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店主戯言040102 2004/01/16〜2004/01/31 "There goes talkin' MOMO"


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2004/01/31 (土)  
【自分を楽しませようという衝動】

桃知@札幌%京プラの一番上で朝食中である。

わたしときたら、はほぼ毎日、朝目覚めたときには“つまらない"と感じている。
これが困ったものなのだ。

なので、どうしたら今日一日、自分自身を楽しませることができるのか、をいつも考えているわけだけれども、考える、と書いてはみたものの、考えること自体が楽しいのか、行動することが楽しいのかは、はっきりとはわからない。

多分、その両方だろうとは思う。

昨日の葉月会の新年会、わたしは浅草での新年会につづき、お猿さん(うっきぃ)のきぐるみを着て参加した。

これは特段楽しいと思っているわけではないのだが、わたしのなにかのスイッチを押してはくれる。

その後2次会3次会とうっきぃのまま過ごし、ススキノもその格好で徘徊してていた。
ホテルへ戻ったのは午前2時近くだったろうか。

新手のホームレスにしか見えなかったかもしれないな。(笑)

ということで、今日は11時30分のANA便で帰京。
おいらはかえるだ。

2004/01/30 (金)  
【今年は、『反古典の政治経済学要綱』読書会をやりたい】

昨日、今日と不二建設さまで勉強会。
なぜか滝川では、まにあ・1号さまとその舎弟さまとコテージに滞在している。

夕べのひと時、ダイニングテーブルにパソコンを並べ、なにやらかちゃかちゃやっている姿は不気味というか異様な風景であろう。

本日は、午前中で不二建設さまの仕事を終え、そのまま札幌へ向かい、京プラで開催される空知建協広報IT委員会に出席。

その後は葉月会さまの新年会であり、札幌宿泊の予定となっている。


さて、一昨日、網走からの移動(オホーツク6号)の車中で、わたしは、村上泰亮の『反古典の政治経済学要綱』を読んでいた。

この本は、わたしのIT化論の基本部分を構築している理論、つまり、開発主義(「公共工事という産業」の生い立ち)、ミーム論(情報、市場)、反省という行動(イントラネット)、自由主義(思想の自由)、そいういものがすべて網羅されたものである。

要綱というだけあって、手軽に持ち歩ける本ではある(知っている方は知っておられるだおうが、要綱ではないものがちゃんとある)。

ただ、その分余計な説明は省いてあり、やたらと専門用語の並ぶ難解極まりないものとなっている。

であるが故、わたしも本当に理解しているのか、と問われれば、答えはいつでも「?」なのである。

なので、また何度も読み返してはいるのだが、ただ読むことだけでは理解は広がらないことを実感として教えてくれたのもこの本なのである。

この本を読む為には、経済学的知識は当然として、生物学(遺伝学)の知識が絶対に必要なのだ。

できれば社会心理学と哲学もかじっておかないと、その文字の威力(専門用語の羅列)の前に、我われ凡人は絶望的な気持ちになってしまうだろう。

つまりわからない。

桃組では、この本を枕としている方々が多いと聞いている。
つまりこの文字の威力は、睡眠薬のような効果を持っている。

だから、わたしがこれは大切な本だよ〜、とことあるごとにいっても、最後まで読みきった、という方をわたしは知らない。

だからといって諦める必要もない。

最初は、わたしもそうであった。
読めなかった。

しかし、わたしはこの本(『反古典の政治経済学要綱』)を読み解くことで、なにかがつかめるかもしれない、という淡い期待のために、眠い目をこじ開け、だらけきった脳味噌にカツを入れただけである。

それは単純に自分の為に、己の世界イメージの広がりのためにである。
(反省の行為→思想の自由)

そして今では、この本の理解は、己の係数aに比例するものでしかないことも十分に理解している。


だからわたしは、今年の正月休みを、生物学(遺伝学)の本(主としてR・ドーキンス)を読むことにあてていたのだ(詳しくは2004年1月前半の戯言をご覧あれ)。

そしてその成果は意外と大きかったのかもしれない、と感じている。
また少しだけだけれども、「わかった」ところがある。

村上泰亮は、自由主義を人間の本性という。

自由主義を我われは単純に政治経済的なリベラリズムと解釈してしまうのだが、それは多分に利他的な人間の行動を含んだものとして使っている。

しかし、この意味でなら、わたしはリベラリズムは人間の本性ではない、と考えている。
リベラリズムはミームではある。

しかし、人間の本性はあくまでも利己的なのだと思う。
ただ己のミームのために利他的に振舞うときもあるのだ。

村上泰亮は自由主義を我われが狭い範囲で使うリベラリズムを超えて使っている。

つまり、それは「思想の自由」だ、というのだ。

これは政治経済学的なリベラリズムの定義の範疇をはるかに超えているように思う。

思想の自由が自由主義の中枢にあるものであるなら、自由主義への衝動とは、じつは本来利己的な行動なのではないのか。

自己言及→自分探し→わたしはなに?→そして自己と世界イメージとの兼ね合い→ことばでの意味づけ。

もし、そうでなのであれば、それは人間だけが持つの本性といってもよいだろう、と思う。

それは反省の働きである。

ことばのもつ意味、たとえば自由主義とリベラリズム、その解釈をどう取るかだけでも、まったく違った解が導き出されることもある。

だから何度も咀嚼する必要があるのだろう、と少し「わかった」のである。

2004/01/29 (木)  
【@滝川】

ちょっと頭がいたい。
昨日はオホーツク6号で4時間移動した。
東日本で一番うまい怒涛の焼肉屋「南大門」で肉をたらふく喰らい、魔王も飲み干し、今朝はゲップをすると肉のかほりが漂う。

オープンセミナーのご案内のご案内に、2月17日、18日、建設産業構造改善情報構造交流フォーラム(旭川、帯広)を掲示したので、興味のある方はご覧いただきたく思う。

さて、例によって時間がない。
のでA木さまの登場である。

A木です。
新春講演会の内容がまだ頭の中でぐるぐると渦巻いております。
従来の講演で耳にすることのなかった「共感シンパシー」「共進化」「可塑性」について考えています。
しかし、まだ全然そしゃくできていません。
自らの勉強不足を痛感しています。

しかし、3つの言葉をインターネットで調べてみると、いろいろ興味深い「思考」「研究」にヒットします。
それらを「今という時代」「公共工事という産業」に当てはめて考えると、どうなるのか?
分からないから考えます。

「ダンピングまがいの受注を繰り返し、税金が余った」というマチの建設業界が、果たして市民から「建設会社はよくやっている」と信頼されているのか?と問い掛けには、頭をがつんと殴られた思いです。

では、ごきげんよう、なのである。

2004/01/28 (水)  
【@網走】

桃知@網走です。
女満別空港から網走への移動中、見回せば雪ばかり。

この地は北海道でも比較的雪の少ない地なのだけれども、今年は先日の嵐の影響で雪だらけなのである。

昨日は、網走建協IT推進チームの皆様と今後の進め方について打ち合わせ。
その後、ホタテビールとこんぶビールで一献。

この不思議なビール、さすがに不思議な味であった…。

飲みたい方は網走の『喜八』へどうぞ。
鯨料理もしっかりあっておいしいのだ。

ということで、今日は午前中にプレゼンをしなくてはならないので、大忙し。

新年会メールをひとつ引用して終わりのこころだ。
まーみゃさまだ。

充実した時間を過ごす事が出来ました。
本当に、ありがとうございました。

もう、講演を聞く前はガラにもなく緊張してしまいました。
なんで?おまえが緊張すんだー。何ですけども。。。

飽きの来ない2時間でした。
あっという間の2時間でした。
ビックリでした。
時に、笑いも織り交ぜ!
次も聞きたくなるじゃあない。

なにせ、私が今まで参加した講演(講習)会は、あっという間に、私の頭を前後左右に揺れさせるのです。

講演の内容は、笑えませんでした。
ある部分では、絶望感さえ。。。

聞いている時は、ふむ、ふむと思っていたことも、こうやって書いているうちに、自分の理解度の低さを痛感しております。
PPTをダウンロードさせていただき、反芻させていただくことにしました。

その後の新年会では、たいへん楽しく過ごさせて頂きました。
貴重な「うっきぃ〜」のお姿まで、拝見させていただきました時には、さすがだな〜と。

たくさんの熱い思いの方たちに、お会いできました。
貴重な出会いでした。

ほんとうに、待ちに待った時間はあっという間に過ぎ去りましたが、また機会があったらぜひ、ぜひ、行きたーいのでした。
参加できるよう、作戦を練ります。

そして、それまでに、少しでも自分のキャパシティを大きくしておきたいと思います。

で、翌日家に戻る車中では、桃知講演復習会が開催されました。
「わかったか?おめぇ、y=axの方程式。あれはだな〜。。。」と、じーさまに講習を受けながら無事お家に着きました。

では、またお会いできる日を楽しみにしております。
お体には、充分気をつけてくださいませ。

2004/01/27 (火)  
【ガラポンへの衝動】

午前5時起床。
今日はこれからJAS 181 便 羽田 07:55 発 → 女満別 09:35 着で網走に向かう。


昨日の新宿でのセミナーは、策に溺れた、という表現がぴったりくるだろう。
はっきりいって「芸」としてはよくない出来であった。

頭の方が先走ってしまっていて、身体がそれに追いつけないでいた。
芸は身体が覚えていていくらのものである。

リベンジは来月の2日と3日。
次回は構成を変えて望む予定である。(反省)

帰宅後は「清司」に向かい、24日に忘れたコートを受け取りに行きながら、お騒がせした詫びもかね、家人と寿司を食べ帰ってきた。

つくづく思うのは、寿司屋は寿司を食うところである。
それも長居しないで。(笑)

さて、24日の講演内容に対してGOODなメールが届いていた。
このようなメールは非常にありがたいのである。
なぜならまた考えることができるからだ。

久しぶりの桃知節のライブを聴き脳味噌が活性化しました。
桃知さんが追求しておられる「信頼」は環境変化要素 (市町村合併問題、高齢化社会に伴う福祉予算の増大等、全ては財政問題に帰着する)を考慮しながら構築しなければならないと思いますが、信頼構築するには環境変化が大きすぎて、公共土木産業の崩壊は避けられないと思います。

この激震とも思える環境変化に事業者団体は団結しておれるでしょうか?
結果として一度崩壊しないと信頼の構築は出来ないのではと思います。
大半の国民が公共事業ダメダメミームとなっている今、言葉としての「信頼」構築は解るのですが、相手も変化をしないと信頼構築は出来ないのであり、不特定多数の国民市民を対象にしての信頼にはあまりに時間が掛かりすぎるのです。

それでも公共土木産業の信頼を得るために国,地方自治体は情報開示を積極的に進め、国民市民のキャパシティを広げなければ信頼を得ることは出来ないでしょう。

これをガラポンへの衝動といわずなんといおう(笑)。

正直にいえば、わたしもいつも己のうちに存在するこの衝動と戦ってはいるのだ。
あきらめた方がどんなに楽かは知っているつもりである。

だが、それが人間として最善の方法だとはさらさら思っていないので、考えているだけである。

あきらめろ、という意見も確かにあるが、わたしは諦めが悪いのである。
ガラポンは思考停止への誘惑だと思っている。

つまり、間に合わない、崩壊するしかないのだから何もしない、というのは超越論のようなもので、神様だけがご存知、すべては神の思うがまま、と変わらない。

我われは善良な子羊のよになにも考えないで草を食べるほうが、食事もおいしいかもしれない。

しかし、ふと終わりの日が脳裏を掠めたとき、またなにかにすがらなくてはいけないほどの不安に襲われる。

その先に何があるというのか。
山岸教授は、またヤクザ型コミットメントの社会が生まれる、というのだ。

わたしは、出来ればそれを回避したいと思っている。だから方策を考える。
リベラリズムという価値観にかけてである。(わたしは誰がなんと言おうともリベラリストである)

ただ誤解されて困るのは、わたしは、崩壊させないため(結果的に崩壊が起きない、若しくは小規模であれば尚うれしいが)のIT化をいっているのではない。
実は崩壊後を想定してさえいることを理解してほしい。。

「公共工事という産業」は崩壊に向かっているという認識は、わたしも同じなのだ。
それは多分に今の財政政策では、という条件付なのだが、「公共土木産業の崩壊は避けられない」。

だから信頼のIT化をいうのだ。
(しかし)この部分は理解は、先日書いたように複雑で難しい。

わたしは、いつでも最悪の事態を想定している。
それはこの無策に近い財政政策(具体的言えば、現政権的な政策)が続くことである。

問題は、だからそうなったらどうする、なのである。
問題は、その時の被害規模(社会的コスト)なのであり、生活者としての個々人が被る被害規模なのである。

ガラポン派は、ここに「構造改革は500万人の雇用を創出する理論」つまり、個々人のマリアビリティが十分に高いことを仮定した政策を持ってくる。

それに対して、わたしは、個々人のマリアビリティは決して高くはない、というのだ。
ましてや「公共工事という産業」のマリアビリティと一般的信頼は限りなく低い。これは現実である。

確かに無策なガラポンの後に「公共工事という産業」は再生するのかもしれないが(それはありえないとわたしは考えている)、たとえそうなったとしても、それは数多くの建設労働者の屍の上にでしかないだろうし、地場の中小建設業はその構成員にはなっていないだろう。

そのとき人々はどうなているのだろう。

ガラポン派にはこの視点がないのだ。
環境を容易に受け入れ、リベラリズムという価値観をもってそれに立ち向かうということをしない。

つまり、「公共工事という産業」が崩壊したとき、その一方の構成員である公務員は生き残る可能性はあるだろうが、問題はもう一方の構成員である、地場型中小建設業の建設労働者であり、生活者としての彼らが住む地域社会なのである。

このガラポンへの衝動は、果たして新たな彼らの生活(具体的には新たな就業先)を想定しているのだろうか?

この問いに対するガラポン派の、新たな職は自分で探せ、それも、今までより賃金レベルを落としたくないとすれば己を高く売る努力をせよ(自助自立)、という意見も百も承知でである。

わたしのいうIT化はそれさえ折込済みである。

だから、わたしのいうIT化のキーワードはマリアビリティであり、一般的信頼であり、キャパシティなのである。

これがなくては、建設労働者の転職による賃金は、スパイラル的に下落していくだけだろう。

最悪の場合、長期の失業も考えられるし、経営者は首を括らなくてはならないかもしれない。

この社会的コストさえも最悪の場合の想定として承知した上で(本当は承知したくないのだが)、だからマリアビリティ(可塑性)や社会的不確実性が存在し、機会コストが高い社会に通用する一般的信頼(あいにくと現時点での「公共工事という産業」の構成員には欠如している)を現時点で自らのものにしておく必要があるのだ、とわたしはいうのだ。

つまり、この能力は誰に宿るのだろうか、ということである。
「公共工事という産業」にだろうか。

違う、個々人にである。
わたしのIT化の視点は、生活者としての個人においているではないか(これがあるとないとでは、例え崩壊したときにでさえ社会的コストが全然違うと考えている)。

この、はかない、カゲロウのような可能性のなのかもしれないものに、わたしはIT化を通して実現しようとすることを提案している(実証はわたしが自分自身で行ってきた)。→事業者団体ベースのIT化

それは、最悪の場合、大量の長期失業、経営者は首を括らなくてはならないかもしれない、というコストを最小限に押させたい、という衝動である。

活動主体に事業者団体をおいているのは、個々の活動では、結果的にこのガラポンの時期を早めるだけで、適応への時間をかせげないからだ。(一度きりと反復集団のジレンマの違い&変化するのは人間である)

崩壊は避けられないとして、何の手も打たない行政、ましてやそれを手助けするような行政にはこの視点がない。

今できる最善の方法を考えない行政、それは民主主義国家であるこの日本という国で許されるものなのだろうか。だからわたしは公務員批判をしたのだ。

そして大切なことは、上のメールでの急激な環境変化とは、たかだか財政政策の手法的問題に収斂されるのである。

地球に隕石が落ちてきて恐竜が絶滅するのとは違うのである。

それはたかだか政策的な違いでしかない。
そして政策は一つではないのである。

わたしの講演はこれをいっていたのである。

この理解が難しいのなら、リベラリスト、P・クルーグマンの本でも読んで考えてほしい、なのだ。

では、行って来る。

2004/01/26 (月)  
【それが自分なんだから、そのために生まれてきて、生きているのだから】

長谷川さまから、新年会のお土産としていただいた乾燥芋を食べながらこれを書いている。

そしてこれも長谷川さまからいただいたお土産用の飴を見ながらあることを思いついてしまった。

それが何かを皆様にお見せできるには少々時間が必要だ。
しばし待たれよ、なのである。たぶん、結構笑えるものになるだろう。


さて祭りの後は、現実の世界と対面しなくてはならないので、精神的にはかなり落ち込むことが多い。

けれども、こんなメールが届くからまたわたしは頑張れる。
こういうことは後から気がつくものなのだけれども、わたしは宴会よりも講演会に力が入っていたようでやってよかった新春講演会、そして新年会なのである。

昨日は楽しい時間を過ごさせていただき、ありがとうございました。

12月8日の独演会以来、貴殿にお会いするのは2度目でした。独演会は私にとって、センセーショナルでした。日頃、私が考えていること、感じていること、そして、これからやりたいと思うことにかなりのヒントがありました。

とっかかりとしては、ある程度、理論が理解できたような気がして、1年くらいでこの理論を完璧に理解できるのではないかと思っていました。そして、5年くらいで貴殿のレベルにかなりに近づけるのではなかろうかと自惚れておりました。

昨日の新春講演会で、私の自惚れは貴殿のパンチで粉々になり、見事なKO負けを食らいました。これほどまでの完璧なKO負けは、とても、気持ちのいいものです。

1ヶ月強の間に私が進化するスピードよりも、はるかに速いスピードで貴殿は進化されています。そして、何故、全国から、これほどまでに人が集まるのかが以前よりも少しわかったような気がします。

12月8日の独演会後、「桃論」を読ませていただきました。それから、「場のマネジメント」にたどりつき、何故、弊社が今まで何度も経営計画を出し、その計画内容がほとんど実施されることなく、未達成に終ったのかがわかったような気がします。

昨日の新年会は見事に「場」ができています。アジェンダと解釈コードの共有がかなりできており、まさに人々が共振している。人間のすごさを改めて感じました。

(ざっくり)

おそらく、答えはないのでしょう。どれだけの仮説を積上げて、その仮説を実証していくだけなのだろう。

(ざっくり)

もう、自分の中にいる本当の自分にうそをつくのは止めようと思います。自分がやりたいことを正直にやっていこうと思います。誰に何と思われようが、それが自分なんだから、そのために生まれてきて、生きているのだから

支離滅裂な戯言を長々と書いてしまいました。よい機会を与えていただき、ありがとうございました。

私も次にお会いできる時まで、もっと進化のスピードを上げて、キャパシティを大きくしたいと思います。今後も宜しくお願い致します。

どうもありがとう。
「それが自分なんだから、そのために生まれてきて、生きているのだから」
こころに、ぐさりと、きました。


A木さまより。

昨日はご苦労様でした。お陰さまでとても楽しい時間を過ごすことができました。

浅草公会堂・新春講演会の会場に入ったとき、部屋が思ったよりも暗かったので、催眠商法の会にでも紛れ込んだのかと異様な雰囲気でした(笑)

桃知さんの話を聞きながら「ここに、北は北海道、南は九州から多くの人が集まっているが、わたしを含めて『なぜ?皆ここにいるのだろう』−などとぼんやりと考えていました。
 「男が男に惚れた?」
 「女が男に惚れた?」
 「義理で来た?」
 「寂しいから?」…でもない。
会社や家から呆れられながら、我々がお金と時間をかけて集まったのはなぜなんだろう?
自分でも良く分かりません(笑)

宴会では、案の定「あの人とも話したい、この人とも話したい」と思っているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいました。でも、この余韻がいいんですよね。
また、会いたいという思いを引きずりながら、それぞれの「現実」に向かって帰っていく…

そして今回、一番感激したのは長野県の熊谷さんと北沢さんの元気(?)なお姿を拝見できたことです。

お二人がそろって参加されましたが、今なお固い信頼で結ばれているんだなあ〜と強く感じました。

本日は秋野さんと吉川さんと3人で浅草寺を回って帰りました。おみくじは3人とも「凶」…。
わたしは「反省の必要があり」と書いてありました。

浅草寺のおみくじは「凶」が多いので有名、と聞いているし、実際にそうなのである。
今年の初詣ではわたしはたかだか「小吉」で喜んでしまったわけで、本当に凶以外をひくのは難しいのである。

だから、凶がでてもあまり気にすることもなく、まあ、わたしの人生なんざこんなもんさ、とケセラ・セラの精神で笑い飛ばせばよい。

ケセラ・セラといえば新年会では久しぶりにケーセラの石井さんとお会いできたわけで、最近音信がなく心配していたのだけれども、お会いしてみれば相変わらずの1トンさま。元気そうでなにより。これも新年会のおかげであろう。


ということで、早く現実モードに戻らなくてはならない。
今日は、新宿で某建設会社さまの勉強会。

このPPTと2月6日 高知県IT推進ステップアップセミナーでのPPTの作成で、わたしは時間変更線を超えて仕事をしている。

都内での仕事だと移動が楽なことも事実で、それだけでも旅の緊張から開放されてはいる。しかし、そえは滅多におとづれる機会でもないのも確かなのだ。

だからこそ、東京では独演もしなくてはならないし、法大のエクステンション・カレッジも準備しなくてはならない。

機会は自分でつくらなくてはならないのも確かなのである。

さて、A木さまのおみくじ「反省の必要があり」からのインスピレーションで、反省の行為について書こうかとも思ったのだが、先のPPTはまだ未完成なわけで、今はそちらの方が優先されなくてはなるまい。

反省の行為についてはまたの機会にでも。

2004/01/25 (日)  
【こなれていない】

さすがに今日は疲れている。

昨日の新春講演会、そして新年会に参加いただいた皆様には深く感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。m(__)m


さて、昨日の講演で使ったPPTをダウンロードのページに掲示したので、必要な方はダウンロードしてお使いいただければと思う。

昨日の講演の反省点は盛り沢山であり、その意味ではとても収穫の多い試行ができたと思う。

反省点の第一は、進化ゲームアプローチの説明が「芸」としてこなれていないということだろう。

反復囚人のジレンマゲームでの最も進化的に安定する戦略である応報戦略。

ここかから事業者団体ベースのIT化の必要性を導きだそうとしている。
しかし、これは一見かなり矛盾した戦略であり、説明不足だと誤解が生まれる。

なにせ、山岸教授が言うように、信頼が必要とされるのは、社会的不確実性が高く機会コストの高い社会なのであるとすれば、公共工事の信頼を高めようとすると、短絡的には市場原理の強い入札制度の方が良いように思えるからだ。

しかし、対応策はもっと複雑なのだ。
その複雑さをすっきりと理解していただきたくてPPTを作成して講演という「芸」を行うのだけれども、…こなれていない。

2004/01/24 (土)  
【薄くて広い紐帯】

今日は、新年会。
遠くから沢山の方々においでいただける。幸せである。

といっても、わたしに会いに来るのではない。
それぞれの方々がそれぞれの方々とのF2Fを楽しむために集うだけである。

だから、ただ飲むだけである。


インターネットは広くて薄い紐帯の場である。
しかし、インターネットは、社会的に不安定で機会コストの高い場である。

しかも仮想の社会である。
我われはここで、「一般的信頼」をどうすれば身につけることができるのだろう。

そして、この仮想の社会と現実社会とはどう結びつくのだろう。
一般的信頼というキーワードで。

下に山岸俊男による信頼の分類を載せておく。
今日の講演に使うPPTからである。


↑クリックすると大きな画像が開きます。

2004/01/23 (金)  
【ESSというよりは集団的に安定な戦略】

八日ぶりに自宅にいる日。
いつもよりも遅い目覚め。そして八日ぶりにいつもの喫茶店で朝食を取りながらこれを書いている。


さて、明日は新年会なのだが、その前振りである講演会(浅草公会堂)での講演内容をじつは今頃考えていたりする。

お題は、(仮)「桃知利男の2004年大予想大会」…だそうだ。(笑)

いささか時期遅れの感もあるし、申の年は「あんまりようございませんよ」などと、物知り年寄りの真似事でもしようと思ったのか、今となっては、あまり気の進まないお題である。

はなしは脇道に逸れるが、物知り年寄りと言えば、昨日の帰りの新幹線で、田中秀征さん(長野県のどちらかというとまともな田中さん)にあった。

なにやら原稿を書いておられたのだが、ちゃんと原稿用紙を使っておられた。
以前、脚本家の内館牧子さんに「こまち」車中でお会いしたときにも、原稿用紙に執筆中であった。

わたしもなにやら書いて原稿料をいただく人ではあるが、もちろんパソコンで執筆なわけで、ふと思ったのは、原稿料が高い人っていうのは、やっぱり原稿用紙なのか、ということ。

当然、原稿を電子メールで送るなとどいう野暮なことはするわけも無く、多分、担当の編集の方が、取りに来るのだろう。


まあ、そんなことはどうでもよくて、目前の問題は明日の講演である。

(仮)「桃知利男の2004年大予想大会」

じっとお題をみる。

・・・そしてわたしゃふと思いついたのだ。
何を思いついたのかは、明日まで秘密のココロだ。


ところでわたしの最近の関心は、もっぱら事業者団体(建設業協会)の存在意義へのESS的理論の適応である。

この建設業協会、世間一般ではすこぶる評判が悪い。
つまり、談合団体、癒着の温床&etc.

その上、会員からもその存在意義が問われているところも多々ある。

しかし、わたしは集団的行動することの必要性を(IT化に限らず)ずっといい続けている。

この建設業協会の存在は、ESS(進化的に安定な戦略:メイナード=スミス)というか集団的に安定な戦略(CSSとでも呼ぼうか)としては当然の帰結なのだと考えている。

反復囚人のジレンマをご存知だろうか。
アクセルロッドのシミュレーションによって明らかにされた、もっとも生存に有利な長期的戦略は「応報戦略」なのである。

これを山岸俊男はこういう。

『人々が他の様々な人々と囚人のジレンマを経験している状況では、利他的利己主義にもとづき人々が応報戦略を採用するようになり、結局は安定した相互協力状態が生まれる』(山岸,1998,p75)

どんな環境でも、そこに社会的不確実性があれば、人は一般的にコミット関係を形成し、関係の固定化による社会的不確実性の低減を図ろうとする。

これは遺伝子的行動原理だというこができるだろう。
我われは一般的には必ずそうするのである。

事業者団体はこれを司る遺伝子の社会的表現型である。

問題は山岸俊男の示唆にある。
このような、事業者団体のようなコミットメント関係を信頼と呼べるのか、ということである。

山岸の答えは「否」である。
このような関係を彼は「ヤクザ型コミットメント関係」と呼び、それは「安心」だというのだ。

それは「信頼」、ましてや、今我われが一番必要としている「一般的信頼」でもないと。

山岸によれば、信頼が必要とされるのは、社会的不確実性が高く機会コストの高い社会においてである。

であれば、「公共工事という産業」が信頼を勝ち取るには、社会的不確実性が高く機会コストの高い社会を作り出せばいいのか・・・。

ここにおいて長野県の田中知事の政策は正しいように思える。
彼がつくり出したものは社会的不確実性が高く機会コストの高い社会としての長野県である。

では、そこで「公共工事という産業」の一般的な信頼は生まれたのだろうか。

とここまでが明日の講演の前振りなのである。
後は明日をお楽しみに、である。

2004/01/22 (木)  
【今年一番の冷え込み】

午前4時起床。
兵庫建協淡路支部さまでの協会イントラネット勉強会4連戦も本日が最終日。

終了後、新神戸から新幹線で帰路につく。
午後10時頃には自宅に戻れる予定。八日間ぶりだ。

今日の洲本の最低気温は−4℃、最高気温は0℃らしく、淡路とは思えないような冷え込みらしい。まだ部屋でぬくぬくとしているからわからないのだが、強い風の音は聞こえる

これから帰り支度もしなくてはならないので、いただいていたメールの引用でお茶を濁す。

A木さまより。

さて、本日の店主戯言のスー様の
>『A木さんとも面談したい。
>でも、A木さんは・・ 小生と話したいなどとは思ってないはず。』
>しかし、この情報がここに公開されたことで、A木さまの心は動くかもしれない・・・。
>すなわち複雑系?(笑)

…を読ませていただきました。わたしは単純系(笑)でございますので、スー様とお会いできるのを、心から楽しみにしております。

でも、体は一つ、そして一晩限り…ですので、あ〜ぁ、時間が過ぎるのはなんて早いんだろう、と嘆くのでございます。たぶん…。

24日はいよいよ新年会。
ご参集予定の皆さん、当日は寒いらしいですから、体調にお気をつけておいでください。


大盛さまより。

【答えのないコンサルタント】

これは桃知さんがよく口にする語句ですよね。 いい響きだと思います。
昨日の朝日新聞夕刊に,弱冠の年齢(女性ですが)で芥川賞を受賞された 金原ひとみ さんのコラムが掲載されていました。

受賞者が単に「若い」というだけでなく,マスコミ会見の場所で奇抜な(?)ファッションに身を包み,その容姿と芥川賞という伝統ある賞とが合わないとか,何でこんな奴が?とか賛否両論が交わされている反面,当の本人はまるで鼻歌でも唄いながらのように,随分呑気であるという印象を受けます。ファッションについては「作業着の大盛」で通っているので私がとやかく言える立場ではないのですが(汗)。

そのコラムの中で,「人は常々答えを求めているものらしい。自分が何者であるか,などと,何にでも結末を求められるらしい。(結果を)求めて何になるのか,手に入れたら金がもらえるわけでもない,ただ単純な理由付けをしたいだけであってハリウッド映画のようなものだ。(中略)答えを求める人はこぞってハリウッドばかりを観る。本当は答えなどないし,なくていいし,いらないし,バカバカしいのに」と表現しています。 また,「ミニシアター系の映画が持つ,独特の色味やら,わけのわからなさのユーモアとか,どうなったの?みたいな濁りが持つ魅力というものがあってもいい・・・」とも表現しています。

いやぁ・・・うなされました。 大盛自身,地質調査の技術者と言う立場であれば,求められるものに対して「答え」を出す必要があります。ただ,相手は何を求めているのか,どうすればいいのか,どうしたいのかという相談については 答えのない技術者 と言う肩書きで話をするようにしています。また,うっとこの社の若い技術者が地質調査のことで私によく質問を持ち込んできます。 そこで,地盤に対する答えを言ってしまえば,話が進み,若い子らもこちらも楽です。答えは出そうと思えばいくらでも出ます。設計の,1から10までがマニュアルどおりの設計ならマニュアルどおりの答えを出せば済むことです。

でもそこは人間同士,釜のメシの場所は違っても技術者同士ですからディスカッションしましょうよ。 ああいえばこういう・・・っていうのではなく。 というある意味「人間臭さ」を持つ曖昧な面があってもよろしいのではないでしょうか。

桃知さんという人間を見て思うことがあります。
桃知さんは「建設業のIT化と建設CALS/ECの理解の為に」というキャッチフレーズでメシ食ってますが,いざ共に酒を飲んで,話を聞いていると,普通の人間なんですよねぇ。 なのに私は,毎朝の玄関先の掃き掃除のように,日課として 店主戯言 を読むのは何故なんでしょう。 桃知さんの発する語句の中に「答えとなるヒント」を探しているだけなのです。 これが桃知さんに「答え」を求める,桃知さんが「答え」出す,となったら,桃知さんという人間は単なる怪しい商売をやっている「おっちゃん」になるし,わけのわからない「カリスマ的存在」になってしまうのです。そういうのであればこれだけ熱心に店主戯言を読みませんよね。

「私は答えのないコンサルタントです」という語句がなんとなく(ようやく?)理解できてきた次第です。(ただ,桃知さんには,私では真似のできない 何か があるのですが・・・・)

大盛は地質調査のコンサルタント技術者であり,二児の父であり,酒好きの風来坊でもあります。仕事も子育ても「答え」が出たらそこでオシマイですよね。ましてや「答え」が見つかったりしたらえらいこってす。人生劇場の幕を降ろさなくちゃ・・・。ヒントを探しながら,コミュニケーションを繰り返しながら,「適した答え」という曖昧なものを探して行こうと思います。

最後に余談ですが,先に書いた「金原ひとみ さん」と同時に芥川賞を受賞された 綿矢りさ さんの作品を読みました。 この小説の答えはありません。 オチが好きで,何でもオチを付けたがる関西からいうと「オチあらへんやんけ?」ですな・・・。 でも,何故かしら何度も繰り返し読んでしまう。 小説は読み終わっていても,その続きは読者が考えていくのです。 「この二人どないなるんやろ?」・・・・。

つうことで,長文となりましたが,分野にとらわれず恋愛小説から専門書まで読みまくって考えていたことを書き込みさせていただきました。
失礼します。

はい、わたしも失礼します。(笑)

2004/01/21 (水)  
【メールサーバー復活いたしました】

桃知@洲本%淡路島です。
メールサーバー復活いたしました。



【本日、午前10時まで、メールサーバーのニューリアルのため、午前10時までメールの受信ができません】

so-netのメールサーバーのニューリアル中なので、午前中は私宛のメールは送信エラーになるかと思います。ご迷惑をおかけいたしますが、宜しくお願いいたします。


さて、本日は、スーさま・1号@Fe業界のメールから。

#ここんとこ、ももさん戯言では「小生琴線に触れる内容」が多いですね。
それよりも、ももさんに洗脳されてしまってここに至った・・ と考えるべきでしょうねぇ。

小生も、「情報の非対称性」に関して大いに関心あり・・です。
ベストセラー?本 薮下史郎氏「非対称情報の経済学−スティグリッツと新しい経済学」(光文社新書 ¥700)を眺めている最中ですが、2ヶ月で文庫本の1/3程度まで・・・

#また、昨年夏頃から「複雑系」関連書籍もいくつか眺めてますが、小生の脳力では・・・ 読了に至ったもの無し。

非対称性に絡めてもうひとつ。わかったフリしてDMを送る小生など「お笑いものの典型」ですが、google 検索エンジンの検索アルゴリズムにも「情報(関心)の非対称性」に絡めた理論が使われている と理解してます。

#AさんページからBさんページをリンクしているけど・・
BさんはAさんなど歯牙にもかけてないってな状態は良くあります。
もし、多数の方がAさんにリンクしているなら・・
Aさん内容は多くの方にとって関心が高いだろうってな前提。

=「向きを持ったベクトル群」に「重さ(価値の定量化)」を与えますと非対称マトリクスで表現できますが、その巨大なマトリクス(ほぼ、対角近辺にしか数値はない)解析して検索要求に答えるそうです(・・・と理解しました)。

まぁ・・ ビジュアルな表現では下記のような感じでしょうか? http://pitecan.com/presentations/DEWS98/NattoView/NattoView2.gif

※娘が受験の真っ只中でヒイヒイ言ってるのですが・・
1/24が楽しみです。

A木さんとも面談したい。
でも、A木さんは・・ 小生と話したいなどとは思ってないはず。

『A木さんとも面談したい。
でも、A木さんは・・ 小生と話したいなどとは思ってないはず。』

しかし、この情報がここに公開されたことで、A木さまの心は動くかもしれない・・・。
すなわち複雑系?(笑)

世の諺にあるように、雉も鳴かずば撃たれまい。
しかし、わたしは撃たれたい。(笑)


では、調子に乗ってもう一つ。

どうもです。松本の質問者です。これコテハンにしようかしら。

年明け早々、ハードな移動をされましたね。
北海道から兵庫では、この季節、気候に大きな違いがあり、体調には大きな負担がかかりませんでしたか。

いよいよ、今週末に浅草でお会いできますことを楽しみにしている私には師匠の健康が気になります。どうかご自愛ください。

「信頼とIT化」ですが、情報化社会において同時に発生するのが信用社会であると友人から昨年末に聞きました。師匠の昨今の「店主戯言」のとおりだと思います。

最近やっと読み終わったのですが、理学博士の金沢創という方の「他人の心を知るということ」という本はなかなかおもしろかったです。

本の帯に「他人の気持ちがわからない・・・。この呪縛からあなたを解き放つ画期的なコミュニケーション論」っていうのが目に留まり、勝ってしまったのです。まぁ解き放れたりはされませんでしたが・・・。

目からウロコというものはありました。
結論として他人の心は完璧にはわからないので、主観の中に他者をつくる(心の推論モデル)を我々は日常的に行っているということを「知った」ことですね。あとは言葉には「公然性」があるということですね。極論としてなのかコミュニケーションはスリルに満ちた「賭け」なのだそうです。

いまいち本をまだ完全には理解し切れてはいないのですが、私の解釈はだからこそ、人と人はコミュニケーションをしていかなくてはならないと。
賭けをしていかなくては、信頼も維持していけないと。
賭けの道具としてITというのは有効であります。

同時にお互いが信頼しあわなくてはならないし、そのためにも信頼性を高めるという師匠のお話で、それがキャパであり係数aとありました。私はかねがね感じていたのは師匠のカタカナ表記の言葉(コアコンピタンス等)も良いのですが、専門用語じみていてどうも、ねぇ。私に言わせりゃ一言「徳」ってのではどうでしょうか。

逆に現代において「徳」とはキャパであり係数aであると必要十分条件は成り立ちはしなてでしょうか。

ちょうど高度成長期に日本人が求めていたものが「徳」から同音異義語の「得」に取って代わられたツケが現在そのしわ寄せがいろいろな問題として現れているのかと思ったので。
そんな気がしたのかもしれませんが・・・。

わたしはバルネラブルが「さらし」と表現されることを好まないように、本当は、言葉の定義にはかなりうるさい人なのである。

この戯言を書くにしても相当考えながらて言葉を使っている。
(そうは思えないだろうが・・・)

結論から言えば、「徳」という言葉はたぶん使わない。
ただし条件がある。

「徳」という言葉が「売名」と同義なら使ってもいい。
…と言うと飛躍のしすぎかもしれないが。


徳は「早起きは三文の徳」の徳である。→「得」は誤り。
「徳望」の徳である。

前者は、ある行為に対するよい結果という意味であるし、「徳望」の徳とは、そもそも努力によらず備わっている人が模範とすべきような行動のことである。

つまり、徳には、先天的に人に宿っているもの、というニュアンスが強い、と感じている。

我われは、なにをもって徳が高いといえるのだろうか、と考えると、わたしの脳味噌はとたんに破滅する。

わたしには高度経済成長の中で、徳が得に変わったとは思えない。
もともと徳がなかっただけだろう。

環境の変化がそれをあらわにしているだけだと考える。


わたしたちは、じっちんのなにかけて・・・じゃなく、DNAの名にかけて、その本性は「利己的」である。

わたしはそれを認める立場である。

そもそも、わたしが常に直面している現実は、わたしの内にある「善行」(と呼べるのが存在すればだが)とは正反対のことをしてしまう心なのだ。

まずいものよりもおいしいものを食べたい。
その時、貧困国で栄養失調で苦しんでいる子どもたちのことなど頭にはない。

お金はないよりもあったほうがよい。
贅沢は好きである。

昨晩も、ひらめの薄造りと鯛の薄造りをスダチで、鱈の白子を醤油焼きで、さらにはふぐのから揚げを塩で、それらを肴に、ビールを三杯程飲んだ。
お代はゼロが4個つく晩飯である。

そのとき、台東区のホームレスのことなどは考えていない。
クルーグマンの経済書を読んで爆笑をこらえていただけである。

お酒はガンガン飲む。タバコは汽車の如しである。
その割には生きることに卑しいわたしは、サプリメント(ウコンに代表される)を摂取して体のの心配をしている。

このような、わたしには「徳」はないだろう。

わたしは、心の奥底では常に俗人なのである(高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして暮らす(努力する)人)。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


死んだら絶対に地獄にいくであろう人間なのである。
お釈迦さまもマリアさまもわたしの心には舞い降りない。

これを己の本性と理解している。

だから、そこから始めているだけなのである。
だからと言って、宗教に走ることもない。

こんな卑しい己が、人の世でどうにか生きていくには何が必要なのかを考えているだけである。

さらに、できれば、なるべく多くの方々に己の存在を認められたい、という欲求を抱きながらなのであるから、卑しさここに極まる。

これを、徳を得ようする欲求だとは、思えないのである。
はっきり言えば経済的な利益を得ようとする「売名」の欲求である。

徳というものを否定してさえいる。

しかし、「売名」には「信頼」という壁が常に存在していることに気がついているし、己の卑しさも自覚はしているのである。

それだからこそ、単発的にではなく、その行為(売名)を継続的に行うに耐えうるには、信頼が必要なのだと考えている。

そして、その信頼の能力(信頼し、信頼される能力)こそ、社会的知性=キャパシティ=係数a なのだと理解しているわけだ。これらは後天的に獲得できると信じている。

つまり、わたしは「売名」の行為でさえ「キャパシティ」を求める行為だと考えるのである。

逆説的には、「売名」の行為だからこそ、信頼の能力(信頼し、信頼される能力)、社会的知性=キャパシティ=係数a が必要なのだ(徳の高い社会(?)であれば、それは必要ないだろう)。

そして、その行為を意識的に続けるときに、己の内部で進む共進化を素直に感じることができるだろう。

それは先天的なものであろう「徳」には程遠いものなのかもしれない(そもそもわたしは徳の存在に懐疑的である)。

それはやはり、社会的知性=キャパシティ=係数a なのである。
そうとしか書けないのだ。

そして、また書く。
これらは後天的に獲得できると信じている。

だからIT化なのだ。
…いつも同じ結論だな。(笑)

2004/01/20 (火)  
【情報の非対称性】

桃知@洲本%淡路島である。
わたしの滞在しているホテルは部屋が三つもある。

それも半端な広さではない。
わたしの自宅よりはるかに広い。

バスルームはわたしの書斎の広さをはるかに超え、しかもジェットバスである。
TVは洋室(リビング?)と和室に一台ずつ、つまり二台ある。

しかし、一度に二台見るわけも無いし、和室はぜ〜んぜん使っていない。

そのひろ〜い部屋でわたしは一人寝るだけである。
これを猫に小判という。

でも気分はよい。(笑)

さて、北海道のA木さまより。

桃知さん、ごぶさたしております。24日の新年会でお会いできるのを楽しみにしております。店主戯言の「情報の非対称性」に関する話題です。

わたしの知り合いで「非対称情報下における取引としての公共工事とISO9000s」の論文を書いた方がおります。某氏はジョージ・アカロフ教授、マイケル・スペンス名誉教授、ジョセフ・スティブリッツ教授による「非対称情報下における財・サービスの取引に関する研究」をもとに、公共工事受発注にISO9000sを適用することの意義を考察したものです。

その中で「品質情報の状況による取引分類」の稿に、興味深い表があります。それは、供給者(売り手)と需要者(買い手)の情報偏在による取引分類です。

1,売り手と買い手がともに完全情報にある取引は「農産物のせり」
2,売り手が完全情報で、買い手が不完全情報は「個人売買の中古車」  「学習塾」「レストラン」「医療」「ホテル」など。
3,売り手が不完全情報で、買い手が完全情報は「古美術」
4,売り手も買い手も不完全情報は「宝くじ」…であり、
これを入札契約制度に当てはめると「一般競争」や「公募型」は2、「指名競争入札」は3だと言っております。

そして某氏は「財・サービスに関する事項の標準化も買い手の情報不足の解消に役立つ」という点で第3者機関の評価が有効であると結論付けております。

しかし、これを「公共工事という産業」に当てはめた場合、売り手(施工者)、買い手(発注者)という単純な構図では説明がつかないはずです。つまり、買い手そのものが本当の「買い手」である市民社会の「信頼」を得ていないからです。発注者が市民社会のエージェンシー(代理人)として全幅の信頼があれば、くじ引き入札(4の範ちゅう)という不完全情報下の経済取引を押し付けることはしないでしょうし、完全情報を持っているはずの発注者が責任を放棄することはしないでしょう。

まだ消化不良ですが、情報の非対称性と「信頼」の関係について、あらためてじっくりと考えていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

情報の非対称性という、ノベール賞をもらったようなお偉方が研究しているものはなにか?と言えば、それは、経済的な交換(つまり市場)がきちんと機能するには何が必要なのか、という問題である。

アダム・スミスは利己性(自己関心:セルフ・インタレスト)に加えて、共感シンパシーがあることをもって、市場メカニズムの作動条件としているように、つまり「信頼」の情報が必要なのだ。

しかし、新古典主義経済学はこのことを無視してしまった。故に市場の失敗は起きてしまう。

これは人間が行う交換を、経済的な交換だけに絞り込んでしまったゆえの狭い視野であろう。

そして人間の行動原理を、ダーウィニズムの単純化に求めてしまった、一般化と単純化の弊害であろう。

しかし、わたしは完全情報下の市場(完全市場)を否定するつもりはない。
完全市場(アダム・スミスの言う意味でである)が実現できるのであれば、市場は私たちに決して不易なものではない、とわたしは信じてさえいる。

問題は、新古典主義経済学がどう想定しようが、市場は決して完全なものではないということなのだ。

だから、その理想である完全市場、つまり、利己性(自己関心:セルフ・インタレスト)に加えて、共感シンパシーがある状態に、どうしたら近づくことができるのかを考えるのだ。


完全市場を実現しようとする具体的手段として、法律を設けたり、ISO 9000’sのようなシステムを考えたりするのだろうが、そういう意味では(きちんと機能するのならという意味で)これらを否定するつもりはまったくない。

しかし、そういうところに収斂してしまうことは、実に視野が狭い、と考えている。
スミスのいう「共感シンパシー」はそれだけでは生まれない。むしろ「信頼」がない市場では、それらは機能しない、と言えるだろう。

村上泰亮が、経済的な交換は社会的な交換の一形態である、というように、社会的な存在としての我われ人間には、どうしても社会的な側面が存在する。

パットナムは、「ソーシャル・キャピタル」の存在を指摘した。

人間が社会的な存在であるが故に、経済的、合理的には割り切れないような行動をする場合もある。むしろその方が大きいのかもしれない。

その非経済的、非合理的な行動をなぜに私たちは選択してしまうのだろう。

たとえば、法律では規制されていることでも、ある集団では継続的に行われている慣習のような経済的な交換もある(談合もその一つだろう。わたしはこれはESSだと思っている)。

ISO9000’sが機能せずに会社経営のお荷物化しているはなしなど、成功事例を探すよりよっぽど簡単に見つけることができる。

それを法律違反だ、非合理的だ、ルール違反だ、と批判するだけは問題解決にはならない。
我われは大なり小なり、そのような割り切れない行為を選択してしまう。

純粋に新古典主義経済学が想定している市場原理で成功を収めている経営者などいるのだろうか。

そのような意味で、わたしは単純な市場原理主義者が行う批判を容認できないでいる。彼らは最初の想定で誤っている。

市場が完全でない、ルールを守れない、非合理的な行動をする、そのような人間の行為を、あたかも、そのような行動を取る人間が馬鹿だから、というような表現(そして表現型・・・たとえば長野県の政策のようなもの)を散々みてきた。

批判だけなら猿でもできる(本当は猿にはできない、と思うが)。


我われは無いものねだりである。
甘いものを食べたいという我われの欲求は、アイスクリームの無い時代に進化してきた(ポール・クルーグマン)。(笑)

我われが、今という時代に、信頼の情報に対する欲求を大きくしているのだとすれば、信頼の無い時代(山岸俊男の言葉では、「社会的不確実性が高く機会コストの大きな社会)だからこそその欲求が進化するのだろう、と考えている。

完全市場への欲求を大きくしているのは、市場が完全ではないからである。

それでは、その無いものねだりは実現可能なのか。

そこから始めているのである。(何度も書いているが、DNAの仕業ならそれは考えても無駄なのである)

馬鹿なやり方なのかもしれないが。

2004/01/19 (月)  
【信頼とIT化】

今日から4日間、兵庫建協淡路支部さまの協会イントラネットの操作説明会を行う。
準備は昨年中にできていたのだけれども、わたしの都合などもあり、年を越えてしまった。

IT委員会の皆さんには、4日間本当にお世話になる。
感謝なのである。


わたしがIT化に求めているものは第一義的には「信頼」の構築である。

この「信頼」とは、山岸俊男の言う「一般的信頼」であり、ある特定の集団や仲間内での信頼=安心とは違う。

「公共工事という産業」に今必要なもののは、狭い集団内の安心(濃くて狭い紐帯)を超ええた「一般的信頼」(広くて薄い紐帯)である。


このような信頼を考えるとき、信頼性と信頼は区別して考えないといけない。

信頼性は信頼される側の特性であり、それに対して信頼は信頼する側の特性と考える。

しかし、信頼は対象の信頼性の単なる反映ではない。

信頼が対象の単なる信頼性の反映であるということは、ある特定の人間を信頼するかどうかの判断において、相手の人間性(信頼性)が正確に判断されている、という前提が必要なのだが、それはありえないことだろう。(情報の非対称性という問題)

そして、信頼が対象の単なる信頼性の反映であるということは、我われに必要なことは、信頼に値するような人間性を身につけることだけを考えればよくなってしまい、信頼する側の特性を考える必要がなくなってしまう。

これに対して山岸が言うのは、信頼する側の特性としての高信頼者は、信頼性もまた高いということである。

これは、相手を信頼する特性を持つ人間は、他者の信頼性を示唆する情報に敏感であるということである。(情報の非対称性というリスクが軽減されている)

この理解には、山岸の命題1『信頼は社会的不確実性が存在している状況でしか意味を持たない。つまり、他人に騙されてひどい目にあう可能性がまったくない状況では、信頼は必要とされない。』(山岸,1998,p61)の理解が必要だろう。

まあ、このはなしは後々ここで展開していこうかと思うし、できるならわたしの講演でも聴いていただければと思う(最近の講演は、このあたりを強調している)。


山岸は、この高信頼者に持つ特性、つまり、他社の信頼性を示唆する情報に敏感であるという部分(というか能力だろう)に、「社会的知性」という言葉を持ってくる。

わたしはこの社会的知性を、わたしの言葉では「キャパシティ」の概念で理解している。

「バカの壁」を読まれた方なら、「係数 a」でもよいだろ。

問題はこの社会的知性をいかに身につけるかだ。
わたしはそこにIT化を位置づけている。

なぜか。
わたしの言う「IT化」の真の舞台であるインターネットこそ、最も身近にある「信頼が必要とされている場」だと考えているからである。

信頼が必要とされる場とは、社会的不確実性が存在している状況(山岸はこれに機会コストが高いことを付け加えている)のことだが、わたしはインターネットの世界をもっとも身近なその世界だと考えている。

そこで必要なものとは、一般的信頼(広くて薄い紐帯)なのだと思う。


これが遺伝子的(還元論的)に決定されるものだとするなら、わたしの出る幕はない。

しかし、、『この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである』(R.・ドーキンス)

わたしは、一般的信頼=信頼性=社会的知性=キャパシティは、意識的に獲得できるものだと考えている(すべてとは言わない)。

そして山岸は、共進化は個体内部でも起こると言うのだ。

昨日の戯言、「共進化 coevolution 」に反応。

 生物学ではDNAに絡めたところで、このキーワードを使うようですが、マーケッティング分野でも使ってますね。 いずれにせよ、お客様と密接に関係しながら企業活動を行っており、趣向の多様化過程でもお客様と(モノ・サービスの)売り手が互いに影響しあっていますものねぇ。

とスーさま・1号@Fe業界がメールをくれていたが、山岸の卓見は、固体内部(つまり各々の個人内部)でそれが起きるということなのだ。

それは、高信頼者であること=社会的知性を持つ=信頼性が高い、ということの繋がりの秘密である。

この一見ばらばらの特性が、一つのセット特性として同時に進化すること、つまり共進することの可能性。

わたしの言う「IT化」とは、ITを使って自分のことを自分で書く「反省」という行為を中心にその可能性を展開しようとする。

そこにおける、わたしの「事業者団体ベースのIT化」は、「公共工事という産業」が、「IT化」=(個々人の)一般的信頼=信頼性=社会的知性=キャパシティの向上をはかるために行う、最初のステップである。(これを個々の企業単独で行うことから始めずに、事業者団体という一つのユニットで行うことにはちゃんと理由があるのだが、今回はそれには触れない)

それは、インターネットの世界への最初の扉を開く。
だから当然にインフラの整備、リテラシイの確保は必須である。
それがなければ始まらないのだ。

そして、この取組みはさまざまな副次的な効果を生み出すことになる。
それはイントラネットを使うことによるもの、そして直接的にITとは関係ない部分もあるのだが、これらについては、後日まとめてみたいと思う。

2004/01/18 (日)  
【遅い更新】

桃知@洲本%淡路島のホテルである。
22時過ぎにチェックイン。眠い・・・。

旭川空港→伊丹空港→(バス)→新大阪→(新幹線)→新神戸→(バス)→洲本。
今日の旅程はちょっとハードだった。


始まりは昨晩だった。
日成建設さんの皆さんと「さくた」にてさくら鍋を食べながらの懇親会を行ったのだ。

味噌ベースのここのさくら鍋は、ごぼうの風味も手伝い、とてもおいしく、そして体が温まる。(昨晩の芦別は氷点下10度をゆうに下回る冷え込みだったようだ)

ここで調子にのってしまったわたしは、その後にお邪魔した「ディラン」にて、かなりの量の日本酒を飲んだようで、ようやくホテルに戻ったのは日付が変わってからだった。(わたしは目覚めたとき、昨晩の記憶の一部が見事に消えていることに気づいた。このディランでの経過をよく覚えていないのだ)

遅くまでしっかりと飲んでいれば、目覚めが遅いのは当然である。
今朝の起床は、午前7時30分を過ぎていた。

それはまにあ・1号さまと約束していた朝食の時間を過ぎていた。
急ぎシャワーを浴び、着替えて食堂に向かった。

・・・しかし、そこに、まにあ・1号さまはいなかった。

そう、彼も寝過ごしてしまっていたわけで、遅れること3分、食堂に現れた彼はかなりくたびれていた。

それにしてもだ、せっかく芦別温泉に宿泊しながら、温泉には一度も入れなかったのは、毎日の夜更かしの因果とあきらめるしかないのだろう。

それにしてもウコンの効果は大きくて、あれだけ飲んだ割には、まあ元気。
しかし、お腹の調子はどうしようも無いらしく、しっかりと下痢になってしまった。
携帯用の正露丸を服用するもなかなか効かなくて参った。

午前中は、日成建設さまで勉強会。
わたしの脳味噌はアルコール漬けのプリンのようなものです、と断りを入れさせていただいたが、まあ、褒められたものではない。反省。

サポートチームの皆さんは、二日間本当にご苦労様でした。


旭川空港まではまにあ・1号さまに送ってもらう。
冬道では1時間30分かかる。

彼は、わたしを旭川空港へ送り届けた後、片道300キロ彼方の襟裳岬の方へ向かうと言っていたが、無事に着いただろうか。

しかし、北海道の除雪は体制は素晴らしい。
16日夜の高速道路は夏道と変わらない快適さだった。


とまあぁ、こんな按配で、見事に更新は遅れたのであった。

しかし、洲本は暖かい・・・。
部屋のエアコンを切った。

2004/01/17 (土)  
【@芦別】

さいむぞ! さむいぞ!

横尾@砂子組さんから一行だけのメール

http://www.sunagonet.co.jp/contents/musher/20040113.html

今日はこれから日成建設さんで勉強会。
朝はばたばたしているので、ここまで。

2004/01/16 (金)  
【読書について】

桃知@盛岡である。
6時起床、外は真っ暗。

『信頼の構造』 『信頼の構造』

山岸俊男(著)

1998年5月15日
東京大学出版協会







昨日、盛岡へ向かう新幹線の中で、『信頼の構造』を一通り読む。

もう何回も読んでいることもあるし、別に速読法など知っているはずもないのだが、2時間あれば最初から最後まで読めるようにはなっている己ににんまりとする。

この本の出版は1998年なのだが、これはわたしが独立した年である。
1998年に、わたしのキャパシティでは、この本を読むことはできなかったはずだし、そもそもこの本の存在も知らないし、知ろうとする気持ちもなかった。

それが、今こうして「読める」のである。
改めて、続けてみるものだなぁ、と思う。
少しはわたしの中の何かが進化していると言えるのか。(笑)

そして、今回のように、R・ドーキンスをさんざん読んでから山岸俊男を読むと、彼のいう進化ゲームアプローチを行うことの「メタ」の部分、つまり、ああこれが言いたかったのね、が改めてわかるような気がする。

それは「共進化」である。
これについては、長くなりそうなので、明日以降、わたしの理解の広がりも含めて少しずつ展開していこう、と思う。

と言うのも、昨日お会いした方々の多くは、この戯言に書いている内容はほとんど読めない、と異口同音におっしゃるのだ。

この「読めない」の意味が、なんだかわからなくてなのか、量が多くてなのかはよくわからない。

ただ、わたし的には、ここは「反省」の行為の場なので、だれがどう読むのかは、想定して書いてはいない、というのは嘘で、ちゃんと意識はしているの。

だが、その想定している相手というのが自分自身なので、「読めない」という意見をいただくことになるのだなぁ、と思う。

どうしたら、「読める」ように書けるのだろうか?
わからん。


さて、このような本には必ず背景がある。

なので、その本を理解するには、背景を理解しないと難しいとことがあるのも確かなのだが、結局人間の脳味噌というのはよくできていて、背景など知らなくとも脳味噌の都合のよいように読めることは読めるのも確かではある。

現実的にわたしはそうしてひたすら読んできた。

ただ、そこはキャパシティ=係数 a の問題はきちんと存在していて、そのキャパシティとは背景の理解の幅なのだけれども、それを確保しないと、その対象の本の理解の幅が広がらないのも確かなのだ。

しかし、何事も始めなければ理解の幅が深まるわけもなく、読み方も(そして書き方も)身につかないだろう。

それは、自転車ののり方、車の運転、逆上がり、そういうものと同じような気がする。

そして読む方向性を「意識する」ことで、量は確実に質へ転換する。
この「質的な」という部分は、山岸俊男のいう認知資源へつながっていて、己の社会的知性の発達におけるメタ部分をつくるのじゃないだろうか、と考えている。


ということで、今日は午後から岩手建協さまのIT特別委員会。
終了後、新幹線で仙台へ。仙台空港から北海道入りである。

飛行機は今のところ大丈夫のようだね。

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