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店主戯言0031202 2003/12/15〜2003/12/31 "There goes talkin' MOMO"


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2003/12/31 (水)  
【今年はこれでお終い】

今日で2003年はおしまい。
わたしは、平成という単位(ミーム)が、なぜか宿っていない人なので、今年が平成何年なのかは、とっさに出てこない。

家人に確認したところ、今年は平成15年とのことらしい。(笑)
今頃気づいてどうする。

昨晩は、29日に行けなかった東京ミネラリオを見て、東京駅地下街にある角やにて、豚しゃぶを食べてきた。

「角や」の豚しゃぶは、わたしのお気に入りのひとつで、そばだれに柚子胡椒で食べる。
ここのそばタレが、妙というか、わたし好みなのである。(はっきりいって、あとはどぉってことはない)

このタレの味が出せれば、自宅でも同じようなものが食べられるのだが、それがなかなか難しい、とは家人の弁である。


砂子さまからのメール。

こんばんわ、砂子です。
27日夜から熱でダウン、体力不足露呈。
今日の午前、お札を買いに神宮に、外は真冬日です。

1年を振り返り、多大にお世話になりました、心から感謝申し上げます。
1月の犬ぞり&セミナー&飲み会で、大きなきっかけが出来たように思います。

何名かが自主性を持って行動するようになり、いつの間にか桃知追っかけ組に変身してしまいました。

3月の大阪二人会で、@の左側で勝負できっかとハッパをかけられ、全国桃組精鋭の多くの人たちとも、触れさせていただき、脳を揺さぶられ、悩める?考える?ことの更なる繋がりになったようです。

HPもなかった会社が、機運も盛り上がり7月公開より、おかげさまで思いのほか見てもらっているようです。
今、すこしづつ緩やかに社内伝播しているのが、具体的に見えるようになってきました。

自分自身もたくさんの人との出会いを経験しながら、知恵や勇気や姿勢等々、昨年にも増して感じることができました。
それと今頃になっての話ですが依存リンク、すっげー嬉しかった出来事でした(いまごろしょうがないですね)。

他にもたくさん感謝、感謝がございますが、忘れちゃいけない空知桃組の皆さま、とくにまにあ1号さん、A木さんの叱咤激励ですね。

ということで、来年も焦らず地道に頑張ります、どうぞ宜しくお願いします。

それでは、良いお年をお迎えください。

追記  今日メロンを発送しました、明日つくそうです。
     北海道から静岡産と高知産、まぁ食されてください。

ありがとう、なのだ。(とっとこハム太郎の口調で)
そして、お大事に、なのだ。(〃)

そういえば、今年の初めには、砂子さんにはホムペがなくて、わたしにいやみをいわれていたわけだが(笑)、今や立派なものをお持ちなわけで、ホムペに限らず、その活躍の場は広がっている。

それは昨日書いたように、砂子組ミームが、情報的相互作用を繰り返しながら、形成してきた「今」のかたちなのだろう、と思う。

ミーム的には、この変化できる能力こそが強さ、つまり適応能力なのだ。


まにあ・1号さまより。

さて、今年も本当にお世話になりました。
今年は自分自身多少は「くさび」を意識した年でもあったのですが、結局は桃知さんをはじめとする周囲の方に、またしても勉強させていただく事ばかりの一年でした。

特に、法政一期生の皆さんのブレイクぶりには目を見張る物がありましたよね。八木沢さん、吉谷さん、そして向井田さん。この方々はいまや、桃知コミュニティの中心となってしまっている感もありますよね。

二年前に殆ど「実験的」に始められた「第一回法政講座」がある意味「目に見えるような形で萌芽してきている」証なのでしょうね。そして、来年はいとうさんや、井之上さん、そして、(直接の受講生ではないですが)砂子組の熊谷さんなどがブレイクされそうな予感があります。

来年は私自身もっと「ミーム力」を強めなくてはならない必要性を痛感しております。(本当に少しづつ準備はしているつもりですが・・・さて)来年も更なる「つながり」をうながす場を期待しております。

来年もどうぞ宜しくお願いします。

わたしの最近の興味といえば、やっぱり遺伝、統括的な情報の複製、という問題なわけだ。

わたしたちの行動は、生物的な特徴を複製するDNAに支配されているところが多い。
しかし、それは思うほど多くもない、というのも事実だろう、ということである。

つまり、それは「生まれか、育ちか」という問題であり、「遺伝なのか環境なのか」という問題でもある。


その(遺伝子の)アナロジーとしてのミームを用いることで、IT化、つまり、人と人との間の情報的相互作用を見る目(眼鏡のほうがよいか)を持つことができる、というのが桃論のベース、つまりわたしの考え方の基礎なわけだ。

それは、生まれながら個々人は違うものだ、という認識をわたしに与えている。

そして不幸にして生まれながらにしてハンデを背負ってしまったとき、それを不幸としないためにはどうしたらよいのだろうか、と考える視座も与えてくれる。

つまり、それは「生まれか、育ちか」という問題であり、「遺伝なのか環境なのか」という問題を考える、ということなのだが、今のわたしには、両方ある、としかいいようがないのも確かなのである。

遺伝を環境で補えることも可能であろうし、遺伝が環境に勝ってしまうときもあるのだろう。
このあたりの思考と実践ははまだまだはじまったばかりである。


そして、くりちゃんから。

ももちさんへ

今年の2月になるのでしょうか?
ももちどっとこむを「発見」したのは!
それからというもの、悩むことが増え、
ほんとによく笑い、よく泣き、よくしゃべったなぁ、と思います。

今年、というものがなければ、この先の「おもろい」ことには
なんか繋がっていかない、そんな気がする1年でした。
つまり、それだけ、思い入れのある1年を過ごせたと
自分なりに思います。

飛躍的に何かが進歩したとか、そんなんじゃなくて、
それは、言葉にはできんけれど、なんかそうなんです(笑)

カンタンではありますが、
ありがとうございますの気持ちを送っておきたくてメールしました。

ほな、股です☆☆

くり

袖触れ合うも多少の縁、インターネットはミーム・シナプスが織り成す、さまざまの出会いの場であることを、実感してくださった方々が多かったのも今年の特徴なのだと思う。

その縁をどう咀嚼するかは、己のキャパシティ次第なのだと思う。

問題は、このキャパシティを生成する要因とは、「生まれか、育ちか」、「遺伝なのか環境なのか」ということなのだが、わたしはミーム的(環境であり、育ちである)には、いつでも変化できる、と考えている人である。

そして、それは生まれや遺伝を補える。

確かに、わたしたちの行動の基礎には遺伝子的な制約がある。
性格さえも大半がその制約の中にある、というのが最近の研究結果のようである。

しかし、それだけでは短期的な環境変化に適応できるはずがない。
遺伝子が自己変革するには、それこそ一個の人間の寿命をはるかに超えた時間が必要である。(遺伝子操作をすれば別だが・・・)

ましてや、会社、企業というのは、ミームの結合体でしかない。
まさか、遺伝子の集合体だという会社はないだろう。

であれば、わたしたちは何を鍛え、磨くのか、ということである。

それが、ミームである。

ということで、これから、夜の格闘技番組三発録画のために、ビデオを一台調達にいってくる。
恒例の七味五悦三会は、除夜の鐘でも聞きながら書こうと思う。

なので、今日はここまで。

皆様、よいお年をお迎えください。

2003/12/30 (火)  
【ミーム売りのおやじ】

長谷川さまからのメール。

さて、今年もあと2日で終わってしまいます。
今年最後のメール?で私は先生には何回言ってもいい足りないほどの「ありがとう!」を言わなくてはいけませんね。
だから今日は「先生、ありがとう!×∞」無限です。
もう適切な感謝の言葉が見つけられないので・・・感謝∞です。

2003年は平和建設と私にとって、とっても素敵な年でしたよ。
新しい出会いにはいつでもときめきがありますよね。
桃知先生と出会って平和建設はまたひとつ弾けるきっかけを掴みました。

会社にインターネットという新しい文化が入ってきて、全社員が一緒に初めの一歩を踏み出し毎日ネットを共有体験している・・ほんと?夢みたい!とほっぺを叩くと・痛いから・ほんとなのですよね。(^^♪
来年はもっと断続的にミームの強化をはじめます、PCのリテラシィも全社員を対象に底上げをします。

先生には来年も引き続きよろしくご指導をお願い申し上げます。

では、先生ごきげんよう、お元気で明るい新年をお迎えくださいませ。
私のまわりでは風邪が猛威を振るっています、先生も気をつけてくださいね。

今年一年の感謝を込めて、ごきげんよう!!!

こちらこそ、ありがとう、なのだ。(とっとこハム太郎の口調で)

わたしの仕事は、ミーム売りである。(ミーム売りのおやじ)
最近のわたしの名刺からは肩書きが消えてしまっている。(己を自分自身で定義することの無意味さを考えている)

はっきりしていることはシステム屋ではない、ということだ。
つまり勝利の方程式?のようなものを売ってはいない。

だから「わからない」という方法を駆使しているだけなのだ。
それは己自身の人生においてである。


ミームは、人に宿る。サルには宿らない。
ミームは複製子であり、ミーム・プール(培地)の中で適応淘汰を繰り返す。

しかし適応淘汰といっても、それは個が原型のまま生き延びることを意味しない。
そこには相互作用が常に起きている。

相互作用を繰り返しながら、生き延びるものこそ変化を繰り返す。
これが「適応」である。

変化できる複製子こそが適応能力が高い複製子である。

だから問題は相互作用にある。変化とは相互作用の賜物でしかない。
しかし、その相互作用には、相性のいようなものがある、と感じている。

平和建設さんや砂子組さんなどは、わたしに宿るミームとの相互作用において、非常に相性のよい会社なのである。

それは持っているミームが同質だ、というのではない。
あくまでも相性がよいのである。

もしくは、そもそもこのような会社に宿るミームの中に、「感性のよさ」という特性が内在されている、と考えてもよいだろう。

そして、その「感性のよさ」という特性は、わたしとの相互作用を始める前に形成されていたものである。

故に、相性のよい会社さんにおける、わたしのミームは、なにかの「きっかけ」にしか過ぎないはずだ。
わたしのミームとの相互作用によって、なにかが目覚めるのであろう。

あとは、スパイラル的に自己展開を始める。
私自身もその相互作用の中で変化を繰り返す。

その変化とは、当然にわたしのミームだけとの相互作用を意味するものではない。

いったんインターネットという培地を手に入れたミームは、あたかも脳シナプスのように、インターネットの世界において、そして実社会においても、狭い自己を脱ぎ捨て、社内を越えて、広くて薄い紐帯を形成しながら結びつく。

だから、いったん変化を繰り返すことができるようになったミームは、ますますその適応能力を高めていくことになる。
つまり、ミーム的には生き延びるのである。


ミームの形成は脳におけるシナプス形成の結び付きのようなものだと感じている。
ミームが手に入れたインターネットという培地は、巨大な脳のように成長し機能していくのだろう。(今後ますますその傾向は強まるだろう)


だから当然に(脳シナプスのようなものであるが故に)、わたしのミームと相性の悪い会社もある。
わたしのとの相互作用に反応しないのである。

それは、このような会社に宿るミームの中には、「感性の鈍さ」という特性が内在されているからだと考えている。
わたしは、この“相性”の悪さも、ミームが脳シナプスのように、結び付きを行うものだからだ、と考えている。

つまり、その「感性の鈍さ」という特性もまた、わたしとの相互作用を始める前に形成されていたものである。

それは幼児期の脳形成におけるシナプスの結び付きからのアナロジーである。
だから「三つ子の魂」なのである。


しかし、「三つ子の魂」を覆すこともまた可能なのだと考えている。
それは、わたし自身が、わたし自身を実験台にして行っていることである。

己が変化を拒まない限り、ミームはそもそも変化を拒まないばかりか、むしろ変化を好むものである。
シナプス形成は手遅れかもしれないが、海馬は疲れないのである。

だからまずは、はじめることなのである。
そして、繰り返すことである。

必ずうまくいくのかどうかはわからない。
しかし、少なくともここ6年間でのわたし自身の変化は、海馬を鍛えることで、何かがうまくいくのかもしれない、という希望ぐらいにはなるだろう。

わたしのIT化論はそこに着目しているのである。


ということで、昨晩は久しぶりにMSの平野氏と「とり幸」で一献。
最近飲むとすぐ眠くなる。

海馬は疲れないが、肝臓は疲れる。

2003/12/29 (月) 
【X30 セットアップ中】

昨日は、一日中X30 のセットアップ三昧。(でもまだまだ終わらない)

午後からまにあ・1号さまが、お休みのところわざわざ浅草まで打ち合わせにおいでになられた。
まにあ・1号さまご苦労様でした。

その間、X23 は、Outlookのデータ移行のためのファイルを書き出していた。
そのデータ、確認したらなんと1.2GBもあって、LAN経由ではとても使う気にはなれず、せっかくだからOutlookのデータを整理し直し、ようやく500MB程度にして、データを移行してみた。

これはうまい具合にいって、ようやくメール受信ができるようになったのもつかの間、ケータイからOutlookのデータをWeb経由で閲覧するために使っていた、ケータイキャプチャルックというシェアウェアがなぜかインストールできない。

これは非常にまずいのよねぇ、ということで、なにか代替策を考えないといけない。


一方、ホームページビルダーもようやくインストール。
故に、今日の更新はX30 で行っている。

TPのキーボード配列は、10年もTPを使っていれば体が覚えてしまっているので、違和感はないのだが、X23 のキータッチに比べるとなにか“重さ”のようなものが足りない。

わたしは軽やかなタイピングといよりは、思いっきりキーをたたくタイピングをするのでたぶんそう感じるのだろが、これも所詮“慣れ”の問題であり、このキーボードに体が慣れるのにそう時間はかからないだろう。

余談だけれども、パソコン嫌いな方の多くは、日本語入力ができない。
結局はそれがパソコン嫌いの要因になってしまっているし、ITを利用した情報発信の根本的な壁になってしまっている。

キーを打って日本語を書く、という文化は、和文タイプを使っていた方以外には、つい最近お目にかかることになったものだけれども、タイピングによ日本語入力は、要は体で覚えるものであり(わたしはそれを自転車の運転や、鉄棒の逆上がりのようなものだといっている)、IT化の最初は、脳みそを駆使するというよりは、体が自然と動くようになることで対応できるでものである。

つまり訓練で克服できるものである。
それも健常者なら物凄く敷居の低い訓練でである。

それをわたしは、「体で覚えるIT化」といっているわけだ。


さて、ホームページビルダーをインストールして気付くのは、、わたしのホームページビルダーのVersionは2001、つまりVersion5のままなのだなぁ、ということ。

たぶん最新のVersionは8だと記憶しているので、かなり古いものを使い続けているわけなのだが、このテキストだらけのホームページを更新するだけなら、これでなんの不自由も感じない。これも消費不況の一因なのだろうか。(笑)


さて、暮れも押し詰まり、届くメールの数もめっきり減っている中、届いたメール。

(ざっくり)

先日(12月8日)の、「グレーテスト・ヒット・エトセトラ」では久々に講義を聞かせていただき、大変参考になりました。ありがとうございました。
懇親会でもお話ができたらと思っていたのですが、いつも尻込みしてしまっています。

と、今頃になってメールを書いている人もいないでしょうが、実は昨日の忘年会で、当社の○○氏などと話をしていて、イントラの話になったのですが、そしたら「桃知さんのホームページはいつも見ているよ。自分もホームページ http://toraimomo.moo.jp/ をUPしたんだけど、日記や掲示板もつけている。実はくりちゃん(お嬢2号ですね)ともお互いにリンクをはっているよ。」という話で、へえーへえーとびっくりしてしまいました。

さらにこの年末年始の休みに読むために5冊本を頼んだそうで、桃論をはじめ、紹介されていた本を数冊Amazonに頼んだそうです。自分も思わず嬉しくなってしまいメールした訳です。

○○氏はトライアスロンの選手ですが、くりちゃんも少しマラソンをやるらしく、そこで話があったとか。
ということで、早速報告させていただきました。

当社のグループウエアも間違いなく動いており、昨日の忘年会は地区別で参加者16名でしたがすべてイントラ(回覧板)に書き込んでの参加でした。

桃知師匠には、とても感謝をしています。ありがとうございます。来年もよろしく御願いします。

(ざっくり)

まいどぉ。(^O^)/
まあ、いろいろありますが、ぼちぼちいきましょう。

ということで、今日も一日中X30 のセットアップ三昧の予定。
午後からお客様がおいでになる。

夜は、東京駅までこいつを観にいってこうようかと思う。

2003/12/28 (日)  
【浅草にて】

今朝の浅草は抜けるような青空である。

昨日、浅草で目覚めれば、家々の屋根には白いものがのっかっていた。
それがなになのか、家人は直ぐには気が付かなかったようだが、未明に雪が降ったのだ。

路上の雪はすっかり溶けてしまっていたが、まだまだ木々の枝には雪がある状態だったので、雪見をかねて、浅草寺へお参り出かけ、家内安全、商売繁盛、世界人類の平和をお祈りし、いつもの喫茶店で朝食をとった。

浅草寺は早朝から相変わらずの人出なのだが、お線香の上げ方をみていると日本人ではない方々が多いことにすぐ気がつく。お線香を頭の上にかざす人々がやたらにおおいのである。長〜い線香文化圏の方々であろう。


新しいダイニングテーブルと椅子が我が家にやってきた。
リビングの風景がちょっと変わった。

新しい年への節目を迎えるにあたって、なにかをおろすのはよい習慣なのかもしれない。
新しい年へ向かってなにか気が引き締まるような感覚がある。


一方X30は、昨日の午後からセットアップを始めた。
何がなくとも最初にネットワークの設定ありきで、無線LANの設定から初めてみた。

内臓されているCisco製の無線LANアダプタは何の問題もなく機能しているようで、自宅のNEC製の親機WARPSTARとも無事つながった。

ついでにWARPSTARのファームウェアのバージョンアップを行う。
ただ、IBMのAccess Connection という無線LAN接続管理アプリケーションを使ったWARPSTARとのネゴシエーションができない。

どこか設定が間違っているのか、相性が悪いのか・・・。
まあ、これは後々のお楽しみにしておこう。

その後、Windows Updateを行うが、古いマシンだけあって、山ほどある。
これは最初から織り込み済みのことなので、気長にダウンロードと再起動を繰り返し、最後にNortonをインストールして昨日の分はおしまい。


その後「杉」へ行って今年の大福帳分のお支払いをし、そのまま今年最後(?)の忘年会へ突入。
子供が沢山、という忘年会なのだが、わたしはひたすら飲みモードで、焼酎主体に飲みまくり、脳みそは自律神経まで機能停止。自宅へ戻って、すぐに床につく。

目覚めれば、いつもの二日酔い(だが軽い。これもウコンのおかげか?)。
なぜか新しいダイニングテーブルの上には、半分ぐらいまで量が減っている焼酎の瓶がある。

だれかが自宅にきたのか?
よくわからん、日曜の朝。

今日もX30のセットアップをぼちぼちとやりながら過ごす。
午後からお客様がおいでになる予定。

2003/12/27 (土)  
【道具を替える】

昨日、1年9ヶ月ほど我が家のリビングに鎮座していたソファーを、八木沢さんに引き取っていただいた。
八木沢さん、薄井さん、ご苦労様でした。

ソファーを手放した理由は、最近のわたしはリビングで仕事をすることが多くなり、ソファーに座ってでは、なんともキーボードが使いにくく、結局は床に胡坐で過ごしていたわけで、ソファーの存在意義がなくなってしまったからだ。

といっても、わたしは滅多に自宅にはいないのだが・・・。
だからこそ家人と一緒にお茶などを飲みながら過ごす時間は大事なのであった、という理由もある。

そして、なんといっても狭いリビングがますます狭くなってしまっているのも事実なので、今回は思い切って低めのダイニングテーブルに模様替えをはかってみたわけだ。

そのダイニングテーブルは本日の午後に入る予定なので、今は、蕨の時代に使っていた「ちゃぶ台」を使ってこれを書いている。

ちゃぶ台はすばらしい、のかもしれない。
折りたたみ自由。場所とらず。日本人がその長い時代をすごした長屋生活の知恵の産物であろう。


愛用のThinkPad X23もだいぶガタがきてしまった。
デスプレイの左側の蝶番が馬鹿になって、ぐらぐらいっているのをはじめ、足ゴムはどこかへいってしまい、キーボードをたたくと斜めになった本体が、がたがたとゆれる。

そのせいか、ねじというねじがが緩んでしまったとしか思えないような状況になっているのである。
勿論、何度か締め直しはしたけれども、馬鹿さ加減は、物書きとしてのわたしにとってはほぼ限界に達してしまっている。

でも、このTPは約1年6ヶ月ほど使い続けてきたわけで(これはわたし的には異常に長い使用期間である)、その間、いつも一緒に出かけてはこき使われていることを考えれば、よくぞここまでもちこたえたものだ、と感心すべきなのだろう。さすがにTPではある。(こうしてわたしのTPへの信頼はますます高まっていく)

代替機は既に購入済みであり、この年末年始をかけて新しいマシンへの移行を行う予定である。

当然に、新しいマシンもやっぱり、TPである。
それも最近出たX40ではなく、X31でもなく、約1年前に発売された型落ちのX30である。

そのマシンを、今回わたしは、138,000円(税抜き)で購入した。初めての無線LAN内臓機である。(笑)
これが高いのか安いのかはわからないが、ここまで値落ちしていればそれはたいした問題ではなくなってしまっていた。

これにメモリを限界まで詰め込む。
このメモリもまた信頼のおける格安品である。

わたしは、愛用機に関しては、最新のマシンを購入することはまずない。
いつも1世代か2世代前のものを、その評価を良く調べてから購入している。

それがなぜかといえば、マシンを選ぶ最大のポイントは安定性、信頼性だからだ。
安定性のないマシンを持ち歩くことはできない。仕事にならない。だから結構まじめに選ぶ。


こうして、わたしの近辺も年末年始で少しは風景がかわる。
そして海馬は喜ぶのだろうか。

ということで、今晩は、「杉」にてご近所と忘年会。

2003/12/26 (金)  
【うつろである限り、、『さまざまな共通体験』であるべき事象さえ、自らとは関係のないものとなっていく】

昨晩は、関与先さんのサーバの再設定が必要、とのことで、久しぶりにDNSの設定をする(勿論、リモートである)。
DNSを設定するのは半年振りぐらいの仕事だろうか。

立ち上げるサーバーの数は以前よりもずっと多いのだが、ほとんどの関与先さんはホスティングをメインにしていることもあり、最近は自分でDNSを書くようなことはほとんどない。

岩手県から日帰りの夜、ということもあり、頭はボケているし、感じるのは、確実に腕が落ちた、ということ。

と嘆くよりも腕を磨け、か・・・。
やっていないとダメになる。確実に。(まあ、無事に動いてはいるが)


さて、昨日の早朝、上野駅まで乗ったタクシーの運転手は、たずねれば24日からの勤務とのこと。
24日の夜はお客さんは出ていましたか?、という私の問いに、彼は、全然ダメですよ、と答えた。

それから、ケーキを持った客は一人もいなかったこと、一昔前であれば、どこでも見られた、ケーキを山ほど積んで売っているケーキ屋はなかったこと、ましてや、とんがり帽子をかぶったサラリーマンなんか、既に絶滅種だね、というようなはなしをしてくれた。

そして彼はこう付け加えた。

いまどき、クリスマスだからって、ケーキってわけでもないでしょう。
ケーキなんざ、その気になればいつで食える。
そういう時代にクリスマスにケーキを食うことの意味なんざどこにあるんでしょうかねぇ。

彼がクリスチャンじゃないことは容易に想像できよう。
彼にとってのクリスマスとは、(たぶん)家族揃ってケーキを食べる日なのである。


かくいう我が家もケーキはなかった。
24日の夜は、気の置けない方々と清司で寿司をつまんでいた。

それも別に「ハレ」の日だから、というわけではなく、それはわたしにとってはごく当たり前な、日常的な浅草での夜でしかなかった。


子供の頃は、確かにクリスマスはクリスマスらしかったように思う。
それはなによりも、貧しい我が家でも、クリスマスにはケーキが食えた、という意味でである。

クリスマスプレゼントが枕元にあったためしは無かった家庭なので、子供の頃から、サンタクロースなんか信じちゃいない、ひねた精神の持ち主ではあったけれど、クリスマスは確かに特別な日であり、「ハレ」の日であり、心待ちにしていたことは確かだ。

わたしが子供だった頃、クリスマスは、『さまざまな共通体験』(サンスティーン、p.29-29)のひとつだった。

それは、我々の親の世代が目標、理想としていた、米国流のバタ臭い「中流」の生活への憧れ、そういうものへ、全ての国民が成りあがろうとする時代の「ハレ」の象徴だったように思う。

ケーキが食べられるという意味で。


昨年の12月24日にわたしはこう書いていた。

■ハレルヤ

ハレルヤ=神を褒め称えよ。(笑)

今の私は「ハレ」の日をあまり好みません。
なぜなら日常が「ハレ」続きのようなものだからだと感じています。

つまり、「ハレ」の感覚に麻痺しているような状態が日常にあるのに、それに「ハレ」を上塗りするような、(つくられた)「ハレ」を「うそ臭く」感じているのです。

私は、幸運にも、その気になれば毎日ケーキを食べることもできる日常を持っています。
ただ、こういう日常は、確実に「ハレ」の感覚を麻痺させてしまっているだけのようです。

ですから、今の私は、なんでもない普通の日を送ること=「ケ」の方が好きであり、待ち遠しく思う時もあります。

つまり、なんでもない普通の日を「ケ」というのですが、私には「ケ」、もしくは「ケ」にコミットしている時間こそが、「ハレ」だったりしてしまうのです。

今の私には、もういくつ寝るとお正月・・・なんていう、「ハレ」の日の待ち遠しさの歌は、少しもリアリティがないのです。

今からみると、とても精神的に安定している文章のように思える(笑)。
が、相変わらずひねくれてもいる。

それに相変わらず同じことを書いている自分に気がつく。

余談だが、お気づきの方もおられるように、わたしは時々わざと文体を変えている。
今の文体はまだ身体が覚えていないので、なんとも分裂症気味なのである。


でも、まあ、それはさておきだ、わたしたちは「今という時代」に(多かれ少なかれ)「ハレ」としてのクリスマスにリアリティをもてないことに気がついている。

先のタクシードライバーだってそのことに気がついている。


それは、たぶん、「うつろ」なせいなのだ、と思う。

事象にたいして自らの関係性の意味づけができていない。
自分自身の中で、これはなにを意味しているのか、がわかっていない。

うつろである限り、『さまざまな共通体験』であるべき事象さえ、自らとは関係のないものとなっていく。
そういうものではないのか。


わたしは、今年4月以降を、「実践モードの年」と位置づけていた。
それは、中小建設業のIT化に関して、かなりしかっかりとした仮説を持つことができていたからだ。

それは、以前にも書いたが、以下のようなものである。

マリアビリティが高い
↓↑
どんな職にでもすぐ転職できる(ありえないはなし)
→ある程度の融通性、適応能力がある
↓↑
キャパシティが大きい
↓↑
結果的には企業にとってもよい社員
↓↑
コア・コンピタンス


この仮説を前提として、ここにIT化、つまり、「反省」という行為を主体としたイントラネットの活用方法を、IT化のステップとして重ねあわせていく。つまり、IT化において、上記の仮説を達成できると考えたのである。

この仮説は、事業者団体によるIT化においても、個々の企業におけるIT化においても展開可能なものである。

それは、もともとは今という時代の公共建設政策(「公共工事という産業」)に対応するするように考えたものだからである。

地方政府がかかえる「公共工事という問題」は、緊縮する財政と雇用問題のトレード・オフの関係にある。
そこで問題となるのは、マリアビリティという問題なのである。

今年は、このわたしの仮説に、多くの方々から賛同を得られたことに感謝申し上げたい。
賛同してくれた方々は、「公共工事という問題」に対して、うつろではない方々だと理解している。

現在、岩手建協と岩手県においては、確実に実践モードに突入している(岩手県においては、少しではあるが、公共建設政策にかかわらせていただいた)。

今、岩手建協において行っている協会イントラネットの実地講習とは、「共通体験」を意味している。
それは、協会が協会として行うIT化(それは当然にわたしの仮説に基づく)について、そのはじまりを全会員に共通体験を通して理解してもらおうとする。

そしてそのリアリティを確実にするのは、政府、つまり岩手県が行う公共建設政策でしかない。
しかし、これは危機の演出であってはならない。政策とはインセンティブを生み出す環境である。

昨日書いたとおり、社会正義を重低音にした経営(信頼の回復)を可能にするものは、第一に経営環境なのである。

その環境は誰がつくるのか、といえば、政府でしかない。
それは、経営者の、そして働く方々のインセンティブをつくりだす。

だから、政府は市場だけに目を奪われてはならない。
市場原理の生み出すインセンティブは、社会全体の福祉をもたらすことはない。

短絡的に市場原理を賞賛されている方々は、「神の見えざる手」というイデオロギーをよく理解してはいないか、自らの利益しか考えられないさもしい方々なのだと思う。

このイデオロギーに支配された方々の政策は単純すぎる。
曰く、建設業の新分野進出云々なのであり、経営者は簡単に人員削減の必要性をいう。

それらは生産手段としての人間のマリアビリティを前提としているが、それはあまりにも楽観的である。
たしかに、マリアビリティは市場原理が成立する大きな要因ではある。

しかし、現実的に、人間の身体にはマリアビリティは完全には宿りきれない。
そして、スティグリッツ曰く、『見えざる手が見えにくい原因の一つは、これが最初から存在していないからである。』(p35)

政府(当然に地方政府も含む)が、この文脈にうつろである限り、『さまざまな共通体験』であるべき事象さえ、自らとは関係のないものとなっていくしかないのである。

そして、痛みは他人事となっていく。
今、現実に起きていることに対して、リアリティをもてないのでいる。

リアリティを感じ取ってもらうための、共通体験。
そのひとつに、わたしはIT化を位置づけている。

2003/12/25 (木)  
【スティグリッツは熱いひとだなと思う】

午前4時30分起床。

まずは、みるきいさまのメールから。
 ご無沙汰しております、岩手県のみるきいです。
 私も常々不思議に思っていましたが、24日はクリスマスイブ、つまりクリスマスの「前夜」なので正式に「メリークリスマス(クリスマスおめでとう)」というのはやはり25日なのではないでしょうか??

 日本ではどちらかというと前夜のはずの24日の方をメインととらえているようでちょっと変だなぁと思っています。本当のところどうなんでしょう??

(ざっくり)

  ところで空知の安全誘導ロボくんのお名前はきまったんでしょうかねぇ??
子供達に応募はさせましたが。

                        みるきい☆☆☆

ということで、空知建協イントラネットより無断引用。m(__)m

  最優秀賞   ソラン
  優秀賞(3点) ソラちゃん
           ダイチ
           くうけん そらたろう
発表についてはHP、新聞等でお知らせします。 だそうです。
いかがでしたでしょうか?わたしのところは優秀賞いただき?なのだ。(笑)


cover『人間が幸福になる経済とは何か』
ジョセフ・E・スティグリッツ (著)
鈴木 主税 (翻訳)
2003/11/25
徳間書店




2002年1月11日の戯言は、ジョセフ・E・スティグリッツの『スティグリッツ入門経済学第2版』,1999年4月15日,東洋経済新報社を紹介していた。この本は経済学の教科書の定番である。

わたしは一応経済学部の出ではあるけれど、学生の頃、なにを勉強していたのか自分でも覚えていないぐらい勉学には熱心ではなかったので、経済学の基礎は、独立してからこの教科書で学んだ。

いわば、わたしの経済学の基礎知識はスティグリッツ先生に教わったようなものである。

そのスティグリッツ先生の最新著書がでてますよ、と教えてくれたのは、まにあ・1号さまで、それがこの『人間が幸福になる経済とは何か』なのであった。

今回の名古屋からの帰りのお供はこれで、昨日の朝、名古屋駅の売店で購入した。

当然に、名古屋からの片道で読みきれるようなものではないが、ここ数年続けてきた乱読のおかげで、一通り目を通すぐらいのことはできるようにはなっているのだな。

『本書のテーマの一つは、個人のインセンティブ(動機、誘因)に対する反応である。企業や金融の世界で不正行為を働いた人間が、とりわけ腐敗した人間だとはかぎらない。前の時代に同じ地位に就いていた人間より腐敗しているともかぎらない。むしろ、彼らのインセンティブはそれぞれに異なっており、彼らの行為はそのインセンティブに触発されたものなのだ。』(p15)

つまり、インセンティブとは、自分の都合である。
「神の見えざる手」によれば、彼らのインセンティブはそれぞれに異なっており、彼らの行為はそのインセンティブに触発されたものなのだ。』でよいのである。しかし、それは必ずしも社会全体の幸福をもたらすものではない。

この視座は、カルフォルニアの電気通信バブルやエンロンの正会計問題に関して辛辣に本書に書かれているが(第4章から7章)、翻って「公共工事という産業」が抱える問題、特に談合という問題を考えると、その行為を生み出しているインセンティブとは何なのだろう、とわたしの思考は広がったりもする。

まあ、そこに山岸俊男がいたりするので、はなしは彼方へ飛んでいってしまう。なので、ここではやらない。(笑)

このような視座は、単純は市場原理主義者やレッセ・フェールを至上のものとする方々には当然にない。
彼らは自分の利益こそが重要なのである。だから問題はそこなのだ、とスティグリッツはいうのである。

スティグリッツは、ひとの痛みを感じることのできる経済学者である。
なので「第三の道」を模索するひとである。

スティグリッツの研究対象である情報の不完全性と非対称性とは、「神の見えざる手」が機能する条件(情報は完璧であるか、少なくとも経済のなかで進行しているどんなことにも影響されない。誰かがもっている情報はすべて他人ももっていること。競争が完璧であること。いかなるリスクに対しても保険をかけれること。)は存在しえないことの証明なのだ。スティグリッツはそれでノーベル賞をもらったひとである。

『見えざる手が見えにくい原因の一つは、これが最初から存在していないからである。』(p35)

今、この国の政治は、見えざる手のイデオロギーに席巻されている。
しかし、自分たちの利益を追求することだけで、社会の幸福が達成できることはない。

つまり、『彼らのインセンティブはそれぞれに異なっており、彼らの行為はそのインセンティブに触発されたものなのだ。』

市場は確かにわれわれの経済的な部分の繁栄をもたらしてくれてはいる。
しかし、その反面、取り返しのつかない失敗もしている。→市場の失敗

市場にのみ偏ることなく、されとて、ヒエラルキー的な解決方法に偏ることもない、そういうバランスの取れた視座こそが今という時代には必要であることは、わたし自身の考え方とも、なんら違和感はない。

それが社会正義を重低音にした経営を可能にするのだろう、と思う。→信頼の回復。

その環境は誰がつくるのか、といえば、政府である。
それは、この国の経営者の、そして働く方々のインセンティブをつくりだす。

だから、政府は市場だけに目を奪われてはならない。

政府がきちんと仕事をしなくてはならない部分は絶対に存在するのだ。
→たとえばできる限り雇用を壊さないでの産業構造転換の実現。(これは政府にしかできない)

そのようなスタンスを持たなければ、「公共工事という問題」、そして地方の疲弊の問題は閉塞しながらより大きな問題を生み出す。

それは、単純な市場原理主義者やレッセ・フェールを至上のものとする方々が行ってきた政策を見れば、明らかなことだろう。

それが、わたしのIT化論にある、重低音なのである。
なぜなら、IT化は経営そのものだからだ。


『財政赤字削減の神話によると、たとえばアルゼンチンや日本が景気後退と巨額の財政赤字をかかえている場合、その赤字を削減すれば景気が回復すると考えられている。だが、ほとんどのエコノミストが勧めるのは赤字の削減ではなく、必要ならば赤字をさらに増やしても財政の拡大をはかる政策なのである。』

『財政赤字削減の神話を信じれば、景気をいっそう悪化させることになる。それによって財政上の保守主義が強化されるからだ。長期的な経済成長のためには投資をすべきであり、特に新しいテクノロジーへの投資が必要だと私は確信している。』(p330-331)


ということで、今日は岩手建協水沢支部さまでイントラネット実地勉強会。
早朝、6時10分上野駅発の新幹線で出発、そのための午前4時30分起床なのだ。

がんばろう!
と自分に言い聞かせている25日の朝。(笑)

最後に、鱸さま(スーさん@Fe・1号さま)からのメールを転載して、でかけるのだ。(この「でかけるのだ」は、とっとこハム太郎の口調で読め!)

鱸です。 田舎のお祭りを見てください。
 =小生、昨年は、田舎に住む親父の体が弱ったので、息子を連れて
  裃<かみしも>を着て 「オヤジの代行運転」をしました。
 =頭安めに・・・・ (なるかなぁ)
   http://www.shokokai.com/murone/2chiiki/html/gaiyo16.htm

2003/12/24 (水)  
【名古屋にて】

メリー・クリスマスは今日でいいのだろうか、と一思案。

今年も晦日には七味五悦三会(しちみごえつさんえ)をやろうと思いますが、昨晩は必ず今年の七味に入るであろう、名古屋は宮鍵さんのかしわ味噌寿きをいただいた。

この、かしわ味噌寿きは、先月中部地方整備局にお邪魔した際に、三輪さまから教えていただいたもので、カルチャーショックに近いものをわたしに与えてくれていた。

かしわ味噌寿きは、つまりは味噌仕立ての鳥のすき焼き。
でもそこはやはり名古屋、味噌はしっかりと八丁味噌仕立てであって、それも砂糖がたっぷり入った超甘味噌なのである。



鍋に油を敷き、先に出汁をいれ、その後、この甘味噌(まるで餡子のように黒い)を入れて、完全に溶かすでもなく、沸騰させるわけでもなく、さっさと具を入れて炊き込む。

濃い味噌で炊くので、火の通りはすこぶる悪く、その上、味噌は溶けた溶岩のように沸騰し、あたりかまわず飛翔するという、地獄的様相をもったものであり、みためは、ごらんのようにかなりB級であり下品ではあるけれども、こういうものこそうまいのが世の常なのである。

最初から最後まで、割烹着姿のかなり年季の入られた仲居さんが世話をしてくれるので、具の足し方も出汁の足し方も心配することもなく、安心してくつろげるよい店なのであった。










その後、ぶらぶらと歩きながらホテルへ戻り、途中名古屋駅にて満艦電飾を楽しみ、つかの間の癒しの時間はあっという間に過ぎ去っていくのである。

今日は、朝早くの新幹線でさっさと帰京し、11時には三越劇場にいるはずなのですが、そこでなにを観るのかは、わたしもわからない、という有様。

そろそろ本格的な年末モード。
せわしない時期ですから、足元をしっかりとみながら歩きたいものなのでR。




2003/12/23 (火)  
【今日は休み】

朝一のはやての車中でこれを書いている。
まもなく午前8時になるところだ。

今日は一旦帰宅してまた名古屋へ向かう。
これは仕事ではないし、今日はただ休む日なのだ。

ただ移動することには意義がある。
なので、今日はここまでなのだけれども。

そうそう、昨日の戯言で修正箇所ひとつ。

本日の「店主戯言」。
東大の藤本先生は一切存じ上げませんが、「正岡正剛」さんが、もしかしたら「松岡正剛」さんじゃないのかと、馬鹿頭でお尋ねするしだいです。
↑これこそホン馬鹿ですね。

はい、その通り。正岡じゃなくて、松岡だよね。
ご指摘ありがとう。

2003/12/22 (月)  
【読めなければ書けない、書く人は読める】

一昨日の帰り、何年ぶりかで、雪道の高速道路を運転し(わたしはここのところ、立派なゴールド・ペーパードライバーである)、その後、寒風吹く茅野駅のホームで、10分遅れでやってくる「あずさ」を待っていたら、すっかり風邪気味になってしまい、葛根湯とハイアンプルのお世話になっている今日この頃である。

車を運転しようと思ったのは、海馬を喜ばそうとしたからで(こんなことをまともに考えるやつがいるのである)、まあ、海馬は喜んだようで、このところ、頭は機能停止していない。

暮れも押し詰まった本日は、午後から岩手建協さんにお邪魔し、事務局さまのイントラネット勉強会。
その後、青年部の忘年会に御呼ばれして、盛岡泊の予定である。23日に帰宅後名古屋へ向かう。


先週の水曜日にスーさん・Fe1号さまよりいただいていたメール。

御出張先で「重たいファイル付き」メールを開いていただくのは心苦しいので・・ 以下に掲載しました。

 ※ Skill on Reading/Writing (reading.pdf) 
 (桃注:リンクを張りたいのだが、たぶん法律に引っかかるのでやめる。)
 
 東大の妹尾さんが、東洋経済社の「経」という小雑誌に連続して書いているコラムです。
 =桃知さんなら・・ 読んでいるのでは??
  また妹尾さんも御存知なのでは?

 これまでにも、川喜田二郎さんや梅棹忠夫さんの「知的生産技術」に関して紹介をしているのですが、今回のタイトルは、まさに桃知さん用だと思って御紹介するものです。

 話しは変わりますが、業務の関係??で、ここ1ヶ月の間で下記各位の講話をお聞きしました。 消化不良が続いてます。

 東大 藤本教授 =生産論? トヨタが自己改善する様子
 養老先生 = 社会資本形成と脳
 野中郁二郎先生= (KM)SECi/「場」の組織論
 御手洗社長@キャノン= 御自身の経験と組織経営

 でわ・・・

ご紹介いただいたコラムは全く読んではいなくて、大変興味深く拝見させていただいた。
今回のタイトルとは、『読めなければ書けない、書く人は読める 〜読書術という名の方法論、知識論〜』

内容は、加藤隆氏、立花隆氏、松岡正剛氏という、猛烈な読書家を例題とした「読書術」についてなのだが、「読書術」っていうのは、確かにあるのだろうと思う。

わたしが本を読むようになったきっかけは(勿論その量は、先述の三人の大家には及びもつかないが)、このサイトの開設にある。

最初は「読書」は苦痛と同義であった。
無理してたいしたことを書こうとしていた。それも苦痛と同義であった。

己のキャパ以上のことを己に課すことは苦痛でしかない。(しかし、そうしないことには、なにも生まれないのも確かではある)

無理してたいしたことを書こうとすると、己の浅はかな蓄積だけでは足りず、解釈できない(つまり己が消化できていない)たいそうなはなしを借り物のことばで書こうとしてしまう。

それがまら苦痛の読書を誘ったのだ。

それでも、このサイトになにか書こうとしては、苦痛の読書を続けていたのだ。
この続けるという原動力がなんであったのかは、まだ自分自身でもわかってはいない。(本当はこの原動力こそが大切なのだろうが)

しかし、その苦痛の読書を続けることで幸いしたのは、己の阿保さ加減、馬鹿さ加減、知識の無さ、常識の無さに気が付いた、ということである。

たぶん、これが読書を続けた原動力の一つであることは確かだ。
とすれば、これは、なにか変わらなくては、というあせりだろうか。

相変わらず、読書は苦痛同義でしかなかったけれども、己が馬鹿だと認識できた時点で、その苦痛の持っている意味が違ってきてきたように思う。

そして、確かに、「読めなければ書けない」ことが自分でわかったのだ。
そして、読んで書いているうちに、(以前のわたしに比べれば)「書く人は読める」ようになるのである。

たしかにそうなった、と思う。

そしてそれは、既に苦痛ではなくなっていた。

なにかスパイラル的に変化していく己を自分で感じることができるようになった。
5年前のわたしと今のわたしでは、何かが大きく違っているのはたしかなのだ。

その一番の違いとは、無理して生きていないことだろうと思う。
身体は無理しなくてはいけないほど忙しいけれども、心を亡くすようなことはない。

わたしの考えることの輪郭(仮説)がある程度ではあるがはっきりと感じられることで、わたしの思考と実践は分離しなくて済んでいる。

この思考と実践の分離のなさが、無理して生きていないことだろうと思う。
わたしの実践は、わたしの思考を裏切ることはなく、そして、思考は、わたしの実践を助けるためにある。

これはサラリーマンの時代にはなかった感覚なのである。
この変化を、わたしはインターネットからいただいた最大の恩恵だと感じている。

2003/12/21 (日)  
【ひさしぶりのこんどく】

ひさしぶりの「こんどく」である。
「こんどく」が少ないからといって、本を読んでいないわけではない。

今回ご紹介する『インターネットは民主主義の敵か』という本は、先日、盛岡駅のお土産売り場に併設されてりる本売り場(書店ではない)で購入した。

この本、何気に購入したというより、本棚の中で、こいつだけ異質の光を発していたのだ。
わたしを呼ぶように。(昔、名古屋駅新幹線ホームのキヨスクで購入したアルマティア・センを思い出した)

だからなのかどうした、というわけではないが、「あたり」本なのである。

こういう「あたり」とのめぐりあいがあるから、本売り場(書店とは限らない)通いはやめられない。


cover 『インターネットは民主主義の敵か』
キャス・サンスティーン (著), Cass Sunstein (原著)
石川 幸憲 (翻訳)
毎日新聞社
2003年11月30日

インターネットがなにものなのか?という疑問は、こうしてインターネットの隅っこで生きているわたしのようなものでさえ(というか、隅っこで生きているから、というべきか)「わからない」ことがまだまだ多い。

それはインターネットが商業ベースにのって、たかだか10年程度のもの、という歴史のなさ、未熟なもののせいだろうが、このキャス・サンスティーンっていう人は、憲法学者ということもあり、法律家がインターネットを見るとこうなるのか、という、わたしの知らない視点からの刺激が、がんがんとわたしに打ち寄せてくる。(同じものを違う視点から見ることは意外と難しい。)

今回一通り読んでみても、かなり示唆に富む内容であることは十分に感じることができる。
特に記憶に残ったところは、次の箇所であった。

『表現の自由の制度が機能するためには、とくに二つの必要条件がある。』

『第一に、自分が最初から意欲的に選ばなかったものにも接触することが大事ということだ。予期せぬ思いがけない出会いは、民主主義それ自体の中核である。』

『第二に、市民はさまざまな共通体験をもつべきだということだ』(サンスティーン、p.29-29)

もちろん、これはインターネットの技術的な部分を云々いうものではなく、その精神部分を根底から支える、自由言論に関しての深い考察の始まりである。

その法的な根拠に関しては、まだまだわたしのキャパシティが追いつかず読みきれない部分が多いのも確かなのだが、「予期せぬ思いがけない出会いは、民主主義それ自体の中核である」というフレーズは心に響く。

考えてみれば、わたしの主張するインターネットの醍醐味とは、「予期せぬ出会い」なのだ。

サンスティーンはフィルタリング(デイリー・ミー)を否定するのだが、それも当然であり、それをわたしのことばで言えば、それは「情報はただ流れている。問題はそれが見えるか見えないかだけである。」なのであり、情報を最初から絞り込む、というフィルタリングの概念への疑問を意味している。

私はフィルタリングに関しては、何の意味もないし、むしろ弊害の方が多いと考えている。
そもそも自由言論を制限している政治体制をもつ国を考えてみればよい。

そこには、アルマティア・センのことばを借りるまでもなく、人々のリベラリズムの価値観に基づいた幸福はない。

この、フィルタリングに関しては、何の意味もないし、むしろ弊害の方が多い、というのは、それは社内においてさえもそうである。

だから、フリーハンドで書くのだ。
それは己が書くことだけを意味しない。様様な意見が存在すること認めることを意味している。

賛成意見も、反対意見も、己の視線の中に入ってこなくてはならない。
それが「民主主義それ自体の中核」なのであり、民主主義という社会体制の中に存在する企業のもつべき最初の基本姿勢なのだ。

『同じ考え方の人たち同士の議論は、過剰な自信、過激主義、他者の蔑視、そしてときには暴力さえ起こすリスクがある。』(サンスティーン、p33)

このことばは、わたし自身も含め、言論を用いるものの自戒としてこころにとどめて置く必要がある。
それは、リアルな世界であろうが、インターネットの世界であろうが、変わることのない心理であろう。

そして、インターネットでは、発信されない情報とは出会いようがない、というのもまた真なのである。
そして、リアルな世界でも、発信されない情報とは出会いようがない、というのもまた真なのである。

ということで、『第二に、市民はさまざまな共通体験をもつべきだということだ』については、また後で。

2003/12/20 (土)  
【手抜きな更新】

ワインとドンペリが効きまくり、二日酔いで頭の痛い飯田の朝、これから茅野駅まで自分で運転するのか、と思うと、雪も降っていることもあり、ちょっとつらいなぁ。

(ざっくり)

それから、くりごはんも、アクセス数が10000となりました。
自分のホームページですが、他人事のような感じです。
ほんとは、すごいうれしいのと、これからどうすんだ、という気持ちです。

くりごはんを見てくれている友人が
私が2日程、更新しなかったときに
「うぁ、更新してへんっ」と、妙に寂しかったらしいです。

「毎日なにか書いてる」ことは、
すっごいことなんやなぁ、と思いました。

はっきり言って「ためになる」ようなことなんて、
書いてないし、タイトル通り、きままなことだらけです。

でも、作ってよかったなぁ、と思います。
ちょっとシンドイときもあったりしたけど、作ってよかったなぁと思います。

ももちさんには、いろんな影響を受けてます。

もともとは、「IT」てどうなん!?からでしたが、
今となっては、なんか、人間てなんだ?みたいな・・(笑)わははは。

おもしろいですね。

少し早いですが、来年も
あっちこっちと、桃毒撒き散らしてくださいませ!!
当然にお体は大切に、でございます・・・・(^_^)/

ほな、股です☆


砂子組 熊谷です。

2004年新春講演会&新年会、71名ですか。(すっげー!! 80名は超えますね。)
私にとって、熱き桃組みの方々との新年の出会いは、最高の幕開けになりそうです。

今月に入り、強烈な忙しさとゴタゴタ続きで、かなりテンパッテいる熊谷ですが、本日の店主戯言を見て、前頭葉が刺激され、とたんに元気Powerが漲ってきました。

しかし、「ことば」の持つ力というのは大きなものですね。
ほんの一言(文字)で、行き詰まりかけていた自分が、勇気づけられたり、前に進むキッカケを掴むこともできる。

今という時代に感謝し、インターネットというデジタルコミュニケーションの持つ、薄くて広い紐帯の不思議な信頼関係と、見知らぬ誰かと繋がっているのだなぁ。と、感じれるようになりました。しかし、それは旅に出てF2Fでお会いし、直接刺激をもらい、感じれるようになったのだと思います。(感謝)

平和建設の長谷川さまは、なんとも魅力的な方でございますね。
「社員には平等に勉強のキッカケを、楽しくたくさん与えたい。」
「自分が望んで東京でも大阪でも行くようになれば、うれしい限りです・・・。」
「これらのキッカケを社員に作りたい。」

すっばらしいでございます。
このような思想の経営者の下では、社員は弾けるでしょうね。
当社のトップにどことなく似ているような・・・・・(やばっ!)

平和建設さんの、今日のお茶の時間ってなんだろう?
もしや、これがうわさの、手作りクッキーなどによる、
社員とのコミュニケーションタイムなのだろうか?
(ん〜〜。 なんだ? なんだ? なんだ?)

お会いしたくなる。不思議な魅力を感じますね。
桃先生同様、私も犯罪行為以外はなんでもやります。てな感じです。「はい」
ということで、私も長谷川さまにあやかり。
では、桃先生ごきげんよう。

では、みなさん、ごきげんよう。

2003/12/19 (金)  
【?→!】

今日は、長野県へいってくる。
飯田で気の置けない方々と一献やらかす予定である。

まにあ2号@会社%すこぶる忙しいです。

>新年会のお申込みは、今現在で71名様もいただいている。
>わたしには、余裕があるのかどうかはわからない、となんとも無責任なことしか書けないのだ>が(なにせ会場係はまにあ・2号さまなのだ)、たぶん80名までは座れる、とは聞いていたような・・

とございましたが、円卓で88名さまOKです。
立席を併用いたしますと、120名さまOKです。
当日の宿泊も予約OKです。

現在71名さまとなり、予想に反しない集まりでございますから、設営担当者としても非常にやる気満々でございす。

ということで、まにあ2号さまはやる気満々らしい。
たのもしいじゃないかい。ねぇ。

2004年新春講演会&新年会、今のところ段取りばっちり。


桃知先生、長谷川です。

(ざっくり)

今年は先生には大変にお世話様になりました、心から大感謝を申し上げます。
桃知先生との出会いは平和建設にとってはまさにインターネット文化との出会いでした。

私達はこれからも先生との係わりを細く長く大切にしていきたいと考えています。
どうか、今後とも平和建設を厳しくもよろしくご指導下さいます様にお願いいたします。

来年は、桃知先生には平和建設の社員を対象に「懇親会付きセミナー?勉強会?」を是非とも何回かお願いしたいと思っています。

うちがIT化を進めていくために必要なことは、まず社員と私が先生のお話をしっかり何回も聞くこと、そして様々な桃知マインドに触れることだと思っているのです。

そして私は、社員には勉強のきっかけを平等に楽しくたくさん与えたいと思うのです。
先生の講演会は店主戯言を読んでも、全国のみなさまが絶賛していますよね。

私もほんとにそうだと思っています、私はうちのセミナーでしか先生のお話は聴いていないけれども、今は店主戯言を読んでも講演を聴いているような感覚で、先生のかすれた声(そのときは喉の調子が悪かったので。)が聞こえてくるので楽しいのですが、やはり講演会に行きたいと思っているのです。

もちろん、うちのセミナー(まだ赤ちゃんミームの平和建設)と各所の先生の講演会(全国から熱い桃組の方が集まっている成熟ミーム)では、会場のミームと聴衆のキャパが大違いですから、話しにもならないのは承知ですが、今、全社員を連れて他の場所に行くことは出来ないので、まず先生に当社に来ていただいて、私達も三度や四度は、いや、より多く先生の講演会を体験したいと考えたのです。

その後は、本人に興味があれば、自分が望んで東京でも大阪でも行くようになればいいので、それは私としてはうれしい限りですから、そのきっかけを作りたいと思っているのです。

(ざっくり)

ところで、最近いろいろ驚くことがあるのです、うちの何人かは先生の依存リンクまで毎日巡回しているらしいのです。

今日、お茶の時間に、安田が桃知先生のリンクでいとうさん?伊藤さん?ですか?その方の会社では全面禁煙でタバコは外で吸っているとかなんとかって話していました。

くりちゃんやとどさん(私は誰のことだか?確か日光で川上さんに聞いたと思うのだけれども?今、とどさんのHPは私のお気に入りにない!どこ?って。笑)とか先生の桃組の方を愛称で親しそうに呼んでいるのにはもうびっくりしてしまいました。

なかでも砂子組さんの熊谷部長のことはよく話題に上がって、「熊谷部長は〜〜なになに〜〜魅力的〜。」って会話しているのですから、私はえっ?うちの部長?かと、思ってしましましたよ。

くりちゃんは建築技師?ですか、そんなふうに人物像までかなり詳しく知っているのですから、思わず目が点で驚いてしまいました。

竜ヶ崎営業所の女子はとどさんのHPの中国の工事写真について少し感想を書いていました。
こんなことは1ヶ月前にはなかったことですから、凄い勢いでインターネットなのです。

五十嵐は楽しいHPを紹介したり、安田は言葉を説明したり、山田(試験室)も合材を紹介したり、プラントからも、自分の板をたてて発信するようにもなりました。

インターネットが会社に入ってきて、先生のHPから巡回してそこで見たことをサイボウズに書き込んだり、お茶の時間に話題にしたりして楽しそうにやっています。

私も社員が紹介してくれたHPで精神年齢をテストしたり、毎日、社員の書き込みにも可笑しく楽しいので、つい笑ってしまい、ひとときのリラックスをしています。

以上、サイボウズ導入から6ヶ月経った当社のIT化進捗状況の報告でした。

今日は平和建設の58回目の創業記念日です、今年も仕事はあと一週間です。
振り返ると辛くも過ぎてしまえば良い年でした、来年はさらに良い年にしたいと思います。
先生には年末のお忙しい日々をお元気で過ごされますように、ご祈念申しあげます。

いつもこの頃は長々とメールを差し上げてしまってほんとに申し訳ございません。
ところで最後に変な質問ですが、メールでながながはどうなのでしょうか?
先生は全国万人からメールを受け取っていらっしゃるので、読むのも大変ですよね?
うちでも誰かが書き込みやメールはスクロールをしないで読める長さがベストだと思うとの発言がありました。

私は思いを言葉にすると、いつも次から次と伝えたいことが溢れてきてキーボードも間に合いません。
私はもっとシンプルな文章を好むのでメールも短く簡潔にしたいと思うのですが、言葉をそのままタイプする電子メールではこんな長々と書いてしまっていったいなんなのだろうかと思うのです。

メールは電話や手紙とも違ってリアルに表現しようとすると話し言葉と書き言葉も混合して使ってしまうし、メール相手との距離の感覚(会社でもそうなのですが)が薄くなるようでいろいろなことを間違ってしまうのです。

デジタルで思いを伝えることってとても不思議な感覚なのだと、この頃、まだうまく表現できない不思議?なんだろう?を実感してきました。

オープンでカジュアル?でもない?でも手紙と何かが違いますよね?とにかく新しい文化だということは判るのですが。
私は打ったらちょっと見てすぐに送信してしまうので、これも今、気が付いたのですがメールも実は残るのですよね、乱筆乱文ならぬ失礼やミスタイプがあったらどうかお許し下さいませ。

では、桃知先生に感謝を一杯こめて・・・あっ、一瞬手が止まってしまいました・・・が・・・やっぱり・・・ごきげんよう。

わたしは、長谷川さんには脱帽なのだ。

このメールに返事の書きようがあるかい。
あなたのためなら、犯罪行為以外はなんでもやります、としか答えようがないじゃないかい。

2003/12/18 (木)  
【職業訓練しないセンター】

昨日は、岩手建協一関支部で勉強会。
会場は職業訓練センターのパソコン教室をお借りした。所管は厚生労働省だろうか。

そこのパソコン教室には、パソコンは一室あたり20台はある。
そして、パソコン教室は2室あるのでPCの台数は十分にある。
勿論インターネットにもつながってはいる。

しかしだ、致命的な欠点がある。
それは回線スピードがめちゃくちゃ遅〜い、ってことだ。

たぶん、ISDN64K 1本を、施設全体でシェアリングしているはずで、それはそれは細いし、しっかりと遅い。
この回線でどんな職業訓練をするっていうんだろう。>厚生労働省。

教官用のPCのところには、ワードとエクセルの教則本が多数あったし、PCには、ワードとエクセルぐらいしか入っていないので、おおよその学習内容が何なのかは理解できるが、そんなので再就職できるのだろうか?

ワードとエクセルで就職できるわけではない。(必要ないとはいってはいないし、使えたことに越したことはないだろうが)
ましてや自立、起業にはまったく関係しない。

厚生労働省のお役人さまには、再就職、起業に必要なオーバー・キャパシティ化に、インターネットの精神文化がどんなに有効なのか、なんて考えもつかないのだろう。

インターネットの精神文化とか、広くて薄い紐帯、とか、わたしが人の自立に必要なものだという、そんなことばをならべても、この回線スピードの前では、インターネットそのものが否定されているような、ないがしろにされているような、いやな思いをさせられた。

IT化・・・。失業されている方々にこそ必要な概念なのに。
遠いなぁ。

責任者でてこ〜い、といったところで、ドナドナのおじさんに出てこられても怖いだけだろうが。
ということで、思い出してしまった。この「ドナドナのおじさん」とは、2年前は博多のあんみつ姫でのネタなのだ。

狂牛病が話題になっていた頃の時事ものなのだが、彼に扮したオカマさまがホルスタインのぬいぐるみを引っ張ってでてくる。
BGMはドナドナ。爆笑させられた記憶があるが、内容は全く覚えていない。


というわけで、昨日はストレスも溜まっていたので、しっかりと飲んで食べた。
お気に入りのお店で、レバ刺、タン刺、ハツ刺。生ものシリーズを野獣のように食べながら、これまたお気に入りの銀河高原ビールを沢山飲んだ。

その後、郡上の高橋さまお気に入りのお店にもいった。(笑)
向井田さま、下河原さま、毎回毎回すいません。m(__)m

おかげさまで今朝はすこぶる元気であります。
が、今朝スーツの上着にタバコで開けた穴をひとつ見つけて少し落ち込む。


さて、もう10日も前のことだけれども、12・8東京独演会の感想メールが届いていた。
8日のサイボウズでのご講演を拝聴させていただきました経○調○会の佐○と申します。(桃注:ぜんぜん伏字になっていない。m(__)m)

初めてのライブでしたが、私にとって大変得るものの多いご講演であったことを、まずはご報告申し上げます。

手段の自己目的化を明確に否定し、人間同士のコミュニケーションの本質に立ちかえるという部分は、建設業の範疇に留まることなく、人間としてのあらゆる経済的・文化的活動の指針となるものと感じました。「共感と関与」「安心でなく信頼」。大切な言葉として胸に留めておきます。

仕事を離れると、私も一人のウェブマスターとして数多くの仲間と楽しんでおります。
車のサイトなのですが、やはり実物を見せ合いたいですから、アナログな関係も濃いサイトです。私もよく出張っていきます。ここで得られた人間関係は、私の中では大きな財産となっていますね。

齢三十を過ぎて、利害関係の全くない友達関係を新たに創りあげる、というのが億劫というか苦痛というか、難しくなってきていましたが、デジタルの力を借りてそういったネガティブさを乗り越えられていますから、その点ではIT技術との「いい関係」を実践しているのかな、と話を伺ってそう思いました。この世界でも、「共感と関与」「安心でなく信頼」を実践していきたいと考えています。

アルコールマニアの私としては、聴講後も参加させていただきたかったのですが、涙を呑んで業務の待ち受ける職場へ戻りました。
また機会がありましたら、その際は列席をお許しいただきたく存じます。

どうもありがとうございました。

ということで、近々の東京でのF2Fは、2004年新春講演会&新年会であるから、時間があれあ是非においでください、なのだ。

新年会のお申込みは、今現在で71名様もいただいている。
わたしには、余裕があるのかどうかはわからない、となんとも無責任なことしか書けないのだが(なにせ会場係はまにあ・2号さまなのだ)、たぶん80名までは座れる、とは聞いていたような・・・。

また、東京であれば、来年も法政大学エクステンションカレッジにて講座を持つ予定なので、これも、毎回酒飲みが特典として付いてくる、F2Fフリークにはたまらない6回シリーズなので、期待しておいて欲しい。(期待した人よりもひいた人のほうが多いはずだが・・・)

山と山とは会えないけれど、人と人とはまた会える、なのだ。

ということで、本日は盛岡にて勉強会。

2003/12/17 (水)  
【守るべき文化的素養が欠けているわたしにでも届くことばはある】

午前4時30分起床。

東北建設の熊谷さまからのクリスマスプレゼント(↓)

ミニ・モモのクリスマスバージョンである。
すんばぁらぁしぃ〜!
まだ現物は届いてはいないが、今までの熊谷さんの作品を見れば、写真だけでもそのできのよさは十分に感じられるではないか。

これは誰にもあげない。
うちの家宝にする。


お疲れさまです。 大盛です。 生きてます。

先日から,妙に気になり,ずっと考えている F2F について・・・
そろそろ答えを出して,桃知さんに聞いて貰おうかと考えていた矢先に,今日の「店主戯言」を読んで・・・・。

>でも、たしかに、世の中、己の理解の範疇を超えた人々というのは多いのだ。
>電車の中で平気でものを食べている人や、化粧している人、床にぺたりと座り込んでいる人などは典型である。>しかも、これは圧倒的に女性が多いのはなぜだろう。

この中で,「電車の中で平気で・・・・」ですが,自分としてはその中で二種類に分けられると考えています。
 @ 一日の時間を有効に使っている人
 A 全く何も考えていない,けじめのない人

 @について
自分が通勤で使っている電車ですが,市街地へ向かう路線のため,さほど混み合うこともなく,全員が着席できる程度の乗車人数です。

自分は座席が空いていても立つようにしているのですが,周りを見渡すと,新聞を読んでおられる方,寝ている方,ペンを持って勉強されている方,ひたすら考え込んでいる方など様々です。中に,外国人の方がおられるのですが,その方は電車に乗り込んで座るや否や,朝食(サンドイッチ)を頬張ります。そのあと,ネクタイを締め,身なりを今一度整えます。降りる駅まであと20分程度になると新聞を読み,メモを取ったりしています。

殆ど毎日がそのペースです。 学生さん(たぶん大学生だと思う)は毎日,分厚いノートとにらめっこして勉強されています。

そこで考えたのですが,電車の中で朝の支度をする(外国人のように)。勉強をする。人様々ですが,電車に揺られている間にできることは電車でやっている,言い換えれば時間を有効利用しているんですよね。 

確かに電車の中で,朝飯食ってるのは考え物かも知れませんが,全く食べないというより遙かにいいと思います。
ただし,常識の範囲ですが・・・。

Aについては論外です。 語り出したら止まらないのでやめておきます。

「電車の中で平気で・・・・」について集中的に書きますが,第三者から見ると電車内の外国人は物を食っているのに変わりはありません。 それが @の 時間の有効利用 か, Aの どアホか・・・  ここに常識・非常識の何か大切な分かれ目があるような気がします。

そうそう!同じ電車でも,新幹線の中では飯も食うし,酒も飲むし・・・。
結局,「その場の周辺を見てものごと(常識・非常識)を判断する」というのが結論なのでしょうか。

自分では,このようなものは言わずとしてもできるものと思いこんでいたのですが,なかなかそうでもなさそうです。そらそうでしょうがね・・・

で,ここから先が 冒頭の挨拶に書いた  F2F  について,引っかかっている話になるのです。今回はやめておきますが,ネタ振りだけでも。。。 「常識のない人,人の気持ちが分からない人との F2F はキツイです。」

通勤に1時間40分もかかると,色々なこと,考えます (^^;
絶対にもったいないって毎日考えているお陰で,本を読む量が増えちゃいました。

マナーでいえば、(通勤)電車の中でものを食うのは@もAもぺけである。
それは、新幹線でものを食うのとは明らかに違う。

なにが違うのだろうか。

新幹線に乗る、とは基本的に旅である。
それが出張だろうが観光だろうが、基本は旅なのである。

旅の車窓から移り行く景色を眺めながら食べる崎陽軒のシュウマイ弁当は格別である。
しかし、通勤時間帯の山手線の車内で、崎陽軒のシュウマイ弁当を食べてもおいしくはないだろう。

確かに新幹線で通勤される方々もおられるが、そのような方々が、新幹線で朝食をとっている光景は見かけたことがない。せいぜい缶コーヒー一本である。

この違いとは、文化として認められたものであるか否かの違いだと思う。

文化には効率性も合理性もない。
効率的とか合理性とかいうものを優先する文化はない。

基本的に、文化とは見苦しくない、見ていて不快感がない、なにか心地よい、というような、効率とか合理性とかとはかけ離れた心情的判断基準で成り立つものである。

たとえば、若い娘さんがふすまを開けるとき、立ったまま足でがらっとやる行為は、いちいち両膝をついて両手を使って開けるなどというより、よほど効率的で合理的であろう。

しかし、わが国では、そのような仕草を、行儀が悪い、という。
常識がないという。マナーが悪いという。

つまり、電車で朝飯を食う外国人は、そのような合理的な文化をお持ちの国の方なのであろう。
文化は違う文化を持つ方々には理解しにくいものである。

しかし、それをなぜに時間の有効活用と思うのか。

これは文明のなせる業である。
文明はわかりやすさがないと広まらない。

今、世界中を席巻しているのは、米国産の文明であろう。→ソフト・パワー。
自動車文明、飛行機文明、インターネット文明、効率性と合理性の文明、などなど。

文化と文明は紙の表裏の関係である。
ゆえに、変わらないとする文化と、新たな規範としての文明との間に相互作用が起こる。

文明は効率性と合理性を内在する。(そうでなければ万民に広がることはないし、文明にもなれない)

効率性と合理性を内在しない文化と効率性と合理性を内在する文明の相互作用。
そこにさまざまな変なもの、つまり、理解の範疇を超えたものが生まれる土壌があるのだ、と私は感じている。

文明は環境を変化させる要因であり、文化は環境変化への知恵ではある。

しかし、守るべき文化はあってしかるべきだと思う。
それがわたしをして、わたしに根っ子を感じさせているものである。

とはいうものの、インターネット文明は、朝飯を食べながらわたしにパソコンを使わせていたりもしている。
つまりわたしとて行儀が悪いやからの一人に過ぎないし、インターネット文明を自分の都合のいいように解釈しているやからに過ぎない。

この自己都合とは、いつも書いているように、わたしの生まれ育ちの悪さゆえのものである。

子供の頃から、いつもTVを見ながら朝飯と晩飯を食べていたわたしには、その部分に関して、守るべき文化的素養が欠けているのである。

「常識のない人,人の気持ちが分からない人」とは、つまりは、ある部分に関して、ある人にとっての、守るべき文化的素養が欠けている人なのだと思う。文化は、違う文化を持つ方々には、理解しにくいものなのである。

そういう方が、己の利害関係者として存在すると、それは悩ましい。
しかし、そんなときのわたしの対応方法は意外と簡単なのである。

近づかない。
理解してもらわなくともかまわない。

わたしのやっているIT化の根本は、己自身を育もうとするものである。

わたしは、IT化を通じて、己の無意識の愚かさを思い知らされ、IT化を通じて、少しでもその愚かさから脱皮が図れるのではないかと、もがき続けているだけなのだ。

であれば、結論は意外と簡単で、己の手入れをすればよい。
他人(ひと)の変化を待つのではなく、まずは己が変化するのである。

そのためには、まずは、ことばありきなのである。
われわれはことばで考える。しかし、そのことばの質のようなものが問題なのではないか。

であれば、己自身のことばを磨けばよい。
それは無意識の部分である。

磨かれたことばは、守るべき文化的素養が欠けている人にでも、いつかは届くものだ、とわたしは信じる。

現に、守るべき文化的素養が欠けているわたしにさえ、ことばは届いてくるのだ。
そして、心に響いてくる。共鳴する。

それは、落語であったり、講談であったり、歌舞伎であったり、講演であったり、映画であったり、舞踊であったり、音楽であったり、書かれた文字、文章であったりしている。

わたしも、そのよなものに少しでも近づきたい、と思う。
そのためにわたしは毎日こうして書き、インターネットを通じて、そしてF2Fを通じて情報を発信し続けている。

それは己のことばを磨く、という訓練のようなものだ。

というようなことを考えながら、本日のわたしは、上野 6:10 やまびこ 41号 一ノ関 8:44でまたまた岩手県に向かう。

2003/12/16 (火)  
【たんたんと一日が終わる】

昨日は往復9時間の移動。
盛岡駅から宮古までの移動は車であるが、この移動時間はいつものように向井田IT特別委員長とブレインストーミング。脳みそが喜ぶ。

それで、今回の向井田さんの名言。
「家庭の用事は勉強に優先する」

すばらしい。


岩手建協での勉強会は、いつも熱心な眼差しに圧倒される。
宮古支部でも、とても熱心にIT化の入り口を受講いただいた。

いつも思うのだが、岩手県はまじめな人が多い。
純心だ、というと語弊があるかもしれないが、そういう印象が強いのだ。とても羨ましい。

帰りは18:39盛岡発のはやてに間に合ったので、それで帰る。
わたしのお気に入りビールである、銀河高原ビールを買い込み、弁当のおかずを肴に、仙台まで飲む。

仙台から大宮まではご多分にもれず爆睡。
盛岡駅の売店で購入した 『ニッポンの少数民族』 という本を読み損なう。
cover
別に読み損なったからどうした、という本でもない。
自宅に帰ってトイレで全て読んでしまえた、というようなものである。

しかし、人を観察することはおもしろいのは確かで、わたしは暇つぶしでよくこれをやっている。

まあ、この本にあるような例は、少々無理があるような気もする。そのせいか、読書感に爽快さは欠けるが・・・。

でも、たしかに、世の中、己の理解の範疇を超えた人々というのは多いのだ。

電車の中で平気でものを食べている人や、化粧している人、床にぺたりと座り込んでいる人などは典型である。しかも、これは圧倒的に女性が多いのはなぜだろう。

それから、この前、岩見沢で目撃した、氷点下でも素足の女子高生。
これは理解を超えているどころか、生物的な危機感さえ感じる。

なにか遺伝子的な環境適応能力でも身につけているとしたら、わたしのミーム論は根本から崩れ落ちるではないか。


いとうさまより。
店主戯言を読んで「にやり」とすることはあっても、噴出す、ということはあまり経験がありませんでした。
しかし、今日、「しかし、これじゃアル中のいいわけみたいじゃないか。(笑)」のとこまで、読んで、ブーッと噴出しまして、あ、勤務中だと思い、周りを見渡したら、私しかいませんでした。他の者がいたら、絶対に顰蹙を買っていたことでしょう。

では、くれぐれもご自愛ください。

ということで、自分でその箇所を読み返してみようとしたら、なぜかわたしのサイトの置いてあるサーバーは不調でページが開かない。

レンタルしているサーバーなので、サイトの不調はわたしのせいではない。

まあ、そのうち直るのだろうと高を括るが、わたしと同時期に当サイトにアクセスいただいた多くの読者は、なにかわたしへの「なんとかしろよ」的感覚を、ことばには出さずとも心の奥底で持つことだろう。


北海道のA木さまより。
葉月会の忘年会、ご苦労様でした。あれだけの人数がいれば、ゆっくりお話はできないと覚悟はしていましたが、予想以上の熱い忘年会で気がついたら、もう帰る時刻でした。

でも、F2Fの大事は「同じ空気を吸う大切さ」だと感じました。
たとえ、ゆっくり話ができなくても、バーチャルの世界では味わえない「ずっしりとしたモノ」を、また会得させていただきました。

葉月会の素晴らしさは「人材の豊富さ」であり、それはまさに相互作用の賜物だと思っております。

1月24日の新年会も多分、大勢の人たちが集まり、ゆっくりとお話はできないとは思いますが、全国からはせ参じる「熱い方たち」と同じ空気を吸う大切さを思う存分、味わおうと思っております。
時間の過ぎる早さを惜しみながら…。

では、ご自愛ください。

2004年1月24日の新年会は、現在67名さまの申込みがあって、まもなく、座って飲める新年会の限界質量に達する。

今回の新年会は座ってやろうと思う。年をとったせいもあり、足腰が弱ったせいもあり、である。(笑)
立って飲むのはちょっと辛くなってきた。

デジタルなコミュニケーションの限界は、人間の五感のうち、視覚と(あるとすればだが)聴覚しか使わない限界なのだと思う。

人間は、少なくとも相互作用を五感で感じることで、意味づけをしている。
F2Fは五感を駆使することで、場の空気を感じる。ミームが前頭葉へと流れいる。それが情報的相互作用の真髄である。

しかし、デジタル・コミュニケーションは確かに時空を越える。
他人と、どこかでつながっている己を感じる。

それがF2Fの質をまた高めているのも確かだろう。

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