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店主戯言00301_02 2003/01/11〜2003/01/20(中旬)  "There goes talkin' MOMO"


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2003/01/20 (月)  
【100円ショップはパチンコ屋みたいなものである】

■門倉組の小澤社長からのリンクのお願いがありましたのでリンクさせていただきます。

コウタのホームページ
http://www008.upp.so-net.ne.jp/nakayoshi/kota/index.html


■FOMA

先週の岐阜遠征の際、NTTドコモ東海岐阜支店さまとお会いする時間があり、その時に、FOMAのPDAであるFOMA SH2101と通信カードのFOAM P2401をお借りしてきてしまいました。

今現在、私のPCはFOAM P2401を使ってインターネット接続をしておりますが、まだ、ここ浅草では、という前置きはつきますが、さすがに「最大384kbpsの高速パケット通信」という売り文句のことはありまして、体感スピードはAirH"の128Kbps の比ではございません。速いです。

ちょっとの間だけお借りしているわけですが、その間、そこいらじゅう連れまわすことになりますので(特に今週後半の北海道)、エリアの確認等ができれば、私も正式導入(特に通信カードのFOAM P2401に惹かれるところが大)したいと思うのでした。
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『エイジ・オブ・アクセス』

ジェレミー・リフキン(著)
渡辺康雄(訳)
集英社
2001年9月30日
■100円ショップはパチンコ屋みたいなものである

昨日のネタにタロサから反応をいただきました。

ども。タロサです。

100円ショップで買い物をする人というのは、安いから買うというわけじゃないと思うです。100円ショップというブランドに惹かれて買うわけで、それはヴィトンだとかエルメスだとかの高級ブランドを買う心境と一緒だと思うです。

あと、日本人って、値切ったり、安く買ったりすることを自慢するところってあるじゃないですか。そういう心理をうまくついたところが100円ショップの隆盛に繋がっているんじゃないかと思うです。

「このバッグはエルメスなのよ」というブランドの力と、「これは、100円ショップで買ったのよ」というのは限りなくイコールに近いと思われます。

ちと思ったことを書いてみました。

ではまた。

なるほどタロサらしい視点で書かれた面白い意見です。
ありがとうございます。m(__)m

でも、『100円ショップというブランドに惹かれて買うわけで、それはヴィトンだとかエルメスだとかの高級ブランドを買う心境と一緒だと思うです。』という見解は、私とは異なります。

例えば、ビトンとかエルメス、ロレックスでもなんでもいいですから、ブランド品といった場合、それらはほとんど固有名詞で呼ばれることに気がつくと思います。はなはだしいのは固有の商品名だったりします。例えばパタゴニアの「ダス・パーカー」やエルメスの「ケリーバック」等々。それは老舗とかいわれているところの「暖簾」にもつながる感覚です。

それに対して100円ショップは、100円ショップという「カテゴリ」名なのです。実際私は100円ショップの「店舗名」というのを知りません。私にとっては、100円ショップはすべて100円ショップなのです。

そしてもっと大きな違いは、ブランド品は所有的な消費ができることで、ヴェブレン財的な喜びを持てるのに対して、100円ショップで購入したものにはそれはない、ということだと思います。

つまり、100円ショップというのは、100円という限られた買いを物するプロセスを売っているように思えます。つまり極端なはなし、小売業を装ってはいますが、その本質はレジャー産業なのではないかと密かに思っているのでした。

それは、所有権の移転が絶対視されていた市場の仕組みが、所有を絶対としない方向に移ってきていることの表れのように思えます。つまり100円ショップとは、実は「脱モノ」化のビジネスのような気がします。

つまり、『エイジ・オブ・アクセス』ということです。

100円ショップはこの時代が生んだ、価格破壊や安値志向の寵児のようにいわれることがありますが、私は、むしろ価格破壊や安値志向といった時代の空気をうまく利用した、新しいレジャー産業(庶民のささやかな楽しみ)のように思うわけです。コストダウンの結果、良いものを安く売っているわけではないと考えています。

結局、100円ショップで買ったもので、残っているものってなにかありますでしょうか・・・わたしゃほとんどありませんです。結局損をしてしまったってことになっているかもしれないのですが、それが気にならないようにしているところに、あのビジネスの秘密があるような気がしています。

2003/01/19 (日)  
【市場っていうのは単純じゃない】

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『消費の正解』

松原隆一郎(著)
辰巳渚(著)
光文社
2002年12月20日

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『ヴェブレン』
宇沢弘文(著)
岩波書店
2000年11月28日

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『日本人のための「論理学」
鷲田 小弥太 (著)
PHP研究所
2002年11月29日
■消費における選好基準の多様性

市場(の原理)って、本当はなんだかよくわからないものだと以前に書きましたけれども、『消費の正解』という本は、そのわからないものを考えている本です。

最近の消費の特徴といえば、ルイ・ビトンの5万円の財布を持つことと、ユニクロのファッションを身に着けること、もっと極端な話では、エルメスのケリーバックを持って100円ショップで買い物するような行動が同一の人物において違和感なく同居しているようなところにあります。

このあたりは、経済学(特に新古典主義的な経済学)が想定する消費の考え方を超えてしまっているように思えます。といってもそもそも経済学は消費行動をたいして重要なものだとは考えていないところがあります。

例えば、新古典主義的な経済学では、「生産さえ伸ばせば消費は勝手に際限なく増える」という仮定があります。つまり、生産したものは市場ですべて売れていくのです(セイの法則)。

構造改革論はサプライサイド(供給側重視)政策なのですが、その前提にあるのが、消費に対するこのような前提なのです。

一方、「有効需要の原理」であれば、商売っていうのは、市場では売れてはじめてナンボのものということになります。つまり生産しても、人が欲しがるもの、買いたいと思うものじゃなければどうしようもないということです。もっともその消費欲求は「支払い可能」(有効需要)でなければ、これまた話にならないのです。ですから、需要を刺激して生産を増やすという考え方が出てきます。(金融政策や財政支出)

こうしてみてみると、まだ有効需要の原理の方が、まだ市場を見る目を持っていることになりますが、それにしても、不景気だとか、個人消費が落ち込んでいる、といわれながらも、値の張るブランド品が売れているということは、なにか説明がつかないように感じています。

月収20万円のOLが60万円もするケリー・バックを買うというのは、経済学が想定する合理的な人間のやることじゃないはずですし、その上、ケリー・バックを買える人が、100円ショップで違和感なく買い物をし、朝食はマクドナルドのハンバーグを食べながら、たまには高級レストランで食事もしたりするわけです。ユニクロで買った洋服を身にまとっても、持っているバックや財布はビトンであったりするのもなにかよくわからないものだと思います。

このような選好基準の問題を考えると、とても人間は合理的なものではないと考えざるをえなくなってしまいます。選好基準は多様であり、多基軸なのです。げに不思議なのは人間の欲望なのだ、ということでしょうか。

ブランドの信仰という部分を取り上げれば、ソースティン・ヴェブレンという経済学者(進化論的経済学・制度学派の経済学の生みの親)が示した「誇示的消費(Conspicuous Consumption)」を最初に引っ張り出したくなります。

この誇示的消費というのは、『消費それ自体から何かしらの楽しみなり満足を得るためにではなく、その消費行動を人々がどのように受け止め、社会的にどのような影響があるかということをもっぱらの問題とするものである。』(『ヴェブレン』、p58)ということなのですが、要は「見せびらかしの消費」であり、特定の消費行動を取ることで「私はこういう者だ」と表現するようなものだと理解していただければよいわけです。(『消費の正解』、p31)

この誇示的消費という概念を持ち出してくると、なにかしらわかったような気分にはなれるのですが、ヴェブレンのいう誇示的消費は、本来、自分自身が何者であるかがわかっている(ヴェブレンはこれを『有閑階級の理論』で考察している。つまり特権階級における儀礼的・象徴的な消費)場合を前提としているわけで、その意味では、多分80年代頃から顕著になってきた日本人のブランド好き(大衆によるブランドへの信仰)は、ヴェブレンがいう誇示的消費とは、完全一致のものではないように思えます。

それは、自分自身が何者であるかがわからないから「見せびらかしの消費」をしてみた(多く方々が、のとりあえず自分が見せびらかしの対象となるようなものを買えるだけの購買力を持ったことに気付いた)、そうすることによって、自分自身が安心できるような社会的な居場所が見つかるのかもしれないと思った、というような感覚です。

多分、今という時代にも、そのような「傍系の誇示的消費」とでもよべるような感覚は根強く残っているのだと思いますが、問題は、もう一方の100円ショップでお買い物に代表される行動です。

これは一見すると、価格競争の賜物である「安ければよい」を消費者が選好している結果にも見えるのですが、だとすれば、これも不思議なもので、エルメスのケリーバックを持って100円ショップで買い物するような行動を単純に説明することは難しくなってしまいます。(「絶対矛盾的自己同一」っていえばよいのでしょうか?)

例えば、新古典経済学派がいうように、「安ければよい」のであれば、「傍系の誇示的消費」の市場なんて存在できないでしょうし、「傍系の誇示的消費」ばかりであれば、100円ショップもないでしょうし・・・。

もしかしたら「傍系の誇示的消費」をするために、ほかの部分は節約している、という意見があるのかもしれませんが、私にはそればかりではないように思えるのです。私は、同一の個人においてさえも、実は選好基準は多様な基軸を持った複雑なものとして存在している結果なのだと思えるのです。

つまり、私たちは簡単に「市場原理」という言葉を「価格による競争」と同義に使ってしまう傾向があります。昨今の公共建設市場に対するマーケット・メカニズムの導入は、市場原理とは価格での競争のことである、との前提でしか語られていないように思えます。

しかし、市場が個々人の選好基準の集合体であることを考えれば、「市場」の持つ多様な選好基軸を、我々はもっと重視する目を持つ必要があるのだと思います。選好基準は複雑で多様である、という視点を持つことが大切なのだと考えます。

その多様性こそが「市場の原理」であると理解することで、我々は、マーケット・ソリューションとヒエラルキー・ソリューションという二極化の閉塞から、ようやく一歩先に踏み出せるのではないでしょうか。

市場の調整メカニズムを信奉する方であるならば、それはなおさら、市場の原理をしっかりと考えていただきたいのです。市場は単純なのではありません。ただ、あなた方が単純なだけなのです。(合理的な愚か者)

『人間というのは、複雑なのである・・・シンプル・イズ・ベスト、だけならば、単純バカ、になる。シンプル・イズ・ベストとデラックス・イズ・ベストが相補的にあるあり方が、文字通り、ベスト、といいたい。』(『日本人のための「論理学」』)

2003/01/18 (土)  
【ありがとうございます】

岐阜から戻りました。
昨日は岐阜桃塾の新年会だったのですが、とても有意義な時間をもてたことを感謝申し上げます。m(__)m

それから、岐阜滞在中、大変お世話になりました郡上建協の皆様、亀井さんにもあらためて感謝申し上げます。m(__)m

43万ヒットは、岩手の菅原さまでございました。二度目の切番ゲット、誠にありがとうございます。m(__)m

それから岩手の工藤さまご夫妻、ワイン&クッキーありがとうございます。m(__)m
出張しておりましたので、後ほどゆっくりと味わさせていただきます。

今日は、取り急ぎ九建日報さまへの寄稿原稿を書いてしまいたいと思いますので、このあたりで失礼いたします。m(__)m

2003/01/17 (金)  
【@郡上】

一お連カウンターがまもなく43万ヒットとなります。
43万ゲットの方は、迷わず店主へメールです。

今回の景品は桃論デジハン+桃知ハンドタオル(桃論バージョンではありません)
在庫がないので、今回は前後賞はありません。m(__)m

さて今日は、美濃加茂市へ移動します。
日本一かわいいマッチ箱のような長良川鉄道です。

郡上八幡 8:57 長良川鉄道越美南線 美濃太田 10:14

そして昨晩は予定通り牡丹鍋でした。
取り急ぎ小さな写真を・・・


はっきりいってうまかったです。すみません・・・m(__)m

では行って参ります。

2003/01/16 (木)  
【今日は郡上へ】

■昨日は盛岡日帰りでした

盛岡も近いものです。帰りは、(↓)でしたが、
盛岡 16:39 *はやて 22号 上野 19:02

2時間20分程度で、531.7Kmを移動してしまうのですから、「はやて」は本当に早いのです。

昨日は久しぶりの盛岡でしたが、今朝の移動が早い時刻なものですから、我侭をいって早めに帰らせていただきました。

でも昼食はちゃんと盛岡のおいしいものをいただきました。
それは蕎麦。

向田さんと下河原さんに「東屋」さんへ連れて行っていただき、そば会席をいただいたのですが、蕎麦っていうのは、うまいものであること再確認した次第です。

特に、焼き味噌でいただく日本酒は、夜だったら、ずっとそれだけやっていたいなぁと思わせる程うまかったのでした。

■さて今日の私は、(↓)で郡上建協さんまで参ります

上野 7:13 山手線(外回り) 東京 7:21
東京 7:33 ひかり 203号 岐阜羽島 9:40

郡上は、岐阜羽島に着いてからの移動の手段がありませんから、タクシーを使って1時間程度高速道を移動することになります。

昼には、久しぶりに吉田屋さんのカリカリに焼いたうなぎを食べたいと思います。
夜はぼたん鍋の予定であります。

それで仕事はといえば、協会員の皆様にイントラネット(各社のですね)を提供すべく、Microsoft Group Boardのインストールと設定を行うのでした。

■福岡独演会にあわせて

2月8日のの福岡独演会の開催にあわせて、九建日報さんに、「なぜ地場建設業にIT化が必要なのか」というお題のコラムを、4回連続で掲載していただくことになり、現在その原稿を書いています。

例によって移動中の仕事となりますが、1、2回分を予定よりも早めに仕上げてしまうべく、奮闘中です。

掲載されましたら、九州以外にお住まいの方々にも読めるようにしたいと思っています。
少々お待ちくださいませ。

■親愛なる○○さまより

1/9付の桃知先生の『店主戯言』です。
コメントするのも僭越ですし、先生が読書歴浅いと云うのもブラックジョーク的ではありますけれど、一言⇒「全く正しい!」かと思います。

○○はある時期、大学院という所に暫く入院しておりましたが(笑)、その間やった事と云えば、まさしく「つながりの読書」そのものの日々でありました。

1冊読めば(=買えば)、参考文献を数十冊読まざるを得ないという、毎日でした。

ですので、『桃論』読むのははっきり云ってキツウございます。
あれだけの、引用文献読み終わる頃には、きっと定年でしょう(笑)。

当時の指導教官に云われた事を一つご披露しますと、「エロ本だろうが写真集だろうが、どんな本でも著者は、渾身の力で書いているのだから、読み手も厳粛に読まねばならない! 決して速読だとかナナメ読みなどしてはならない。文化に対する冒涜だ!!」と力説しておりました。

で話変わって、本日の「小泉クン」ですが、実は○○のサークルの先輩にあたります。
http://www.aiesec.jp

就任当初は、純一郎の純は「純粋の純」、「純情の純」、「単純の純」等とフォローもしてましたが、今日日思い出す事もありません(苦笑)。

そのサークルとは、経済やビジネスをベースに国際交流する組織なのですが、1.一番頭の良い経済の連中が、国際セミナーの企画・運営
2.頭悪くても英語喋れる連中が海外留学
3.それも出来ない○○みたいな奴らが、企業回って賛助金集めと云った感じです。

小泉クンは恐らく、2番なんでしょうね。
それにしても、この時期「靖国」に行くこと自体、センスの無さ、姑息な感は否めませんが…

ず〜うっと疑問なのは、小泉クンは、サークルや恩師に人脈(人望)がないのかな?と云う点です。
竹中さんよりまともな&立派な人物一杯いるんですけどねぇ…!

以上、正月ボケが続いて、ダラダラと私事書いてしまいました。お許し下さい。

桃知先生にお願い。
↑そんな訳で、これ以上本の紹介しないで下さい。
活字中毒の○○は、「指名願」が捗りません(笑)。

■二死満塁さまからのメール

桃知さん、二死満塁です。構造改革について

稲葉振一郎の「地図と磁石 ──不完全教養マニュアル」
第6回 左翼がはまった罠──モラリステッィクな「構造改革」の徹底でOK?
http://www.hotwired.co.jp/altbiz/inaba/021119/

に構造改革についての左翼側の考えについて書かれており興味ぶかかったです。
ここでは金子勝氏・塩沢由典氏の考えについて書かれています。

正直いまひとつ理解できなかったのですが、ようするに左右とも皆程度の差はあれ構造改革しろと言っているという事でしょうか。
(塩沢氏を左とするのもどうかと思うのですが、、)


金子勝にしろ、野口悠紀雄にしろ著書を読んでいると、立場やり方は違っても、要するに、稲葉氏はモラリステッィクと表現していますが、搾取・不正といったものが日本に多くあり、それを極端に嫌っていてそれを改革しろと言っているように感じます。

建設業界の中の、特殊法人、政治家、丸投げ、OBなどの問題はその象徴的存在ですね。


ところで竹中氏のインフレターゲットの話は、桃知さんのおっしゃるように

>>リフレ政策(インフレターゲット論)に色気を見せているようですが、この金融政策は(マクロ政策)であって、構造改革論
には存在していないのですがと、老婆心ながらながらいいたくなりますね<<

と思います。

であるなら、構造改革論に財政政策も存在していないと考えるのもありではないしょうか。

私は、失業と構造改革(一般競争入札化など建設業の競争政策)は関係ないと思っています。公共投資額の大幅な減少(特に地方自治体)が失業、ホームレスを増やす原因だと考えています。

こう考えれば、公共投資を従来の多いレベルに維持して、建設業界の中の構造改革(競争政策の導入)を進めるという選択肢があるのではと思います。

財政的な制約は、移民受け入れを行って経済成長率を高めれば解決可能ではないかと。
もちろん移民受け入れを考えればコミュニティソリューション、creative cityといった考えが前提として必要になる。

こんな風に頭に描くのですが、これでは駄目でしょうか。

そもそも私は、色々公共工事の問題があるのは事実で批判は甘受しなければならないのだろうけれども、阪神大震災の経験(皆忘れてしまったでしょうけど)からもっとすべき工事は沢山あるのではないだろうかと考えています。

ですのでどうしても、現在行われている闇雲に公共工事削減する話には乗れませんし、現状維持的な話にも乗れません。
難しい問題です。。

余談ですが、、
現政権が行っている相続税の減税は全く経済的効果がわからず理解できません。少子化を考えれば増税してもいいのでは、、、

毎度ありがとうございます。m(__)m

金子勝については暇のあるときにでも・・・

今回は、「であるなら、構造改革論に財政政策も存在していないと考えるのもありではないしょうか。」とういう部分から始めましょうか。

これは、昨日私が書いた、「きっとそのうちに、財政支出はなぜ悪い、もっと財政支出をして、能率が悪い企業は淘汰(とうた)する以外にない。なんていいだすのかもしれません。爆笑ものですが・・・」を受けてのものでしょうか?

この私の発言は「似非」市場原理主義者に対する大いなる皮肉でございます。
構造改革論には財政政策はありません。→彼等にとっては財政支出は非効率な産業温存の原因であり、財政赤字が拡大する要因なのですから。

「私は、失業と構造改革(一般競争入札化など建設業の競争政策)は関係ないと思っています。公共投資額の大幅な減少(特に地方自治体)が失業、ホームレスを増やす原因だと考えています」という部分ですが、これは競争が価格というメトリックでだけ行われるものなら、無理だと思います。

マクロ的には、需要不足が不況の原因であることには異論はありませんが、構造改革論者がいう「似非」市場原理(あえてこう書きます)の導入は、元々は、二死満塁さんがいう構造改革(一般競争入札化など建設業の競争政策)を目的として謳っています。

最初から失業者を増やす、という目的では行ってはいないのです。しかし、そうなることは自明の理です。ですから、その政策が結果的には失業者を増やすことになっても、その失業者は「構造改革」が生み出す新たな雇用の受入場が引き受ける、というシナリオがそここには存在しています(つまり、これが「構造改革論」なわけです)。

この考え方の根底には、公共建設市場そのものの縮小を促すことで、旧来からの公共工事のシステムを破壊し、この産業が持つ「政治的なバイアス」志向(西満塁さんがいうところの、建設業界の中の、特殊法人、政治家、丸投げ、OBなどの問題)を「構造改革」するそのことをもって、この「公共工事という問題」をスケープゴート化し、それを「構造改革論」のシンボル化しようとする意図が見え隠れしているように思えます。

つまり、公共工事に依存する地場型中小建設業(地方の小地主とでも表現しましょうか)や、それにまつわるさまざまな政治的なバイアス(利権の構造)を仮想敵とすることで、「構造改革論」はその正当性を主張しているだけなのだと思います。(真の構造改革論者がいう構造部分とは、そのようなものではないはずです。)

それが構造改革論者をして、公共建設市場に市場原理(価格競争)を持ち込もうとする強い誘因なのだと私は思います。ですから、財政支出の削減と「公共工事という問題」を価格競争というマーケット・メカニズムの導入で問題解決しようとするのは、構造改革論者にとっては、分離不可能なペアでしかないのです。

確かに、二死満塁さんが言われるように、「公共工事という問題」に対して、財政支出の拡大と、その支出に対するマーケット・メカニズムの導入という政策は可能ではないかと思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、それはまずありえないことだと理解したほうが良いかと思います。

なぜそうなってしまうのかというと、問題は何を持って「競争」とするのか、という部分で、つまり、何が「競争」のメトリックとして国民的なコンセンサスを得られるのか、というところで、結果的に多くの方々がマーケット・メカニズムの導入しかない、と思い込んでしまっているところに問題があるのだと思います。

今の世論(圧倒的多数の構造改革の支持者)から導き出されるメトリックは、「価格」での「競争」ということになるかと思いますが、それがつまり「市場の原理」(原理を「真実」とか「真理」と読み替えてもかまいません)なのだ、という思い込みが我々の中で、強くなってしまっているだけなのだと私は考えています。そしてその矛先は、仮想敵である「公共工事という産業」に向けられているのです。

ここで「競争」を強調するのであれば、地域経済の活性化と雇用の確保を目的とする公共工事に、官公需法や地域要件を維持することも難しくなってしまうでしょうが、それは果たしてよいことなのでしょか。

多分、良いことだ、という方々がほとんどなのでしょうが、私は決して良いことだとは思っておりません。

それは、このデフレ経済化では、確かに地域の小地主(地場型中小建設業の経営者)や「政治的なバイアス」を消滅させるかもしれません。それは別なマクロ的は財政支出を大きくすれば見えなくなる問題かもしれません。

しかし、財政支出の増加とそこに競争原理(価格競争)を同居させるという政策があるとすれば、それはもっと大きな不平等や不公平を生み出す原因となってしまうのではないかと考えているからです。

つまり、私がいいたいのは、「公共建設市場」(特に雇用の問題としての・・・)という「市場」においては、価格のメトリックが絶対の市場原理なのでしょうか、という疑問が常に私にはまとわり着いているということです。(これが中流崩壊のシナリオと結びつくのですが、それについてはまたあとで・・・)

ですから、私が常に問題にしているのは、そのメトリックの部分なわけです。

そのメトリックを「価格」から「信用」とか「信頼」というものに転換させる方法を考えているのが今の私だ、ということになります。

それを可能にしているのが、市場を構成する情報をミーム(複製子)として見るという考え方なのですが、それにしてもこの問題は、何度も書いているように、「公共工事という産業」を構成する方々が、外圧(市場原理)によってではなく、自らの行動で自らを変え、環境を変えていくしかないことで、本当に悩ましい問題なのです。

市場ってなに(つまり市場原理)を考えているのが経済学の一面であるのは確かなのですが、それに対する答えは実はさまざまなのです。経済政策は壮大な仮説の実証過程でもあるわけです。ですから誤りもあります。

その意味では私の仮説も誤りかもしれませんが、同様に、価格競争という狭い意味での市場原理に私たちがとらわれてしまうならば、私たちは永遠にこの市場ってなに?というところで、ぐるぐる回るハム太郎のようなものでしかなくなってしまうのかもしれません。

ということで、続きはそのうちにでも・・・

2003/01/15 (水)  
【「はやて」に乗ってきます・・・】

■盛岡出張

今日は盛岡まで行ってまいります。
そして、今日は初めて「はやて」に乗らせていただくのです。

上野 8:02 はやて 3号 盛岡 10:22

だからどうした、といわれそうですが、やっぱり初物は嬉しいじゃないですか(笑)

■阿保か、というかなんというか、最悪ですね

今日は時間がありませんから、うだうだとは書いている時間がありません。
なので、ひとことふたこと書いて終わりにします。

まずは、小泉内閣を支持されている皆様へ。

「どうですか、景気はよくなっていますか?」と聞きたい。

小泉さんを支持されているあなたは、もしかしたら景気が良いのかもしれませんが、1月の月例経済報告でも、景気判断の3カ月連続下方修正を迫られそうです。

つまり、日本国民の多くは、景気が悪いなぁ、と感じているはずです。

企業の生産や個人消費の落ち込みは深刻なわけで、17日に予定されている1月の月例経済報告でも、景気の基調判断を3カ月連続で下方修正することが濃厚のようです。

結局小泉さんは、デフレをより深刻化しているだけに過ぎません。

「構造改革なくして景気回復なし」は景気対策のスローガンとしては誤っていることを、そろそろ素直に認めるべきだと思います。

こと経済政策に関しては、小泉という人はまったくだめなようです。

竹中平蔵氏を支持されている皆様へ。

小泉さんの経済政策丸投げ先(建設業であれば業法違反だよね)である竹中大臣は、最近、リフレ政策(インフレターゲット論)に色気を見せているようですが、この金融政策は(マクロ政策)であって、構造改革論には存在していないのですがと、老婆心ながらながらいいたくなりますね。

結局竹中平蔵氏というのは、経済学者としてはなんだかわからない人のようなのです。

それじゃ、竹中平蔵氏は、サプライサイド政策論者を止めて、マクロ・エコノミックスへ「転向」したのかと思えば、さにあらず。

いまだにこんなこと(↓)をいわれております。(以下「夕刊フジ」より)

『能率が悪い企業は淘汰(とうた)する以外にない。建設、流通、不動産業から、かなりの企業が消えるだろう。併せて巨大な不良債権を処理した上で、インフレ率が2、3%の目標に達すれば、新たなベンチャービジネスも生まれる』

この発言が矛盾に満ちていると感じることのできた方は正常であります。
反対に、いいこといってますなぁ、と思った人は、一度自分自身を見つめなおした方がよいでしょう。

この発言の矛盾点はなにかといいますと、『能率が悪い企業は淘汰(とうた)する以外にない。建設、流通、不動産業から、かなりの企業が消えるだろう。』→これは強烈なデフレ圧力がかかります。

一方、『インフレ率が2、3%の目標に達すれば、新たなベンチャービジネスも生まれる』というのは、インフレターゲット政策が功を奏すことを目論んでのことでしょうが、先の強烈なデフレ圧力の下で、いくら政府・日銀がインフレ政策をやりますよ、っていったところで(インフレターゲット論っていうのは所詮このようなものなのよ)、国民はお金を使うのでしょか、という、素人でもわかる問題を隠匿しているわけです。

これでは、片方でブレーキをべた踏みし、片方で、アクセルは踏まずに、口で「バリバリだぜ」と言っているようなものでございましょう。

つまり、いまだに「潰すから生まれる」というパラダイムにいることで、リフレ政策(インフレターゲット論)に色気を見せているのは、たんなる場当たり的な迎合主義のように思えます。

もっとも、こう私がいったところで、いったい、これの何がヘンなのか?というのが、単純バカボン似非市場原理主義支持の方々なわけで、きっとそのうちに、財政支出はなぜ悪い、もっと財政支出をして、能率が悪い企業は淘汰(とうた)する以外にない。なんていいだすのかもしれません。爆笑ものですが・・・

まあ、そうなればもうけものですが・・・(笑)

2003/01/14 (火)  
【福岡独演会について & etc.】

■2・8福岡独演会

取り急ぎ2・8福岡独演会のご案内をアップロードいたしましたので、お知らせいたします。
→詳細は「オープンセミナーのご案内」をご覧くださいませ。

久しぶりの福岡独演会であり、「福岡ももち会」さんの主催、そして(株)九建日報社さんの共催をいただきまして、私の独演会としては過去最大規模で大々的に開催させていただきます。

講演内容は、極めてオーソドックスなものを準備しておりますので、多分、初心者の方にも納得のセミナーになるかと思います。

講演内容(予定)
・公共工事についての基本的な考え方(雇用の問題としての公共事業)
・構造改革論批判(不況の原因は構造問題にあるのではない)
・条件付一般競争入札批判(似非マーケット・ソリューションの悲劇)
・事業者団体の役割と事業者団体ベースでのIT化戦略(「公共工事という産業」の生き残り策とは)
・市場を形成するものとしての情報(ミーム論)
・コミュニティ・ソリューションとソーシャル・キャピタル(信頼の構築とは)
・競争優位のためのIT化戦略(本当のコア・コンピタンスとはなにか)

以上の内容を中心に4時間しっかりとはなしをさせていただきます。(当然延長は覚悟しておいてくださいませ)テキストは後日当サイトからダウンロードできるようにいたします。

当日は少しだけですが桃論の販売も予定しております。(30冊の予定・特性領収書付きです)

オープンセミナーご案内


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『デフレ不況の実証分析』

原田泰(編)
岩田規久男(編)
東洋経済新報社

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『この国を良くするために、今やるべきこと』
バーチャルシンクタンク「改革」(著)
以下著作者
中谷巌
竹中平蔵
田坂広志
伊藤元重
米倉誠一郎
太田弘子
跡田直澄
宮脇淳
國領次郎
大竹文雄
ダイヤモンド社
2001年5月31日

cover
『クルーグマン教授の経済入門』
ポール・クルーグマン(著)
山形浩生(訳)
角川書店
1998年11月5日
■「構造改革論」のおさらい

昨年末から、『桃論』以降の作業として「構造改革論」の再検討をしていました。

それは、ここ数年間の、私の考え方のおさらいをしていたようなものです。

なぜそうする必要があったといえば、私自身が『桃論』以降になにをするのかの確認のため、とだけいっておきましょう。

今の仕事を始めたばかりの頃の私は、「構造改革論」を支持し、市場原理を良しとする立場でものを語っておりました。それはIT化推進論者としては当然のことだったのかもしれません。

「構造改革論」とは、野口悠紀雄氏や中谷巌氏そして竹中平蔵氏に代表される、現在の日本の長期停滞(不況・デフレ)の原因を、「日本の構造問題」にある、とする考え方です。(代表的なものとして、『この国を良くするために、今やるべきこと』バーチャルシンクタンク「改革」(著)を参考文献としてあげておきます)

この「構造改革論」の特徴は、経済の供給面での効率化こそが景気回復に結びつく、というものですから、IT化の視点は当然に効率化ということになります。

つまり、ITは効率化の道具として存在することになります。

このような考え方は、IT化コンサルテーションを生業とする私のような職業のものには、とても好都合な理論(というよりもプロパガンダか)であったことはいうまでもありません。

つまり、個々の企業がITを使って効率化に励めば、不況も克服できるといっているのですから、こんなよいことはありません。
5年前の私はこれに飛びつきました。

しかし、私は今現在「構造改革論」を否定する立場にいます。

ここで誤解なきように書き留めておかなくてはならないことがあります。それは、私のいう「構造改革論」の否定とは、「構造改革して景気回復なし」という文脈(つまり、経済の供給面での効率化こそが景気回復に結びつく)を否定しているのであって、個々の企業の経営努力を否定しているのではないということです。お間違いなきよう。

■私はなぜ「構造改革論」否定論者になったのか

最初の疑問は・・・例えば、失われた10年といいますが、日本の構造に問題があるとすれば、なぜ90年代にその構造が突然逆噴射しなければならないのか、という単純なものです。

そして、これは経験的なものですが、私の知っている多くの地場型中小建設業の皆さんは、けっして何もしていないわけではありませんし、それこそ必死になって「供給面での効率化」には進めておられますが、しかし、そのような努力が、「公共工事という産業」(特に地場型の)においては、結局は報われるものでない、という現実です。

『桃論』流にいえば、「公共工事という問題」の前では、技術論的なIT化なぞ、何の役にも立ちはしない、ということを、実感として持ってしまっている、ということです。(11日の戯言を併読ください)

つまり、「公共工事という問題」を「供給面での効率化」だけで解決しようとしてもそれは難しい、というか、どうしようもない方法でしかない、というのが、私が「IT化を供給面での効率化」以外の文脈で考えることとなった大きな理由なのです。(つまり金魚論の認識です)

それは需要が減少する(市場が縮小する)経済では、個々の企業が過去からの継続で同じことをしている限り、その範疇での努力は報われないものである、ということなのですが、しかし、地場型中小建設業が、この「過去からの継続で同じことをしている限り、その範疇での努力は報われない」ということに気がついたところで、需要が縮小し続ける経済下で、(少数の例外はあるにしても)その呪縛から逃れることは難しいことはいうまでもありません。

マクロ的な努力では、需要も雇用も生まれはしないのです。

つまり、試みの多くは失敗に終わるでしょうし、失敗しいてもリターン・マッチができればですが、そのような環境さえないのに、人々が変化へのインセンティブを持つことなど、ありえないということです。

■マクロ経済政策

そのような効率化という狭い意味での(マスターベーション的)IT化観の挫折は、結局、私をマクロ経済政策を重視する立場に戻してしまったのです。(「戻る」という意味は個人的には結構いろいろあるのですが、ここでは省略いたします)

クルーグマン曰く、『で、経済にとって大事なことというのは−つまりたくさんの人の生活水準を左右するものは−3つしかない。生産性、所得配分、失業、これだけ。これがちゃんとしていれば、ほかのことはまあどうにでもなる。これがダメなら、ほかの話も全滅。それなのに、ビジネスとか経済政策は、こういう大きなトレンドとはほとんど関係ない。』(『クルーグマン教授の経済入門』、p25)なのです。

そのために、私の戯言は、ある時期からマクロ経済学を扱う題材が多くなってしまったのですが、つまり、景気対策は、「需要」の問題でしかない(初心者的でもIS−LMモデルから考えるだけでも十分に理解できる)、ということなのです。

でも、それでも問題は残っていました。

■結局問題はなにか

それは、デフレ状況における需要重視の政策の必要性は正解だとしても、それじゃなぜ小泉政権は「構造改革論」で動かざるをえないのだろうか、という疑問です。

それから、こと「公共工事」というはなしになると、マクロ経済政策を主張する方々でも、その賛否の意見が分かれるのはなぜなのか、ということなのです。

11日の戯言で紹介しました二冊の本『構造改革論の誤解』『誤解だらけの構造改革』は、両方とも需要の経済学の視点で書かれたものですが、その違いが明確にでているものです。

野口旭氏と田中秀臣氏による『構造改革論の誤解』は、金融政策による需要の拡大を主張していますが、反面、公共工事(財政支出)の効果については懐疑的です。

『財政支出の配分には、常に政治的なプロセスがつきまとう。それは、財政とは国民各層の利害の再配分にほかならないからである。再配分である以上、どのように民需的な手続きを経たとしても、過分な分け前を享受できる層と、「搾り取られるだけ」の層が現れる。そして一般的には政治家に影響力を持つ利益集団、業界団体、および圧力団体や、予算配分の多くを事実上支配する官僚組織と強い結びつきを持つ特殊法人・公益法人およびそのファミリー企業が、その政府予算のゼロ・サム的奪い合いにおける「勝ち組」になる。政府支出が景気対策としいての「公共事業」を中心として行われる場合、この政治力学的なバイアスは、より一層顕著になる。』(『構造改革論の誤解』、p189-189)

一方、小野善康氏の『誤解だらけの構造改革』は、財政政策を重視した主張をしています。そして『桃論』よりもはるかに「公共工事という産業」の味方であるようなものになっている、といえるものです。

しかし、小野氏の主張は、広く市民社会に受け入れられることはないでしょう。結果的には、先に『構造改革論の誤解』から引用した、「政治的なバイアス」の擁護論と受け止められることで、結局「公共工事ダメダメミーム」の形成に加担してしまうもののようにも思えます。

それは、財政支出支持論が、市民社会が抱えている皮膚感覚としての「配分の不平等さ」から問題を遠ざけてしまっていることにあると感じています。

需要側の経済学(マクロ経済学)の欠点は、市民社会が抱えている皮膚感覚としての「配分の不平等さ」という部分に関しては、「構造改革論」にくらべて共感を得るような議論を提示できないことにあります。

(しかし、構造改革論の本質は「痛み」を強要することで、さらに市民感覚からは遠いものなのですが、公共工事をスケープゴート化することによって、その不満のベクトルを議論の本質からそらすような仕組みを持っていることに注意されたい)

この市民社会が抱えている「配分の不平等さ」という時代の空気をうまく掴むことに成功したのが小泉政権ということになるでしょう。

ですから、ポピュリズム的に「構造改革論」で動かざるをえないのです。

さらに、その動きはマクロ的な政策を支持する方々のなかにも見ることができます。金融政策論者には、公共工事をスケープゴート化して、財政政策よりも金融政策の方が景気対策には効果がある、といった主張をする方々が多いのですが、それは市民社会からの支持を得ようとしているようにも思えます。(『構造改革論の誤解』は猪瀬直樹氏の推薦がついておりました)

■結論

私は、政策的にはマクロ(需要重視)政策を支持します。
それは、なによりも「失業」の問題としてです。

少なくとも、失業の心配のない社会(経済情勢)であれば、個人レベルでも、少々のリスクは覚悟できます。

勝手なことをいわせていただければ、マクロ(需要重視)の政策では、金融政策も財政支出も必要だという立場です。

デフレ状況下で需要を作り出すのは政府の仕事です。
そのためには、できることはなんでもしていただきたいのです。

ですから、現在の私のIT化論は、個々の企業や事業者団体でのIT化に対しても、このマクロ的な認識から始まりますが、その認識を持つことで、「公共工事という産業」が抱える問題点が明らかになるはずです。

それはつまり、市民社会からはまったくといっていいほど「信頼されていない」ということなのです。

であれば、私のIT化の視点は、「信頼の構築」に向けられるわけです。「信頼」というソーシャル・キャピタルが形成されない市場は、円滑な取引を阻害し、多大な取引コストを発生させるだけでしかないのです。

しかし、この「信頼の構築」問題も、「公共工事という産業」の変革(具体的には、「公共工事という産業」にかかわるすべての方々の自らの意識の変化)がないことには、市民社会とのコミットメントも難しいことで、また厄介なものなのです。

でも、それを一歩一歩確実(地を這うように)に進めて行こうというのが私のIT化の文脈なのですが、既にタイムリミットは過ぎているのかもしれません。

時間の問題は、今の私にとっては一番厄介な問題なのです。
この時間稼ぎが、マクロ政策を支持する一番の理由かもしれません。

でも、これも公共工事が嫌いな方々には批判の対象とされてしまうのでしょうね。

2003/01/13 (月)  
【休養日】

今日は仕事としてお休みさせていただきます。

2003/01/12 (日)  
【感謝】

■新年会のようなもの

昨日はSGSの大月さんに、なにからなにまでお世話になって、六本木のAGASHAというお店で(元アリスのドラマーだった矢沢さんがオーナー)、昨年に続き、柴田山親方(元横綱大乃国)をお迎えして新年会のようなものをやらかしました。

柴田山親方の話はとても興味深く、相撲界と今の建設業が置かれている状況の類似点のようなものが垣間見えました。

今年の法大エクステンション・カレッジでの講義には、ゲスト・スピーカーとしておよびしようかななどと考えておりました。

元アリスのドラマーだった矢沢さんもお店に顔を出してくださいましたので、男ばかりの新年会ではありましたが、それなりに華やかなものでありました。

二次会は、AGASHAの近くのマ・シエリというお店で賑やかに遊んでお開きとなりました。
たぶん、柴田山親方が料金の交渉担当をしてくれたと思います。

ありがとうございました。m(__)mぺこりぃ。

そして、参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました。
今年も世間様にご迷惑をおかけしながら、できる限り動きましょう。

■浅草桃塾の補習は

・SGSの大月さんからISO話
ISOを自らのビジネス(商品)として考える視点に立って語るというものでしたから、多分通常はやらない(できない)話だったと思いますが、それがかえってよかったのだと思います。今まで私が聞いたものの中では、一番楽しめました。(法政におよびしようと思います)

・内藤建設さんのIT化事例
私のIT化文脈に忠実であり確実に進化しているなぁ、というのが感想です。IT化を第一義的にはコミュニケーションツールとしてとらえ、その視点を顧客側に持つことが、結果的にはIT化を成功に導くものであることの良い事例だと感じました。

・トライネットの熊谷社長の話
合併以後のかなり戦略的なもので、具体的な内容ははここでは書けないものです。「覚悟」が伝わる話でした。それにしても長野県の入札制度の変化が、長野の建設業界に対してどのような変化をもたらすのかは、余談を許さない状況のようです。

・郡上建協の前田会長の話
郡上建協さまとは、IT化を通してのお付き合いがその始まりでしたが、今回はIT化にとどまらず、ISOの共同取得の話や、厚生年金基金の話等、現在地場型中小建設業が抱えている具体的な問題にまで話題は及びました。IT化の文脈から出発してしまうと、効率化や合理化といったミクロ的な部分に視点がフォーカスされてしまいがちなのですが、事業者団体という組織の機能が果たし得るのは、むしろマクロ的な部分(対外的な状況)への働きかけであることを感じました。

ということで、今年の第一弾は極めて濃い内容で始めることができました。
講師の皆様、ありがとうございました。m(__)mぺこりぃ。

2003/01/11 (土)  
【慌しく・・・】

cover
『構造改革論の誤解』
野口旭(著)
田中秀臣(著)
東洋経済新報社
2001年12月27日
cover
『誤解だらけの構造改革』
小野善康(著)
日本経済新聞社
2001年12月17日


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■とりあえず

本日は、SGSさんの六本木研修所で浅草桃塾の補習を行います。
予定では、今日は「構造改革論」のおさらいをやるつもりでしたが、お出かけの準備をばたばたとしなくてはなりませんので、それは後日ということで、参考文献を挙げるだけになってしまいます。

左の列の一番下の新聞記事は、松阪市による横須賀市方式の電子入札の導入の記事です。

松阪市の場合、既に郵便による「条件付一般競争入札」が導入されておりましたから、横須賀市方式になるのは時間の問題ではあったわけです。

問題は、自治体のIT化が、このようなミクロ的な目先の効率化の文脈で機能するものであると誤解されることにあります。

『桃論』でも指摘したとおり、このような目先の効率化に終始する公共事業へのマーケット・メカニズムの導入は、「公共工事」の持つ本来の目的を忘れ、「建設」という日本の特技を形骸化するだけのものでしかありません。

それは、IT化が、単なる合理化や効率化の道具だと思われていることの弊害です。

『桃論』はいいます。

・・・そもそも公共建設市場に「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが絶対の問題解決策なのか、ということです。それは中小建設業の終焉を意味するだけのものでしかありません。今の中小建設業に、真正であれ似非であれ「マーケット・ソリューション」に対応できる経営力や技術力を持った企業はほとんど存在しないでしょう。つまり中小建設業は金魚でしかないのです。自ら餌をとることを前提とした環境で生きるようには、そもそも適応できていないという理解の前では、市場のやみくもなマーケット・メカニズム化は中小建設業の淘汰の原因にしかなれません。

 そして、このふたつには共通する問題があります。それは、真正であれ似非であれ「公共工事という問題」に対する「マーケット・ソリューション」には、中小建設業の経営努力を評価する仕組みが制度的に組み込まれていないことです。それはある意味当然のことしかありません。なにしろ「マーケット・ソリューション」はその参加メンバーに対して、効率性や合理的であることを最優先に求めますが、中小建設業が生きる「公共工事という産業」は、そもそも効率性や合理的であることは二義的な次元に存在しています。ですから、マーケット・メカニズムが絶対だとする公共建設市場では、そもそも中小建設業の存在はたいして意味のあるものではなくなってしまいます。そのような市場では、IT化に限らずどのような経営努力もたいした意味をもてないのです。

 本書のいう「中小建設業のIT化」は、このような認識を基調にしていることはこれまでの議論でも明らかでしょう、しかし、この認識はIT化の"あきらめ”を意味してはいません。経営努力がたいして意味をもてないのは、あくまでも「マーケット・ソリューション」の文脈では、という注釈がつきます。このことは、公共建設市場において「中小建設業のIT化」が、経営戦略となり技術と経営に優れた建設企業実現のための道具であるには、「マーケット・ソリューション」の文脈から、その視点を一度はずしてみる必要があることを意味しています。本書は、それが「コミュニティ・ソリューション」の視点だというのです。それは、

 〈IT化を効率化や合理化の道具として考えることをやめてみなさい〉

ということです。そして、IT化が中小建設業になんらかのメリットをもたらすとすれば、それには、

 〈中小建設業が売っているものとは自社の「技術のミーム」である〉

という認識が必要なのであり、

 〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉

ということを理解し、さらには、

 〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である〉

という文脈を理解することでしか、私たちはIT化のメリットを享受できないところにいることを認識すべきなのです。


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