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店主戯言041102 2004/11/16 〜2004/11/30 "There
goes talkin' MOMO"
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2004/11/30 (火) ▲ ▼
【無意識の知性へ】
6時起床。
浅草はくもり。わたしは二日酔。
まずは、昨日のサイボウズ・トークライブで使用したPPTをダウンロードのページに置きましたので、必要な方はお使いください。
さて、「IT化は飲むことだ」は、今や、砂子さんの言葉として、桃組ではすっかり定着し、実践が続いている。(笑)
これは、飲んで語るときに湧き上がる、インスピレーションのようなものを、わたしのIT化は必要としている、ということで、昨晩もそんなに遅くまでではなかったけれど、河豚屋と寿司屋で熱く語ってきたわけだ。
飲んで語るときに出てくる言葉は、無意識から湧き出てくるものが多い(というか意識の関与が少ない)。
それは、講演をしているときにも感じるのだが、いちいち言葉を選んで喋っていないのだね。
言葉というものは、意識的なものだけれども、そこには間違いなく無意識が作用している。
身体で覚えたものが作用している。
それは話し言葉においてより強く作用している。

しかし書くときには、それは逆転する。
意識が無意識を封じ込めようとしているように感じる。
反省の次元が働く。
その意識と無意識の関係を、わたしは上の図のように考えている。
意識とは、実用的意識の次元と反省的意識の次元とのフィードバック・ループである。
アイディアが湧き出てくるとき、インスピレーションがやってくるとき、それは無意識の次元が大きく働いている。
意識としての言葉に無意識が大きく作用しているとき、その言葉には魂が宿る。
信頼とか、感動とか、嫉妬とか、そんな感情も無意識の次元から湧き出てくる。
情欲、情愛、欲情。
コンピュータもITもツールでしかなく、そこに無意識(思い出すことのできない記憶)は宿らない。
と同様に、資本の理論(交換)は、無意識(思い出すことのできない記憶)を宿すことを許さない。
しかし、地域に根ざした建設業という仕事は、交換の原理だけで動いているものではない。
なぜなら地域は交換の原理(資本の理論)だけで生成されているものではないからだ。
そこには、さまざまな無意識(思い出すことのできない記憶)が宿っている。
ミームが運ぶ感動と信頼がコミュニティ・ソリューションの秘密である(金子郁容)のは確かだろう。
しかしそれは、交換の原理に形ばかりの贈与を組み込んだ、ボランティアやNPOやNGOが持ちえるものでもないだろう。
必要なものは無意識の知だ。
それは純粋贈与というようなものなのかもしれないし、「女の悦楽」のようなものかもしれない。
それは、その持ち主に、身体性をもって染み込んでいる。
人格。
そして言霊。
わたしが、「IT化は飲むことだ」で見つけよとしているのは、この、無意識の知なのだろう、という確信を持つようになった。
そしてそれはまた、言葉の世界へ表出することで、自らの思いを伝え、考えることをやめさせてはくれない。
つまり、言霊としての言葉は、意識と無意識のハイブリッドとしてある。
2004/11/29 (月) ▲ ▼
【今日は月曜日だ!!】
午前5時20分起床。
浅草は、まだ真っ暗。
土曜日には、今日は金曜日だ、と思い込んでいて、なんかメールの少ない日だなぁ、と心配していたり、曜日というか日付の感覚が一日ずれてしまっているようで、昨晩まで、今日はオフだとばかり思っていた。
しかし、それはとんでもない勘違いであって、気がつけば、今日はサイボウズユーザー会で講演の仕事があるじゃないか。
午前11時20分から50分間の講演なのねぇ、とあせったところで、どうしようもないので、本日は、裏お題である「サイボウズの美味しい食べ方」をきちんと務めさせていただこう。
わたしは芸人だもの。
まかせておいて、と自分に言い聞かせて。
さて、先にお知らせしているように、12月は札幌と熊本で独演会を準備している。
■12・07札幌独演会 『哲学のあるIT化』―ネットワークと信頼とビジネスと―
12月7日(火) 13:00〜 かでる27にて
■12・14熊本独演会&忘年会 『哲学のあるIT化』
12月14日(火) 13:30 〜 熊本市産業文化会館・6F
視聴覚研修室にて
「哲学のあるIT化」などといってみても、わたしのやっているIT化は、まだ言葉を喋り始めた子供のようなものだろう。
インターネット上にある情報なんて、人間の対象性の世界の、ほんの一部に過ぎないのだと思うし、情報がミームであるがゆえに、言葉で語りきれないもののもどかしさを感じているのも事実だ(言葉はわたしの外にある)。
しかしだ、私たちは、遠くはなれたあなたと、まだみぬあなたと、言葉をもってつながるしか方法をしらない。
そして、言葉を使って人とつながろうとするとき、さらには言葉を使って考えようとするとき、その一つ一つの言葉のもつマテリアル(質感)に、何かを託し、一喜一憂さえしている。
その質感とは、言葉では語りつくせない智恵なのか、茂木健一郎氏が脳と仮想で語っている「思い出すことのできない記憶」なのだろう。
それがたぶん「無意識」なのだ。
それは人間がコミュニケーションを始めたときから累積進化している「思い出すことのできない記憶」なのだろう。
『「私」「あなた」「誰」「腕」「味」「おいしい」「たのしい」「君」「愛している」「手を握る」……。』
『このような、ごくありふれた言葉の一つ一つが、実はピラミッドと同じ意味での歴史の痕跡である。』(茂木,p182)
脳と仮想
茂木健一郎(著)
2004年9月25日
新潮社
1575円(税込)
わたしは「科学的」であることを否定できない人だけれども、現実の重みは、科学的であることやロジカルな思考だけで生まれていないことも確かだ。
現実を直視することで、わたしは「嘆き」「悲しみ」「憤り」時には「喜ぶ」。
そこに「信頼」も生まれ、「嫉妬」も生まれる。
しかし、この腹の中から湧き出るような「なにか」はなんだろう。
わたしのこころの中には、二つのなにものかがいる。
ロジカルなものと、非ロジカルなものと。
しかし、やはり言葉でしか、それを考えることができないでいる。
まあ、こんなわたしのいう「哲学のあるIT化」なわけだ。
いつものように答えはない。
でも、なんだかわからないものを、なんだかわからないものとして理解していこうという思考の寛容さのようなものは持ち得たかもしれない。
興味のある方も、冷やかしの方も是非においでください。
そして、できるなら一緒に考え、動き出しましょう。
当然に懇親会もありマス。
さて、おぐたんから、久しぶりのメールをいただいた。
ああ、これはやばいよね。
豚は火を通さないと。
2004/11/28 (日) ▲ ▼
【寝不足】
8時に目覚める。
浅草はどぴかん。
昨日、茅野駅にある書店で、地元の信濃毎日新聞社から発刊されている縄文発見の旅を見つけたので、即購入。
帰りのあずさでずっと読んできた。
縄文発見の旅
信濃毎日新聞社編集局編
200年7月27日
信濃毎日新聞社
1470円((税込)
茅野駅の3番ホームには、黒曜石がドカンとおいてある。

黒曜石は、八ヶ岳山麓が産地で、縄文の民は、これで鏃やナイフのような刃物系の石器をつくったのだね。
茅野は、御柱祭という縄文のにおいのするお祭が残ってるし、縄文のビーナスもあるしね、根っ子は縄文なんだね。
今年の2月に亡くなられた網野善彦氏(中沢新一氏の叔父にあたる)によれば、日本人の親和特性のようなものは、農耕民族のそれというわけではなく、もっと以前の先住民が持っていたものなんだ、ってことだ。それは縄文人の、と考えていいんだろう。
まあ、こんなことを考えながら、宮本常一の忘れられた日本人 を久しぶりにひっぱり出して読み始めたら、眠れなくなってしまった。
忘れられた日本人
宮本常一(著)
網野善彦(解説)
1984年5月16日
岩波文庫
693円(税込)
なので、ついつい、庶民の発見までひっぱり出してきてしまう。
庶民の発見
宮本常一(著)
1987年11月10日
講談社
1050円(税込)
いまこうして読んでみると、以前読んだときとは確かに違う発見がある。
そしてなによりも、忘れられた日本人にでてくる、「文字をもつ伝承者」の持つ百姓のエトスというか、エネルギーの純粋さに心打たれるのだ。
2004/11/27 (土) ▲ ▼
【伊那から帰る】
午後1時25分、伊那から戻る。
今日の浅草は晴天。上野駅前の丸井の温度計は19℃を示していて、心なしかわたしの心も上天気。
12・24熊熊会の開催をお伝えするももこむ通信を発行し、これから少し仮眠を取る予定。
掲示し忘れていた写真。
宮崎に行くたびに食べている地鶏の炭火焼。
これと芋焼酎(20馬力)の組み合わせは、王道ってよべるものなんだろうね。
わたしもだいぶ慣れてきた、というかハマってきている。

これには、きゅうりが付いて来てね、たぶんそれは痛風対策なんだと思う。
かつて飯田で散々おたぐりを喰らっているころ、きゅうりは痛風対策にいいのだ、というような話を聞いたことを記憶している。
痛風でお悩みの方は、きゅうりを食べよう。
【注文の多い料理店】
伊那にて午前6時に目覚める。
伊那は晴天。山並みがきれいだ。
まずは、12・14熊本独演会&忘年会が決定!
12月14日(火) 13:30 〜 熊本市産業文化会館・6F
視聴覚研修室にて
講演の演題は 『哲学のあるIT化』を持ってこようと思う。
内容は少々面倒なのだけれども、ラカン精神分析のトポロジーと「小僧の神様」から、贈与−純粋贈与−交換のトポロジーを考察していく。
つまり、私たちの売っているもの、「商品」とはなにかを考えていく、ことによって、「考えるIT化」が、資本の理論の中で、何ができるのかを考察していこう。
まあ、それが贈与と交換のハイブリッドとしての商品を生み出すものだし、その商品がマリアビリティを持つ、つまり、環境変化への適応度を持つことで、「創造的破壊」と呼ばれるものなのだ、ということをね、楽しくお話できれば、と思うのだ。
ということで、桃熊会のHPも是非ご参照ください。
→ http://www.geocities.jp/momokumakai/
昨晩のこと、その店は、街灯もない住宅街にポツンとあらわれ、まるで「注文の多い料理店」(宮沢賢治)のようなものだった。

たぶん、それはどこにでもあるようなフィリピン・パブだったけれども、本当は狐か狸が化けているんじゃないのか、と思わせるような方々が、とても楽しい時間を作り出してくれていた。
まあ、狐でも狸でもいいや、と「平成狸合戦ぽんぽこ」よろしく、わたしはその空間と同化していたのだけれども、簡単に書けば、楽しかった、っていうことだね。(笑)
その後、行ったラーメン屋さんも、なにか「ポツン」という雰囲気があってね、わたしの伊那の印象は、「注文の多い料理店」と「平成狸合戦ぽんぽこ」のハイブリッドのようなものになってしまっている。
2004/11/26 (金) ▲ ▼
【Sense of Wonder】
午前6時起床。
浅草はくもり。
今日の浅草は三の酉、沢山の人出となるだろう。
さて、今、わたしがIT化について考えるときに、一番頼りにしているというか、勇気をいただいているのが中沢新一氏だ(これは岩井国臣国土交通副大臣も同じみたいだ)。
その出会いは、本当は「哲学の東北」を買おうとして、それが欠品だったため、代わりに買っちまったフィロソフィア・ヤポニカに始まる。
フィロソフィア・ヤポニカ
中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)
このフィロソフィア・ヤポニカは、わたしにとっては厄介極まりなく難解な代物であって、その為に、付け刃的に、恥ずかしながら、45歳を過ぎて、わたしは哲学というものと向き合わなくてはならなかったわけだ。
けれども、まあそんな経緯もあってか、「哲学のあるIT化」などという、まるで一般にイメージされるIT化とは縁遠い演題を持った講演ができたりしているのだから、インスピレーションからの骰子の一擲は面白い。
そして、なによりも驚かされる、驚くという感性を持てることは、その骰子振りを楽しくしている(またその逆もあるが)のも事実なのだろう、と思う。
そしてまた、少しだけ動き出す勇気が沸いてくる。
それが Sense of Wonder なのだろう。
Sense of Wonder という言葉は、(この言葉を最初に教えてくれた)R・ドーキンスに言わせれば科学する心なのだろうけれども、中沢新一に言わせればもっと大きな概念になっていて、流動的知性=対象性無意識まで広がっている。
それは幹や枝だけを見るのか、それともその樹木が根をおろしている土壌まで見るのかの違いのようなものだ。
哲学(形而上学)は、アリストテレスが日常的な思考運用から取り出してきた「非対称の論理」によって考えることが規則になっているので、論理的な矛盾を起こさないように考えて行く、というのが最低限のルールになっている。
けれども、流動的知性=対象性無意識まで広がっている中沢新一流のSense
of Wonder は、「対象性の論理」であり、形而上学が根をおろしている、自らを支えている「「無意識」という土壌の存在、つまり自分の根拠との対象性を大切にする。
だから、「わたしは鮭である」的な神話的構造から始まってもかまわないのだ。
それが、最近の脳科学やゲノム解析が明らかにしていることと矛盾していないところがままた面白いのである。
わたしが今まで時間を費やして学んできた、経済学や、生物学や、数学や、ミーム論や、ネットワーク論とも矛盾しないところが面白いのである。
つまり、彼の、「対象性の論理」は、今の科学哲学を越えてしまっているけれども、科学がまたそれを明らかにしているように思えるところが面白いのだ。
そして思うわけだ。
このバイロジカル的なものの見方が、Sense of
Wonder なのだろうね、と。
そして、それは目のことなのだろう、と思う。
それは、科学という、わりと目の粗い目と、対象性の論理という、さらにきめこまやかな目の二重構造である。
そして付け加えれば、それは私たちが言葉で語りつくした先にあるもののように思える(ただ、それは言葉で語る前から存在してはいる)。
愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュV
中沢新一(著)
2003年1月10日
講談社
1575円(税込)
対称性人類学―カイエ・ソバージュX
中沢新一(著)
2004年2月10日
講談社
1785円(税込)
上の2冊は、カイエ・ソバージュシリーズの中でも、より経済的な、という部分が色濃いわけで、わたしの交換・贈与関係の理解は、これらに多くよっている(これだけではないけれども)。
これらは、フィロソフィア・ヤポニカに比べれば格段に読みやすく(まあ、それはフィロソフィア・ヤポニカを意地になって読んだ成果かもしれないが)、まだ我われは考えることを諦めなくてもよいことを教えてくれている。
こんな思考の達人のような人がいて、その考え方をわたしは、IT化にメタファーのように使っているのだけれども、それはとても幸せなことだと思う。
劇場国家にっぽん
岩井国臣(著)
2004年7月22日
新公論社
1575円(税込)
昨日、宮崎から帰り、二日酔の後遺症でひと眠りしていたら、岩井副大臣の書いた劇場国家にっぽんが届いた。
比較的薄めの本だったので、さほど時間もかからずに読み終えた。
しかし、これでは、一般の読者に彼の主張を理解してもらうのは難しいだろうな、とも思った。
中沢新一を読んでいれば(少なくとも上記の3冊か)、まあ理解できないことはないだろうけれども、それは、表現としてはほめられたことではないように思う。
それは、今までのパラダイムとは、違った価値観で事象を見ていることなのであって、読むほうがそのメガネ(先に書いた目である)もっていないと、劇場国家にっぽんは、トンデモ本としか思われないのかもしれない。(まあ、それと同様の危うさは、わたしの表現にものあるということだろうが)
しかし、今の小泉内閣の希望の無さに比べれば、劇場国家にっぽんには、希望は見える。それは、贈与というものの理解が、政治家の基本姿勢であることを理解されているからだと思う。
後藤新平という岩手県が生んだ政治家がいた。
彼の言葉。(自治の三訣)
人のお世話にならぬよう
人のお世話をするように
そして酬いを求めぬよう
ということで、今日のわたしは伊那プリンスホテルで講演である。
2004/11/25 (木) ▲ ▼
【公開メールのようなもの】
宮崎にて午前8時30分に目覚める。
宮崎は晴。
こんばんは。
先日の戯言、読みました。岩井副大臣のページも見ました。
正直本当に驚きました。本が一致したのも、このポジションの人が絶賛していたことも。出身が土木ってのも、「なんかいいねえ、この人」と反応してしまった。(あ、うちの副社長か。ま、会うことないから、いいやな。)
さっそく
ハイブリッド思想の確立を〜田邊元の多様体哲学その2まで印刷して読んでみました、が、重要性さえわからない。
無理もないです。しばらく前から、フィロソフィア・ヤポニカは積読状態で僕の部屋で寝ています。「反古典」は読んでいて、すごくフィット感があったのだけど、こいつは・・・再チャレンジ・・・ふう。
この方は、「国交省のお役人様」→政治家なのだけれど、このような思想を持ち始めたのは、いつの時点だったのでしょうね。梶原知事とか、増田知事とかテレビで見かけると、この人は役人時代、どういうことを考えて仕事していたんだろう?といつも思ってしまうのです。 |
ははは・・・確かに、だね。
わたしの関心は、「今という時代」に如何に「公共工事という産業」は、その居場所を見つけられるのか、なのだし、その居場所をかたちづくる論理とはいかなるものだろうか、ということなのは理解いただいていると思う。
その居場所の確認は一応はできていて、それはインターネットの象限分析でいうと、上下ではなく、左右に見たときの右側で、それはとてもハイブリッドな時空なんだ。
それを先日脱稿した原稿ではこう表現している。
------------------------------->8
■左右にみる
では、インターネット社会の四つの象限分析を左右にみてみよう。左右にみるとは、グローバル軸で分けたときの左右の領域である。左側は低コミュニティ性を示し、右側は高コミュニティ性を示している。
既に明らかなように、この左右にみる方法では、我われの関心は右側(高コミュニティ性)にしかない。なぜなら、左側(低コミュニティ性)には、「公共工事という産業」の価値観の足場は最初からないからだ。第V象限にはテリトリー性は希薄であり、第W象限では“どぼん”なのである。
つまり、「公共工事という産業」が「今という時代」に、自らの存在の軸足を置くべき価値観は、左右で考えたときの右側の領域(高コミュニティ性)にあると考えた方がよいということだ。それはある意味当然である。自治体も、地域社会も、中小建設業も「種」の存在であり、テリトリー性から生まれ存在しているものだからだ。
さらにこの場合、右側の領域の第U象限だけが我われの居場所なのだと考える必要もないだろう。第T象限を含めて右側(コミュニティ志向)なのである。それは、大なり小なりグローバル化の影響は避けがたいのも「今という時代」の特徴であるということだ。(図-6)

図-6
つまり、「公共工事という産業」は、テリトリー性を基底としながらも、グローバルの空気が覆う「今という時代」を生きるしかない。だからこそ大事なことは、それを、テリトリー化とグローバル化のハイブリッドで理解することであって、第T象限と第U象限の二者択一のように考えてはならないということだ。
■ 広くて薄い紐帯
では、この右側(テリトリー化とグローバル化のハイブリッドとしてのコミュニティ志向)の領域をネットワークグラフ化するとどうなるのだろうか。それが「広くて薄い紐帯」である。(図-7)
この「広くて薄い紐帯」とは、社会学者M・グラノベッターのいう「弱い紐帯」(weak
ties)のことだ。グラノベッターは転職時における人間関係に注目し、転職をする際、強い紐帯(narrow
ties:いつも会う人・クラスター型のネットワーク図)よりも、弱い紐帯(まれにしかあわない人)から役に立つ就職情報を得ていること、人脈の活用が転職時に発生するノイズを除去し、信頼できる良い情報を安価で収集するための最も効率的な手段になっていると主張している(『転職』,M・グラノヴェター,1998年11月,ミネルヴァ書房)。
このグラノベッターの調査は米国においておこなわれたもので、発表当時、日本ではむしろ、強い紐帯の方が転職に有利であるという意見も多かったのだが、まあそれは、クラスター&ランダム・ネットワークが機能していたという意味では当然のことだろう。

図-7
しかし、玄田有史氏の調査によれば、今や日本でも弱い紐帯は幸せな転職の大きなファクターなのである(玄田有史,『仕事の中の曖昧な不安』,2001年12月,中央公論社)。
このことは、元々クラスター&ランダム・ネットワーク型であった日本社会に、スケールフリー・ネットワークが浸透してきていることを意味しているといえるだろう。
つまり、この「広くて薄い紐帯」の特徴は、クラスターを基底にしながらも、そのクラスターを越え、ノード(個)が自らをハブ的に機能させ、自らのネットワークを広げていくことにある。
ここでは、ノード(個)はクラスターを基にしながらも、自らのハブ的能力を問われることになるだろう(このハブ的能力のことを私は「適応度」−環境変化適応能力−だと考えている)。
このような関係性から「広くて薄い紐帯」とは、スケールフリー・ネットワークとランダム・ネットワークのハイブリッドとして捉えることもできよう。(図-8)
そしてそれは、インターネットの中にも現実に存在する関係性なのである(筆者の仕事の生い立ちはまさにそれである)。
インターネットは確かにベキ法則に支配されているかもしれないが、「広くて薄い紐帯」も確実にそこにあり、機能している。それが「公共工事という産業」のおこなうIT化の可能性の意味である。
ゆえに、インターネットの存在を強調するために「弱い紐帯」を、あえて私は「広くて薄い紐帯」と呼んでいる。我われは、「広くて薄い紐帯」を体感するためにも、まずは自らをインターネットの中に置くべきなのだ。

図-8
引用終了------------------------------->8
この後は23日に紹介した「考えるIT化」(信頼のIT化)へと続くのだけど、はたしてこんなので皆さんは理解してくれるのだろうか。
そんな面倒なことを考えなくても、ITはたかがITだろう、という意見も聞こえてきそうだし、黙ってお役所さまのいうことを聞いていればよいのだ、という意見も聞こえそうだし、「よーく考えよう!お金は大事だよ!」ということで、貨幣の増殖にこそ価値を求める方も多いのかもしれない(つまり協会活動の否定とスケールフリー・ネットワークへの盲目的従順)。
しかし、それらの考え方が、そもそも「公共工事という産業」の閉塞の原因である、と書いたところで、はたしてどこまで理解されるのだろうか。
「公共工事という産業」は、そもそもが「贈与の理論」(※2)を基底にして存在している産業なんだね。(配分の経済学−開発主義→村上泰亮だよ)
しかし私たちの社会は、今や、「交換の原理」(※1)が支配的なので、原則、価値の増殖は贈与や純生産ではおきないことになっているし、「公共工事という産業」自身がそう考え振舞うことで、(公共事業における)「贈与の理論」は益々希薄になっているのだし、それと同時に「公共工事という産業」は閉塞してきた。
しかしまた、貨幣の運用がうまい人がいて、それで儲ける人がいるからといって、社会全体の総価値は増える事はないのだし、重農主義者が主張したように貨幣そのものからは価値の増殖はおきないのだね。(中沢新一)
産業における価値の増殖は労働によって起こる(まあ、マルクスが指摘していたように色々と問題がないわけじゃないけれども→労働の疎外ってやつだ。だから今のわたしは職人的な労働の秘密を探ろうとしている)。
まあ、「公共工事という産業」に中にも、それを忘れている方が多いのじゃないだろうか、ってことだ。つまり「贈与」のもっている意味をだ。
だからこそ、「公共工事という産業」は閉塞しているのに、自治体CALS/ECは、まだ交換の原理だけで機能しようとしているわけだもの、なんの問題解決策にもなっていないばかりか、問題を益々ややこしくしてしまっている。
だから一昨日書いたように、今我々が、まずできることとして、「考える」というスパイスをIT化に振りかけるしかないのだろうな、と思う。
そして、これをどうしたら発注者が理解してくれるのだろう、などと考えるよりは、自らが「考えるIT化」を実践することで、発注者も含めた「公共工事という産業」(種)が変化していく、と考えた方がよい、というのが今のわたしの考え。
つまり、「種の論理」だね。
それからIT化に対する、もうひとつの誤解について書いておこう。
効率化と合理化のIT化を進めていくと、その先にやがて「考えるIT化」が立ち現れてくるように思われている方がいるけれども、そんなことはない。
それはたとえば、マルクス・レーニン主義が、近代以前の集団的贈与の価値観を、資本主義が荒野のごとく解体した跡に、社会主義が立ち現れる、と考えていたのに似ている。
資本の理論をコントロールすることは、そんな簡単なことでないことは、今という時代が証明してしまっているではないか。
資本の理論による(贈与の)価値観解体とコード化は際限なく続く。
それがスケールフリー・ネットワーク(インターネット象限を上下に見たときの上の部分)の特徴なのだよ。
だから「考えるIT化」は、最初から、「効率と合理化のIT化」と「考えるIT化」のハイブリッドとして存在していないと、全てがスケールフリー・ネットワーク側に押し流されるままとなるだろう。
そして「公共工事という産業」は、根底から存在を否定されてしまうわけだ。
それはなによりも贈与であるからだね。
ハイブリッドなものの見方を持つ事は、今という時代を見通せる唯一のメガネなのだと思う。
なぜなら、今という時代はハイブリッドに満ち溢れているからだね。
※1 交換の原理
・商品はものである(作った人や前所有者の人格や感情などは、含まれていない)
・等価交換が原則
・モノの価値は確定的であろうとつとめている。計測可能。
※2 贈与の原理
・贈り物はモノではない。モノを媒介として人と人との間に人格的ななにかが移動している。
・相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなう。
・モノを媒介にして、不確定な決定不能な価値が働いている。
2004/11/24 (水) ▲ ▼
【女の悦楽】
午前6時起床。
浅草はくもり。
まずは、11・19宮崎での講演で使用したPPTを掲示しましたのでご利用ください。
→
→BD041119s.zip -zip 2.71MB
このPPTは、11・17盛岡での講演で使用したPPTのもととなっているもので、3時間バージョンである(盛岡では1時間30分であった)。これにミーム論から信頼の構造へが加わると4時間バージョンになる。
オニババ化する女たち−女性の身体性を取り戻す−
三砂ちづる(著)
2004年9月20日
光文社
756円(税込)
この本には驚かされた。
Sense of Wonder である。
わたしは、価値の増殖(つまり「のれん」としての商品が<他者>に認められること)のことを考えるとき、(↓)のようなトポロジーを使っていることは前にも書いた。
さらには、商品が贈与と交換のハイブリッドだと理解していることも。
最近は、20日の戯言に書いたような、職人が生み出す商品の特徴を考えている時間が多いのだが、これはなかなか面倒なものなのだ。
なにしろそれらは、交換の原理を超越し贈与の原理を取り込み、そして商品として市場に舞い戻ってくる(商品に人格が宿ってしまう)ことで、交換の原理に基づいて生産された商品とはまた違った強烈な価値を生み出しているからだ。
これも20日に紹介した『食の墜落を救え』(小泉武夫
編)に紹介されている、食の(醗酵の)達人たちのことで気づいたのは、彼らは、ハイデッガーの技術論(技術は出で−来たらずものを露わにあばく)とは違う技術(陰の技術)をもって商品を生み出しているってことだ。
たとえば、醤油や味噌やみりん等の、そこで紹介されている商品は、スローフードと呼ばれているもので、無添加であり、手作りであり、長い醗酵の時間を経て商品化されたことで、強烈な存在価値を持つことに成功している。
いわばそれは職人的なものであることで、交換の原理の対極に位置する(そのため大量生産はできない)のだが、その職人的技術とは、ハイデッガーの技術論で捉えることはできない技術なのだ(いや、ハイデッガーの技術論があるからこそ捕まえることができるというべきか)。
つまり、『食の墜落を救え』に紹介されている商品と技術に共通していることは以下のようなことだ、と思う。
・これらの商品は、自然が自然の法則(醗酵である)によって、出で−来るものである。
・これらの商品を富としたとき、それらの富はなにか計量可能なものというよりも、パッセージ(過ぎ越すこと)を内包する、目にみえるものとみえないものの境界に現れるような、自然界と人間の相互作用による富とでもいえるものである。
このことをわたしは、ラカンの現実界−想像界−象徴界のトポロジーにおけるおける、女の悦楽(他者の悦楽)にあたるものだろう、と思っている。
女の悦楽を、わたしは工業化される以前の稲作のようなものだと理解してきた。
それは、出で−来たらずものを露わにあばくのではなく、稲の持つ自然の力を喚起するように、丁寧に手入れをすることである。(ある意味人工的な自然の自然さ)
そういう男女の関係である。
そういう自然に対する技術のあり方である。
しかしだ、ラカンのいうこの女の悦楽を、わたしは男であるが故に、本当に理解できているのかどうかは確信が無いのだ。
そこに、オニババ化する女たち−女性の身体性を取り戻す−なのである。
わたしが、最近のミーム論の説明で使っている「つながりたい私」という言葉がそこにはある(それだけでもラカン精神分析的であるのだが)。
そして驚くべき身体のリアリティ。
男女の関係の富。
わたしは、この本を読んで、『食の墜落を救え』にあったある職人の言葉を思い出した。
『夫婦は一緒の布団で寝なくてはだめだ』
(わたしはこの言葉にも「女の悦楽」と彼ら職人の陰の技術とでも呼ぶべきものの同一性を感じている)
この本は、女の悦楽について書かれた本だ、とわたしは言い切ってしまいたいし、この本を読んだ女性の意見を聞きたい衝動を抑えきれずにいる。
それは建設技術(「公共工事という産業」)において、自然に対する女の悦楽とでも呼ぶことのできる技術というのは可能なのだろうか、という命題につながるのだし、喧伝されている農業へのシフトとは何かを、その本質的な技術論のところで(ハイデッガー的な意味でである)問うことになるだろう、と考えているからだ。
ということで、今日のわたしは宮崎へ飛ぶ。
JAL1883便 東京羽田 9:05発 → 宮崎 10:50着である。
7時45分には自宅を出たい。
2004/11/23 (火) ▲ ▼
【やっと一本脱稿】
午前5時22分起床。
浅草はたぶん晴。でも暗くてよくわからない。
さて、ようやく寄稿原稿の一本が脱稿できた。
これは連載もので、建設物価調査会が発行している「建築コスト情報」という季刊誌に掲載されている。
しかし皆様のお目にかかる事は少ないかと思う。
なので、今までの連載分は当サイトで読めるようにしていこうと考えている(まとめるのは来月中旬以降になるだろうが)。
今回は連載の最終回だったので、〆をしなくてはならなかったのだけれども、こんな風にしてみた。
■考えるIT化
さてこの連載の最後にひとつだけ、「信頼のIT化」のコツを書いておこう。
それはとても簡単なことだ。
それは、今までの効率化と合理化の為のIT化に、「考える」というスパイスを一振りすることだけでいい。
IT化における情報である言葉(ミームである)が、コミュニケーション・ツールである限り、それは効率化と合理化を志向する。
しかし考えてみて欲しい(直ぐに気がつくはずだ)。
言葉はコミュニケーション・ツールとしての役割を越えて、人類の歴史上ずっと「考えるためのツール」であったということだ。

我われはIT化においても「考える」ことを放棄してはならない。
なぜなら「考える」ことだけが、私たちに幸福をもたらすものだからだ。
まあ、こんな按配である。
かなり臭い文章だと思われるかもしれないけれど、わたしの今の感性では、これは臭くもなんともない。
そして、わたしの考え方(特にミーム論と種の論理)をあまり理解できていない方は、この文だけでは誤解してしまうかもしれないな、とも思う。
それは、「効率と合理化」と「考える」ことが対立しているように思われてしまう、ということだ。
それが違うのである(正解の思い込み)。
考えるIT化とは、「効率と合理化」と「考える」ことのハイブリッドである。
このハイブリッドができる思考力こそが「哲学のあるIT化」の秘密なのだ。
そしてハイブリッドの思想こそが、事業者団体ベースのIT化を可能としている。
以下今回の原稿から抜粋である。
つまり、事業者団体ベースのIT化とは、協会としてのクラスター&ランダム・ネットワークを背負いながら、構成員各社及び各社の社員がスケールフリー・ネットワークに対応できる能力をもつことを目的としなくてはならない。
それは次の三つの意味を持つことになるだろう。
1. 「公共工事という産業」に従事する全てのメンバーのマリアビリティ(可塑性)と信頼の能力の向上
2. 事業者団体の新しい役割の確率
3. それらの実践によって生まれる「公共工事という産業」の新しい役割と信頼の確立
この時、発注者との協働はどうしても必要となる。
なぜならば、自治体も、地域社会も、中小建設業も「種」の存在であり、テリトリー性から生まれ存在しているからだ。
公共工事の機能的本質を前提とする限り、市民社会も、発注者も、受注者も同じ足場に立っているのである。
ここに安易にグローバリゼーション(スケールフリー・ネットワークでありむき出しの資本の理論である)だけを持ち込むことや、むやみにクラスター&ランダム・ネットワークを守ろうとしても、どちらも失敗するだけだろう。
2004/11/22 (月) ▲ ▼
【驚き】
午前5時起床。
浅草の天候はよさそうだ(暗いのでわからない)。
まずは、久しぶりに札幌での独演会開催が決定したのでお知らせである。
■札幌独演会 『哲学のあるIT化』 ―ネットワークと信頼とビジネスと―
【日時】 12月7日(火)13:00〜17:00
【受講料】 2000円
【会場】 かるで27 940研修室
札幌市中央区北2条西7丁目道民活動センタービル
電話:011-231-4111 http://www.kaderu27.or.jp/
【定員】 45名
【概要】 講師:桃知利男
演題:『哲学のあるIT化』―ネットワークと信頼とビジネスと―
・ネットワーク論(今という時代の見方 上下そして左右から)
スケールフリーネットワークの理解
ランダムネットワークの理解
適応度(環境変化適応能力)としてのウィークタイズ
・ミーム論
小僧の神様から「純粋贈与・贈与・交換のトポロジー」
贈与と交換のハイブリッドとしての商品(のれん)
・IT化論
情報の共有から反省の共有への具体策
種の論理
IT化の理解と実践こそが、今という時代の閉塞から抜け出る方法のひとつであることが明らかになっていく、センス・オブ・ワンダーな時間をお楽しみください。
【主催等】 主催:桃知商店 http://www.momoti.com
【お問合せ先】
【申込先】 まにあ・1号へメールでお願いいたします。
mailto:e-yoshikawa@h7.dion.ne.jp
・お名前
・会社名
・メールアドレス
・懇親会参加の有無を明記の上、お申込ください。
【懇親会】 当然におこないます。
会費:5000円
札幌にてお待ち申し上げております。m(__)m
さて、昨日もお客さまがおられたので昼間っから一献していたわけだ。
肴は粉もの。
これ(↑)は、そばもんじゃで、見た目はゲ○若しくは○吐物だろうが、ビールにはとても良くあうのだ。
わたしは他に、お好み焼きと蒸かしたじゃがいも入りの焼きそばで、中生3杯いってしまった。
粉ものは大好きだ。
閑話休題。昨日は、Web検索をしていてちょとした驚きがあった。
まずは(↓)を是非に読んでいただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/haiburi2.html
ここには紛れも無く「種の論理」について書かれている。
では、このサイトはどなたのサイトなのでしょうか?
この方である。→http://www.kuniomi.gr.jp/
そう岩井国臣氏(国土交通副大臣)である。
中沢新一氏を絶賛されている。
正直言ってたまげた。
早速、『劇場国家にっぽん』を注文した。
(Amazonでは扱っていないのはなぜ?)
わたしは、「公共工事という産業」に関して、特に地場型中小建設業の陥っている閉塞を打破するための理論構築の基底を田邉元の「種の論理」に置いているわけだが、同じような考え方をしている方がおられるとは、それも国土交通副大臣がそうであったとは夢にも思わなかった。
その考え方の根底には、「技芸:技術」(テクネー)に対する考え方があるのだけれども、たぶん副大臣とわたしは同じなのだ。
つまり、ハイデッガーの技術論だわね。
『技術はしたがって、たんに手段ではない。技術は露わにあばくひとつの在り方である。このことに注意すると、そこで技術の本性に関してまったく異なった領域が私たちに開けてくる。それが露わにあばくこと、すなわち真理の領域なのである。』
『テクネーはアレテウエーン(露わにあばくこと)のひとつの在り方である。それは自分自身で出で−来たらず未だ眼前にはなきもの、したがって色とりどりな見え方をとって結末をつけるであろうものを、露わにあばくものである。』
つまり、技術の本質とは、自然の自然的プロセスが決して露わにしないような本質を、『自然に素手で取り組みながら、けっして自然的とはいえないやりかたで、かくれた本質を顕在化させる。これは職人があつかう自然の素材が木であろうと金属であろうと、液体であろうと、土であろうと、変わらない』(中沢新一)
技術は出で−来たらずものを露わにあばく、それが技術の本性というものだ。
だから、ここには倫理もほしいのだろうし、論理も必要なのだ。
ということで、今日はひたすら原稿書きの予定。
2004/11/21 (日) ▲ ▼
【上下そして左右からみる】
午前8時03分起床。
浅草は晴天である。
昨晩もお客さまがこられていたので、清司にて一献。
井之上さんからいただいていた阿久根でつくられた芋焼酎を持参して飲んだ。
昨日の夕方あたりからようやく、脳味噌が回ってきたというか、シナプス結合がうまくできているような感じになってきた。
今日は、わたしの今考えていることについての自己理解的まとめ。
お題は「上下そして左右からみる」
■上下
上(グローバル化への志向が大きい) |
 |
 |
下(グローバル化への志向が小さい) |
 |
 |
 |
 |
■左右
左(コミュニティ化への志向が小さい) |
スケールフリー若しくはドボンである。
スケールフリーととランダムのハイブリッドが難しい。
→地場型中小建設業には関係のない領域。 |
右(コミュニティ化への志向が大きい) |
 |
 |
 |
 |
この見方は、地場型中小建設業が、今という時代(インターネット社会)を上下で考えるのではなく、左右で考えたときの右側の領域に居場所を見出した方が良いってことを示している。
それはある意味当然で、地場型中小建設業は種の存在であり、テリトリー化から生まれ存在しているからだ。
しかし、大なり小なりグローバル化の影響は避けがたいのも「今という時代」の特徴である。
つまり、テリトリーを基底としながらも、グローバルの空気が覆う世界を生きるしかない。(ここで大事な事は、それはテリトリー化とグローバル化のハイブリッドであって、二者択一のようなものではない、ということだ)
それはネットワークグラフでいえば、スケールフリーとランダムのハイブリッドとしての薄くて広い紐帯(ウィークタイズ)である。
それでだ、この右側の領域で生きる、ということがどんなことなのかを、ひたすら考え、それを可能にしているものを見つけ、そこにある生存の共通性を見つけようとしている。
そのひとつが、昨日書いた「贈与と交換のハイブリッドとしての商品」のトポロジーである。
それは多分、中世における職人的なものが生み出すものを起源に持っている。
つまりそれは、自然的なものとの「技芸」(技術)を通した思考的な関係(哲学)であるのだが、ようやくここに来て、わたしを夢中にさせていた民俗学的なものを再び引っ張り出せる機会に恵まれたわけだ。
なんとなくつながってきた。
シナプス。(笑)
2004/11/20 (土) ▲ ▼
【@浅草】
帰りの飛行機は予定よりも30分遅れて羽田空港に到着。
タクシーで帰ろうとしたら、タクシー乗り場は長蛇の列。
なので、久しぶりにモノレールに乗って帰ってきた。
東京モノレールは、快速ができていて、それは羽田を出ると、天王洲アイルと浜松町にしか止まらないわけで、なるほどこれは速い。
浜松町からは京浜東北線快速に乗り換え、上野駅下車。
なる程、この手があったか。
上野駅からはいつものようにタクシー。
運転手と話をすると、10月11月の売上は落ちているという。
小泉さんは景気が回復していると言っているけれど、夢でも見てんじゃないですかねぇ、という話には思わず笑ってしまった。
さて、帰りの飛行機で読んできた本である。
宮崎空港の売店で、ポカリスエットを調達するついでに買ったものだ。
『食の墜落を救え』小泉武夫(編) 2004年11月1日 廣済堂文庫 600円(税込)
(文庫版:Amazonの検索ではハードカバー版がみつかるけれども文庫版はまだない)
これが予想を超えて素晴らしい本なのだ。
そもそもは「醗酵」というキーワードで日本の伝統的な食文化を守る方々を紹介しているだけなのだが、その紹介されている方々の言説が、実に「種の論理」なのだ。
つまりテリトリーと伝統から始め、それを突き詰めることで、彼らの作品(納豆であり、みりんであり、醤油であったりする)がテリトリーを越えて市場価値を持っていることがわかる。
それは、16日に書いた、この(↓)二つの共通点と同じ特性を持っているように思える。
それは、商品に、作った方の人格のようなものが、乗り移っているってことだ。。
それは「交換の原理でいえば、ホントは反則なんだ」と書いたけれども、「贈与の原理」(中沢新一)がとても強く働いていることがわかる。
・贈り物はモノではない。モノを媒介として人と人との間に人格的ななにかが移動している。
・相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなう。
・モノを媒介にして、不確定な決定不能な価値が働いている。
だからといって「贈与」ではない。
交換を前提としている商品ではあるが贈与の原理を孕んでいる、ということだ。
それを最近のわたしは「贈与と交換のハイブリッドとしての商品」とよんでいる。
つまり、ミーム論でいえば、第一種と第二種の情報のハイブリッドとしての商品ってことだし、密画的と略画的のハイブリッドとしての商品である。
そういう中間的な性格をもった商品が、個の作り出す商品であることによって、逆にそれは種(テリトリー)を越えて存在できるのだろう。
【取り急ぎ】
宮崎で目める。
午前8時。晴天。
昨日はボウリングをしたら、案の定筋肉痛。
分かり易い身体だ。
そのボウリングだけれども、なめちゃいけない。
2ゲーム投げたけれども、1ゲーム目はなんとか踏ん張りが利いてスコアは180ちょと。
でもこれでガスが切れた。
二ゲーム目はようやく100を越えた程度。
ボーリングやって息が切れた。
膝ががくがくした。
なさけない身体だ。
ということで、お伝えしたいことは沢山あるのだけれども、取り急ぎ帰りの準備だ。
2004/11/19 (金) ▲ ▼
【今日は宮崎へ】
午前6時起床。
浅草は雨。
さて、いよいよお尻に火がついた。
原稿である。
昨日は、サイボウズトークライブのPPTを作成し、今日の宮崎での講演のPPTをまとめ、その余勢を慣性の法則のように利用して、最初の2ページを書いた。
とりあえずA45ページ、9000字を考えていたので、このままなんとか書き続けていたい。
が、今日は宮崎で講演。
その後は大切な懇親会がまっている。
みるきいさまから。
今日は寒い中お疲れ様でした。
実は私、桃知さんのお話をきちんと聞くのはこれが初めてだったんです。
(ざっくり)
最近の桃知さんの店主戯言の内容が難しくて、読むのに必死でしたが今日のお話を聞いて、自分なりに少しですが理解できました。
インターネットサイトにおいて色々な所で運営者や管理者等の役割をしていると、前半のハブ空港のお話は成功者と非成功者の間で宙ぶらりんの状態でいる我が身をふりかえって反省をすることしきりでした。
これからはもう少し自分がグローバルに生きるか、地域密着型でいきるのか、それとも全く別な形で進むのかきちんと考えてみたいと思っております。
さて・・・今日気づいたのですが、桃知さんお話の途中で上着を脱がれましたよね? あれはやはり落語家さんの「まくらが終わってこれから本題ですよ」と羽織を脱がれることを意識してなさっているのでしょうか??
何かその仕草を拝見したとたん、時間がきたら「次の準備は整っていますよ」と羽織(上着)を私が前座として引き抜きにいきたい!という衝動にかられてしまいました(^^:
この話を主人にしたのですが、そも落語家さんが羽織を脱ぐ事もしらないので理解してもらえませんでしたが・・・
ぜひまた機会がありましたら桃知さんのお話を一参加者としてじっくりとお聞きしたいです。
みるきい☆☆☆ |
上着を脱ぐのは指摘の通り芸の一部だ。
つまり、ある程度は「計算ずく」なのだ。
ある程度というのは、最近はほとんど無意識でそれをしているわけで、つまりほとんど無意識、身体が覚えたタイミングと仕草なのである。
シャツの袖をまくるとか、空いた手をポケットに入れるとか、まあこの手の手法は色々あるんだけれども、ここであんまり書くと、そっちばっかし気になってしまうだろうから、こんなところでご勘弁を。
それから、盛岡でのPPTだけれども、今日の宮崎での講演の縮小版なので(実は講演時間は90分だったのだ。流石に焦った)、明日にでも今日のPPTは掲示しますので、それで代用いただきたい。
Oさまより。
はやての指定席事件大変でしたね。
自動改札機も案外
適当なのかもしれませんね。
日付を間違えて
乗ってこられたということですが
私の友人にも同じような人がいて
1日遅れて乗ってしまったということです。
しかも彼女の場合
新婚旅行の時だというから
2人で間違えたのかとあきれてしまいました。
その後どうなったかは、怖くて聞けませんでした。
だめ押しにもう1つ
私の結婚式には
1日遅れて式場に来てくれた友人がいます。
彼女いわく
どうりで送迎バスがいつまでたっても
来ないと思ったのよね。・・・と
式場まで行ったら
席順表をもらって帰ってきたとのこと。
私の友人はこんな人ばっかりです。 |
わたしは思わず今日の予定を確認してしまった。(笑)
さてこれ(↓)は先日宿泊した盛岡のホテルでのSense
of Wonderである。
ライティング・ディスクがあるホテルの部屋っていうのも初めてだったのだけれども、まあそれは驚くには値しない。
問題は右下に写っているマッサージチェアみないたものだ。

でもこれマッサージチェアじゃないんだな。
当然にベットでもないよ。ベットはキングサイズのでっかいWベットだった。
わかる人はいるかな。わたしは酔っ払って帰ってきて、これで午前3時まで寝てしまったのだ。
まあ、気分は悪くはなかった。
ということで、今日もこのバックをお供にでかける。

RIMOWA
2004/11/18 (木) ▲ ▼
【遅い目覚め】
遅い目覚め。今は9時を過ぎている。
浅草はくもり。
昨晩は宮崎からお客さまがおいでになられたことを良いことに、清司→杉→菜苑と、わたしの浅草コースを満喫し、赤霧島、薩摩白波を飲みまくった。
杉には丁度、春風亭美由紀さんのお座敷がかかっていて、わたしたちは、座敷横のカウンターに席を取り、彼女の芸をただで楽しみ、美由紀さんを呼んだお客様が帰られた後は、お店のかんばんまで、彼女と芸についてあれこれ話していた。
彼女の言葉についての薀蓄はとても興味深い。
それは芸としての言葉についてだ。
特に、わたしのようにネイティブじゃないものが、江戸弁を喋ろうとするときに陥りやすい思い込みなんかは目から鱗ものだった。
そんなものだから、突然、彼女に講演をしてもらおうか、とひらめいた(多分1月22日の新年会の前にやる、新春講演会の時のゲストとしてお呼びすることになるだろう)。
ついでに、来月の彼女のスケジュールと、杉の予約状況を確認して、12月18日(土)に、うちの(基本的には「法大エクステンションカレッジ」の忘年会としたい)ささやかな忘年会をすることにした。
当然に美由紀さんはわたしからお座敷をかけておいた。
慌しい時だからこそ、浅草でまったりとした時間を過ごそうと思う。
今日は11月29のサイボウズトークライブのPPTの締切日。
午前中にやっつけてしまおう。
2004/11/17 (水) ▲ ▼
【@盛岡】
6時45分起床。
盛岡はくもり。
昨日の新幹線。仙台駅から乗って来られた方が、わたしの座っている席が自分の席だ、とおっしゃる。
切符を見せていただくと、なる程、同じ列車の同じ席である。
でもね、日付が違うのよ。
あなたのは明日の列車ですよ、と優しく指摘してあげると、恥ずかしそうにわたしの隣に座った。
これと同じ経験は以前にもあったけれども、どうやったら、自分が乗る列車の日付を間違えるのだろうか?
ましてや、はやては全席指定のはずで、自動改札を通ってきたとは思えないのだが・・・。
結局、昨日のお供は(↓)の本になった。
買ったまま未読だったのだ。
養老孟司の“逆さメガネ”PHP新書
養老猛司(著)
2003年8月25日
PHP研究所
714円(税込)
これは、養老氏の口述筆記本のようだ。
まるで講演のような語り口で書かれているし、わたしには養老氏の鼻歌のように感じる。移動時間に軽く読み流すにはとてもよいわけだ。
わたしは養老氏が言っていることは、とても腑に落ちる。
それはあくまでも自分の解釈能力の範囲でだけれども、書かれていることを、自分の言葉で解釈することがとても楽な方なのだ。
たぶん同じような思考の俎上で考えているのだろうと思う。
養老ファンなのか、とたずねられれば、そうだ、と答えるしかない。
わたしの講演では、「バカの壁」にあった、y=ax
という脳内の一次方程式はIT化における大切なキーワードとして(無断で)使っている。
まあ、講演で y=ax を使っているのは、虎の威を借りるようなものだろうけれどもね。
さて今日は10時から講演だ。
これから風呂に入って、ご飯を食べて、元気にやりましょう。
当然今日も、 y=ax を使う。(笑)
2004/11/16 (火) ▲ ▼
【怠け者若しくは過剰な愛】
7時35分起床。
浅草はくもり。
御酉様のお守りを新しいものと交換した。
これはわたしのPCケースについているものなのだ。
今までお世話になったものを改めて見ると、お世話になったなぁ、というキモチが沸いてくる。
お世話になったものは大切に返納しよう。

原稿を書くために2週間近く時間を確保しておいた。
でも、その時間が終わってしまった今、わたしの手元には何もない、という現実だけが残っている。
この現実は重い。
時間はたっぷりあった。
予定の組み方は良かったと思うのだが、それと何故に書けないのかは別問題のようだ。
ネタが無いわけではない。
事業者団体ベースのIT化については、コンサルテーションの経緯も、講演内容も、順調だった。
それをそのまま書けばよいだけだった。
それに原稿内容を再確認するために、11・04の実験的勉強会もこなした。
とにかく根っからの怠け者なのだな、わたしは、と思う。
まあ、今に始まったことじゃないけれども。
それでも、昨日は、明日のRICOH SolutionWay 岩手04用のPPTと、29日のサイボウズユーザー会用のPPT(18日〆切だわ)の原案を作成した。
こんな時は、とにかく何かはじめるしかないのもたしかだ。
脳味噌に火をいれることをね。
しかしだ、出来上がった明日のPPTときたら、2時間枠だというのに88枚もある。
これじゃ2時間じゃぜったいに無理じゃ!
あれやこれやと詰め込みすぎなのだ。
このまま講演したらなにかを端折ることになるだろう。
それじゃ朗読と変わらないわけだ。
なにも伝わらない。
ああ・・・そうか、と今思った。
なんとなく、原稿が書けない理由がわかたような気もしないでもない。
詰め込みすぎなのだ。
構想の段階で。
たぶん。
講演は、本当はPPTなしで喋れれば一番いいのだろうが。
これは今日中に再考だろう。
伝えるために、なにかを捨てなくてはいけない。
捨てながらもそのことを、伝えなくてはならない。
こんなときはなにか弱気だな。
明日の講演、だれもいなかったらどうしようなどと考えてしまう。
これで本当にだれもいなかったら、ドボンだろう。
まあ、いちどドボンした方が良いのかもしれない。
でもそれも嫌だ。(どっちなんだ)
今日は午後から盛岡へ移動する。
こんな時には人にあうに限る。友に感謝だ。
ということで今日のお供はこれの予定。
でも変わるかもしれない。
「幸せは、考えることから始まる」のは承知だけれど、わたしに今必要なのは、処理をする、という単純な行動エネルギーだから。
幸福の小さな哲学
ベルトラン・ヴェルジェリ(著)
原章二+岡本健(訳)
2004年6月18日
平凡社
1890円(税込)
でもいい本だよ、これは。
ということで、昨日の続き。
この(↓)二つの共通点。
それは、商品に、作った方の人格のようなものが、乗り移っているってことだね。
交換の原理でいえば、それはホントは反則なんだ。
交換の原理
・商品はものである(作った人や前所有者の人格や感情などは、含まれていない)
・等価交換が原則
・モノの価値は確定的であろうとつとめている。計測可能。
でもこれも、立派に市場で交換されている商品だ。
では、これを支えているものってなんだろう。
仕事に対する愛かね。
とすると、原稿を書けないわたしは愛が足りないのだろうか。
わたし自身は過剰な愛のせいだと思いたいのだが。(笑)
▼

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