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店主戯言041201  2004/12/01 〜2004/12/10 "There goes talkin' MOMO"


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2004/12/10 (金)  
【悪党、一時気を失う】

午前6時50分起床。
浅草は曇りだ。

声がでない。(T_T)

昨日の昼頃、喘息の発作で瞬間的に気を失った。
感じとしては、柔道の絞め技で落とされた感じ。

薬を飲み、そのまま大事を取って横になったのだが、その時、また猫の夢をみた。

今度はコタツの中にいた。
(うちにコタツはないのに)

今度の猫は、なにか懐かしい猫だった。
わたしは、その猫の子供の頃からを知っているらしいのだが、しかし思い出せないでいた。

お客さんがおいでになり、
(このお客さんも正体不明)

猫は、玄関へ行くと、そのまま、どこかへ行ってしまった。
(この玄関もうちの玄関ではない)

お前は、なにものなのだ。


砂子組の近藤様より。
寒い北の台地での2連戦、お疲れ様でした。
師匠に触れた数時間で、
追い込み現場の対応(うまく行かない)などで溜まっていた“もの”が
少し吹っ切れました。

種と個の対立から生まれる個のエネルギー。
骰子一擲、自分の出来る所から自ら動いてみるしかないんですよね、結局は。

痛快だったのは、
「なんだかわからないもの」 1→2の間の“もの”についてでした。
その話の途中で不謹慎にも、中学校での数学の授業を思い出してしまいました。
 先生:点と線は面積を持たないんですよ。
 近藤:面積が無ければ見えないんじゃないの?
 先生:点と線は面積を持たないという事になってるの!
とにかくヒステリックな先生でした(笑)
(田舎だからそれで通用していたのか?)

次回のセミナーまでにはトポロジーについて、
もう少し理解できるように勉強致しますのでよろしく♪

それじゃ、そろそろ
『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』
を実践する為に帰ります。

皆さん、実践してますか? (パクリ)

>それじゃ、そろそろ
って、ことだけれども、このメールのタイムスタンプは14:01だったよ。

あんたは、日の高いうちから、『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』を実践しているのか? (笑)
それはそれで、凄い! と思うけれども。(笑)


札幌の独演会の三分の二は、直接、IT化には関係のないような話をしていた。
それも、ホワイト・ボードに下手糞な文字を書き並べてだ(今回の独演会は、ダウンロードできるPPTがないのはそのためだ)。

そのせいか、懇親会恒例の砂子さんの乾杯の挨拶は、
「IT化は飲むことだ。飲んで今日の話は忘れましょう」
だったわけで、その内容の滅茶苦茶さ加減が、窺い知れるだろう。

でも、全てを消し去ることは、できないんだよ、たぶん。(笑)

近藤さんの数学の話は、独演会で話していた「超実数」からのインスピレーションだよね。

実数の周りに無限小が飛び回っているもの。
それが超実数。見えるようで見えない無限小がまとわりついた実数だ。

そこから導かれる、贈与へのアナロジーとは、数値に置き換えられる商品の価値(交換価値)の周りを飛び回る、無限小としての、感動や、信頼や、愛情といった、人間が贈り物にこめた感情だ。

もちろん、それを伝えているのはミームってことになる。


うどん・☆人さま、より。
喘息は、侮れません。お気をつけくださいね。

「オニババ化するおんなたち」はとっても面白かったです。
性(ジェンダー)=生=性(男女関係)
なのかなぁ・・・。とか。
愛のPDCAサイクルなんだなぁ・・・。とか。
考えさせられる本でした。

オニババ化する女たち
女の身体という部分については、目からうろこでした。
自然なことに対して、当たり前という言葉の元に無意識に見ない振りをしていたことがたくさんあるような気がしました。
自然であるがゆえに自分の身体であって、それがコントロールできなかったのですね。
なんだか損をしていたような気がします。
身体=こころでもあるわけで。
しかし、着物時代の女性の技ったら…すごすぎ!
それが、伝えられなかったのは真面目に残念です。


しかも、異性が関わることによってより良い身体(体調?)やより良い精神状態がもたらされる。
『愛』なのですよね。
人のぬくもりなのですよね。
夫婦でなくても、親でも子供でも恋人でも。
誰かのぬくもりを感じられることが出来るって、素敵ですよね。
ベクトルが双方向でなければ伝わらないし。

もっ〜と、早くに出会いたかった本ですね。
そうすれば、いい女とまでは言いません。
もうちっとましなおばさんに成れてたかな?と思います。(笑)
夫にとっても、いい妻でいられたかもしれません。
子供たちにも、いい母親でいられたかな?なんて。(笑)

良い本を教えていただきました。
何度も読み返すシリーズに加わりました。
ありがとうございました。

寒さは本番です。
花粉も危険です。
お大事になさってくださいませ。

では、また。

>愛のPDCAサイクル
面白い!

でもそのPDCAサイクルが、負のフィードバックなら(マニュアル有りなら)、それは大きく育つ事はないだろう。
それは均衡を保つだけであり、安定した何かなのだろうが、たぶんそれは(他者への)愛ではない。

(他者への)愛は、無意識という、無限集合から生まれるものだからこそ、大きくなることもあるし、また小さくなってしまうこともある。
フィードバックなら「正」だ。

わたしが、「他者への愛」とわざわざ書くのは、これは親子の情愛とは違うものだと感じているからだ。

>着物時代の女性の技ったら…すごすぎ!
というのは、生理を意識でコントロールできたという話だろうか。
わたしはここを読んだとき、別のことを考えていた。
それを、伝えられないのは真面目に残念!(笑)


わたしは、IT化の真髄は、広くて薄い紐帯にある、と思う。
そのとき、そのネットワークに流れる、つまり、ミームが運ぶ、感動や、信頼といったものの原点を、『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』という職人の言葉に感じた。

それは、職人が作り出す製品(商品)にまとわりつく、無限小が生まれいづる魂の居場所なのだろうし、

それは、親子の情愛というようなものを越えた(キリスト教のいう「隣人愛」のようなものだろう)、仕事に打ち込むときの、我々の持つべき精神だろう。

その精神はどこから生まれるのだろうか。
我々の心に潜む悪党的なものからだろうか。
わたしは、悪党的なものを含めた無意識から生まれる倫理だと考えている。

それを無意識の持つ純粋性に求めているのが中沢新一氏なのだし、彼のいうことが正しければ(正しいのかどうかはわからない)、私たちは、無意識の抑圧から生じる欲望を否定する必要もない。
それが種を基底にしながら、種を否定しようとする、個のエネルギーだろうから。

例えば嫉妬は、この文脈で、個のエネルギーになりえる。
ただ、焼きすぎた嫉妬は、無意味どころか、個人を破綻させるように、わたしは、倫理をもって、それ(無意識)を飼いならしたい。

そして、倫理は、ミームとしての道徳(他者から押し付けられるもの)ではなく、わたしの無意識から沸きいずるものだろう。

無意識を飼いならす。
わたしの内なる悪党的なものを飼いならす。
それは、わたしが悪党的なものであることの自覚からしか始まらない。

ということで、今日は講演。
茨城県は堺町までいってくる。

2004/12/09 (木)  
【悪党、具合悪し】

昨日、帰宅後少々体調が良かったのでゴジラを観てきた。



思っていたよりも、面白い。
良い意味で期待を裏切られた。

ゴジラは、ドリフターズと一緒で、物質的なものの破壊のカタルシスにこそその醍醐味がある。
ただ、理由も無く、物質的なものを壊すのだ。
ゴジラは絶対の破壊の神なのである。

それは、円谷英二が意識したように、第二次大戦の時の空襲のメタファーであるのだろう。

ゴジラが誕生した当時、それは圧倒的な数の力のB29 であったろうが、戦争を知らない子供たちであるわたしには、それはB29 ではなく、ドリフターズなのだ。

ゴジラ最後の作品ということで、ゴジラであらざるゴジラ、つまりUSゴジラを秒殺し、ただのマグロを食べるイグアナに戻してくれた。

そして絶対的な破壊の神は、いつでもわたしの中に蘇るのだ。
それはリアルな映像としての戦争である。


まにあ・1号さまより。
珍しく一日に二度目の更新で「おおっ!」と思いながらアクセスしてみると!
JALのCAにちょっとおだてられたくらいで、すっかり舞い上がるとは我らが「悪党の親玉」もずいぶん情けないではないですか!
何が「来年はワイルドだ!」ですかぁ!?口ほどにも無い、わはは!

しかし、かく申す私もJALのCAの制服には一も二もなく「秒殺」ですので決して大きなことは言えないのでありました。まさに、恐るべし、制服の魔力ですよね。「CAメロメロ同盟」結成いたします。

そんな情けない「悪党」を懲らしめるために、18日は浅草に行く事にさせて頂きましてございます。死ぬほどたまった「マイル」(私はJAL57回でございました)+東横インという「黄金の組み合わせ」で参ります。

取り急ぎ、よろしくお願いいたします。

CAメロメロ同盟1号 より。

やかましいわい !(笑)

でも、たしかに、ずばり、はっきりと、JALはいい。
ただ問題は、最近、ちょっと、いやはっきりと、年齢上がってますよね、と。
その上、チーフは男が多い。
ANAに戻すぞ!と。

こう書いていると、元気なようだが、実はかなり具合が悪く、今日は完全に休養日にしている。

明日は、講演があるのだ。


さて、昨日の「悪党」だけれども、それは、「自然に素手で取り組みながら、けっして自然的とはいえないやりかたで、かくれた本質を顕在化させる」職人的技術集団のことである。

そしてこれらの方々は、かつては天皇・神仏に直属していた(後醍醐天皇)。
やがて江戸時代にかけて(略)その記憶は、『鋳物師、木地屋、薬売などの商工民、当道等々の芸能民の心中に強く刻印されており、伝説化した天皇や神仏と、その職能、出自との関わりを物語る、説教節などの芸能の作品をはじめ、さまざまな由緒書、縁起、偽文書として、こうした人々の世界に行きつづけ、社会に無視し難い影響を与えていった。』(網野善彦,異形の王権,p241)

異形の王権異形の王権 平凡社ライブラリー

細野善彦(著)

1993年6月30日
平凡社

999円(税込)





悪党的思考悪党的思考 平凡社ライブラリー

中沢新一(著)

1994年
平凡社

999円(税込)




悪党的なものを世にあらわにしたのは、後醍醐天皇であろう。
彼は、その力を、自ら実現しようとした新たな天皇制の確立のために、わしづかみにしようとした。

細野善彦の異形の王権は、それを見事に指摘し、中沢新一の悪党的思考は、そのオマージュとして書かれ、それは、対称性人類学へと続く、新たな思考方法を生み出す、基となっているように思う。

このような見方に立てば、開発主義とは、時の権力による「悪党的なもの」の掌握の手段であったのではないのか、と思える。

そしてそれは、意識的なものではないかもしれないけれども、悪党的なものが生来持ちえている、資本主義的なものと矛盾しなかったことによって成功した。

けれど、近代の論理によってロンダリングされたと思われていた「悪党的なもの」は、まだ亡霊のように、この大地を彷徨う。

それが、開発主義の終焉の難しさなのではないか。

これに対して、終焉の道は、さらなる近代的なものを、より密画的に、より科学的に、より非対称性の知識として導入しようとする。

しかし、その抑圧は、思い出せない記憶としての、我々の無意識に残る「悪党的なもの」を、ただ路頭に迷わせているだけではないのだろうか。

それはまるで、首を切られた、シシ神のようにだ。
ここに破壊の神はいない。

2004/12/08 (水)  
【悪党、浅草に戻る】

今日はタクシーを使わず浅草に戻る。
上野駅前の丸井の温度計は、なんと20℃。

喉が痛い。

帰りのJAL便、
アテンダントさんに、ステキなブローチですね、と言われ、年甲斐もなく、顔が熱くなる。

今回の札幌ツアーは、お気に入りのカエルと一緒だった。
カエルのブローチ

帰りのJAL便、
A木さまからいただいた、(↓)を読む。

建設帰農のすすめ建設帰農のすすめ

米田雅子(著)

2004年11月25日
中央公論新社

1890円




農業に感心のある方は、読んでみれば良いだろう。
こういゆ生き方もある、ということだ。

ただ、「建設帰農」という言葉には、違和感がある。
本当に「帰農」なのだろうか。
我々は農業からやってきたのだろうか。

確かに、多くの建設従業者は、農家出身者が多いだろう。
開発主義の文脈からもそう説明されてきた。

しかし、ホントにそうなのだろうか、という疑問が、ある。
それは12月5日の戯言で書いた、網野善彦氏の指摘が発端だ。

「明治初期、就業人口の85%を占めていた百姓ではあるが、この中で、田畠を耕している農民は、意外と少なかった。」

そして、ここでの疑問はこうだ。
建設業の経営者と言った場合、彼ら若しくは彼らの先祖は、農業を営むものだったのだろうか。

わたしは違うと思う。

それじゃ、彼らは何者だったのだろうか。
何者の末裔なのだろうか。

わたしの今の答えは「悪党」である。
これは、昨日の独演会でも触れた。

この「悪党」という言葉は、大いに誤解を招きやすい言葉なので、詳しくは明日にでも書くとするが、ヒントは、ハイデッガーの技術論にある。

つまりハイデッガーのいう技術とは、自然の自然的プロセスが決して露わにしないような本質を、『自然に素手で取り組みながら、けっして自然的とはいえないやりかたで、かくれた本質を顕在化させる。これは職人があつかう自然の素材が木であろうと金属であろうと、液体であろうと、土であろうと、変わらない』(中沢新一)なのだが、これは建設の技術にそのままあてはまるだろう。

そしてこれは、農業がその基底に持つ技術とは全く異質なものだ。
農業の技術とは、出で−来たらずものを露わにあばくのでなく、自然に出ものを、繊細な世話によって収穫することを基本にしている。

自然の自然的プロセスと自然としての人間の関係の技術であり、それは贈与と純粋贈与のまじわりに生まれる純生産であり、「女の悦楽」(他者の悦楽)であり、大地に対する、繊細な世話によって自然が恵む富を収穫するものである。

重農主義者の主張をみればよい

建設業と農業の、この技術的基底の違いに注目すると、開発主義さえ別の文脈で読めるのだが、それは明日ココロダ。



【かなり不調・・・かも?】

午前7時10分起床。
札幌は良い天気。

例によって二日酔で頭が重い。
この件に関しては、学習能力はゼロに近い。
だからと言って、自分を責めることもない。
でも、今日は飲まない。

朝鮮人参茶はない。
昨日、飲みつくしてしまった。
サプリメントはしっかりととる。
ポカリスエットを飲む。

喘息は、薬が戻ってきて小休止中のように思えたが、朝はちょっと辛い。
やはり咳がとまらない。

今日は11時のJAL便で帰る。
9時には、まにあ・1号さまが迎えに来てくれる予定だ。

昨日のランチ。モンテマーレ。
トラットリアトレンタにて。



昨日の独演会で話したこと。
画像は、言葉を補い、言葉は画像を補う。

この件については、また後程。

では、帰り支度。

2004/12/07 (火)  
【ちょっと不調】

札幌で目覚める。
午前7時30分。

例によって二日酔で頭が重い。
この件に関しては、学習能力はゼロに近い。
だからと言って、自分を責めることもない。
今日も飲む。

朝鮮人参茶を飲む。
それから、サプリメントをとる。

普段は朝食を欠かすことはないのだけれども、出先ではつい億劫になってしまう。
今朝も朝食のために出かける気力は今のところない。

着替えは最小限しかもってきていないので、朝一番の仕事はランドリーサービスへの依頼。

黒服のお部屋係がやてってきて、わたしの下着とYシャツをうやうやしく預かってくれる。
わたしのパンツが大切に運ばれていく。
なんか、へんな感じ。

昨晩から喘息気味。
咳がとまらない。

薬を飲もうとしたら、昨日のセミナー会場に忘れてきたしまったようで、バックの中にはない。

あるのは風邪薬と解熱鎮痛薬。
ん〜。

2004/12/06 (月)  
【共生・バイロジック】

午前6時30分起床。
浅草は晴天。

昨日は、あんまり暖かいので、新しいスニーカーをおろして(アディダス・スパースター、snakeだよ)、半袖のポロシャツとジーンズ姿で街を歩いていたら、夕方は流石に寒くて、風邪気味になってしまった。(アホか ! )

やはり、12月なのだ。
異常気象だからって油断してはならない。
年寄りは特にだ。

それで、夜は朝鮮人参茶を沢山飲んだ。
おかげで、脳味噌が冴えわたってしまったので、お蔵入りしていた本をひっぱり出してみた。

共生の思想共生の思想―自他の衝突と協調

藤原鎭男(著)

2000年2月20日

丸善ライブラリー
819円(税込)




この本は、3年ほど前に購入したまま、読めずにお蔵入りしていたものだ。
読めずに、というのは、ずばり読みきれる素養がなかったからで、時間がなかったとか、気力が起きなかったというのではなく、素朴な意味で、太刀打ちできなかったのだ。トンデモ本じゃないのか、とさえ思った。

それで、今回のチャレンジはどうか、といえば、読めるような気がする、なのである(じつはまだ全部読みきっていない)。

でも、最初に見たグラフが(↓)なのだもの、わたしの脳味噌は狂喜しているのだ。(笑)


これは原子番号と元素の存在量との関係だけれども、そう、元素の存在量は原子番号に対して見事な指数関係を示している。

まあ、これは良いとしても、次に出てきた(↓)は、連歌の語彙と出現頻度とその順位の関係グラフである。


ここで、わたしの脳味噌はある程度つながってしまった。
藤原鎭男氏がいう「共生」とは、自と他の共生である(それさえ、かつては理解できなかった)が、それが、わたしが考察し続けてきている、非対称性と対象性の共生、密画と略画の共生、科学的なものと神話的なものとの共生、都市と地域の共生と同じものであることがわかる。

そしてこのグラフの中にさえ、共生の論理(バイロジック)があると、藤原鎭男氏は言うのだけれどもね(それはそれでスゲー論理なんだ)。

つまり、元素も連歌の語彙も同じような指数関係(ベキ法則)を示す。
それはどちらも自然だからだ。

しかし、これは見方によっては同じようだが違うとろろもある、と言う。

連歌の場合、頻出頻度の高い語は、単体で包括的(他)であり、<膨らみを持つ>(いろいろな語と相関を持ちやすい)つまり、HUBとしての機能が高いってことだね。(ここからの推論だけれども、どうやら人間の作為がからむと、このHUB機能が働くように思う)

一方、末尾の語は、多種で一つ一つが個性的である。
その語彙でなくては表現し得ない概念を表現する機能を果たしている。

そう、頻出頻度の高い<膨らみを持つ>語だけでは、連歌は成立できないのだ。
自と他の共生で自然は成立する。

一方、現実社会は、自(自己)の横暴、他(社会)の横行がそのバランスを崩す。

自が横暴すれば権力者になる。その時自制があれば権威となる。社会の膳となる。
他にしても同じことだろう。

ではなぜ、自の横暴は生まれるのか。
規格化(それはとても大切だけれども)が行き過ぎたとき、自の個別性は圧迫され、抑圧され、それで「自」は暴発し、自制を失う。(つまり、ラカンのいう現実界の欲動だね)

ということで、今の理解はここまで。
共生=バイロジック、ようやく読めるようになってきた。


さて、今日は空知建協葉月会での勉強会。
明日は、札幌独演会と、連続で札幌でのセミナーの予定。

北海道の冬は、ロマンチックでもなんでもない。
寒いのだ。それは実際に行ってみないとわからない。

東京と札幌じゃ気温差は10度以上あるだろう。
この気温差は結構辛くて、この時期の体調管理は、ホントに大変だ。

まあそれよりも、問題は、今日のフライトなわけで、飛ぶのか?
北海道は大荒のようだし。

まあ、とにかく羽田へ行ってみる。

2004/12/05 (日)  
【くもった目、若しくは網目が粗すぎ、それとも粗大知性】

6時45分起床。
浅草は台風のような雨混じりの強い南風。
今朝は20度を既に越えている。

昨晩は「うどんすきの杉」で過ごしていた。
ここは、わたしの浅草における故郷のようなものだ。
父も母もいるし、ばあちゃんまでいる。

口の悪い客が、老人ホームに慰安にきているようなものだな、と言っていたけれども、あながち間違いでもないだろう。

杉に棲んでいる河童
何時もスイカを食べている
これが杉のうどんすき(火にかけたばかり)

昨晩は、雨も降っているし、土曜日だし、どうせママ(母)は、御茶をひいているに違いない、ちょっと元気付に、と思って出かけたのだけれども、さにあらず。

お店は、お客さんで一杯だった。
当然、家族のような客は、忙しい時には静にしているのがルールなので、行儀良くしていたら、客もひき始めたころ、芋焼酎の利酒で遊んでくれた。

左→森伊蔵
右→魔王
(って、この画像でわかるわけも無い)

(素直に書くと)魔王の方がわたしには美味しく感じた。

家人に言わせると、森伊蔵は理科室の臭いがする、とのこと。

まあ、あながち違ってもいないだろう。

昨日の昼下がり、久しぶりに、もののけ姫を観た。
まあ、今のわたしが観ると、どう感じるのかを試したい衝動にかられたから、とでも言えばよいだろうか。

もののけ姫もののけ姫

4935円(税込)









観終えて思った。
これは、宮崎駿の「野生の思考」なんだろうね、って。

基底に流れるのは「野生の思考」であり、流動性の論理である。
時代背景は日本の中世。

網野善彦氏や中沢新一氏が指摘するように、今という時代まで、面々と続く、日本人のメンタリティのようなものが形成されるきっかけとなった時代だろう。

その時代には、確かにシシ神は存在し、木霊が森に溢れていたことだろう。

小技の様に、細やかな配置もある。
極めて縄文色の強い東の国、西の国のたたら場、ハンセン病、武士、自然の神々、等。

それら一つ一つをとりあげることで、また違った見解で、この映画を語ることは可能だろう。

けれど、この映画を読むには、「野生の思考」の理解を必要とするのは間違いない。

「野生の思考」は、ご存知のようにレヴィ=ストロースの代表作の日本名である。

原題は、 「LA PENSEE SAUVAGE」で、これは二重の意味を持つ言葉だ。
      = パンセ ソバ−ジュ
      = 野生の三色スミレ = 野生のパンジ− = 野生の思考なのである。

「野生の思考」がなぜに、「野生の三色スミレ」なのかは、今まで、わたしがこの戯言で散々使っていたトポロジー、ボロメオの結び目をご覧いただければわかるかとは思う。

そして、レヴィ=ストロースは構造主義哲学の巨人であることを知っていないと理解不能かも知れない。

「野生の思考」は、きめこまやかな網目のような目を必要とする。
これがバイロジックの、科学の(つまり、非対称性の論理の)対極にある、対象性の論理なのだね。

仏教の言葉で言えば「微細知性」
わたしの言葉で言えば「マリアビリティ」(微細知性と並べると陳腐だね)

ここで次の話題に進む前にひとつ質問である。

貴方の目は?


最近、網野善彦氏の著作を読むことが多くて、彼の中世(もののけ姫の時代背景だね)研究にはとても興味を持っている。

わたしが民俗学に興味を持っているのは、種としての日本人観を少しでも把握しておきたいからで、それは思い出せない記憶の中に、確実に生命を持っていき続けている、と思うからだ。

そして日本人観というのはひとつでいいのか、それとも複数あっていいのか、とうのも、日本中を旅しているわたしの素朴な疑問なのだ。

忘れられた日本人を読む『忘れられた日本人』を読む

網野善彦(著)

2003年12月16日
岩波セミナーブックス

2625円(税込)




そんな網野氏のこの本は、なんと宮本常一の忘れられた日本人を基に、網野流に宮本民俗学を読んでいこうとしたものだ。

忘れられた日本人忘れられた日本人

宮本常一(著)
網野善彦(解説)

1984年5月16日

岩波文庫
693円(税込)



この中には、とても気になる記述があって、それは百姓=農民という考え方は違っているという指摘だ。

つまり、百姓というと、田畠を耕す農耕民のようなイメージが強いし、素朴にそういうイメージで農業社会というものを捉えていた。



例えば、上の図は、今年度の法政大学エクステンションカレッジで使用した、産業別就業人口割合なのだが、このグラフから、わたしは、明治初期は、第一次産業が85%を占め、日本人は農耕民族だった、という話をしたのだけれども(そこから開発主義の基底にある百姓のエトスの理解へ続くのだが)、網野氏に言わせれば、この認識は誤りなのだ。

網野氏によれば、田畠を耕す農耕民は、この60%程度だったろう、というのだ。
百姓とは身分呼称であり、職業呼称ではない、とのことで、百姓には、農民だけではなく、林業や、業業や、その他諸々の職業が含まれている。それは第一次産業と名前を変えても同じことだろう。

まあ、わたしの興味からすれば、その他諸々の職業っていうのが実は本質的問題なのだけれども、それは置いておいて、そうすると、わたしたちの日本人観である、農耕民族という認識は、ちょっと改めてみる必要があるのかもしれない、って思うのだ。

そして、農耕民族のエトスだけではないナニモノかが働くことで、日本の開発主義は完成をみたのではないか、と考えてみたいのだ。

そのナニモノかは、その他諸々の職業の理解に繋がるのだね。
今日の戯言で言えば、もののけ姫にでてきた、たたら衆だ。

それにしても、データを読むのは難しいものだ。
トリックではないのだろうけれども、妙な思い込みがあると、データはその思い込みに沿ってしか読めなくなる。

まあ、会社が赤字だっていうのは、どう考えてもその通りだろうが(笑)、「社会的な調査」と言われるようなものを読むときには、気をつけなくてはいけない。

科学的というのは、要は数学的に証明できる、ってことだけれども、それさえもね、網野氏がやってきたような、本当に地道な調査を基にしないと、ちゃんと見えないのかも知れない。

その見えるということが、養老猛司氏が言っている「現実の重み」を知っている、と言うことなのかもしれないなぁ。

稀代のフィールドワーカーであった宮本常一氏や、まさに地を這うように、研究を続けてこられた網野氏だからこそ、見える目を持つことができたのだろうな、と思う今日この頃、そこにはやはり、こころの自由のようなものが必要なのだろうね、と思うのだ。

2004/12/04 (土)  
【MVとしてのわたし】

午前7時50分起床。
浅草は晴れ。でも雨になるのだそうだ。

猫の夢をみた。
白い猫だった。

一緒にご飯を食べにいった。
メニューを見ていると、わたしの膝の上のいた猫は、勝手にどこかへいってしまった。

暫くして戻ってきたので、名前を呼ぼうとしたのだけれども、名前がわからない。
そこで、目覚めてしまった。(笑)


さて、『「MV」というものの理解については明日のココロダ。』と書いたのだけど、わたしのこの部分についての理解は不完全であることを最初に告白してしまおう。

これから偉そうなことを書くけれども、まあ、まだまだ、身体で覚えた智恵にはなりきれていない。


さて、地を這うように考えることを続けていて、ふと不安になるのは、身体の制約(物理的な制約)や、無意識の制約というような、不自由な心の問題なんだ。

(ただ、それ以上に、その可能性の方を感じてはいるけれども−それこそが本題)

昨日も書いたように、わたしは、「ミームに寄生されたわたしの無意識としてのわたし」を「ミーム・ヴィークルとしてのわたし」 と呼んでいて、それは、狭義には「無意識」、ラカンのいう「現実界」(The Real)のことをさしている(左図)。


この「無意識」つまり「現実界」(The Real)についての理解は、はっきり言って、今のわたしの能力の及ぶところではないけれど、勝手に、右側のような図を書いていたりする。

これが正しいのかどうかはわからないし、まあ、結構いい加減なのも認める。

ただ、わたしがやたらこだわっている、『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』 という職人の言葉は、身体と、言葉と、無意識の「こころの三輪車」(ボロメオの結び目をこういった方がおられるが、確かに! である)が、バランスよく回転しているゆえのものだと考えれば、あながち違ってもいないだろう。

そういう夫婦愛(血縁じゃないのだよ、夫婦愛とは他者への愛なのだ)が、仕事への愛、生み出される商品の愛へと繋がることとなるのだろうし、そういう方たちの行う経済的な取引は、交換よりも贈与の原理を多くもつようになるだろう。

それは、ある意味、こころの自由がなせるものだと考えている。
ただ、ここでいう「自由」とは、近代西欧社会的な意味のそれではない。

こころはいつも不自由だ。

身体的に(物理的に)どうしようもないこともあるし、未練や嫉妬のように、自分の心のコントロールが不能になることもある。

この二つの不自由は基本的に異なるものだが、今回はそれについては触れない。ただ後者は、まさに無意識の存在をわたしたちが感じる瞬間だろう。

しかし、精神分析家が「無意識」と言う場合、神経症や統合失調症(分裂症)との関係で語る部分が多いので、わたしには後ろ向き過ぎて辛いのだ。

わたしはむしろ、「前向きなこころの方向性」(夢や希望と考えてもらってOK)の存在に注目している。

つまり、私たちの「前向きなこころの方向性」も、このボロメオの結び目から生まれてくるのだろうし、そういうものを生み出すのもまた、嫉妬や未練を生み出すと同様に、無意識の機能がないと無理なのだろう。

つまり、身体と言葉を生かすには、無意識の機能は不可欠なのだろうと思うし(その機能を智恵と呼びたい)、抑圧された無意識からは、前向きなものも生まれないだろう。

そうは言っても、それが難しいから、こころは不自由なのだ。
(だから未練や嫉妬も生まれるけれど)

それを飼いならすことや、それをうまく生かすことができるのであれば、私たちはまた、前向きなこころの方向性を持つことが出来るのだろうと思う。

だからそれには、無意識が自由に動けるようなロジックを持つことが不可欠なのだと思う。
だから、バイロジックなのだ。

無意識は、意識とは違って言葉(徹底した差異)や形而上学(非対称性の科学)では動いていないのだ。
そこにあるのは、流動的知性であり、それは対象性無意識なのである。(中沢新一)

対象性人類学 対称性人類学―カイエ・ソバージュX

中沢新一(著)

2004年2月10日

講談社
1785円(税込)




近代を作り出した非対称性の哲学、つまり科学は、全てをばらばらにし、解体し差異をもって対象を理解しようとしてきた。

しかし、無意識は違う動きをするのだ。
無意識を持つホモサピエンスは、流動的知性を持ち、対象性(つまり「つながりたいわたし」)が棲みついている。

その無意識がようやく生き残っていたのは芸術の世界だった。
無意識が多次元であるように、芸術も多次元を表現しようとする。

だから、俗っぽい言い方をするならば(つまり視野を経済的な部分まで拡大するなら)、アイディアやインスピレーションは、科学や形而上学の世界からだけでは生まれない。

それは無意識との境界から生まれ出るものだろう。

信頼も同様のものなのだと考えている。

それを資本の理論に則して言えば、アイディア・スピード・実行力は、ファロスの悦楽なのであって、資本や資産になりえる。

まあ、それが私たちの本質的な幸福か? といえば違うだろうが(ファロスの悦楽だもの)、交換と贈与のハイブリッドな世界に生きているかぎり無視することもできないのも確かだ(行き過ぎれば「合理的な愚か者」−アマルティア・センの言葉−でしかないが)。

だから、今のわたしは、それを強調することもしないが、否定することもしない。
そんなことは百も承知だ、と言うだけだ。

合理的な愚か者合理的な愚か者

アマルティア・セン(著)
大庭健+川本隆史(訳)

1989年4月10日
勁草書房

3150円(税込)



だからこそ、科学的であると同時に、無意識の知性(流動性の知性・対象性の知性)をもっと大切にしなくてはならない、と考えている(それが河童が見えるという例え話の真意だ)。

『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』 という職人の言葉には、この全てが含まれていると思うのだ。

そしてわたしは、IT化において、(↓)と言うのだね。
詳しくは、既に、11月30日の戯言に書いたので、参照していただければ幸甚である。


以上、「MVとしてのわたし」でした。

2004/12/03 (金)  
【純粋贈与・愛】

7時起床。
浅草は晴天なり。

まずは、みるきいさまより。

 桃知さま

 東京、大阪と主人が大変お世話になりましてありがとうございました。
 さきほど無事に盛岡に帰って参りました。

 さて・・河童さんですが私はまだ残念ながらお会いした事がありません。
 私の育った岩手県盛岡市と本家のある沿岸の田野畑村は川はありますが、残念ながら「淵」があまりないのです。「河童の川流れ」という言葉があるように、河童さんも普通にすむには流れのあまりなく、人様にみつからない深さのある「淵」がないと住みにくいのでしょう。

 一度遠野の河童淵にいって河童にあったというおじいさんの話をお聞きしたかったのですが残念ながらお亡くなりになってしまいました(;_;)

 そのかわり家には子河童のミイラがあるので写真を添付します!!!!!!!!!!


 あ・・・すいません、これは私が繭でつくった河童でした(^^:先生の作った河童は普通の河童ですが、私のはせっかくだからとつまみにきゅうり、そばに日本酒のとっくりをもっております。

 それを見た娘がせっかくだからと木の台にすいせんの花で作った飲み屋さんの電灯とつまみをのせたテーブルを作ってくれました。ちなみに娘の作った河童は繭を細く裂いてあんだ蓑にわらじをはかせていて、「さすが親子」とほめられ??ました。

 河童はあったことはありませんが、座敷童子は見たことがあります。

 うちの本家は沿岸の庄屋から村長になった家系で子供の頃に毎年お盆につれていかれた家は堀があり、橋をわたると代官屋敷?みたいな門があり、そこから10メートルくらいしてやっと人が10人くらい並んでも余る玄関がありました。

 お盆の時には親戚一同が集まる上に近隣の人もくるので当時中学生だった私は2階の座敷(20畳くらいのがいくつも)の片隅に机をもらって勉強していました。

 そうすると坊主頭に着物をきた子が入ってきたので「親戚の子かな?」と思って「お名前は?」と聞いたのですがにこにこしたまま答えません。仕方がないのでたまたま本のしおりしていた佐藤さとるさんのコロボックルシリーズのカードを差し出したら嬉しそうに受け取ってさっていきました。

 後で聞いてみましたが坊主頭にましてや昔風の着物を着た子など誰もいず、もしかしたらあれが噂の座敷童子かなと思っています。でも、座敷童子をみた人はみんな出世する、といわれているのに、私はちっとも出世しないのでもしかしたら座敷「わらじ」くんだったかもしれません(^^:(^^:(後で聞いたら私の母とその兄の間に幼くしてなくなった男の子がいたそうで、当時生きていた祖母は「**が会いにきたのかも・・」と泣いていました)

 あ・・量子論は高校時代物理が赤点だったのでちっとも全くわかりません(;_;)
 漁師さんが網をはなっても確率的に一匹もかからないことがある、というくらいしか・・
                    みるきい

いつもありがとうございます。m(__)m

みるきいさんのメールにある「量子論」は、一昨日大阪でハリハリ鍋を食べながら話していたもので、この後に書く「贈与」を、中沢新一氏が数学的に説明するときに使っていた「超実数」(=普通の実数のまわりに「無限小」の星雲をくっつけている数)の、その「無限小の星雲」のイメージを論兪したものだ。

※無限小はどんな実数よりも小さな数だけれども、0(ゼロ)よりは大きな数。

つまり、交換は実数、贈与は超実数。

それは、贈与が、商品としての価値や、使用価値だけではない「なにか言い表しがたい+α」みたいなものを一緒に相手にわたしていることの表現だね。

※これは、かつて、ミーム論で言っていた「なんだかわからないけれども大切なもの」なんだ。わたしの思考はずっとつながっているわけで、それを端的に言えば、「なんだかわからないけれども大切なもの」をずっと探している、ってことだろう。

それは、信頼がなにものなのかの、一歩掘り下げた理解につながる。

では、純粋贈与について。

最初に書いておくけれども、わたしは純粋贈与を理解したく思うし、実践したく思うけれども、多分生きている限りできそうもない。

ラカンのボロメオの結び目 贈与・純粋贈与・交換のトポロジー

何を考えようとしているのか。
まずは前提理解。

「公共工事という産業」が置かれている状況(環境)のひとつは、交換の原理の徹底してきた今という社会が持っている価値観にその根源がある、というのは、わたしの創業以来の主張ではある。

それは、今回の話題から言えば、以下のような価値観である。

「交換の原理」(中沢新一氏による)
・商品はモノである(作った人や前所有者の人格や感情などは、含まれていない)
・等価交換が原則
・モノの価値は確定的であろうとつとめている。計測可能。

しかし、「公共工事という産業」の閉塞は、自らが、この「交換の原理」に忠実であることによって、益々強くなる、というパラドックスにある。

その矛盾に気が付くことで、わたしは、創業当時には、この交換の原理に沿った中小建設業のIT化を言っていたけれども、今は、それを強調することは無い、どころか否定してさえいる。

つまり、「公共工事という産業」は、自らが資本の理論に忠実であることによって、自らの首を絞めているように思えるのだ。

ここに、素朴な「資本の理論」や「交換の原理」から導きだされた企業ベースの経営の戦略を持ち込むだけでは、それは、「公共工事という産業」の持つべき戦略や問題解決方法にはなりえない。

一方、経済的交換を注意深く観察していくと(ミーム論や村上泰亮の仕事によると)、商品は、素朴な「交換の原理」だけではなく、「贈与の原理」の働く性質を含有している。
つまり、商品は、贈与と交換のハイブリッドとしての性格を持つ。

「贈与の原理」
・贈り物はモノではない。モノを媒介として人と人との間に人格的ななにかが移動している。
・相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなう。
・モノを媒介にして、不確定な決定不能な価値が働いている。
 →なんだかわからないけれども大切なものだ。

このハイブリッドな商品を、我々の経済活動に置くと、商品は、「交換の原理」と「贈与の原理」の占有比率によってその性格を変えることになる。

この理解から、「公共工事という産業」自体が、「交換の原理」に対して、より「贈与の原理」を多く持つ商品としての産業になるにはどうすべきなのかを考えているわけだ。

中間省略して結論を書けば、そのためには、贈与・純粋贈与・交換のトポロジーにおける、「純粋贈与」を大いに働かせる必要がある、ってことだ。


今は、ここから、IT化についての可能性(種の論理なのでね、当然に個の問題としてだね)を考えているのだが(下図)、この理解には、中沢新一氏に倣って、(↓)のような、ラカンのボロメオの結び目からのアナロジーを使っている。

ボロメオの結び目の理解は難しくて(ラカンは難解!)、自分なりの理解に務めているのだが、特に、純粋贈与と現実界の同値関係を、「ミームビークルとしてのわたし」(以下「MV」と記述)としたときの「価値の増殖」の可能性について考えていた。

それは「MV」と「HUB」、「MV」と「経済人」との間に起こる「価値の増殖」についてなのだけれども、「MV」の働きこそが、価値の増殖(それは「女の悦楽」と「ファロスの悦楽」)を生み出す。

そしてそれは、「経済人」と「HUB」の関係に起こる「商品」という価値の増殖に関係してくる。

それでは、「MV」と「HUB」の関係性において起こる価値の増殖=「女の悦楽」とはなにか、なのだ。

そのひとつの理解方法が、11月24日に書いた【女の悦楽】なのであって、そしてそこで引用した次の言葉は、この女の悦楽や純生産の理解には重要性だろう、ということだ。

『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』

皆さん、実践してますか?

ここで生まれてくる価値は、「見返り」としてのものではない。
純生産としての女の悦楽は、妊娠・出産につながるイメージや、かつての農業が持ちえていた、きめこまやかな自然の手入れによる大地の恵みのような価値観だろう。

しかし今という時代、これが「ファロスの悦楽」へとなってしまうことが多い。
それをわたしはこう比喩したことがある。

「コンドームをしたおちんちんの悦楽」

それは仕方の無いことかもしれない。
(理由の多くは経済的合理性だろうから)
だからこそ、そこに「愛情」とよべるようなものが、必要なのだ。

→ できれば純粋贈与へ近づきたい(でも死ぬ前に)

ということで、愛(改めて書くと照れくさいもんだね)が生まれる源泉(場)、「MV」というものの理解については明日のココロダ。

ひとつだけ先行して書いておかなくちゃいけないのは、ミーム・ヴィークルとしてのわたしとは、ミームに寄生されたわたしの無意識としてのわたしである。

2004/12/02 (木)  
【畳・エレベーター】

浅草に戻った。
浅草は晴天。

今日はANA便をわざと使い(最近は、JMBクリスタルへの最後の追い込みで、JAL便に偏重していたのだ)、できたばかりの羽田空港第二旅客ターミナルビルを一回り。

その後、やめろと言われているタクシーでの帰宅。
7760円。

家と羽田空港間は8000円平均として、年会80回の搭乗としてだ、単純に64万円はかかる。

これを帰りだけでも、電車・モノレールにすれば、PCの1台分は悠々捻出できるわけだものねぇ。



この(↑)写真は、昨晩ハリハリ鍋をたべた、江戸堀やまぐちのエレベーターである(エスカレーターではない)。

なにが凄いかって、畳がひいてあるわけで、思わず正座しそうになってしまった。
扉が開いて、この光景を目の当たりにしたときの、軽いトリップ感は気持ちがよかった。

ということで、お約束の純粋贈与については、明日のココロダ。



【寝坊した】

寝坊しました。
これから飛行機に乗りますので、後程。

2004/12/1 (水)  
【河童の見えるはなし】

珍しく、本日二発目の更新。
先に書いた「河童の見えるはなし」について、移動中ののぞみで書きはじめたら、それなりに書けてしまったので、名古屋駅に停車したときを狙ってアップしよう。


では、ある方へ送ったメールを、ほんの少し手直しして、「河童の見えるはなし」を始めよう。

------------------------------->8

昨晩、飲みながら、私は河童である、とは、どんなことなのか、ってはなしをしていていたのだけれどもね(まあ河童が見えるってことだ)。

私は昔、そんなのは全く駄目だった。
けれども、最近の私は、とてもこの手の話は好きなんだよ。

UFOに乗って金星にいった人とかね、クレオパトラの生まれ変わりだとかね。(笑)

まあ、紙一重なのだろうけれど、そう人たちのはなしは好きだし、最近はね、わたしもキチガイの仲間入りをしたのか、なんかわかってしまうような気がするだよね。

意識と無意識の間で、彼らは、思い出せない記憶のようなものを、見ているんだろうねって。
まあ、これらは極端な例だけれども、無意識(流動的知性)が強く働いているんだろう。

それは欲情、情愛さえも含有している無意識の次元だね。
札幌ではこの辺りの話もするのだけども、そういうものってヒトの本能なんだと思うんだ。

今という時代は、そもそも分離することと違うことを前提でものごとを考えるから(非対称性っていう)、私は河童じゃないのさ。

でも、私は河童だ、というひとは、もっと大きななにかで河童とつながっていることを感じているのだろうね(対象性っていう)。

幸福っていうものを考えているとね、なにかとの一体感というのは、とても大切なんだ、と思う。(この宇宙の中で、私は孤独ではない、というような感覚)

それは「おっぱいとおしっことうんこの記憶」なのだろうと思うし、わたしの居場所(本当のわたし−言葉を必要としないでつながりたいわたし)が求めているものなんだろうね。

でも、やっぱり、つながるためにはこうして言葉を使わなくちゃならない。
それを人間の去勢とラカンは呼んだのだろう。

>その欠けたところを補うために、いろんなパーツを集めてる。
>いろんな面で満足できるように。自分に正直に。

それはね、あなたの無意識にある、思い出せない記憶のパーツなんだよ、多分。
無意識はいつでも対象性を求めている。

自分さえ気づけない記憶は、リアル(現実の重み)の中に欠けている、なにかを求めているんだよね。

結局それは「おっぱいとおしっことうんこの記憶」が欲しがっているものになっちゃうところで、わたしはヘンだといわれているわけでね。(笑)

そしてそれを、ITとか経済に持ち込もうとしているわけで、そういうものを、世間一般では「馬鹿」と呼んでくれるんだね。(笑)

------------------------------->8

これがつまりは、「河童の見えるはなし」なんだけれども、わかる?

地域と生きる建設業
地域からの信頼を得よう

いいスローガンだけれども、それじゃ実際にはどうすんのよ?
なにから始めればいいのだろうね。

一昨日、ある会合の席で、岩井国土交通副大臣はこう言ったそうだよ。

「地域の風土を大切にしなさい」

それじゃ、地域の風土を大切にするにはどうするのさ。

簡単に言っちゃえばだ、地域の風土を理解できなければ、それを大切にすることはできないだろう。

地域には河童もいるし座敷わらしもいるんだよ。
銀河鉄道もあれば、注文の多い料理店もあるんだ。

そして生きている私たちの現実もある。

だからね、バイロジックなんだわ。

ということで、もうひとつのお題である「純粋贈与」については、明日のココロダ。



【11月25日の公開メールの続きのようなもの】

12月になっちまったぞい、と。

6時30分起床。
浅草はくもりだ。

まずは、一昨日,まにあ・1号さまと話していたのだけれども、12・07札幌独演会 『哲学のあるIT化』の申込、でだしが悪いそうなのだ。(T_T)/

多分、12・14熊本独演会&忘年会も少ないだろうな、と思うわけで、

泣くぞ!

なのである。

といっても暮れの忙しい時期だものね、無理も無いわ、とも思うし、でも、少ないのは寂しい。

最近、ムキムキマンをやめたボウズマンとのワンショット。(↓)


刈屋建設の上野です。

昨日は、桃知さん砂子さん中山さん吉川さんと社長という凄いメンバーで楽しかったです。
カッパの見える人になれるのかわかりませんが見える人達と色々な話していると見えてきそうな気になります。
それにオニババを読んで純粋贈与ももっと頑張らないといけないですね。
それではまた飲み会を楽しみにしています。

懇親会のボウズマンとの写真を添付しました。

上野さん、ありがとう。
カッパが見える話と、純粋贈与の話は明日にでも書こう。
結構笑えるはずだ。


さて、気分を変えて、11月25日の公開メールの続きのようなものから。
宮崎のトリ、うまそう。しかし、これにキュウリが付くと、およそ日本の食物には見えませんね。
どこかアジアの屋台で出てきそう・・その場合は氷の入ったビール。

25日の公開メールを読んで、全体がつかめた気がします。

ちょっと理解するのに時間がかかりましたけど。理由は、
 @カタカナ名詞が多くて、何を指しているのか掴みづらかった。
  「広くて薄い紐帯」と言われれば、とりあえず分かった気になって安心(笑)
 A構造とネットワークを混同して混乱した。
   図8はこんな感じの理解でいいのですよね。→添付ファイル

「種の論理」にしても「ネットワーク思考」にしても、それは他へも広く応用の効く一般解(論理)だから、解として見づらいですよね。

 大体考え込むと、種の問題に個としてつぶれずに「しゃーない。種を頼らず、自分でできることからやっていこうか」ってのも、開き直らないといけないわけだし・・・
 >はたしてこんなので皆さんは理解してくれるのだろうか。
 > (中略)
 >しかし、それらの考え方が、そもそも「公共工事という産業」の閉塞の原因
 >であると書いたところで、はたしてどこまで理解されるのだろうか。

添付ファイルの内容(わたしが適当に組み直した)。
組織構造 クラスター weak ties(ノードの弱い紐帯) 広くて薄い紐帯、ハイブリッド
構造内での各ノードの接続形態(ネットワーク) ランダム・ネットワーク スケールフリー・ネットワーク 描写できません・・・
例えば・・・ これまでの日本社会(公共事業という産業) アメリカ社会的?(うまい表現がない)
(種)→個
ノード(個)はクラスター(種)を基にしながらも
考えるIT化、自らをインターネットの中に 自らハブとして機能し、ネットワークを広げ
個→種 ノード(個)が変わることで、クラスター(種)が変わり
種→類 そのうちに類が変わる・・・かも・・・ん〜。
「種の論理」

「類」については、わたしもあんまり語らない。
「種の論理」には、権力としての国家っていうのが最初からないんだ。

これは意外と大切な理解だと思う。

田邉元が言っている「類」としての国家像では、今のアメリカや、そっちばかり見ている日本政府は、「種化した類」にしかなってない(このことは副社長も言っていたよ)。

類は種(テリトリー性)に存在する不平等を是正するために、個が作り出すものらしいから、最初に国家ありきじゃないんだ。

種→個→種→類のような感じ。
類→種→個じゃないんだ。

まあ、民主主義は、建前上はこの手段は持っているよね。
議会制民主主義だからね。

まあ、それが官僚制の理論が強い「類」の中で、どこまで通用するのかは、確かに不明。
天皇制でも機能していれば別だけれどもね(意味深だけども今回は触れない)。

官僚制の理論というのは、ちゃんと勉強しなくちゃいけないと思っている。
→それは、比較的大規模な企業でのIT化の難しさの秘密のような気がする。

それから、種と個は、じつは対立するものなんだよ。
個は常に種を否定していていいんだ。

それは個が生まれたときに必然的に持つことになる無意識と、種がミームを通して個を型にはめようとする意識(たとえば慣習とか、法律とか、まあ言葉が作用するそんなもの)の対立なのだろうね。

しかし、それが個のエネルギーだよ。
エネルギーは無意識と意識の相互作用から生まれている。

→ 情動

だから、『「しゃーない。種を頼らず、自分でできることからやっていこうか」ってのも、開き直らないといけないわけだし・・・』 でおおいに結構なわけだ。

開き直って、つまり、腹を据えて、自ら動いてみるしかない。
骰子一擲だね。

それから、『「種の論理」にしても「ネットワーク思考」にしても、それは他へも広く応用の効く一般解(論理)だから、解として見づらいですよね。』っていうのもよくわかる。

解るということは、言葉の差異性に基づくものだからね。
種の論理なんか「A=非A」がでてくるわけで、これじゃわかんないわけだ。

でもね、わかりやすく言うと、種の論理のぼわんとした輪郭のなさのよなものは、比喩の多さだからだね。

メタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)って知ってますか。
たとえば、赤=共産主義とか、四足=けものといった表現はメトニミーですね。

これって、そもそも「A=非A」なんです。
でも人間の脳は、そういう理解を可能にしているわけで(それは多分に無意識の仕業なんだね)、確かに、人間の脳は、コンピュータと同じ二項操作で動いているけれども、「A=非A」なんていうぜんぜん非論理的な理解までしてしまうようにできているんだね。

つまり、種の論理は、差異=非対称性の論理だけではなくて(当然にそれはある。形而上学だもの)、そこに、対象性の論理まで組み込んで、ものごとを考えてるってことを加えていることで、哲学を否定してしまう。
だから余計に解りにくいかもしれない。

つまり、個即種、種即個、であると同時に、種即非個であり、個即非種でもある。

それはクラインの壷やメビウスの帯のように、どこが始まりなのか終わりなのか、表なのか裏なのかもわからないような思考の体系なんだろうね。

それを対象性の論理とよんでいいのだと思う。

そしてそれは、脳にとってはあたりまえなことなのだと思う。

でも、私たちは科学(非対称性の論理)っていうものを妄信するように教育されてきたからね、「A=非A」なんていわれると、意識レベルでちょっとどぎまぎしてしまうんだ。

今、世の中で起きている様々なことが、この非対称性の論理だけで考えることに原因があるのじゃないか、と考えている人は沢山いるだろう。

けれども、そういうものが極端に反対側に走っちゃうと、新興宗教や、なにかの原理主義になっちゃうのだけれどもね、別に神様を持ち出さなくても、そいうものに走るのは、最近もあるよ。

ヨンさま。(笑)

なぜなんだろう。

現実はバイロジックなんだよ。

経済だって、そこであつかわれる商品は、今まで散々ミーム論で言ってきたように、第一種の情報と第二種の情報のハイブリッドだろうし、交換と贈与のハイブリッドなわけだし。

その傾きがどっちにいくかで、社会全体も傾いていく。

今、その傾きをつく出しているものはなんなんだろうね?
結局は、対象の理論にぽっかりとあいた空白のような気がするけれども。
それは無意識の空白と考えていいのかもしれない。

バイロジックという言葉は、中沢新一氏からの受け売り。
彼は、この複数論理が同時に働くような世界を肯定しながらも、それを深く考える必要があることを強調している。

それはそうだよね、深く考えることを忘れたら、へたすりりゃ拝金主義化、さもなければオカルト化だもの。

今、バイロジックは、非対称性の論理と対象性の論理のハイブリッドだけれども、それは深く掘り下げて考えないといけない。

だから、のんびりとだけれども、「公共工事という産業」の居場所である、バイロジックが働く場(地域だね)について考えているわけだ。(笑)

ついでに書いてしまえば、バイロジックだからこそ、交換の原理(資本の理論)を強要すればするほど、地域は壊れる。
なぜなら、地域は、むしろ対象性の論理(贈与の原理)の色濃い種だからだよ。

類はどうなんだろうね。(笑)


さて昨晩は、向井田さんと工藤さんがこられて一緒に一献。
って工藤さんは酒を飲まない方なので、わたしと向井田さんだけ飲んだ。

はなしの内容は、たぶん今、日本で一番うっとうしいものだろう。(笑)
今日は工藤さんと一緒におでかけ。

momo
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