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店主戯言040101 2004/01/01〜2004/01/15 "There goes talkin' MOMO"


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2004/01/15 (木)  
【ようやく始動なのである】

午前6時30分起床。さぁてと、今日から移動の日々である。
本日は上野 8:58 はやて 7号 盛岡 11:22で盛岡へ移動し、岩手県建設業4団体青年部交流会に参加。

パネルデスカッションのパネラーをやる。お題は、「なぜ今情報化なのか」
懇親会もあるので、当然に盛岡泊。

明日16日は、チェックアウトをレイトにして午前中は某団体さまへの報告書の仕上げの時間に当てる予定。

午後から岩手建協さまのIT特別委員会。午後3時終了予定で、終了後急いで仙台空港へ移動し、ANA 729 仙台(1850) - 札幌(千歳)(2005)で北海道入り。

千歳から芦別までは、陸路移動。
運転手は君だ、のまにあ・1号さま。途中どこかで晩飯だな。ホテルへのチェックインは11時を過ぎるだろう。

17日、18日(午前中)は、日成建設さまで、イントラネットの勉強会。

18日終了後、旭川空港まで陸路移動し、JAS 622 便 旭川 15:30 発 → 伊丹 17:45 着で、関西入りだ。18日中にバスを乗り継いで、洲本(淡路島)へ入る予定になっている。

そのまま洲本には22日まで滞在。
兵庫建協淡路支部さまのイントラネットの実地講習である。


しか〜し、問題は北海道の冬の嵐である。
昨日の新千歳空港行きはほぼ全滅じゃないのか。

明日、仙台から新千歳空港行きが使えないと、ひじょーにまずいのよね、なのである。


昨晩、某MLへの次郎さんからの投稿。
いやーやっと自宅に着きました。
(ざく)
滝川駅に行くと、70分遅れに特急が来ると言うので
それに乗って札幌へ。
3年位前に、同じような天気で札幌まで4時間かかったことがあったので(それも満員立ち席)、今回はしっかり指定席を購入し余裕の乗車。案の上、指定席まで立っている人があふれていました。
私の指定席に座ってふんぞり返っていたおじさんに、
切符を見せて立っていただき(ざまあみろ)札幌まで読書しながら約1時間半(普通は50分)。
それから地下鉄、市電と乗り継いで自宅へ向かうのですが、今日は市電が通常20分のところが45分かかりました。私の住んでいるところは、札幌でも特に強風地帯ですので市電を降りてから家に着くまで前を向いて歩くと、雪が(というより氷)が顔に当たって痛かったです。明日もこんな調子のようです。桃知さん、大丈夫かなあ。

はぁ、大丈夫だといいのですが・・・。

2004/01/14 (水)  
【これから寝るのだ】

まだ体調はあんまりよくないが、昨日は、錦糸町で「人面魚探し」を観てきた。
エンディングに流れる、ロビー・ウィリアムスの歌声が素晴らしかった、という程度の印象かな。

しかし、この休み根性が入っていなかったために、やらねばならぬことがほとんど履行されていない。

と言うわけで、今日は大忙しなのだ、というより、わたしは昨日から徹夜で、今は午前6時を少し過ぎたころ。

切羽詰らないとだめなこの性格、なんとかならないものか、と思うのだが、これもDNAさまの仕業なのよねぇ〜、と開き直るわたしなのだ。

北の国からは雪便り、というか大荒れの天気らしい。
明日からわたしは北の国へ行くのだが、大丈夫だろうか、などと考えながら、わたしは、これからここを更新して寝るのだ。はっきり言って眠い。(笑)


『虹の解体』『虹の解体』

リチャード・ドーキンス(著)
福岡 伸一(訳)
2001年3月31日
早川書房







『虹の解体』は、ドーキンスの一番新しい本、ということになるのだろうか?
ここでの彼のキーワードは、「利己的な協力者」という言葉自体は自己矛盾の塊のような概念である。

わたしなんぞは、ぎゃはは・・・と笑ってしまったわけだが、ちゃんと読めば、自己矛盾しているわけではないのだ。

それはたとえば、一昨日の竹内の言葉、「長いつきあい」の意味するもの、つまり、反復囚人のジレンマが、遺伝子レベルでもおきていることを理解すればよいだけであろう。

つまり、純粋の、とはいえないがESSのようなものである。
反復囚人のジレンマモデルは、「進化的に安定な戦略」というよりは「集団的に安定な戦略」なわけで、このモデルの最強な戦略は、「やられたらやり返す(けれども、普段はお人好し)」である。(これは時間があるときにでも算数の言葉で書こう)

遺伝子は確かに利己的だが、『淘汰は、他の遺伝子の存在のもとに成功する遺伝子に有利にはたらき、その他の遺伝子も次々にまた他の遺伝子のもとに成功する。したがって、相互に適応性のある一組の遺伝子が遺伝子プールのなかに生じてくる。』(ドーキンス,1987,p228)と言っているように、自然淘汰には、「利己的な協力者」という言葉が生まれるようなところがちゃんとあるのだ。

つまり、自然淘汰は弱肉強食じゃないのよ。

そんなことも含めて、IT化とか、経済とか、経営とか、政治でもなんでもよい、こういう社会科学的なもの、というか我われの生活に関する事象へ、生物学からのアナロジーでアプローチするとき、この反復囚人のジレンマは、いまや欠かせないもののようだ。

そしてそこでのキーワードはなにか。
わたしは「初期値」と「信頼」だと思う。

『信頼の構造』 『信頼の構造』

山岸俊男(著)

1998年5月15日
東京大学出版協会







ということで、わたしは(ようやく)再び山岸俊男を読むのであった。

が、眠くて頭が・・・くらくらしてきた。(@_@;)
寝よ・・・。

2004/01/13 (火)  
【ミームの表現型効果】

『蒲田行進曲』『蒲田行進曲』

監督:深作欣二
脚本:つかこうへい
出演:風間杜夫,松坂慶子,平田満
1982 年 松竹







『蒲田行進曲』は、80年代における邦画の傑作のひとつであり、成功したミームの表現型効果と言うことができるだろう。

最近はこうして、DVDになったことで、ついにはデジタルになっちまったミームなのである。(笑)

ただ我われが、このミームの表現型効果を認知できるのは、アナログとしてだけである。
ミーム自身はデジタル化が進んでいるようだが、わたしらはアナログなのよねぇ〜、と開き直ろうか。(笑)

『蒲田行進曲』は、今でも色あせることなく、笑えるし、泣けるし、面白い。

この映画の成功の原因はいろいろあるのだろうが、まずは、つかこうへい原作の素晴らしさを第一にあげなくてはならないだろう。

そして、それを映像にする、というミームにも、センス・オブ・ワンダーを感じずにはいられない。

まあ、そんな中でも、この映画の展開の小気味よさに成功の原因があるようにわたしはなんぞは感じているわけだ。

その小気味よさは、銀ちゃんの性格的滅茶苦茶さの設定にあるようのじゃないだろうか。
銀ちゃんは、世界は自分の為にある、というような性格である。

家人は、私が小夏なら、間違いなく銀ちゃんを刺す、と言っていた。

その性格の非現実さが、この映画のテンポ、リズムを生み出している。
余計な説明が不要な表現(それでも強引に納得させらる)の強さをまざまざと感じた。

思うのだが、この銀ちゃんの性格的滅茶苦茶さは、ある意味、中期頃までの「男はつらいよ」の車寅次郎の困ったちゃん性格にも通じるものがあるのじゃなかろうか。

本当は許せないのかもしれないが、なぜかこの人ならしょうがないや的な“あれ”である。
わたしはこういう人物設定に弱い。

でもそれがなぜかは今のところ全然わからん。
→人間という種の錯乱的能動性(村上泰亮)若しくは、受容的能動性=解釈学的思考(同じく村上泰亮)(笑)


『延長された表現型』 『延長された表現型』

リチャード・ドーキンス(著)
日高 敏隆 (訳), 遠藤 知二 (訳), 遠藤 彰 (訳),
1987年7月10日
紀伊国屋書店







我われが常日頃、脳を通じて理解できるミームを、ドーキンスはミームの「表現型効果」と呼んでいる。

なので、我われの興味が、ミームの表現型効果は、どのようにしてその複製の成功あるいは失敗に関与しているのだろうか?ということであれば、ドーキンスは、『その答えは遺伝子的自己複製子に関しての答えと同じである。』と言うわけである。(p214)

ひょぇ〜 ^_^;
→だからわたしは、まだこんなことをやっている。


そもそも、わたしをミームの世界に引き込んだドーキンスと言う人は、淘汰は、遺伝子に起こるのか、それとも生物固体に起こるのか、と言う問いに対して、遺伝子に起こる、と言う人である。

だから「利己的な遺伝子」なのだけれども。

この遺伝子か、生物固体かという問題の見かけ上の差異は、生物学における二大分野である、発生の研究と自然淘汰の研究にとっての重要な部分の強調によって、あわられるものだろうとしか、わたしのお馬鹿な頭では言いようがないのだが、確かにドーキンスは発生について語っているのではない。

彼は、進化的時間における自己複製子の生存について語っているのでる。

固体における発生については、『発生過程にある鳥を養っている巣の温度がその幼鳥の存在そのもののためにも、その発育のためにも、さらに成鳥としての長期にわたる成功のためにも、いずれも重要であることは双手をあげて賛成する。』と言う。(ドーキンス,1987,p193)

つまり、固体が成功するということに関しては環境の関与を認めていたりするわけだ。

ただ、その環境の違い(たとえば巣の温度)により形成される固体の特質が、その次世代には伝わらないはずだ、と言うのであり、つまり、生物個体自体が自己複製子ではないと言うのである。

『淘汰は、他の遺伝子の存在のもとに成功する遺伝子に有利にはたらき、その他の遺伝子も次々にまた他の遺伝子のもとに成功する。したがって、相互に適応性のある一組の遺伝子が遺伝子プールのなかに生じてくる。』(ドーキンス,1987,p228)

『私の言うことが還元論的に聞こえるとすれば、それは、現実に生き残るかどうかの単位という意味での淘汰の単位については原子論的見解を強調するからである。しかし一方で、遺伝子がそれによって生存する表現型手段について語るさいには、私は全体論気質をもった相互作用論者なのだ。』(ドーキンス,1987,p221)

ここで少し救われてはいるのだ。

2004/01/12 (月)  
【公務員を養うという利他的行動】

午前9時30分起床。(笑)
今日が休みでよかった。体調悪し。昨晩から下痢気味なのである。


さて、人間の利他的行動について、昨日紹介した『現実的な左翼に進化する』の解説で、訳者の竹内久美子がこんなことを書いている。

たとえば納税と、それによって給料を得ている公務員による国民への奉仕。
もし我々が一生税金を納めないとしたら、どうなるだろう。

ごく普通のサラリーマンでも一人や二人、うんと税金を払っているお金持ちなら数人、いや、十数人、あるいはそれ以上、余計に子を育てることができるはずだ。

つまり、納税とは、自分の適応度を下げてまで、公務員のような税金から給料をもらっている人々(たいていの場合、血縁関係のない)の適応度を上げるという紛れもない利他的行動なのである。

しかし、税金を払わないとどうなるか。
あらゆる公共の施設、団体が成立しなくなってしまう。自衛隊、警察、消防署、公立の病院、役所、公立学校……がなくなる。

我々は公立の学校で教育を受けられず、犯罪が横行しても、自警団を組むしか取締りの方法がなく、災害時には親戚や近所の人しか当てにならず、火事の際にも地域の消防団しか現れない。

道路はでこぼこ、道端はタバコの吸殻だらけ、病人が出ても、救急車を呼ぶことさえできない。そうこうするうちに国家は、他の国からの侵略を受けてしまう……。

公務員は国民に尽くす義務があるというが、それこそがまさに、公務員は納税者の利他的行動に対する恩返しの義務がある、という意味なのである。

我々は、吸血コウモリのように、顔見知りどうしで互恵的に振る舞うわけではない。しかし、国家を保証人とし、見知らぬ者どうしが互恵的に利他的行動を行っている―そういう仕組みになっているのではないだろうか。

すると国家の役割とは、一つには保証人として信頼に足るかどうかが国家に問われる最重要の点になるだろう。

(以上、『現実的な左翼に進化する』の解説,竹内,p115-116)

じゃ、なぜ我々は互恵的な利他的な行動をするのだろうか。
竹内はあっさりとこう答える。

―長いつきあい。

ぎゃはは・・・である。
でも正しいのかもしれない、と思う。 

ということで、本日は休むしかないわな。

2004/01/11 (日)  
【ダーウィニアン・レフト】

桃知@NA 4732 旭川(1120) - 東京(羽田)(1300) なのである。
この飛行機は、30分程到着が遅れ、その因果関係として、出発も20 分分程遅れたのである。
到着も当然に遅れることだろう。(ちゃんと20分遅れた)


こんばんわ、日成建設の佐々木です。
桃知先生、本日は芦別までご苦労さまでした。
やっぱり、先生の「生」が一番ですね。

今年は「自分自信のことを自分の言葉で語る」そして「ITを使った反省」、「己のキャパシティのパワーアップ」をやるぞと心に誓ったのでした。←今年の抱負

本をよく読まれる先生は本当に素敵です。尊敬します。
子供にはよく勉強すれと言いますが大人なのに勉強していない自分に気づき恥ずかしい思いをしました。←今日は良い刺激をたくさんもらいました。

久々にお会いしたので感じたのですが(怒られるかもしれないけど・・・)相当お疲れのようでなんだか「髪の毛」がさみしくなったような気がしました。
休みなしで芦別までくるくらい全国を飛び回っているのは大変なんだなぁ〜とつくづく思いました。(ごめんなさい 心配だったもので・・・)

そして、髪の毛がないと言えば「空知建協」のホムペを作成した「クピド・フェア」の杉山君を思い浮かべます。
杉山君は、車いすバスケットの仲間でありライバルでもあります。

そうです。自分は左足を切断している障害者なんです。←自分のことを語る
杉山君のチーム「KP96」は自分が所属している「札幌ノースウィンド」とは永遠のライバル関係なんです。この車いすバスケットって言うのは障害者の戦いでもあるんです。

「クピド・フェア」では、障害者が生き生きとして働いています。
障害者が仕事につけるかどうかは、本人のマリアビリティが高いかどうかキャパシティを大きくできるかどうかにかかっているんだってことが今日のお話を聞いて、そうだよなって再認識しました。
障害者の仕事は大きく事務系と作業系に分類できると思います。
事務系はパソコンが使えること、作業系は手先が器用なことが第一の条件です。
障害者の就職率が低い背景には、マリアビリティが低いってことが原因なのかなぁ〜(企業の環境面での配慮って言うのも結構大きいのですが・・・)
これからは日成建設にとって「価値ある障害者」になるためキャパシティを大きくしていきたいと思いますのでご指導宜しくお願いします。

長々とくだらない話をしてすみません。
そして何を言っているのかわからない。←「ITを使った反省」のつもりなんですが・・・修行が必要ですねっ!

山と山とは会えないけれど、先生と私はまた来週会える。
と言うことで、また来週お会いできるのを楽しみにしています。


わたしは、健常者と障害者を区別して考えることはまずない、というか特別扱いすることはほとんどない、というのは嘘である。大なり小なり意識する。

先天的であれ後天的であれ、運動能力部分のハンデを持つことで、肉体的にできないことがあることは、当然のことだと思う。(避けがたい現実=運命)

ただ、その当然の部分が、日常生活に支障のあるものなら、社会は、彼(彼女)がそれを克服できるように支援する体制を整えるべきだ、と思う。

そして本人が、そのハンデを乗り越えようとする強い意志を宿し、実際にそのハンデをものともせず、この社会で活躍されている多くの方々、つまり運命を受け入れそしてそれを乗り越えようとする方々を心から尊敬している。

身体的な特性で、その人間の優劣を決める基準などは、存在しないものだとわたしは考えている。

さらには、遺伝的な優劣は存在するのだろうが、そのことが人間の優劣を決める(生まれ>育ち)などとは、さらさら考えてはいない人なのである。

しかし、すべてが育ちの中で解決のつくものだとも思ってはいない。

そして、我々は利己的なのか、利他的なのか、と問えば、確かに利己的な遺伝子(ミームも含めた複製子といってもよい)のビークルとしての我々は利己的なのである。

しかし、利他的な行動というのも確かにある。
私たち人間はきわめて社会的な種である。

『集団的行動は進化的にきわめて有益だったことから、自然選択は私たちひとりひとりに、他人が(それゆえ社会全体が)失敗するよりは成功することを望む性質を与えてきたのではないだろうか。』(ワトソン,p500)

生まれ、育ち、そして、利己性、利他性、両方持ち合わせているのが人間なのだ、としかいいようがないのだ。

そして、我々は、生まれとか育ちを越えたところで、「運命」というものの存在を知ることになるのかもしれない。

運命とは、避けがたい現実とでもいえるものだろうが、わたしの中には、その避けがたい現実にさえ逆らってみたい、という思いがある。

だから『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』というR.・ドーキンスの言葉を信じるのである。

こういう立場のわたしを、ダーウィニアン・レフトと呼ぶことができるかもしれない。
つまり、ダーウィニズムを信じる左派である。


ところで、わたしの頭も薄くなってきているらしい。
本人による自覚症状も少しはある。

『ガタカ』の世界では、おんぎゃ〜、と生まれたその瞬間、DNA検査で、わたしは何歳で禿げるのかがすぐにわかるのである。

そればかりか、どんな病気になりやすいのか、性格はどうなのか、果ては凡その寿命までわかってしまう。そしてここで二種類の人間に区別される。

ひとつは遺伝的な能力を高められた支配者であり、もうひとつは私たちと同じく不完全な遺伝子をもつ下層民だ。

超高感度のDNA分析により、遺伝子エリートたちはよい仕事に就き、「不適格者」はあらゆる面で差別されるしくみになっている。

ここでは、身体的な特性ではなく、DNAの特性で、その人間の優劣を決めることとなる。
このような考え方を支持する方々を、ダーウィニアン・ライトと呼んでもよいだろう。


『現実的な左翼に進化する』 『現実的な左翼に進化する』

ピーター・シンガー (著)
竹内 久美子 (訳)
2003年2月25日
新潮社






ダーウィニアン・レフトは以下のことをすべからず、とピーター・シンガーは言うのだ。

・人間の本性の存在を否定すること、ならびに人間の本性は元々よいものである、あるいは限りなく変えられると主張すること

・人間どうしの対立や反目はすべてなくなると、政治革命、社会変革、あるいは教育の充実などの手段を問わず、期待すること

・すべての不平等が、差別や偏見、抑圧や社会条件に要因があると決めてかかること、それらが原因であることもあるだろうが、すべての場合そうだとすることはできない


そして、ダーウィニアン・レフトは以下のことをすべし、とも言う。

・人間の本性というものがあることを受け入れ、それについてもっと知ろうとすること。そうすれば人間はどういものかについての証拠のうち、最も利用できるものに基づいて政策が可能である

・「そういうのが本性である」から「それが正しい」へと決して推論しないこと

・様々な社会的・経済的システムにおいて、多くの人々が地位を高めようとしたり、権力の座を得ようとしたり、あるいは自分と血縁者の利益を求めたりして競争するだろうと考えること

・その人が暮らしている社会的・経済的システムに関係なく、お互いに協力しあうという純粋な機会があれば、たいていの人はそれに肯定的に反応すると考えること

・競争よりも協力が育む社会構造を展開させ、皆が望んでいる競争の終わりという方向へ事が進むよう努力すること

・我々が人間以外の動物を食い物にしているのは、ダーウィン以前の、人間と他の動物の間の境目を誇張した過去から受け継いだものである。そのことを認識し、人間以外の動物により高いモラルをもって臨み、自然に対する我々の優位という人間中心的な見方をとらないようにすること

・弱い物、貧しいもの、虐げられている者の側につくという左派の伝統的な価値観の上に立ちながらも、どんな社会的・経済的な変革をすれば本当にそういう人々のためになるのかを非常に注意深く考えること

(ピーター・シンガー,p100〜103)

シンガーの言っている事を、自分の仕事の中で実践する、ということはどういうことになるのだろうか?ましてやITはなにができるのだろうか?それをいつも考えている。

わたしが進化論を学ぼうとするのは、キリンの首がいかに長くなったのかとか、ウサギの耳はなぜ伸びたなんてことを考えているわけではないのだ。(笑)

2004/01/10 (土)  
【ガタカ】

昨日のお昼は、家人が前々からうまい、と言ってい、たラルースというロシア料理店へでかけた。

オーダーはボルシチ、キャベツロール、ピロシキにロシアンティ。

けっして安い店ではないけれど、わたしが今まで浅草で食べた昼飯のベストスリーにははいるうまさであった。
特に、大きなキャベツロールが感動的にうま〜い。

寒い日の、ロシア料理は、五臓六腑から温まってくる。


cover 『ガタカ』

出演: イーサン・ホーク, ユマ・サーマン, その他
監督: アンドリュー・ニコル
1997年







さて、今回は珍しくDVDの紹介である。
今年の正月に見たDVDの中で、一番印象に残った作品がこの『ガタカ』 である。

この映画のストーリーは、『DNA』の最終章でワトソンがこう紹介している。
いささか長いのだが、今日はそれを紹介してみたい。

この映画は、遺伝的に完璧であることに囚われた社会がどういったものになるかを、今日の発想力をぎりぎりまで押し広げて描き出している。

『ガタカ』に描かれる未来社会には、二種類の人間が存在する。ひとつは遺伝的な能力を高められた支配者であり、もうひとつは私たちと同じく不完全な遺伝子をもつ下層民だ。超高感度のDNA分析により、遺伝子エリートたちはよい仕事に就き、「不適格者」はあらゆる面で差別されるしくみになっている。

この映画の主人公である「不適格者」のヴィンセント(イーサン・ホーク)は、ある夫婦が車の後部座席で、情熱に身を任せた結果できた子どもだった。その後生まれた弟アントンは、その時代の正しいやり方に従い、遺伝子に優良な性質だけをもつように操作されていた。

ヴィンセントは子どものころ、弟に水泳競争を挑むたびに、自分が劣っていることを思い知らされるのであった。そして成長してからは、遺伝子差別のために、ガタカ・コーポレーションの掃除夫にしかなれなかった。

ガタカに就職したヴィンセントは、宇宙に行くという途方もない夢を抱く。だが、土星の衛星であるタイタンへの有人飛行に宇宙飛行士として参加するためには、「不適格者」であることを隠さなければならない。

そこで彼はジェローム(ジュード・ロウ)という遺伝子エリートになりすますことにした。ジェロームは優れたスポーツ選手だが、事故のために下半身が不自由になり、ヴィンセントの助けを必要としていたのだ。

ヴィンセントはジェロームの髪や尿を買い取り、それを不正に使うことで、飛行訓練プログラムに参加できるようになった。その後は、彫刻のように美しいアイリーン(ユマ・サーマン)にも出会い、すべては順調に進んでいるように見えた。

ところが、いよいよ宇宙に飛び立つ一週間前になって、思いがけない事件が起きたのだ。飛行計画の責任者が殺害され、警察の調査により、犯行現場に「不適格者」のまつげが発見されたのである。一本のまつげを落としたせいで、ヴィンセントは殺人容疑をかけられ、必死に追い求めてきた夢を奪われそうになった。

事態は絶望的に思われた。しかし彼が男そるべき調査網をくぐり抜けているあいだに、別のガタカの幹部が真犯人だったことが判明する。

映画の結末はほろ苦いものだった。(ここまで、ワトソン,p498-499)

画像も音楽も非常に美しい映画なのだけれども、描き出される近未来は、けっして明るい世界じゃない。

不適格者を「神に選ばれしもの」と呼ぶ部分があるのだが、なぜかとてもせつない。
それは多分に今とはまったく逆の意味である。そして、この映画には宗教的なものを描写している部分は皆無なのである。(別に宗教を擁護しているのではないことに注意。遺伝子がすべてを支配する還元主義的な世界には宗教は必要ないし神はいらない、ということだ。)

まあ、こんなつまらない未来にならないように、『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』(R.・ドーキンス)を信じるしかないのだなぁ、と思う。


さて、今日は土曜日なのだけれども、北海道は芦別市の日成建設さまへ勉強会(その1)を行うためにお邪魔する。

飛行機はJAS 193 便 羽田 08:10 発 → 旭川 09:45 着である。

旭川はかなり冷え込んでいるようだし、雪の具合はどうなのだろうか?

2004/01/09 (金)  
【農業】

午前7時起床。
浅草は晴天。でも、今日も寒い一日になりそうだ。

今はいつもの喫茶店でごまココアを飲みながら、そして喫煙しながらこれを書いている。


昨晩は、八木沢さん吉谷さんと高橋さんをお招きして、急遽浅草河豚大会をやらかし、腹いっぱい食べて飲んだ。

寒いときのてっちりは最高である。

河豚はもちろん天然ものではない。
しっかりと養殖ものである。

とらふぐの養殖ものは、天然ものに比べれば、三分の一ぐらいのプライスで提供されている。
だからといって味が三分の一かといえば、そんなことはない。

わたしのキャパでは、とらふぐの天然ものと養殖ものは、生きているうちは区別はつくが、さばかれてからはわからない。

世間の趨勢としては、天然>養殖なのだろうが、しかしだ、考えてみれば、松坂牛だって、鹿児島黒豚だって、名古屋コーチンだて養殖ものなのだ。

人は食うために河豚を育てる生物なのである。
人は食うために牛も、豚も、鶏も育てる生物なのである。

米も育てりゃ、麦も育てる。
りんごも育てりゃ、桃だって育てちまうのである。

なんでだろう?


などと考えながら食ったわけはない。そんなヤツは馬鹿である。
今朝ふと思いついただけである。


しかし、人は食うために養殖もするし飼育もする。
自然は大切だぁ、の環境主義の方々でさえ、狩猟・採取生活で生きている方は、この国には皆無だろう。

つまり、人は食うために自然(環境)をコントロールしている(はたらきかけている)、ということなのだが、この行為を広い意味での農業と呼ぶことにしよう。(しかし、鑑賞用の花を育てるのはなぜだろう?。消費者が食うためではないよなぁ。(笑))


さて、年明け早々のわたしの読書といえば、遺伝子、DNA、自己複製子関係、こんなものばっかりだ。

それは「ミームの人」としてのわたしとしては面目躍如だ、と自画自賛しているのだが(こういうのを馬鹿という)、IT化、インターネットに取り付かれた挙句に、なにしてこんなところまで迷い込んでしまったのだろう、と自分に呆れているのも確かなのだ。


と言った舌も乾かぬまま、またやるのである。

『農業は人類の原罪である』『農業は人類の原罪である』

コリン・タッジ (著)
竹内 久美子 (訳)
2002年10月20日
新潮社







中小建設業の業種転換先として農業がクローズアップされている今日この頃、もう一度“農業”って何なのだろう、と考えてみたくて読んだ本であるが、これは昨日紹介した『生物は体のかたちを自分で決める』同様「進化論の現在」シリーズの一冊でもあるので、つまり、進化論的に農業を考えるという視点を我々に提供してくれている。

しかし、トンデモ本と言えば言えなくもないアイディアに満ち溢れた本である。
1月3日に紹介した『DNA』での、『約三万年前に、現生人類は、眉の飛び出た親戚を絶滅させてしまった』という原因について、ダッジはこう答える。

約三万年前に、現生人類が、眉の飛び出た親戚(つまりホモ・ネアンデルタンシス)を絶滅させてしまった根本原因は、(先に書いた広い意味での)農業なのだ。

現生人類の進化の歴史は、環境破壊と殺戮の歴史である。
我々(の先祖)は、環境を破壊し、狩猟を行い、ほとんどの大型動物を食い尽くし、多くの大型動物を絶滅させている。

実際、北米のマンモス、その食物連鎖でサーベル・キャット等、更新期にはとんでもない数の動物が絶滅している。

一般的には、これら(大型動物の死滅)は気候の変化(氷河期の終わり)と結びつけて考えられることが多いのだが、ダッジは、それは我々の祖先がが食っちまったから、絶滅したのだ、というのだ。

そして、なぜ彼ら(現生人類)がそうも環境に適応できたのか、といえば、それは、狩猟、採取以外の食糧調達方法としての、農業という知恵を持っていたからだ、とするのである。

素晴らしい!
ももち どっと くうはこの説を支持せずにはいられまい。

つまり、、農業は突然に始まったものではなく、もともと現生人類(我々の直接の祖先)が、採取や狩猟の合間に行っていた趣味的なもの(環境操作)だった、というのがタッジの説である。

耕作は約1万年前に中東で始まった、というのが定説なのだが、ダッジは、農業(趣味的な)はもともと現生人類の持っている特性だ、というのだ。

1万年前の新石器革命とは、それ(農業という食料調達方法)が、ある環境変化により、否応なしに花開かせられた時代だというのだ。(このある環境変化とは何かは、この本にちゃんと書いてあるので、興味のある方は是非に読んでいただきたい)


まあ、そんなことはどうでもよいのだが、『農業とは、一言で言えば、環境を操作し、作り出される食物の量を増やすことである。』というダッジの見解は見事である。

この仮説がわたしの興味をひくのは、1月3日のJ.D.ワトソンの疑問、『約五万年前、現生人類は突如として、文化的に進化したらしいのだ』の文化的進歩と、ダッジのいう現生人類がもともと持っているホビー的農業能力が密接に関係するように思うからである。

たぶん、ミームはここから始まったのだろう。
そしてミームの本質もここにあるのかもしれない。

それを一言で言えば、環境を操作するための情報の伝達と継承である。

2004/01/08 (木)  
【まとめきれず】

午前7時起床。
浅草は晴天。でも外は寒そうだ。
9時には外出しなくてはならないので、今朝はあっさりと書くつもりだが・・・。


『生物は体のかたちを自分できめる』 『生物は体のかたちを自分で決める』

ジョン・メイナード=スミス(著)
竹内久美子(訳)
2002年10月20日
新潮社







1月5日に紹介したESSという数理モデル(ESSは数学的な言葉でないと説明しきれない)のアイディアは、メイナード=スミスのものである。

この本は難しいのだ。
わずか80頁そこそこのものなのに読みきれない。

内容はESSとは別な問題を扱っている。
生物の形づくりには、遺伝情報に加え物理・化学的作用に基づく動的な過程による自己組織化が必要だ、という主張である。

当然である、とわたしなどは思うのだが(笑)、それは無知ゆえの早合点のようなもので、生物学の世界では、どうやらそうではないようなのだ。

わたしは、ミーム(自己複製子)を理解するためのダーウィニズムの理解がせいぜいのところであり、還元主義(遺伝による指令)や自己組織化(全体主義・動的な過程、複雑系)などという専門的な世界になってしまうと、それこそ中学生以下の知識しかないのだから、難しくて読めなくて当然なのだ。


さて、それはさておき、わたしがわざわざこの本を紹介するのにはちゃんとわけがある。
それは「第五章 還元主義者は右へ、全体主義者は左へ」での見解の面白さだ。

『発生生物学の分野では、自己組織化を信じているということは左派的、あるいはフェミニスト的な見解に賛同しているように思われる。ところが、経済学ではそうではない。うまく適応している構造は、中央の計画や制御からではなく、個々人の自分本位の行動からつくり出されると断言した理論がまさにぴったりの例で、それがかのスコットランドの経済学者、アダム・スミスが提唱した「見えざる手」という考えだ』(メイナード=スミス,p78)

彼は、遺伝による指令=還元主義者は、政治的右派である傾向が強く、自己組織化=全体主義者は政治的左派である傾向が強いと言う。

そして経済学ではそれが逆転してしまっている、と言っているのだ。

発生生物学的に見ると、経済学の傾向はこうなる。

自己組織化=全体主義者=新古典主義経済学
遺伝による指令=還元主義者=ケインズ経済学

この逆の流れ、もまた然りである。

しかし、政治的には、以下は成り立たない。

新古典主義者=自己組織化=全体主義者=左派
ケインズ主義者=遺伝による指令=還元主義者=右派

こうなっている。

新古典主義者=政治的右派
(米国の共和党=ブッシュがこれ。でも自民党の保守派=抵抗勢力は右派ではない。自民党の抵抗勢力とはどちらかというと左派的な方々が多かった・・・。小泉さんは右派、小沢さんも右派)

ケインズ主義者=政治的左派
(・・・なのか? まあ、リベラルという意味で米国の民主党。頑張れ自民党の抵抗勢力)


自然科学がはっきりとした理想的秩序を打ち出せないでいるとき(つまりよくわかっていないとき、上記の問題がまさにそうだ)、その曖昧な秩序への一義的経路の認識可能性・実現可能性=「客観的法則」の存在への信念は、自然科学のように社会分析も可能だ、という進歩主義的思考をして、こんなねじれを生み出してしまうのだろう。

そして、ある程度分析が進む過程で、こんなねじれが生まれてしまっていることに気が付く、ということだろう。

これは、資本主義が生まれた初期段階で、ダーウィニズムとアダム・スミスの「神の見えざる手」を短絡的に結びつけてきたシンプルな脳味噌のツケだな、とも思うが、このシンプルさは、自然科学がもっとはっきりとした理想的秩序を打ち出せない限り、益々単純化が進むように思う。


アダム・スミスは利己性(自己関心:セルフ・インタレスト)に加えて、共感シンパシーがあることをもって、市場メカニズムの作動条件としている。

つまり、利己心に共感を付け加えたことによって市場での取引が可能となる、と言ってるのだ。

だが、スミスの共感シンパシーなんて、だれも見向きもしない。
なんでだろう?

ということで、今朝はここでおしまい。
時間もなくまとめきれない文章になってしもた。(^^ゞ

本当は、科学的な客観性という超越論的思考と、眺める自分と眺められる自分の存在という人間に共通な認識の基本構造=解釈学的思考の相互作用、つまり、村上泰亮のいう人間の能動性=思想の自由あたたりにオチを持っていきたかったのだが、それは、またのココロなのだ。

では皆さん、本日も元気にまいりましょう。(^o^)/

2004/01/07 (水)  
【信頼がなければ言葉は通じない】

午前7時45分起床。
朝食は七草粥である。

浅草は曇り。
午後は晴れるらしいが、最高気温は7℃とのことで、寒い一日になりそうである。


さて、わたしの本格的な旅の日々の始まりは15日からなので(その前にも出張はあるが単発である)、やれるときにやるだけやっておく、がモットーのディスクワークの日々が続いている。

実際、原稿書きやら、今年前半の桃塾の企画やら、今月中盤以降の実践のための準備やら、そしてなによりも家族のために確保した時間ではある。

しかし、仕事はどうにも効率が上がらない。

一番の原因は、仕事のほとんどをリビングでやっているからで、これも昨年暮れに入ったダイニング・テーブルさまのおかげなのだが、この時とばかり、未鑑賞DVD鑑賞推進大会を同時並行で行っていたりするものだから、仕事らしきものが進むわけもないのだ。


そんな中、オープンセミナーのご案内に、2月6日 高知県IT推進ステップアップセミナー(高知市)を掲示し、ももこむ通信でもお知らせをさせていただいた。

高知市近辺、そしてお近くの皆さんはご覧いただければ、そして、是非おいでいただければ幸甚なのである。


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』

山田ズーニー(著)
2003年10月20日
筑摩消防書房









この本は上野駅構内のBOOKGARDENで、昨年11月頃に購入したものである。
平積みで沢山置いてあるので否応なしに目につく。(ミーム伝播の第一条件は露出の多さである)

目につけば、何の気なしに購入してしまうのがわたしの癖である。
なので購入はしたが、しかし、そのまましばらく読まないままであったのだ。

しかし、(いつもいうようにだな)、こういうものこそあたりが多いのも確かであって、読んでみれば、これは結構な“あたり本”なのであった。

この本は、コミュニケーションの実践についての本であり、そしてある意味ミームについての本であると思っていただいてよいだろう。

一見ノウハウ本のようにも見えるのだが、読んでみると、どうやらそれだけではない。
だからと言って難解なのか、といえばそうでもなく、普段ここで紹介している本に比べれば格段に読みやすい。

なにしろ字が大きい。(笑)


この本のキーワードは「メディア力」というものである。
これはわたしが使う意味での「ミーム力」とほぼ同意のものだと考えてもよいだろう。

たとえば、こんなくだりがある。
『メディア力とは、その人固有の「人との信頼の体系」だ』

すばらしい!じゃないか。

これは、ソーシャル・キャピタルの真髄である。

つまり、ミームによって運ばれる“信頼”の体系こそがソーシャル・キャピタルなのであり、コミュニティ・ソリューションの鍵なのだ。

信頼がなければ言葉は通じない。

わたしはこれを理解するのに何年もかかり、そしていまだに簡単に表現できないでいる。
それを、こんなにあっさりと言ってのける「山田ズーニー」、あなたはなにものなのだ。(笑)

わたしとの共通項目は、「独立という再出発」を経験していることぐらいなのだが、こういう人の存在を見ると、あながち「独立という再出発」も捨てたものじゃないことは確かなようだ。


この本は、自分がコミュニケーション下手だと思っている方とか、コミュニケージョン上手だと勘違いされている方が、だまされたと思って一読してくれたら何かが変わるのかな、と思って紹介している。

なんとなく、コミュニケーションの要がわかるような気がする本なのである。

ただ、自分がそうなろうと思わない方にはなんの効力もないのは当然として、この本を読んだからといって、コミュニケーション能力とか、ミーム力が身につくことは絶対にない、というオチは付く・・・。(笑、というより“ニヤリ”だな)

この“コミュニケーション”っていうやつは体で覚えるしかないものなのだ。

そして己にミーム力がなければ、伝えたくても、伝えるものがない、という事実にただ気がつくだけだろう。


しかし、そういう方々に限って、気がつかなかったりするのもまた事実だろうし、まして、やこんな本なんか読もうともしないだろうし、そもそもこのサイトなんか読みはしないだろうから、遺伝子から自由な精神なんて「あったらいいね」になってしまうのだ。(この「あったらいいね」については、後日またふれたい)

2004/01/06 (火)  
【思いを言葉に! 言葉を行動に! 行動を成果に!】

平和建設2004年新年度ミーム写真←この画像の詳細を知りたい方は、画像をクリックしてみてください。

もれなく、笑顔がついてくるはずです。


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桃知先生
明けましておめでとうございます。
初めてメールさせて頂きました。
平和建設工事部の五十嵐です。
友達以外にほとんどメールを出さないのでなんだかちょっと恥ずかしいですね・・・
今年は平和建設一同桃組として頑張って行きたいと思いますので宜しくお願いしますm(__)m
社長から今年は桃知先生による『懇親会』付きの講習を予定したいとのことで大変楽しみにしております♪

※本社玄関前で桃組の旗揚げ式を行いましたのでその写真を添付しました

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わたしは一瞬目を疑い、そして感激し、そしてちょっと心配になった。(笑)

しかし、新年の記念写真でこれだけ遊べれば立派なものである。
新年にふさわしいミーム写真をありがとう。

思いを言葉に! 言葉を行動に! 行動を成果に! とは、よいキャッチフレーズだと思う。

これはまさしく社風、企業文化としてのミームであり、社員の方々にとっての環境となりうるものである。

この環境がなければ、個々の社員は、単独で優れたものとして存在することはできないだろう。

ミーム論的に言えば、このミーム・プールの中で、他のミーム(社員)を背景にして働くときに優れたものとして淘汰に残るのである。

そして、この自社のミームを建設市場というミーム・プールでの淘汰に残そうとするために必要なこととは、このミームをもって、自社に有利な文化的環境(これもミーム・プールである)を作り出すことなのである。

『淘汰は、自己の利益のために文化的環境を利用するようなミームに有利に働く』

『この文化的環境は、同様に淘汰を受けているミームたちで構成されている』(ドーキンス,p318)

これにはまず、自らのミーム自体に力が必要であり、そして相互適応したミームの複合体が必要なのである。

つまり、仲間を増やさなくてはならない。
仲間とは社内的にでもあり、社外的にでもある。

この文脈をより広い範囲で適応させようとしているのが、わたしのIT化論というミームなのである。

その実践を、まず第一義的に事業者団体ベースでのIT化に位置づけていることの理由は、上記の文脈からも容易に理解できるだろう。

事業者団体は、文化的環境を利用するために、単なる利害関係者の集合体ではなく、相互適応したミームの複合体でなくてはならない。

なぜなら、ある意味、今という時代の「公共工事という産業」を取り巻く文化的環境は、個々の企業(特に地場型中小建設業)、そしてこの産業に携わる方々(のミーム)には極めて不利に働いているからである。

環境は逆風なのである。

この環境の中で、個々の中小建設業はどこまでがんばれるのだろうか。
個々の企業のばらばらな活動の中で、自社に有利な文化的環境を作り出すことはできるのだろうか。

ましてや、公共工事という市場(ミーム・プール)には、大手、中堅との競争が待ち構えているのである。

我々は、環境を変えようとして活動しているのである。

だから、「私は私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私も救えない」(オルテガ・イ・ガセット)とわたしは強調し続けるのだし、その実践を、建設業協会ベースでのIT化で行うことに力を注いでいる。

では、IT化で行う必要があるのはなぜか。
なぜならIT化とはミームを扱うものであるからである。

2004/01/05 (月)  
【ESS】


今日から現実的な生活に戻られる方々も多いだろう。
かくいうわたしも、今日という日が、公的(お役所関係)なものの支払日であるが故に、否が応でも現実に舞い戻らなくてはならない。(1月5日に銀行へ行くのはあまりうれしいものじゃない)

ということで、今日は眠っていた脳味噌の回転数を上げることからはじめてみたいと思う。


「ESS」とは進化的に安定な戦略(evolutionarily stable strategy)のことである。
わたしはこれを、例のR・ドーキンスの本で初めて知った。

それは『桃論』を書く以前のはなし、つまりわたしがミームの存在を知ったころのはなしである。

『ESSは、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、べつの代替戦略によってとってかわられることのない戦略だと定義できる』

『別のいいかたをすれば、固体にとって最善の戦略は、個体群の大部分がおこなっていることによってきまるということになる』

『個体群の残りの部分は、それぞれ自分の成功を最大にしようとしている固体で成り立っているので、のこっていくのは、いったん進化したらどんな異常固体によっても改善できないような戦略だけである』

『環境になにか大きな変化がおこると、短いながら、進化的に不安定な期間が生じ、おしらく個体群内に変動がみられることさえある。しかし、いったんESSに到達すれば、それがそのまま残る。淘汰はこの戦略からはずれたものを罰する』(ドーキンス,p114)

遺伝子的なESSをいうとき、それは上の文脈に忠実なのだろう、とわたしも思うし、確かに数学的にも証明できる。

そして、遺伝子は、それ単独で優れたものとしてではなく、遺伝子プールの中で、他の遺伝子を背景にして働くときに優れたものとして淘汰に残るのである。(ドーキンス,p136あたりの要約)

つまり、遺伝子は利己的なのである。
故にESSなのである。(ここの言い方は不親切極まりないと思う)


こうしてみていくと、山岸俊男のいう相補均衡とは、遺伝子的なESSなのだろうと思う。
そしてこれは、ウルトラ重要な理解であるように思える。

相補均衡のような行動は、主観的なものではない、と考えることができるということだ。


山岸俊男『心でっかちな日本人』『心でっかちな日本人』

山岸俊男(著)
2002年2月25日
日本経済新聞社

余談:今年の2月下旬に、わたしは山岸先生にあえるのだ。
講演を拝聴できるのは当然として、もしかしたら一緒にパネルデスカッションができるかもしれないわけで、いとうれし、なのである。




問題は主観という存在なのである。
それは自由意志と呼んでもかまわないだろうし、個々人の脳の動き、といってもよいだろう。

この主観さえ遺伝子にプログラミングされたものだ、という方々もおられるし、まったく対極の立場、つまり遺伝子学の科学性など信じない方々もおられるが、わたしは、遺伝子のESSを信じ、かつ主観の存在を信じることができる。

『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』(ドーキンス,p321)

この立場から導き出される「答え」は、さまざまな社会的問題解決を、遺伝子的な利己性だけを根拠とするものに求めてはならないのだろう、ということだ。(だから、わたしは「見えざる手」を信じないのだ。そしてその対極の存在を信じることもない。)


確かに、遺伝子が利己的であることは否定しようもない。
その遺伝子にプログラムされたわたしたちも、本能的には利己的である。

しかし、『単に、常に非常な利己主義という遺伝子の法にもとづいた人間社会というものは、生きていくうえでたいへんいやな社会であるにちがいない』』であろうし、『遺伝的にうけつがれる特性が、その定義からして固定した変更のきかないものだと考えることが誤りだからである(ついでにいうと、この誤りはごくふつうにみられる)』(ドーキンス,p18)

さらには、『一方で遺伝子は人間の行動に統計的な影響力を行使すると考え、しかし他方で、その影響力を他の影響力によって変形させたり、克服したり、あるいは逆転したりできると信ずることは完璧に可能である』(ドーキンス,p522)


遺伝子と同じ自己複製子としてのミームも、この文脈で考えることができるだろう。
ミームにもESSがある。

つまり、ここがわたしの立っている位置である。

そして、ミームはそれ単独で優れたものとしてではなく、ミームプールの中で、他のミームを背景にして働くときに優れたものとして淘汰に残る。(相互作用・コミュニケーション)

さらに、一方でミームは人間の行動に統計的な影響力を行使すると考え、しかし他方で、その影響力を他の影響力によって変形させたり、克服したり、あるいは逆転したりできると信ずることは完璧に可能である。(じゃなかったら進化はとまってしまう)

このようなミーム的なESS概念を設けることができるおかげで、わたしは、コア・コンピタンスを、遺伝学から推論で定義付けることができている。

すなわち、「環境との関係性の編集能力」である。

問題はこの、「環境との編集能力」とはなにものなのか、なのである。

わたしは、それを私たちの脳と、私たちを取り囲むさまざまもの(環境)との複雑な相互作用の所産なのだろう、としか言えないでいる。

それが、信頼というものであったり、ソーシャル・キャピタルというものなのかもしれないし、個々人のキャパシティや係数 a 、その背景とての社風や社内文化としてのミーム等々なのかと考えている。そして、それらを統括的に考えるコミュニティ・ソリューション。

ある部分(それが多いのか少ないのかはわからないが)、それはESSにプログラムされているものなのかもしれない。

しかし、『私たち、つまり私たちの脳は、遺伝子に対して反逆できるほどには十分に、遺伝子から分離独立した存在なのである』(ドーキンス,p523)というように、脳が遺伝子からは独立した存在であるが故に、ミームが存在しえた(というか生まれた)、とすれば、私たち、つまり私たちの脳とミーム(そもそも利己的な自己複製子である)、そして遺伝子のESSとの関係性を観察し、考えることで、その秘密が理解できるかもしれないと、考えているわけだ。

わたしは、答えのない人間ではあるが、今年もこの方向性には迷いはない。

ということで、ミームメールである。

砂子組 熊谷です。
遅くなりましたが、
新年あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
私にとっては、充実の一年を過ごすことができました。
これも、桃知さんと出会い、桃組の皆様との出会いのおかげです。
ありがとうございます。
本年もよろしくご指導お願いいたします。

今年の正月はいままでのような、食ちゃ寝、飲んじゃ寝のダラダラした正月と違い(正月はそれでいいのかもしれませんが・・・)、今までになく充実した正月を過ごすことができました。本も5冊読むことができましたし、いろいろと考えるいい時を過ごすことができました。

このような変化は、全て桃知ミームとの相互作用により発生した行動です。
いままでの熊谷には考えられなかった正月の過ごし方です。
桃知さんと出会い、本質論で向き合い勝負している姿に、一流のカッコよさと本物を感じ、そこの空気を直(じか)に接していたい。そして自らも変化したいと思った。
そして、桃知さんの言われる。「人と人との情報的相互作用を見る目」を養い、相互作用の中で、日々変化するミームゲームを感じ取れるようになりたいものです。

そして、正月つくづく感じたことは、気づくのが遅すぎた。
私も今年で45歳になる。体力的にも後10年、頑張っても15年の60歳までだろう。
そう考えると、後15年しかないと思ってしまう。
考え方によっては、まだ15年もあるじゃないかと思えるが、私的には後15年しか・・・なのだ。

桃知さんではないが、私の失われた20年は本当に大きいと、今更ながら感じている。
しかし、60歳の人から見れば、45歳は若くていいなあ。まだまだこれからだ。と思うのでしょうね。

過去は過去、後悔してもツマラナイ。
桃知さんから「始めるのに遅すぎることはない。海馬は年と共に成長する。」
といわれ、勇気付けられた。これからの10〜15年目一杯がんばるべ!

明日から2004年の仕事初めです。
今年も桃知ミームにどっぷりと浸かり、人と出会い、相互作用による変化を楽しめる人間にないたいと思っております。
よって、今年も桃知さんの周りを付きまといますので、ご指導くださいませ。

以上、新年の挨拶と決断まで。

2004/01/04 (日)  
【ももち どっと くう】

午前8時起床。本当に穏やかな年の初めである。

浅草は今、そこいら中、人ばかりである。
ひと、ヒト、そしてまた人なのである。

何も生産しない街である浅草は、お客さまに来ていただけないことには商売にならない街である。
浅草寺は行商はしないので、町全体がアミューズメントパーク化することで人を集め、そして生きながらえている。

もちろんその中心は浅草寺であるが、それを中心に、それぞれの商店街が、商店が、まるで遺伝子複合体のように相互作用を繰り返し、休むことなく集客を繰り返している。


今、隣の雷5656会館(“かみなりごろごろかいかん”と読む)では、恒例の浅香光代さんの新春特別公演が行われていて、団体のお客さまがバスで押し寄せている。

正月の浅草寺は言わずもがなの大混雑状態が続いている。
ここも団体のお客さまが目立つが、信心深い方々の多くはご老人である。

浅草寺は、沢山の露天に囲まれている。
これは一見の価値があだろう(かくいうわたしも、今日のお昼は浅草寺境内の予定である)。

浅草公会堂では、新春浅草歌舞伎が行われているせいか、観劇の方々か、劇場前、オレンジ通りも沢山の人出である。


さて、昨日は、朝食にお雑煮(もちは年末新潟の近藤さまから沢山いただいていた)を食べ、このサイトを更新し、穏やかで暖かい日和に誘われ浅草散歩へでかけた。

いつものように、導き地蔵、観音様とお参りをし、露天をちょっと冷やかし、早めの昼飯にしようか、と思ったわたしは、ホワイトシチューが食べたい、とぱいちへと足を向けた。

大黒屋(有名な天ぷら屋)の前の大行列を見て、ぱいちも混んでいるんじゃないのか、とちょっと不安になる。

しかし、その不安は見事にはずれた。
ぱいちに到着するも行列はなかったのだ。

なぜなら、正月は午後1時からの営業との張り紙が入り口に張ってある。
あえなく挫折。その上、正月メニューにはホワイト・シチューがな〜いじゃないか。

それじゃ、ということで、オムライスかハヤシライスでも食べようかと出向いたヨシカミは、開店前だというのに人が並びまくっていて、これも挫折。

休日の浅草、有名店はそこいら中人が並んでいるのはしょうがない。
子供がデニーズを所望するので行ってみたら、ここも待ち人多数。(こういうのを見ているから、東京は不景気じゃない、とわたしはついいってしまうのだ)


そんな中、ラッキーにもリスボンに入ることができた。
わたしは、なぜかカレーが食べたくなり、焼きカツののったカツカレー、家人はオムライスをオーダー。

リスボンは、良くも悪くも浅草の古きよき精神を残しているお店である。
安心して食事ができるお店であることは間違いないのだが、カツカレーの添え物は、福神漬けでもラッキョウでもピクルスでもなく、紅ショウガなのである、これが笑える。

その後ケーキを食べにNANAN(ナナン)に向かうも、ここも満員。
しかたなくアンヂュラスに行ったらここは入れた。

特別珈琲とクリームチーズケーキをオーダー。
家人はアップルパイをオーダーする。

アンヂュラスのケーキは甘み控えめで食べやすいが、とても古臭いスタイルのケーキである。
ここも、良くも悪くも浅草の古きよき精神を残している。


晩飯は三日とろろ。
宮崎の伊藤さまからいただいていた自然薯を食べる。

米は昨年末岸本組さまからいただいていた北海道産である。
ご馳走さま。m(__)m


こうしてわたしは食べ続けている。
利己的な遺伝子にプログラムされた生存機械として豚のように食い続けている。(阿保か!)

これには、ドーキンスの『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』という言葉も尻尾巻いて逃げ去るのみである。

それにしても、スープカレーが食いたい今日この頃である。

2004/01/03 (土)  
【こんどく始め】

ワトソン『DNA』 『DNA』

J.D.ワトソン (著)
A・ベリー(著)
青木 薫(訳)
2003年12月18日
講談社

今年最初の「こんどく」である。
なんと「DNA」である。(笑)



著者のジェームス・D・ワトソンは、その昔、DNAの二重螺旋構造の発見によりノーベル賞を受賞したワトソン&クリックのジェームス・ワトソンその人である.

つまり、これは科学者、DNA関係の研究者(科学者)が書いた本なのだが、きれいな挿絵(カラーなのだ)も興味深く、優生学、遺伝子組み換え食品、ヒトゲムノ、遺伝的な病気、人種差別、ロマノ皇帝とアナスタシアの謎まで出てきて、読み物としても十分に面白い。

そして結構粗野で辛辣なことばを使う人である。

『はっきり言わせてもらえば、遺伝子組み替え食品を悪魔のごとく決めつけ、その恩恵を放棄するのはまったく愚かなことである。さらに、発展途上国では遺伝子組み換え食品が切実に必要とされていることを考えれば、チャールズ皇太子などの憶測に振り回されるのは犯罪的でさえある。』(ワトソン,p209)

英国の皇太子さえちゃんと批判してしまうのだ。
科学者はこうでなくてはいけないのだろうな。(笑)

余談だが、わたしは遺伝子組み替え食品に関するマスコミ(とそれに扇動された消費者)の過剰反応と公共工事批判は同列のものだと考えている(その意味ではワトソンの味方である)。

つまり、両方とも、『社会政治的なものであり、科学の言葉で語られてはいても、概して非科学的である。』(p20)とでも書けようか。(笑)

でも、遺伝子組み合え食品は、個人的には食べたくない、と思う。
勝手なヤツである。


さて、わたしの興味の対象である「ミーム」についていえば、こんな記述がある。(彼はミームという言葉を使ってはいないが)

今わかっていることは、約15万年前に我々ホモ・サピエンスは発生し、約10万年前には、ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルタンシスは共存していた。

しかし、『約三万年前に、現生人類は、眉の飛び出た親戚を絶滅させてしまった』

『つまり、その七万年のあいだに、現生人類は、技術的もしくは文化的な進歩により優位性を獲得したらしいのである』

『この仮説は、まったく別の考古学的データからも支持されている。約五万年前、現生人類は突如として、文化的に進化したらしいのだ』

『この時代の遺跡からは、最古の装飾品や日用品を作るために、骨・象牙・貝殻が日常的に使われていた形跡や、狩猟採集技術に最初の進歩と言えるものがいくつも起こった証拠が見つかっている。いったい何が起こったのだろうか?』

『おそらく確実なことは永遠にわからないのかもしれない。だが、誰しも次のような推測をしたくなるのではないだろうか。そのころに言葉が発明され、それがこうした進展を可能にしたのではないかと』(p、314)


そして、『第13章 わたしたちは何ものなのか −遺伝と環境−』は、ミーム論の生みの親、R・ドーキンスの『利己的な遺伝子』 からのことば、『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』を思い出させた。


ドーキンス『利己的な遺伝子』『利己的な遺伝子』

リチャード・ドーキンス(著)
日高敏隆ほか(訳)
1991年2月28日
紀伊国屋書店







わたしをとりこにしているミーム論ではあるが、何ゆえそうなのか、といえば、上のドーキンスのことばがあるからに他ならない。

つまり、『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』

そして、『私たち、つまり私たちの脳は、遺伝子に対して反逆できるほどには十分に、遺伝子から分離独立した存在なのである』(ドーキンス,p523)

2004/01/02 (金)  
【今年も一生懸命働きます】

好況滋業「うっきぃ」葉書は完売。
追加オーダーがあったのでもう一枚書く。

ついでに、調子に乗って書初めの真似事をしてみる。
お題は「好況滋業」としてみた。

これは「公共事業」のもじり。

「好況滋行」という手もあったのだが、もじり、という意味ではこの方がよいか、と思ったわけだ。

字は思いっきり下手であるが、トリックの奈緒子母=里見の習字教室ファンのわたしにとっては、言葉こそ「力」なのだ、と勝手に解釈しているので、まあ、そのうちうまくなるかもしれないので、長い目で見てやってください。

ちなみにこれは非売品。


さて我が家の初詣は、それは浅草寺しかない。

常日頃のお参り先への今年初めてのお参りが初詣であるなら、もう浅草寺へ行くしかないのである。

ただ、元旦の浅草寺の人出はたいへん多く、日中はとてもお参りをするどころではないので、我が家は、人出が少なくなる午後6時過ぎを狙ってお参りに出かけた。

まずは、近所の「導き地蔵へ」お参りをし、その後、恒例に従い、「銭塚地蔵堂」へお参り。

「かんかん地蔵」をかんかんし、「今年も一生懸命働きます」、とお誓いをする。

お参りは、お願いをするのではなく、己への誓いじゃなければ意味がない、と思っているので、わたしの場合、こうなる。

ここで、秘密兵器を調達。

この秘密兵器は、1月24日の新年会へ参加の皆さんのお土産になる予定である。
なので、それまでは、何ものなのかは内緒なのだ。

それから、浅草寺本堂へお参り。
かなりの人出ではあったが、午後6時過ぎということもあり、流れはよく、意外とあっさりとお参りができた。

ここでは、南無観世音菩薩を3回。
それから家内安全、商売繁盛、世界人類が平和でありますように、といつものとおりである。

そして「お守り」を購入した。
旅人であるわたしは「交通安全」である。

2台あるボブルビーの一台とPCケースには、おとりさまのお守りがついているので、このお守りはもう一台のボブルビーにつけておく予定。

それから、いつもの喫茶店に新年の挨拶をし、珈琲で一服。

その後メトロ通り商店街に出て、「べんがら」さんで干支の猿の絵の入った暖簾と九申(苦去る)を購入し、晩飯は、わたしの最近の超お気に入りであるクロープクルアで、タイ料理&ベトナム料理三昧。

昨晩の目玉はヤム プラー ドゥーフー マムアン(ナマズのクリスピー揚げ、青マンゴー添)。
これはマイウ〜。(*^_^*) 浅草でも、素晴らしいエスニック料理が食べられる幸せ。

たまの正月休みである。

2004/01/01 (木)  
【謹賀新年】

うっきぃ今年は申の年、申といえばサルゲッチュ。
「ウッキィ、ウッキィ、ウキ、ウッキィ」しか思い浮かばない。

なので、今年は「うっきぃ」と書いてみた。

(←)これは、例によってハガキに書いたものなので、もしもだが、欲しい!という酔狂なお方がおられたなら、メールをくだされ。先着1名さまへお送りいたします。


【七味五悦三会】

年末恒例の七味五悦三会。
2003年版は、なぜか年明けに書く。

まずは七味(順不同)。

・北海道は深川、南大門の怒涛の焼肉。
・北海道は滝川、松尾ジンギスカンのジンギスカン鍋。
・北海道は釧路で食べたかきそば。
・北海道は紋別で食べた山盛の毛蟹。
・盛岡は向井田さんと行く焼肉屋(名称不明)のタン刺&ハツ刺&レバ刺。
・同じく盛岡は盛楼閣の冷麺。
・岩手県は久慈で食べたあんこう鍋。
・岩手県は一関市、直利庵のえんぴつのように太いそば&なんだかよくわからない天ぷら。
・浅草はぱいちのホワイトシチュー。
・名古屋は宮鍵のかしわ味噌寿き。
・郡上で食べたぼたん鍋。
・鹿児島市で食べた黒豚のしゃぶしゃぶ。
・熊本県は人吉、えびちゃんの地鶏炭焼き。
・熊本県は人吉、上村うなぎ屋のせいろ蒸。
・奄美で食べた鶏飯(けいはん)。
・奄美は、喜多八の豚足とマダ汁。
・沖縄のシークヮサー
・・・とよく食べた。
七味に関してはまだまだ出てくるのだが、この辺で打ち止めとさせてほしい。


五悦(順不同)

・生まれて初めて犬ぞり&スノーモービルに乗れたこと。
・生まれて初めてジェットスキーに乗れたこと。
・生まれて初めて観た郡上踊り。
・生まれて初めての沖縄。
・広がり続ける紐帯。


三会

三会に関しては、書けない、というか書ききれない、というのが、正直なところだろう。
五悦にも書いたけれども、広がり続ける紐帯なのである。

依存リンクもだいぶ増えてた。
そして今日も新たに依存リンクを登録させていただいた。

UW@GOTOさま。土建屋.comさま。


ということで、今年も地を這いずり回りながら、猿のように疾走(するのか?)する予定でありますので、皆様方の、ますますの御贔屓をお願い申し上げる次第。

そして、皆様にとって、この2004年がよい年となりますことを心より御祈念申し上げます。
今年もよろしくお願いいたします。m(__)m

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