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店主戯言00212_03 2002/12/21〜2002/12/31(下旬)  "There goes talkin' MOMO"


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cover 『桃論』発売中!
→[amazon]での現在のランキング

<『桃論』瞬間風速ベストセラープロジェクト>は、9位の成績を残し見事目的を達成しましたので、ここに終了を宣言いたします
今後は、ロングセラーを目指して、さらなるご支援をお願いいたします。m(__)m
(↑)画像をクリックするとアマゾンのサイトにリンクします。

2002/12/31 (火)  
【明日も続くよ・・・】

■大晦日の思い出

子供の頃の大晦日の思い出は、新米でした。

私の母は、貧しいながらも米作農家の出身なので、米は実家からいただいたりして、米を買うことはありませんでした。

でも、いつも食べるのは古米なのです。
それは古米をもらってくるからではなくて、今年の米は備蓄しておく慣習があったからです。

これは飢饉に備えるための慣習の名残りなのだと思うのですが、私の家では、私が子供の頃には、常に一年分の米の備蓄を持っていました。

だから、新米を食べるのは、大晦日と正月三箇日ぐらいで、それが過ぎるとまた、備蓄していた古米から食べ始めるのです。

ですから、私の大晦日の原体験は、新米の甘い香りでしたし、なによりも、新米がご馳走であって、それを食べることを楽しみにしていた思い出があります。

今の子供たちに米がご馳走だ、なんて言っても話は通じないでしょうが、当時の私は、子供心にも、新米はおいしいものだ、という強烈な記憶がありましたし、その記憶は今でも残っています。

これが、はたしていつ頃までそうだったのかは、記憶が定かではありませんが、私が小学生の頃までは、大晦日と正月は、新米の香りと共に「ハレ」の日であったような気がします。

しかし、クリスマスの日にも書いたように、「今と言う時代」は、私の大晦日も正月も、何か特別な日ではなくしてくれています。

いつの頃からか、飢饉に備えて米を備蓄することもなくなり、おいしい米を食べようと思えば、いつでも手に入るようになったこの時代に、慣習としての「ハレ」と「ケ」を、自分のこととして感じることは、難しいことのようです。

今日、良いお年をお迎えください、と書いて、明日、あけましておめでとうございます、と書くのと、今日、おやすみなさい、と書いて、明日、おはようございます、と書くのとでは、私の中ではいったい何が違うのだろうか、と考えると、自分自身が存在している「今という時代」の曖昧さに、一瞬耐え切れないような刹那さを感じてしまうのですが、それも一瞬であって、またいつもの私がいるのです。

これはなにも、昔は良かった、と考えているのではありません。
(と言っても、懐かしむ気持ちはありますが・・・)

確実に、私の棲む世界(環境)は変化し続けているのですが、私という存在の思考のプロセス(つまり心)もまた、環境との相互作用で、確実に変化している、と言うことなのだと思います。

多分、私と同じような感覚をお持ちの方は多いのではないでしょうか。

ところで、今日の晩御飯は、年越し蕎麦ならぬ、岩手の向井田さまよりお送りいただきました、ぴょんぴょん舎の盛岡温麺の予定でございます。

つまり、年越し盛岡温麺なのでございます。

■A木さまから

A木@自宅です。
穏やかな年末をお過ごしのことと存じます。
本年中は大変お世話になりました。
来年も何かとご面倒をかけますが、よろしくお願い申し上げます。

岐阜、熊本、栃木、長野…そして北海道。。。
全国各地に桃知ファンがいますが、なぜ北海道の方々が突出して桃知さんに心酔するのかを、ずっと考えていました。
最初は、現状に対する強い危機感の裏返しだと思っていましたが、最近は「それだけではない」と感じています。
そして、「桃知さんは、眠っていたフロンティア・スピリッツに火をつけた」という仮説にたどりつきました。

以前、「他産業からの提言」(建設業以外で活躍している道内経営者のインタビューシリーズ)の取材を担当しました。
その中でITベンチャー企業の道産子社長は「歴史の浅い北海道は、本州から入植した先人の記憶がまだ新しいので、フロンティア・スピリッツは脈々と息づいている。だから、IT業界の道産子経営者はパワフルだ」と言っていました。

さらに「官の規制が強い業界(特に建設業界)は知らず知らずのうちにスポイルされているが、その血は眠っているだけだ」と指摘していました。

本道建設業界は富山、新潟、石川、福井など北陸地方が主なルーツです。
現経営者の先々代あたりが入植して建設業を興した会社が多く、彼らにとってはまだ祖父母の記憶がかすかに残っています。
北の大地に根を張った道内建設業の「フロンティア・スピリッツ」が、桃知さんによって呼び覚まされたのです。空知の方々はまさにその典型でないでしょうか。

本道建設業を取り巻く環境は来年はさらに厳しさを増すでしょうが、本年同様一緒に戦ってください。

■眠っていたフロンティア・スピリッツ

A木さまは、ジャーナリスト特有の、背景を見る力が強い方なのだなぁ、とあらためて感じるのです。

私は、自分の行動を、(かなり)後追いで、理論的に考える、ということをしていますので、A木さまの指摘のところまでは、とても考えが及んではおりませんでした。

こうして第三者的な視点で、私と空知の皆様との相互作用の背景にあるものを指摘されると、なるほど、そうかも知れないなぁ、と思うのです。

考えてもみれば、北海道の皆さんというのは、そもそもが、大きな環境変化を前提として、その環境自体を変えようとして、適応と淘汰を続けてこられた方々の子孫なわけですから、その血や精神が、遺伝子的、ミーム的に、若い方々に受け継がれていても不思議ではないと思います。

私は、私自身がフロンティアであることは自覚しております。それは、既存のなにものにも属さない存在でありながらも市場を構成しているということと、そのために、私自身が自らの環境を変えよとする存在としてです。

フロンティア・スピリッツが生き残っている方々には(たとえ眠っていたとしても)、私のミームが届くのかもしれません。

■今年最後のこんどく
cover
『海馬/脳は疲れない』 .ほぼ日ブックス

池谷裕二(著)
糸井重里(著)
朝日出版社
2002年6月20
ということで、最後まで本を紹介し続ける「ももち どっと こむ」なのです。

この本は、はっきり言って、ものすごく面白いです。

ミームなどというものを考えていると、人の心や脳の働き、などというものに関心が広がりますが、私はこの「脳」については、あんまり得意じゃないのです。

しかし、この本は、脳の中の「海馬」を中心に、とてもわかりやすく説明されています。

心を、脳が働いているプロセスである、というのは、目から鱗でございますし、旅が海馬の動きを活発にするとか、朝鮮人参で頭が良くなるとか、そして「脳は疲れない」・・・

いと楽しい本でございます。

ミームという言葉もちゃんと出てきますよ。(笑)

2002/12/30 (月)  
【七味の特別賞に追加】

ひとつ忘れていた、というよりも、今年の出来事であったことを忘れていたのでした。
それは・・・

岩見沢市の「三船」のかしわ鍋でございます。
詳しくは、3月6日の戯言をご覧くださいませ。



【七味五悦三会(しちみごえつさんえ)】

■恒例の・・・

恒例の七味五悦三会(しちみごえつさんえ)でございます。

その昔、江戸っ子は、「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」を考えながら年を越したそうです。
七つの今年初めて食べた美味しい物、五つの楽しかったこと、三人の初めてであった素敵な人を、除夜の鐘を聞きながら、今年一年を振り返えるという、非常に内向的な楽しみでございますが、みなさんもやってみてはいかがでしょうか。

■七味

今年の一大イベントと言えば、浅草に越してきた、ということなのですが、それ故に今年は、初浅草が多ございます。

・「うどんすき杉」のうどんすき
・「米久」の牛鍋
・すし処「清司」の蛸の薄づくり

浅草シリーズは、こまでにしておきますが、ここ(浅草)はなかなか懐が深いところでございまして、本当は浅草だけで七味が書けてしまうのです。

では、出張編です。

・長野県は松川町の宮澤組さんからいただいてきた松茸をすき焼きで食べたもの。
・山口県は周防市にある「ゆうき」のふぐ。特にしらこ酒は絶品。
・北海道は長沼町で食べたジンギスカン。
・「ぴょんぴょん舎」の盛岡冷麺。

番外編

・北海道のNさま宅で食べた、「ふじ田」の出張鮨・・・(絶句ものでございました)。
・熊本の「ふぐ乃小川」で食べた、ふぐの○○刺。

■五悦

今年はなんと言っても『桃論』の出版と言うことでしょうが、執筆そのものは、「悦」というよりは、どちらかと言えば「苦」でしたので、五悦には入れたくないのでした。(笑)

・『桃論』で言えば・・・出版記念パーティと瞬間ベストセラープロジェクトで結果を残せたこと。
 →「売り子」の方々には大変にお世話になっております。
・二つの桃塾の開催ができたこと。
 →『岐阜(大垣)桃塾』と『浅草桃塾』。
・熊本独演会(桃熊会)を初めとする、新しいつながりが胎動し始めていること。
 →来年には、私の新しい動きを紹介することができることかと思います。
・砂子組さんの露天掘り炭鉱に行けた事。
 →今年は、いつもにも増して、北海道について考えることの多かった年です。そして空知建協さんを初めとする北海道の皆さんには大変にお世話になりました。
・なによりも、大きな病気をしないで過ごせたこと。

■三会

これは毎回書いていますが、絞り込むことなどできるわけがございません。
私と出会った皆様が、私のことを「三会」のひとつというか、記憶の片隅にでも置いていただければ、それがわたしの「三会」なのだと思うのです。

ここは、うどん星人1号さまからのメールで締めたいと思います。

桃知様
穏やかな年の暮れをお迎えのようで、なによりです。

今年も残すところあと2日。
そんな中、今朝の日経新聞読んでいて「神谷バー」の名を見つけました。16面の「美の美」です。長谷川利行が描いた「酒売場」という絵です。
行きつけだったそうです。電気ブランをあおっていたそうです。
なんだか、知ったお店のように親近感を覚えました。

もし、私が師匠と出会うことがなっかたら、今日の日経を読んでも何も感じなかったと思います。
師匠と出会うことがなかったら、公共工事の枠の金魚鉢の中でたとええさが少なくなっても、「それは仕方ない事だからお腹すいてもここはじっと我慢していなくてはいけない。でもきっとそのうち、鉢の金魚も減るだろうし、またえさがたくさんもらえる日も来るから・・」的思考の元のほほんと、物も考えることなく仕事していたと思います。

師匠を取り巻く桃毒を持つ方々との、刺激的出会いの機会も得られました事に、深く感謝しております。
この1年、ISOの取得にかかわり自分の人生においてもこれ程勉強し、物を考えたことがあったかしら・・・と思うほどでした。学生の頃これ程勉強していたら人生楽しかったろうなぁ・・と思ってしまいました。
桃論を読むにあたっても、考えることの楽しさにも出会いました。

いろんな出会いに感謝しております。
また、引き合わせていただいたことに特に感謝しております。
新しい年も、いろんな刺激をいただきたいと思っております。
桃論が世に出たことにより、ますますお忙しくなられると確信しております。お体を十分いたわっていただきながら、桃毒散布会全国行脚していただきたいと思います。
ますますのご活躍をお祈りしております。

今年お会いいたしました、すべての皆様に感謝申し上げます。

2002/12/29 (日)  
【村上龍】

昨日の放下すの結果です。
cover
マクロ・日本経済からミクロ・あなた自身へ
村上龍(著)
2002年12月10日 NHK出版 
結局、『だまされないために、わたしは経済を学んだ』 という前作(私はまだこれを読んではいませんが)の表題からもわかるように、村上龍も「わからない」から考える、をしている人なのだと思います。

しかし、村上が経済学で何を学んだのかは知りませんが、結局は「自立」こそが正解であるというパラダイムから、自らを解放することができないことで、自らの思考の限界をあらわにしたのが、本作なのだと思います。

ですから、『マクロ・日本経済からミクロ・あなた自身へ』と言ったところで、ミクロ部分の考察をしているわけではありませんし、その考察方法を提示しているわけでもありません。(今までの思考の延長では、できるわけがないのですが・・・)

つまりは、この本は、「わたしゃ、なにをしていいのかわからないのだよ」と言っているような、村上の思考(「村上イズム」とでも呼びましょうか)のミもフタもない開き直りのように、私は感じました。

今という時代の問題を、日本経済というマクロの問題で語ることの意味のなさ、というか、経済学的な問題解決アプローチの限界から議論はスタートすべきだというのが、『桃論』なのですが、つまり、私はこう言い切ってしまうことから、考察を始めているわけです。

 〈経額学が生み出した既存の問題解決方法では中小建設業が救われることはない〉。

 「公共工事という問題」に対する、このふたつのアプローチからの問題解決方法は、結局ふたつの極をメトロノームのように行ったり来たりしているだけで、根本的な問題解決方法にはなってはいません。その原因は、このふたつの問題解決方法の共通項にあります。それは、どちらも「C軸」〈コミュニティへの方向性〉に基盤をおいていない、ということです。「ヒエラルキー・ソリューション」の場合は、権限を「上層部」に委譲することで、また、「マーケット・ソリューション」の場合は、需要があるということを絶対視することで、どちらも個人と問題を切り離して問題を解決しようとしているからです。(※金子,2002,p151)

 しかし、インターネット社会を理解するときに、個人と問題を切り離して問題解決方法を考えてしまうと、「私の身の上ばなし」にあるように、その深層にある個人の精神的な変化を反映したものとなることはできません。私の内なる変化は、「ヒエラルキー・ソリューション」でもなければ「マーケット・ソリューション」でもない方法でもたらされたものなのです。それが「コミュニティ・ソリューション」でしかない、というのが私の理解なのです。

つまり、村上はようやく、個人と問題を切り離して問題を解決することの限界に気がついたということなのでしょう。なので、、『マクロ・日本経済からミクロ・あなた自身へ』なのです。

しかし、村上には「自立」のパラダイムが常に邪魔をします。つまり、(自分のように)「自立」すべきだ、という主張を「自立」できない人々に伝えるには、村上は「語人」として、彼ら(「自立」できない人々)とコミットしなくてはならないはずなのですが、その術を、村上の持っている「自立」のパラダイム自体が持ちえていないのです。

村上龍は、「わからない」から考える、を、メール・マガジン(JMM)を媒体に「さらし」ながら、出版というビジネスへ持ち込むという、極めて私のやり方と似た「したたかさ」を持っていますし、その問題意識も同じようなところにあります。

元々の作家としての名声を持って、「わからない方法」をしている村上と、無名どころか、何でもない私が「わからない方法」を用いて、同じような問題に取り組んでいるということだけで、私と村上を比べるのは、無理のあることだとは思いますが、現時点での思考の結果が、かなり違うところにあるのは、興味深いものだと感じて読んでおりました。

その原因のひとつは、村上の社会的な立場なのだろうな、と思うのです。村上は自分の立場をこう言ってしまうのです。

『財政改革や、不良債権の抜本的処理の必要性が言われるときに、「痛みを伴う」という言葉がよく使われます。いったい誰が痛いのだろう、いつもわたしはそう思います。少なくとも、わたしは痛くはありません。』

これで、どうやって個人(「自立」できない人々)の問題にコミットできるというのでしょうか。

2002/12/28 (土)  
【著作?】

昨日で御用納めをして、今日から年末年始のお休みという方々がほとんどでしょうか。

cover

建築・土木デジタル活用ガイド 日経BPムック
この本には、「達人が解き明かす『勝ち上がりへの8つの心得』」というコラムがありますが、それは何を隠そう私が書いたものです。なので、著者には、私の名前がちゃんと記載されています(私以外には、シェルパの高松さんと、東京都下水道局の武見さんと、KEN-Platz編集が著者ということになっております)。

このコラムを書くあたっての、KEN-Platzの川村編集長からのリクエストは、企業が行うIT化に関して、難しい言葉(例えば「ミーム」)を使わないで書いてくれ、というようなものでしたので、『桃論』の第5章「IT化概論」をなるべく簡単な言葉でまとめたような内容になっております。『桃論』が難しいという方は、こちらから読んでもらってもよいかもしれません。

わたしのコラムは勿論ですが(笑)、そのほかの記事も、参考になるものだと思います。

建設分野のIT導入やブラッシュアップに必読の活用ガイド&情報源。勝ち上がりへの8つの心得、デジタル活用が必須になる日などをテーマに特集。実録IT導入奮戦記、ソフト情報も収載。(「MARC」データベースより)

■放下す

さて、本日は夜の更新となってしまっています。(↑)は、午前中に書いたのですが、その後にいろいろ書こうとして、アップせずにおいたのですが、今日の私の脳みそはだめです。

昨晩、急な打ち合わせが入ってきてしまい、そこで結構飲んだせいか、朝から脳の動きが良くないわけで、今日は、一日中自分を放下す(ほかす)ことにしました。

この自分を放下すことは、本を読むこと意外(それも手当たり次第につまみ読み)に、結局なにもしていないことを意味しています。

なので今日は終わりです。

先日、松阪牛をいただいていましたから、すき焼きで食べようかと思っております。

2002/12/27 (金)  
【切実さというようなもの】

今日の店主戯言の「地場型大企業」、これは北海道のいたる地域の皆さんがそう思っている方が多いと感じてます。
経営者は勿論、社員は尚更ではないでしょうか?
社屋は立派、街中の公職(商工会議所会頭、商工会会長等)も多く、一見とても信頼されて(?)いるように見えますからね。
北海道開発庁があった時には「地場型大企業」は存在したのでしょうが、国土交通省になった時点で無くなった事に気がつかない、気づきたくないこの両極にいると思います。
ただ「地場」と言う言葉は「国」においては無いんでしょうね。
「地場」というのは、せいぜい県レベルか市町村レベルなんでしょう。そこでの戦略なんでしょうが、北海道においては今までの歴史との戦いも官・民共にあるような気がしました。
とても私にとっては、色々な意味で有難い表現を表す言葉でした。勘違い&錯覚との戦いですね!

これは、北海道のある経営者さまからのメールです。
ありがとうございます。

このメールにある「勘違い&錯覚」という言葉には、「日常」をオブラートでくるんだような居心地のよさのようなものを想像してしまいました。

そしてふと思い出したフレーズ。
「泥棒して食ったっていいんだぜ」

吉本隆明は、『悪人正機』 という本で、失業中に、「泥棒して食ったっていいんだぜ」と言われた記憶を語っておりましたが、吉本によれば、本当はお前は、切実になんてなってはいないのじゃないのか、といわれたのだ、というようなことを言っておりました。

「勘違い&錯覚との戦い」という言葉には、自らの存在に対する「切実さ」のようなものを感じてしまうのですが、「経営者は勿論、社員は尚更ではないでしょうか?」と言われる時、その「切実さ」というような感覚を、社員と如何にしたら共感できるのだろうか、という経営者の悩みのようなものを垣間見ることができると思います。

私は、「泥棒して食ったっていいんだぜ」というフレーズの中に(現実的には、ホームレスしても食える、というところでしょうが)、なにか開き直りと覚悟の上に足場を置いた「日常的な勇気」というか、「頭ではなく体から湧き出る生きる力」のような感覚を見ているのですが、私のいう「切実さ」とは、この「日常的な勇気」や「頭ではなく体から湧き出る生きる力」のよなものだと考えてもらえばよいかもしれません。

覚悟して生きている、という表現や感覚がよいものだと決め付けることには無理があるでしょうが、今の生活が崩れることがない、という感覚が蔓延している組織というのも、実は「勘違い&錯覚」で「日常」をオブラートででくるんだものでしかないのだと思うのです。

吉本は、今の時代、「これがいい」という生き方なんてない、とまで言うのですが、これは、開き直りというか、なにか覚悟のようなものが出来上がっている日常を送ってい者でないと、言い切れない言葉だと感じています。



【長野県では・・・】

取り急ぎ、今方届いたメールです。

地場中小建設業の通夜なのでしょうか。

http://www.shinmai.co.jp/news/2002/12/27/003.htm

こうなると、嘆いてばかりもいられないのは確かなのですが、どのような結果になるのかは、様子を見てみるしかありませんね。


【覚悟の年】

昨日は、夕方から横浜で打ち合わせ。
これで私の今年の予定は完了。

■切番ゲッター

420,000は千葉のMiyappyさま
420,001は宮崎の○木さま

おめでとうございます。
景品は本日発送いたしますので、少々お待ちくださいませ。

ということで、○木さまからの「ないないづくし」でございます。

キリ番ゲットがうれしくて作ってみました(意味不明)

「ないないづくし」

ないないづくしの建設業
最近なんだか仕事がない
民間なけりゃ官もない
自転車操業仕方ない

談合するけどまとまらない
天から声も聞こえない
叩いて取るから利益がない
体力ないから続かない

工期短縮予算がない
残業そんなに払えない
安全費用はオラ知らない
労働環境まともじゃない

お上の方しか見ていない
市民の信頼少しもない
それでも考え改めない
だから業界、人気がない

競争入札これしかない
落札価格は隠さない
見積もりしない、考えない
それでは技術が身につかない

電子入札、紙いらない
移動費用も必要ない
経費の節約もうできない
名刺配りを何故やめない

知識は出さない伝えない
勘と経験それしかない
教えられない教えない
それでは後が育たない

現場がなけりゃ職場がない
建設以外のスキルがない
それじゃあ転職できゃしない
世の中そんなに甘くない

頭文字「K」でなにか作ろうとしたのですが、うまくいかないので古典に走りました
ちなみに「きつい・汚い・危険」であった建設業は、「勘・経験・根性」でなんとかやってきたのですが、「管理・教育・会議・会話・危機管理・KM・改革・改善・交渉・顧客満足・共働」が苦手です。
をなんとかしたかったんですけど。

ありがとうございます。m(__)m

■From ○部地方整備局さま

桃知さん、研修受講生の感想がまとまりましたので、送ります。

(ざっくり)

もう少しブーイングが出るのかなと思いましたが、みなさん何かしら考えを得たようでした。ありがとうございました。
僕はといえば、開発主義のところでは、後ろで涙していました。いま田舎に住んでいますが、開発主義の過程で人手を送り出した残りかすのような農地を抱え、農機具を買うのに勤めの給料を使う。不況でボーナスさえ出ない話を聞くと、やはり公共事業は雇用対策だなぁと思えます。
ありがとうございました。

最近の桃知さんは、なんだか柔らかくなりましたね。初めてお会いした頃はとても過激で、知っている事すら隠しておきたい存在(笑い)でした。プライベートな事は話されることは無かったのですが、この前の講義では家族のこと、子供さんが小さいこと、サイトでもそんな事を少しずつ披露されているのを見ると、とてもホッとします。

では、良いお年をお迎えください。
来年は四捨五入すると50です。お体に気を付けて、いつまでも叱咤激励してくださいね。

ありがとうございます。m(__)m

具体的な感想をここに載せることはしないのですが、国○省の役人さん相手に、国○省の政策批判をした割には、意外とブーイングがないのは、なにか拍子抜けなのでした。

ガンガンとくる相手にはガンガンといけるのですが(ザ・ハーダー・ゼイ・カムの法則(笑))、ガンガンを期待していただけに、なにか拍子抜けしてしまうわけで、私の闘志には、火がつかないのでした。

これも私を柔らかくする戦略なのでしょか。(笑)

それにしても、『初めてお会いした頃はとても過激で、知っている事すら隠しておきたい存在(笑い)でした』というのは、正直な感想なのでしょうね。

最近でも、お前は過激だ、ということをよく言われますが、昔から私を知っている皆さんにとっては、多分その過激さにおいては、ずいぶん物足りなく感じているのではないかと思うのです。

まあ、年を取れば、それなりに、ちょっとは人間らしくなった、ということでしょうし、なによりも、市場原理主義的な自助自立の思想から、相互依存的な思想へと180度転向しておりますので、そういう結果なのかもしれません。

■ガツンときたメール

今年の実績、来年の発注を予想しても、公共工事で生きられる環境ではなくなりました。来年は、他人には迷惑をかけずに会社を畳むことを前提として、悔いが残らぬよう、また、「飛ぶ鳥、あとを濁さず」で精一杯頑張ってみようと思っています。

では、ご家族様共々、健やかなる新年をお迎えくださいますよう、心よりご祈念申し上げます。

このメールをいただいた時に、頭に浮かんだ二文字は「覚悟」でした。
2003年は「覚悟」の年と言ってもよいかもしれないな、と思うのです。

このメールの方は立派な覚悟をお持ちだと思いますし、経営者として、将来の予測を的確にされている(予言的でさえあります)な、と感じます。ただそれゆえに、私は相当にガツンとやられてしまっているわけです。

多くの経営者の中には、ウチは大丈夫だ、と言い切ってしまう方々もおられるでしょうが、でも本当にそうなのか、といえば、誰もその確信はないのではないでしょうか。

今年、さいたま市での講演の際に、参加されていた国交省の方が、私の地場型中小建設業という言葉に対して、ここにいるのは、地場型大企業だ、というような言い方をされていましたが、この時、私は「ああ・・・」と、言葉にならない息を飲み込む思いがしました。

地場型大企業の皆さんとは、それでもウチは大丈夫だ、と言い切ってしまう方々なのかもしれませんが、今の政策が続く限りでは、2003年、中堅ゼネコンの政策的な淘汰が進む一方で、地方では、無秩序的に小規模な会社(中小・零細企業)から経営が難しくなっていくでしょう。

つまり、地場型大企業の皆さんさえも、現状に甘んじているだけでは、ウチは大丈夫だと言い切れることなどできないのだと思います。

現政権には、政策として地方の小規模零細業者に対する政策はなにもありません。
それは、ないことが自体が政策として機能している、ということなのでしょうが、環境が、生きる道筋を見せない空しさが、どれだけ我が国の経済に対して、デフレ圧力を与えているのかは、調査する必要さえない事実なのだと感じています。

2003年、地場型中小建設業にとっては、かなりの覚悟を強いられる年であることには違いないようですが、果たしてどれだけの方々にその覚悟があるかというと、それもあまりにもお寒い状況だといえるでしょう。

この話題については、後で続きを書きます。
ということで、今はここまで。

2002/12/26 (木)  
【まもなく】

■42万ヒット

まもなくお一連カウンターが42万となります。
今回は「前」はなくて「後賞」付きで、420,000と420,001ゲッターさまに記念品を差し上げます。

記念品は、(↓)にハンドタオルをセットでお送りいたします。
竹炭小袋さん 『桃論』デジハン(『桃論』はついておりません)

今年最後の切番です。お楽しみくださいませ。

■「菜花苑」(オイルゲーター)

以前、リバー産業さんのHPの切番をゲットした(私がです)記念品でいただいていた「菜花苑」(オイルゲーター)というものが、なにものかわからなかったのですが、小川さまからメールをいただいてようやく理解いたしました。

利用方解かりますか・・・・・中身はオイルゲーターなのですが
一般家庭では観葉植物の根周辺へスプーン3杯ほど混ぜてください
鉢物が元気になり花の寿命が長持ちしますシクラメンあたりに最高です

ということで、今、私の部屋には、「破竹」と楽天の共同購入で買った「ピンクのリリー」があるので、早速試してみようと思うのでした。小川さん、ありがとうございました。

私はこう見えても花好きだったりします。

■交際費

昨日のニュースに、こんなのがありました。
2001年の企業交際費、15年ぶり4兆円割れ
でも・・・建設業界、不況でも“交際費体質”は変わらず

まあ、これは暗に建設業を批判しているのでしょうが、建設業界が不況でも“交際費体質”であることが、なにがどう悪いのか、についての検証なんて、実は誰もやってはいないのです。

これはイメージ戦略のようなものだと、私は思ってしまうのです。

私から言わせていただければ、不景気であればこそ、交際費を使い、市中にお金をまわす。
これで何が悪いのでしょうか、ということになります。

稼いだお金を市場を通して営業に使っているわけで、限度枠を超えれば課税さえされているのです。

これは公共工事とはかんけいありません。
建設業の場合、民間営業の方が交際費はかかります。

コンビニや100円ショップでの商売のように仕事が取れれば問題はないのでしょうが、いかんせん建設業は、そんなものじゃ売れないわけです。

そしてこの記事は、なにか、交際費そのもの、そして交際費が支払われる先までが、「悪いところ」であるような印象も持っていますが、それは、飲食業界、ゴルフ業界(こんな呼び方でいいのか?)、ギフト関係者に対する冒涜でしかありません。

お中元、お歳暮商戦はデパートにとっても大切な掻き入れ時のはずですし、それじゃ接待交際費は一切認めない、とでもなれば、これらの業界に対するデフレ圧力は相当なものになるはずです。

と、ここまで交際費を擁護するのはなぜかというと、当店はウルトラ高交際費体質だからです。(笑)

2002/12/25 (水)  
【2年前の今日、私は郡上でサーバーの立ち上げをしていました】

■見えない力

やっぱり、自分で書いた本(つまり『桃論』ですが)の売り上げというのは、とても気になるもののようで、毎朝、amazonでの現在のランキングを確認するのが、発刊以来の日課になってしまっています。

amazonの売り上げランキングは、刻々と変化しますので、過去に、『桃論』の最高順位がはたして何位だったのかはわかりませんが、ここのところは、1,000〜4000位ぐらいのところを、ゆるやかに推移してはおりました。

今朝方、いつものように確認してみたら、これが368位でございまして、久しぶりの三桁台で、あら、まぁ、うれし、でございました。

この高順位がいつまでもつのかは、はなはだ疑問ではありますが、これも、ご支援くださっている皆様からのクリスマス・プレゼントなんだなと感じております。

そして、なにか見えない力に支えられている自分を感じるのでした。
これも弱い紐帯の力なのでしょうか。

ありがとうございます。m(__)m

■整理付かず

昨日から、部屋の掃除を始めようとしているのですが、本箱の整理(書籍の整理)で挫折してしまっています。

それは、整理しながら、まだ読んでない本や、ああ、これを今読むとどうなんだろう、というような本を見つけては、それを読んでしまっているからなのです。

■インターネット的

cover
『インターネット的』
糸井重里(著)
PHP研究所
ISBN: 4569616143
(2001/07/14)
私の掃除の手を止めてしまった一冊が、この『インターネット的』という糸井重里の本です。

この本は、昨年の8月30日の戯言で紹介をしていたものですが、改めて読み返すと、『桃論』に相当影響を与えているものであることが、改めてわかります(『桃論』の執筆中は全然意識したり、読み返したりもしていませんでしたし、『桃論』への引用もしていないのですが、私の記憶の重低音であったようです。)

しかし、改めて私自身が阿保だと思ったのは、この本には、山岸俊男氏の引用があることをすっかり忘れていたことです。

私は、山岸の『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム』を、まったく偶然に、浦和の書店で手に入れて読み始め、その「正直であることが結局は強いのだよ」という理論に狂喜乱舞していたのですが、それはこの『インターネット的』を読んだ4ヵ月も後のことでした。

つまり、『インターネット的』を読んだ時点で、山岸の著作を読んでいれば・・・と一瞬思ったのですが、実はそれも違うのです。

どちらかというと、私は、「ミーム論」の理解を経て山岸のいう「信頼の構造」に到達しています。つまり、昨年の8月30日の時点では、実はこの『インターネット的』という本は、読みきれていなかった、ということなのなのです。

でもこんなことは珍しいことではなくて、例えば、アルマティア・センの一連の著作や、最近はまっている、M・グラノヴェターの「弱い紐帯の仮説」や「埋め込みの問題」あたりは、ようやくこの時期になって、なんとか読める、という程度になっただけなのことで、それでもまだよく理解できていなかったりしています。

つまり、私は12月15日にこう(↓)書きましたが、それを自分で実感するには、『今の自分自身に対する「なぜ」という気持ち』を持つことだと思いますし、勉強すること(自分自身のバージョンアップ)を習慣付けることが大切なのだと思うのです。

『桃論』は難しい本かもしれませんが、わざと難しくしたわけではありません。若し『桃論』を難しいと感じたり、読みきれないもの、と感じているのであれば、『今の自分自身に対する「なぜ」という気持ち』を持っていただきたいと思うのです。それが『桃論』の狙いでもあるわけです。

■ついでなので、今週の読書(12月15日の再掲)

昨日の私の話の中から、・・・私が失われた20年間で読んだまともな本は、それこそ5.6冊しかありませんでした。20年間でたった5.6冊です。それだけ現状に甘んじているだけで、「なぜ?」を考えることもなく、勉強もしていなかった、ということです。でも、今の私にとって5.6冊の本というのは、1週間の単位で読む本の量でしかありません。

もし、心の奥底に、今の自分自身に対する「なぜ」という気持ちがわいてくるのであれば、そして、自分自身を考えるような思考の基盤とする「考え方」を不幸にして持っておられないならば、まずは「量」を読むことが大切です。「量」を読むことによって、それは単なる点から線へ、そして自らの思考が面として構成されてくることを実感することができるでしょう。

→自分自身のバージョン・アップを通じて、己のアイデンティティを実感する。
→モノの所有が己の自己表現の一部であった時代が終わるとき、己のアイデンティティを実感できる唯一の方法は、己が何らかのバージョン・アップをしているという実感なんだろう・・・

■2年前の今日、私は郡上でサーバーの立ち上げをしていました

2年前の今日私は郡上でサーバーの立ち上げをしておりました。
この2年間で、郡上建協さんは確かにバージョン・アップをしましたし、それを実感されていることと思います。

そして、私も郡上建協さんとの関係の中でバージョン・アップをさせていただきました。
つまり、バージョン・アップも、関係性(相互作用)の中から生まれるものであることを、経験的に理解することができています。

ひとりだけでバージョン・アップしても、それは「自己満足」もしくは「マスターベーション」でしかありません。それは悲しい努力でしかないでしょうし、それがバージョン・アップと呼んでいいものであるとは思えないのです。

2002/12/24 (火)  
【終わりの季節】

■クリスマス・ソング

細野晴臣の作った曲に「終わりの季節」というとても優しい曲がありますが、私は、その矢野顕子バージョンが大好きです。

扉の陰で 息を殺した
かすかな言葉は さようなら
6時発の 貨物列車が
窓の彼方で ガタゴト
朝焼けが 燃えているので
窓から 招き入れると
笑いながら 入りこんで来て
暗い顔を 赤く染める
それで 救われる気持
(矢野顕子:アルバム「オーエス オーエス」から)

どうってない曲なのですが、これと、同じアルバムから、「ASSEMBLY」というインストロメンタルの二曲を最近はよく聴いています。つまりこの二曲が、今年の私のクリスマス・ソングのようです。

■こうしてなんとか・・・

私はクリスマスというものには、特別の思い入れはありませんが、季節の節目というか、紅白歌合戦とはまた違った意味で、一年の終わりを感じることができるものです。

といっても、なんとかこうしてここまで生きてこれたことを、神に感謝するような習慣も持ち合わせてはおりませんので、私のクリスマスや大晦日の感覚は、この「終わり」が、私が死ぬまでは続くのだな、ということ、つまり、結局はなにも終わっていないのだ、というようなものなのです。

であればまた、人々が刹那的に楽しむことも、否定はしようもないな、と思うのです。
つまり、「ハレ」は刹那的でこそ「ハレ」なのだと思うのです。

■例えばサンタクロースについて

サンタクロースが実存すると信じていた時間はお持ちでしょうか?

私は、決して裕福ではない家の生まれのせいかもしれませんが、サンタクロースというものの存在を信じた記憶がありません。

それは、子供の頃にクリスマス・プレゼントが私の枕元にあったことなど一度も無かったから、という原体験がもたらしたものかもしれませんが、私にとってのクリスマス(12月24日)とは、ケーキを食べることのできる日ぐらいのものでしかなかったわけです。

それでも、毎日ケーキを食べることができるような生活ではありませんでしたから、クリスマスは「ハレ」の日であったことは間違いありません。

でも、サンタクロースの存在は、私にはたいしてかかわりあいのないことでした。
私にとっての「ハレ」とは、ケーキが食べられる、ということでしかないわけですから・・・

こうしてガキの頃から私のヒネクレ体質は出来上がってきてしまったわけです。

■ハレルヤ

ハレルヤ=神を褒め称えよ。(笑)

今の私は「ハレ」の日をあまり好みません。
なぜなら日常が「ハレ」続きのようなものだからだと感じています。

つまり、「ハレ」の感覚に麻痺しているような状態が日常にあるのに、それに「ハレ」を上塗りするような、(つくられた)「ハレ」を「うそ臭く」感じているのです。

私は、幸運にも、その気になれば毎日ケーキを食べることもできる日常を持っています。
ただ、こういう日常は、確実に「ハレ」の感覚を麻痺させてしまっているだけのようです。

ですから、今の私は、なんでもない普通の日を送ること=「ケ」の方が好きであり、待ち遠しく思う時もあります。

つまり、なんでもない普通の日を「ケ」というのですが、私には「ケ」、もしくは「ケ」にコミットしている時間こそが、「ハレ」だったりしてしまうのです。

今の私には、もういくつ寝るとお正月・・・なんていう、「ハレ」の日の待ち遠しさの歌は、少しもリアリティがないのです。

■クリスマス・イブ

つまり結論ですが、私にとって世間でいうクリスマスの華やかさは、なにが楽しいのだろうか・・・というようなものでしかありませんでした。

そこには、世間の喧騒を冷ややかに見る自分がいつもいます。
TVのからの画像を眺めては、そのリアリティのなさに身震いしそうになる日が、実は今日という日なのです。

これは、いつの頃からからかは覚えてはいないのですが、ずっと長い間そうなのです。
もっとも、こういう自分を私は好きではありません。

ただし、最近の感覚(昨年ぐらいからかしら・・・)としては、ただ普通に過ごせるという意味で、私にとってこの日が「ハレ」の日であって欲しい、と思うようにはなりました。

それはどういうことかといえば、私は、この日を、ただ普通に暮らせることを感謝し、その意味を考える日にしたい、と思うようになったということです。

そして、私だけに限らず、私の知っている人も、知らない人も、「クリスマス・イブ」という名の今日の日が、普通に「ハレ」の日であればいいな、と思う気持ちも持てるようになってきました。

それがなぜかは、自分自身でもよくはわかってはいないのですが、ひとつには、私自身が非常にリスキーな人生を歩み始めたからかもしれないと感じています。

そういう意味では、市場に自分自身をさらす生活は、人間味を少しは復活させるのかもしれませんね。(笑)

ということころで、お決まりの「メリー・クリスマス」です。

メリー・クリスマス←クリックしたら大きくなります。

心から・・・みんなが幸せでありますように。

2002/12/23 (月)  
【またまた雇用の問題】

■とどさん

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/7170/

とどさん曰く。
情報は、自分から発信しないと自分には返って来ないという原理を自分でも試してみたくなりました。
毎日の身の回りの出来事、考えたこと、感じたことなど、おっさんのたわ言を書いてみようと思います。

いつもお世話になっている、宇都宮のとどさんがホームページを立ち上げました。
更新を楽しみにしたいと思います。

■デジタルマルクス主義

さて昨日の「こんどく」で紹介しました、ダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』についての続きでございます。

ダニエル・ピンクは、米国でフリーエージェントが増加した(全労働者の四分の一がフリーエージェントと言われている)の要因として、次の4つの変化をあげています。

1・経済の「子供時代」の終焉
2・生産手段が安価に
3・経済の繁栄
4・組織の短命化

1・経済の「子供時代」の終焉

従来の労使間の社会的契約、すなわち従業員が忠誠心と引き換えに会社から安定を保障してもらうという関係が崩壊した。(p61)

2・生産手段が安価に

生産手段(富を生み出すのに必要な道具)が小型で安価になって個人で所有できるようになり、操作も簡単になった。(p61)

3・経済の繁栄

繁栄が社会の広い層に行き渡り、しかも長期間続いている結果、生活の糧を稼ぐことだけが仕事の目的ではなくなり、人々は仕事にやりがいをもとめるようになった。(p61)

4・組織の短命化

組織の寿命が短くなり、人々は勤め先の組織より長く生きるようになった。(p61)

つまり、米国で起きた変化は、デジタルな生産手段が生産者の手に戻った、という意味で、ピンクはこれをデジタルマルクス主義と呼んでいます。

■日本では・・・

フリーエージェントの増加は、ある意味、経済的な繁栄(もしくは繁栄するだろうという予測)を背景とした雇用の流動化の結果、と言ってもいいでしょうから、我が国が不良債権処理の結果として直面しなくてはならない、失業率の増加という局面では、経済的な繁栄を前提とするピンクの文脈がそのまま通用するわけではないでしょう。

これまで、日本の失業率が低かった理由は3つあります。

・大企業を中心とした長期効用システムの存在。

・「求職意欲喪失効果」
 →仕事を失った女性が就職をあきらめ専業主婦や家事手伝いになる。

・景気動向にかかわらず、つねに一定割合の開業がなされ、そして開業した企業が成長する過程で、新しい雇用機会を生み出してきた。

我が国では、中小企業で働く方々が圧倒的に多いことを考えれば、この自営業を含む中小企業の排出が雇用創造の原動力のひとつとなってきたことが、低失業率の大きな原因と考えてもよいでしょうが、そのポンプ役としての力が1990年代後半になって急速に弱まってきているのです。

(以上、玄田有史、『仕事のなかの曖昧な不安』p202〜203)

つまり、昨日も指摘したとおり、日本の自営業者は減り続け、開業希望者も減り続けているのです。(玄田,p195〜)

私はこの背景を開発主義の終焉としての問題として捉えることができます。
つまり、これは政策的な問題、雇用を取り巻く外部要因(システム)の問題だと考えています。

つまり、先の要因3の、経済の繁栄−繁栄が社会の広い層に行き渡り、しかも長期間続いている結果、生活の糧を稼ぐことだけが仕事の目的ではなくなり、人々は仕事にやりがいをもとめるようになった。−という文脈が人々の心の中で機能するには程遠い状態が、90年代後半から続いている結果、悪循環的に失業率は増加し続けているのだと思います。

■「公共工事という産業」の問題として

ダニエル・ピンクのいうフリーエージェントのはなしは、「公共工事という産業」を考える時、何を私たちに教えてくれるでしょうか。

多くの地場型中小建設業は、「公共工事という産業」という組織に属している組織人(オーガニゼーション・マン)のようなものだと私は感じています。

そして、今その組織でおきていることと言えば、例えば、八木沢さんは、21日の「たまげた話」でこう書いています。

今日の日刊建設新聞の栃木版によりますと、県内公共工事の請負金額は前年同月に比べ、43%と大幅な減少になったそうです。(どうりで苦しいわけだぁー。)請負金額を発注者別でみると、国の発注は32.4%の減少。県の発注が23.5%の減少。市町村の発注が23.5%の減少です。その他、区画整理組合などの発注が99.0%の減少です。(ハァー、出るのはため息ばかり)

来年度はさらに公共工事は減るわけで、一体、地場の中小零細建設業はどうなってしまうのでしょうか?また、公共工事依存型の建設会社はどのような対策を取れば良いのでしょうか?私には分かりません。もうすぐ正月だというのに・・・。

そして、20日の戯言で紹介したメールの再掲です。

○○です。

今朝の店主戯言の中国新聞、効きました!
完璧なボディブローです。
「どうしたらいいんか、わからんのです」
この言葉は、今自分の置かれている状況にも合致します。
彼はもっと辛いのでしょうけど、出てくる言葉は一緒なんですね。

忘年会でも酒を飲みつつ、そんな事ばかり頭をよぎってます。

今という時代は、「公共工事という産業」組織を支えてきたタテのつながりを重視する社会システムの限界が表出している、と考えていよいでしょう。つまり、開発主義というヒエラルキーソリューションの限界の時代なのです。

この問題への対応は大きくわけて二つ考えることができるでしょう。それは、

1・「公共工事という産業」組織から、自発的に飛び出して、「公共工事という産業」の外に新たに自らの居場所を見つける(転業・起業)。→これは、経営者、従業者にかかわりなく。

2・「公共工事という産業」組織のシステムである、「タテのつながりを重視する社会システム」そのものの変革(編集)によって、「公共工事という産業」の中に自らの居場所を見つける。

「桃論」は、その多くの部分で、2を言っているわけですが(今の段階の私の理解では、という注釈が付きますが)、「公共工事という産業」に従事するすべての皆さんが1を視野に考えることで、2の可能性も出てくるのではないか、というのが「桃論」の正しい読み方なのです。

■幸福な転職の条件

幸福な転職に関する、玄田有史の研究(『仕事のなかの曖昧な不安』)は、「桃論」以降の私の具体的な行動に対して大きな影響を与えています。

出発点は同じです。玄田はこう書きます。

中高年の転職にとって何が大事なのか。
それは、結局のところ「前の会社でどんな仕事をしてきたか」に尽きる。
(ざっくり)
こんな話がある転職を決意した人が面接に望んだ。そのとき「あなたにはどんな仕事ができますか」と聞かれ、答えたのは「部長ならできます」(p165〜166)

すばらしい仕事を確かにし、能力を持っていながら、それを会社の外に向かって表現できない部長がたくさんいる。会社内では個人の仕事ぶりについての情報は流通する。反面、一歩会社をでると、自分の仕事について語るということを私たちはしてこなかった。求められてもこなかった。「部長ならできます」は、それがもたらした悲劇なのである。転職であれ会社のなかであれ、自分のしてきた仕事をささやかな自負心と誇りも持って一人ひとりが自分の言葉で語ることが求められている。(p166)

そして、こう結論します。

少なくとも転職によって状況を改善できるためには、本人がリスクを負っても転職するだけの「何か」がある。転職リスクにチャレンジし、実際に転職を成功と感じているのは、どのような人なのか。「幸福な転職」の条件とは何なのか。

以下の結果は、ショッキングなものである。なぜなら、政府が、そして民間が職業紹介機能をどんなに充実させても、必ずしも転職を幸福なものとするといえないからである。さらには、どんなに本人が能力を高めても、それだけではやはり幸福な転職にはつながらない。では、家族や親類の縁故が大切なのか。同僚との間に築いた深い人間関係が需要か。いずれも違う。大事なのは、会社の外に信頼できる友人・知人がいるかどうか、である。(p179)

この玄田の指摘を、「公共工事という産業」に身を置く方々は、自らのこととして考えてみていただきたいのです。

→自分のしてきた仕事をささやかな自負心と誇りも持って一人ひとりが自分の言葉で語ることができるか。

→会社の外に信頼できる友人・知人がいるか。

そうすれば、1を考えることで、2の可能性も出てくることが理解できるかと思いますし、2は1を行動に移すことで得られるようなもの、つまりソーシャル・キャピタルの構築の結果であることが、なんとなくにでも、理解していただけるかと思います。

2002/12/22 (日)  
【フリーエージェント社会】

■私Zのドライバー

北海道の熊谷さまより、momoZのドライバー(もちろん私)が届きましたので、早速家宝ケースに陳列させていただきました。

(画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます)

作務衣を着て、金縁眼鏡、雪駄履き、そして手にはThinkPad・・・見事でございます。
お題は、「パソコンを持って街に出よう」でございますね。

この熊谷さまの作品は、田宮模型のサイトでもご覧いただけます。
http://www.tamiya.com/japan/pachi_digital/photo_gallery.htm

■デジハン屋さまより

桃知商店 桃知様
昨夜の忘年会、御馳走様でした。
ついつい、黒龍の酒のうまみで飲みすぎました。
http://www.kokuryu.co.jp/←変にお金のかかっているサイト(さすが黒龍?)
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/ikusakaya/kokuryu/koku.htm

せいこがに http://www.echizengani.jp/s_seiko.html
のどぐろ  http://fish.miracle.ne.jp/ois/nodoguro.htm
ふぐの白子http://www.daifuku.net/fo-005.html
の美味しさに乾杯でした。

はりはり鍋は食べれませんでしたが、華子という店を教えていただけただけでも感謝感謝です。日本海の幸を味わいにまたいきたいと思う店でした。

今年も後10日足らずですね。記念すべき『桃論』の出版
まだまだ、第1章だ。第2章、第3章と続くといわれた時の、力強さを感じました。
また、来年ご活躍楽しみにしております。
私は、単なる単純に『アイデア・スピード・行動力』を実践していこうと思っています。

結局、岐阜でも毎日飲んでいました・・・

■長野からのメール

『地方自治体職員のIT浸透度県別ランキング  長野県が1位に!!』
こんな記事が載っておりました。
県職員がパソコンを無償でもらって問題になりましたがおかげで1位になったのでしょうか。
こんなものを載せるなんてバランス感覚の優れた田中知事らしくないですねえ。
洒落にもなりません。

http://www.pref.nagano.jp/kikaku/jousei/itsintou.htm

この記事の出所が、昨日紹介しました、ガートナー・ジャパンのプレスリリース [2002/12/11] 「地方自治体職員のIT浸透度県別ランキングを発表」なのです。

■岐阜県ときたら(笑)

この調査結果を一応信用できるものとして、私が岐阜遠征中に、これを知って笑っちゃった、というか大いに落胆させられたのは、総合評価では、9位の岐阜県が、こと「パソコンの習熟度」に関しては、34位(ベスト10にランキングされている自治体の中で最下位)という結果なのです。

インフラの整備は予算さえ付けば、すぐに上位に出ることは可能です。
岐阜県のベストテン入りは、一応インフラだけはしっかりしている、けれども、実態は空っぽさ、といっているようなものだと感じています。

IT先進県を自他共に認める岐阜県ではありますが、結局12月18日に紹介しましたメール(下)になってしまっていただけなのかもしれません。(再引用します)

そこから先はわれわれがどう「動くか?」

この言葉は、桃知さんとお会いして以来ずーっと私たち発注者と言われるものに対して与えていただいてきた問題そのものでした。

一人一台パソコンを早くから導入し、インフラ整備にも極的に取り組んで参りました。いつも利用していただいている我が○○もIT化という取り組みの一環だったわけです。

発注者はITをどう活用するのか、という問いに対し、地方自治法に規定されたもの、従来からあった事務を効率化するための道具であり、ここしばらくもこの方向で行くのではないかと、周りの状況、IT関係の内部会議に出席して素直に感じる感想です。

この県で内部から見れば、県のコア・コンピタンスは何か?
スペシャリスト足りうるのか?などを想定し、将来のあるべき姿を目指した「BPR」に取り組むなんて全くないのです。
書類を少なくしよう!手続きを1/2にしよう!?????
住民の生活をスムーズに進めるため、組織内の決裁権限はどうあるべきか?窓口をシンプルにしよう?将来の県という組織のあり方は?・・・
目の前の事務を片づけるのに精一杯です。

業界の方々がどう動くかと考えるとき、従来の枠組みに囚われることなく、世界観を大きく持った上で悩むべきです。発注者なんて湯飲みのなかだけしか見てませんよ。

井の中の蛙の方がまだましです。湯飲み中のハエの姿しか今は想像できません。

桃論読みながら頭の中をよぎった思いです。

「パソコン習熟度」と言っても、けっして難しいものではなくて、『各自治体のパソコン利用者が、「ワープロや表計算を充分に使える」習熟者が職員のうち何割を占めるかで5段階評価したものを100%満点に換算したものです。』という、たかだか、そんなレベルでしかないのですが、一人一台のPCを早期から導入していてこのありさまだなんて、職員の中にやる気が無い方々が結構いらっしゃることを全国にアピールしているだけでしょう。

梶原知事の言っている事が一番わかってないのが、じつは県の職員だなんて、笑い話にもなりません。
長年岐阜県とかかわってきた者としては、落胆せざるを得ない結果なのです。

そして、私が岐阜県で感じている「障害のようなもの」の原因を、ここに見ることができたような気がしました。

しかし、長野県の一位。
これはやっぱり田中さま効果なのでしょうか?

■今週の読書

cover
フリーエージェント社会の到来.

ダニエル・ピンク(著)
玄田有史(解説)
池村千秋(訳)

ダイヤモンド社 2002年4月18日
玄田有史は(『仕事のなかの曖昧な不安』)、日本の自営業者は減少し続けていて、それは先進国としては特異な存在だと指摘しています。結局その原因は、日本という国が、いつまでもタテ社会の構造の中から抜け出せないでいることなのだと感じています。

この『フリーエージェント社会の到来』には、「マズロー&マクガイア語録」というのが、その章をシンボリック化するものとして、ところどころで使われています。

例えば、『どう行動するべきかをいつも社会が教えてくれる世界、すなわち、社会が次のステップを指図して、エスカレーターに乗せてくれる楽な世界では、自分の弱みや失敗に直面することがないだけではなく、自分の強みを知ることもない。」-エイブラハム・マズロー−(p77)というのがありますが、これは、フリー・エージェントの対極の存在である、組織人(オーガニゼーション・マン)と、その存在の基盤である、タテのつながりを重視する社会システムの限界を言っています。

つまり、タテ社会の構造というのはOSなのです。
「今という時代」は、この基本OSが、全能ではないことがばれてしまった時代だということができるでしょう。

→なので構造改革(OSの変更)なのですが、現政権はそれをどこかで履き違えてしまったようです。

このことは、このマズローの指摘の対極にフリー・エージェントはいる、ということも意味しています。つまり、フリー・エージェントは常に「自分のボスは自分である」ことによって、自分の弱みや失敗に直面しながら、しかし、自分の強みを知ることになる、ということなのですが、ここでなによりも大切なことは、フリー・エージェントは、タテ社会の構造というOSとは違ったOSで動いているという事実です。

著者のダニエル・ピンク(なんと愛着のある名前だろう)は、そのOSの正体を丹念な調査をベースに明らかにしていきます。

それは、−信頼、互恵主義、ヨコの忠誠心−というものです。
→フリー・エージェントのOS:その基本的な構成要素は、信頼である。(p189)

フリー・エージェント(インターネットを使って、自宅でひとりで働き、組織の庇護受けることなく自分の知恵だけを頼りに、独立していると同時に社会とつながっているビジネスを築き上げた人々)のことを考えること(つまり、それは私自身のことを考えることでもあるのですが)は、「今という時代」に閉塞してしまった制度・慣習(例えば「公共事業という問題」)を考えるうえで、とても大切なことを示唆しているのだと思います。

→フリー・エージェントのOS:その基本的な構成要素は、信頼である。
→それを自分でこの本を読んで自分で感じ取っていただければと思うのでした。

「桃論」理解の参考文献に加えたいと思います。

2002/12/21 (土)  
【ヒューマン・モーメント】

岐阜から帰ってきました。
そしたら、見計らったように、よしたにちょっとよむさまがお歳暮を担いでおいでになられました。

これは、ヒューマン・モーメントというものでございまして、私のいうところのデジタル・コミュニケーションと対をなす、ソーシャル・キャピタル形成の方法でございます。

さすがは、「よしたにちょっとよむ」でございます。

さて、岐阜からのお土産。

一昨日、CALS研修センターへお邪魔したときに、教えていただいた記事。
ガートナー・ジャパンのプレスリリース [2002/12/11]
「地方自治体職員のIT浸透度県別ランキングを発表」

これについては、メールもいただいておりましたので、私の意見は明日にでも書こうかと思います。

なので、とりあえず、この結果を眺めておいてくださいませ。

今日は、これから晩飯です。



【取り急ぎ】

岐阜は雨です。
これから美濃加茂市へ移動して、亀井さんと打ち合わせをします。
午後には帰路に着く予定です。
今朝はばたばたなので取り急ぎの更新でした。

夜にでもまたおいでくださいませ。


momo
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