店主戯言00301_01 2003/01/01〜2003/01/10(上旬)  "There goes talkin' MOMO"


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2003/01/10 (金)  
【メールから】

■桃グッズコレクター

←の写真は、北海道の小川さまのcollectionです。
いろいろとあるものでございます。
大切にしていただいているようで、とても嬉しく思います。
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『マルクスの遺産』(未読)
■二死満塁さんからのメール

年明けからの店主戯言非常に内容がこく興味深く読まして頂いています。

>『ホワイトカラー上層の世襲をあたかもエリート階級の誕生のようにみなす受け止め方』(大塚:p209)が存在していることです。<

1/8の不平等化に関する話は非常に興味深く読ませて頂きました。

この辺りの話。HOTWIREDの連載「稲葉振一郎の「地図と磁石──不完全教養マニュアル」http://www.hotwired.co.jp/altbiz/inaba/020122/ が面白かったです。

私は中学高校と寮生活していたのですが、同じ環境でバカをやっていた、私と同じく下から数えて1桁以内の成績の同期でも、親が医者なら、お金を払って入れる医学部に行き、20才そこらでベンツを乗り回す。
そして今は医者。。

一つ下の橋○龍○郎の息子は、同じく下から1桁台だったのに慶応大学・・・

といった感じで世の中不平等この上ないなぁと良く感じてました。。。

>>新保守の人々の決まり文句である自己責任や自由競争という物の言い方にしてもやはりそれは強者の論理であり、敗れた人々は敗北を受け入れなさいといっているにじつは等しいのだ、<<

>>都市住民の税金を地方の公共事業にバラまくなという主張も、それ自体は論議としては正しいにしても、一方では富の再分配という階級間の問題を都市対地方の問題のなかに隠蔽している、<<

この件に関する問題は二つあると思います。

一つ目は、所得の再配分過程で、エリート層(既得権を持つ会社の世襲の建設業経営者)に手厚く配分される結果になっている点。

自分の立場でお客さんの事をこう表現するのはよくないのでしょうが、現場を見ていてこれを否定できません。
所得をエリート層に再配分しているように見られては一般の方から公共工事の支持が得られるとは思えません。

建設業界には、搾取といわれる状態があるのは事実だと思います。

最近塩沢由典氏の書物を読んでいます。
塩沢氏はアメリカ型経済を嫌うマルクス経済学の研究家の一人だと思われますが、それでも市場を経由しないと搾取はなくならないと主張します。

建設業界から搾取をなくすためには、やはりもっと競争的にならないと難しいのではないかと思ってしまいます。

二つ目は、多くの一般の人が失業対策工事は失敗であると思っている点。

昨日、大阪府の都市再生プロジェクト「水都再生」について話す場に参加してきました。
参加者はアメリカ型経済を嫌うタイプの人が多い集まりです。

このプロジェクトにからんで安藤忠雄を中心とした博覧会のようなイベントが行われる事が決まっています。

このイベントは大阪城周辺の川を中心に行われますが、ここにはすごい数のホームレスが生活しています。

博覧会をすればこの人たちを追い出さなければならないのは必至ですが、これをどうするのだろうかという話がでました。

やはり何らかの仕事を与えなければならないという話になったのですが、それは工事以外でという話になります。

NPOがホームレスに仕事を出してといった話も出ますがそれは工事以外でという話です。

皆の中に失業対策工事は失敗だというコンセンサスのようなものがあるように感じました。



マクロ経済と公共工事という点では、「配分過程の中の搾取」「工事による失業対策効果」この二つの点を解決しないと公共工事は一般の人からなかなか支持されないのではないかと感じています。

■成り上がりへのあきらめ

それでは、ひとつひとついきましょう。

「稲葉振一郎の「地図と磁石──不完全教養マニュアル」http://www.hotwired.co.jp/altbiz/inaba/020122/ は、社会倫理学の先生らしく(?)、「公共性」と「連帯」を主眼に、『「勝ち逃げ」を目指すヘタレ「中流」』を語っていますが、私の関心事は、1月8日に紹介しております大塚英志の言葉では、『しかもこういった言い方が、仮に「階級」化が進んだとき、明らかに下位の階級に区分されてしまう層にまで浸透していることには最大限の注意を促しておきたい。』ということです。稲葉の言葉を引用すれば、この部分です。

具体的に言えば、「ゆとり教育」をめぐる議論のよじれである。「ゆとり教育」を支持する声はどこから上がっているかと言えば、一方では「平等主義」批判のエリート主義者たちからであるが、他方学歴社会と受験競争を厳しく批判してきた草の根主義者たちからでもあるのだ。似たようなよじれは小泉「構造改革」をめぐっても存在する。「改革」支持は市場原理、競争原理の徹底を唱えるエリート主義者たちからのみならず、官界と業界の相互依存による既得権益のネットワークの不公平を指弾する庶民からも寄せられているのだ。

それから、そのねじれを生み出している根底の意識としての、以下の指摘。

しかし2001年の『階層化』で、苅谷は新しいヴィジョンを提示する。80年代から90年代の学生たちの追跡調査を踏まえた苅谷の主張のポイントは以下のとおりである。まず第一に、「学力低下」がよく問題とされるようになったが、低下が疑われるのは学力水準だけではなく、学習意欲でもあること。第二に、学力も学習意欲もただ低下したのではなく、とりわけて低い社会階層に属する家庭の(平たく言えば、貧乏人の)子供における低下が著しいこと、つまり学力・学習意欲それ自体に階層間格差が生じている疑いが濃厚であること。そして第三に、このような学力・学習意欲の低い子供たちの方が、一見逆説的にも、現状に満足している度合いが高いこと。これが苅谷の言う「インセンティヴ・ディバイド(意欲格差)」である。

私は、「インセンティヴ・ディバイド(意欲格差)」には、「成り上がりのあきらめ」のようなものを感じています。

それは、『私の両親は最低レベルの義務教育しか受けていない「労働者」でしかありませんでしたが、戦後の日本は、一介の「労働者」といえども、その労働のわずかな対価の中から、学費を捻出することができ、子供を大学にやることができたのです。』と私自身が言ったときに、私自身が感じたのは「世代をまたいだ成り上がりへの可能性」というものでした。

今という時代は、そのようなインセンティブを最低限保障するような社会的な仕組みが崩壊してしまっているのだろう、ということなのだと思います。

ということで、この話は長くなりますので、今日はここまで。

『マルクスの遺産』

それから、『最近塩沢由典氏の書物を読んでいます。塩沢氏はアメリカ型経済を嫌うマルクス経済学の研究家の一人だと思われますが、それでも市場を経由しないと搾取はなくならないと主張します。』ということですが、このフレーズはまっとうに読めば矛盾に満ちているわけです。

ただ、私は塩沢由典の書いた本を一度も読んだことがありませんので、とりあえず『マルクスの遺産』をamazonに発注しました。

ですので、詳しくは後日。

■スケープゴート・スパイラル

ということで、本日のメインイベントは、『マクロ経済と公共工事という点では、「配分過程の中の搾取」「工事による失業対策効果」この二つの点を解決しないと公共工事は一般の人からなかなか支持されないのではないかと感じています。』という部分です。

まずは、「工事による失業対策効果」という部分から始めます。
ここでは「工事」=「公共工事」と解釈します。

『アメリカ型経済を嫌う人の中にも、工事では財政の制約の中で、有効な失業対策に成り得ないと考える人がかなりの数いるようです。』という意見ですが、まあもっともなご意見です。

といっても、これはまったく間違った意見であることを最初に指摘しておかなくてはならないでしょう。

まず、「公共工事」でも、それ以外の仕事でも、それが政府事業(地方政府も含みます)としてなされる限り、失業対策としての効果にはなんら違いは生じません。

これ(工事では財政の制約の中で、有効な失業対策に成り得ない)が正しいのは完全雇用の場合だけです。
つまり、民間雇用を政府事業が圧迫する場合だけだということです。

「工事による失業対策効果」批判は、新古典主義的な観点(彼等の議論は完全雇用が前提なのです)に立った意見であるばかりではなく、最初から「公共工事という産業」を否定したがっている意見であることがわかるでしょう。(これがなぜなのかは後述します)

不況時にはたとえお金がかかっても、それが資源の浪費という、本当の意味での無駄にはならないのです。失業者を雇うことに対する社会的な費用はゼロなのです。これはマクロ経済学では常識でしかありません。

例えば、イベントの開催の邪魔だから、ホームレスの方々に金を出して、その場を立ち去ってもらうのと、なんらかの仕事をしていただいて賃金を払うことで、ホームレスの生活から脱していただくことの違いはなんでしょうか。どちらの方が資源を有効に活用していると言えるのでしょうか。

問題は「工事以外」というときの、二死満塁さんが言うところの「配分過程の中の搾取」という表現に見える、「公共工事という産業」に対する嫌悪感であり、「公共工事という産業」の信用のなさなのです。

マクロ的には、工事でも工事外でも失業者を雇うことに対する経済的な効果は同じなのです。さらにいい加えれば、穴を掘って埋める公共事業と、たんなる減税政策や社会保障政策は同義でしかありません。

それであれば、穴を掘って埋める以上の(社会的に必要なものをつくる)公共事業、つまり「雇用の問題」としての公共事業が無駄なものにはなりようがないのです。

しかし、世の中には、その議論さえさせないような「公共工事という産業」に対する嫌悪感と不信感が満ち溢れている、ということです。

二死満塁さんのメールは、そのことをわれわれに教えてくれるものなのです。

「公共工事という産業」は、この問題(「公共工事という産業」に対する嫌悪感と不信感が国民に満ち溢れている)を第一義的に考えなくてはなりません。

そして「公共工事という産業」は、自らが変化することで、環境を変化させないことには、このゲームには勝ち目がないことを自覚しなくてはならないのです。

つまり、信頼の構築が必要なのです。
それが『桃論』の主張なのです。

なぜなら、これに対する為政者側の短絡的な答えが、マーケット・ソリューションに偏ってしまっているのは、先の中流の崩壊で見た文脈でもわかるように、「公共工事という産業」が、自らの保身に走れば走るほど、構造改革論者にとっては、ますます格好のスケープゴートにしかならないからです。

ということで、この頁もかなり重くなってきてしまいましたので、本日はここまでです。

2003/01/09 (木)  
【読書の方法】

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『読書の方法』
吉本隆明(著)
光文社
2001年11月25日

■読書の方法

○○@食客です。

大塚英志まで出てきたので、このところの自分の読書傾向といやに類似しているなとちょっと驚いたので、一言。

この正月は家族でスキー(毎年恒例)にいったのですが、その時持っていった本が大塚英志の『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』、この前の札幌独演会のときに読んでいた文庫が 『 「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』。

良い読者ではありませんが、けっこう注目してみています。
大塚は吉本との対談集『だいたいでいいじゃない』 というのもあり、これもおもしろいものでした。

五木の『他力』ときたら、もう吉本の『最後の親鸞』まであと一歩ですし、糸井との対談集『悪人正機』は読まれているようですし。(自立派吉本が親鸞を最大の思想家と評価するあたり、大変面白いですよね。村上龍の自立と吉本「自立」との相違は、不可避性=関係の絶対性=業縁が含まれているかどうかでは?)

そして、『海馬』。読もうと思いながら店頭でみつけられずにいたら、桃知さんがあげていて、これは読まなくちゃと思って四谷の文鳥堂(お気に入りの本屋です)にいったら、目の前に1冊だけあったので、すかさず買って、電車の中と、昼休みに通っている大音量のJAZZ喫茶「○○○」にて、読み進めています。

このところ、変わった職場で新しくやることが多く、時間的にも気持ち的にも余裕がなかったところなので、「脳は疲れない」、「異種間ネットワーク」、「新しい刺激が頭をよくする」、「脳の保守的思いこみを突き動かす」など、ちょっと気持ちが楽になったようです。

しかし「やった人にしか、残らない」とすると、はやりのナレッジマネジメントの暗黙知の共有(形式知化?)なんて実は無効なのでは?と思ってしまいますね。

寸感といいながら長くなりました。
それぞれにまだまだ一杯コメントはあるのですが、また、経済や大衆の話もしたいのですが、時間がない(体力的に持たない^^;)ので、この辺で。

食客さま、毎度ありがとうございます。m(__)m
環境の変化は大変ででしょうが、くれぐれも頑張らないでください。

さて、現在の私の「読書の方法」は、「つながりの読書」です。

一冊の本を読むことで、そこに引用されている本を読む(興味の沸いたものだけですが)。意味のわからない語句があれば、それを調べる(インターネットが多いです)ことで、それに関連した本を知り、そしてまた読む。そして読むことによってまた興味の関連性が広まっていく、というような連鎖です。

勿論、そもそもの関心は「公共工事という問題」に向いていますので、興味の範疇は、ある程度のフィルターがかけられています。それに私の読書は、40歳を過ぎてからのものですから、まだまだキャリア(場数)が足りません。

このキャリアとは、点を線で結ぶときのボルトのような役割をしているように感じているものです。つまり、「つながりのくさび」です。

私のキャリアのなさは己の馬鹿さ加減そのものだと感じています。
ですから、吉本隆明の「読書の方法」は、彼の読書キャリアの賜物であるように感じています。

■公共工事の問題を考えること(私の「読書の方法」)

私の問題関心は「公共工事という問題」に向けられています。毎日飽きもせずそのことばかりを考えています。

それは、「公共工事という問題」を考えることが、私自身がこの時代に生きる、という命題を考えることと同義であると感じているからです。

といっても、その問題が抱える領域はかなり広いものです。けっして経済学だけの問題として収斂できるものではないと感じています。

ですから、この問題に関しては、相変わらず地を這うような方法しかとれないでいます。そのひとつが私の「読書の方法」です。

そして相変わらず「わからない」のです。
でもあきらめないで、「わからない」という方法をくりかえしています。

■「わからない」という方法

こんなことをしていると、時々、絶望感や焦燥感に襲われることがあります。特に、中小建設業の方々から支持を得られないような時には、特にです。

そんな時、「すべて壊してしまうことからの再構築」という魅惑的な考え方に誘惑されそうになることも事実なのです。

それは、見えている問題点を(部分的に)指摘し、その問題構造を破壊することで問題を解決しようとする考え方です。

JMM〈VOL.12〉『所得再分配≠経済安定化.』に、「公共工事の問題」(正確には「公共事業」といっていますが)をこんな風にまとめたものがありました(p219)

1・景気対策とその効率性の問題
2・財政危機とその負担割合の問題
3・都市部と農村部の所得配分問題
4・公共事業による環境破壊の問題

これは、「公共工事という問題」の表層部分に過ぎませんが(特に為政者側に重きのある「信頼の崩壊」という問題と「雇用の問題」がないことに注意してください。つまり、これは極めて新保守的なものの見方からの問題提起なのです)、この(たかだか)4つの問題でさえ、これを同時に解決できる「答え」はないように思えます。(あればとっくに構造改革とやらは進んでいるという意見はもともこもないものです)

例えば、1・景気対策とその効率性の問題とは、「公共事業が景気対策にはならない」という指摘です(この指摘はある意味正解です。景気対策ではなく第一義的には「雇用の問題」なのです)。

これに対する答えは、であれば「景気対策としての公共事業は必要ない」というのが主流でしょう。それは、2・財政危機とその負担割合の問題が後押しすることで強調されます。

そして中小建設業の依存する公共事業が効率性を基盤にしたものでない以上、それは中小建設業の依存する公共工事の削減を意味してしまいます。これは4・公共事業による環境破壊の問題についても同じ文脈で考えることができます。

では、効率性や環境破壊の問題から、公共事業を止めた場合、3の都市部と農村部の所得配分問題を、「公共工事という産業」抜きに、どうして実現するのか?という問題が出てきます。とうぜん、そこには「雇用の問題」も生じます。

それがセイフティ・ガードとしての補助金政策であれば、2・財政危機とその負担割合の問題は、そもそも解決がつきませんし、それは穴を掘って埋めるだけの公共事業となにも変わらないことになってしまいます。(これは明日にでも詳しく書きます)

そこで、財政危機とその負担割合の問題を重視するのであれば、都市部と農村部の所得格差は「しかたがない」ものとするしかありません。つまり「切り捨て」を是認することを強要する政策となってしまいます。→現政権。

つまり、この(たかだか)4つの問題を同時に解決できる「答え」はありません、という答えが、「公共工事という問題」を部分的に解決する(その結果は「すべて壊してしまう」)という魅惑的な考え方を提示してしまうのです。これが、新保守主義的な考え方の答えなのです。

しかし、、これは「わからない」という方法ではありません。

私が最近感じるのは、「公共工事という問題」を考える方々(公共工事擁護論者、否定論者も同じです)が、「合成の誤謬」に陥ってしまうことの危険性です。つまり、「公共工事という問題」を部分的に解決することを進める結果、すべてを壊してしまうという危険性です。

「公共事業という問題」を考えることと、私が今の時代に生きるということを同列に考えるという私の立場は、このややこしい問題から自分を切は離さないという覚悟(くさび)のようなものです。

あきらめないこと、「わからない」という方法とはそんなものです。
なので相変わらず私は本を読み、地を這いずり回りながら、全国の方々とコミットする方法しかできないでいるのではありますが・・・

2003/01/08 (水)  
【地域社会とのコミットメントの障害を超えるということ】

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『不平等社会日本』
佐藤俊樹(著)
中公新書
2000年6月25日

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『論争・中流崩壊』
「中央公論」編集部(編)
中公新書クラレ
2001年3月25日
■経営者と社員との危機感の共有の希薄さ

お正月早々、意識的に、あまりおちゃらけた話はしておりませんので、この「店主戯言」を、つまらない、とお思いの方々も多いのかもしれませんが、それは、ある危機感を持って意識的にやっていることなので、後二日程は、このパターンにお付き合いいただければ、と思います。

その危機感とは、八伸建設の八木沢さんが、1月7日の「たまげた話」で指摘しております、『まぁーね、会社勤めをしていれば、政治とか経済のことは考える必要はないと思っているのでしょうけどね。しかし本当にそれで良いのかと考えてみると疑問が残りますです。』というようなものでございます。

この感覚は、私が最近のコンサルテーションで感じている、「経営者と社員との間の危機感の共有のギャップ」につながっていると思うのです。

■桃知のたまう

中小建設業のオーナーはバブル景気後、自分たちは「経済人」だと錯覚している。経済人である前に、地域社会人の一員だと自覚すべきだ。例えば、経営者はよく「おれは誰にも頼らずに、腕一本でここまでやってきた」と言うが、さんざん公共工事に頼っているくせに「誰にも頼っていない」という考え方はそもそもおかしい。なぜなら公共工事の資金はみんなの税金なのだ。こうした感覚が、地域社会との関係の希薄さや信頼のなさにつながっていると感じている。

以上は、北海道建設新聞の1月1日付に掲載された「私」のインタビューからの抜粋でございます。

わざと刺激的な言葉を使っておりますので、ふざけた発言だと思われる方も多いかもしれません。

誤解されるような発言であることは重々承知しておりますが、それで心証を害されてしまいますのも、私の本意に反しますので、本日はこの発言の解説でございます。(言い訳ではありません)

■開発主義と中小建設業

議論の前提は、私が中小建設業が存在することの理論的な背景としている、村上泰亮の「開発主義」の理解にあります。

開発主義とは戦後日本民主主義の産業政策的な理論体系のことですが、その開発主義が日本という国でうまく機能できたのは、「戦後の機会均等主義」(大塚英志のことば:「エリート幻想」の正体:『論争・中流崩壊』、p208-221)という理念が、国民に支持されたからだと言えるでしょう。

それは例えば、『「戦後」という時代は誰でも「中流」になれる時代であり、それを幻想と笑うことは簡単だが、日本人はその「中流」をめざすことでこの国の繁栄を築いた』(大塚:p214)ということです。

もっと具体的に言えば、私の両親は最低レベルの義務教育しか受けていない「労働者」でしかありませんでしたが、戦後の日本は、一介の「労働者」といえども、その労働のわずかな対価の中から、学費を捻出することができ、子供を大学にやることができたのです。

つまり、幻想であろうがなかろうが、日本人は「中流」をめざすことで努力することができたのだと思います。

そのおかげで、私は運良く、こうして生きる礎を両親の生きる力(努力)の中からからいただくことができた、ということです。時代(環境)が違えば、私は違った境遇に甘んじていなければならなかったでしょう。

戦後の混沌の中、多くの国民が「中流」を目指すことで努力できることを可能にしてきたのが、「戦後の機会均等主義」という理念とその理念に支えられた開発主義的な政策なのだと私は理解しています。

そして、その文脈の中で、公共事業という産業(地場型中小建設業)は、あたかも、「配分(栄養分)を地方の隅々まで送り届ける」という毛細血管の役割を果たしながら存在してきた、というのが『桃論』での中小建設業の理解なのです。

つまり、地場型中小建設業というのは、「戦後の機会均等主義」という理念あってこその産業である、と考えることができなくてはなりません。

『論争・中流崩壊』

開発主義的政策と「戦後の機会均等主義」という理念がうまく機能しながら、日本という国は繁栄し、そして国民も戦前に比すればはるかに豊かになることができました。

その結果として、村上泰亮のいう「新中間大衆」という概念が、国民の中に生まれたことは皆さんご承知の通りです。つまり、国民総中流という意識が広まりました。

これに対して、佐藤俊樹は、『不平等社会日本』で、『専門職や管理職といったホワイトカラーの上位層において八〇年代前半を境に明らかな「世襲」が始まっていることを統計上指摘し、それを新たな階級化の始まり』(大塚:p209)、という問題を提起しています。

私はここで、日本は不平等社会なのか否か議論するつもりはありません。持ち出すのは、佐藤の論文が発表された後の各層からの反応なのです。

『論争・中流崩壊』という本は、佐藤の『不平等社会日本』を起点とした、不平等観に関する論文集のようなものですが、その中で私が注目するのは、『ホワイトカラー上層の世襲をあたかもエリート階級の誕生のようにみなす受け止め方』(大塚:p209)が存在していることです。

『一連の著者の議論は説得的である。だが著者は同じく処方箋の一つとして、ここまで来たら西ヨーロッパ型の階級社会を意識的にめざす方向性もあるとしたがら、「私自身はこの途はあまり気が進まない」と、一刀両断のもと切り捨てている。はたしてそれでよいのだろうか。今後の日本社会は、エリートたる自己を大衆の前で否定してみせて「責任」を解除されるこれまでの疑似エリートを、もはや必要とはすまい。「エリート」という言葉を真正面から使えない社会は、やはりどこかがおかしいのだ。』」(御厨貴:エリートの責任(『不平等社会日本』書評):『論争・中流崩壊』、p204-207)

所詮サラリーマンの管理職の世襲(サラリーマンの息子がサラリーマンになっただけである)を、新たなエリート階級の誕生である(エリート幻想)というような意識を持った方々が、少なからずこの国にいるということに私は注目しています。

つまり、大衆化の中から生まれた脱大衆志向(欲望)としての他者との差別化の意識が、他者からの承認としての階級化願望(エリート幻想)として胎動し始めているということです。

私は、このような「エリート幻想」が、地場型中小建設業の経営者、もしくは次代の経営者(彼等の多くは、世襲の二代目三代目のはずです)、そして「公共工事という産業」に携わる官僚(地方官僚)や政治家の中にもあるのではないか、と感じることがあります。

しかし、私は、そのような考え方を地場型中小建設業の経営者の方々や「公共工事という産業」に携わる官僚(地方官僚)や政治家が持たれるのであれば、そのこと自体が、そもそもの終わりの始まりでしかない、と考えているのです。

なぜなら、「公共工事という産業」とは、そもそもが「戦後の機会均等主義」によって支えられた産業でしかないからですし、「公共工事という産業」とは、地域社会(市民、大衆)と共に、「戦後の機会均等主義」を肯定することでしか、自らの存在の足場を確認することはできないからです。

ですから、私は「地場型大企業」という言葉を国交省の方から聞いたときに、鼻持ちならないエリート意識と、言いようのない嫌悪感を感じたのです。(2002年12月27日の店主戯言を参照してください)

■「エリート幻想」の正体

この意識の何が問題なのかを、大塚英志の『「エリート幻想」の正体』(『論争・中流崩壊』、p208-221)の指摘から、考えていただきたいと思います。

『だが、この「エリート幻想」はただの「幻想」ではなく、具体的な政治勢力となる可能性があることも指摘しておかなくては、議論は不十分なものとなるだろう。おそらく都市型の保守あるいはぽくが透明なナショナリズムと呼ぶ「新保守」の正体とは、「中流」から分離してエリート化をもくろむ「ホワイトカラー雇用上層」によって支えられる質のものではないか。そう考えると、自民党のなかで新保守的な意味合いの強い「自民党の明日を創る会」の顔ぶれ一つとっても石原伸晃、田中眞紀子、渡辺喜美、河野太郎とほとんどが「二世」であり、その意味では父の世代の既得権をしっかりと「世襲」し「階級」化した政治家たちであることは象徴的だ。彼らは、ホワイトカラー上位層を代表するという点ではもっともふさわしい人材なのだ。』

『だから非エリート階級出身者の僻みに聞こえるのを覚悟して記せば、「管理・専門職」的な都市型住民と「二世」の政治家、および論壇の若手批評家や研究者がなんとなく一つの政治勢力にまとまりつつあるな、というのが現時点でのぼくの印象でさえある。政治の世界では九〇年代に入ってから対立軸がなくなったといわれるが、じつは「階級」化を肯定していこうとする政治勢力は明らかに一つの軸を政党の枠を超えて形成しつつあるのではないか。新保守の人々の決まり文句である自己責任や自由競争という物の言い方にしてもやはりそれは強者の論理であり、敗れた人々は敗北を受け入れなさいといっているにじつは等しいのだ、とぼくには思える。』

『しかもこういった言い方が、仮に「階級」化が進んだとき、明らかに下位の階級に区分されてしまう層にまで浸透していることには最大限の注意を促しておきたい。都市型新保守は「管理・専門職」のクラスターのみを支持層にすると、当然だが政治勢力としては数的に多数派たりえない。だからこそ、そこでポピュリズムが新しい保守の重要な資質となってくる。それは具体的には自らの「階級」に有利な政策を本来その政策からは切り捨てられる「大衆」に支持させ、かつ、「大衆」層の不満を転嫁させる対象を与えていく政治技術である。そう考えれば石原慎太郎の支持のされ方や彼の「三国人」発言の意味合いもきわめて明瞭になってくるではないか。あるいはまた、都市住民の税金を地方の公共事業にバラまくなという主張も、それ自体は論議としては正しいにしても、一方では富の再分配という階級間の問題を都市対地方の問題のなかに隠蔽している、という気もしてくる。』

■公共事業という問題

このような理解をもって、私が現政権を批判したり、自己責任や自助努力という新保守(経済学では新古典主義)が好んで使う言葉を嫌う意味を理解していただければ幸いのなのです。

公共工事という問題は、単純なものではありません。

工事量を減らせばよいとか、単純なマーケット・ソリューションを持ち込むことで解決できるものでないことを、まずは「公共工事という産業」に携わるすべての方々が理解できないことには、地域社会とのコミットメントという問題解決方法(つまり、コミュニティ・ソリューション)は、絵に描いたもちにもなれないでしょう。

2003/01/07 (火)  
【近代の超克】

cover 『他力』
五木寛之(著)
講談社
1988年11月20日

cover
『辺界の輝き』
五木 寛之 (著)
沖浦 和光 (著)
岩波書店
2002年3月28日
■他力

北海道の小川さまより、1月5日の「芸人論」に関するメールをいただきました。
店主戯言」を読んでアレッと思っていたんですけど、「自殺者」&「元気」の話です。桃師匠もセミナーで自殺者の話はしていましたよね、その後博多で五木氏の講演を聞いたのですが以下、一ヶ月後に書かされたレポートです、時間が開いたせいかほとんど覚えておらず 僅かな記憶で書きました、多分桃師匠と共通項が多いので記憶に残っていたんでしょう。
<あんみつ姫>は強烈な印象で鮮明に残っています。
彼ら(彼女も居たかな)も又立派な芸人ですね!

注:)あんみつ姫というのは、ウチのうるさいガキを黙らせた博多のおかま劇団(今はそのような方ばかりではないようですが・・・)→http://www.okama.com/

五木寛之氏の公演内容についてのレポートです。
五木氏の講演内容は、聴衆の心に響く感銘深いお話でした。

今の日本に於いて、毎年3万人を超える人が自ら命を終わらせている。
自殺者が年間3万数千人も出る国家は歴史上今まで有り得なかった。更に今や成人男性の死亡原因 第1位が自殺である なぜ日本の国はそんな社会になったのか?なってしまったのか?・・・・・・

それは 「命の重さ」が軽くなったからではないだろうか?
オシボリや雑巾をカラカラになるまで絞りきり、更にドライヤーで干すがごとく人の心も渇き切り、結果として水気のない渇いて軽くなった人々の心が年間3万数千人とも云われる自殺者を出している我国の現在社会ではなかろうか?

渇いて軽くなった自分の命、だけど尊い人の命、自分で自分の命を大切と気づかない人間は他の人々の「命の重さ」にも気が付かないでしょう。
何故に私たちの故郷日本はそんな国に成ってしまったのだろう?

戦後五十年以上に渡り我国はすべての面で、湿式工法を乾式工法へと変化させてきました。
昔 建物は木を使い、土を練り、漆喰を塗り、コンクリートを現場で練りと言うように水気の多い作り方でした。
現在は、工場で練った生コン、スチール、ガラス、化学物質満載のビニール系内装材、工場製作の接着剤で固めた建具に代表される無機質で無表情な建物・施設ばかりが作られています。

水気のほとんど無い渇ききった世界、乾式工法の世界です。これが現在の日本の姿です。
この様な乾式工法の世界に生きていると段々と人の心も渇いてくるものなのです。

また現在の日本人は生気が無いと言おうか元気が無いと言おうか、いつも疲れた顔をしている、朝都会の満員電車にはそんな生気の無い顔の人間が多く、総じて無表情である。

どんな貧しい国でも人々はその目に輝きを持ち、溢れんばかりの豊かな表情に満ち皆活き活きと生気の満ちた顔をして、生活している・・・・・・
いったい日本の国は何処へ行こうとしているのか?・・・・・憂慮すべき状況である。

小川さま、ありがとうございました。m(__)m

『桃師匠もセミナーで自殺者の話はしていましたよね・・・』ということですが、それは、まず国の責任の問題としてです。

国民の生命と財産を守るのが国民国家たる日本政府の第一義的な仕事でございます。

日本国民が、年間3万人以上も自らの命を絶つようになってしまって、既に4年の歳月が経過しているはずですが、このような非常な事態に、何の手も差し伸べることができない政府は、果たして政府としての役割を果たしていると言えるのだろうか、ということです。

それで、『何故に私たちの故郷日本はそんな国に成ってしまったのだろう?』を考えてしまっているのです。そして、一個の生きる人間としての私の事を考えているのです。

私は、生き延びております。
だからと言って、何の障害も葛藤も無く生きてきたわけではありませんし、それは私の自助努力の賜物です、などと言うほどの座った根性も持ち合わせておりません。

私が生き延びていること、それは「他力」のおかげだと感じています。
残念ながら自助自立のおかげではないのです。

『自力では悟れぬものと悟りたり』(親鸞)(『他力』、p177)

この親鸞のいう「他力」とは、「寄生」することとか、「人任せにする」こととは違うものなのです。

親鸞のいう「他力」とは、俗に言う人任せの「他力」ではありません。
「他力」とは、阿弥陀如来の「他力」のことでございます。

これを「他力というは本当の事実に目ざめる力」と言ったりもしますが、でも私は、信心の無い人ですから、このあたりの理解は足りません。

ただ私の言葉で言えば、それは、「なんだかよくわからいけれども生かされていると思う瞬間がある」というものでございます。

■八百万の神々と遅れてきた近代

ところで、この講演レポートでは、五木は、建設業関係者への講演という配慮もあってか、『戦後五十年以上に渡り我国はすべての面で、湿式工法を乾式工法へと変化させてきました。・・・・・・乾式工法の世界に生きていると段々と人の心も渇いてくるものなのです。』という、建設工法の変化になぞらえた表現を使っていますが、これは近代文明批判のように受け止めました。

五木は『他力』の中で次のように書いています。

『日本人のアイデンティティの崩壊はどこに原因があるのか。』

『ここで問題になっているのは、物と心をはっきり区別する世界観のことです。物と心をはっきり分ける世界、黒と白をはっきり分ける世界が、いま、"グローバル・スタンダード“の近代となっているわけです。私たちはそれを受け入れなければ、国際的な経済の世界で生きていけないところへきているらしい。』

『しかしアジア全体がそうですが、日本人は縄文以来、森や山に生命を感じる、大きな木にしめ縄を張る。すべてのものに神が宿るという感じ方をします。そういう中で生きてきた私たちが、いま、否応なしに市場原理と自己責任という、二者択一の舞台にはじめて登場するわけです。』

『自己責任というのは、一神教的な神と人間との契約という精神が根本にあって成り立つものです。市場原理は神の見えざる手に対する揺ぎない確信が背後にある。』

『さらに困難な問題は、いま世界が近代を超克しようとしていることです。近代が生み出した環境破壊、人間の無視、そういう近代を超えようとする動きが一九六〇年代から続いています。そうなると、私たち日本人は、片方でグローバル・スタンダードという近代の受け入れを強制され、片方で近代を超克しなければならない。』

『たとえば、弱者と手を携えて共生することは、近代を超えるための大事な考え方です。それなのに、私たちは、弱者は切り捨てるという、遅れた近代をグローバル・スタンダードとして受け入れよと強制されている。』

『いま私たちは矛盾に引き裂かれて、心がずたずたになっているのではないでしょうか。』(『他力』、p138-139)

■そして河原者の生きることへのしたたかさ

五木は、『風の王国』という小説で「サンカ」を題材にしていますが、サンカ、家舟、遊行者、旅芸民、香具師と呼ばれるような辺境の方々に、『どんな貧しい国でも人々はその目に輝きを持ち、溢れんばかりの豊かな表情に満ち皆活き活きと生気の満ちた顔をして、生活している・・・』を見たのだと思います。

このあたりは、私が「芸人論」で書いた、自助自立を超えた「生きることへのしたたかさ」につながっていくのですが、今日は長くなりましたので、このあたりでおしまいとさせていただきます。

しかし、今年は全然ITの話は書いていませんね・・・(笑)
でもこれが「IT化」の話なのです。

2003/01/06 (月)  
【法政大学エクステンション・カレッジの企画】

今年の予定として、法政大学エクステンション・カレッジのの企画書を書いていました。
なにぶんまだ企画書を書いている段階ですから、この通り開催できる、というものではありません。
でも、なるべくこうしたいなぁ・・・と考えているものです。

これは初心者向け(初めての方でも安心)の講座、という位置づけですので、開講の際には、多くの皆さんに受講いただければ幸甚なのでした。

2003年度講座企画書
講座名 中小建設業IT化戦略コンサルテーション
副題 新しい建設業のかたち
概要 中小建設業のIT化には、「IT化は、公共工事という市場環境の制約をどうしたら超えることができるのだろう」という壁が立塞がっています。本講座は、IT化を単なる技術論ととらえるのではなく、IT化で扱う情報、市場に流れる情報の本質を理解することで、IT化を「公共工事という市場環境の制約」を超えようとする取組みとする考え方と、その具体的な手法を学ぶための講座です。その対象は、個々の企業ベースのIT化にとどまらす、事業者団体ベースのIT化から、公共建設政策にまで及びますので、建設業経営者、IT推進担当者だけではなく、「公共事業という産業」に関心のあるすべての皆様が参加できるものとなっています。
対象者 中小建設業経営者、IT推進担当者、自治体職員、ITベンダー等、中小建設業のIT化に対して興味のある方、さらには「公共工事」に対して興味のある方 受講料
(一般)
\60,000
定員 25人 希望時間帯 13:30〜18:00 (1コマ所要時間) 270分
カリキュラム 開講月日 曜日 講師名 内容
第1回 5月10日 桃知利男 中小建設業IT化(『桃論』)総論
・中小建設業のIT化について考えるということ
・政策と公共建設市場
・CALSについての基本的な考え方
・制限付一般競争入札批判
・市場→ミーム論・信頼というキーワード
・IT化と信頼の構築
・IT化総論(企業編・事業者団体編)&etc.
第2回 5月24日 桃知利男 IT化各論:事業者団体ベースでのIT化の取組み(1)
自治体CALS/ECの考え方
・理論と実践 事例紹介
第3回 6月7日 桃知利男 IT化各論:事業者団体ベースでのIT化の取組み(2)
・理論と実践
・事例発表
IT化各論:企業編(1)
・理論と実践
・事例紹介
第4回 6月21日 桃知利男 IT化各論:企業編(2)
・理論と実践
・事例紹介
第5回 7月5日 桃知利男 建設業界の新しい動き
・建設業を取り巻く環境の変化
・動いている事例&etc.
第6回 7月19日 桃知利男 まとめと『桃論』以降の展開について
・ソーシャル・キャピタルとコミュニティ・ソリューションの可能性からの展開
修了書 発行します
テキスト 独自作成と市販本の併用 PPTを印刷配布
『桃論』(桃知利男、エクスナレッジ、1680円)
特記 第2回以降は、毎回ゲスト・スピーカーをお迎えして、動いている事例を学びます。
毎回、講義終了後懇親会を行う予定です。



【正月早々のくだらない新聞】

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『長期停滞』
金子勝(著)
ちくま新書
2002年8月20日
■淘汰・再編

日刊建設通信新聞の2003年1月6日号の一面は、2003年の建設業界の展望が行われておりました。

目を通すと、そこには『淘汰』、『再編』という言葉が踊っています。
そして経営基盤強化、生産性向上が生き残りの必須条件だと続きます。

なんという短絡的な・・・
それが私の感想です。

業界紙がこの程度の話しかできないのであれば、業界紙である意味はないでしょう。
一般紙でもこのぐらいは「当たり前に」書けることです。

確かに、市場が縮小する、つまり需要の縮小は、供給過剰を生み出しますから、需要と供給が均衡するところまで、供給側の『淘汰』が続くのは経済学の初歩程度の理解ではあります。

建設業界の方々の中には、この状況を当面持ちこたえれば、この供給過剰の問題は解決すると思っている方々もおられるでしょう。

他社(よそ)が市場から退場すれば、その分当社(うち)の取り分が増える。

しかし、他社の退場が貴社の生き残りを意味しているわけではないのです。

なぜなら、この考え方は、需要と供給が、自社が勝ち組であるうちに均衡することを前提としているだけでしかないからです。

でも、需要の下げ止まりは何処かに明示されているものではないことを理解すべきですし、例えば、中小建設業の場合、地域用件や官公需法の加護が永遠に続く、という仮説を設けなくてはなりません。

つまり貴社が生き残っているうちに市場が均衡する保障なんてどこにもないのです。

さらには、リストラの圧力がその問題を深刻化(加速する)ことになります。

■リストラの圧力

各々の企業が経営基盤強化、生産性向上に努力することは必要ですが、公共工事に従事する建設業が、過度の生産性向上を志向することは何を意味するのでしょうか。

結局それは、コストダウンであり、ミクロ的には、リストラ(雇用調整)と給与体系の見直し(賃金カット)となることは自明の理です。

さらには、過剰なコストダウン圧力が、資材業界や下請に対してかかることを意味します。

そもそも、新古典主義的経済学の市場モデルでは、価格が下がることで自動的に需要が増加することを想定せざるを得ないのですが、これはかえってデフレ・スパイラルを強めるだけです。

さらには、このリストラの圧力は、マクロ的には、膨大な遊休資源が日本というドメインにストックされてしまうことを意味するだけになります。

つまり大量の失業者です。
失業は日本というドメインの問題です。

(それとも、失業者を海外に送り出す政策でも準備しようというのでしょか・・・戦前の日本のように・・・)

本来、この遊休資源を活用するのが「公共工事」の目的なのですが、今日本で行われている政策は、本末転倒にしかならないわけです。

この状況で需要が自律的に回復することは難しいでしょう。

ましてや、現政府が頼りにしていた530万人の雇用創出などは、絵空事でしかないわけですから。

■金子勝曰く

『デフレ不況が進行する下では、ただ問題企業を潰していけばよいというわけにはいかない。それがデフレ不況を深刻化させてしまうからだ。』(『長期停滞』、p143−144)

これは極めて「当たり前」のことでしかありません。

かといって、今後公共工事というパイが大きくなるわけはないのですから、政策の視点はそこを出発点にしなくてはなりません。

つまり第一義的には「雇用の問題」なのです。

金子勝はこう言います(2002/11/13の店主戯言から再掲)
たしかに水が回らない。地方自治体がもう無理なんです。財政が限界に来ていて、公共投資ができない。栃木辺りに行くと、シャッターが閉まったままの店舗がずらっと並ぶ商店街をずいぶん見ますが、ある決まったパターンがあるんですね。まず、地元の流通が潰れる。下ると、地銀がもたなくなり、西友やマイカルといったスーパーが撤退する。商店主たちはみんな高齢化していますから、傷が深くならないうちに辞めていくわけです。街に人っ子ひとり歩いていない状態になって、地域経済全体が落盤を始めるのです。そこにいくらマネーサプライを増やしてもどうにもなりませんよ。これにはもう国のかたちを変えなくてはいけない。零細企業に直接小さな事業を与えて、補助金を落とすようにしないと。

国のかたちを変えるには本当のリーダーシップが必要です。しかし政策に書かれているのは、生きている人がそこで直面している問題には全然応えていないような、抽象的な文言だけです。

建設業の被雇用者は六百三十万人。このうちおよそ四〇パーセント以上が五十歳以上なんですよ。これから十年、彼らにかつかつやっていける程度の小さな公共事業を掘り起こして、産業としてソフトランディングして縮小してもらう。

(引用:文言春秋2002年12月号 p118-119より、金子の発言を抜粋)

金子の「10年かかる」という見解には異論はありません。
しかし、金子の意見も夢のないものです。

だから、私はここに『桃論』のいう「IT化」の文脈を付け加えたいのです。

2003/01/05 (日)  
【芸人論のようなもの】

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『芸人』
永六輔(著)
岩波新書
1997年10月20日
桃知さん○○です。
元日の中日新聞1面の「きたのたけし」さんのインタビュー記事が気になって送ります。公共事業自体が税金に寄生していることは分かり切っていることなのですが、寄生とかたかる相手とか、考えさせられます。

 コーム員なんてのは その最たるものですから。どうしていったらよいのでしょうかねぇ と 今年は正月から悩んでいます。

 竹中さんが自立しよう なんて言われても、根本のところで寄生しているのだから、社会の安定とか雇用対策も含めて公共事業の名の下に政府がすべきことなのですね。

 どうも北野氏の言っていることと桃知さんの言われていることは同じような感覚を持ちました。とこがどうなのかは、文才と思考力が無いので、勘違いかもしれませんが・・・

 今年は謹賀信念ということで信念もって、うんとがんばろうかなと思いました。

以下 中日新聞2003/1/1/
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 この間、おいらの先輩が自殺したっていうんだ。お笑いタレントの自殺なんてたいがい、芸の行き詰まりとかね。でも、生活苦なんだよ。中小企業のおやじが自殺したなら資金繰りに苦労したとか、感じが分かる。でも、おいらたちのような商売は、生き抜いてみせるという世界。それが死ぬぐらいに生活苦だというんだから。そこまで来たかと。

(毒舌と合間に見せるシャイさ、きまじめさ。話の展開はすこぶる速い)

 不況は小渕さんあたりから発病し、森さん、小泉さんで持病にした。悲しい話だけど、おいらのように社会に寄生して生きている人がいっぱいいる。たかったやつが死んだらこっちも死んでしまう。でもいま、たかる相手がいなくなってきている。不景気になって、消費税上げるのはひどいことのような気もするけど、安心させてあげた方がいいんじゃないかな。将来の厚生、福祉の金とかにして。
でもみんな、ウソだと思うんだろうな。政治に信頼感がないから。

(「社会の寄生虫」と自嘲するからこそ見えるモノがあり、語る言葉がある)

 小泉さんが構造改革と言っているけど、日本の社会が駄目なのは、腐った構造があらゆる世界にあるということなんだ。芸能だって映画だって。いろんな作品を選んだりアカデミー賞に出すというのも全部コネクションだったり。大きな金の動くところにはいろんな人がいて、口利きがなければ動かない世の中になってしまっている。政治だけじゃなく、社会全部がそういう構造だよ。ひどいもんだ。ぶち破る?脅されても言うことを聞かないこと。ガンジーの無抵抗主義が最高だと思う。食って仕事があればいいやと。一般の人が良い生活をしようとか欲を持ったりすることが一番怖い。

(明治大学中退後、ジャズ喫茶のボーイやタクシー運転手などを経て、二十七歳で漫才師デビュー。鋭い社会風刺で得た人気は、今も衰えない)

 アフリカじゃ、部族の争いもあるけど一日一ドルも使えず、地球の大半で何万人もの子が飢え死にしている。なのにタマちゃんに餌やっているバカがいる。五億円集めてメキシコのシャチを助けるプロジェクトがあったけど、そのまえにアフリカの子ども助けろって。悲惨な姿は覆い隠しておいて、自分に心地よいボランティアはしだい。自分の十円はタマちゃんにはあげるけど、アフリカの飢えてお乳しゃぶっている子にはあげたくないんだ。

(風景や色彩に「日本の美」をふんだんに織り込んだ映画作品も、海外で高い評価を得る)

 日本の良さに日本で暮らしている人が気づかない。むしろ海外から教わる。おいらの映画なんかおかげさまで逆輸入で、欧州で評判が良くて日本の人が見直してくれた。
日本独特のわびとか、さびとか。英語にならない言葉。この感じを分かる世代がいなくなるのは困る。人間関係なら品とか礼儀とか。見直した方がいいよ。

(話の途中、オートバイ事故でまひした右ほおを何度か手でマッサージした。日本は好き?)

 うん、おいらだって結局は日本語でしか表現できないし、日本の中で生きてきた。田中さんなんか大したもんだ。ノーベル賞。小柴さんの研究も好きだね。資源がないんだから頭を売るしかない。育て上げるしかない。インド人は九九(くく)が二けたまでできるとか、中国何千年の歴史とか言ったって、日本人のほうが頭がいいにきまっている。能力はあるんだ。(敬称略)

 バブル崩壊後の経済の長期低迷で日本から「元気」が失われつつある。敗戦から半世紀余り。モノがあふれる豊かな世の中はつくったものの次への展望、出口は見えず、混迷は深まっている。社会の隅々にまで広がるこの「閉塞(へいそく)感」はどうしたらうち破れるのか。

最初に、寄生と依存は違います。(今日は詳しくは書きません)

芸人はその昔「河原者」と呼ばれていました。
「河原者」には、ヤクザ、娼婦、芸人などがおります。

「河原者」とは、士農工商の身分制度から外れた方々です。

つまり、生産手段を持たない(もしくは持とうとしない)ので、納税(祖)ができない(したくない)方々なのですから、人扱はされません。

つまり非人でございますね。
そもそもはそういう方々なのです。

しかし、「生きる」ということに関しては、時の権力者がどのような身分制度を設けようとも、それは同じ人間でございますから、遺伝子がちゃんと機能します。

つまり、食わなくてはいけません。
生きなくてはいけません。

そこで、生産手段を持たない河原者が食うために売ることができるものを考えることになりますが、結論としては、ヤクザは男(顔)を売り、娼婦は女(身体)を売り、芸人は芸を売る、そのほか人のいやがる仕事をする、させられる。

生きていくためにはそれしかなかったわけです。

『役者 かはらものゆゑ 我は人の数にあらず」(初代団十郎)
『錦着て 布団の上の 乞食かな』(何代目かの団十郎)
『芸人』、p110)

ビートたけしは、天才領域(吉本隆明の言葉)の方なのだとは思いますが、芸人には変わりありません。

その(昔は河原乞食であった)芸人が、人間国宝になったり、映画監督として評価されるような時代、ましてや元旦の新聞記事の一面で意見が言える時代というのは、けっして悪い時代ではないのだと思います。

私が、今の自分を「河原者」に例えることが多いのは、熱心な読者の皆様は承知のことだと思います。

それは、私自身が生産手段を持たない者として、自分自身を考えている、ということでございますが、私(と私の扶養家族)が生きるということは、「河原者としての私自身が売ることのできるものとはなにか」を考えることと同意なのです。

その結論は、私は生産手段(労働)は売りません。
「芸」を売っているのです、ということです。

そして私は芸を磨くことに専念しているわけでございます。
そしてお客さまが、芸人を育てることも、身を持って経験しているところなのです。

つまり私は「河原者」の生きる術(ミーム)を継承するものと言えるかもしれませんが、そういう私が生きていける世の中であることを、いつもお客さまには感謝しております。

その反面、『おいらたちのような商売は、生き抜いてみせるという世界。それが死ぬぐらいに生活苦だというんだから。そこまで来たかと。』とたけしに言われてしまう世の中になってきていることも、肌で感じております。

何も生産手段を持たない方々にとっては、確かに生きにくい世の中でございます。

その一因は、○○さまがいみじくも言われるように、コーム員さま(特にチホー)が、パラサイトの存在に成り下がってしまっていることに象徴されています。

それは、既得権益へのパラサイト化という現象なのです。

この時代、コーム員さまに限らず、政治家さまも、リストラされることがないと思い込んでいるサラリーマンさまも、既得権益へのパラサイトの存在でしかない現状は、いやというほど見ることができます。

しかし、それ(パラサイトするという生き方)は、本来、(私のような)身分のない「河原者」の特権的な生き方なのでございます。

その特権的生き方を、既得権益をお持ちの方々が取ってしまっては、私たちのような既得権益を持たない者へ配分される資源は限られたものにならざるをえないのです。(パレート最適)

この既得権益へのパラサイト化は、反社会的な行為と言うことができます。なぜなら、さまざまな格差をつくりだしている根源のひとつがここにあるからです。

この時代に、既得権益にパラサイトしている方々の特徴は、保守主義的な考え方をお持ちだということです。

つまり、君が貧しいのは、自助努力が足りなかったからなのです。

もし政府が福祉政策によって君を救済したりすれば、君にとってはありがたいことかもしれませんが、それは他の人々の自助努力を阻喪(そそう)することになり、一国経済の生産性を低下させかねません。

したがって、政府は過度の福祉政策を慎むべきであって、自助努力を怠った君は、自己責任の原則にのっとり、貧乏に甘んじるべきでしょう。

スタートが皆同じなら、この言葉は意味がありますが、今、自己責任をいわれる方の多くは、生まれたときから何かの既得権益に加護されている方々が多いはずです。

つまり、己の既得権益へのパラサイトの正当化のために自助努力は言われているに過ぎないのだと私はいつも思うのです。

ですから、

『バブル崩壊後の経済の長期低迷で日本から「元気」が失われつつある。敗戦から半世紀余り。モノがあふれる豊かな世の中はつくったものの次への展望、出口は見えず、混迷は深まっている。』

の原因を考えたとき、そのひとつは、芸の無い方々が、なにがしか(貧乏人:この表現は違うかもしれない)にはどうしようもできないような理由で、既得権益にパラサイト化する姿を見ている、人々の中にある「希望のなさ」(格差の硬直化)にあるような気がします。(これはひとつの仮説に過ぎませんが・・・)。

でもね、河原者としての芸人は本来違うのでございます。
そんなことでめげるようなタマではございません。
生きるということに関しては、自助自立をはるかに超えて、「したたか」なのです。

私が芸人に学ぶものとは、その「したたかさ」なのでございますし、私が自助自立を否定している先にあるのは、そのような生きることに対しての「したたかさ」なのです。

しかし、『おいらたちのような商売は、生き抜いてみせるという世界。それが死ぬぐらいに生活苦だというんだから。そこまで来たかと。』という、たけしの言葉は、空恐ろしゅうございます。
cover 『放浪芸雑録』
小沢昭一(著)
白水舎
1996年2月15日

2003/01/04 (土)  
【市場主義の終焉】

cover
『市場主義の終焉』
佐和隆光(著)
岩波新書
2002年10月20日
所詮科学に進歩などというものはありえないのです。

トーマス・クーンのいうように、科学のパラダイム・シフトというのは、分析視角の革新であって、真理が変化しているのではないのです。自然科学であれ社会科学であれ、分析視角を変えれば、同じものが違って見えるのは当然のことでしかありません。(『市場主義の終焉』、p228‐229)

供給と需要の経済学を対立させることは、結局は分析視角のどこに自分自身を置くのか、という問題にすぎないのですが、たまたま自分の立っている位置から見えるものを真理であると思い込むのは馬鹿のやることです。

馬鹿と言えばですが・・・、私自身が、失われた20年と呼んでいる自分のサラリーマン時代の空白を埋め戻すために、とにかく本を読み始めたことは以前に書きましたが、その最初の切り口が「建設CALS」であったことは言うまでもありません。

CALSについては、水田浩(監修)三橋尭(編集)の『CALSの実践』と松本千尋(著)の『CALSの世界―競争優位の最終兵器』を最初の教科書にしたのですが(これらはサラリーマンの時代に読んでいました)、そこに書かれているビジネスの世界は、私知っている建設業界とは似ても似つかないルールのものであることで、私を虜にしていたのです。

建設CALSが、CALS文脈に忠実に進展していくものであるならば、日本の建設業界(「公共工事という産業」)は、まさに革命的に変化するだろう、と単純にそう思っていたわけです。

でも、それはある意味当たり前のことで、今でこそ『CALSは「完全市場」を前提にしているのですから、今の私はそれは非現実的であり、ありえない』とはっきり言えますが、永いこと、建設業界という濁った市場(「完全市場」ではないという意味で)に身をおいていた当時の私には、とても新鮮なものだったのです。

ここまでが、私がこの仕事を始める前にたどり着いていたたところでなのです。そしてその後は、『桃論』に書いた「私の身の上ばなし」へと続くのです。

『桃論』の「私の身の上ばなし」にあるように、私にとってIT(特にインターネット)は革命だと理解していますが、「IT」がもたらす変化、つまり「デジタル革命」(当時はそう呼ばれていました)が日本でも起こるとすれば、その革命は、日本という国に、そして私自身にどんな変化をもたらしてくれるのだろうか、そしてそれがどうしてなのかをただ知りたいと思ったのです。

そこから、私の読書は始まったといってもいいでしょう。

そこに最初に現れたのが、中谷巌や竹中平蔵等のIT革命論者でした。彼等の主張は明快であるがゆえに、ITは革命だと信じている私を単純に魅了していったのです。

その主張のコアは、成功している国である米国の経済的な繁栄の推進エンジンはITである、だから日本も米国に倣うべきだ、というものです。今考えれば馬鹿みたいな論調なのですが、当時米国経済は成功の絶頂期におりましたし、ニュー・エコノミーもそれらしく聞こえる時代でしたから、私は彼らの単純素朴なIT革命論に惹かれてしまったわけです。
→今では、それがバブルであったことがはっきりしています。

ですから、この店主戯言の2000年以前を読めば、私が単純な市場原理信奉者(というよりもアメリカリズムの影響を受けた単純な人間)であることがわかるはずです。(その陰は相当後まで尾を引いていますが・・・)

しかし、単純に市場原理を信奉しながらも、実際の活動で日本国内を旅するなかで、「地方」という存在、そこに生きる人々の生活が、「IT革命論」や単純な市場原理の文脈だけでは捉えきれないものであることに気付いてくるようになってきます。それは公共工事に依存した地場型中小建設業において特にです。

私は今現在、中谷巌や竹中平蔵等を批判する立場にいることは、皆さんご存知の通りです。それは、「分析視角を変えれば、同じものが違って見えるのは当然のことでしかありません」ということでしかないのでしょうが、その変化をもたらしたものが何者かといえば、それは、地方の中小建設業の方々との、リアルなコミュニケーション、つまりヒューマン・モーメントと、その頃に出会った、グローバリズム批判である『市場主義の終焉』という本なのでした。

2003/01/03 (金)  
【供給と需要の経済学を超えるということ】

cover
『景気と経済政策』
小野善康(著)
岩波新書
1998年9月21日
市場原理主義を好きな人っていうのはかなり多いようですが、でも、なぜ市場原理主義があなたにとってよいものなのか?って尋ねれば、日本は資本主義の国だからとか、グローバリズムが云々とか、現政権の「痛みを伴う構造改革」とか、不良債権が・・・とか、財政赤字が・・・とかなんとか・・・程度の答えしかいえないはずです。

このような方々は、結局、サプライサイド的なデマゴーグに扇動されているだけのように振舞っているだけですから、それらは本当に理由になっているのか?って問い詰めれば、自らの市場原理主義信奉に対して、その理由をはっきりとは答えることは、まずはできないでしょう。

つまり、本当は市場原理主義というイデオロギーについては、なにもわかってはいないのですし、市場原理主義を好きな人たちが、それぞれに自立をして、市場原理主義を自らのものにしているわけでもないのです(まあ、そんな方はめったにおりません)。これが市場原理主義支持者の本当のところではないでしょうか。

しかし、市場原理主義が絶対なものであるというコンセンサスさえ確かなものではないのにもかかわらず、「公共工事ダメダメミーム」の形成には市場原理主義的な思考の影響が大きいですし、強力に機能してしまっています。

それはなぜなのでしょうか。それは、一部のサプライサイド的なデマゴーグの扇動の結果なのでしょうか・・・。

確かに、、「公共工事ダメダメミーム」は、問題解決策として市場原理の導入を言うことが多いのですが(例えば、指名競争入札の否定と一般競争入札の導入推進)、そればかりではないだろう、というのが私の主張なのです。

つまり、サプライサイド的な政策の誤謬を指摘することは難しいことではありません。

例えば、小野善康は『景気と経済政策』でこう言います。

『公共投資の意味は、第一義的には遊休資源や失業者の有効利用であって、景気刺激効果ではないと考えるべきである。』(p50)

『社会にとって望ましいことと、個々の企業や銀行の行動とのギャップを埋めることのできる唯一の主体は政府である。ところが、実際には政府も不況期には<供給側>の考え方である「小さな政府」論にのって、行政改革、行財政改革、省庁の整理、公共事業費の削減を推進し、民間の内向きの効率化に同調している。』(p73-74)

個々の銀行・企業行動と社会的要請(p73)
個々の銀行・企業行動 その結果 社会的要請
不況期 リストラ・効率化 遊休資源増大 事業拡大
好況期 事業拡大 人手不足 リストラ・効率化

つまり、政府がやるべきことは、民間とは違う行動であることは、小野に限らず、まっとうな経済学者(でなくともですが)のいうところでは、既に自明の理なのです。

しかし、現実には「遊休資源や失業者の有効利用」(私の言葉では「雇用の問題」)としての公共工事の必要性が「公共工事ダメダメミーム」を駆逐することはありません。

それは、「公共工事ダメダメミーム」の背景とは、市民の間に広がっている、利益誘導型ケインズ政策(政治)が生み出した既得権益に対する強烈な嫌悪感だからなのだと思います。

その嫌悪感の裏返しが、<需要の経済学>への反発としての<供給の経済学>支持への素朴で単純な振れなのだと思います。

このような背景を理解しないと「公共工事という問題」はどこまでも閉塞したままでしかありません。

では、「公共工事ダメダメミーム」に対して、私たちはいかなる反論が可能なのでしょうか。そしてその反論を言える条件とはなんでしょうか。

『桃論』は、「公共工事ダメダメミーム」の背景とは、市民の間に広がる、利益誘導型ケインズ政策(ヒエラルキー・ソリューション)が生み出した既得権益に対する強烈な嫌悪感である」という問題を取り上げることから始まるのです。

2003/01/02 (木)  
【理解のつながりについて】

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『ネットワーク組織論』
今井賢一/金子郁容(著)
岩波書店
1988年1月26日

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『新版 コミュニティ・ソリューション』

金子郁容(著)
岩波書店
2002年4月22日

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『心でっかちな日本人』

山岸俊男(著)
日本経済新聞社
2002年2月25日

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『海馬/脳は疲れない』 .ほぼ日ブックス

池谷裕二(著)
糸井重里(著)
朝日出版社
2002年6月20日
金子郁容の『新版 コミュニティ・ソリューション』は、『桃論』の中核を形成する問題解決方法である「コミュニティ・ソリューション」や、その推進エンジンである「ソーシャル・キャピタル」の考え方を私に教えてくれたものです。

その金子郁容を読むきかっけは、そもそもは、(偶然に知った)山岸俊男が与えてくれたものです。

山岸は、『心でっかちな日本人』で、金子のいう「弱さの強さ」(バルネラブル)を紹介し、バルネラブルの考え方が、プリンシパル・エージェント問題の解決の糸口になれる可能性を示唆しているのですが、これが、私をして、コンサルタントとしての私自身のやり方が、「コミュニティ・ソリューション」や「ソーシャル・キャピタル」の実現を目指しているもの(と言っても何も意識はしていないのですが・・・)であることを知るきっかけとなったのでした。

それで私は、『桃論』以降の作業として、金子郁容を読むようになったのですが、金子への最初のコンタクトが、時系列で言えば、一番新しいところにある『新版 コミュニティ・ソリューション』でしたので、つまり、金子を読む作業は時間を遡っていることになります。

そして、年がかわって、漸く、今井賢一との共著である『ネットワーク組織論』まで辿りつくことができました。

本書は1988年の発行ですから、今から15年程前のものです。
15年前といえば、私はまだ三十歳そこそこですから、危機感のかけらもない人生を送りながら、馬鹿への道を転げ落ちている最中におりました。

つまり、15年前にこの『ネットワーク組織論』に巡り合ったとしても、当時の私では、絶対に理解はできなかったでしょうし、そもそも読む動機もありませんでした。

でも、15年後の私は、この本に書かれていることが良く理解できます。

例えば「場面情報」という言葉が出てきますが、これは私の言葉では、「現場のIT化」であり、ITの扱う情報とは「ミーム」のことである、という風になります。

同時に、現場に立ち帰るということは、既成の概念や理解の枠組みをいったん離れて、物事をつかみ直してみるということでもある。これまでの理論とか思想とかが疑われ、価値が再検討されているのであれば、その出発点に立ち帰っていろいろな前提の妥当性を確かめてみることが重要になる。そのときその場面を自分の目で見てものをとらえるということは、それまでの経験を総動員し、感覚をも動かして、ものに直接触れて物事を見るということであろう。触れることによって理解を再編集する手がかりをたぐり寄せるのである。そのときには客観的というような、自分と対象とを切り離した見方ではないはずである。その場面になんらかの意味でコミットして、身体を通した判断で情報を把むということである。われわれが本書で時に主観ということを強調するのも、このような意味においてである。(p46)

この辺りは、『桃論』を読破された方や、当HPを永いことお読みの方には、私の言っていることとつながっている(似ている)ことが、理解できるのではないでしょうか。

こうして、理解はシナプスのようにつながりだすのですが、それでも、私は15年遅れて、金子郁容が『ネットワーク組織論』で言っているところまでたどり着いたに過ぎないのかもしれません。

でも、それは悲観することはないのです。その理由は、暮れに紹介しました『海馬/脳は疲れない』に詳しく書かれております。ここではその一部を紹介いたします。

糸井 ここではわかりやすいように、仮に、単なる記憶(意味記憶)を「暗記メモリー」とよんで、自分で試してはじめてわかることで生まれたノウハウのような記憶(方法記憶)を「経験メモリー」と呼んでいいですか?

池谷 いいですよ。そのふたつで言うと、ぼくは「暗記メモリー」よりも「経験メモリー」の方を重視しています。三十代から頭のはたらきがよくなるとぼくが言っているのも、「脳が経験メモリーどうしの似た点を探すと、『つながりの発見』が起こって、急に爆発的に頭のはたらきがよくなっていく」ということだと捉えているからなのです。

糸井 そうだとすると、野球のバッターの打ち方や、困ったときの対処法だとか、アイディアの生み出し方とか、文字だけでは伝えにくいものも経験のメモリーですね。実際にトライした人には、確かに深く記憶として残るでしょう。

池谷 ええ。やった人にしか、残らないです。

糸井 その経験のメモリーの蓄積が三〇歳を超えると爆発的になるというのは、数字でいうとどのくらいですか?

池谷 最初のチカラを一としますと、べき乗(たとえば二の何乗)で成長していきます。つまり、Aを覚えたあとにBを覚える時に、Aを覚えたことを思い出してやるので、まず方法を記憶しやすくなるんです。
 そのうえにAとBふたつを知るだけでなく、AからみたB、Bから見たAというように、脳の中で自然に四つの関係が自然に理解できるんです。つまり、二の二乗ですね。

 一の次は二。二の次は四.四の次は八.八の次は一六・・・・・・。
 一六のチカラの時はには、一〇〇〇なんて絶対に到達できないように見える。しかし、そこから六回くりかえせばできてしまうんです。二の一〇乗は、一〇二四ですから。(p113-114)

私は、「実際に動いている人が一番偉い」とよく言うのですが、つまり、いくら「脳が経験メモリーどうしの似た点を探すと、『つながりの発見』が起こって、急に爆発的に頭のはたらきがよくなっていく」としても、それは「やった人にしか、残らない」ということなのです。

わかっていても動けない、という人がいますが、それは結局は、わかってはいない(わかっているということではない)のですよ。

2003/01/01 (水)  
【謹賀信念】

今年は羊の年ですが、ところで、羊の鳴き声って「めぇ」でよかったのでしょうか・・・

とりあえず、「めぇ」とは書いてみましたが、「めぇ」はヤギの鳴き声じゃないのか、と思ったりもしています。

ところで、左の画像はハガキに書いたものです。
(画像をクリックすると大きな画像でご覧になります)

もしもですが、欲しいという酔狂なお方がおられましたら、メールをくださいませ。

先着1名さまへお送りいたします。
→当然宛名書きしてハガキでですね。

※このハガキは北海道の小川さまがGETいたしました。10:30追記

ということで、私は、今年も地を這いずり回りながら、羊のように疾走(するのか?)したいと思いますので、皆様も、一層の御贔屓とご準備方、宜しくお願いいたします。m(__)m


momo
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