション」を持ち込むことが精一杯の対応となるだけです。この循環は、スパイラル的に中小建設業を取り巻く環境を悪化させるだけでしかありません。

 ここで私たちは、公共工事を「よし」とする「救世主」の出現を望むことしか対処の方法がないような気持ちになってしまうかもしれませんが、しかしそれはひとりのヒーローの出現で解決できるような問題ではありません。

 「公共工事という産業」が行うべきことは、

〈公共工事に対する信頼の再構築〉

でしかありません。それには「公共工事という産業」を構成しているすべての構成員、つまり「発注者、政治家、中小建設業、自らが変化することでしか問題は解決しない」ということに気づかないかぎり環境は好転しようもないのです。「公共工事という産業」が自らの環境を救えるとすれば、自らの変化による相互作用的な環境変化の可能性だということです。それはミームという眼鏡を通すことで、私たちが知ることができたことです。「公共工事という産業」に対する「消費のミーム」は、「公共工事という産業」の「技術のミーム」との相互作用によってもたらされた「結果」でしかない、という認識こそが重要です。

 それは、単純に「消費のミーム」に迎合することを意味してはいません。本書のいうIT化を通した「公共工事という産業」の変革とは、インターネット社会、つまり「今という時代」の中で、中小建設業ひいては「公共工事という産業」が、市民社会との関係の中で自らの存在位置の編集作業ができる枠組みを考え出そうとすることでしかありません。それが「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法の理解であり、市民社会との「ソーシャル・キャピタル」の蓄積と編集を目指した、自らの精神文化の革命的な変化だということです。

 IT化とは、その「変革」の精神的な基盤であり、私が「コミュニティ・ソリューション」の中枢にあると考える「インターネットの精神文化」に、自らを開放(コミット)してみることでしかありません。つまり、本書が行ってきた議論を、車寅次郎風にいってしまえば、

「信頼をなくしちゃおしまいだよ!」

ということでしかないのです。


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