店主戯言040301  2004/02/29〜2004/03/15 "There goes talkin' MOMO"


About桃知利男インデックスSelf Talking INDEX | 今日の戯言 | 2004年2月後半へ | 2004年3月後半へ著作権店主へメール
依存リンク


2004/03/15 (月)  
【今日は盛岡へ】

今日は岩手建協さまのIT特別委員会のためため、盛岡へ。
上野駅、8時2分発のはやてなので今朝はばたばたと忙しい。

ここはいつものように忙しいときの鱸さま頼りから始めよう。(笑)

> 2004/03/14 戯言
> そのひとつの解が(企業の)「社会貢献」という視座と、ネットワーク化
> (ネットワーカーとしての個人の育成)にあるだろう・・
>

 またしても、 どらっかーさん「うけうり」です。 小生感覚にマッチする
 のですが、小生などが到達するはずもない夢のような話なので・・・
 あこがれという意味で書いてみます。

 どらっかーさんは、てくのろじすとの養成には「それなりのコミュニティ」が
 必要と指摘しています。 小生は・・ (勝手に)野中先生などが説く「場」
 なる日本語に置き換えて理解しようとしています。 てくのろじすとは、
 知識労働および肉体労働の双方に高度の技能を有する方(例えば、脳内の
 動脈瘤手術を多数手がけたベテラン医師・・)を意味する造語ですが、
 そうした方々を養成する「仕掛け」創りでは米国がぬきんでているといいます。

 いずれにせよ・・ 傑出した「てくのろじすと」の増加は組織の運営に影響を
 与え・・ 当該組織に富をもたらす存在として拘束しておくことが難しくなる
 可能性があります。

 雇用主なのか、経営なのか、組織なのか・・ あるいは、全く別モノなのか・・
 何らかの魅力 or 意味合いがないと・・ てくのろじすとを留め置くことが
 できなくなると思います。
   =単なる言い換えですが・・ 「人は石垣、人は城」っていいます。
    石垣の石自身が何らかの意味で機能を高め、その石自身が留まるか、
    抜けていくかといった判断を行う時代が始まっている と思います。

 M&Aをやっても・・ てくのろじすとを手に入れることはできないでしょう。
 てくのろじすと自身には意識がありますから・・・
 一方、関与しあう方々の意識・波長が合えば・・ 相乗効果を期待できる
 可能性があります・・・

                     異常


それで、長谷川さまよりである。

(ざっくり)

法政エクステンションカレッジ、申し込みました。
昨年は一度だけしか出席できなかったのでリベンジです。

さあ、勉強しなくっちゃ!
村上泰亮 『反古典の政治経済学要綱』の読書会はとても面白そう。

今日の戯言→
『だが反面、一般的適応能力の幅が広い場合ほど、人材の企業外流出の可能性は高くなり、雇用の長期化の形は崩れて、人的投資の成果を回収しにくくなる。この両面のプラス・マイナスのバランスを見ながら解を探っていくのが、人材雇用政策の中心的課題になるだろう。』、(村上泰亮 『反古典の政治経済学要綱』,p181-182より)
→に反応して一言です。

経営者としては、必要な人材に見切りをつけられないような会社、良い人材がこぞって働きたくなるような会社を作りたいと思っています。
自分と自分を取り巻く環境をホットチームにしたいと願い、その中で自分も一生懸命に心地よく働きたいと切に願うこの頃です。

では、ごきげんよう。

このふたつの意見は、それぞれ被雇用者と雇用者からの視点なのだが、根っこは同じものなのだと感じている。

鱸さま(ドラッカー)曰く、「それなりのコミュニティ」。
長谷川さま曰く、ホットチーム。

建設業に限らず、どんな業界でも、この視点が必要なのは、経営、マネジメントにおいては、共通なものなのだと思う。

なのでもうひとつの問題は、外部にある制度(環境)になるのだが・・・。

2004/03/14 (日)  
【休日である】

昨日は、税理士先生がおいでになり、決算報告を受け、確定申告関係書類に捺印。

昨年は、一昨年に比べてると、さまざまな面で、「やりかた」的な変更を行ってきたのだが、その成果は確実に出ているように思う。

それは顧客の皆さんの変化としての表現型としてでもあり、わたしの1年間の果実としての表現型としてでもある。

まあ、これで個人事業主の年に一度の悩みの種はおしまいなのだが、こういう区切りというか、けじめのようなものは、ずぼらなわたしにはありがたい存在なのである。

後は、ちゃんと税金を払い、今年のわたし自身の行動について、再確認を行うのである。


事務的な仕事を終え、税理士先生とご一緒して、暫くぶりに「杉」へ出向く。昨晩は、税理士先生が予約してくれていた味噌うどんすき(これは要予約なのよ)であったが、やはりおいしい。

久しぶりに大女将の「らしい」はなしを聞きながら、まったりと過ごす時間は、これも含めて浅草の最良の時間だと再確認した次第である。

最近は、年のせいか、飲むと食べられないので、ちょっとした接待は寿司屋でつまむ程度が多かったのだが、やはり「杉」はよいのであった。

まあ、案の定残り物はでたのだが、残ったそれを鍋ごと自宅に持ち帰り、今朝はそいつでおじやをつくって食べる予定なのである。いとうれし。


いとうさまより。

本日の店主戯言も、響いてきます。桃知さんに新人教育を任せてしまう、空知建協の皆様、こちらから見ていると、うらやましくなるぐらいです。

>自社から飛び立つような「有為の人材」が増えていく可能性が高まることを意味するだろう。

(↑)同感しています。

桃知さんの戯言に、いつも、共感したり、新しい発見を見出したりしています。
本日の、往復の列車の友は「逆システム学」でした。私にとっては難解な読み物です。読書百遍意自ずから通ず、を信じて、できるだけ理解して、自分の考える糧にしたいと思います。

失礼しました。

このG3は、考えるG3(ガメラ3ではなく、どうやら、「爺さん」の短縮表記らしい)である。

このG3 は、「現実の重み」が我われ若輩者の及びもつかないところにあるので、出力 y は、わたしの想像を超えるところがある。つまり、突拍子もないG3なのだ。(笑)


さて、引用いただいた>自社から飛び立つような「有為の人材」が増えていく可能性が高まることを意味するだろう。というフレーズについて。

『だが反面、一般的適応能力の幅が広い場合ほど、人材の企業外流出の可能性は高くなり、雇用の長期化の形は崩れて、人的投資の成果を回収しにくくなる。この両面のプラス・マイナスのバランスを見ながら解を探っていくのが、人材雇用政策の中心的課題になるだろう。』、(村上泰亮 『反古典の政治経済学要綱』,p181-182より)

人材の資本としての蓄積と、反面する人材の企業外流出の問題は、この村上のことばを超える必要がある、とわたしは常々考えていたのだが、そのひとつの解が(企業の) 「社会貢献」という視座と、ネットワーク化(ネットワーカーとしての個人の育成)にあるだろうと考えている。

まあ、この仮定は、IT化を単なるコンピュータ化だと理解している限りは理解不可能なのも確かではあるが。

ということで、今日は基本的には休む日である。
今、わたしの手元には14冊の未読の本があるので、できる限り目を通してしまいたいと思うのだ。(目を通す=読むことではないが)

2004/03/13 (土)  
【有為の人材】

昨日、一昨日とJAS便ばかり4便に搭乗して感じたことは、JASのアテンダントさんは、若いじゃないか!ということ。

普段、わたしは意識的にANAを使っているのだが(その理由はかなり複合的なので今回はふれない)、最近のANA便で感じていたことは、やたらベテランのアテンダントさんが多いなぁ、ということ。たぶんパートさんなのだろうなぁ、若い正社員は国際線なんだろうなぁ、などと余計なお世話的なことを考えていたわけだ。

まあ、そんなことはどうでもよくて、昨晩は、JAS 198 便 旭川 20:25 発 → 羽田 22:10 着で浅草に帰った。

旭川は雪で、機体に付いた氷を落とす働く作業車の仕事をまのあたりにして(今年2度目なの)感激してきたのだった。

北海道といえば、来月の6日、空知建協さまの合同新入社員教育をご依頼され、約4時間の時間をいただいている。

わたしは、「情報化社会の歩き方」というタイトルをもって、このカリキュラムを考えていることろなのだ。

新入社員教育を、このわたしにさせようとするその勇気には、甚だ感心せざるをえないのだが、こちらも責任重大ではある。

刷り込み効果で、わたしは新入社員さまの親鴨になってしまうかもしれないのだから。(笑)


さて、今回の教育の内容だけれども、まずは、企業の、そして仕事の目的を考えることからまとめよとう考えていた。

それもわたしの興味の範疇から「社会貢献」という視座を強調しようと考えているわけで、これを田坂広志流にまとめれば、次のふたつになる。

 1.企業はなによりもまず「本業」を通じて社会貢献する。
 2.企業は「有為の人材」を育成することによって社会貢献する。

今回依頼された仕事(新入社員教育)は、当然にこのふたつの側面を強調したものとなるのだが、今回の仕事の内容からいえば、まずはなにより、2の「有為の人材」を育成することによって社会貢献する、を理解しなくてはなるまい。

新入社員教育とは、彼らに職業を通じて「有為の人材」になっていただくための第一歩だと理解するのである。

つまり、「有為の人材」とはなにか、である。
ここでも田坂広志を引用するのだが、その指摘は明確だ。

それは次の三つの条件を備えた人材である。

 1.「社会貢献と社会変革」の強い志と使命感を持ち、
 2.「プロフェショナル」としての高度な職業能力を磨き、
 3.「ネットワーカー」としての人間的魅力を身につける。

では、どうしたらそれを自らの職業を通じて達成できるのか。

1と2は、従来のパラダイム(工業社会のパラダイム)でも語ることができるだろうが(それだけじゃつまらないので、当然に「情報化社会の歩き方」というスパイスはたっぷりときかす予定であるが)、3の「ネットワーカー」としての人間的魅力とは、「情報化社会の歩き方」そのものを理解することでしかなのだと考えている。

そのネットワーカーとしての力(魅力)とは、従来の@の右側(会社の看板と肩書き)に依存した「人脈づくりの力」のことではない。

それは正しく個人の人間的魅力によって多くの人々が集まり、協力してくれる力のことである。(これも田坂の受け売りだが・・・)

つまり、狭くて濃い紐帯<広くて薄い紐帯 なのだ。

こうして見るとどうだろう。
ここにわたしのIT化の仮説、つまりマリアビリティの仮説は、見事とはいわないまでも、なんとなく使えるものであることがわかるだろう。


経営として、このような「有為の人材」を育成することによる社会貢献が、経営の目的のひとつとなる。

しかし、これは人材の囲い込みを意味するものではない。

むしろ、このような視座から行う人材の育成は、自社から飛び立つような「有為の人材」が増えていく可能性が高まることを意味するだろう。

経営はそれを否定しては、自らの存在を社会貢献の文脈で語ることはできない。

例えば自社から飛び立った「有為の人材」があったとしても、彼の可能性は自社を超えて社会貢献的に活用されるだろうし、その彼の可能性を最初に、そして最も有効に活用できる可能性があるのは、最も容易に彼とのネットワークを構築できるはずの自社なのだ。

つまり、ここで試されるのは企業のネットワーク力なのである。

ミーム論的にいえば、自社の文化的遺伝子を持った「有為の人材」が、社外に飛び立つことは、自社にとっても良いことであるように、ビジネス・モデルを組み立てる必要がある、ということである。

それが企業における「情報化社会の歩き方」なのだと思うのだ。


ということで、経営的にはこれを理解していただいているとして、わたしは、新入社員の皆さんに、「情報化社会の歩き方」をお話しようと考えている。

つまり、こんなはなしはしないのだ。(笑)
今回書いたのは、経営者向け、なのよ。

2004/03/12 (金)  
【と今しがた】

と今しがた家人からのメールで、探し物はホテルで発見されたとのこと。
よかった。



【ケータイがない・その2】

桃知@羽田でけだるく遅い朝食中である。

さて、ケータイはどこだ?の続きで、昨日のことをいろいろと思い返してみる。

だいたい、昨日、わたしはケータイを持って家を出たのだろうか?という疑問があったのだけれども、それは解決した。

→出掛けに家人から忘れ物の確認の電話があった。
→つまり、もって出たのである。
→しかし、昨日は、それ以後、ケータイを一度も使っていないことに気付く。

羽田空港の手荷物検査場では、存在していたような記憶がある。
であれば、たぶんわたしのスーツのポケットの中に、ライターなどと一緒にしまわれたのだろう。

しかし、搭乗に際して電源を切った記憶がない。

→昨日は確実に携帯を持ち出してはいる。
→初期値はスーツのポケットの中。それもズボンか。

→であれば着座したときに落ちた可能性が高い。
→若しくはホテルに置き忘れた。

行動範囲

→羽田空港の搭乗待合室。
→宮崎行きの飛行機の中。

→空港へお向かいに来ていただいていた橋邊さんの車。
→若しくはそれに乗り降りするときに落下。→音がするだろう。

→ちょっと珈琲を飲んだ喫茶店。
→宮崎地区建協さんの会議室。

→懇親会場の中華料理店。
→二次会会場(ワシントンホテルの11F:落としたとすれば、ここがいちばん怪しい)。

→最後の締めのホルモン屋。
→朝お迎えに来ていただいた○木さまの車の中。

ん〜、こんなもんだわな、わたしの行動エリアなんざ、と妙に納得しながらサラダを食べるのであった。



【ケータイがない】

桃知@宮崎空港である。
ケータイがないことにきがついた。

どこへ・・・?


【ねむーい】

午前2時就寝、午前6時起床。

今日のわたしといえば、宮崎から羽田トランジットで旭川空港経由芦別行きなのである。それも日帰り。(笑)

なので、続きは羽田空港で、の予定。

宮崎は雨である。

2004/03/11 (木)  
【は〜い、ぶりっと】

ハイブリッド
〔←hybrid state, hybrid=雑種〕異なる方式を一つの組織の中にうまく組み込むこと。デジタルとアナログを一緒にした時計など。混成。混載。
用例・作例
―IC・―コンピューター

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

世の中、はいぶりっとだらけなのである。

流行歌の歌詞は、日本語と英語のはいぶりっとが溢れている。

♪笑ってもっとbaby むじゃきにon my mind ♪

なのである。

『カントは人間的なものとモノ自体を分離することによって、近代世界を基礎付ける哲学を創造したが、このような分離や純粋化を推し進めたことの結果として、ハイブリッドの氾濫というパラドキシカルな現実は生み出されたのだ。』(中沢新一)なわけで、つまり、『人間は人間、モノはモノ、文学は文学、文学は文学、科学は科学だったのである。』


まあ、この専門化のようなものは、かつては科学の方向性として正しかったはずであるし、そうもてはやされてきた。(そしてそれは不要なものではない)

しかし、考えても見れば、我われの日常は、先の歌の歌詞じゃないけれど、純粋に分化された量子的なものの単なる浮遊の場ではないのである。


鳥インフルエンザの問題ひとつとっても、その問題解決は、様々な専門知識のはいぶりっと化でしか解決できないだろう。(もしかしたら、我われの手に負えるものではないかもしれないが)

環境や外交の問題も然、経済も然である。
ついでいいえば、ネットワークもモジュラー化もはいぶりっと化でしかない。(笑)

中沢新一はこういうのだ。

『私たちに必要なのは、気象学者やバイオ技術者たちが実験室でおこなていることの本質を、実存や政治の場でおこなっていることの本質に媒介・翻訳して語ることのできる、真実にハイブリトな思考をつくりだすことなのだが、ハイブリットな現実の氾濫に対して、思考の側の取り組みは後手に回ってばかりいる。』(中沢,p363)


cover 『フィロソフィア・ヤポニカ』

中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)







わたしが「公共工事という問題」を考えていて思うことは、この議論の多くがイメージ化、はいぶりっと化されていることの現実である。

さまざまな視座からのさまざまな意見が、その接点において言語化される努力(反省)されることなく、イメージ化されている。

『ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているのにすぎない。』(中沢,p365)

なので、この問題を語る方々の多くは(わたしも含めて)、正直もうよくわからなくなっているのだろうと思う。

つまり、従来の思考方法では「わからない」のである(わかっているとすれば、それはなにをわかっているのだろうか)。


だからこそ、このはいぶりっとがあふれる日常に、わたし自身は、自分自身が納得できる思考の基本(哲学か)が欲しいと思う。

2002年のノーベル経済学賞を受賞したバーノン・スミスとダニエル カーネマンは、心理学と経済学(もっとあるけれども)のはいぶりっとを使って現実を語れる人なのだろう。(リンク先の文章を書いた西條辰義先生の仕事にも興味津々)

アマルティア・センは、倫理学と経済学のはいぶりっと化で現実を語れる。
山岸俊男も村上泰亮もわたしにはそのような思考の基礎を持っている方々なのだと思えるのだ。

そして、あれこれ考えていたら西田幾太郎と田邉元がいたりしているのだが(笑)。(彼らのの哲学については、まだぜ〜んぜん理解できていな〜い)。

だからわたしは、わからないことを自覚しながら彼らに学び、考えるしかない。

こんなこと考えていて何にになるんだ、といわれれば、わたしのやっていることなんか「はい。それまでよ」なわけなのだが、まあ、それでもわたしは考えるしかないのだわなぁ。

なぜなら、わからないのだもの。(笑)


まにあ・1号さまより。

さて、法政エクステンションですが今年も申し込みさせて頂きました!正直な処、結構な経費のかかる講座(受講料の5倍、交通費がかかるのですねぇ・笑)ですので、今年はすこし迷いましたが、結局この一言が背中を押しました。

「今年は、村上泰亮抄読会をやろうかと考えている」
ですね!

桃論の底に重低音のように流れている「村上理論」を桃知さんの解釈だけでなく、他の方々の解釈や意見を聞ける。という事がなにより魅力的です。勿論あの「難解(何回読んでもわからない?)」な理論ですから、そう簡単に行くものでもないでしょうが。

ただ、こうしてそれこそ「全国各地から様々な考えを持つ人々」が集まって「なんだかわけの判らないけど熱い議論をする」事で確実に「自分のドメインが広がってゆく事を実感できる」という事がこの講座の最大の魅力だと考えています。

思索の深さは自信がありませんが、思考の幅は間違いなく広がるのです。

今回は自分なりにテーマを抱えて、受講するつもりです。今年も
熱い講義を期待しています!

たぶん、今年は熱いを通り越して、Coolだと思うが・・・。(笑)

ということで、今日は宮崎へ。

2004/03/10 (水)  
【法政大学エクステンションカレッジ受付開始】

昨日は、なんとか名古屋発19時48分の「のぞみ」に間に合い、東京駅には21時30分着、自宅には21時50分に帰ることができた。

新幹線車中で駅弁を食べたが、なにか物足りず、自宅に戻ると、不思議にそこに存在していた神戸コロッケ三種を食べ、杏とマンゴーと苺のドライフルーツを少しずつ食べ、それから風呂上りにウコンの錠剤を少量と八朔を食べ、最近お気に入りのカテキン式を500ミリリトル飲んだ。

最近は運動不足と移動の着座がたたったのか(?)、腰の具合がちょっと悪くてややしんどいのだが、からだひとつの流れ者人生、あきないをしながらリハビリに励むしかあるまい。

西村さんからレダシルマ・ナノが良いとは聞いているのだが、それなりに高価なものなので、確定申告が終わってからでも購入しようかと思っている(申告次第では今月は買えないな)。(笑)


さて、今年の法政大学エクステンションカレッジも、ようやく受付開始なのである。
https://www.hosei.org/kouza/S043001.php
(お申込には会員登録が必要です)

今回は(も)集客にはまったく自信がない。
定員15名さまか・・・。

わざわざ旅費と受講料を支払って東京は市ケ谷まで出向き、わたしのわけのわからないIT化論を勉強しようという意欲は、この時代環境の中では、なかなか沸かないだろうなぁ、と正直なところ思うのだ。

ましてや、なにかの資格が取得できるわけでもなく、目に見える成果などなにもないのも事実だし、今回は、村上泰亮の『反古典の政治経済学要綱』の読書会などという、市場の要求をまったく考慮していない、わたしの趣味的内容(?)が盛り込まれていたりするので、今年の集客困難は、なにか確信に近いものもがあるのも事実なのであった。(笑)


「この時代環境の中」とは、今や、多くの方々は、マズロー的階層の最下層の精神状態に近いのかもしれない、ということである。

しかし、わたしがあえてこのような非日常的な講座を提供しようとするのは、市場はルイ・ビトンのバックを持って、100円ショップに買い物に行く複雑さも持ちえている(消費の多重人格性)、という事実からである。

わたしの法大エクステンションカレッジとは、この消費の多重人格性に存在する、それもかなり「非日常的消費」に分類されるものだ、と自己分析はしているのだ。

これがマーケットを読むたのしさななのだが、イトーヨーカ堂の鈴木敏文会長が指摘するように「消費は経済学ではなく心理学で考える必要がある」のも確かなのだと思う。

わたしの提供する講座の内容とは、「消費は経済学ではなく心理学で考える必要がある」というものだと理解していただければ幸甚なのであったが、これが果たして消費の心理+向学心の心理を刺激するのか・・・。

目論見は、はずれるから目論見なのである。(笑)

ということで、今日は一日自宅で仕事。
昨日の津での仕事をうけ、三重建協さま用テキストの修正作業である。


鱸です。

 ももさんページのアクセスカウンターが不調なのでは??
  =ここを読みとろうとして・・ 負荷がかかっているようなので
   正常稼動するまではずされては・・・
                          異常

このページのカウンター表示をはずしました。m(__)m

2004/03/09 (火)  
【今日は鱸さまへお任せ】

桃知@郡上であって、これから三重建協さまへ寄って帰るわけで、朝方は、三つの建協さんのアクセス率調査を同時におこなっていたりするものだから、そのデータ採取に忙しいので、今日は鱸さまへお任せなのである。

鱸です。
 #運動疲れと酒で・・・ 早めに寝たら目が覚めるのも早い。
  でも、昨夜のフリーター特集は見てから寝ました(というか、
  眠りにつく途中で見ていた・・・)

> 本人が自覚していない社会や経済のシステムによって
> 知らずしらずのうちに選択させられている・・・
>
 なるほど。中高年雇用維持の影響もこの方の分析だった
 のですか・・・  とすると、ももさん紹介が頭に残ってた??

 番組を見ながら、フリーター・モデルを思い浮かべていました。
 ・食事と寝るとこだけは両親庇護で確保できている首都圏近郊
  居住の核家族化世代の若年層(なんとなく・・ 太平洋戦争
  起点でカウントし3世代目以降?)
 ・地方から就学のため上京した若者が就労需給ギャップ(?)の
  中で一時的に身をおいたが最後、そこから抜け出る道なし。

 (↑)の当否はおいといて、企業活動の中で正社員とフリーターを
 分け隔てるものが何か・・ ここがポイントでしょうねぇ。
  =製造現場での業務請負といった契約形態は今に始まった
   ことではないし、同じフロアで人材派遣会社の方と机を並べて
   いたら、彼らのほうの「紙片生産性能が高い」といった事例も
   見ています。 そりゃそうだ。そうしたスキルが欲しいのだから。
  =一方、「継承」の課題。 何のため? それに値する組織??
   また別の事柄が連想されてしまって・・ 整理がつかず。

   *正社員とはいいながら・・ その組織内ではフリーターと
    同じなのかも? 知らず知らずのうちに選択させられて・・・・・

                      異常

無理やり「フリータ論」に絡めて最近の思いを書いてみます。
  =以下、「アルコール入り帰還」なので、唐突+支離滅裂・・
   かつ、危険表現(ひとりよがり)なのですが・・ 御容赦を!
  =なので・・ 引用は「ヤメ」たほうがいいです。


1)ドラッカーの Knowledge Officer
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1998年頃の話題だったと思うのですが、まだまだ提唱された内容
 には至らず。 ただし、その趣旨は着実に進行中とみています。
 =個人は会社に属するのではなく「各自ができること」で必要と
  する組織に「何らかの形で寄与する」。 こんなだったか?
  でも、ももさんはこの状態だと思いますよ。

2)発明の価値
−−−−−−−−−
 中村教授の発明対価裁判に関して多くの意見が出ています。
 裁判官の能力が内容と馴染まないことを指摘する方々も多い
 のですが・・・ 中村さんサイドの方は、やはり奇人・変人と
 いわれながらも企業価値に貢献したことを評価して欲しいと言います。
  =こうした方々は、まさに「並みのハンマーやカッターが届かない
   所まで飛び出た杭」であり「シックスシグマ」あたりに存在する
   方々と理解(並なはずがありませぬ)。

 一方、経営側は・・ 新アイデアが「新たな企業価値」に貢献する
 のは稀。 逆に、社員が企業に利益をモタラすことが出来なくても
 給料を返せとか・・ 解雇とは言わないといいます。

 こうした関係で「動機付け」が可能か?? 好きな方はやるはず。
 では、Public officer においては??

3)電器量販店にみる「正社員〜アルバイター」の関係
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨夜のNHKに限りませんが、シャネルなどでも全販売員にランク
 付けを行うそうです。 これは「ヒト創り」のため・・・という
 言い方も出来るそうですが、その趣旨を理解して行動する方がいる
 のか? (小生は、居ると思ってますが・・・)

 結局は、(雇用関係にある)「相互」が何を期待しているのか・・
 ではないかと思います。(小生、上記文字列をこれ以上説明する
 ことが出来ませんが・・・ 何か感じていただけますか?)

4)老人力の活用モデル
−−−−−−−−−−−−−
 年齢満限(定年)というだけで一線を退かされる方々。
 でも、「やれる」方々は多いのです。 そうした方々がシニアの
 パワーを結束する動きをされており、ある方々は、ブロードバンド上で
 仕掛けを形創ったとの報道あり。
  =年金で悠悠自適といったことでは納得しない方々が増加!

 太平洋戦争直後に生まれた団塊世代(と呼ばれる方々)の多くは
 2007年頃に一斉にいなくなる勘定だそうです。 経営層は、
 (自分自身は別格として・・)給与の高位安定層の消失を期待して
 いるかの話があります。 また、オフィス2007年問題です。

 しかしながら・・ 最近の60代は活力旺盛な方が多い。
 ますます、若年層の雇用機会を奪う可能性が大きい。
 こころせよ、 遊びほうけている若年者・・・・
 といったところでしょうか?

              異常X異常 でっす。

引用は「ヤメ」たほうがいいです。・・・って、もう遅いわ。(笑)

2004/03/08 (月)  
【本人が自覚していない社会や経済のシステムによって知らずしらずのうちに選択させられている】

昨日のフリーターに関するNHKスペシャルは、フリーターのようでもあるわたしとしては、なにか消化不良の内容だった。(別にたいして期待していたわけではないが)

まあ、わたしは、たぶんフリーターではない。
雇用されていないだけである。

わたしのボスは自分自身であり、クライアントさまはおられるが雇い主は自分自身以外にはいないのである。

まあ、そんなことはどうでもよい。

昨日の番組では、経済同友会・北城恪太郎代表幹事と連合・笹森清会長の議論という、経営者VS労働者という、今や誰もつかわないような対立の図式を恥ずかしくもなく出していたが、これはさすがNHKというしかないだろう。(笑)

ご両人のはなしも、いちいちごもっともなのではあった。

北城氏曰く、国際的な競争の中では低賃金の労働者を使うことも已む得ない。
正社員を目指す労働者は、もっとな高度な部分で活躍すべきスキルを身につけるべきだろう。

それは正社員であってもなくとも、自分自身のためにたる。
ごもっともなご意見ではある。

これはキャリア・アップの問題だろうが、多くの労働者の場合、そのキャリアの多くは、職業を通じて得てきているのが実情だろろう。

誰でもできる仕事だからフリーターの仕事なのだとすれば、フリーターに職業を通じたキャリア・アップのようなものを求めても無理だろうが、とわたしなんぞはつこみをいれたくなった。


笹森氏曰く、フリーターの増加は低所得者層の増加となり、家庭を崩壊することになるだろう。それは社会(日本という国)の崩壊でもある。

わたしの立場からすれば、これは支持できる意見なのだ(家庭、家族こそが社会における基本的な単位である)が、それでは、そうならないためにはどのような対策が必要なのか、の言及はなかった。ああつまらない。

無理を承知で権利をいうのが労働組合だろうが、とわたしなんぞは身勝手に思うのである。


『仕事のなかの曖昧な不安』

玄田有史(著)
2001年12月20日
中央公論新社
1900円(税別)







玄田有史氏のこの本は何度目の紹介になるだろうか。
やはり、この玄田の仕事は素晴らしいと思う。

フリーターの多くは、親と同居であることが多い(パラサイト・シングル)のだが、それについての玄田の意見を見るだけでもその考察の鋭さがわかる。

若年雇用とパラサイト・シングルの関係について・その1

若年雇用の減少は、労働供給の変化ではなく、社内の中高年の雇用維持にともなう労働需要の大幅減退によって引き起こされている。若年のパラサイト・シングル化は、失業率上昇などの雇用環境が変化した原因ではなく、結果なのである。

その2

若年の就業機会の悪化や失業率の上昇は、労働の「趣味化」といった労働供給側の変化では説明できない。若年失業はそのすべてが、必ずしも「ぜいたく」な失業ではない。

その3

パラサイト・シングルが、親から「既得権」を享受しているというよりも、むしろ社会から「既得権」を与えられいる中高年に、若者が「パラサイト」している。

そしてこういうのだ。

『どうして若者は、フリーターになることを選ぶのだろうか。フリーターはその意識に応じて、「夢追求型」、「モラトリアム型」、そして「不本意型」などと類型化される。しかし、大部分のフリーターにとっては、明確な意識もないまま、つまりは「自分でもどうしてフリーターになったか、わからない」ままフリーターになったというのが、事実だろう。』

『若者は個人の明確な意識にもとづきフリーターを選んでいるというよりも、本人が自覚していない社会や経済のシステムによって知らずしらずのうちに選択させられている。その根本にあるのが、第2章でみた中高年の雇用維持を最優先するさまざまなシステムである。』(玄田,p73‐74)


cover 『若者が《社会的弱者》に転落する』

宮本みち子(著)
2002年11月21日
洋泉社
720円(税別)







そしてもう一冊、といえばこれだろうか。

宮本氏の指摘は、高度経済成長とともに築きあげられられてきた日本型「自立の仕方」の機能不全である。

玄田のことばでいえば、『本人が自覚していない社会や経済のシステムによって知らずしらずのうちに選択させられている』というように、、フリーター417万人というのは、社会や経済のシステムの結果なのである。

これをよしとする意見をいえるのは、フリーターを安い労働力ととらえられる方だろうが、自社の生き残り(最近このことばが嫌いになってはいるが)のため、とはどういうことをいうのだろうかと考えてほしい。

それが玄田のいう『社会から「既得権」を与えられいる中高年』ということばとラップするとき、わたしたちは、不良債権などという負の贈り物以上のものを、将来に向かって準備してしまっているのではないのかと、不安になるのだ。

ということで、本日は郡上建協さまへ参るのである。

2004/03/07 (日)  
【やすみっス】

山ほど届くウイルス(Netsky)メールにうんざりしている今日この頃、わたしたちの予見(対応)能力というのは、横に増殖しようとするものには、からっきし弱いものだと再確認している。

インフルエンザがその典型例なのだが。
じゃ、縦はなにかって?遺伝だよ。


昨日浅草へ帰ると、大村さまから晩白柚(ばんぺいゆ)がとどいていた。
これは新年会のときに、大村さんがうちにおいでになられ、うちのかみさんとなにやら約束したものだそうだ(わたしはそのとき既に寝ていて、この約束事には参加していなかったが・・・。つまり、Out of 当事者。

まあ、そんなぁことはどうでもよくって、さっそく、その巨大な夏みかんのようなモノを食べてみる。

かなりの酸味は感じるが、それがいやみじゃなく、爽やかに広がるので、たしかにおいしい。

そしてその皮の部分をお風呂に浮かべてひっとぷろ浴びれば、その鮮烈な香りが浴室に蔓延し、なんとも気持ちの良いものなのであった。

大村さん、ありがとう。


久しぶりにリンク先を巡回すれば、反省の行為は増殖中のようで、永田さんもなのね、と一人にやりとする日曜日ではあった。

さて、そんな中、轟さんのサイトには、裁判員制度のはなしが載っていて、ああこれはね、と少し思うところがあったので、わたしのいい加減な理解からほんとに少しだけ。


例えば、米国の陪審員制度というのは、米国における「公」の概念の表現型であると思う。

米国の場合、そもそも「官」とは、「民」では手の回らなくなった(それこそオオヤケ=公)な仕事の外注先という理解がある。

「官」とは「公」な仕事の専門家集団であり、「民」とは「私」の仕事をしながら、時には「公」の仕事を片手間におこなう素人なのである。

米国の場合、そもそも主権は人民(私である民)である、という意識が建国の基礎となっているので、それはきちんと制度にも埋め込まれ、「官」の肥大防止策となっている。

それは、以下の3点に基軸を置く。

1・選挙による官の選出
2・最長任期の設定
3・公的仕事への強制的な民への割り振り

陪審員制度は、上記でいえば 3 にあたる。
米国の場合、かつての徴兵制なんかも 3 なのである。

しかしこれは、あくまでも「官」が考え出したことではないのだ。

常日頃、どうしても「私」の仕事に埋没しがちで、「公」の仕事を「官」に任せきりになってしまうのは日本でも米国でも同じだろう。

しかし、米国の基本理念は、「公」の仕事は、本来は全て人民が自らおこなうべきものだと、いう共通理解があって、それを「官」にアウトソーシングしているという理解なのである。(これが本来の意味での「ヒエラルキー・ソリューション」)

つまり、忘れちゃいけないこと
→本当は「公」の仕事って「民」が(自分たちで)やるのよ。

そこで、それを忘れないようにする制度が、陪審員制度なのである。

これは強制ではあるが、これによって、そもそも「公」の仕事とは、本来「民」(自分たち)がおこなうものであることを、忘れないようにしているわけだ。

そこにあるのは、合理性などいうものではなく、哲学である。
ここが米国の不思議さなのだな。

日本の裁判員制度というのが、どのようなものであるかは勉強不足でわからないのだが、米国の陪審員と同じようなものであるなら、わたしはきっと賛成するだろう。

官から民へ、というキャッチフレーズは、本来、採算性がどうだとか、効率性がどうだとか、というようなものではなく、そもそも「公」の仕事とはどのようなものであり、それは本来誰がやるべきなのかを、そして、「官」には何を任せるのかを、民(具体的には自治体、地域社会の一員としての「私」)が考える、ということだと理解している。

ただ、戦後の日本では、そのシステムが見事に崩壊してしまっただけのはなしである。

その原因の一端は開発主義(というかその根底に流れる官主導というもの)にあるのも確かであるが。(笑)

江戸時代はこの米国流の考え方が機能していたりするので面白いのだが・・・。

まあ、なんとも粗笨なものの見方なのだが、わたしの理解の程度はこんなものだな。
許されよ。

ということで、今日は休もう。

2004/03/06 (土)  
【フリーター417万人というニュース and etc.】

午後2時、浅草へ帰る。
本日紹介したかったメールを。鱸さまよりだ。

◆フリーター417万人というニュース。
 http://www.ufji.co.jp/cgi-bin/link?/publication/report/2003/03116.html

 若年層の就業機会を奪っているのは「中高年層」といった
 論評を読んだ記憶があります。 なほ、(↑)のような研究
 機関は・・ 問題指摘はできても提供可能な職場数は僅少。

 少子高齢化が進む中、就業希望者は「何らかの価値(?)」を
 就業希望先に見せる事が出来ないと・・・
 「職業を得て食え」すら難しい時代ですね。

◆戯言から

> 言われるとおり、産業という観点では、発注者と受注者は
> 一蓮ですよね。 でも、僕らは(国交省とか、自治体の視点)
> 「・・・悪いのは建設業者なのよ、私たちいろいろ努力して、
> 市民の皆さんの側に立ってるのよ」って必死ですよね。
> 完全に分離してる気がします。
>

(以下は、お嬢1号さまへDM差し上げた内容を転用・改悪)


 今朝(3/5)の肉系新聞朝刊の社説。
 某4講談関連の動きを解説してますが、ここでも、好況次行
 悪者論」を加速する方向の話で歯止め無し!

 好況次行に関わるものとしては、当面の飯のタネではありますが
 長期的には・・ 一般納税者各位の「好況次行要らない論」を
 強力に増幅するだけ。 年金・保険などの問題も絡まって・・・
 財政バランスが正常化する見通しは???
 なので、先細り感を加速するだけですよね。
  =このあたりは、ももさん領域。理系(?)の小生では
   評論できませぬ。

 話変わって市町村合併。 次回選挙までは合併前偽印定数を
 保持し、かつ、最も高い地域の報酬に合わせた合併候補。
 地域納税者各位の納得感を得るはずがありません。

 「無私」の施策提案を決議した合併候補があってもいいはず
 ですが、あったのか無かったのか? あっても、マスコミに
 とっては「ニュース価値無し」だったのかも??

              異常(以上)

フリーターの問題については、明日のNHKスペシャル(21:00からNHK総合)で放送予定なので、それを見てからでも感想を書こうかと思っている。

一方、UFJ総合研究所の調査結果は、ミクロ的な効用の追求(この場合、フリーターという低賃金層の活用による企業運営の効率化とそれを目指した社会システム)が、マクロ的にはけっして良い結果をもたらさない(税収、GDPへの影響)、つまり「合成の誤謬」を生み出していることを見て取れるだろう。

こうしてみると、公共事業の効用のひとつである雇用対策が、それは単なる失業対策ではなく、総合的な乗数効果が期待されているものであることがわかるだろう。

問題は、その乗数効果が見て取れる程に現れていないことなのだが、それがなぜなのかを調査し、そのデータから、フィードバック的に考える必要があるだろうと思うし、それを言語化する努力は必要なのだと思う。

世論を相手にするのはなかなか難しい。
ここには新しい哲学(非哲学?)が必要なのだと感じている。

中沢新一はこういう。

『ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているのにすぎない。』

『このような、主体でもなく対象でもない、社会でもなく自然でもない、人間であると同時にモノであり、愛であると同時に量子的現実であり、グローバルでありながらローカルでもある、ハイブリッドな前対象の氾濫が、私たちの世界に危機をつくりだしている。』

『カントは人間的なものとモノ自体を分離することによって、近代世界を基礎付ける哲学を創造したが、このような分離や純粋化を推し進めたことの結果として、ハイブリッドの氾濫というパラドキシカルな現実は生み出されたのだ。』

『そして、そのような事態に対処するために生まれた、ハイデッガー的な脱構築もテキスト論も言語主義ももろもろのポストモダン思想も、最終的にはモダン制度の内部の出来事にとどまってしまっている。』(「フィロソフィア・ヤポニカ」)



【ITとホルモンの日々】

昨日ときたら、一昨日の体の疲れをひきづりながら、人吉入り。
高速バスの中では爆睡。

到着後、福元IT委員長に錦町の市房食堂へ連れて行っていただく。
そこでお昼、つまり昼からホルモン。

ここのホルモンは完全オリジナルというか、食ったこともみたこともないものであった。

センマイの皮の部分だけじゃなく、それに脂肉がついているもの想像していただきたい。
それが蒸してあって、それを塩で食べるものを想像してほしい。

それを食べたのである。
写真がないのが残念なのだが、つくづく凄い食い物である。
そしてうまい。

その後IT委員会に出席。
今年度の総括と来年度の展開について。

IT委員会終了後、宮崎行き高速バスの待ち時間に散髪というかカット。
ちょっとさっぱり。

宮崎行きのバスは、約20分遅れで到着。
うとうととしながら約2時間、宮崎駅では橋邊さまのお出迎え。

その後、伊藤さま植木さまと合流し、夜の宮崎市内へ消えていったのであった。

最初は「しまだ」という小料理屋さんで魚をたべる。
二次会は「つぼや」で性懲りもなくまたホルモン。

豚ホルの七輪炭火(というかコークス)焼きである。
これはお店の方が目の前で焼いてくれるわけで、一般的な客が自分で焼いて食べるスタイルとは違う。

前回宮崎に来たときにも別の店だが、このスタイルで客にホルモンを提供していたので、宮崎では一般的なスタイルなのかもしれない。

しっかり食べて飲んだら眠くなる。
わたしはここで帰ろうとしたのだが、ラム酒を飲もうということで、もう一軒、名前も覚えていないショット・バーへ。

わたしは、音楽を聴きながら眠る(笑)。

ホテルへ戻ったのは、午前3時の少し前。
今日は、9:40分発のANA便で東京へ帰り、恵比寿で打合せ一件。

家へ帰ったら寝よう。
いまさら育ってもしょうがないが、寝る子は育つ、のである。

2004/03/05 (金)  
【今日の夜はなぜか宮崎なのよね】

熊本にてポカリスエットのおいしい朝を迎えている。
今朝のわたしは機嫌がよい。が、頭は痛い。

もとさま(鱸さんと同じお名前なので、今日からこう表記さしていただくことにしたい)からのメール。

「がたたんカレーうどん」うまそうですね。

>ここに信頼のIT化の可能性がある。
>しかし、このIT化を「公共工事という産業」のひとつの構成員である
>中小建設業がおこなうだけでは、「公共工事という産業」の信頼は構
>築されないだろう。
>そこには、「公共工事という産業」のもうひとつの構成員である発注
>者のIT化が必要なのである。
>それが、事業者団体ベースのIT化の考え方にほかならない。
>このふたつの構成員のIT化によって、「公共工事という産業」が置か
>れた環境を変えていく可能性は高まるだろう、というのがわたしの仮
>説なのである。

  丁寧な解説をありがとうございました。
仮説に賛成です。可能性は高まる というか、いまのままだとこのまま沈んじゃうと思います。浮上する「可能性」に手を伸ばしていかないと・・・手遅れにならないうちにホントの意味で、Public Involvementが出来る体制にしていかないと。

 言われるとおり、産業という観点では、発注者と受注者は一蓮ですよね。
でも、僕らは(国交省とか、自治体の視点)「・・・悪いのは建設業者なのよ、私たちいろいろ努力して、市民の皆さんの側に立ってるのよ」って必死ですよね。完全に分離してる気がします。
 
個人的にも複雑です。
そのおかげか、発注量が減ったので、おかげでこんな時期のこんな時間に家でメールが打てるし、本も読める。複雑(笑)。


鱸さまからのメール。

鱸#さびしがりや・・ です。

 #小生がお送りした「高止まり杭」の話、
  「ヒト」のメンタル面を表現したつもり
  だったのですが・・ その趣旨を判読
  いただいた方は多かったのでしょうか??

 さて、逆システム学。先ほど買いました。
 まだ「序章」の斜め読みまでですが、着想に
 興味を持ちました。
 また、相互作用を考慮する点では複雑系と
 類似だが、異なる点があるとのこと。天体の
 多体問題を事例として説明しているのですが
 小生は「まだまだ」理解に至らず・・・

  =こういった内容を「斜め読み・一発」で
   把握する方もいるんでしょうねぇ。
   (例の千夜一話の御仁、ベースがあるはず
    なので、大丈夫なのでしょうね)

 ※小生の場合、読もうと思って買った多数の本は
  「積ん読」状態のままです。

 でわ、股!!


うどん☆人・1号さまより。

郡上市誕生の日に木島建設合資会社のHPを立ち上げました。
産声あげたてです。
ほやほやのHPです。
皆様から頂いたたくさんの素敵を形に出来ればいいなと思っています。

ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いいたします。

また、皆さまのHPを勝手にリンクさせていただきました。
了承を頂いてからと思いましたが、後先で失礼しました。

今後ともよろしくお願いします。

http://www.gujo.or.jp/~kijima/index.htm でございます。

と並べて、それぞれにコメントを書き込むつもりだったのだが、あははは・・・やめた。(笑)

今日は、人吉へお邪魔して、熊建人吉支部のIT委員会。
夜はなぜか宮崎泊?


ということで、ここで、フリーター417万人というニュース。
高卒の占める割合が多いという。

フリーターでも生活できるから・・・。
フリーターでも結構お金になるから・・・。

この背景は深いような気がするが、これについては、またあとで。

2004/03/04 (木)  
【アノミーな朝に種について考えてみた】

浅草は昨日の午後からなぜか寒いのであったが、今日のわたしは、暖かい(はずの)熊本へ飛んで、熊本県庁へお邪魔する。

夜は桃熊会有志の皆さんと、ちょっぴり青春する予定である。
ふぐの小川だなもし。(笑)

明日は、人吉にお邪魔し、夜は宮崎へ移動する予定になっている。


ところで、そろそろ法政大学エクステンションカレッジの受講募集案内ができるとは思う(法大のサイトが立ち上がらないとだめなのよ)。

受講をご希望の皆さまに(皆さまというほどいそうにない気配が濃厚だが)、事前にお願い。

今回は、村上泰亮の『反古典の政治経済学要綱』を読む会を毎回少しずつやりたいのので、まだこの本を持っていない方は、アマゾンからでも購入いただき、事前にざっくりとでも目を通しておいていただきたいのだ

アマゾンへのご注文は→『反古典の政治経済学要綱』

いろいろご面倒をおかけいたしますが、宜しくお願いいたします、なのである。m(__)m


さて、鱸さまからのメール。

(ざっくり)

#杭の話ですが、建設現場的には・・・・
  高止まりした杭は(そのままでは使い物にならないので、支持力が計画通りであることを最低限確認して・・ )所定の高さ(レベル)で切断しちゃいます。
 *たたくと所定深度(レベル)で止まらず、どんどん沈むケースもあり、始末が悪い!

 「へんでない」組織から「抜け出る」ことの意味について考えて見ます。
 前提とする「群れ」をどう設定するかによって場合分けが必要だと思いますが、細かい話を飛ばして・・ 「さびしがりや」である人間、仲間( or 仲間と思っている集合体)から「わざわざ」遠ざかろうとするでしょうか? 抑制が働くはずです。

 でも、抑制を乗り越えるだけの動機付けが次なる行動を呼び起こすのだと思います。(名蛾乃研の今さるさんがとられた行動を連想しました)

                          中途半端で・・・  異常

最近のわたしときたら、田邉元(たなべはじめ)の「種の論理」にはまっていて、これがまあ、今のところ、「よくわからない」の極のようなものなので、自分で使うには躊躇してしまうものなのだけれども、「類−種−個」の関係的分類はなんとなく使えるようになりつつある(と思っているだけだと思うが)。

「類−種−個」とは、人類−日本人(種)−わたし(個)のような関係性をいうのだけれども、会社は種なのかなぁ、などと考えては、それは種のひとつだろうなぁ(つまり亜種)、とか考えていたりする。

この種という概念で考えていくと、日本人という種に属するわたしは、同時に東京都民、台東区民、浅草象一(さきいち)町内会に属し、大きな意味での「公共工事という産業」に属し、小さいながらも個人商店である桃知商店に属している。コンサルタントという職業分類も種だろう。


個人の属する種は、こうして考えてみると、一見横断的で多様で重複型のように思える。(この多様性はたぶん多重制御システムになりえるだろう・・・)

まあ、ここで、ひとつ確かなことは、わたしの場合、日本人という種以外の種は、わたしがまったく勝手にか、たまたまか選んで属しているものだ、ということだ。

こうして、わたしは、自らの属するさまざまな種にある規範によって制御されながら生きてはいるが、その規範の中で一番大きなものとはなにか、というと、それは「資本の理論」であると感じている。

つまり、わたしのようなからだひとつの個人にとってのそれとは、「職業を得て食え」である。

この規範(「職業を得て食え」)のある限り、属する種(つまり、職業、会社)を勝手に選択する動機とは、結局はマズロー的な欲求の階層構造に収斂してしまうように思う。(マズローの欲求段階説はここ。検索したら最初にヒットしただけで他意はない)


鱸さんのことばでは、『「さびしがりや」である人間、仲間( or 仲間と思っている集合体)から「わざわざ」遠ざかろうとするでしょうか? 抑制が働くはずです。』というのが、会社という種の場合、結局は、会社というシステムが、マズロー的な欲求の階層構造を含有しているかいないかだけなのだろう。

へん とか へん でない、とかは、結局は、その会社という「職業を得て食え」が基本理念の種の中で、自己実現の可能性を諦めているか諦めていないかのことのように思える。

若しくは、自らの属している種としての会社が、そのシステムをどこまで含有しているかいないかだろうか。

それは、会社という亜種が属する、日本という「資本の理論」としての種が、そのマズロー的な欲求の階層構造を含有しているかどうかに大きく左右されていることはいうまでもない。

つまり、日本という種の経済システムに、(職業を通じて)自己実現や自己超越の可能性は内在されているのか、ということである。

存続だけがやっと(マズロー的階層の最下層)の会社で、社員の自己実現はないだろう。


わたしは、自らの職業を通じて、自己実現・自己超越(これが反省の行為ね)をしたいと思い、桃知商店という種に属してはいる。

しかし、そこで感じることは、それはまた、環境的にマズロー的最底辺欲求が満たされなくては、どうしようもないのも確かである、ということだ。


わたしは、先月の19日にこう書いた。

地場型中小建設業のおかれている状況は、今やアブラハム・マズロー的階層の最下層まで、その視点を落とし込まれてしまっているのかもしれない。

つまり、生存の欲求の水準での思考を余儀なくされてしまっている。


しかし、「職業を得て食え」という部分を最初から内在していない種もあるわけで、そのひとつがセーフティ・ネットとして機能する社会、つまり公共であろう。

また、それ以外にも趣味的ネットワークとしての種も存在する。
これは、精神的なセーフティ・ネットとして機能しているのならまたよしだろう。

この種の機能はまだよくわからないではいるが・・・。

2004/03/03 (水)  
【事業者団体ベースのIT化について、何度目か・・・】

帰りも砂川ー岩見沢間は高速道路が使えなかったのだが、余裕を持ってホテルを出たので、飛行機にには無事まにあった。

そして、少し余裕があったので、熊谷IT特別委員長と空港内で昼食をとった。
わたしは今日は帰るだけなので、ジンギスカンと生ビールを一杯。


先月紹介していた、「中小建設業者団体ベースのIT化(1)」についてのメールをいただいていたので紹介しよう。この方は発注者の方である。

桃知さん、こんばんわ。古い話題ですいません。

>さて、昨日脱稿した原稿だが、これは(財)建設物価調査会さま発行の機関紙
>「建築コスト情報」に連載されている。
>既に、1回目の掲載はすんでおり、お題は「中小建設業者団体ベースのIT化(1)
>」である。

あちこち探してきて、読ませていただきました。「桃論」の時は、IT化が大雑把な方向性でしか語られていなかったけれど、ここでははっきりとした形で明示されていますね。まさに、進化した・・・ですね。
それが、これ(↓)につながるのかな?

>山岸信頼の理論の凄さは、その社会的知性は、環境によって適応するように発達
>していく、と考える点にある、とわたしは理解している。
>〜
>しかし、次第にその大志を失って、組織従順というか、自己保身型の特性となって
>いくのは、その置かれた環境のせいなのだろう、とまず仮説を立てているのが、わ
>たしのアプローチなのである。

だから、「置かれた環境」を変革して行く手段として、デジタル・コミュニケーション力を身につけていこうっていう理解でいいんでしょうか?
 自ら情報を収集し、分析し、そして発信 ですね。 

環境変化ということでは、現在のそのトレンドというかバイアスは、アメリカ主義的グローバリズムである。

それは、類のふりをするの種の膨張体:つまり、それは人類という類でなく、あくまでもアメリカ種の思想なのだと思う。(中沢新一の受け売り)

わたしは、このアメリカ主義的グローバリズムが嫌いだが(あえて今日は「嫌い」と書く、なぜ嫌いかはくどい話になるので)、中でも、それが多様性を生み出すという風潮には、へきへきさせられている。(その根拠はじつはない)

ただ、断っておくが、わたしは、アメリカ主義的、というのも嫌いだが、同様に日本主義というのも嫌いなのである。


さて、そのアメリカ主義的グローバリズムは、経済学的価値観においては、新古典主義的経済学に基盤を持つ。

つまり、市場原理、還元主義なのである。
それが『逆システム学』での最初の指摘である。


一方、山岸信頼の理論は、この環境を認識はするが、この環境の是非をいうことはない。

つまり、その環境は、我われに「信頼」の特性を要求している、というだけである。

ただ、「信頼」の特性も「安心」の特性も、どちらが優れているというわけではなく、それは置かれている環境しだいだろう、と山岸はいうのだ。

わたしはその認識に賛成する。

アメリカ主義的グローバリズムという幻想は、遅かれ早かれ破綻するだろうけれども、わたしは、日本という国の環境が、それじゃ、バブル以前に戻るのか、というと、そうではないだろう、というのだ。

環境は、外部と内部との相互依存的存在であり、今のトレンドは、少なからずこれからの環境に中に埋め込まれていくことだろう。

それは、アメリカ主義的グローバリズムという幻想が主流である今でも、かつての日本が持っていた価値観が全滅してはいないようにだ。

それがわたしの中では、インターネット社会の4象限の認識につながっている。

この理解は、わたしが議論の足場としているインターネット社会の認識は、今現実に起きている変化の方向性でもあるだろう、ということだ。

つまり、第二象限のコミュニティ志向の象限が機能する限り、グローバリズムや日本主義一辺倒の議論は意味がないということだ。

それは、コミュニケーションという側面から見れば、デジタルとバーチャル、どちらのコミュニケーション能力も大事だ、ということと結びついている。

個々人の能力でいえば、情報を発信する能力と情報を見る能力のどちらも大切だ、というところへの落とし込みである。

ここでいう情報とは、「信頼」の特性と「安心」の特性の両方を使って扱うものなのだけれども(つまりミーム)、残念ながら、「公共工事という産業」には、「安心」の特性は十分なのかもしれないが、「信頼」の特性は、やはり足りない。

ここに信頼のIT化の可能性がある。

しかし、このIT化を「公共工事という産業」のひとつの構成員である中小建設業がおこなうだけでは、「公共工事という産業」の信頼は構築されないだろう。

そこには、「公共工事という産業」のもうひとつの構成員である発注者のIT化が必要なのである。

それが、事業者団体ベースのIT化の考え方にほかならない。

このふたつの構成員のIT化によって、「公共工事という産業」が置かれた環境を変えていく可能性は高まるだろう、というのがわたしの仮説なのである。

それは個人の価値観の変化からの表現型となって現れるだろう。

さて、昨日の、芦別建設業協会IT特別委員会の会議には、芦別市役所より、お忙しい中を多数の方々に参加をいただき、有意義なる意見をたくさん頂戴した。

改めて感謝申し上げる次第である。m(__)m



【がたたんカレーうどん】

昨日は、高速道路が岩見沢から砂川ぐらいまで吹雪で通行止め。
下道をこてこてと移動し、予定よりもだいぶ遅れて芦別に到着。

芦別では、熊谷IT特別委員長が、「きんたろう」というカレーとお好み焼きのお店でお待ちで、そこで委員長お薦めの、「がたたんカレーうどん」で遅めの昼食とした。

このがたたんカレーうどん、ウルトラC級グルメの持つ下品さが漂う大変結構なものであった。(笑)

一見普通のカレーうどんなのだが、じつは、うどんの上に、「がたたん」という、かつて芦別で働いておられた炭鉱マンご用達の、ごっちゃ煮塩味とろみスープがかけてあり、さらにその上にカレーがのっている、という三重構造になっている。

これにちいさなご飯がついてくるのだが、わたしは、炭水化物をおかずに炭水化物を食べるのは、生まれ育ち的にまったく違和感がない。(笑)

こうなると、食べ方はすこぶる下品となる。

ご飯の入ったお茶碗は、うどんの一旦休息所となるため、うどんに絡んだ黄色のスープが、ごはんに落ち、それがご飯の一粒一粒にしみこみ込んでいく。

すると白米であったごはんは、薄味カレー丼のごときとなるのだが、そのままでもなかなかうまいのだが、面倒なので、思いきりうどんのカレー部分をかけて食べてもよい。

この下品さがじつはうまいのである。
でも、たぶん体にはよくないのだろう。(笑)

この別にどっちでもよいトレードオフの間を行き来するのが、C級グルメなのである。

ということで、今日はこれから温泉につかり、朝飯を食べて、新千歳へ向かう。
なので、今朝はここまで。

帰宅後、気力があればまた更新だね。

2004/03/02 (火)  
【今日は芦別】



上の画像は、先の地域再生フォーラムの際に、山岸先生に、著作『信頼の構造』に署名いただいたものなのだが、意味はよくわからない。
そもそもなんて書いてあるか、読めないのである。(笑)

でも、ミーハー丸出しでいとうれし、なものだから、公開してしまうのである。


さて、昨日の浅草は寒かった。
雨だなぁ〜と思いきや、雪まで降った。

それでも、最近のわたしは比較的機嫌がよいわけで、予定されていた仕事をこなし、事務処理もたくさんし、夜はサイボウズの方々が遊びにおいでになったので、一緒に玄品にてふぐを食べた。

精神的に安定しているとき(家人のことば)は、結局なんでもうまいのだろうなぁ、と思う。


今日は、ANA 053 東京(羽田)(0800) - 札幌(千歳)(0935)で、北海道入りし、陸路芦別へ向かい、芦別建設業協会さまのIT委員会に出席する。

宿泊はスターライトホテル。
今回こそ温泉に入るぞ、と心に誓うのである。(なにしろ、毎回酔っ払って入り損ねているもので・・・)


苦悩する会社員さまから苦悩のメール?

桃知賛ゑ

大盛@二日酔いです。

2004/03/01 (月) 【のれん】 を読んで・・・・

>わたしは、現代の個人事業主とは、勤め人文化に対するカウンター・カルチャーのようなものだと感じている。
>ここでのカウンター・カルチャーという使い方は本来の使い方ではないが、広い意味での反体制的な文化ということだ。
>わたしの大雑把な理解では、反体制とは体制があってのものであって、体制も反体制を利用しながら存在する、と考えている。
>そして、それぞれは、対立しながらも共進化(共適応)するものなのだと思う。

大盛は「体制」を「会社」に置き換えて読んでみました。
「会社」という体制から見ると,個人事業者は へん であり,会社に所属する人間(組織の駒となっている人)は へんでない なのです (「わからない」という方法 的に考えます)

これは「群れる」習性を持つ人間から考えてもやはりそうなんです。 個人事業者は,そういう意味で自分は へんだ!と思えるようになれば,対立しながらも共進化できると考えています。

>出る杭は打たれる。 ならば、「出すぎたら打たれない・・」と考えた方もいます。

それ以上に,「出る杭は抜かれる」と思います。 

>しかしながら、これまた、凡人にとっては「言うは易し、行うは難し」。

簡単です。自分が「出る杭」になるには  へん  になればいいのです。
そもそも「出る杭」は組織という へんでない の中では へん なのですから。

へんでない に属するから打たれる(抜かれる)のであって,へん になれば打たれようがないんです。

建設業界全体がこの へん という「出る杭」を打つことはまずないでしょうし,あったとしたら,もうオシマイです。

大盛はこれからも へん であり続けたい と思う次第でした。 

なにいってんだか、よくわからないメールなのだが(笑)、とにかく己の存在の独自性についての自覚(つまり、identity=自己同一性)への渇望をひりひりと感じる。(笑)

我われは、だれでも、いつでも、この自己同一性の自覚を求めているのは確かだ。

ただ、わたしは、それがイコール へん だとは思わない。
そもそもわたしは自分自身を へん だとは思ってはいないのだ。(へん だと思い始めると鬱になる)

その意味では、芥川龍之介がいうように、馬鹿は自分のことをけっして馬鹿とは思わない、というのは定理なのだと思う。

つまり、みんな馬鹿なのである。
その意味において、みんな へん なのである。

ただ、周囲が、わたしを へん だと思っていることを自覚できているに過ぎない。

つまり、、その へん は、他人(世間)を鏡にしてしか確認できないのである。

本当は自分は へん じゃない、と思いながらも、自分の へん の確認方法をを自覚できることが、へん じゃない、ということであろう。

この他人(世間)を鏡にして己を確認できる能力も社会的知性のひとつなのだと思う。

へん な人は、社会的知性が低いわけではない。
じゃ、高いのか、といえば、高い人もいる、程度のものだろう。

2004/03/01 (月)  
【のれん】

今日は、純粋にわたしのための日である。

午前中、息子の学習発表会にいき、その後、税理士先生と、確定申告の打合せを予定している。

わたしのような、中途半端な納税者にとって、日本の税法は決して優しくはない。
なにしろ、わたしは収入の約半分を国に還元しなくてはならないのだ。

なぜにわたしは強制的に税金を徴収されるのだろうか。

国民の義務?
ショバ代?

わたしは、「配分のため」以外にその理由が「わからない」のである。


かつて、この国では、勤め人である方が、なにかと有利にできてきていた。
年金制度も社会保険制度もそうであったが、しかし、その制度も徐々に崩れつつある。

だからといって、市場原理の賜物である(?)個人事業主が有利なのか、といえばそうでもない。
なにかと負担は大きいのが現状なのである。

ただ自分が自分のボスである、という精神的な「楽さ」だけが個人事業主の救いなのである。

わたしなんかは、まだ恵まれていて、後述するが、この商売をしているおかげで、お金よりも大切なものを、皆さんからたくさんいただいている。それだけは、本当にわたしのこころの救いなのであり、宝だと思う。(それは別に個人事業主でなくとも可能なことだと思う。こころの持ちようだけだであろう)


この国の個人事業主の数は年々減る傾向だという。(玄田氏からの受け売り)
有利なのであれば個体数が減ることはないだろう。

かつてこの国でも、SOHOとか起業とかが、華々しく喧伝されてきた状況があった。

しかし、最近の現状はどうなのだろうか。データがないので憶測だが、お世辞にも自主的な起業は活発ではないだろうし、その多くはリストラがらみであり、SOHOという事業形態は、内職的なものが主体で、起業と呼べるものからは、かなりかけ離れた、お寒い状況なのではないのだろうか。


わたしは、現代の個人事業主とは、勤め人文化に対するカウンター・カルチャーのようなものだと感じている。

ここでのカウンター・カルチャーという使い方は本来の使い方ではないが、広い意味での反体制的な文化ということだ。

わたしの大雑把な理解では、反体制とは体制があってのものであって、体制も反体制を利用しながら存在する、と考えている。

そして、それぞれは、対立しながらも共進化(共適応)するものなのだと思う。

つまり、勤め人文化が元気じゃないと、個人事業主も元気じゃない、ということだし、個人事業主の元気がでないような環境では、勤め人文化もたいしたことはない、ということだ。

つまり、わたしはここ最近、どんな勤め人もうらやましいと思ったこともないし、わたしは独立してよかった、とも思ったことはない。(ただこうなってしまった)


現代社会には(またしても)大雑把に3種類の労働する納税者がいて、それが雇い主、勤め人、個人事業主である。

この3種類の生き方と職業選択の組み合わせの多様性が、社会の多重調整装置として共存することで、国の経済は弾力性を持ち、環境変化への適応能力も強くなるのだと思う。

それは、職業のマリアビリティと自らの生き方のマリアビリティとの乗数としての多様性なのだ。

この、この生き方と職業の選択の組み合わせの多様性があるとき、社会は変化に柔軟に対応できる、と考えている。

そしてこの生き方と職業の選択の組み合わせの中を、個々人がプライドをもって生きていける可能性のことを、わたしはマリアビリティと呼びたいのだ。

つまり、だからちょっとは、個人事業主にも中小建設業にも、愛の手を、と泣き言をいっているわけである。(笑)


鱸さまからのメール。(掲載遅れ気味、m(__)m)

またしても・・ 鱸です。

(ざく)

> ・・先達の方々が、顧問や委員として登用されているにも
> かかわらず、その思想の深さが、政策に反映されていない
> ことである
>
 先達各位の「言霊」を受け入れるだけの余裕がないのが現状
 でしょう。 これは、オホーツク氏メールに対して・・

> 多分、多くの官僚(地方官僚も)の方々は、それこそ日本のために
> 働く、地域のために働く、という大志を持ってお役所勤めを選択
>
> しかし、次第にその大志を失って、組織従順というか、自己保身型の
> 特性となっていくのは、その置かれた環境のせいなのだろう・・
>

 極めて短時間ではありますが、「官僚各位に近い場所」に身を
 おいた(置くように仕掛けられた・・)経験からして、上記傾向は
 如実に観て取れました。官僚各位に限らず、規模の大きな組織では
 不可避の事象と考えています。

 出る杭は打たれる。 ならば、「出すぎたら打たれない・・」と
 考えた方もいます。 しかしながら、これまた、凡人にとっては
 「言うは易し、行うは難し」。

 小生など「気づき」(ホントに気づいているのか否か・・神のみぞ
 知る)が遅かったため、残された時間は少ないのですが・・
  ・共感し行動に移せる仲間を増やしたいなぁ
  ・自分自身、少しでも進化したいなぁ
 と思っとります。

 でわ、股。

個人事業主という、社会的にかなり寂しい存在であるわたしの幸せ(先述の「ここのろ救い」)はなにか、といえば、このなにものでもない男の議論に、「共感し行動に移せる仲間を増やしたいなぁ」「自分自身、少しでも進化したいなぁ」という方々が参加してくれていることである。

それはビジネスという関係を超えてであり、デジタルやリアルといった枠を超えてである。(広くて薄い紐帯なのか?)。


山岸先生によれば、わたしのやり方は「のれん」なのだそうである。
それは信頼性の担保のひとつなのだそうなのだが、その担保の正体は人質だそうだ。(笑)

わたしがこうしてWebで発信する情報は人質であって、それは世間さまの変化よりも、ちょっとだけ早いスピードで発信されていることで優位性を持っているらしい。

その人質とは、かくしようのない情報(つまり、わたしの思考の浅さ、バカさ加減だと理解している)の情報公開のことらしいのだが・・・(見透かされている)(笑)

つまり、バルネラブルか。

わたしが広くて薄い紐帯をつくりだすことに成功しているのは(成功しているといえるのならばだが)、権威から見ればたぶんこんなところなのだろう、と思う。

ただ、わたしは、その自分自身がおこなっている「のれん」の行動とはなにか、を考えているのである。これが今の時代に有効なのであれば、それはなぜか、をである。

これに対する考察は、わたしの同業者がおこなっているわけもないので、わたしの興味は当然に別のところに向くことになる。

それが、失われた20年を克服しようとする読書であり、このサイトや講演活動の中でおこなうさまざまな考察なわけだ。

それがまた、かくしようのない情報(つまり、わたしの思考の浅さ、バカさ加減)として表現されてしまう。

このバカを覚悟で書く、というのは、志向としてはポジテブなのだろう、と最近思えるようになってきている。

しかし、そのバカを覚悟で書くという、本来あまり気のすすまない行動さえもまた、インターネット社会では、「のれん」なのだ、と認知されてしまっているところもあって、まったく不思議なスパイラルを形成していることまでは気がついてはいる。

しかし、それがなぜかは「わからない」ままなので、地を這う方法を使って考えてはいるのである。

まあ、こんな按配で、他人から見ればきわめて楽しげに生きているように見えるのがわたしらしく、まあ、誤解や、ねたみも、そねみも受ける。

しかし、それはそれで、「共感し行動に移せる仲間を増やしたいなぁ」「自分自身、少しでも進化したいなぁ」という思いの屈折した自己表現なのだろうなぁ、と、本当は仲間に入りたいのじゃないのかなぁ、などと全てをポジテブにとらえるものだから、神経逆撫で状態で、また余計に嫌われるのである。(笑)

つまり、わたしへの反応は両極端なのだ。
出入り自由のところもあるし、立ち入り禁止のところもあると(6年もやっているとそれにも慣れたが)。これも考察の対象としては、面白い題材だろうと思うが。


さて、これも遅まきながらなのだが、2・24フォーラムへの感想がとどいていたので紹介なのである。

※フォーラムのまとめ○○の感想として
難解異学の心理学口座を聴講したあとの「地域に信頼される建設業」にはどうしても馴染み結びつきませんでした…パネラーの人選意図も良く分かりません…女性パネラーは地域ので張りおばちゃんのほうが、桃知先生と意見の衝突があり愉快で楽しいホォーラムになったと思います…満足に糧をえず地域に信頼できる建設業に期待されても、良い結果に結び付かないのではないでしょうか…会社は出資者の付託を受けて正当な企業活動で利益を生み配分し、組織と社員家族の健康を保持扶養する義務がありますし、このことが満たされて始めて地域に信頼貢献される企業として存続できるものと私は確信しています 桃地先生の道庁を動かす言葉は共感します、先生の爆弾発言も期待したのですが多少時間的にアブラ切れていたのでは、薄野の話も多少遠慮がちでしたね…コーディネーターの人選は適任と思います 以上

まず、ひとこと、ふたこと。
文字の正確性には気をつかいましょう(まあ、わたしもあまりたいしたことは言えないが・・・)。せめて名前は、である。桃地じゃなくて桃知ね。(笑)


さて、「満足に糧をえず地域に信頼できる建設業に期待されても」というところに、地場の中小建設業の立場が正直に出ている感想なのだと思う。

わたしの認識は、「公共工事という産業」は縮小する、である。
それは公共工事予算は増えることはなく、むしろ減少傾向はつづくだろう、ということだ。

その認識を前提として、少ないならば、少ない予算を、できる限り地場の中小建設業を中心に支出できるようなシステムを構築すべきだ、と主張している。

この主張は、一見すると地場型中小建設業への迎合のように思えるかもしれないが、じつはそうではない。

それは社会資本整備を目的とした公共事業というよりも、金子のことばでいえば、セーフティ・ネットのひとつとしての公共事業の必要性をいっているのである。

これは、大手、中堅どころの経営を圧迫するような意見なので、まあ、建設業関連のコンサルタントを名乗る方で、これをいう人をわたしは知らない。
それは当たり前であって、それをいうことは自らの首を絞める行為になってしまうもの。

少なくとも、そういうわたしの見解を支える意見を提供してくれているのは、反古典の経済学者だけなのである。これが現実なのだ。

例えば、金子勝氏のことば。(『逆システム学』 p137-138より)

『・・・さらに大規模公共事業は、維持費と借入金ばかりを残して地方財政をも悪化させている。その結果、公共事業に依存してきた地域経済は大きな打撃を被っている。いまや中山間地の集落崩壊に始まって、シャッター商店街や大都市の超高層ビル建設にみられるように、町や村自体が崩壊を始めている。都市の集積効果が崩れれば、地域経済の循環は断ち切られて、ますます地域経済は落ち込むことになる。』

『・・・こうした状況を克服するには、ここでも多重なフィードバックを再生させてやらなければならない。それが地方分権化である。権限と税財源を地方に委譲し、伝達系を短縮して住民に一番近いところでセンサーと制御系を機能させ、政治的な回路を通じたフィードバックを回復してやるのだ。それによって、住民ニーズにあった小さな公共事業を実施し、空洞化が進む町や村を環境・福祉融合型のまつづくりで再建するのである。それは同時に、工場誘致や公共事業を中央から引っ張ってくるフィードバック・ループに代えて、新たに地域経済の自律的循環という別のフィードバック・ループを作ることを意味する。』

全面賛成というわけではないが、わたしは、今現在の環境認識で、自治体のおこなう公共事業の視座はこれでいいと思う。

こういうと、また地場型中小建設業は、安心の世界に閉じこもるだけだろう、という反対意見が出るのは当然なのだが、だからこそ、わたしは信頼のIT化をそこに持ってくるのである。

その信頼とはなにものであるかを、少しでも多くの方々に理解していただきたく、今回、山岸先生を空知に招聘いただいたわけだ。

そして、「満足に糧をえず地域に信頼できる建設業に期待されても、良い結果に結び付かないのではないでしょうか」はその通りなのであるが、ガラポンの思想の前では、この意見もなにもあったもんじゃないのも確かなのだ。

ということで、今日はこれで終わってしまうのだけれども、ここで終わると、また誤解されるのだろうなぁ、と思うが、まあ、バカだと思って許されよ。

ついでに、先の「職業のマリアビリティと自らの生き方のマリアビリティ」のあたりを読めば、少しはなんだかわかるはずなのだが、まあ、今日は忙しいのである。(笑)

2004/02/29 (日)  
【逆システム学】

2月29日、宇宙からの贈り物の日。

さて、昨晩は、22:02上野駅着の「はやて」にて帰宅。
上野駅前の丸井の電光温度計は、気温が10℃であることを知らせていた。


大船渡の皆様、それから、二日間お付き合いいただいた、向井田IT特別委員長、大変ご苦労様でした。深く感謝申し上げます。


一昨日、大船渡の皆様との懇親会は、「華」というお店で、モツ鍋にドンペリという組み合わせを試みた。

この不思議な組み合わせは、異様というか、想像以上に相性がよいことが判明した(つまり、うまいのだ)、素晴らしいの一言である。

しかし、おいそれと再現できるものであるはずもなく、たぶん、最初で最後の経験になってしまうのだろうなぁ、と思うと、やや悲しい。


昨日のお昼は、大船渡の味楽苑さんにて、焼肉&冷麺であった。
昨今お目にかかれなくなっているレバ刺もあり、お昼からホルモンなのである。

冷麺は、盛岡スタイルなのだが、若干麺が細く、やわらかめで、のど越しが良く、なにかミルクのような香りがする。いうなればミルキーな冷麺なのであった。

焼肉のレベルも相当に高い。
素晴らしいホルモンタウン大船渡なのであった。


さて、今回の旅のお供はこれであった。

cover逆システム学』

金子勝、児玉龍彦(著)
2004年1月20日
岩波新書
780円






この本は、わたしのお気に入りの仕事をしている経済学者のひとり、金子勝氏の最新著作であり、今回は、医学の仕事をされている児玉龍彦氏との共著となっている。

今回、金子は、経済学という社会科学へ、生物学的(生命のしくみからの)アプローチという手法をおこなっているのだが、このアプローチ方法は、最近のわたしの態度でもある。

このような、生物学からの社会科学へのアプローチという手法は、生物学で解明される「生命のしくみ」(つまり遺伝子である)の解明度の精度が高まれば高まるほど、社会科学(この本では経済学)への適応の精度も高まるのではないか、と考えている。(そのための共著なのだと思う)

この経済学への生物学的(生命のしくみからの)アプローチは、村上泰亮が「反古典の政治経済学」で既におこなっている仕事ではある(が故に、わたしのIT化へのアプローチ手法は、村上の著作からの示唆で、このような立場になってしまっているわけだ)が、いわゆる主流経済学(新古典経済学)批判という意味では、村上の仕事は必ずしも成功しているとは思ってはいない。

しかし、反古典という立場では、村上と同じような方向性(方向性だけで根底はかなり違うが)を持っている金子が、今回、同じようなアプローチ手法を明確に打ち出してきたことは非常に興味深いといえるだろう。

わたしの立場も含め、主流経済学への批判(擁護さえも)をおこなう場合、ここまで(つまり「生命のしくみ」へのアプローチ方法を)理解しながらおこなうことは、かなり有効な手法だと思うのだ。

なぜなら、そもそも主流経済学、つまり市場原理の生い立ち自体がそうなのであるからだ。

それがわからないで市場原理を軽々しく言う人間をわたしは信用していないし、これは、社会科学(政治・経済)を語る方々の当然の態度なのだと思う。

しかし、わたしのように、IT化という社会科学的事象に、その自然科学の法則性(限定的な法則)を持ち込むときに大切なのは、拡大解釈に対する自制心であることはいうまでもない。

なぜなら、社会科学は厳密な意味での実験は難しいからであり、アプローチの根底に潜む人間観や社会観の対立は、しばしば自らを「科学主義」と装うために利用されやすいからだ。


今回、金子のとった手法である「逆システム学」とは、今までの生物学の限界である、要素還元論(市場原理)VS全体論(複雑系など)を批判的に乗り越え、解明されつつある遺伝子の調節制御機能からのアナロジーとして、調節の束として市場という複雑なシステムをとらえる手法とされている。

この本は、その「逆システム学」というアプローチ手法をわれわれに提示したものである。

わたしは、この本から啓発されることが多々であることを認めざるを得ないし、「逆システム学」というアプローチ方法が、たぶん、わたしにとっても、有益なものとなるだろうとさえ思う。

ただ、わたしは、遺伝学では、R・ドーキンスのいう立場を周到し続けてきていた。
つまり、ダーウィニズムである(この本では、ネオ・ダーウィニズムと表記されている)。

「逆システム学」はこの立場を否定するし、この本では、R・ドーキンスはネオ・ダーウィニズムの代表のように扱かわれているのである。

金子は、ネオ・ダーウィニズムの立場こそが要素還元論(市場原理)だというのだが、わたしは、ダーウィニズム的に考えることで、要素還元論(市場原理)を否定するというアプローチを取ってきていた。

それは、『私の言うことが還元論的に聞こえるとすれば、それは、現実に生き残るかどうかの単位という意味での淘汰の単位については原子論的見解を強調するからである。しかし一方で、遺伝子がそれによって生存する表現型手段について語るさいには、私は全体論気質をもった相互作用論者なのだ。』(ドーキンス,1987,p221)と、ドーキンスが「利己的な協力者」という概念をもって、模索していたものである。


わたしにとっての、「逆システム学」は、ダーウィニズム的に考えることの(利己的な協力者」の)延長にあるものだと感じている。金子がR・ドーキンスを名指しで批判するような違和感はじつはないのである。(この件に関しては、金子の考察の浅さが露呈しているのではないかと思う)

ただそれは、元々わたしが反古典の立場にあることと、時間軸、つまり、最新の科学が明らかにするゲノムという概念の解明のスピードにあるのだろう、とも思う。

それは、わたしの「生命のしくみ」の理解への取組みは、たかだかここ3,4年の出来事であるが、しかし、R・ドーキンスが「利己的な遺伝子」をあらわしてからは、既に30年が過ぎようとしている、ということである。

わたしの脳の中では、これらが同時進行的に処理されている。
そしてダーウィニズムに関しては、おごりかもしれないが、わたしは金子よりも深く考えている、ということである。


しかし、ある意味、金子は、村上泰亮の仕事(反古典という意味で)を超える可能性を秘めているアプローチ方法を手に入れたのではないか、と思う。

今後の金子の仕事が楽しみであり、わたし的には、この「逆システム学」という手法を、現在進行形の形で知りえたことに、感謝したいと思うのだ。(誰に?)

About桃知利男インデックスSelf Talking INDEX | 今日の戯言 | 2004年2月後半へ | 2004年3月前半へ著作権店主へメール依存リンク

momo
桃知商店謹製
(c) Copyright TOSIO MOMOTI 1998-2004.All rights reserved.