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店主戯言041001  2004/10/01 〜2004/10/15 "There goes talkin' MOMO"
(彼自身よる桃知利男)


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2004/10/15 (金)  
【11・4第3回実験的勉強会(サイボウズ社セミナー)開催のお知らせ】

昨晩は、鹿児島経由で20時に帰宅し、その後直ぐに飲みに出かけ、帰ってきたのが25時30分過ぎ。

それで今朝は8時30分起床。
今は、いつもの喫茶店で朝食中なのだが、メニューはホットミルクとおかゆという情けなさ。
でも、浅草は快晴であり、すがすがしい。

今日は、11月4日に予定されている東京独演会というか、実験的勉強会というか、サイボウズ社でのセミナー開催のお知らせである。

今回は、思い切って『哲学のあるIT化』という演題にしてみた。

わたしの講演は、考えることの大切さを他者に伝えようとしているものなのだけれども、その考える対象は何かといえば、それは常に自分でしかない。

その自分としてのわたしには、精神と身体と心があり、それは常に<他者>とのまじわりの中で、その存在を確認できている。

コミュニケーションとネットワークはここから始まる。
ITは、その時ただのツールでしかなく、そのツールの上で、飛び交うのは開放された人間の精神と心、のはずなのだが・・・。

IT化といえど、問題はいつも、人間(こころ)の問題となって表出してくる。
だから『哲学のあるIT化』。でも聴くに耐えないかもしれない。なので、実験的勉強会と逃げを打っている。

この演題は、まあ、思い切った演題なわけである。
問題は、はたしてこんなんで聴きに来てくれる人はいるのだろうか、ということだろう。

それで、保険のように、ゲストスピーカーには、吉谷さんをお呼びしている。
演題は、『環境を変えるためのIT化』である。
吉谷さんの講演だけでも、必見なのは言うまでも無い。


■2004年11月4日(木)第3回実験的勉強会(サイボウズ社セミナー
■第3回実験的勉強会 『哲学のあるIT化』―ネットワークと信頼とビジネスと―
【日時】 11月4日(木)13:30〜17:00
【受講料】 無料
【会場】 サイボウズ株式会社セミナールーム
    〒112-0004
    東京都文京区後楽1-4-14 後楽森ビル12階
    TEL 03-5805-9035(代表) FAX 03-5805-9036
    http://cybozu.co.jp/company/info/map_tokyo.htm
【定員】 20名
【概要】 ・講師:桃知利男
 演題:『哲学のあるIT化』―ネットワークと信頼とビジネスと―

・ゲストスピーカー:吉谷徳一氏 吉谷土木(株)専務取締役
 演題:『環境を変えるためのIT化』
 → http://www.yoshitani.org/index.html
 
 第3回目の東京での実験的勉強会(サイボウズ社セミナ)を行います。
 「私はバカのまま死にたくはない」 それから始まって、色々と、本当に色々と思考を繰り返してきました。
 情報とはなにか? 「ミーム」? ミームは「ポチ」である。では、ポチはなにを掘り出したのだろうか。
 そして我われは、ITという情報の機器に囲まれ、そしてIT化という環境変革の中で、なにができるのだろうか。
 さらに、今回のゲストスピーカーは、吉谷土木(株)専務取締役 吉谷徳一氏をお迎えいたします。
 吉谷氏は、近未来の都市型公共工事のひとつのモデルであろう習志野市において、サイボウズを活用した事業展開を試みておられます。
 時代とIT化そして公共土木。
  IT化の理解と実践こそが、今という時代の閉塞から抜け出る方法のひとつであることが明らかになっていく、センス・オブ・ワンダーな時間をお楽しみください。
【主催等】 主催:桃知商店          http://www.momoti.com
後援:サイボウズ株式会社    http://cybozu.co.jp/ 
【お問合せ先】
【申込先】
店主へメールでお願いいたします。
  mailto:pinkhip@dc4.so-net.ne.jp
 お名前
 会社名
 メールアドレス
 懇親会参加の有無を明記の上、お申込ください。
【懇親会】 当然におこないます。
(別途ご連絡いたします)

2004/10/14 (木)  
【砕けた脳味噌で書く】

午前7時35分起床。
宮崎はしっかり晴れている。

昨日は、宮崎地区建設業協会さまのIT推進委員会。
台風の影響で、10月に開催が延日されたものだ。

この協会さまは、とっても成績がよくて、プランは前倒しで推進している。

昨晩は、しっかりと懇親会をしていただき、ビールや20馬力、25馬力。43馬力の焼酎で、ホテルに戻ったのは26時。
当然に、今朝はしっかりと二日酔なのである。
脳味噌は砕けている。

今日は、8時45分には、この方がホテルにお迎えに来てくれる予定。
Thanks!

今日は、JRで宮崎から鹿児島へ移動し、夕方の便で東京へ戻る予定。
今日も浅草で一献予定。


では、昨日の続きを、砕けた脳味噌で覚書のように書こうかと思う。
たぶん、ちゃんとした文章にはならないだろうし、何時書き終えるのかもわからないけれど、それでいいのだ。

まずは、書き留めていたものの引用から。

わたしの好きな嫉妬文のひとつに、『リアルの倫理―カントとラカン』(アレンカ・ジュパンチッチ(著),富樫剛(訳),2003年2月18日,河出書房新社,3675円(税込)に寄せられた、スラヴォイ・ジジック(『斜めから見る』の著者)の序文がある。

『・・・ならば、私は、このアレンカの本に対して心からの敬意と称賛を表したい、とでも言うべきだろうか? 答えは「ノー」だ。』

『そのような称賛は、自分を著者よりも数段高いところに位置づけていることを意味するのみである−私は高みから著者を見下ろし、ご親切にも彼や彼女やらの仕事のできばえを好意的に評価しているというわけだ。同僚の哲学者にとって真の敬意を表す唯一の反応は、嫉妬に悶え、そして憎むことである

『何ということだ! 私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ! そうすれば私は、ぬくぬくとうぬぼれに浸っていられただろうに!』

『アンレカの本に対して私が捧げうる最大の賛辞は、その原稿を読みながら、どれほど私が呆気にとられ、そして嫉妬に荒れ狂ったか、どれほど哲学者としての私の立場が脅かされたか・・・』(『リアルの倫理』,p14)

こんなにあっけらかんと嫉妬心を書いてしまうジジックは素敵だ。

嫉妬心は、嫉妬される方から見れば厄介なものだが、このような嫉妬であれば、それは人間が成長するには必要不可欠であり、嫉妬される方だって悪い気はしないだろう。

嫉妬は重力のようなものであり、なくなれ、といってもなくならない。
だとすれば、私達にできることは、その嫉妬を飼いならすことじゃないのだろうか。

焦がすのじゃなくて、こんがりと焼くのである。

嫉妬の塊のように見える事業者団体は、その(クラスター型の:狭くて濃い)ランダム・ネットワークの性質をもって、嫉妬心(勿論、ジジックの嫉妬心とは全く性格を異にするものだが)を飼いならしてきた、といえよう。

つまり、クラスター型のランダム・ネットワークでは

・反復囚人のジレンマゲーム(指名競争入札)
 →長期的利益優先
 戦略:応報戦略→やがて協力

が機能することで、牽制装置付きの意図に対する信頼を維持してきた。
それが安心。

しかし、「公共工事という産業」に限らず、今という時代は、クラスター型のランダム・ネットワークが崩壊の危機に直面している時代。

スケール・フリーネットワークの時代。
社会的に不安定で機会利益の大きな時代。

だからこそ、信頼が必要だ、と山岸俊男はいうのだろうが、安心社会は信頼を育ててこなかった。

信頼はない。
そこへ、1回限りの囚人のジレンマゲームを持ち込むことで、「公共工事という産業」の安心社会は簡単に崩壊する。

→協会の機能不全

しかし、これ(安心)が崩壊したとき、飼いならされていた嫉妬心はどこへ向かうのだろうか。


「公共工事という産業」は、長い間、反復囚人のジレンマゲームに支配され続けてきた産業である。

ランダム・ネットワークの世界は、平等を第一義としている(下図参照)ことで、(みんなが食えるという条件が機能する限り)このネットワークの中にいる方々にとっては、悪い世界ではないのは当然だ。

だから、事業者団体ベースのIT化を考えていくと、それはどうしても外側(今流の三位一体の改革等の流れ)に対しては抵抗勢力とならざるを得ない。

それは、このネットワークこそが事業者団体であるからだ。
この組織を守らなくてはならない、という力が働くのは当然のことであり、それが種の論理の種の動きである。

しかし、既存の手法(ヒエラルキー・ソリューション)は、まったく通用していない。
安心社会(クラスター型のランダム・ネットワーク)の外にいる<他者>からことごとく否定され続けている。

多くの<他者>は、スケール・フリーネットワークの世界の住人であることを自覚しているように思える。

その世界は、インターネット社会の特徴のようなものであり、ベキ法則が働く世界だ。

つまり、金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になる。
そして、上には上が、下には下がいる世界だ。

多くの<他者>は、この世界に住んでいることを自覚しているように錯覚している。
そして安心社会に嫉妬している。
それは、なにかやり場のない憤りのはけ口のように。

でも、多くの<他者>は、高みから見ているわけでもない。
彼らは、金持ちは益々金持ちになり、には実感がわかないが、貧乏人は益々貧乏になる、には共感している。

たぶん、多くの<他者>が安心社会にいるのであれば、この嫉妬も起こるようなものでもないように思う。(まあ、別種の嫉妬は生まれるだろうが)

わたしは、問題は高みにいると自ら考えている方々にある、と考えている。
それはランダム・ネットワーク(ヒエラルキー・ソリューション)の高みと、フリースケール・ネットワーク(マーケット・ソリューション)の高みである。

どちらも既存の問題解決方法に固執している。
そして、マーケット・ソリューションという場の高みに居る方々の嫉妬心が、ヒエラルキー・ソリューションという場の高みに居る方々のそれを駆逐している。

考えてみればそれは当たり前なのかもしれない。
競争という部分で考えれば、競争は嫉妬をエネルギーにしている。
内側の階級闘争のような競争しかないヒエラルキー・ソリューションと、外側に向かって競争をし続けるマーケット・ソリューションでは、そもそも持っている嫉妬エネルギーの質もパワーも違いすぎる。

しかしこれさえも、ベキ法則=80/20の法則のはなし。
我われ庶民は、金持ちは益々金持ちにの、あまりの桁の違いに嫉妬もできない。

やはり、問題解決方法は違うのだ。

たしかに、否応なしにスケール・フリーネットワークの洗礼を受けざるを得ないのが、今という時代である。
それは、個に対してより強く働くだろう。
それは認めよう。

しかし、この世界は、いささか棲みにくい。
だれが好き好んで、益々貧乏になるだろうか。
益々金持ちになる方法を知っていれば別だが・・・。
そして、マリアビリティは急には身につかない。

だからこそ、事業者団体のIT化に意義がある。

環境を守ろうとするのは、事業者団体である。
環境変化へ適応しようとするのが個である。
その結果として、事業者団体は環境変化への適応度を得る。
そしてそれはスパイラル的に広がりを持つ。

わたしの「種の論理」は、事業者団体ベースのIT化を、ランダム・ネットワークの維持に働き、それは個々の企業の(そして「公共工事という産業」に従事している方々の)、スケールフリー・ネットワークへの適応度を高めることを内包しなくてはならない、という、面倒なことを言う。

スケールフリー・ネットワークへの適応度→社会的知性→信頼・信頼性→係数a。
それは、嫉妬をこんがりと焼くための(焦がさない)のオーブンのようなものである。

それは、スケールフリー・ネットワークの適応度を高めることによって、スケール・フリーネットワークの野性性(単純な嫉妬、単純な競争)を否定する。

これを生み出せないのであれば、、事業者団体のIT化は結局意味を持たないだろう。


『新ネットワーク思考』,p103より引用加工

ということで、特急きりしま車中。
二日酔継続中。
まったく支離滅裂。文章にならない。
でも、これでいいのだ。

2004/10/13 (水)  
【嫉妬】

午前5時30分起床。
浅草は雨。

さて、桂さんから、9・27桃知利男仙台講演会『桃論〜信頼とIT化〜』DVD発売との連絡があったのでご紹介。

------------------------------->8
2004年9月27日 仙台メディアテークで行われた、桃知利男仙台講演会、『桃論〜信頼とIT化〜』の模様を収録したビデオを販売致します。
ご購入、お問い合わせは下記URLから。
     → http://sekoukeikaku.com/modules/formmail/index.php?id_form=4

------------------------------->8

10・26仙台独演会への予習・復習用にお使いいただければ、効果倍増かもしれません。(笑)

■10・26仙台独演会
     詳細とお申込はこちらから
     → http://sekoukeikaku.com/modules/eguide/event.php?eid=1


さて、わたしが、「公共工事という問題」を考えていて、社会心理学や社会行動学というようなものからのアプローチを繰り返していた頃。

山岸俊男は、日本人が「協力」しあう傾向が強い、ということの深層をあばき、それは「信頼」ではなく「安心」だ、と言った。

「安心」とは、牽制装置(針千本マシーン)付きの「意図に対する信頼」なのだけれども、それをわたしの講演では、囚人のジレンマを例に、ゲーム理論から説明を試みている。

けんせい【牽制】
―する
相手の注意を自分の(望む)方にひきつけることによって、自由に行動出来ないようにすること。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


要は、入札という精度が、1回限りの囚人のジレンマゲーム(テリトリー制限のない一般競争入札)になるのか、反復囚人のジレンマゲーム(指名競争入札)が可能なのか、だが、その違いは意外と大きくて、構成員が、短期的な利益を優先するのか、長期的な利益を優先するのか、の行動の違いとなって現れてくる。

この行動の違いをアクセルロッド風に記述すれば、以下のようになろう。

・1回限りの囚人のジレンマゲーム(テリトリー制限のない一般競争入札)
 →短期的利益優先
 戦略:裏切り

・反復囚人のジレンマゲーム(指名競争入札)
 →長期的利益優先
 戦略:応報戦略→やがて協力

「公共工事という産業」は、長い間、反復囚人のジレンマゲームによって支配されていた産業であり、この場合、信頼の射程は内側に向く。

それは、クラスター型のネットワーク組織では、当然の帰結であり、ESS的でもある。

つまり、「公共工事という産業」は、クラスター型のネットワークを構築し、仲間内だけの信頼(のようなもの)を構いていくことで、それは安心社会となる。

故に、そこには<他者>からの「信頼」がないのであるが・・・。

わたしは、この安心社会を安定化させてきた要因のひとつが、「スパイト行動」(つまり強烈な嫉妬)なのだろう、と考えてきた。

スパイト行動は、自分の利益を犠牲にしても、相手が利益を得ることを阻止しようとする行動で(この場合、利益とは金銭的なものばかりではないことに注意)、鷲田小彌太氏が言うように、これから逃れる術はない。

であればこそ、<他者>にスパイト行動を起こさせないように、長期的な利益を考え、安心社会のメンバーは「協力」のカードを選択するのである。

しかし今や、「公共工事という産業」が直面している問題のひとつは、その「安心」が崩壊せざるを得ない状況になっていることだ。

つまり、環境は、反復囚人のジレンマゲーム(指名競争入札)から、1回限りの囚人のジレンマゲーム(テリトリー制限のない一般競争入札)へ移行しつつある。

この場合、安心は外側から崩れる。
それはクラスター型のネットワークの崩壊を意味する。

そして、本当の<他者>がクラスター型の閉じたネットワークの外側に存在していることにようやく気が付く。

今、多くの事業者団体が抱えている問題はこれであろう。
しかし、この問題に対して既存の方法論はまったく役にたたないだろう。

ということで、ここまでが、わたしのIT化論の入り口のようなものである。

嫉妬は重力のようなものであり、なくなれ、といってもなくならない。
ただ、嫉妬を焼くというのは、何かしらの共通項目がないと起きないのかもしれない、と考えている。
同じような職業、年齢、性別、境遇等など・・・。

また、スパイト行動は、クラスター型のネットワーク(つまり狭くて濃い紐帯→安心社会)に多く起きるのではないか、とも考えている。


「嫉妬する人、される人」谷沢永一『嫉妬する人、される人』

谷沢永一(著)

2004年7月20日
幻冬舎

1365円(税込)





「嫉妬の人間学」(鷲田小彌太)『嫉妬の人間学』

鷲田小彌太(著)

1999年1月5日
潮出版社

1260円(税込)





ということで、今日はこれから宮崎に飛ぶ。
続きは明日・・・書くかもしれない。

2004/10/12 (火)  
【ちょっとお疲れ】

6時起床。曇りかな。
ガスがかかっているように見える。
小雨が降っているのかもしれない。

昨日の(↓)某所での運動会風景。

天候はぐずぐずだったけれども、流石に観音様のご利益か、尻上がりで状況はよくなり、無事終了。

南無観世音菩薩。
合掌である。









昨日は、運動会終了後、S建設業協会さまのアクセス率のデータのとりまとめを行う。これも予定通りといえば予定通りの行動。

内容は疲れた身体にはちょっ悪い。
新規にご参入いただいた方々のアクセス率はちょっと辛い数値を示していたわけだ。

けれど、フィードバック。
原因を可能な限り見つけ出し、対策を考えなくてはいけない。

さて、今年のノーベル経済学賞はフィン・キドランド米カーネギーメロン大学教授とエドワード・プレスコット米アリゾナ州立大教授が受賞した、と報道されていた。

対象となった業績は「経済政策の時間整合性の研究」と「実物的景気循環論」というようなもの。

なんだかよくわからないけれども、「経済政策の時間整合性の研究」とはこんなことらしい。

つまり、中央銀行などの政策当局と企業や家計といった経済主体が、お互いに相手の行動を前提に織り込んで次の行動をすることで、当初は良いものと考えられた経済政策が悪い結果を招くといった「動学的非整合性」の問題ということ。(事例→長野県?)

これは、法大HELPではなしたパースペクティブの問題だと理解してみた。

人の行動は、「お互いに相手の行動を前提に織り込んで次の行動をする」のは確かなわけで、その「お互いに相手の行動を前提に織り込む」という視点が、パースペクティブの問題なわけだ。

それが経済的合理性を追求するという個人を仮定している経済学でも有効だ、ということで、経済は相互作用的に動いているわけだ。

だから、中央銀行の裁量よりも、ルールを重視した政策決定が大切だよということなのかな、と。
村上泰亮を思い出すね。

また「実物的景気循環論」とは、景気循環に関しては、供給に対する需要の大小で景気の拡大や後退が起こるのではなく、実物経済における技術進歩率の変動という供給側の要因そのものが、循環の原因になっていると論じているのだが、ここにいたって益々村上泰亮を思い出させてくれる。→【技術革新とコンドラチェフ波動】を参照してほしい。

しかし、本当にこんな解釈でいいのかどうかは、わからない。
確かめる方法は、自分自身で、「経済政策の時間整合性の研究」と「実物的景気循環論」を確認してみるしかないのだわな。

でも、フィン・キドランドもエドワード・プレスコットも全く知らなかったりしている。

2004/10/11 (月)  
【運動会らしい】

6時45分起床。
浅草は、小雨。

運動会は微妙。

昨日は、玄品に晩飯を食べに行った以外は外出もせず、ただひたすらT建協さま向けの自習用テキストを作成。

なんとか25時過ぎには、出来上がって納品。

とかなんとか書いているうちに、運動会はやることになったらしい。

2004/10/10 (日)  
【@日曜日】

午前9時起床。
浅草はくもり。

今日の午前中に順延されたF1の予選走行をTVで見ながら、朝飯を食べ、これから予定されていた仕事をこなそうとしている。

F1予選は、路面状況がウェットなので、見所たっぷり。

Oさまより。
今は片付け真っ最中のことと思います。
それとも片付けはそっちのけで
本に没頭しているのでしょうか?
好奇心の旺盛な桃知さんの事ですので
多分後者だと思います。
台風の雨はますます強くなってきたのではないでしょうか?
こちら岩手でも今は昨日からの雨が
不気味にしとしと降っております。
日記を見てみたら
桃論の本がどんどん後をおっかけてくるではありませんか。
これって初めからですっけ?
どうしても買わせたいのですか?
それでは、台風の被害があまりない事を祈りつつ・・・

片付け頑張って下さい。
めだかが腐る前に見つかりますように。

じつは、片付けもそこそこやりました。
だいぶきれいになりました。

それよりも、T建設業協会のイントラネットの、サイボウズoffice4からoffice6へバージョンアップが、予定通り午前中に完了していたので、システム設定と自習用マニュアルの作成を前倒して始めた。

サイボウズoffice6は、マニュアルなしでも、直感的に使えるものだけれども、協会というようなクラスター型ネットワークで使うには、最低限の使用ルールと使い方の理解は必要なわけで、その自習用マニュアルの作成に当たっては、可能な限り実際の画面で行う必要がある、というのがわたしのポリシー。

今日は、そのマニュアルの作成をしてしまう予定だ。
運動会は、明日に順延なので、明日はなにもできないから。

YOUさんから。
YOUです。桃知さん、おはようございます。
地震に台風と関東は色々大変でしたね。
お見舞い申し上げます。

日記で写真を拝見しましたが、お怪我がなくて幸いだったと思います。
本はかなり重いので、頭に当たったら大変です。
私の部屋もかなり本が多いので、注意しなければと思わず考えてしまいました。

三重県もニュースでご存知だと思いますが、南の方がかなり被害が大きくて、尾鷲に仕事へ週一度行く夫などはニュースで映像が写るたびに「あそこの下でよく弁当を食べていた」とか被害状況に驚いていました。

今回の台風、最初はこちらを直撃のコースだったので、あれだけ大きいものが来たら宮川村は壊滅してしまうかもしれないと心底心配していました。
(首都圏で被害にあわれた方たちはお気の毒です)

友人の実家あたりは、90%の家屋が床下浸水の被害を前回受けているので今回もかなり心配していました。
今日はお天気も快復しそうなので、救援物資を持っていくと言っていました。

日本各地にお知りあい、お友だちが多い桃知さん、天災のニュースがあると心を痛められることが多いかとお察しいたします。
どうぞお元気で日記を更新していてくださいね。
きっと皆さんの励みになると思います。

では、また。

YOUさんお久しぶりです。
三重は、まさに当たり年。

昨日の台風は、確かに激しい雨と風を伴っていましたが、なにか瞬間的であり、刹那的でした。

ピークは午後3時から5時ごろだっただろうか。
午後7時には、なんにもなくなり、午後11時過ぎには道路は乾き始めていたような状況。

今年は台風も多く、また地震も心配な年となっているけれども、それは日本に棲んでいる宿命のようなもの。

それを運命や宿命とするのは簡単だけれども、そうはいかない。
骰子一擲、私達はそれに耐えられるように、ミームで対応していくしかないだろうと。

2004/10/09 (土)  
【台風が近づいてきている土曜日】

7時30分起床。
浅草は、勿論、雨。
台風22号が近づいている。
今日の運動会も当然に中止。

わたしの部屋。
落ちて落ちていた本は、応急手当的に本棚へ戻る。
とりあえず歩くスペースは確保した。

でもCDはそのまま。
倒れたスピーカーも、そのまま。

このまま音を出したらどうなるのだろうか。
好奇心に勝てず、最近傾聴していた槙原(EXPLORER)を流してみた。
でも、倒れているのが中高音部なので、音像の焦点があわない。
モコモコとした音がする。

リビング。
宙に浮いていた茶碗は、扉を開いた結果、3個割れた。
それは絶体絶命の人質救助作戦のようなもの。
プーチンなら支持してくれるだろうか。

どうせ今日は台風。
どこへ出かけるわけでもないので
ゆっくり部屋でも片付けようと思う。

本を片付けていて発見するのは、購入したまま読んでいない多くの本。
本読みのサガ。
そんなものと付き合っていたら、絶対に片付けは終わらないことは知っていても、ついつい読み初めてしまう。

でも今日は時間はたっぷりある。
どうせ台風だ。

2004/10/08 (金)  
【@佐野】

6時39分、佐野にて目覚める。
佐野は曇り。
台風22号が近づいているようで、週末の天候は下り坂のようだ。
9日は子供の運動会が予定されていたけれども、このままだとたぶん中止だろう。

昨日は、地震お見舞いのメールを沢山いただいていた。
代表してじろうさんからのメールを、ざっくりしながら転用。

桃知さま

おはようございます。
じろう@札幌です。
相当強い地震だったようですね。戯言を見て驚くやら
思わず笑ってしまうやらです。
震源地が茨城県の関城町というニュースが流れていました。
実は、ここには・・・(ざっくり)

どんなになっちゃったか、見に行かなければなりませんねえ。
平和建設さんの被害も心配ですね。

仙台の独演会は当社の東北支店の2名のうち一人は参加させる予定です。
(ただし−ざっくり−ので確率は10%位?)

では、飲みすぎに注意してお仕事がんばってください。

(にんにく注射効きます)

じろうさん、みなさま、ご心配ありがとう。
今日は帰ったら、部屋の掃除から始めるつもりです。

さて、じろうさんのメールにある、仙台の独演会だけれども、(社)岩手県建設業協会から、越場慮彦氏をお招きして、『(社)岩手県建設業協会におけるIT化の取組』をお話いただくことになった。

当然にわたしのはなしも事業者団体ベースのIT化のコツについて触れることになるだろう。

これは昨日、三陽建設さんの勉強会で少し触れたことだけれども、事業者団体ベースのIT化とは、ランダム・ネットワークの維持に働き、それは、個々の企業の、スケールフリー・ネットワークへの適応度を高めることを内包しなくてはならない、という、非常に高度なものなのだ。


『新ネットワーク思考』,p103より引用加工

つまり、外側には抵抗勢力であり、内側には改革推進勢力なのである。
これが矛盾しないのか、と言えば矛盾しない。

それは種の論理を理解しないとわからないだろうけれども。


昨晩は、三陽建設さまでの勉強会後、先日の人吉に続き、またしても「アリラン」という焼肉店で一献。

豚のゆでホルモンがとてもおいしい。
その後、例によって一軒寄り道をして、布袋さんを歌い、最後は佐野ラーメン。

詳細は違うが、この酒飲みは構造化されている。(笑)
→10月6日の戯言、人吉での酒飲みの構造をみよ。


さて、話題を変えよう。
JALのデスカウントスーパーシートであるJシートに乗ると、アテンダントさんが、飲み物のサービスの時に、ちゃんと名前を呼んでサービスしてくれる。

「モモチさま、いつもご登場ありがとうございます。お飲み物はなににいたしましょうか。」

最初にこのサービスを受けたのは、先月の熊本から帰りの便でだった。

その時は、使用機が都合で国際線仕様に変更されており、Jシートは、ビジネスクラス、とても+1000円では、申し訳ないような贅沢さだった。

それで、Jシートの数も少なく、担当のアテンダントさんもベテランの方だったので、名前付きのサービスなのかな、と思っていたのだが、どうやら違うようである。

昨日の鹿児島空港からの帰りの便、使用機材は特段珍しくもない国内線仕様のA300であり、Jシートは専用シートで、シートの数もかなり多い。
アテンダントさんも特段ベテランと言うわけでもない。

が、今回もちゃんと名前を呼んでくれたのである。

「モモチさま、いつもご登場ありがとうございます。お飲み物はなににいたしましょうか。」

まあ、それが心理的にどのような効果を生むのかは、わたしは知らない。
けれども悪い気はしない。。

でもそんなことより、わたしはJALのアテンダントさんが機内サービスの時に着用しているエプロンが好きだ。
かなりかわいい系ではあるが、年配の方が着用しても違和感が無いところがよい。

これ機内で販売しているのだが、いつもどうしてもも買えない。
買う勇気がない。なんとなく恥ずかしいのだ。

わたしの脳味噌は、JAL便だとエプロン一色になってしまう。
そして、買おう、買おう、と思うのだが、何かがそれを押しとどめている。

JAL便搭乗中、平静を装ってはいる(と思っている)けれども、たぶんかなり危ないオヤジが入っているはずである。

(種あかし)
昨日の勉強会で、日記の書き方のような話をしたのだけれども、要はまあ、気が向いたら書きましょうと。

その時、紹介したのが、先日鹿児島からの帰りの飛行機の中で書いた、上の文章なのだ。

2004/10/07 (木)  
【地震】

6時50分起床。
浅草は、あきばれ。

まずは、昨晩の地震のはなしから。
昨晩、11時41分頃、疲れていたし、寝ようかな、と思ったら突然にグラっときた。

かなり大きな揺れであった。
マンションの10階である我が家は、揺れが倍増されるのか、地震の時にはかなり居心地が悪い。

わたしはリビングにいたのだが、まあ、いろんなものが飛んできた。
テーブルの上の灰皿から、吸殻が飛んだ。
風鈴が落ちて割れた。
花瓶がひとつ落ちて割れた。
本も落ちた、その他あらゆるものが宙に浮き、落ちてきた。

リビングボードが倒れそうに思えたので、わたしはそれを押さえていた。
たぶん押さえなくとも、倒れることはなかったのだろうけれども、結果はもっと厄介なことになっていた。



(↑)これなんだかわかるだろうか。

宙に浮く食器類である。
つまり、リビングボードの中は、ごちゃごちゃなのだが、厄介なことに扉のところに引っかかっているものがあるわけで、扉を開けると、落ちる。
そしたらたぶん割れる。

今のところ、対策を考え中である。

冷蔵庫は10センチほど前に出ていた。
砂糖と塩が一緒になって、台所の床に散らばっていた。

わたしの部屋も、悲惨である。
本箱、机の上の山積の書籍、CD類。
液晶デスプレイ、おとりさまの熊手まで・・・。
みんな崩れ落ちた。



この部屋にいなくて良かった。
(今日は家族揃って忙しいので、この惨事の後始末はできない。明日帰宅してから片付けとなるのだろう。気が重い。)

しかし、当家の最大の被害はこんなものじゃなかった。
水害なのだ。

うちには、甲虫やクワガタムシの他に、水棲の昆虫が何種類かいて、彼らが棲んでいる水槽の水がこぼれた。

最悪は、玄関においておいた、ミズカマキリ&ヤゴの水槽が落ちて、玄関が水浸しになっていたことだ。

夜中に虫取り。
マンションで浸水。
めだか(ミズカマキリ&ヤゴの餌)が一匹行方不明。

トイレの水もあふれ出ていた。
このマンション、一体どんな揺れ方をしたのだろう。

そしてなによりも、このままでは来る関東大震災に対して、ひじょーにまずいことがわかったので、早急に耐震対策会議をしなくてはならない、ということだろう。

ということで、今日はここへ。

ああ、なにやらエレベーターが動かないらしい・・・。

2004/10/06 (水)  
【@人吉】

桃知@人吉にて6時30分に起床。
日吉はガスがかかっている。

今日は、8時30分発の高速バスで鹿児島空港へ移動しなくてはならない。

昨日は、熊本建協人吉支部さまの、支部イントラネットを、サイボウズoffice6に移行したことによるIT推進員会の勉強会。

終了後、例によって一献。
わたしのリクエストで、アリランというお店でホルモン&ビール。

その後、一軒ほど経由して、テレサ・テンを歌い、最後も、わたしのリクエストで人吉のラーメン&餃子+ビール。

店名を忘れてしまっているのだが、豚骨こってり系。
自分でリクエストしていて、お腹一杯で全部食べきれず、という不甲斐なさ。

そうそう、お昼ご飯も人吉の名物店だった。
丸一というそば屋。

わたしは、カシワそば+いなり一個をオーダーしたのだが、普段皆さんは、かしわそば+ざるそばというように、ふたつオーダーするらしい。

関東系と違ってツユはきれいで、かつ、しっかりとダシが効いている。
カシワの油が表面に浮いていて、それがまたうまい。

ということで、今朝も、二日続けての二日酔。
身体中脂っぽいし、お肌ツルツルというか、脂が染み出しているような感じ。

いいのか、こんなんで。
痛風街道まっしぐら・・・、そう言えば、昨晩は、人吉痛風サミットという話題で盛り上がっていたが・・・まあ、これでいいのだ。

そろそろ出発の準備をしないといけない。

2004/10/05(火)   
【元気−つまり、この部分−】

8時9分起床。
宮崎は雨。

昨晩は、夕方から、第一建設さまで勉強会。
その後の一献が今朝に残り若干頭が痛い。

今朝は頭が痛いので、書き溜めていたものを使って書こう。

『元気』 五木寛之(著)『元気』 −人はみな元気に生まれ元気の海へ還る−.

五木寛之(著)

2004年4月30日
幻冬舎

1500円(税込)




この本は、まだ全部を読み切ってはいない。
だから、「人はみな元気に生まれ元気の海へ還る」の意味は、全然わかっていない。

ただ、わたしは、「人はみな無から生まれ無へ還る」と考えている人なので、無が元気だという、五木寛之の物語が理解できればいいのだろう、なんて、のん気に読んでいる本なのだ。

しかし、そこは流石に五木寛之なわけで、納得させられているところはある。

・個人が変われば世界が少し変わる
・静止してしまってはいけない
・世界は「物理」と「物語」で成り立っている

これらは、この本の小見出しの一部なのだけれども(じつを言えば、わたしはこの部分しか読んじゃいない。^^;)、これらは、まるっきしわたしの言っている「種の論理」であり、複雑系なわけだ。

特に、世界は「物理」と「物語」で成り立っている、に至っては、ハイブリッドの思想か、大森荘蔵の哲学のようなもので、腑に落ちることこの上ない(これは明日にでも詳しく書こう・・・書ければだが)。

(↓クリックすると大きな図が表示されます)

物理と物語

このようなハイブリッドな思想は、経営で言えば、場のマネジメントの理解に繋がっていく(それがなぜかは、もう散々書いてきたので、今回は書かない)。

それは、簡単にいえば、耕さないところに芽はでないだろし、実も生らない、ということだ。
上の三つの小見出しはすべて、耕す、という言葉に収斂できるものだ。

では、なにを耕すのか。それは個であり、そして個の変化による種のミームの変化、つまり御社の組織文化とか、社風とか呼ばれるものだ。

・個人が変われば世界が少し変わる
・静止してしまってはいけない
・世界は「物理」と「物語」で成り立っている

これらは個人がそう思うこと(つまり「物語」だ)によって機能するするエネルギーのようなもので、個人がそれを理解しない限り、「種の論理」も「ハイブリッド」も骰子一擲も正のフィードバックも機能することはない。

(↓クリックすると大きな図が表示されます)
経営と組織の場(つまり、この部分)

先日の仙台での講演会には、ビーイングの社長さまと岸良さんがおいでになっていたが、社長さま曰く、最初に会ったときには胡散臭さが先に立ち、どうもいまひとつ信用できなかったのですが、今日は本物だと思いました、とわたしに対する印象を語ってくれた。

この変化はなんだろう。
それは、彼らが、あるプロジェクトで、わたしの関与先さまに触れたたことが大きいと感じている。

彼らと、わたしの関与さまとのプロジェクトは、結構はうまくいっている、ということだったけれど、そこで、彼らが感じたものが、上の図にある「つまり、この部分」だったのだと思う。

・個人が変われば世界が少し変わる
・静止してしまってはいけない
・世界は「物理」と「物語」で成り立っている

これらは個人がそう思うこと(つまり「物語」だ)によって機能するするエネルギーだと書いたが、場のマネジメントの図で言えば、それは赤い破線の枠に囲まれた「つまり、この部分」なのだ。

たぶん、彼らのプロジェクトはツールであろう。
よくは知らないが、上の図で言えば、「経営手段、設計変数」だと思う。

しかし、それらのツールは、「つまり、この部分」のエネルギーがないことには、機能しない。たぶん、そのことに気付かれたのだろう。

ただ、わたしから言わせていただければ、それは当然のことでしかない。

だからIT化なのでる。
わたしのIT化論は、組織のミームを作り出すための手法である。

それは経営の基底にあることで、コアコンピタンスなのである。
あらゆるツールは、この基底をベースにして動かざるをえないのだと感じている。

若し、わたしのやっているIT化と、自社の製品がバティングしていると考えているベンダーさまやコンサルさんがおられるのであれば、それは考えが浅いというだけだろう。

それをわたしは、「正解の思い込み」と呼んでいるだけだ。

2004/10/04 (月)  
【日記を書こう】

6時45分起床。
浅草は昨日に続きの雨。なんとなく肌寒い。

昨日も、一日中雨が降っていて、憂鬱な日だった。
基本的には一日中部屋の中で過ごしたのだけれども、お昼過ぎに、銀行へ出かけ、今日の宮崎行きのチケット代金をPay-easyで支払い、銀行の近くの中華料理店で、坦々麺を食べ、近所のスパーで夕食の食材を購入して帰った。

なにか久しぶりの雨らしい雨で、下駄を履いて出かけたわたしの足元は、びしゃびしゃに濡れたのだけれども、こういうのって、子供の頃にはよくあった感覚じゃないのかと、何か懐かしく嬉しかった。


さて、10・26仙台独演会もなんとか形になってきたので、まずは、そのお知らせから始めたい。

■10・26仙台独演会開催のご案内

『建設業のIT化はこうやるんだよセミナー』

日  時:  10月26日(火)13:00〜17:00(若干の延長の可能性あり)
会  場:  仙台市戦災復興記念館 4階 第2会議室
       仙台市青葉区大町二丁目12-1 (地図)
       TEL:022-263-6931
受講料:  3,000円
定  員:  60名(定員になり次第受付を終了させて頂きます)

概  要: 『ミーム論』 講師:桃知利男
      副題:『建設業のIT化はこうやるんだよ』
ゲストスピーカーを1名さま招聘予定(正式決定後、本ページ他にてご案内致します)
『桃論』の中核にある、「IT化=環境×原理」という一次方程式。
その原理としての情報とはなにか?のひとつの見解である「ミーム」についての話を中心に、そのミームをキーワード(眼鏡)として使うことによって見出せる、さまざまな環境理解のアプローチを利用し、建設業を取巻く環境の理解と、その環境の中で、我われはITを使ってなにができるのかを明らかにしていきます。
そして、その理解と実践こそが、IT化であることが明らかになっていく、センス・オブ・ワンダーな時間をお楽しみください。

主  催: 桃知商店       http://www.momoti.com
後  援: 桂技術士事務所  http://petko.s21.xrea.com

申  込: 下記サイトの申込フォームよりお申込ください。
       → URL http://sekoukeikaku.com/modules/eguide/event.php?eid=1

お問合せ先 事務局 桂まで→ ka2don@fa2.so-net.ne.jp
        または、店主へメール→ pinkhip@dc4.so-net.ne.jp

懇親会: 当然にあります
      18:00〜(予算5000円以内。別途ご連絡いたします。)

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10月1日にも書いたけれども、集客には全く自信がない。
もうこれは、ただ皆様に依存するしかないわけだ。

絶対に損はさせませんから、是非においでください。
今は、これしか言えない。


■日記の魔力

さて、現状は、昨日書いたような環境だから、しょうがないので、わたしは自分で自分の適応度を高めようとしている。

その基本は、「反省の行為」であり、このサイトでごちゃごちゃ書き続けていることがベースとなっているのはご存知の通りだ。

そして考えるときには、気合を入れて考えるようにしている。

そういう習慣をつけること、つまり、わたしが変わることで、世界(環境)が少し変わることを感じている。

『日記の魔力』−この習慣が人生を劇的に変える−

表三郎(著)

2004年8月30日
サンマーク出版

1365円(税込)




別にたいした意味はないが、この本に関しては、サンマーク出版とうことで、さほど期待はしていなかった。

本来こういう偏見はやめた方がよいのだろうが、−この習慣が人生を劇的に変える−などといわれてしまうと、どうも嘘くさい、と構えてしまうのが人の常だろう。

自称「日記の名人」であるらしい著者(表先生)は、日記を書き始めて30年という、予備校のカリスマ講師・・・であるらしい(わたしはその辺は疎い)が、表先生、日記をつけないことは、とても「もったいない」ことだ、と主張している。

それもかなりの確信を持ってだ。
(どうやら先生は、パソコンで日記を書いているらしい)

一方、遅ればせながら、四十を過ぎて、パソコン日記のようなものを、それも一方的に公開しながら書き続けて6年と少しのわたしだが、わたしも、日記をつけないというのは、とてももったいない、と思う(このサイトを日記と呼べるのならだが)。

日記をつける習慣が、この本のサブタイトルのように、人生を劇的に変えるのかどうかは、表先生の著作を読んで、皆さん一人ひとりが感じることだろうし、皆さんに、等しく有効なのかどうかは、わからない。

ましてや日記をつけていない方には、「そんなことあるか」なのだろうし、なにか納得できないものがあるかもしれない。

まあ、なにもしない方が、どこからか幸せは舞い降りてくる、と考えるのは、それはそれでひとつの物語であり、勝手なのだけれども、わたしのこの6年とちょっとの間、そんなことはあったためしがない、ということだけははっきりと言える。

だから、わたしもあえて言おう(と言うか、これぐらいは言う資格はあるだろう)。
日記をつける習慣は、劇的じゃないかもしれないが、少しは人生が変わるきっかけにはなるだろう、と。

人生が変わるというのは、自分を取巻く環境が変わるということである。
つまり、わたしが変わることで、確かに、世界(環境)は少し変わるのだ。

その理由をここで書くことはしない。
自分で、この本を読んでみるべきだろうし、この戯言でも散々書いてきたことだ。

ただ、わたしが一番納得したことだけを書いておこう。
それは、表先生は、日記を朝に書く、ということである。

たぶん皆さんもご存知のように、じつは、わたしもそうしている。
わたしは、日記に関しては、徹底した朝型人間なのだ(それは当然で、夜はほとんど酔いつぶれている)。

わたしはそれを、朝一番に脳味噌に火を入れる、と表現しているが、表先生に言わせると、夜に書くと、思考が後ろ向きになりがちだから朝に書くのだそうだ。

それは確かに一理あって、わたしも朝に書くのは、それは、前向きというか、過ぎたことを悔やむよりも、これから先を考えるという骰子一擲の意識が、朝のわたしを強く支配している、と感じているからだ。

朝の意識は、間違いなく前向きであり、骰子一擲向きなのだ。

わたしの場合、飲んで帰って書いた戯言は、ほとんど日の目をみることなく没になっている(翌朝読み直すと、とんでもなく愚痴が多いのである)。

そういう意味でも、飲んで書けるとどさんは凄いわけだ。

ということで、書く、ということに対して、抵抗感たっぷりの皆さんは、一度この本を読まれてみてはいかがだろうか。

内容は思った以上に「まとも」である。(笑)

わたしのIT化論の中心には、自分自身のことを、自分の言葉で書くことがある。
それをわたしは「反省の行為」と呼んできた。

しかし、その自分自身のことを、自分の言葉で書くことの意味を、ここまで簡単明瞭に、且つ、深く楽しく書く能力はわたしにはない。

だから、このような本が世に出て、多くの方々に読まれることは、悪いことじゃないと思っている。

ただし、読める、というのも、それなりの段階があって、それの階段を昇れるのも、書くこととの併用で得られる結果であることは当然のことであり、それは、ちゃんとこの本にも書いてある。

つまり、読みましょう、と言っても、読めないかもしれない。
それは、書けないと読めないのだ。書けるということは、読めるということだ。

わたしの言葉だと、情報が見える能力は、情報を発信することから始めることで、共進化する、ということ になる。

だから、その訓練をしていない方には、意味の通じない本であるかもしれない。

つまり、正のフィードバックはこんなところでも起きる。

その結果は、個人のキャパシティの格差となってしまうのだろうけれども、だからと言って、何もしないのであれば、その差が縮まることは、間違ってもない。

これは、始めるエネルギーの問題か、とは思う。
変わろうとする始まりは、そしてエネルギーの根源は、「自覚」のような気がする。

自覚とは、環境の理解と、その環境の中のわたしの理解のことなのだけれども、まずは、自分の言葉で、自分自身について書いてみると、それがよくわかるのだ。

だからこそ、まずは、自分の言葉で自分を書くしかないのだ。
そしてそれは、ただの日記でよいわけだ。

最初から、考えることは難しい。
そして自覚のなき方は、考えることも難しいだろう。

ところで、昨日(それは明日にでも)と書いたことは、明日にでも書きたい。
今朝は、もう時間がない。

2004/10/03 (日)  
【長文】

7時25分起床。
浅草は雨。

■寿司屋でのはなし

寿司屋っていうのは、近所の店が一番旨い。
そして、わたしにとって、近所の寿司屋は、居心地のよい場所のひとつだ。

これはわたしの中の定義である。
しかし、定義は科学的でもなく、理論でもない。

なんらかの社会現象についての単なる記述や感想、価値判断や視点、さらには予想や回想なども理論とはいえない(ゼーターバーグ)。

まあ、そんなことはどうでもよいのだ(なぜかは明日にでも書く)。
決め事なんて自分で決めればよいのだ。

そして若し、<他者>にそれを認めさせたければ、それを実証すればよいだけである(その方法は二つある。それも明日にでも書こう)。

さて、わたしの近所の寿司屋といえば、今やご存知の方も多い、「清司」である。

浅草に棲み付いて三年、東京のどこで寿司を食うよりも、今では清司のカウンターが一番落ち着き、ここの寿司が一番口に合う。

その清司で、9月30日の夜、わたしは久しぶりに一献していた。
酒はなぜか黒霧島であった。黒霧島、通称くろきり、宮崎が誇る芋焼酎である。

芋焼酎は、意外と魚に合うことは、札幌のふじ田に、魔王が置いたあった時に知ったのだけれども、くろきりも、鯖のたたき(鰹ではない)との相性は最高であった。

しかし、清司には、元々黒霧島は無かった。
じつは、そこに黒霧島を置かせたのはわたしなのである。

置かせた、といっても、どこかの常連さまように、無理やりに置いたのではない。

宮崎地区建設業協会の西條IT推進委員長からいただいた黒霧島の20度を、芋焼酎好きの清司の親方に、自家用としてプレゼントしただけである。

それを飲んだ親方が、すっかり黒霧島を気に入ってしまったようで、今では定番として店に置くようになった、という次第なのだ。

店では、どのぐらい人気があるのかは知らない。

けれども、親方も気に入っているし、わたしも気に入っている。
そして、黒霧島は、浅草に市場を持ったわけだ。

これを市場だ、といったら、新古典経済学派はなんて答えるのだろう。


■ユニクロのはなし

「ユニクロは低価格をやめます」
http://www.uniqlo.co.jp/quality/pdf/lowprice.pdf

価格破壊の旗手のように言われ、新しいビジネスモデルの成功事例と称されたユニクロも、今ではすっかり精彩を失っている。

うちの近所にあるユニクロも、何時行ってもガラガラである。

わたしは、下着類、所謂、衣料品は、ユニクロの愛用者であり、ユニクロには、是非、低価格路線を止めないで欲しいと思っている一人だ。

ただ、わたしはユニクロのシャツもパンツも買わない。
買うのは下着類だけである。

わたしは、一応、自分のファッションスタイルというものを、きちんと持っている、と自認している(似合うか似合わないかは別としてだ)。
着る物なんてなんでもいい、ということはまったくない。

若い頃、一応 IVY かぶれだったわたしは、今でも石津謙介の教えを守り、ちゃんとTPOを考えている。

それは既に IVY やトラッドと呼べる範疇にはないスタイルではあるけれどもだ。

だがそれは、個人事業主としての、わたしの自己主張をおりこみ(だからサラリーマンの方々からみれば、まったく違和感のある格好をしている)、旅が多い、講演が多い、という環境にあわせ、しわになりにくく、手入れの簡単な、そしてきちんと講演衣装となり、且つリーズナブルなものをセレクトしている(つまり化繊が多いし、化繊は安い)。

そのような選択肢の中で、ユニクロの下着は、まったくじゃまにならない。
なぜなら、それは単なる衣料品であり、ファッションでは無いからである。

己の感性の中で、どこで、なにを着ればよいのかを、きちんと組み立てることができればよいのだ、というのが、わたしの着こなし哲学なのだが、そこには、ユニクロはない。

ユニクロのファッション性のある製品は、わたしのおめがねには叶わない。
わたしにとってのユニクロとは、下着メーカーなのだ。

ユニクロの成功も失敗も、じつはここにあるのだろう、と考えている。

それは、ユニクロの製品に哲学が無い、ということである。
それは、安いから品質も悪い、と思われていることとは明らかに違う。

ユニクロが狙った市場が、そもそも哲学無き市場なのであった(哲学無きというより、ちょっとだけしかこだわり無きか)。

低価格戦略というのは、広い市場(マスの消費者)を前提としたビジネスモデルでしかない。

つまり、薄利多売である。
それは、大量生産、大量消費を市場の前提としている。

その意味で、ユニクロは、工業社会のビジネスモデルを忠実に周到しているに過ぎなかった。

ユニクロが違ったのは、ある程度品質の良い製品を、工賃の安い中国で製造して、それを他のメーカーよりも安い値段で日本国内で売る、という、工賃の格差を利用した差別化の戦略である。

そして、そのやり方は、バブルが崩壊し、グローバリズムが喧伝され、価格破壊がトレンドであった世間の時流に乗り、また、フリースがファッションとして流行った、という相乗効果的ラッキーさで、一挙に正のフェードバックを拡大させた。

それは、褒め称えられることには違いない。
しかし、OSにおけるWindowsのように、それは市場をロックインすることはできなかった。

つまり、ユニクロが造り上げた市場は、最初から消費のパラドックスを抱えている市場なのだ。
そこには(ファッション市場は)ネットワーク効果の永続はない、ということだ。

消費で自己を表現しようとする、今の「消費者」にとって、マスは、最初こそ、トレンドへの帰属という意味が強く働く(流行であればだが)。

トレンド、流行というミームが支配的である市場は、それに帰属することで、己のアイディンティを保証しようとする消費者が集まる。

そのことで商品は売れる(トレンドに乗ることで、消費者は、世間での自分の位置を確認しようとする)。

しかし、マスへ向かう、ということは、最初から消費のパラドックスを抱えている。

それは、消費が自己確認、自己表現のひとつである我われは、やがてマス化された消費(流行)の中では、自己を表現できない(差別化ができない)、という不満を募らせる時がやってくる、ということだ。

欲しいもの(最終的に我われの心を安定させているものとは、少しの違いと、少しの帰属なのだ。

マスへ向かうことは、やがて多くの顧客が、その市場の範囲内では、己のアイディンティを確保できなくなる、というパラドックスを最初から内在している。

ましてや、ユニクロの主流商品は、わたしが買っている下着等の衣料ではなく、流行というミームに支配されたファッションなのだから、その傾向は益々大きい。

流行というミームはインフルエンザのようなものである。
爆発的に感染し、やがて終焉する。

その時間はとても短い。

ユニクロは、たぶんそれに気がついていたのだろうけれども、大きくなりすぎた組織の慣性は、急には変われない。

つまり、安売りの帰結は、安売りしている己の否定となって帰結する。

お金持ちは、あえてユニクロを買う必要はないだろう。
ユニクロがどんな広告を打とうとも、どうでもよい人は、どうでもよいのである。

わたしは、このような市場が、正常な市場だと考えている。

安売りが限りなく続く、安ければ売れる、というのは幻想にしか過ぎない。
というか、決して良い社会のメカニズムではない。

その背景は、消費者が合理的な選択者だからではなく、嫌でも安いものを買わざるを得ない、という理由の方が大きいからだ。

それはよい市場ではないし、よい社会でもない、とわたしは思う。

多くの方々が、嫌でも、安いものを買わざるを得ない世界は、80/20の法則が働く世界であり、不公平な社会である。

金持ちは益々金持ちになり、上には上がいる。
貧乏人は益々貧乏になり、下には下がいる。

それを政策的に目指すことに、何の意味があるのだろう。
小泉・竹中内閣は、この路線を、正しいものとして頑なに守り続けている。

それは政治信条である。だから、わたしはただ、違うだろう!と言うしかない。

ただ、わたしが、彼らを嫌うのは、本音で語らないからだ。
構造改革と呼ばれるものが、国民を等しく幸せにするものでないことをはっきりと言うべきだろう。

ここで昨日のはなしとなる。

既存に執着した種は、個の存在を無視する。

ソフトランディング。建設からの帰農。林業へのシフト。
そこに本音(リアリティ)はあるのだろうか。

公共工事の従事されていた方々(個)は、ソフトランディングでどこへいくのだろうか。(経営者の話ではない)

農業で飯は食えるのか、林業で飯は食えるのか。(経営者の話ではない)

これらの議論にリアリティはあるのか。

そんなことでごまかすよりも、多くの「公共工事という産業」に携わっている方々は、もしかしたら、ユニクロさえ買えなくなるかもしれない、ということを、はっきりと言うべきだろう。

自分で生きていけるように、努力してください、と。
適応度は自分で身に着けてください、と。

そこで、その上で、国民に問えばよいのだ。
これでいいですか、と。

貴方の嫌いな「公共工事という産業」に従事されていた方々を、ここまで苦しめてみましたが、いかがでしょうか、と。

でもそれは、明日はわが身かもしれませんよ、と。

2004/10/02 (土)  
【リアリティ】

午前6時30分起床。浅草は秋晴れ。

昨日は、岩手県建設業協会さまで、協会イントラネット正式運用開始セレモニーであった。

正式運用とは、イントラネットが協会業務における連絡等の、基本インフラに正式になった、ということである。

ここまで、1年6ヶ月程の時間を要したけれども、その期間中、インフラを整え、制度を見直し、そして再構築し、すべての会員、職員方々が、イントラネットの基本操作から勉強をしてきた。

それは、700社を超える会員企業がIT化に対する第一歩を踏み出した、ということを意味するだけで、つまり、これがゴールではない。

けれども、マイルストーン。
秋晴れの盛岡の空とあいまって、嬉しい一日であった。

セレモニー終了後、向井田委員長に無理を言って、網張温泉まで連れて行っていただき、強烈な硫黄泉で一風呂浴びた。

強烈過ぎて長湯は禁物なのだが、快晴の下、露天風呂でのんびりするのは、今年初めてのことであり、少しこころのコリが取れたような気分になった。

その後、いつものように盛楼閣で冷麺を食し、いつもよりは早い時間帯のこまちで帰路についたのだが、そのこまちの中では、(↓)のようなものを書いていた。

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『アフターダーク』 村上春樹(著)『アフターダーク』

村上春樹(著)

2004年9月17日
講談社

1470円(税込)




話題の本ということもあり、『アフターダーク』を読んでみたのだけれども、なんだか妙にリアリティがない。

すべてが他人事という視点で書かれている。
落ち着き無く登場人物とストーリーが変化していくが、それが最後まで繋がらない。

その変化は、読者のパースペクティブを、テクストが、強制的に変えてしまう、というような表現で良いだろう。

それぐらい強制的に視点変化を強要してくるのだが、すべての場面で物語性は薄く、登場人物は陳腐な背景を持ち、キーワードであろうJAZZも、その場の雰囲気を表現しきれていない。

表面をなぞるような描写を繰り返す。
まるで、映画の予告編の予告編のようなものだ。

たぶん、だれも言わないからあえていうけれども、この小説はつまらない。

今、アフターダークという時間帯は、村上春樹が書こうとした世界よりもはるかに深遠であり複雑なのだろう。

その現実の複雑さは、村上春樹のイマジネーションを越えてしまっていることで、この小説にリアリティが備わっていないのじゃないのか、と感じる。

朝、目覚めてTVのスイッチを入れる。
そこからは、わたしたちの想像力を超えた奇怪な事件が連日垂れ流されている。

そして画面が伝えるそれは、妙にリアリティがない。

そのリアリティのない奇怪さの垂れ流しは、反復し、繰り返され、少々のことには、もうなにも反応しないぐらいに、わたしたちの感受性は麻痺している。

そんな感じがしている。
痛みも、悲しみも、喜びも、すべてが画面の向かう側で作られたものの押し売りのように感じている。

当然に、わたしはそれに共感ができない。
感情を移入できない。

それは、つながりの無い断片(画面)としての現実のリアリティのなさ、反省の次元を通過しないことによる「はいぶりっど」な感覚とでも言おうか。

臭いがない。

『アフターダーク』は、今という時代のリアリティの無さを、リアリティ無く書くことで表現しているのかもしれない。

それを『アフターダーク』があえて伝えようとしているのなら、たぶん、だれも言わないからあえていうけれども、この小説はおもしろい。

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これは、脳味噌のトレーニングのようなもので、この戯言をキャンバスにして、長い移動の時などに、時々行っているものだ。

もっとも、その多くは没になってしまうのだが、今回は珍しく載せてみた。
それは気まぐれかもしれないけれど、わたしの中では、「リアリティのなさ」という言葉で『アフターダーク』は妙にひっかかっている。


まにあ・1号さまより。Thanks!

吉川です。

また、「得意のエモーションが出たな」と叱られるかもしれませんが・・・

2週間ほど前、車の運転中偶然、倒産した企業の前を通りがかりました。
ドアは木で打ち付けられ、管財人による張り紙が・・・。

人の活動の息吹が感じられない社屋は、まだそんなに時間が経っていないはずなのに、まるで廃墟の様です。見てはいけないものを見つけたような、重い気持ちでした。

そして、それから数日後、今度は別の会社が協会から消えた事を知りました。
そこで働いていた方々の再就職が困難を極めている事も、合わせて耳にしました。

桃知さんから以前、
「感傷的になってはいけない、腹を据えてそれを乗り越える冷静さを持たなければいけない」
と、諭されていましたし、冷静に受け止めるべく努めていました。

そんな時、竹中大臣が「不良債権を半減した!」とまるで英雄気取りの新聞記事を目にしたのです。何かが心の中で弾けました。

ふざけるな!

心の中の第一声がこれでした。

確かに表面上の不良債権の数字は減ったかも知れません。でも、それは半ば「貸しはがし」のように融資を絞り、建設業を含む多くの中小企業を窮地に陥れた代償のようなものでしょう。それで、誰が幸せになったというのでしょう?
満面の笑みで写真に納まっている竹中は誰を救ったというのでしょう?そして、私という「個」はそれに対して何ができたのでしょう?

社会に対して自分が何かをなしうる、与えうる「個」なんかではない。。そんな大それた事は思ってもいませんでした。ただ、本当に「何をしてもどうしようもない」と、ちっぽけな自分に愛想を尽かした振りをして自分で自分を誤魔化すしかありませんでした。

今日の戯言を見て、本当に頭を殴られたようなショックを受けました。

>しかし、その思考は、まったく意味がない。
>そして、わたしは諦めたわけじゃない。

まるで、自分あてに書かれたかとすら思えてしまうようなタイミングで、しかも
「諦めたわけじゃない」との文字。
「ときとしてアンタは情緒的に過ぎるきらいがある」と注意されてはいますが、
思わず本当に泣きそうになりました。

>そして、だれも言ってはくれないだろうから、あえて言うけれど、なにもしないでいて
>明るい未来がやってくるわけはない。

>動き出せ!えぶりばでぃ!

自分に何が出来るのか?自分の弱さや、小ささや、無力さを嘆く前に、そして、そこから言い訳して逃げてしまう前に、まずありのままの自分をそのまま認めて受け入れて、自分に出来る精一杯をかけて這いずり回ってみる。
これしかないですよね。

先日、桃知さんから「ノード、Hub、クラスタ」を教えられました。
自分に出来る事は、楔になる事。素晴らしいノードである企業さんや、協会さんをつなぐ、クラスタ同士をつなぐきっかけとなる。そんなHubには頑張ればなりうるかな?と。

自分が弱い事、小さい事、無力なことがダメなのではなく

「黙っていて何もしない事」

これがダメなんですよね。

ちょっとの自信と勇気を取り戻す事ができました。
明日からまた、元気で頑張ります。
はい、私から元気をとったら借金しか残りませんから!(笑

ありがとうございました。

以前にも書いたけれども、動き出せ!えぶりばでぃ!は、常に、わたしに向かって、わたしが言っている言葉である。

しかし、「公共工事という産業」の衰退とそれに伴う諸々の弊害は、わたし一人が単独で動いたところで、それを止めることはできやしない。

それは百も承知である。
わたしはそんな自惚れ者ではない。

しかし、ただ、ネットワークの可能性はある、と考えている。
80/20は、両刃の剣ではある。が、パレートの法則は確かに働く。

そして、複雑系があり、正のフィードバックもある。
骰子一擲。

しかし、これらを己の人生において機能させるのは、種の論理の実践しかないのだと考えている。

種の論理は、徹底した個の実践の哲学であり、それは、本音の議論である。
それにはやはり、個が動き出すしかない。

個が動き出すエネルギーを種が奪い取ってはならない。
そのような種は、環境への適応度を失うだけだろう。

しかし、既存に執着した種は、個の存在を無視する。
それらは、片務的に、種のやり方を個に押し付けているだけだろう。

そしてそのような種の中の個は、種に溶けていることで、適応度を失う。

ソフトランディング。建設からの帰農。林業へのシフト。
そこに本音(リアリティ)はあるのだろうか。

公共工事の従事されていた方々(個)は、ソフトランディングでどこへいくのだろうか。(経営者の話ではない)

農業で飯は食えるのか、林業で飯は食えるのか。(経営者の話ではない)

リアリティの無い議論は、種に溶けた個のクラスターの特徴なのだろう。

ということで、続きは明日にでも。

2004/10/01 (金)  
【だれも言ってはくれないだろう】

午前5時起床。外は真っ暗。

今これを書いている時点で、イチローは、大リーグの年間最多安打記録達成(257本)まで、あと1本に迫った。

凄いっていうことは、こういうことを言うのだろうね。

一方、ぜんぜん凄くもなんともないわたしは、上野駅、7時2分発のこまち(今日はこまち使用)で、盛岡へでかける。

さて、一昨日と昨日とは、突然ぽかりと空いてしまった日。
なので、事務処理をしながら、なかなか手が付かなかった依存リンクの整理をしていた。

リンクが切れているところも結構あって、安否が心配な方もおられる。
ん〜、どうしておらるのだろうか。

そんな中、掲載を失念していた関与先さんがあり、急ぎ追加なのである。
・永田建設(北海道北見市)
→ http://www.nagatakensetsu.co.jp/

永田さん、すいません。m(__)m
管理人の永田さんは毎日「管理人の日記」を書いておられる。
皆様も是非ご覧いただきたい。


さて、仙台での独演会は、10月26日には開催できそうな段取りにはなってきた。
この案内に触手が動いた方は、26日の予定は是非に空けておいていただきたい。

そして、できればだ、お友達にも、「良いとこ連れて行ってやるっちゃ」とか言ってたぶらかしておいていただきたい。

一方、大阪三人会も、ジオさんからはOKのメールをいただいていたので、たぶん来月(11月)には開催できそうな按配だ。

しかし、どちらも集客には全く自信はないのだ。

たぶん、どちらの地域も(宮城も大阪も)「公共工事という産業」はかなり疲弊しているはずで、いまさらIT化という気力も起きないだろうからだ。

しかし、言い訳するまでもなく、わたしのいうIT化は、確かに道具としてITを使うのだけれども、それは既存のIT化とは、全くといっていいほど意味するものが違う。

つまり、わたしのIT化とは「個と種の問題としての環境変化への適応度」のことである。

今、(全くIT化などに興味がない方に対して)それを簡単に説明する自信があるか、と聞かれれば、ないことはない、と答えるだろう。

ただし、それはF2Fに限られる、と付け加えなくてはならない。
現実的には、講演(芸の表現)という場が必要なのだ。

わたしの芸を簡単明瞭なテクストで書くことは、残念ながらわたし自身がその能力を持ち合わせてはいない。

「個と種の問題としての環境変化への適応度」とわたしが書いたところで、どれだけの方が、そこからIT化(とその内在している可能性)をイマジネーションできるだろうか。

それを説明するのに、わたしは何万という文字を並べなくてはならないだろう。
それを誰が時間を割いて読んでくれるというのだろうか。
この疲弊した環境の中で。

だから、わたしには講演という表現の場が必要なのだ、と考えている。
そのためにわたしは芸を磨いてきた。

場をつくることは、さほど難しいことじゃない。

ただ、その場に腹の据わった方々(もしくはその予備軍が)が、参集いただけないことには、今のわたしは、どうすることもできない。

→つりまり、最初は量より質なのだ。少人数から始まる。
→しかし、量から質への変化こそが、種の変化である。
→だからこそ量が必要である。
 そのためにわたしは正のフィードバックを使う。

「公共工事という産業」は、わたしなんぞよりも、さらにどうしようもないまま、ただ衰退の道を転がり落ちていく。

「どうしようもないまま」とは、「公共工事という産業」の今の状況の表現である。
多くの方々は、いまさらなにができるというのか、とのご意見だろう。

しかし、その思考は、まったく意味がない。

そして、わたしは諦めたわけじゃない。
多くの方々のご支援をいただきながら、なんとかちゃんと動いている。

わたしのクラスターには、素晴らしいIT化を体現されている個人、企業、協会がおられる。
その現実はある。だからこそ、今、「公共工事という産業」にはIT化が必要なのだと考えている。

それは、「公共工事という産業」は種でしかないく、その種の中で、個人、企業、協会は個として存在するからだ。

つまり、個は、種のミームの中で育ち、また種は、個の変化によるミームの変化を内包する。

そして、協会という個は、企業において種であり、企業という種は個(従業者)において種なのだ。

だから、動き出すのは、常に個でしかない。
種は、その変化を容認しながら自らを変革する。それが適応度に結びつく。

個によるその動きを容認するのは種でしかない。
つまり、経営者(マネージャー)がこれを理解できないのであれば、個は動き出せず、そして種は適応度を失い、衰退するだけだろう。

その種が個の変化を容認するというミームこそが、ダイナミズム、つまり、複雑系の中での適応度でしかない。
その持ち主は、経営者、貴方なのだ。

そして、だれも言ってはくれないだろうから、あえて言うけれど、なにもしないでいて明るい未来がやってくるわけはない。

動き出せ!えぶりばでぃ!

と今日も無責任に書いて、さあ、出発である。

momo
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