店主戯言040202 2004/02/16〜2004/02/28 "There
goes talkin' MOMO"
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2004/02/28 (土) ▲ ▼
【いや〜、熱く語りすぎた】
桃知@大船渡%二日酔。★\(^^;
あたまいてぇ〜 (@_@;)
2004/02/27 (金) ▲ ▼
【今日は大船渡へ】
さて、今日は7:02 上野発のはやてで盛岡へ行き、それから向井田IT特別委員長と大船渡支部さまへ陸路移動である。
大船渡支部さんが、最後のイントラネット講習会未開催の支部である。
ということは、今回の勉強会で、岩手建協では、全ての支部で講習会が行われることになる。
イントラネット、別にそんなに便利なものでもないのだが、楽しんでいただいているだろうか。
わたしは、特段、合理化とか効率化としてのITという技術に興味があるわけではないので、協会ベースのIT化は、そこそこの事務処理の効率化ができればそれでよい、と考えている。
狙いは、会員の皆様への(わたしのいう)IT化誘因の提供なのである。
イントラネットは、その為の、つまり(わたしのいう)IT化への扉(入り口)にしか過ぎない。
ただ、それが、そう理解されるのには、やはり時間軸を考慮した取組みが必要なのだ。つまり時間が必要なのである。
この時間が必要である、というところで、絶対に、発注者側の理解と、市民社会へのコミットメントが必要となる。(ここに山岸信頼の理論が必要なのだ)
岩手県は、2年で3割の公共事業削減が行われる。
なんとかからないのか、と思う。
期限付きの仕事をしているようなものである。
わたしは、いつも思う。
もっと時間が欲しい、もっと時間があったなら、と。
いまさらながら、ローマは一日にしてならず、が重くのしかかる。
それは、岩手建協さんのような、大きな規模での取組みならなおさらの思いなのだ。
さて、松阪は菜の花が咲いているような具合であったのだが、大船渡はどうだろう。
このところ、北海道、千厩、松阪、津、そして大船渡と気候の違うところの移動がつづいている。
体はたぶん悲鳴をあげているのだろうが(自覚はない)、まだ、わたしは、くたびれるわけにはいかないのだ。(と勝手に思っている)
2004/02/26 (木) ▲ ▼
【@松阪】
松阪にて午前4時に目覚める。
昨日は、久しぶりに丸亀産業さんを訪れ、IT化推進チームの皆さまと、IT化について。
わたしのIT化理論は、それこそ日々変化(進化?)してしまうので、顧問先さんとはいえ、時々理解修正の作業を行う必要がある。
が、丸亀産業さんは以前からのわたしの理解者である。
参加された方々を見て、個々人の中で修正(理解)は容易に行われているな、と感じる。
まあ、それが”情報が見える能力”なのだけれども。
終了後、社長さまと、ガメラさんと、山際さんとで、これまた久しぶりに松阪牛のホルンモンを食べる。
東日本一の焼肉屋は北海道の深川の南大門であるが、西日本一の焼肉は松阪にある。
その名は「かどや」。まずいはずはない。
24日のフォーラム関係のメールを数点。
まずは内容も内容なので送り主も含めて、全て匿名で紹介するけれども、といっても、内容が内容なので、フォーカスは簡単かもしれない。(笑)
岩見沢フォーラムではお世話になりました。
山岸先生の「信頼と安心」についての前振りから始まって最終の落としどころが「建設業の信頼」という形で終わるという、浅草で先生が言っていた「戦略」という言葉が見事に当てはまっているなぁ。。。。と脱帽でした。
内容からアンケートの設問まで、考えられているなぁ。。。とさらに降参でした。
今回のセミナーは、私にとっては2つの有意義さがありました。
ひとつはもちろん、今後自分達の方向性が見えてきた事。
そして、もう一つは現状の閉塞状況を打破する為に、どの様にアクションを起こせば良いのかが、おぼろげながら見えてきた様な気がしています。
ただし、このアクションは先生の言う「戦略」を持ってタイムリーに、そして、用意周到に行わなければいけないと思います。
どちらが先という事ではなく、同時に進行しなければいけないと思いました。もちろん私一人では出来ない事ですが、こんな私でも「火種」程度にはなれると思います。
とりあえず、身の回りから巻き込んでみようかと考えております。
昨日お話しした今日の講習会での講師3名の話は、十分な睡眠薬になったようです。
○1氏は、「地域と関われ」と言いますが、そこに先生の考える「信頼」や「私達の生きるコミュニティとは?」といった、一番重要な事が抜け落ちていると思いました。
更に話は続きます。「私は都市型建設業で皆さんとは業態が違います」
つまり、ブローカーであるという事です。その上で、この話が出ます。
まったくもって意味がわかりません。「都市型のブローカーだ」と言っているにもかかわらずです。それを踏まえて更に○1氏の話は続きます。
「私は○○県における発注技術等検討委員会で談合の防止や適正な入札方法を考えています。○○県は協会としても知事との第一ラウンドを間違った為に、ボコボコにされている」と。
桃知先生がこの会場にいたら大変でしょうね。
「マーケットソリューションに特化した長野に信頼はあるのか!!?」と始まってしまいますね。
昨年に○2氏と○1氏については、同じ話を聞いた事がありますが、「安心の社会」に生き、これから「一般社会から信頼を得たい」と思っている私にとって○1氏の話は私にとってはまるっきり意味がない話になっています。
情報は変わっていません。私が変わったのだと思っています。
最後に話された○3氏の話については
「商圏やマーケットについて分析をしなさい。」と言います。
顧客に情報を発信しろという話についても次に出てきた言葉が「暑中見舞い」?
「毎月情報誌を作ったらどうか?」・・・・・・・・(ーー;)
「VIPの顧客リストは有るか?」などと話されますが、「アフターフォローして受注を拡大しましょう」といった結論です。
土木工事を発展させて地域環境整備と考えれば市場は無限大にあると話されます。
「劇○ビ○ォー○フ○ー」の見過ぎでは無いかと思います。
両氏全ての話を否定する事はしませんが、今の私にとってはどうでも良い事であり優先順位から行けば最下位の位置だと思います。大体において私達公共土木依存型の地方中小建設業が、両氏の話す事を実施しようとすれば、その実施前に息絶えてしまうと思います。
最大の相違かなと感じたのはゼネコンと私達は今現在が「安心の世界」または「信頼の世界」に生きているのか?を両氏が理解されていない?それとも、最初から私達が「信頼の世界」を構築済みである、という大前提があると思います。(私も真に理解しているとは思っていませんが)
購買心理のプロセスについても話されましたが、「信頼」がなければ成り立ちません。(認知→好感→興味→欲望→比較→納得→契約)
出てくる言葉は、トレンドだとか演出効果とか流行の横文字を話されているだけでした。
「信頼と安心」たった、この二つの言葉がこれほど大きいとは、改めて知った様な気がしました。
長々とくだらない事を書きました。
それでは、お体をご自愛下さいませ。
この方は怖いぐらい情報が見える方だな、と思う。
しかし、○○県は・・・?である。
わたしが悲しいと感じるのは、宇沢先生や、神野先生や、金子郁容先生というような、桃論的思想に多大な影響を与えてくださっている先達の方々が、顧問や委員として登用されているにもかかわらず、その思想の深さが、政策に反映されていないことである。
もっと彼らの思想の真髄を活用していただきたく思う。
社会の目的は、その構成員の幸福である。
○○県(に限らずだが)は、「県民の幸福」とはなにか、それを再定義をしてみる必要があるだろう、と思うのだ。
そこから本音の対話が始まるのだろうと思う。
さて、つぎは鱸さん。
最近、わたしの戯言では、鱸さんがつづいているが、この方も琴線にふれるメールをくださる方なのだ。
鱸#PD報告をお待ちしてました・・・ でっす。
今回は「自ら総括」でしたね。
#そりゃそうだ。 今回設定は、ももさん自身の欲求から
出たものだもの。 他の方には任せることあたわず!
・・で、十分に堪能されたようですねぇ。
以下は、その場の雰囲気も理論もわからない小生の疑問。
> 例は、偏差値の高い大学の学生は機会追求型知性が高い、
> ということで説明してくれた。
> 偏差値の高い大学でも、低い大学でも、1年生を調査すると、
> 機会追求型知性は同じようなもので(つまり同様に低い)、
> 差がない。
>
この「計測方法」に興味ありでっす。どんなモノサシでしょうね。
この件、山岸先生の著作・論文を読んだら判りますか?
> そして、この後天的な取得においても、環境という誘因は大きい、
> ということである。(だから政策は重要なのである)
>
この意味合い、何となく「感じます」(わかってはいません)。
将来に対する安心感(?)が高いほど社会的知性が高まるとの
ことですが、ここでも「その世界の先達がある意思」をもって
仕掛けた「環境」っていうものがあるのかないなぁ・・・
などど漠然たる思いを持ちました。
=別に帝王学などというつもりはありませんが・・・
> 集団主義的に生きることは、それは、人類の歴史(500万年でも
> なんでもよい)の中で、遺伝的に形成されてきた「脳が喜ぶ」
> ということだろう、と。
>
集団主義的に・・ という用語の理解が違っているはずですが、
(勝手に解釈して) 本来、人間は「さびしがりや」なのだ
といった意味と理解しました。
群れて遊ぶことを好みますし、人に認めてもらいたいとの欲求が
あります。 電車内であれ、階段昇降途中であれ、携帯電話
(ケータイ)にさわりっぱなしの若者が増えています。
ケータイは歩行中でも会話できますし、メール閲覧・作成も可能です。
こうした行動は「仲間(と思える他人)とのつながり」を保持したい
がため、つながりが切れることを恐れるがため と理解しています。
最初にかえりますが・・ 「さびしい」のですよ。 多分。
#小生からももさんへのメールも・・ 同じ!!
でわ、今回収穫をお分けいただける機会が来るまで・・・・
お待ちしております。
異常
山岸先生の、偏差値の高い大学と社会的知性の関係については、どこかで読んだ記憶があるのだが、それがなんだったのか思い出せないでいる。
もしかすると他の方の著作だったかもしれない。(玄田氏かな?)
先生がそのはなしをしたときに、わたしの脳は、記憶のストックから、その記録を呼び起こしてはいたけれども、それはイメージ的にであり、略画的であって、つまり、結論は知ってはいるけれども、どこでどうしてなのかは、はっきり覚えていない、という事実だけだたりしていたのだ。★\(^^;
集団主義的にというのは、安心社会のことだと考えてもよいだろう。
特性でいえば、地図作成型の社会的知性が発達する環境である。
そう定義できれば、人は孤独を感じ、それを嫌い、親和欲求の高い生物だといえる。
鱸さん曰く「さびしい」のだ。
しかし、我われは、この理解だけで納得してしまわない、それだけのキャパシティは持てるはずなのである。
「さびしい」ことで、結果的に、安心の社会に安住することを選択した。しかし、孤独であり、共感性の低い人になってしまっている。
社会的びくびく人間であるかもしれない。。
それが「公共工事という産業」の信頼性を落としている根本的な誘因なのだとしたら、それをどう克服できるのかを考えようとしているのが、わたしのアプローチなのだ。
つまり、では、孤独じゃなく、親和できるようになるにはどうしたらよいのだろうか、人を見たら泥棒と思えではなく、信頼できるようになるにはどうしたらよいのだろうか、と考えるのだ。
ここに、わたしのIT化論の模索(仮説といってもいいだろう)があるのだけれどもね。
オホーツクから。
建設新聞に連日お名前が出ていました
空知の皆様もそうですが、相変わらずお忙しいようですね
どんどん進んでいく様子がものすごく感じられます
(ざっくり)
PS
店主虚言を見て感じたのですが・・・
----------------------------------------------------
・機会追求型知性
→高信頼者→信頼
・他人の立場で他人の気持ちを考える
----------------------------------------------------
この原因の説明は結構つらいのだが、偏差値の高い大学、例えば東大とか京大の学生さんは、ある程度自分の将来が見えていて、学生生活を送っている。
それがわかっているような環境で過ごすが故に、機会追求型知性が発達するのではないか、ということであった
----------------------------------------------------
高学歴と思われる官僚の方々は、他人の立場で他人の気持ちを考える人が多いということなのでしょうか?
そのような方もいるとは思いますが、卒業して仕事を始めると 地図作成型知性に変わるなんてことないでしょうか・・・
じっくり考えた訳ではなく感じたことなので、山岸先生の本買って読みます(^^ゞ
山岸信頼の理論の凄さは、その社会的知性は、環境によって適応するように発達していく、と考える点にある、とわたしは理解している。
つまり、社会的知性という心の特性は、多分無数にあるのだろうが、自らに有利なようにある特性が、その置かれた環境に適応して発達してくる、と考えるのである。
多分、多くの官僚(地方官僚も)の方々は、それこそ日本のために働く、地域のために働く、という大志を持ってお役所勤めを選択された方々なのだろう。
しかし、次第にその大志を失って、組織従順というか、自己保身型の特性となっていくのは、その置かれた環境のせいなのだろう、とまず仮説を立てているのが、わたしのアプローチなのである。
このような視座を持つことができると、次には、この環境を作り出しているものはなにか、を考えることになるだろう。
これを観察するには、政治経済学的な視座、生物学的(進化論的)視座、心理学的視座、そういう社会科学的視座の横断的(総合的)知識基盤が必要であることを実感しているのである。
そして、これをできる限り試みようとしているのが、わたしのアプローチ方法なのである。
このアプローチは、環境(特に心理的環境=文化)は事前に決定されているものではなく、変化可能なものだ、という理解を暗に内在してもいる。(これはミーム淘汰の考え方である)
山岸先生のアプローチもこれなのである(除くミーム論だね、というかこのアプローチ方法を、わたしは村上泰亮の「反古典の政治経済学」から学んでいるのだけれども)。
つまり、山岸先生のことばを借りれば、『人間の心のあり方の基盤を、心をもった人間が作り出す誘因構造である社会的環境(あるいは文化)に求める』(山岸、『信頼の構造』、p210)のである。
であれば、問題解決方法は、単純なマーケット・ソリューションや旧態なヒエラルキー・ソリューションではなくなくなってくるのだ。
山岸先生は、いわゆる新古典主義経済学的な論理に対するマルクス主義の崩壊。
そしてマルクス主義に代わる新たな価値論理の不在、欠如が問題なのだ、といっておられた(勿論、懇親会でのはなしである)。
じゃ、どうしたらよいですか、と山岸先生に尋ねれば、先生は「わからない」というに決まっているので(笑)、聞かなかったけれども、わたしは、そこに、コミュニティ・ソリューションをヒントとした新たな価値観の可能性を模索するのである。(それが、これからの地方自治の基本的な精神になるだろうと考えているのである。そしてそれが環境を構成する誘因となるだろうとも)
それが、『人間の心のあり方の基盤を、心をもった人間が作り出す誘因構造である社会的環境(あるいは文化)に求める』ことの具体的な行動だと理解している。
ということで、今日はこれから津に移動して、三重建協IT専門委員会の方々とイントラネットの勉強会なのである。
終了後帰京。でも明日は早朝の新幹線で大船渡なのである。
2004/02/25 (水) ▲ ▼
【@ANA704便】
ぎりぎりセーフでチケットを受け取り、搭乗口を抉じ開けて、ANA704便に間に合った。時刻は出発時刻を若干過ぎてはいたが。(^^ゞ
事故の影響らしく、運転手様は予定時刻を10分過ぎても現れない。
ここは選択をしなくてはならない。
そのまままつか。
それともTAXIか。
運転手さまへの携帯は通じない。
ん〜。
ということで、TAXIを選択した。
時間は既に8時25分。道がまともでぎりぎりの時間である。
タクシードライバーさまには9時40分のフライトであることを告げる。
ドライバーさまいわく、あと10分早ければ・・・、とのことだったのだが、最善の努力をしましょう、ということで、最善の努力を本当にしてくれた。
札幌市内、排雪作業中の道路をくぐりぬけ、高速道路はひとっとび。
それでも、新千歳空港着は9時25分。(笑)
それで、冒頭に戻るのである。
さて、昨日の山岸俊男先生とのコラボレーションはとても楽しかった。
昨日の収穫である。
まず、高信頼者と低信頼者では、持っている社会的知性が違う、ということである。
その社会的知性を、山岸先生はつぎの二つに分類されておられた。
・機会追求型知性
→高信頼者→信頼
・他人の立場で他人の気持ちを考える
・地図作成型知性
→低信頼者→安心
(低信頼者については面白い説明があったので書いておこう)
・低信頼者は人間関係の認知に優れている。
・人を見たら泥棒と思え
・孤独な人
・共感性の低い人
・親和欲求の高い人
・他人の表情から他人の気持ちを読む
・社会的びくびく人間
つまりだ、信頼社会も安心社会も、どちらも社会的知性は必要なのである。
そして、そのどちらかが優れているのか、ということはない、ということである。
つまり、それぞれはそれぞれそのような特性が発達しうる誘因のある環境で発達した特性なのであって、環境が違えば、違う特性が有利だ、ということだけらしい。
そしてパネルデスカッションでわたしはこう質問したのだ。
「多分、本日会場に来られている方々は低信頼者であり、地図作成型知性をもたれているはずである。では、機会追求型知性を我われが手に入れたいとして、それは後天的に取得できるものなのだろうか」
山岸先生の答えは「できる」なのである。
例は、偏差値の高い大学の学生は機会追求型知性が高い、ということで説明してくれた。
偏差値の高い大学でも、低い大学でも、1年生を調査すると、機会追求型知性は同じようなもので(つまり同様に低い)、差がない。
しかし、2年生、3年生を調べると如実に差が出るのだそうだ。
つまり、これは後天的に取得してきている、といえるらしい。
この原因の説明は結構つらいのだが、偏差値の高い大学、例えば東大とか京大の学生さんは、ある程度自分の将来が見えていて、学生生活を送っている。
それがわかっているような環境で過ごすが故に、機会追求型知性が発達するのではないか、ということであった。
一方、偏差値の低い大学の生徒の場合、これも将来は見えているのだろうが、それは東大や京大とはわけが違う。
それがわかっているような環境で過ごすが故に、機会追求型知性ではなく、低信頼者型の社会的知性である、地図作成型知性が発達するのではないか、ということであった。
いずれにしろ大事な理解は、これらの社会的知性は後天的に取得できる、ということである。(じゃなかったら、われわれは遺伝子のプログラムどおり何もしないで生きていた方が良いのである。努力はいらない)
そして、この後天的な取得においても、環境という誘因は大きい、ということである。(だから政策は重要なのである)
それから、「地域に生きる中小建設業が地域社会の信頼を確保していくためには、具体的にはどのような行動を取っていけばいいとお考えでしょうか」というコーディネーターからの質問に対して、山岸先生はなんて答えたと思う。
「わかりません」である。
わたしは、このとき手をたたいて山岸先生を褒め称えた。
「わからないという方法」をとっている、「答えのない者」としては、当然であろう。
同朋をみつけたようなものである。
たぶん、これがいえる人間は本物なのだろうなぁ、と思う。
「わかりません」 (笑)
さて、もう一つ。
わたしは昨日はこれが絶対に聞きたかったのだ。
つまり、わたしたちが集団主義的に生きることは、ESS(進化的に安定した戦略)なのではないか、ということである。
山岸先生は、わたしが質問する前に(わたしは懇親会でこれを聞こうと思っていた)、最後の締めでこういったのだ。
集団主義的に生きることは、それは、人類の歴史(500万年でもなんでもよい)の中で、遺伝的に形成されてきた「脳が喜ぶ」ということだろう、と。
ぎゃはは・・・いただきである。
わたしの心は小躍りしたのだ。
と、山岸俊男の一ファンとしてのわたしの欲求は見事に満たされてしまったわけだ。
そして、山岸信頼の理論から多くを援用しているわたしのIT化理論は、ある程度の正当性を空知の方々の前で証明できたのである。
あとは、山岸先生が「わかりません」といわれた部分を、我われは、山岸信頼の理論に軸足のひとつとして置き(あくまでもひとつだ、全てではない)、ひとつひとつ、考え、行動し、表現型としていけばよいだけである。
わたしの場合、そこにIT化がある。
ただそれだけだ。
昨日のフォーラム、全ての関係者、出席者に感謝なのである。
【@札幌】
桃知@札幌なのだけれども、今朝は今朝は忙しいのだ。
今日は名古屋経由で松阪までいく。
飛行機の中でいくらか更新できるかと思う。
では、また。
2004/02/24 (火) ▲ ▼
【さあ、今日はリベンジだ】
午前5時起床。
さあ、今日はリベンジだ。
わたしは8時発のANA便にまにあうように羽田へ向かう。
昨晩は、同じく北海道行きそびれ仲間の栃木建協の方々と浅草で懇親会をした。
ふぐの玄品で楽しいひと時を過ごしたわけだが、彼らは、朝6時代の飛行機で函館まで飛んで、そしてそこから陸路岩見沢を目指すのだそうだ。
そうなってしまった経緯はいろいろあるだろうが、そんなことはどうでもいい。
今日の岩見沢での再開を誓って、昨晩彼らとは浅草寺で別れた。
南無観世音菩薩なのである。
今日の岩見沢は、そこまでして行く価値があるのか、と問われれば、わたしの答えは「Yes」である。
少なくとも我われの視座は限りなく広がっている。
自分らの利権を守りたくて駄々をこねている団体ではないのである。
5年前を考えてほしい。
空知建協が、山岸俊男の講演会を行い、山岸俊男を中心とした座談会を行うなどとは思いもよらなかっただろう。
しかし、このような動きに対しては、いやみもいわれるし、やっかみもあるのも確かだろう。
でも、山岸俊男がなにもで、どのような研究をしているのかを知らない方々が、なにかいうのはお門違いなのである。
少しでも知っていることは、ぜんぜん知らないとは、まったく別次元(本音)の議論ができる。
つまり、やっかみや嫉妬心で語る方々とは、本音の議論はしようがないのだ。
そして我われは、IT化を通じて本音の議論の場をつくりだそうとしている。
わかっている方からのメール。
・・・に、○○様、○○様にお時間をつくっていただきました。
1時間程度ではありましたが、
「なぜ、上場企業である○○建設が桃知氏へ講演を依頼したのか」についてをうかがってきました。
講演を依頼した理由は、
「当社(○○建設)で、『情報とは?』を話せる者がいない」とのことで、なぜ、桃知氏かについては、「桃知氏は、「『情報とは?』を私はこう考える」という立場で講演され、かつ話す内容も年々?変わってきている(進化)から。」とのことでした。
弊社では、「情報とは?」を深く考えることはなく、通り一遍の「世の中の動向」に左右され、情報化と称し進められているだけだ。と、「はッ」とさせられました。
また、「情報とは?」を考えることがない弊社では、仮に講演会を企画するとなった場合でも、「情報化はなぜ必要か」,「情報化はどのように進めるか」程度の講演内容になってしまい、桃知氏へはたどり着かないのであろうなと考えさせられました。
これでは、構築したシステムが利用者に評価されることはなく、また、情報化の結果見えてくるものがないのも当然だと感じました。
しかし、希望の光もありました。
がっちり型にはまったゼネコン組織(○○建設様には失礼かもしれませんが)であっても、このような取組みを進めている会社があるということは、弊社でも不可能ではないということですから。
弊社から2名でお話をうかがいに行きました。
共にとても貴重な場であったと思っております。
このような機会を与えていただいたことを感謝致します。
徐々にではありますが、根気よく取組んでいきたいと思っております。
ありがとうございました。
うん、そうだ。
『弊社では、「情報とは?」を深く考えることはなく、通り一遍の「世の中の動向」に左右され、情報化と称し進められているだけだ。と、「はッ」とさせられました。』
これだけでいい。
これに気がつくだけでも素晴らしいのだ。
これが“情報が見える”、ということである。
少なくとも努力をしていない人間などいないだろう。
「努力したものが報われる」とわれる「今という時代」に、我われはなんの努力もせずに生きているわけではないのだ。
しかし、我われの努力の多くは、報われることもないのもまた事実だろう。
本当は、今という時代とは、「努力しても報われない時代」なのかもしれないと、わたしは半ば確信的にいうのだ。
しかし、努力はあきらめてしまうものではない。
通り一編の価値観に、我われの努力を否定される必要もない。
その努力を語ることも無く、それが当たり前だから、と自分を納得させようとすることは、思考の停止以外のなにものでもない。
つまりこれが「正解の思い込み」である。
しかし、我われは自分の信念のもとに努力しようとする動物なのであ。。
それは私自身の幸福と、この社会に生きるすべての構成員の方々の幸せのためにである。
鱸さまより。
> 日本の多くの企業が、開発主義の否定によって技術革新という内在化された
> プロセスを怠ってきていたら、つまり、種を蒔かないできていたら、さらには、
> 育てることをしてきていなかったら、刈り取るものはなにもないのである。
>
経済事象の評論や報道を生業とする方々が、ある組織の短期業績で
持ち上げたりおとしめたりするのを苦々しく感じてます。(彼らのメシの種)
前にもお伝えした藤本センセ、彼の言う「深層での組織能力」構築。
たった一人で素晴らしい業績を上げる方もいますが・・・ 産業という
括りでは、「一人でコトを成し遂げる」のではなく、集団プレーのはず。
要は、いかに「かみ合わせ」をよくするか。 しかも固定化ではなく・・・
(言葉足らずのまま・・・・) でわ、股。
わたしは、時間軸のない戦略は「カス」だという。
とここまで書いて時間切れ。
つづきはない!(笑)
2004/02/23 (月) ▲ ▼
【その2】
桃知@浅草なのである。
なぜかといえば、千歳空港は大嵐らしく、天候不良でANA55便は見事欠航したのだ。
北海道の今日の嵐は、ピークが午後6時ごろで、新千歳便が飛ぶ可能性は限りなく低い、とのANAからご案内があった。
つまり、今日の新千歳行きはだめでしょうねぇ、とのことなのだが、ここでの選択肢は複数あるだろう。
「あきらめる」も一つの選択なわけで、わたしは直感的にこれを選んだわけだ。
他には函館に飛ぶ方法もあるのだが、函館−札幌間はJRで約4時間。丘珠空港が使えれば道内便も使えるだろうが、新千歳がだめで丘珠がOKというわけは無い。
それよりも果たしてJRが動いているのか、という疑問で、JR北海道のホームページをみたら、アクセス集中でまったく動かない状況。
阿保か、こんなときこそホームページだろが、とひとり毒ずくが、怒ってもしょうがないので、確実な情報が無いときは、早めにあきらめることにしているので、その定石どおり早めにあきらめたわけだ。。
それではと、つぎの行動へ移るのだが、やることは明日の便(8時発)への変更予約しかないのだが、一旦機内に乗客を入れてからの欠航決定のせいか、段取りも後手後手のようで、長蛇の列ができてしまい、1時間30分ほど待たされた・・・<`ヘ´>。
それからようやくタクシーで帰ってきたわけだ。
つまり、今日は、往復のタクシー代と、半日がただ消費されてしまったようなものなのだが、まあ、自然にはかなわない、ということであきらめることにしている。
さて、明日の座談会に出席することだけを最優先とした今回の選択、果たしてその成否は。
「明日はどっちだ」(笑)
【その1】
さて、今日のわたしは ANA 055 東京(羽田)(09:00) - 札幌(千歳)(10:35) で、先週に引き続きの北海道入りである。
午後から空知建協を訪問してくださる、栃木建協IT委員会の皆様と合流する予定なのだ。
新千歳空港へのお迎えは、舎弟さま。
岩見沢へ入って余裕があるようであれば、明日のイベントに備えて床屋にでも行こうかと思っているが、どうなるのかは不明。
最近髪を伸ばしているのだが、くせ毛のため、なにか浮浪者風なのである。
明日は、500人を越えるお客様においでいただく予定なので、あまり見苦しい姿をさらすのも気が引けているだ。
さて、昨日脱稿した原稿だが、これは(財)建設物価調査会さま発行の機関紙、「建築コスト情報」に連載されている。
既に、1回目の掲載はすんでおり、お題は「中小建設業者団体ベースのIT化(1)」である。
今回はその2を書き上げたわけだけれども、まあ、じぶんちに、「建築コスト情報」がある、という方はご覧いただければ幸甚なのである。
鱸さまから、『郡上の方々とも酒を御一緒させていただきながら・・・ 飲み図さんとこでのももさん講話を聞くまで 「なぜ業協会ベースの取り組み」が成り立つのか理解できないでおりました。』旨のメールをいただいていたが、その2では、IT化とはなにか、つまり、わたしのいうIT化の概観をみることで、その可能性を再確認するように書いてみたわけだ。
例えば、一部(ほんのだけれども)を抜粋してみよう。
山岸は、『信頼の構造』において、信頼と信頼性という個人に宿る二つの特性は、互いに共進化するものなのだという。そしてこれを「社会的知性」と呼んでいる。(山岸,1988)
つまり、我われが山岸のいう社会的知性の共進化理論から理解できることとは、信頼という「情報が見える能力」と、信頼性という「情報を発信する能力」とは共に共進化するものだ、ということである。
であれば、ITをインターネット社会への適応のために使うというIT化とは、情報を発信することから始めることで、情報が見える能力が共進化できる、と考えるものとなる。つまり前回「インターネットの精神文化」で指摘した、IT化の目的『自ら情報を発信し、自ら情報を取得し、自ら情報を分析活用できるという、ボランティアな精神に裏づけされた、協会員各社の(全社員の)情報リテラシイ向上を第一義の目的とした取組み』はこの文脈から生まれてきているのである。
たとえば、語学の学習における最も効果的な手法は、話す→聞く→書く→読む、の順番で学ぶことである。駅前留学のコピーで有名な英会話スクールは、この手法をとっている。聞くよりも先に話すのであり、読むよりも先に書くのである。これは、情報を発信することから始めることで、情報が見える能力が共進化できることの具体例だろう。
そして、わたしのIT化論には、ここに「マリアビリティの仮説」が付け加えられることで、今「公共工事という産業」が直面する問題にも対応しようとするのである。
わたしのIT化論の理解は面倒かもしれないが、それはわたし自身が思考のショートカットを極力しないようにしているからではないか、と思うときがある。
例えば、新古典主義的理論をふりかざす方々の理解は、せいぜい1700年代までしか遡っていないだろう。ダーウィンとアダム・スミスか。
まあ、これでもかなり褒めているわけで、本当は最近どこかで見つけた聞きかじり程度のものでしかないように感じる。
そういう方々は、簡単に建設業協会の存在意義を否定するだろう。
もしかしたら、そこに携わっている方々でさえ、その存在を否定するかもしれない。
曰く、そういう時代ではない。
では、そういう時代とはなにか、と尋ねると、答えは、せいぜい聞きかじりの新古典主義的世界観をいうだけなのである。
利己的な遺伝子の利他性の存在も、神の見えざる手の嘘も、新古典主義的経済モデルの限界も、既にかなり理解され修正が加えられている(それも科学的にである)という現実があるのに、なぜかそれを認めようとしないのだ。
いや、認めようとしないのではく、わかろうとしないのでもなく、本当にわからないのであり、知らないのである。
わたしは時々こんなはなしをするときがある。
もし、R・ドーキンスが日本の談合のシステムをみて、意見をいうとしたら、多分こうだろう。
談合はESS(遺伝的に安定した戦略)である。
遺伝学的には全うな戦略であろう。
これはわたしの意見であり憶測ではある。
だが、多分彼はこういうだろう。
では、なぜこれが信頼をかちえないのか。
わたしは幼稚ながらもそれを説明できるし、それゆえのわたしのIT化論なのだが…。
24日の山岸先生との座談会は、このあたりの議論から始めようと、個人的には思っているのだが、コーディネーターのA木さまが許してくれないかもしれない。
2004/02/22 (日) ▲ ▼
【日曜の朝にうだうだ】
20日〆切の約7000文字程度の寄稿原稿を、昨日と今日で仕上げるつもりだったのだけれども(編集氏には深くm(__)m)、昨日のうちに大方書きあげることができてしまい、余裕をもって先ほど脱稿できた。
図表の作成の方が時間がかかるような状況で、自分でも驚くほど、「書く」能力が上がってきていることに驚いている。
その「書く」という能力の向上だが、一つはタイピングが正確かつ早くなっていることが挙げられるだろう。
わたしのタイピングはまったくの独学自己流のままなのだが、漢字の誤変換を気にしなければ、思考のスピードの邪魔にならない程度には、キーを打てることができるようになっている。
そもそもこのホームページ開設の目的が日本語入力の練習だったわけだから、その目的もほとんど達成ということであろうか。
そしてもう一つの「書く」能力である、「文章力」とか「表現力」とでも呼べるものは、「芸」としてはまだまだだが、それでも、こうして毎日サイトの更新をし続けていることで、少しは向上しているな、という実感がある。
さらには、書くことが苦ではなくなったという、己の精神能力の向上も感じられるわけで、なにか、始めて逆上がりができたときのようで、とてもうれしいのであった。
鱸さまから二連。
空知では、『「横文字を使わない」という隠れた作戦』をとられたとのこと。
正しい選択(トライアル?)だと思います。
> いつも同じ会社、同じグループの中にいるから情報も固定化するし、
> 感覚もズレてくる。身元も知れない、顔を合せても「ああ、○○
> さん」と言ってくれないようなところへすすんで身をおく、自分の
> 立っている空間の位置を変える・・・
>
最初はヨタ話なので・・<※>まで飛んでいただいて結構です。
(ご指摘に従い ざっくり)
<※>
上で、個々の担当者の「解釈違い」がはらむ危険性について
受け売りを披露しましたが・・・・
価値観や言葉の定義辞書が無い(または、異なった定義辞書を
持たれている)方々に受け入れていただく、また、ももさん初見の
聴衆からすれば・・ 「俺たちにとって何か良いことを話してくれる
のかなぁ〜」といった淡い期待をもって集まった方々のはずですから、
いつも言われる「聴衆の顔色を読んだ話法(話芸)」こそが納得感を
高進させるポイントなのだと考えます。
=言うは易し、行うは難し・・ (おまえの問題だよ > 鱸)
ももさんとクライアント契約が成立している方々は「ももさん価値」を
理解された方々。 意味合い/理解の進化(高度化)が起こっていると
思います。 しかも、クライアントさんが「各自の言葉・解釈」で・・
「言霊」、 言い得て妙ですねぇ。
異常
鱸でっす。 昨日の弊メールに書き漏らしをしました。
> ももさんとクライアント契約が成立している方々は「ももさん価値」を
> 理解された方々。 意味合い/理解の進化(高度化)が起こっていると
> 思います。 しかも、クライアントさんが「各自の言葉・解釈」で・・
>
> 「言霊」、 言い得て妙ですねぇ。
>
小生、アプリ開発の際の「バグ除去」の話で書き始めましたが・・・・
最後に、「継承されるミームにはバグが潜む・・」 ってな話に持ち込もうと
していて・・ 本来業務が気になり、結局は書き漏らし・・・
巨大アプリの中に潜むバグは、いつ発現するかわからないし、発現時の影響は初期に予想された範囲をはるかに超えた事例も多い。
#普通、データ・トランザクションが急増するような事態が危険といわれる。
総合テストでも、そんなに大きな試験負荷がかけられないのだから。
Gen(遺伝子)だってバグをもって伝わる(完璧に伝わらない)といわれる。
逆に、何らかの意思でもって「適当な改変」を混入させて継承する(らしい)。
#このあたりが、利己的遺伝子の面目躍如たるところかも??
一方、 ミームの場合、「バグがうまく機能・作用するかもしれないなぁ??」と
思ったしだい。 単なる思い付き・・・・ でっす。
でわ、股
念のため書いておくけれども、鱸さんのGen(遺伝子)という書き方は間違いっているわけじゃない。本当はgeneだろう、と突っ込む貴方はまだ甘い。(笑)
Gnでもよいかもしれない。
ネット上で英文でやり取りしている方々の常として、このように母音を省略する場合が多々あるのだ。
これは本来チャットの影響なのだが、例えば、
pls→please
ur→you are
thx→thanks
なんかはよく使われるもので、このような言葉遣いの簡略化は、インターネットが生んだ共通理解でありミームではあるのだ。
しかし、これはネット上で英文のコミュニケーションをしたことがないと理解できないだろうし、まあ、文学者から言わせればバグだろう。(笑)
ついでに書くと、わたしはタイプミスでもない限り日本語を簡略化はしないのだ。
なぜかというと、簡略化の文法がわからないのである。(笑)(チャットしないせいかもしれない)
さて、geneやmemeには、むしろ宿主のためにならないようなものも、なんの役にたっているのか皆目検討がつかないようなもの、自分自身のためにならないようなものも、まるで細胞の中のミトコンドリアのように(ミトコンドリアは役にたっているが、あれは本来細胞に寄生している別の細胞のようなものである)自然に存在するわけで、そもそも何がよいのか悪いのかなんか、geenやmemeには関係のないことなのだろう。
memeの場合、そもそもバグこそが新しいミームでもあるわけで、だから人間の予想なんか見事に裏切られることも多いのだ。
ということに気がついている鱸さんはやっぱり凄いなぁ。
最近、コンドラチェフ波動について考えことがあって、gogleで検索したら、わたしの書いた絵が3番目に引っかかってきた。これだ→
まあ、これはどうでもよいのだが、「共通了解」や「共通理解」というのは、案外面倒な概念で、かつてわたしも、ビジネスにおける市場適合課題は「差異」なのに、しかし、「差異」は「差異」だけでは直接的には商売には結びつかない、などとのたまっていた。
つまり「差異」が、消費のミームにおいて「共通了解」されることで、新しい市場(消費のミーム)は形成されるのであり、そこに産業群が生まれ、費用逓減の経済が生まれ、業績は生まれる。
そこでは、かつて違うことだったものが共通理解される。
それもかなり解釈学敵にである。
つまり、「求められている違い」・・・これがそもそも矛盾しているのだなぁ、とかつては考えていたりした。
それをなんとかごまかしながらも理解できる方法は、村上泰亮のやったコンドラチェフ波動における、技術革新の突破段階と成熟段階の考え方なのだろう、なと考えている。
そしてこれが産業ミーム論の正体なのであり、内在するバグ(つまり差異)が拡大することもある理由なのだろうと思う。
技術革新はそれだけではビジネスにはならない。
逆説的には、ビジネスになったものだけを技術革新と呼ぶのかもしれない。
技術革新は、企業の開発主義では内在化されたプロセスである。
それは突破段階であり必要なことではある。
しかし、これが直接業績に結びつくには、消費のミームにその技術が浸透する成熟段階が必要なのである。(かつての日本の高度成長期とは長期的なスパンでのこの成熟段階に該当する)
つまり、商売になるにはそれなりの時間が必要なのである。
それが短いのか長いのかは関係はない。
それはミームの浸透に要する時間と持続する時間なのである。
だから、先日書いたように、特に新しいビジネス・モデルは時間軸で考える必要がある。
それがコンドラチェフ波動の考え方なのであり、そのミームの浸透のために、あらゆる方向からミーム力を強める取組みを行っている。
つまり、我われは戦略的マーケッティングを行うのである。
翻って、米国の80年代はIT基礎技術の最終的な突破段階の時期だ、とわたしは認識している。
だからこそ米国有利でことはすすんだのだ。
であればだ、そろそろ「ものづくり日本」(この表現はかなり嫌いだが)の出番なのだろうとも考えてもいる。
中短期のスパンでは、すでに成熟段階を迎えていると考えている。
しかし、日本の多くの企業が、開発主義の否定によって技術革新という内在化されたプロセスを怠ってきていたら、つまり、種を蒔かないできていたら、さらには、育てることをしてきていなかったら、刈り取るものはなにもないのである。
2004/02/21 (土) ▲ ▼
【薄い紐帯としての「旅」、つまりインターネットについて】
『百の旅 千の旅 』
五木寛之(著)
2004年1月1日
小学館
1,333円(税別)
この本は2004年2月19日帯広駅構内の書店で購入した。
そして、帯広から札幌に向かう特急列車の中でうとうとと読んだ。
五木寛之曰く。
『先に直感を大事にしようと書いてきたが、いままで情報やマニュアルで麻痺させられてきた頭を、正常にするためには、たとえば、あちこち歩き回ることが必要だと思う。』
『いつも同じ会社、同じグループの中にいるから情報も固定化するし、感覚もズレてくる。身元も知れない、顔を合せても「ああ、○○さん」と言ってくれないようなところへすすんで身をおく、自分の立っている空間の位置を変えることは、思想や健康の面でも大きな意味をもつと思う。それが「旅」ということなのだ。』(五木,p244)
わたしの口癖といえば「かわいい子には旅をさせろ」であろう。
これは企業向けの講演でよくつかうフレーズである。
当初、この言葉は、「海馬」が風景が変わることで活性化される、という研究結果を受けて、キャパシティとの兼ね合いで使っていたものである。
この言葉の意味をどこまで受け止めてくれて、そして実践をしてくれるのかは、多くの場合、経営者の係数 a にかかわる問題なので、なんともな議論なのだが、今でも、社員を育てたかったら「旅」をさせるべきだろう、とわたしは言い続けている。
これには五木同様わたしにもある確信があるのだ。
そのある確信について今日は書こう。
「旅」という言葉には、わたしは二つの意味がある。
それは端的には「バーチャル」と「リアル」である。
バーチャルな「旅」とは、無論インターネットのことである。
わたしは、このインターネットを「広くて薄い紐帯」の場とよび、「社会的に不安定で機会コストの高い社会」なのだ、という。(それぞれ玄田有史と山岸俊男から教わった言葉ではあるが)
先の五木の言葉では、、インターネットとは『身元も知れない、顔を合せても「ああ、○○さん」と言ってくれないようなところ』であることは、このサイトの熱心な読者の方々なら既に承知のところであろう。
つまり、この世界(バーチャル)での生活とは「旅」そのものなのである。
さらに、バーチャルの場合、もっと強烈な条件がここに加わる。
それは、インターネットとは、基本的には「売名」の場として存在する空間でしかないという事実である(これには反論もあるだろうから、反論があればメールをいただきたく思う。それを期待しながらお待ちしたい)。
しかし、バーチャルな空間では、極端な匿名性が可能であるが故に、リアルな空間と直結するような「売名」の行為は、意外と難しいのである(バーチャルとリアルが結びつきにくい)。
なので、バーチャルを足場にリアルな活動を行うには「信頼感のようなもの」が必要なのだ、と実感し、それを模索しながら6年間このホームページを更新しながら活動しているのが“わたし”なのである。
だもの、わたしのIT化論がそれを重低音にして構築されてくるのは当然のことで、つまり、だからこそ、わたしのIT化論には「信頼」の概念が絶えずつきまとう。
一方、リアルな旅も、またわたしにとっては、「売名」の行為でしかないのかもしれない。
わたしは観光目的で旅をすることは滅多にない。
例えば今週のわたしの旅を考えてみよう。
月曜にわたしは旭川に移動し、火曜日に旭川で講演。
その後札幌で夜を過ごした。
水曜日に帯広に向かい、講演を行い、帯広で夜を過ごした。
木曜日には帯広から岩見沢へ移動し、そこでも講演を行い、金曜日には岩手県の千厩町へ移動し、勉強会を開いていた。
これは立派な旅であろうが、観光らしいものはなにもしていない。
全て講演もしくは人前で喋っていたのである。
わたしの「旅」には必ず「喋り」がついてくるのである。
それも、基本的には、『身元も知れない、顔を合せても「ああ、○○さん」と言ってくれないようなところ』でなのである。
つまり、その仕事自体、バーチャルな空間での「売名」の行為の続きのようなものでしかない。
なのでここにも「信頼」は必要なのだが、このリアルな空間、それも講演という、刹那的な瞬間の芸における「信頼」とはかなり難しいものである。
そして、それはなにか、と考えるのだ。
それは「説得力」のことである。
それは「ミーム力」のことである。
それは「芸の力」である。
それは「信頼性」という特性である。
それは「メディア力」(山田ズーニー)である。
それは「超越論的な論理力」である。
もっとあるかもしれないが、これらの能力が向上できるものだとするのなら、それを可能にしているものは一体なんなのだろうか。
こうしてこれらの正体を考えれば考えるほどわたしは深みにはまるのである。
ますますわからないのだ。
かつて(この仕事を始めた頃)のわたしの講演が好評であったとすれば、それは多分「ビギナーズ・ラック」のようなものであったと思うのだ。
ただ最近、その答えの一つではないのか、と答えのないコンサルタントだと自認するわたしが、ようやく確信を持っていえるようになったことが、「反省」という行為なのである。
その反省という行為を、『身元も知れない、顔を合せても「ああ、○○さん」と言ってくれないようなところ』で行うことなのである。
それはバーチャルでもリアルでもかまわない。
できれば両方の方が良いだろう。
つまり、それがわたしのいう「旅」である。
2004/02/20 (金) ▲ ▼
【@千厩】
桃知@千厩であんかけカツ丼を食らう今日この頃である。
北海道三連戦を追え、今朝8時発の飛行機で花巻空港に到着。
近藤さんの運転で岩見沢のメープル・ロッジ(昨夜の宿、インターネットとは隔離されたよいところ)から千歳まで移動。
近藤です。今朝は結構しばれました。ハンドルが冷たくてしばらく握れませんでした。朝もやが晴れると、樽前山と風不死岳、恵庭岳が真っ白な化粧をまとい大変きれいでした。来月汚しに風不死岳に行って来ようかな。
ということで、幻想的な風景に圧倒されながら、新千歳まで。
花巻空港に到着後は、岩手建協の越場さんの運転で千厩入りし、本日は岩手建協千厩支部のIT化勉強会なのである。
北海道のレポートを。
まずは、2月17日旭川での様子を、まにあ・1号さま。
●秋野委員講演
空知建協のIT化のあゆみ講演。
空知建協の取り組みは「システムを動かすという薄っぺらい」ものではない。との語りかけから講演が始まる。
イントラ構築の目的は・協会と会員がデジタルで情報をやりとりをすることで、会員の リテラシーUPのきっかけ作りと支援。・インターネットを介して情報をやりとりするトレーニングの場
ディスカッション掲示板で「時間と空間(場所)を超えて」デジタルな会議が行われている様子。(協会HPのキャラクタイメージ採用についての議論)これを紹介。
また、会議への参加の通知と回答がアンケート機能にてこれまたデジタル上で全てが行われているさまを公開。
【 所感 】
非常に講演慣れして落ち着いたさまは「静かな熱血先生」の面目約如といったところ。また、空知協会イントラがここまでこぎつけられた理由・・・・は、PPT上は「葉月会の若手が頑張った」となっていたが講演では「協会事務局サイド、三役、理事」の皆さんが理解を示し、強力にバックアップしてくれたおかげ。と言葉でかえられていた。
この事は空知建協がIT化への取り組みを通じ、「相互コミュニケーション」が極めてよくなってきている事の証のように感じられた。つまり三役・理事が若手の活動に理解をしめされ、若手の皆さんは、三役・理事の理解をうけとめている。秋野委員は何気なくフレーズを言い換えられていたが、この言い換えには実はとても深い意味、「相互コミュニケーションの深化と良化」がとても感じられた。素晴らしい講演だった。
●桃知さん講演
ご本人は「アジテーション」と表現されておられたが、すべり出しは「アジ」とはほど遠い静かなものだった。講演概要は以下のような流れ。
1:IT化とは何かの理解2:発注者と共に考える姿勢と行動3:建設協会の新しい役割
1:IT化とは何か?
最終的には、「信頼される業界、信頼される会社、信頼される社員」に向かってゆく取り組みの事である。
全ての人間にむけて等しく流れている情報に対し
・情報が見える(つかめる)能力(他者を信頼する能力=信頼)・情報を自ら発信出来る能力(他者に信頼される能力=信頼性)
この能力を互いに「共進」させ「信頼」を構築してゆく事が社会的知性を育んでゆくという事になる。社会的知性というのは人間の可塑性(マリアビリティ)のことをさす。これは、どんな形に変化可能な極めて柔軟な状況状態をさし、個々人(または企業・協会)の柔軟性をうながし高め、創造してゆく事こそが大事なのである。
これは、個々人の「キャパシティ」を上げるという事に言い換えることも出来る。
この「社会的知性」「キャパシティ」を「体を使って学習してゆく作業」IT化ということであり、その場が「イントラネット」という事になる。
また、IT化・イントラネット上で行われる具現化されるものは「反省」という行為である。これは、自分自身の行動、思考を振り返り反芻する作業のことである。反芻することで消化(理解)がしやすくなる。この作業により、「言葉では語らない智恵(暗黙知)」が見える能力が育つ。たとえば、ある現場代理人が「あいつは、俺と同じ事をやっているはずなのになぜかいつも、現場が キレイで、工期が短く原価も低い、一体どこがちがうのだろうか?」というような事を考え始める。
そうなると、「何かが違う」という暗黙知(という情報)が見え始める。このITを使って反省を共有する・・・事がイントラネットで行う作業。
これは「フリーハンド」つまり「自由」に自分を(ITを使って)語ると言う事であり、マリアビリティを高め、キャパシティをあげる事につながる。そしてこれは「激変する環境変化」に対応してゆく為の唯一無二の「具体的手法」である。
反対に「フリーハンド」にせず、「ルール」「マニュアル」でしばってしまう事で、マリアビリティが下がりどんどん「環境変化に対応できない」人間に固まって行ってしまう。
つまり「反省」という行為は社会的知性(信頼・信頼性)やマリアビリティ(可塑性)を高めるという行為なのである。
2:発注者と共に考える。
このあたりから、桃知さんのボルテージがたかまり「アジテーション化」してくる!
大手ゼネコンの戦略は「官公需法」の見直し、国交省の視点の変化は「ものを作るからものを買う」である。この文脈上に、地場型中小建設業が存在しているのか・・?というと、その答えは「ない!」なのである。つまりCALSに対応するという事は「大手と全く同じ土俵で戦う」と同意なのだ!「あんた達はわかって、CALSに対応するなどと言っているのか!?」と。
・自分達の「意見を言える場」を作らなくてはならない!・発注者が意図に対する信頼を市民社会に対して証明できないと、業者を 切り離し保身に走っていまう!つまり手を組まなくては行けないのは、自治体発注者なのである!そしてそれを市民社会に対してOPENにしてゆこう!
こうして、発注者と共に考える場をつくらなくてはダメなんだ!
会場がみるみる水を打ったように静まり返ってゆく。
3:建設協会の新しい役割
地場方中小建設業の市場そのものである「官公需法」、これを守らずして何を守るのか。体外的には環境変化に抵抗し、内部的には信頼構築へのIT化へのインセンティブを提供する。これが個々の企業で実現できるのか→出来るわけが無い!
これが出来るのは「建設協会」しかありえない。ここを目指してゆかなくてはならない。
【 所感 】
信頼と信頼性、マリアビリティとキャパシティ・・・自分自身「何か」をつかめつつある(理解できてつつある)感覚はあるのだが、こうして文字に「反芻」してみると、つかめている、理解できつつある事の「底の浅さ」が浮き彫りになるような気もする。ただ、
1:IT化とは何かの理解2:発注者と共に考える姿勢と行動3:建設協会の新しい役割
この「流れ」は非常に明確でわかりやすいテーマの流れであり、今一度復習、反省すればもう少しよく理解できそうな気がする。
2月18日帯広での講演を、まにあ・1号の舎弟さまより。
講演内容
・ 「空知建設業協会におけるIT化の取り組みについて」神部組 神部専務
・空知の建設業がどのような取り組みを実践してきたかの説明。
・講演内容については、空知の広報・IT委員会で実践しているもの。
・電子入札はCALSの入り口(入力)部分、電子納品はCALSの出口(出力)部分であり、その部分だけに力を注いでも何の効果も生まない。
本当に大切なのは、社内全体のコミュニケーションツールとしてのIT化であると話をまとめる。
*最初は緊張していたものの、「相手に気持ちを伝えたい」という熱意が伝わってくる講演だったと思います。
・ 「建設業におけるIT化について」 桃知氏
・まず、十勝支庁側に建設業からあった質問「電子納品についてCADは何を利用したら良いかの返答より始まる。
(答えは「好きなものを使ってください」であった。)
桃知さんより今回の講演が電子納品や入札といった小手先の部分ではないことを最初に認識してほしいというところから講演がスタートする。
・協会ベースでのIT化の目的について
桃知さんは以下の3点を目的としてあげている。
1、 IT化とは何なのかの理解を協会員にしてもらうこと。
2、 発注者と受注者とが一緒に考える環境の構築。
3、 建設業協会のあらたな存在意義の確立。
IT化とは何かを理解してもらうため、IT化=環境×原理の方程式を使い、
建設業の抱えている環境をまず説明する。
・公共事業の環境について
今直面している公共事業の問題点は「地方財政の体力的な限界と雇用対策の必要性とのトレードオフの関係」であるとのこと。
その例として国土交通省、長野県などの事例を紹介し北海道のソフトランディング対策もその一つだと説明(桃知さん曰く、あれはハードランディングとのこと。)なぜ、このような状況が発生したのかについても説明をしている。
・経済学が生んだ2つの問題解決法について
環境に問題が発生した場合の問題解決方法はマーケットソリューションとヒエラルキーソリューションの2種類がある。前者は市場環境に問題をゆだねる形、後者は、選挙で選んだ人に配分をゆだねる形である。またこの2つの問題解決方法はかならずどちらかに偏る傾向がある。現在はヒエラルキーではなくマーケットソリューションに偏った状況であるとのこと。
そのため、入札価格の低下、ダンピングなど価格で問題を解決しようという傾向が発生しているのである。
このマーケットソリューション側にかたよっている理由は、「小泉首相、竹中平蔵氏」にあるという話がある。
・CALS/ECはIT化なのか。
CALSの目的は「コスト縮減」「品質の確保」「透明性の確保」「事務処理の効率化」の4点であるが、電子納品、入札で上記の問題解決ができるのかという話。
コスト縮減にはつながらない(逆にお金がかかる)、品質の確保(これも納品にしたから良くなったという話はない)透明性の確保(これも談合可能)事務処理の効率化(これも増えている)。
建設CALSの本当の目的は、物を作る視点から売る視点への変化であり「性能規定発注方式」や「ユニットプライス方式」を言う。これは通常企業には無理であると桃知さんは言う。
* ユニットプライス方式とは、積算にかかるコスト・労力を低減する方式。
従来の歩掛かりや労務単価・資材単価・機械損失などを用いて積算する「積み上げ方式」と異なり、過去の入札実績データベースや積算実績データベースから1立方メートルや1平方メートルあたりの単価(これがユニットプライス)を算出しそれに数量を掛け合わせて積算する。
こういった環境の中で建設業が生き残るには、1社、1社が努力しても無理であり協会で協力をしながらIT化に取り組んでいく必要があり、IT化を取り組むにあたり必要なのは「信頼」であるという話になる。
・信頼について
信頼は社会的、経済的取引の重低音であり「信頼できる業界、会社、職員」を目指す必要があるという話である。
桃知さんは「情報の見える能力」を信頼と言い、「情報を発信する力」を信頼性と言う。人間は相手を信頼しているのではなく、相手の出している情報を信頼していると考えられる。また、「情報を発信する力」とつけることにより、「情報の見える力」も鍛えられ(これを共進化という)それが各職員の能力の向上、企業としての成長につながると桃知さんは言う。
まず信頼性(情報を発信する力)を高める(情報を出す)作業が必要。空知はその為の「広報・IT委員会」というものが存在する。
ここで、他社の事例ということで平和建設のイントラネットを紹介し、情報を発信する力として「現場状況報告」を紹介。情報を発信する作業にIT化をつかうべきであり、それが職員の信頼性を高め、信頼を得るようになる。
大切なのは「フォーマット化(型枠化)」ではなく「フリーハンドで(自由に)書くこと」。フォーマット化は職員の能力を低下させる。→会社の能力が弱くなる。
IT化は業務の効率化ではなく、職員の情報を出す力をつけ、情報を見る力をつけるために実践すべきことである。そして情報を発信する場合はメールのような個人を指定したものでは意味をなさない。すべての職員が情報を発信し、すべての情報を共有するためにイントラネットを構築すべきである。
・相補均衡について
最後に建設業からの質問ということで「ボトムアップ(下からの力)でIT化はうまくいくか」について桃知さんより話がある。
答えは「うまくいかない」ということで相補均衡のお話を紹介。
IT化の取り組みは、社長みずから取り組み、実践する姿勢が非常に大切であることを最後に紹介。
* 始まりが「CADは何でもいいんじゃない?」といった形だったため、最初はざわざわといった感じが会場内から見られました。
話が進むにつれ、聞いてる方々が非常に関心をしめすようになりました。
(横にすわった方々は最初「なんだあの人」と言う反応から、最後は真剣に話を聞く態度になっていました。)
* 今まで「CALSに対応するとは・・・」を「正解の思い込み」で考えていた方々は非常に衝撃的な内容ではなかったかと思いました。
* 今回の桃知さんの講演では「横文字を使わない」という隠れた作戦があり、ほとんどの言葉が日本語を利用。(つかったのは、マリアビリティぐらい)
初めて聞きにきた方は、非常にわかりやすかったと思いました。
まあ、何点つけたらいいのかは、わからない。
なぜなら、ただ貼り付けただけで読んでいないのだ。(笑)
それで、今日は浅草へ帰るのだ。
PS.今、千厩の橋本さんからお酒をいただいてしまた。m(__)m
これから午後の勉強会である。
2004/02/19 (木) ▲ ▼
【スーパーとかちである】
桃知@スーパーとかち6号札幌いきである。
肉体的な疲れはピークといってもよいだろう。
振り子式車両のへんな揺れがそれに拍車をかけている。
鱸さまより。
> 昨日の講演は、アジテーション・タイプ・・・
> その対象の多くは、行政側の公共建設政策に対するもの・・
>
今回聴講者の多くが事業者サイドの方々だった模様。
なので・・ 勝手ながら、少しでも「好況事業悪者論」を払拭するような動きを示せ! といったアジ演説をされたのではないかと拝察。 (的外れだよ〜ん > 鱸)
ぢつは、○語プレゼン+質疑4時間を終えた後、某×硬症関連団体で立ち上げようとしているBPR(?)委員会の準備会に参加。
で、小生の企画提案(?)は上記趣旨。
参加各位は立場もバラバラながら、これまでの××者責任検討会などの動きも知っており、何となく理解した感触。
しかしながら、「何をすべきか・・」を性急に求めてくる。
その後は、各位と暴飲しながら(ももさんではないが・・)「特効薬などわからない・・」を連発。
小生も新領域(答えのない評論家(?))に突入中???
(勘違いしすぎだょ > 鱸)
でわ、股。
こんにちは。
うどん星人です。
春の日差しで、雪の溶ける音がします。
北海道は冬のままでしょうか?
(ざっくり)
お疲れ気味の師匠には申し訳ないですが、長い愚痴を書いてしまったようです。
すみません。
でも、地元密着型地方の中小建設業の実状なのです。
引き続き、北海道行脚ミーム散布…お体いたわりつつお続け下さいませ。
では。
さっくりしすぎていて、読者の皆さんには何のことか意味がわかんないだろうが、地場型中小建設業のおかれている状況は、今やアブラハム・マズロー的階層の最下層まで、その視点を落とし込まれてしまっているのかもしれない。
つまり、生存の欲求の水準での思考を余儀なくされてしまっている。
社会の目標はそこで暮らす人々の幸福であるとすれば、社会の一員としてのわたしは同朋の幸福のために働いているといえるのだろうか。
2004/02/18 (水) ▲ ▼
【それでは違うのである】
札幌のホテルにて午前5時30分に起床。
昨日の旭川での講演後、なにかずっと引っかかっているものがあって、今朝は講演の構成を再編成していた。
講演は数をこなせばこなす程その難しさがわかってくる。
つまり、「反省」を通じて、そこで学んだことを言葉で表そうと極限の努力をするとき、「言葉で語れる知識」だけでなく「言葉で語れない智恵」も掴みやすくなる(田坂広志)、ということだろうか。
昨日の講演は、アジテーション・タイプとわたし自身が勝手に命名しているものであった。
アジテーション〔agitation〕 心情に訴えかける演説などを行い、人びとを目的の(政治的)行動に駆り立てること。扇動。アジ。Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
つまり、本当にアジったのである。
その対象の多くは、行政側の公共建設政策に対するものである
しかし、今朝こうして考えると、あれは中小建設業側のガス抜きになってしまうだけなのかもしれない、と思うのだ。
だが、それでは違うのである。
本来の目的を達成できていない。
本日は帯広で講演なのだが、また勝手に構成を変えてしまっている。
ただ、朝だけでは時間は十分ではない。
であれば移動中の「スーパーおおぞら」の中でも考えるていることだろう。
そして講演直前、若しくは公演中にでさえ構成を変える事だろう。
人に伝えるということは、難しいのである。
それも、こなせばこなすほど、その難しさが身にしみてくるのである。
2004/02/17 (火) ▲ ▼
【眼鏡としてのイントラネット】
桃知@旭川である。
本日の仕事は、午前中(といってもおそい午前中だが)いろいろと打合せ。
午後からは建設産業構造改善情報構造交流フォーラムでの講演である。
旭川での仕事が終わり次第、明日の帯広行きに備えて、札幌へ車で移動するのである。
雪が降んなきゃいいなぁ、と思うのだが、ホテルの部屋から見る外の景色は降雪中なのである。
昨日、羽田までのタクシー移動、運転手さんは芸能関係(SMAP?)、現オートレーサーの森選手のお父上であった(と断言はできないが、はなしの内容からそう察するわけだ。運転手さんの名前も森さんだった)。
わたしのような俗人からすれば、芸能界にいたほうが稼げるんじゃないかい、と思うのだが、お父上曰く、勝負事が三度の飯より好きなんだと。
参りました、である。
さて2月15日の戯言に対する緒方さんからのメール。
私は個人の能力が社会的にはどうなるのか。
といった視点から考えてみていました。
先代の社長が築き上げた結果、bで引き継いだ社長が持つ能力と世間の解釈との関係という観点が浮かんできて、ふと思ったのでした。
こう書いてみるとまた次にふと思ったのです。
結局、会社の力というのは、なんだかわからないけど、先日言ったAによるわけですけど、これは、もしかしてミームなのかな?
そう考えるとミームは、社長の能力に左右される?
やはりわからない。
内部要因と外部要因が複雑化しているみたいでまだ頭の中が整理できていません。
再び、ふと思ったらメールします。
「ミームは、社長の能力に左右される?」
される、というのがわたしの立場だ。
される、というか、比較的影響力の強いミームを持っている、といった方が良いだろう。
つまり、それが相補均衡における、熱血先生か頼りなし先生かの違いを生むのである。
熱血先生とか頼りなし先生という考え方は、IT化における社長の存在の重要性をいってはいる。
中小建設業(建設業に限らずだが)の場合、その組織形態がほとんど文鎮型であることを考えると、社長のミームがその組織のミームを形成するに大きな役割を果たしているはずだろう。
しかし、ミームという考え方(進化論的アプローチ)は、会社組織のミーム(組織文化とか社風)が、社長のミームと同じベクトルに均衡するとは限らないこともいっていることに気がつかなければならない。
或る時点での均衡とはミーム淘汰の結果でしかない、ということだ。
そして、どうミームの淘汰が進むのかは、多くの場合、熱血先生が社長であるかどうかだけでは決定できない。
より強いミームの持ち主が社内にいれば、そのミームで社内は均衡するかもしれないはずである。
これは中小建設業においてはよくみられることである。
例えば、ある部門の部長の影響が強く、その部門は部長の影響下である方向に均衡しているが、全体的にみると、それは社長の考え方とは反対方向のベクトルを持ったものである場合、などがそうである。
社長が頼りなし先生である場合には、その傾向はいっそう明瞭に現れるだろう。
これが今という時代の面白さなわけで(封建的な時代背景ではそれはあまり考える必要性はなかった)、ある特定の社員のミームが強い場合、社長のミームの影響力は、あえて逆のベクトルを持ったミームを社内に生むかもしれない、ということでもある。
ここで、社長のキャパシティの必要性をわたしはいうのだが・・・。
まあ、このあたりを理解するためにイントラネットはあるのであって、つまり、イントラネットの経営における最大の存在価値はなにか、といえば、それは、自社のミームを見ることのできる眼鏡である、ということなのだ。
これがわかんないと、イントラネットなんて効率化や合理化の道具にもなれやしない、ってことを理解すべきだろう。
そのはなしを今日はしようかと思っている。(全部ではないが・・・)
2004/02/16 (月) ▲ ▼
【今日は旭川へ】
昨日の日曜日はずーっと仕事をしていた。
昨日も書いたように、午前中は自分の確定申告のための仕事。
その後、土曜日においでいただいたお客様のために、企画書と大まかなスケジュールをMicrosoft projectで作成する。
ここで、一服。
夕飯は米久で食べる。
久しぶりに牛鍋を食べたのだけれども、珍しく(?)米久は満員状態で、多分TVで流れてまくっている牛丼報道のサブリミナル効果かなと思う。
みんな牛丼が食べたいのだ。
でもないものねだりの今日この頃だものね、高いお金を払って、煮詰まった割り下をご飯にかけて食べる擬似牛丼スタイルを楽しむのしかないのかもしれない。
この食べ方はかなり下品だけけれどもうまいに決まっている。
当然にわたしもそうして食べた。
帰宅後、帯広からのメールで、明日からの道庁セミナーのPPTを急遽変更。
帯広での講演は事前に質問の内容をいただいているようで、その質問に答えられるようにPPTを何枚か追加し、ついでに構成も変えてみたわけだ。
ただ、わたしの持ち時間は2時間だけなので、情報量は限られる。
今回はミーム論には触れることもできない。
これがないと信頼とか市場とかの生物学的(進化論的)な理解は難しいのだが、それなしで、2時間という時間枠の中で、どこまでわたしのいうIT化を話せるのか、これは自分との戦いのようなものである。
すなわちこれが「芸」を考えるということなのだけれども。
さて、今日はANA 4733 東京(羽田)(1340) - 旭川(1515) で旭川へ飛ぶ。
明日の講演に備えて前日入りするのだ。
飛行場には、一緒に講演をする秋野さんが迎えに来てくれている予定なので、一緒に旭川上川支庁へご挨拶に伺う予定である。
ところで、桃熊会のお仲間である大西熊本県議のHP、2月11日の今日のひとりごとを見て大笑いしてしまった(失礼)。
詳しくはこちらへ。(紹介していいのだろうか?)
http://www.kazufumi.com/today/index.htm
では、、行ってきます。
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