店主戯言041101 2004/11/1 〜2004/11/15 "There
goes talkin' MOMO"
インデックス |Self Talking INDEX| 今日の戯言 | 2004年10月後半へ | 2004年11月後半へ|著作権|店主へメール
|ももこむ通信|About桃知利男|ダウンロード|依存リンク|店主経歴|
2004/11/15 (月) ▲ ▼
【二の酉】
6時30分起床。
浅草は雨が降っている。
昨日はちゃんとお酉様へ行って、今までお世話になった熊手を返納し、新しい熊手を調達してきた。
境内には沢山の熊手のお店がでていて、お買い上げの度に三本で締めてくれる。
それがあちらこちらから聞こえるのは心地よい。
熊手を買うのは、浅草に住むようになってからだから、ようやく3回目の初心者なのだけれども、お世話になる店はいつも同じで、「よし田」に決めている。
それは一目惚れである。
他の店とはまったく違う熊手に見えた。
一目見たときに、自分で買うなら、これしかなくなってしまっていた。
これ(↑)は、境内にある「よし田」のお店。
写真左側が女将の吉田啓子さんである。
1921年生まれの物凄くかっこいい方である。
今年は、女将からは、「近頃珍しくなった買い方が粋な男だ」と誉められ、お値段よりも一回り大きなものをもらう。
ちなみに粋な買い方とは、ただ一言、「5万円でお願いします(なんとかしてください)」である。(笑)
写真で袋に入れてもらっているのが、わたしの調達品である。
後にある、なぎら氏のものよりはずっと大きい。(笑)
ちゃんと三本締めてもらって、また一年、家内安全、商売繁盛、全ての桃組の方々の安泰と、世界人類が平和でありますように、と祈願してきた。
唐突に、一昨日の晩飯@清司。
アワビ、コハダ、ウニ、煮ハマ。・・・ビール。
ワンダフル・ワールド。
そして本日の命題。
『公平な社会では「生まれ」が強調され、不公平な社会では「育ち」が強調される。』(M・リンドレー)
生まれも育ちも宜しくないわたしは、いったい何を強調すればいいのだろう。
2004/11/14 (日) ▲ ▼
【今日はまじめに仕事をするぞ】
午前6時30分起床。
浅草はくもり。
今日はお酉様(二の酉)に行く予定。
一の酉はサボったし、三の酉は仕事でいけない。
左手はほぼ全快。
では、昨日のつづきから。
お題は『やわらかな遺伝子』。
わたしの今の興味のひとつは、私たちの生きている世界の因果関係というのは、線形なのか循環(フィードバック・ループ)なのか、ということだ。
線形とは、志向性(意志)のある行動には一方向の原因→結果の因果関係がある、と考えるものである。
確かに私たちは、意志の働きを理解する手段として、この原因と結果のメタファーを好んで利用する。
れども、最近のわたしは、それはちょっと単純化しすぎだろう、という立場にいる。
つまり、循環、骰子一擲がわたしの因果関係観である。
それを生まれと育ちの因果関係で、きちんと記述しているのが、このM・リンドレーの著作だ。
この本には特段新しい発見があるわけではないし、なにか新しい示唆を啓蒙的に呈示しているわけでもない。
ただ、ものごとの見方を教えてくれる。
それは生物学的記述ではある(生まれか育ちか=遺伝子か環境か)。
けれど、その構造は生物学を悠々と越えてわたしの心に響く。
肝心なのは、ものの見方なのだよ、と。
そしてそれを可能にしているもののひとつが科学する心(Sense
of Wonder)だよ、と。
そんなことはどうでもいいと思われるかもしれないけれど、それこそが正解の思い込みであって、すでにSense
of Wonderを欠いている。
それは、わたしにとってはぜんぜんどうでもよくないことなのだ。
例えば、くりちゃんの気まま日記の11月12日にある(↓)のような組織(ネットワーク)を見てみよう(無断借用ごめん)。
この図は線形の世界観を示している。
つまり、因果は一方向の原因→結果である。
単純化されたネットワーク図だ。
ここでの問題解決方法は、まずその問題の原因を探し出す。そしてその問題点を除去したり治癒できれば、全体が良くなる、と考える。
確かに、このようにプログラムされた単純で機械的なものなら、この方法は有効だろう(負のフィード・バック)。
しかし、残念ながら私たちの意志は、そのように単純にはプログラムされていないのだ。
確かに人は機械的な側面を持つように見えるかもしれないが、それは環境の中で生きる人の全体像ではない。
人の意思決定は世の中にあるどんなコンピュータよりも複雑なのだ。
つまり、人間が関わる組織的な問題(政治、経済、経営等)が抱える現実は複雑だ、と考えた方がよい。
人間が関わるネットーワークは複雑なのである。
そして社会を超えて自然との関係をも含めて複雑なのである。
ご存知のように、今のわたしは、因果関係は環だ、という世界観にいる。
つまり骰子一擲である。
この世界観では、因果はひとつに収斂できない。
つまり線形であることを前提としてはない。
入り口即出口、出口即入り口であるフィードバック・ループでは、何かの終わりは何かの始まりでもある。
そして骰子一擲はあらゆる時間を通してひとつだけ起きているのではなく、沢山の骰子一擲がそれぞれに相互作用しながら同時進行している。
入り口即出口、出口即入り口だけではなく、ある骰子一擲の出口は、違う骰子一擲の入り口を作り出す。
そのような中で、私たちに、自由意志はあるのだろうか。
わたしはある、と考えている。
人間の可能性を試そうとする装置のようなものが、私たち自身の中にあるのだろう、と考えている。→『やわらかな遺伝子』
生物学(DNA)の世界では、それを、R・ドーキンスは、盲目の時計職人と呼び、M・リンドレーはGOD(Genome
Organizing Device)と呼んでいる。―GOD・・・神だ。
『やわらかな遺伝子』、それは、環境に柔軟に反応して働く装置である。
そこにミームが絡むことで、わたしがいる。
この時、私たちはひとつの峠を越えなければならないだろう。
パラダイムシフト(T・クーン)である。
それは「複雑なものを複雑なものとして理解する」ということだ。
これは中村桂子氏の言葉である。
しかし、これは難しい。
たぶん、大森荘蔵のいう密画と略画の「重ね書き」なのだろうけれども、そう、この「複雑なものを複雑なものとして理解する」という科学には、哲学も非哲学的なものも必要なのだろうな、と思う。
わたしは、『やわらかな遺伝子』という本を、中村桂子氏を通して知ったのだけれども、そのあたりについてはまた後程。
しかし、そろろろまじめに原稿を書かないとやばいのである。
今日はまじめに仕事をするぞ、である。
2004/11/13 (土) ▲ ▼
【原因】
左手の不調を書いたら、お見舞いのメールを沢山いただいてしまい恐縮している。
まだ痺れは残っているけれども、だいぶ良くなってきている。
恥かしいから原因は書かないけれども、まあ直接的な原因は血行障害なのだ。
そしてなぜ血行障害になったのかの原因もわかってる。
ただ、それはけっこう恥かしいので書かない。(笑)
【左手が不調】
午前7時30分起床。
二日酔で痛い頭に、浅草は快晴で答えてくれている。
やわらかな遺伝子
マッド・リンドレー(著)
中村桂子(訳)
斉藤隆央(訳)
2004年5月3日
紀伊国屋書店
2520円
今日は、M・リンドレーの「やわらかな遺伝子」という、素晴らしい著作についてふれようと思っていたのだけれども、なぜか、左手の薬指と小指、そしてそれにつながる手のひら部分が痺れていて、タイピングが不自由な状況なのだ。
起床から3時間ほど経ったけれど、状況は変わらないので、今朝はここまで。
しかし不便じゃ。
2004/11/12 (金) ▲ ▼
【レバ刺若しくは花】
午前6時30分起床。
浅草は雨。
まずはPRから。
これは、オープンセミナーっては言えないのだろうけれども(サイボウズoffice6&AGユーザー限定)、サイボウズoffice6トークライブの、
11月29日の東京会場にて講演することになっている。
演題は、最近の持ちネタの中では多分一番自信のある
「哲学あるIT化−ネットワークと信頼とビジネス」から、とてもマクロ的な部分を引っ張り出す予定で、多分スゲー面白い(と自分では思っている)。
詳細とお申込はこちらから。(↓)
http://office.cybozu.co.jp/cb6/users/option/talk/index.html
最近の研究によればだ、「生まれは育ちを通して」なのだ(M・リンドレー:このことについては明日にでも詳しく書くかもしれない・・・)。
DNAは環境によって目を覚ます。
かわいい子には旅をさせよう、だね。
つまり、懇親会もあるので、是非においでください、ってことだ。(笑)
(サイボウズoffice6&AGユーザー限定だけれども)
レバ刺について書こうと思って、写真を貼り付けたのだけれども、気が乗らないので止めた。けれど、消すのも勿体なのでそのままにしておくのだな。
ひとこと書くと、これは浅草の寿司屋通りにある東大門のレバ刺しで、絶品なのである。ついでにビールはこれ(↓)にてとどめを刺す。(アホか!)
では、「花」について。
たぶん年甲斐も無く、なのだろうけれど、ORANGE
RANGEの『花』という曲が面白いな、と感じたので、早速CDを買ったら、案の定家人からは、「若いわね」と言われてしまった。
やっぱりそんなものなのかね?
確かにORANGE RANGEというグループに関しては何も知らないのだけれどもね。
『花』
ORANGE RANGE
花はなんで枯れるのだろう
鳥はなんで飛べるのだろう
風はなんで吹くのだろう
月はなんで 明かり照らすの
まあ、こんな感じで、歌詞は限りなく青臭くて、24年前のわたしなら、聴いている方が恥ずかしくて、間違いなく受け付けねぇ、ではある。
R・ドーキンスなら、その「なんで」にこそ「センス・オブ・ワンダー」があるのだから科学的に考えなさい、それがなぜかを考え抜いて突き詰めなさい、と説教がましく言うのだろうな。
しかしたぶんそれは野暮なのだろうね。
わたしがなぜこの歌に興味を持ったかといえば歌詞につきる。
"想い"時を超え 永遠に響け
君の喜び 君の痛み 君の全てよ
咲き誇れ もっと もっと もっと
という歌詞は、まるでラカンの言う「他者の悦楽」(女の悦楽)だ、と解釈してしまっている(エロチックだ)し、
花びらのように散ってゆく事
この世界で全て受け入れてゆこう
君が僕に残したモノ
"今"という現実の宝物
だから僕は精一杯生きて 花になろう
まるで恋人の死を暗示しているわけで、本当に大切なものなんて失なわなくては知りえない、という人間のサガのようなものを感じていたりするわけだ。
まあ、こんな按配でそれなりに深く読める歌詞(深読みしすぎか?)を持った曲がヒットチャートの1位にいたことにとても興味を持った。
みんなどんなキモチでこの歌を聴いているのだろう。
でも、
まあ、この曲に限ったことではないけれども、一過性の流行歌っていうのは、作者が全くの想像だけで作品を作ったとしても、経験を書いたとしいても、聴く人たちには、そんなことはどうでもよいことなのだろうと思う。
自分にある経験とか解釈とか、脳味噌に蓄えられた何がしかの記憶にそれをなぞりつけながら、聴く方がそれを「はいぶりっど」に理解してしまう。
それは「なんとなくわかる」というようなとても曖昧な感覚。
チョーいい加減なのだけれども、流行歌は、いつでも「作者の死」(ロラン・バルト)と隣りあわせなのかもしれない。
でも、その「なんとなくわかる」というような感じ方が、実は共感とコミットメントの素なのだろうし、それを乗せているは、やっぱりこうしてミーム(音楽)なのだねぇ。
でも8回リピートしたら、もうどうでもよくなったのは事実だけれどもね。(笑)
不変的に、仕事をしながら流している曲というのは意外と少ない。
それはとても個人的な趣味で、ここで書くこともないだろう。
けれど、それらはたぶん、リズムとかメロディが身体(結局は脳か)に刷り込まれていることで、反射的に脳味噌のどこかを刺激しているのだろうね、と思う。
現に、わたしの仕事時のBGMはR&B系が圧倒的に多い。
時々はゲロッパだったりしている。もちろん、踊らないけれども。(笑)
歌詞は全く理解していないこともないけれど、でもそんなことはたぶんどうでもよくって、リズムとメロディにこそ、脳味噌が快感を感じてしまう「構造」はあるように思う。
「花」が8回でどうでもよくなったのは、この「構造」がわたし向きではなかったのだろうね。
しかし、BGMがどうだろが、相変わらずわたしの原稿書きの生産性は最悪に近い。(T_T)
今日はご近所(?)とホーム・パーティなので、その準備やなにやらで、益々仕事は進まない予定ではある。
けれどそれも楽しみなのだな。
今日は霧島だ。
レバ刺はない。(笑)
2004/11/11 (木) ▲ ▼
【大阪三人会における講演用PPT】
11・09大阪三人会における講演用PPTをダウンロードのページに置きましたのでご利用ください。
最初にある、脳味噌テキトーゲームにつてちょっとだけ解説。
最初にこの画像を見てもらう(だいたい5秒程度かな)。
それから、おもむろに話題を切り替える。
それが「西原さんのお話を聞いて」や、「太田さんのお話を聞いて」という部分であって、ついでに盲点ゲームで遊ぶ。
そして、質問をするのだね。
では、一番最初にお見せしたあの画像にあった文字は次のうちどれでしょう。
「堅い」「甘い」「味」
会場の皆さんの答えはなんだと思います。
「甘い」なのだ。
でも、「甘い」なんていう文字は、上の画像のどこにもない。
ああ、脳味噌はいい加減、テキトーなのだね。(笑)
でも、このテキトーさこそが、私たちの可能性であり欠点でもあるのだ。
ということで、今回のネタ元を紹介しておこう。
進化しすぎた脳
池谷雄二(著)
2004年10月25日
朝日出版社
1575円(税込)
池谷雄二氏は若いけれども、わたしが今最も信頼している峻傑なのだ。
【あるMLへの返信】
6時起床。
浅草はくもり。
目覚めてメールチェックをしたら、とても興味深い投稿が、某MLにあったので、その返信を書いていたら、時間がなくなってしまった。
ので、今朝はそれを掲載してお茶を濁してしまおう。
前後の経過が多くの皆さんにはわからないだろうから、なにか意味不明かもしれないのは、ごめんなさい。
大阪三人会でのPPT(変更部分)は後程アップだな。
桃知@浅草です。私から一言。
なるほど、これは前後があるのですね。
まあ、国交省のお役人さまのお答えは「現実」ですね。
しかしこれはいまさらでしょう。
私の仕事での一番の壁は、ずっとお役人の「現実離れ」という「現実」であり続けてきました。それは俗な言葉で言えば「危機感の無さ」であり、現実を直視できない程に落ちた「係数a」です。そして、じゃ、なぜこんな風になってしまったのだ、というところで、過去を振り返り、開発主義を学んだわけです。
「種の論理」で言えば、国交省は「類」になります。地方自治体は「種」です。
日本のシステムは、類→種→個という序列で動いてきました。
開発主義もこの構図を超えてはいません。
この構図では「類」を司る個はエリートでなくてはなりません。
村上泰亮流に言えば、ネポティズム(縁故主義)を越えた近代的官僚制が開発主義の要件になる所以です。
しかし「現実」はそうではないようですね。「ハーベイロードの前提」の限界です。まあ、そうなってしまった理由はいくらでも書き出せますが、ここでは省略します。
注:このような問題を考えるとき、なぜそうなってしまったのかを考えることは有効ですが、問題点を見つけ出してそれを批判することに終始してしまってはいけません。たんなる愚痴か、負け犬の遠吠えにしか聞こえませんから。
大切な事は、なぜそうなってしまったのか、の基底に流れているもの(論理)を見つけ出すことす。それを「構造」(レヴィ=ストロース)と呼んでもかまいません。
※まあ、ひとつ例をあげれば、開発主義自体が「ハーベイロードの前提」の限界を作り出すという矛盾を孕んだ政策だったということですが、その本当の原因は、開発主義にあるのではなく、類→種→個という序列で動くシステムに収斂してしまいます。
だから、ではどうしようか、ですね。
私達は何かができるのだろか、それとも無力なのでしょうか。
今私が取組んでいる「種の論理」(田邉元)は、誤解を恐れずに略画的に表現すれば、(種)→個→種→類という構図を持っています。
開発主義とは一見逆の構図を持ちますが、思想信条は開発主義と同じです。つまり個の不平等の解消です。ただその時の個、種、類の運動のエネルギーが、開発主義とは違うのですね。
(種)→個→種→類ですから、個の持つエネルギーが大きな意味を持ちます。「種の論理」では、最初にあるのは類(国)ではなく種と個です。だからと言って西欧的な個人主義ともかなり違うのです。
なぜなら「種」の機能がとても大切だからです。種が個の活動の基底だからです(人に最初に宿る言葉というミームを考えてみましょう)。
この辺りは、日本哲学(フィロソフィア・ヤポニカ)の理解という俎上がないと難解かもしれませんが、そのような考え方を基底に置いたときに、実は私達の具体的な動きに現実味が帯びてくるのだ、と考えています。
具体的には、今私の活動では協会ベースのIT化をそのベースにしていますが、それは種(地方自治体:地方)における開発主義的なもの(クラスター+ランダムネットワーク)を根っこに置きながら、一方その対立関係にあるスケール・フリーのような「現実」の理解と対応を個のベースで考えるものとなります。
クラスター+ランダム(ナロータイズ)×スケール・フリー=ウィーク・タイズ(広くて薄い紐帯)
それは種を基底において個のベースで考える、という行為そのものが「個と個」「個と種」「個と類」「種と類」の関係をつくりだすからです。
これが個の運動エネルギーであり、種が普遍性を持ちながらも自らを変えるエネルギーであり、類が新たな機能を持つことになるエネルギーだからです。
しかし現実は種も類もスケール・フリー化の中で無力化(無思考化)しています。
しかしそれは、開発主義の終焉とは程遠いと考えています。
だから、まずは種に対して働きかけたいのです。
それも私自身が変わることによってです。
「種の論理」的に「公共工事という問題」を考えることができるとき(特に種が)、金子勝氏が言っている言葉も現実味を持つのだと思います。すなわち、
「地方がやること、中央がやることを明確に区分しないとダメですよ。意思決定が明確に違う。意思決定をすっきりさせないと、今までのやり方では、何をやったらいいのか、どこにどんな人が活躍できるのか見えないままに、悪循環を断ち切れないと思うのです。」
「意思決定が明確に違う」というのは、種と類は果たすべき役割がそもそも違う、ということでしょう。しかし、これは種に溶けた個(官僚)にできるものではないでしょう。
彼らは自ら変わるエネルギーを持たないように思えます。
彼らが変わるとすれば、唯一「外圧」なのでしょうが、組織の理論はことのほか強力なのです(組織は外圧という環境を自らに適応させようと機能します。それが無駄な行為だろうがどうだろうかは関係ないのです)。
だからこそ(悲しいかな)私達(「私」)からでしかないのですね。
まずは同じ「種」としての地方自治体との連帯化した活動を目指すべきだと考え、行動しているわけです。これがわたしのIT化の今のところの活動指針なわけです。
まとまりせんが、長い一言でした。
┏┌┌┌ Sense of Wonder
┏┏┌┌ 桃知商店 桃知 利男
┏┏┏┌ mailto:pinkhip@dc4.so-net.ne.jp
┏┏┏┏ URL: http://www.momoti.com
2004/11/10 (水) ▲ ▼
【まにあ・1号さまからの反省の行為】
7時頃目覚める。
今日は、これから津に寄って帰るのでばたばた。
さっそく、まにあ・1号さまからの反省の行為。
■西原さん講演
●変化を起こしたい人のためのAgenda
TOCの目的・・・現在から将来にわたって儲け続けること。
1:組織の抵抗6つの階層
@対応している問題を、問題として認めない→お互い認識する段階
A解決策の方向性に同意できない段階
B解決策が問題を解決するとは思わない段階
C解決策は、もし実行するとマイナスの影響を引き起こしてしまう
D提案されている解決策の実行を妨げる障害がある段階
Eその結果起こる未知のことへの恐怖感
2:インタラクションメソッド4つの役割
リーダー、書記、ファシリテーター、メンバー
・交通整理(各メンバーが平等に発言できる)
・プロセスの争い(どのツールを使うか)
※リーダーを司会者にしてはいけない。リーダーは責任を負って
いるのでどうしてもその責任を果たす方向に会議体をむけてし
まう。進行役は別の人間が良い。
書記:同じ話題を何回も発言することを避けるためにおく。
●TOC3つの仮説
1:組織には達成すべきゴールがある。
※目標が明確にならないと進むべき方向性が定まらん!
では、企業の目的とは何か?→お金を儲ける!
儲かっているかどうかは「何」でわかるのか?
・純利益
・投資収益率
・キャッシュフロー(資金繰り)を一定以上確保する。
などなど・・・
・スループットを増やす(売り上げから材料費を引いたもの)
・投資を減らす
・運営コスト(固定費)を減らす。
などなど・・・
2:組織の業績はごく少数の「変数」により成約されている。
※システム・・・なんらかの「つながり」「関係性」がある。
その中で根本問題を見つける
EX) 沈むタイタニック
・水が入ってくる
・穴が開いている←★根本問題!
・燃料が足りない
・方位がわからない
・食事がまずい
・トイレが壊れている
※沈み行く船の中で「トイレがどうした、食事がどうした」等は
枝葉末節の問題。根本問題は「穴が開いている」事。これに
対処することが問題の根本解決。
各々のつながりの根本原因の「対立解消」を図る!現実問題として
はその「根本問題」(UDE)を見つけることが最大の難関かと思われる。
3:組織全体の成果は各部分の成果の合計と一致しない。
部分最適化、各部分がそれぞれに、目いっぱい100%をめざしても
それは必ずしも全体の最適化にはならない。
【 所感 】
TOC理論の基礎、概論を非常にわかりやすく説明してもらえた。
建設業への試行に関しては、「発注者への提案や理解」を求め、受益者市民社会に対し、「よりよい施工を、より早く」提供するツールという方向性が良いのではと感じた。
■太田さん講演
まずのっけから強烈なパンチが飛ぶ
●「現実!」を直視せよ!
公共事業はどんどん減ってきて「ドロ船」である、これにいつまでも乗っていると一緒に沈んでしまう。
現実をちゃんと見よう!今の現実をちゃんと見ないと解決策が見えて来なくなる。
どうしても自分を肯定したくなる(大丈夫だバイアス)←これが全部を妨げる。建設業は「大丈夫だバイアス」が少々強すぎる。
自分はいつだって間違いを犯すという認識を持つことからはじめよう。
まず現実を直視し、自らの置かれている立場を冷静に評価する事でこれからどうすべきかが見えてくる。
「無い」とても困る・・・もの。「何」が一番必要なのか?求められているのか・・?これを探さないといけない。
考えても見よう、工務店、八百屋、電気屋、酒屋・・・こういったお店が無いと生活そのものが成り立たないではないか?これらのお店は本当に必要なものを提供している商売なのである。普通の商売のイメージで自らの仕事をみてみる。
公共事業全体がよくない・・イメージ(ミーム?)に支配されているので、
「役人」「土建屋」「ゼネコン」「コンサル」などなど・・という言葉
の中に、どこか「蔑み」のニュアンスが含まれているのである。これは
それぞれ「制度の中に守られている」というところからきているのであ
ろう。
新潟・・・結局は国が何とかする。大変なことは大変で時間もかかるが。
(道路・橋・各種公共構造物(公共財産))などは国により直してもら
える。
しかし、個人の財産、家屋などは国によりどうしてももらえない。
国は本当は個人の財産を守らなくてはならない・・・のに守れていない。
例えば・・・
地震がおきて社会は何が困るのか?ということをはっきりさせ「提案」
する。公共事業は個人の財産保障に立ち入れない・・・と言う事こ
そ問題ではないのか?
※アナタの仕事は必要なのか。。。???私(太田)も考えさせられた
一言を紹介する。
早稲田大学の工学部学生の発言・・・(シンプルでシビア)
「私達は今、必要とされているのかどうかと言う事が第一の不安になる。
日常の中で本当に必要だと思うことがあるにも関わらず、それに対しては何も事業がおきてきていない。」
予算がどうした、補助金がどうした、談合がどうした・・・というのは枝葉末節の話。
自分たち建設業に携わるものが「本当に必要とされる仕事を提供」しているのだろうかと考えなくてはいけないのではないか?
つまり、
「本当に必要なもの」が「必要」なのだ。
必要なことだけが未来に残る。必要ないものは残らない。
必要なものは何だろう・・・これを「問い直す」事からはじめないといけないのではないか?
今までの太田さんのコア
「二年先に必要なもの」・・・5年では早すぎる(遠すぎる)ちょっと手の届きそうなコト。これを提案することで生きてこれた。
守られている産業のそのシステムの中で必要であった。(←本当に必要なものではなかった)
●そこで、これからわれわれ建設業はどうしたらよいのか?
下手な鉄砲を数打つしかないのではないか?
進むべきか引くべきかを判断できないと数打てない。
概ね、ほとんどが「引かなくてはならない」(上手くいかなかったこと)
→お金と時間をかけて得られた「価値」これは私(太田さん)の「財産」。
つまり、「行動」を起こすこと、動き出すこと。そして、あえて言えば
失敗をしてみる事。
(行動という)下手な鉄砲を数打つために行っていること。
→いろいろな「顔」を持つ。
相手に受け入れられる立場を持つ。例えば私は・・・
・研究者の不利をして災害現場に入る
・NPOの振りをして行政マンの会議に入り
・メーカのふりして材料検査に立会い
・知識人の振りしてマスコミにもぐりこみ
・専門家の振りをして裁判の鑑定人になり
・善良な市民の振りをして地域に入り
・コンサルの振りをして市民の質問に答え
・善意の第三者の振りをして行政にもの申し
・ビジネスマンの振りをして偉そうにはなし・・などなど。
行政は・・・知事、トップしか物事を真剣に考えていない。
トップにこそ、提案という行動を起こさなくてはならない。
トップ以外のあとの役所の人間は本気で色々な物事を考えない。なぜならそこに「責任」が無いから。責
任があるのはトップだけ、提言・提案はトップにこそ行わなくてはならない。
※現実には私(太田さん)も「公共事業」でメシ食ってま〜す・・・なのである。
何が必要なのか・・・は見えているつもり。
何が必要なのか・・・を常に探して試行錯誤している
どこを攻めたらよいか・・・は失敗の連続の中でつかめてきている
でも、もう公共事業でメシが食えないはっきり見えている。
→これがシビアに見た現実
電気屋、飲み屋、酒屋のようにならないといけない。
本当に大事な事
「判断」すること・・・やるべきかやらざるべきか?
これは「動き出してみないとわからない」のである。
動き出して、自分が動いて、(鉄砲を撃って)「何かつかめるもの」がある。まず、「上手く行かないこと」はすぐに明確に見えてくる。
数を打つ中でその「精度」を高めて行くこと。
(吉川注:つまり数多くの失敗の中から学ぶ事が結局成功への近道なのでは・・・ということか?)
かつて、公共事業は大きくて儲かる仕事を受注してきた・・・。
しかしがこれからは小さくても必要な仕事を提案しながら受注する。
こういう姿勢が大事なのではないか?
効果の測定が非常に大事。自分の行動アクションにより跳ね返ってくること。(吉川注、自分の失敗から学べること・・か)
そして、本当に大事な事は
「相手に自分の行動をしってもらう。見てもらわないことには判断してもらえない。」という事。
(効果の測定が出来ない・・・これは存在しないと同じこと)
プロバガンダ・・・まず存在を知ってもらう。!時としてめざわりな位動いてみよう。
●そして、本当に大事なことは・・
自分をPRする事。
「いろいろなことをおやりになられいますね?」は
「失敗の残骸」を相手が見てくれているということ。
自分が何発玉を打てるか?これを自分に課してみよう!
受講者からの質問
質問:タマを打って、あてちゃいけないところにあたったら・・・?
回答:そんな事は何度もある。国交省の役人の逆鱗に触れてしまった
事が3度ほどある。直接はいわれないが周囲から、誰が言って
いるか教えてもらえる。
国交者のキャリアは私に仕事をくれる人ではない。(妨げる事
はあるかもしれないが・・・)
質問:タマを打って引き時の見極めのポイントは?
回答:カンしかない!((失敗の)経験値により精度があがる?)
とにかく自分の進む道には、障害があるかもしれないけれどマ
イナスと考えるコトはない、自分は上手く行くと信じ込んでい
る。
【 所感 】
一枚のPPTにたった一行のテキスト。よく言えば斬新、悪く言えば手抜きのPPTだったが、これが大当たり。PPTはキーワードのみを表し、後はほとんどアドリブ状態で、思いついた気持ちをそのままストレートに表現してもらえた。気持ちが後から後から湧いてきて、言葉が追いつか無いような印象さえあった。
現実を直視し、自分たちの生業を冷静に見つめ、「本当に必要な仕事」だったのかどうか検証してみよう。とは、恐れ入った。公共事業という「商品」を「必要とされているのなら、提案すれば必ず受け入れてもらえるはず」と言い切られるあたりは小気味のよさすら感じた。
公共事業を、「従来の与えられたものをこなす」というものから「本当に必要なものを提案する」という、いわば「公共事業創出」論としてまとめられている。動き出せ、そしてその動いていることを相手にわかってもらえ!わかってもらえなければ、それは何もしていないに等しい!
これには参った。昨年は「存在を主張しなければ、存在しないに等しい」といわれたが、それから太田さんご自身が「動かれて、学ばれた」姿が感じられた。
動け!と背中を押されるように「元気の出る」すばらしい講演だった。
■桃地さんのはなし。
三位一体・・ミームヴィークル、HUB、商品
骰子一擲・・太田さんのいう「下手な鉄砲も数打ちゃあたる」そのもの。
科学、細分化することで物事の「本質」を見ようとしてきた。
細分化して細かく分けた全体を見る・・・新しいパラダイム
私は何になりたいのか?・・・・私はピアノの先生になりたい!
生徒にピアノを教えるという事はどういうことか?「考え方」を教授する存在。
われわれが「今、見聞きして記憶しているもの」というものは実はヒジョーにテキトーであいまいなものなのである。
たとえば、盲点のゲーム。(これはやった人でないとわからない・笑)
盲点に入った点は見えない。しかし、黒塗りの枠の中に入った白点。これが盲点に入ると白点はみえなくなるのだが、なんと黒塗りの枠は見えてしまう。
これは、脳みそが見えてもいない「黒塗りの枠」を勝手に記憶の中から引っ張りだして、あたかも「見えているよう」に見せかけてしまっているという事なのだ。
→これこそが「可塑性・まりあびりてぃ」なのである。つまり、この脳みそのテキトーさを操る事ができうる。
人間は環境に自分を適応させようとする。脳みそがあたかも「環境に適応している」ように見せているのである。
脳みそのマリアビリティ・・・DNAに書かれている情報で人間は構成されている。(還元論)
生まれた瞬間はDNAの完全支配下にありうる。
生きている中で、体で覚える、つまり脳みそのなかに「ショートカット」
刺激に対応するをつくりあげてしまう。これはあきらかにDNAにはかかれていない情報。
つまり、
短期的にわれわれ(個人・個体)が環境変化に対応できるのは・・・脳の可塑性(マリアビリティ)があるがゆえ。環境をわれわれに適応させる能力。
【 ミームヴィークルとしてのわたし・・・】
脳に宿るもの・・・「意識」と「無意識」
無意識の次元・情愛の世界・ミームなし。
最初のミーム。これは一番最初に脳みそにやってくる「寄生虫」である。
意思表示しないとつながらない。われわれが使っている言葉は「われわれのモノであって、われわれのモノではない」つながるため・に言葉を使うが「ことば」は自分の外にある。・・・人間の虚勢。
本来の自分・無意識の次元の自分と実用的意識の次元が「言葉」で分断されてしまう。
無意識の自分が現実界では「欲動」として押さえつけられている。
感情・・・たとえば「悲しい」気持ちのとき、それを表現するには「言葉」をつかう。
感情というものでさえ、言葉に支配されてしまっている。
意識・・・・意識しているものは何か・・・言葉しかありえない。
ミーム力を鍛えるということは「脳みそ」を鍛えるということである。
つまり、「経験」と「学習」と「環境」が非常に重要なのである。
そこで、脳みそへの環境提供としてのIT化
ことば:コミュニケーションのツールだけであると捉えれば・・・合理性
ことば:考えるためのツールとして捉えれば・・・
「情報を発信」することが大事。→イントラ上での反省の行為
そして、この「反省の行為」を共有化することが大事。
→イントラネット・・・マリアビリテイを高める作業の場
「わかる」・・・「言葉」でわかる。
語彙の多い人・・・・自分の気持ち・意思を他人に伝えやすい
語彙の少ない人・・・なかなか自分の気持ち・意思を他人にわかってもらえない
(→えてして攻撃的になったりする)
自分自身としてh「語彙」を高める努力をし続ける必要を感じている。
数学や、外国語もそのひとつであろう。
【 HUBとしての私 】
・グローバル性が大きい中での自分の存在。
スケールフリーネットワーク少数のHUBが膨大なリンクを持つ。
(80:20 ベキ法則)上位二割の社数が全体の八割を支配する。
→資本主義の理論(弱肉強食の世界)・交換の世界
※資本の理論は「種」を破壊する。地方は崩壊するであろう・・・。
・グローバル性が高くない中での自分の存在。
ランダムネットワーク・クラスタの世界。
田邊元 種の理論
個は自分自身を変えてゆく事ができる。→個を変えることで「種」を変える。
めったに会わなくても、尊敬と信頼に裏づけられている気持ち。ウィークタイ。
【 商品としての私 】
純生産
クラスタの世界・・・贈与
贈与の要素を交換の要素に持ってくるか?
われわれ、自分自身の価値はどう決まってくるか?
商品だけでよければ「等価交換」の要素であろう。
(時間の関係で未完で終了!・笑)
【 所感 】
まず、西原さんの話を複雑系との対比でとらえ、太田さんの話を骰子一擲と、一言で概括された。そしてそれを受けるような形で講演に入られた。
一見ばらばらな3つのマテリアルを一言でひとつにつなげられた流れは見事!
盲点の実験は面白かった!自分の脳みその「いい加減さ」を思い知らされ、だからこそ、いい加減だからこそ「可塑性」がある事を改めて知った。
そして、
>ミーム力を鍛えるということは「脳みそ」を鍛えるということである。
>つまり、「経験」と「学習」と「環境」が非常に重要なのである。
>そこで、脳みそへの環境提供としてのIT化・イントラネットなのである。
動きだせえぶりばでぃ!・・・つまり「経験を重ねよ」であり、
反省の行為をもとう!・・・つまり「学習せよ」であり、
その場・「環境」を提供する場がイントラネットである。
というアプローチはすとんと胸に落ちるものがあった。
しかし!
「交換・贈与・純粋贈与」は全く「宇宙論的哲学?」でとても理解不能。
そして、去勢・・・これもほとんど理解不能であった。
ここは、もう少しわかりやすくお願いします。m(__)m |
2004/11/09 (火) ▲ ▼
【今日は大阪三人会】
なぜか今は午前3時40分。
起きたのではなく、これから寝るのだ。
ここのところ、脳味噌が覚醒しない日々が続いていて、文章を書くのが億劫になっている。→なので原稿は全然すすまない。★\(^^;
脳味噌とか身体には好不調の波長があるのは確かだろう。
まだ今年はウツにならないだけいいんだけれど、まあ調子の悪いときには、悪いようにしているしかない。
そういうわけで、最近はじたばたするのを止めるようにしている。
だから、なるべく寝たいときに眠り、起きていたいときに起きるようにしている。
原稿も書きたいときに書くしかない。★\(^^;
まあ、そのうちきっといいことがあるかもしれない。
と、思うようにしているんだけれど、こんないい加減な生き方じゃ、そんなにいいことが起きないのも人生なのかもしれないが。(苦笑)
それにしても、今日は大阪三人会だ。
集客は思うようにいかなかったようだ(さすが鬼門である)。
けれど、だからといって気を抜いた話はしないつもり。
短時間だけれども、今年一番の形而上学的話をしよと思っている(最初からそのつもりだった)。
PPTは先に提供しているものを使うけれど、PPTに沿って話をしていたのでは、持ち時間は足りない。
なので、PPTを置き去りにするような話をしてみたい。
今考えている滑り出しはこんなものだ。
(やらないかもしれないけど・・・)
先に脳味噌とか身体には・・・と書いたけど、個体における脳味噌の始まりは確かにDNAの記述情報通りだろう。まずは「生まれ」がものをいう。
しかし、個体における脳の発達は、身体との関係、そして環境との関係、つまり経験によって変わってくる。経緯に依存することで「育ち」がものをいう。(これを脳の可塑性−マリアビリティ−って言うわけだ)
この生まれと育ちのハイブリッドは、人生の続く限り継続するのだろ。
その時ミームは、育ちの基底を構築している。
つまり種の存在である。
しかし、個の脳に可塑性が働くことで種のミームも変化するわけだね。
世の中は、個体としての私の脳が勝手に作り出している解釈のようなもので、私に見える世界は、本来、私にしか見えない。
例えば、人間の目は、たまたまRGBを感じる細胞しか持っていないので、色をRGBを基本として感じて、すべての色を作り出すんだけど、私の「赤」「緑」「青」は、貴方ののそれとは、本当は違うのかもしれない。
→男性の2割は実は赤遺伝子の感受性が弱いらしい。
さらに言えば、色の基本がRGBなのではない。
人間の脳は、RGBしか感じられない(その遺伝子しか持っていない)ので、色をRGBから作り出しているだけなのだ。
これで赤外線でも見えたら、世の中は多分ぐにゃぐにゃに歪んで見えるわけで、壁の後の見えないモノが見えたりするかもしれない。
そうであれば、私の世界観は今とは全く違うものとなるのだね。
まあ、ここまで言及しなくとも、同じ種(環境と言ってもよい)の中で育っても、個々の脳はユニークな発達をする(それは可塑性があればこそだ)。
例えば、わたしのクローンができたところで、クローンはわたしと同じ思考をする脳を持つとは限らない。
それは、同じ経験をする、ということがそもそも難しいからだ。
経験は脳の形成に大きな影響を与える。
わたしの脳も、何かしらいい加減なミームの蓄積を経て(ほとんどは短期的な記憶だ)、今の世界観を持つに至っている、と言えるわけだけれども、つまりミームは、脳の可塑性のおかげで良かれ悪しかれ累積進化するのだ。
つまり、私たちの可能性というのは脳の可能性であり、それは脳の可塑性(マリアビリティ)なわけ。
脳は経験とか学習とかで変わる。
脳は経験を選択の糧とする。
そこから意識は生まれる。
そして意識の典型は「ことば」なんだ。
意識の定義
→表現の選択
→短期記憶
→可塑性
つまり、ミームだよ。
ということで、今日はこんな小道具も準備する。
まあ、これは印刷した紙でないと遊ぶのは難しいのだけれども。(笑)
2004/11/08 (月) ▲ ▼
【ようやく更新】
移動やらなにやらで、ようやくの更新。
今は午後2時30分。
新幹線車中では、中越地方に強い余震があって、上越新幹線は止まっている、とのアナウンスがあった。
群発地震のメカニズムは、こんな時だからこそ、ようやく興味が沸くようなもので、普段地震があったときでも、群発する地震などというものの存在は思いもしていなかった。
しかし、この地震が落ち着いてくれば、やがてまた地域も復興し、時間が経てば、人びとの記憶からも消えてしまうのだろう。
のどもと過ぎればなんとやら、であるけれども、ミーム進化の基本が、突然変異であるよりは累積進化であることを考えれば、我われは、また何かを学習し、なにかをミームとして蓄積していくのだろう。
種がその基底とするテリトリーは、地域特有の問題の発生の可能性を常に孕んでいる。
それは類としての国家においては、個の平等ではなく不平等として存在する。
そんな問題の起こる所に住んでいる個が悪い、という意見もあるだろうが、神戸でも東京でも、アジアのハシッコにあるこの島国では、どこでもそんなことをいえたものではないのだろう。
明日は我が身である。
だからこそ、私たちは、科学を持って環境をコントロールしようとする唯一の生物として生きていかなくてはならない。
といささか大げさに書いてみたい衝動にかられた。
くりちゃんから。
おはようございます。
(ざっくり)
PPT見てたんですけど、
お乳飲んでる赤ちゃんの挿絵が多い気がしたんですが、
ツッコミせなアカンとこでしょうか・・?(笑)
それでは股、あしたです。
よろしくお願いします。 |
懇親会のときでも良いので、ツッコミをいただければ嬉しい。
→ 11・09大阪三人会
「お乳飲んでる赤ちゃんの挿絵」というのは、生物としての「私」のことであって、昨日の戯言だと「母の乳を飲み、おしっことうんこを垂れ流す世界」のことだ。
その世界への憧憬がまだ強く残っているガキとは、「ことば」による「人間の去勢」(ラカン)が中途半端な状態で、まあ、ピーターパン・シンドロームのようなものだと思ってもらえばよいだろう。
わたしは、わたしのその時代は嫌いだ、と書いたけれども、<他者>がどう思うかについては、興味はあるが、とやかく言うつもりもない。
大人になりたくない、と思うのもひとつの世界観だろうし、大人をどう定義するかは、その人の生まれと育ちを通して形成されてきた脳味噌とそこに宿るミームによっては違うと考えている。
例えば、イスラム圏と日本では大人の定義は違うだろう(類による違い)。
同じ日本でも、今から24年前と、今とでは違うだろう(時間軸による違い)。
同じ日本でも、地域によっては違うのかも知れない(種による違いの可能性)。
これを多様性と考えていいのだろうし、人間の複雑さと考えてもよいだろう。
多様性と複雑さは、密画的な科学が最も不得意とするところだけれども、今、科学が直面しているパラダイム・シフトは、複雑なものを複雑なものとして考える科学であろう。
その複雑さの中に、遺伝子のように共通項でくくれるものを見つけることができるものが、ミームだと考えている。
しかしミームの形成は複雑である。
それは、「お乳飲んでる赤ちゃん」と「その世界への憧憬がまだ強く残っているガキ」を考えるというような、形而上的なものを避けられないと考えている。
2004/11/07 (日) ▲ ▼
【温水プールの夜】
7時30分起床。
浅草は張れ。
体調的な問題もあって、思考能力が極端に低い。
原稿を書くのもままならず、昨日は多くを寝て過ごした。
そして時々本を読んだり、音楽を聴いたり、DVDを見たり。
Live at Tower Theatre / (Full Dol)
Paul Simon
1980年10月7日のポール・サイモン。
今だからのDVDであって、輸入版だし値段も1700円弱。
若くて、身体も音楽もタイトなポール・サイモンを見ることができる。
1980年のわたしは大学生、とうに成人式は済ませていた。
けれども、母の乳を飲み、おしっことうんこを垂れ流す世界への憧憬がまだ強く残っているガキだった。
それは本当に微温湯に浸かっているような時代で、たぶんある意味、主体性の薄いどうしようもない人間であったはずだ。
つまり、本当の意味での人間の去勢もなく、生物と人間の中間体のような存在で、神様なんていなかったけれど、一応マルクスが神様ってことにはなっていた。
しかし、なぜか音楽は(なまいきに?)洋楽とよばれるものばかり聞いていた(ロシア民謡ではない)。ラジオはFEN。
なぜかって、ロシア民謡じゃ女の子にモテないからだ(これは隠喩だ)。
そして、なんの目標も無く、だからと言って将来に対する不安も無く、考える手段も持たず、ただぼんやりとした希望と、何を根拠にしたものなのか全然思い出せないような感性だけを頼りに、毎日を過ごしていた。
そんな間抜けな生活をしていたおかげか、このDVDにある曲は、ほとんど同時代的に聞いていた。
歌詞の意味なんて、理解できなかったけれども、母の乳を飲み、おしっことうんこを垂れ流す世界への憧憬がまだ強く残っているガキには、その旋律の適度な甘さと、適度に難しい歌詞が作り出す内向的な音楽がお似合いだと思っていたのだろう。
最近のポールは、哲学者のような曲を書く。
それはそれで好き(理解はできないが)なのだけれども、こうして24年も前のLIVEを見てしまうと、どうしてもその頃の自分を思い出す。
思い出せは、恥ずかしく、後悔することもあるけれども、それはそれで仕方がない、と思うしかない。そういう風に生きていたから今があるわけだし。
ただ、決して(今のわたしから見れば)誉められガキではない(というか、大嫌いだ!)のは確かなのだ。
家人曰く、酔っ払いのわたしは、時々なにか歌っているそうなのだが、それも英語(らしきもの)で歌っているのだそうだ。
まあ、言われてみればその通りで、その歌う酔っ払いのレパートリーは、残念ながら、大嫌いなこの時代のものなのだ。
そのひとつが「追憶の夜」(Late in the Evening)。
このDVDでの「追憶の夜」は、わたしの知っているものの中ではベスト。
今は亡き、リチャード・ティーのコーラスで泣けてしまう。
And it was late in the evening
And all the music seeping through
それは夜中のこと
いつも音楽は流れている
24年前、温水プールに浸かっているように、おいらは浮かれていた。
そして今でも、おいらは酔っ払って歌っている。
ただ、プールの水は温水じゃないけれどもね。
小僧の神様・一房の葡萄少年少女日本文学館
志賀直哉(著)
武者小路実篤(著)
有島武郎(著)
作品解説:巌谷大四
随筆:後藤明生
本文注釈:小田切進
1986年10月18日
講談社
2100円(税込)
11・04で使った「小僧の神様」の出典元。
「小僧の神様」にはどこかで出会っていたはずだ。
多分教科書だろうか?
でも、記憶にあったのは題名だけ・・・。
そして、46歳の今、このふりがな解説付きの小学生向けの本を読んでみたのだが、それはそれで素晴らしい発見に満ちている。センス・オブ・ワンダーだ。
今更何を言っているのだろう、と思われるだろうが、わたしはこの手の小説−白樺派だぜ−なんて、ずーっとアウト・オブ・眼中であったわけだ。
それは、わたしのキャパシティが低すぎた、というのも確かにあるけれども、「小僧の神様」じゃ、女の子にモテないじゃない(これは隠喩だ)。
それは感動を容易に共感取得しようとするエコノミーが働いているのだろう。
厄介なテクストと対峙するなら、容易なポピュラー・ミュージックの方が安上がりだもの。
随筆で後藤明生氏が書いておられる。
『何に感動するか、何を面白がるか、何を不思議がるか。作品の中に、どのような未知の世界を発見し、体験するか、それらはすべて読む者の自由である。同時にそれが小説の自由でもある。』
それはこんな例えに似ているような気がする。
人間の目は、まず世界があってそれを見るために発達(発生)してきたのではなく、目が発達する過程で、人間の中に世界が生まれた。
24年前の温水プールから引き上げられたわたしは、こんなことを書く生意気な中年になった。
ということで、今日と明日は私用で出かける。
2004/11/06 (土) ▲ ▼
【理不尽な強者】
午前7時30分起床。
浅草はくもり。
11・04の講演に対する感想から。
(ざっくり)
先生のご講演を聴講しましたのは、たぶん
3,4回目になると思うのですが、
一番ビビット来ました。
ある種エキサイティングでした。
実験的
ということでしたが、むしろ、
非常に王道を感じました。
是非多くの聴講者向けに同内容のご講演を。!
暗黙知だけでなく暗黙値も失いつつある建設業。
いいからやれ、金はない。
この無理屈は聞き飽きましたので、
他の世の中に行きたいのですが。
(ざっくり)
今後も宜しくご指導ください。 |
(ざっくり)
さて、昨日の講演、なかなか難しかったです。。。
三位一体の説明、贈与・想像界・種・・
それぞれは関係は理解できるモノの、その総てを結びつけ、
事象として捉えるには自分のアタマが堅すぎました。
あくまでも「何となく」くらいの理解度、というのが実際のところで、
前日のFC東京優勝に浮かれたアタマには・・・f(^_^)
もうちょっと時間があれば、自分の中でかみ砕いて、
より消化できるのかもしれませんが・・・
師匠は反省、という言葉を店主戯言で使われていますが、
自分の場合はまだまだ「精進が足りない」ようです。
とにもかくにも刺激を与えて頂き、ありがとうございました。
大阪までの遠征は出来ませんが、
PPTと店主戯言でその雰囲気を味わいたいと思います。
また次回の会合を期待しております。
どうぞお身体ご自愛ください。
取り急ぎ御礼まで。ありがとうございました。 |
先日は大変お世話になりました
久しぶりの浅草で、おいしいうどんすきと楽しいお話、ごちそうさまでした
翌朝、浅草寺にお参りしてから
今回の上京のもう一つの目的である「べてる」のシンポジウム
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/yotei/yo_041105.htm
を聞いて、先ほど帰ってきました
「べてる」とは北海道浦河町にある精神障害をかかえた人たちの有限会社・社会福祉法人で、「利益のないところを大切に」「弱さを絆に」「安心してさぼれる会社作り」「三度の飯よりミーティング」などを合い言葉に地域にとけ込み、今や年商1億円、年間見学者1800人と過疎の町、浦河を支える一大地場産業となっています
「浦河べてるの家」 http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie/
「べてる」の「降りていく」生き方とは「昇る」ことよりも「降りる」こと、「勝つ」ことよりも「つながる」ことを目指しています
彼等の境遇は、決して彼等が望んだのでも、選んだのでもないという点が、なんか、中小建設業に通じるような気がします
中小建設業より、差別・偏見からスタートしたという点では、町の人々から信頼を得るまでの道のりは、より過酷だったのではないでしょうか?
今日のシンポジウムでも精神障害をかかえた人たちが自分達の言葉で自分達のことを語ることが重要だと言われていました
我が社も「誰も書かない」というミームをどうにかしなければ…と考えています
「べてる」を知るきっかけとなったのは新潟でまちづくり・ひとづくりをされている清水義晴さんの「変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから」という本です
清水さんは桃知さんと並んでぜひお呼びしたいと思っている方のお一人です
清水さんは人を動かす力を「場」の力とおっしゃっていますが、桃知さんがおっしゃるところのミームではないでしょうか?
今後、我が社のミームを変えていくと共に
個人的には「広くて薄い紐帯」づくりを目指して行きたいと思っています
これからもご指導、ご鞭撻の程、よろしくお願い致します |
ひとつだけ。
ハンデキャップをお持ちの方と「公共工事という産業」への認識という問題は、<他者>において認識段階のズレがあるように思う。
それは「コミットメントとシンパシー」と「スパイト行動」のメカニズムの違いだろうと考えている。
誤解を恐れずに言えば、ハンデキャップをお持ちの方々はまだ、コミットメントとシンパシーをベースにしたコミュニケーションが形作りやすい、と考えている。
それは彼らが本当に弱者であることが<他者>にとってわかりやすいからだし、乗り越えるべきものがまだ「格差」だからだ。
<他者>にとって比較的認識容易な弱者が情報を発信するとき、バルネラブル(弱者の強さ)は強調されるだろう。
バルネラブルをわたしに教えてくれた金子郁容氏が言っている「コミュニティ・ソリューション」も、そういう土壌をベースにしているものだと考えている。
それに対して「公共工事という産業」という種は、「地方」という弱者と都市部という<他者>との格差の是正をベースとしながら生まれ、繁殖し、安定期へ向かった。
結果的にはそのことで、「地方」が弱者ではなくなる時代が到来する。
→開発主義のパラドックス。
既に、宮本常一の描いた庶民はいないのである。
つまり「地方」という弱者は既にいない。→大衆消費社会(国民総中流)
そしてそこに国の財政問題が上書きされる。
その財政問題をつくったのが、「地方」という弱者と都市部という<他者>との格差の是正をベースにした「公共工事という産業」だ、というミームが生まれ繁栄する。
それは逆説的になのだが(なぜかは後述→嫉妬)国民総中流が崩壊し始めているという都市部の<他者>の意識とともに加速する。
そしてこのミームは、<他者>をそもそもその当事者であった「地方の市民」にまで広げる(彼らもまた国民総中流が崩壊し始めていると感ずる都市部の<他者>なのだ)。
この時、このミームはテリトリー性を破壊する。
そのことで、批判の対象としての「地方」とは、中小建設業と地方の為政者(つまり「公共工事という産業」)となる、ということだ。
ここで「公共工事という産業」は、同じコミュニティ内でも孤立する。
さらに開発主義の継続は(その財源が税金であることで)、「地方」(「公共工事という産業」)を<他者>(特に東京とその周辺にお住まいのホワイトカラー)に対する脅迫的強者としてしまう。
つまり理不尽な強者としての「公共工事という産業」観が誕生する。
そして格差の是正(これは類としての国家の当然の機能であるが故に)は、弱者としての<他者>に向くのではなく(財政問題を建前にしている以上、弱者としての<他者>に配分はおこらない)、強者としての「公共工事という産業」へ向けられる。
ここで「公共工事という産業」の環境は一変する。
それは<他者>と同じ環境への「地方」しいては「公共工事という産業」の環境変化(環境の是正)としてである。
→スケール・フリーネットワーク
わたしは、ここでの「公共工事という産業」や「地方」に対する<他者>の意識は「スパイト行動」に近いものであろう、と考えている。
(今回は政治経済的な問題には触れないまま議論をすすめる)
つまりそのエネルギーは「嫉妬」に近い感情ではないだろうか、とわたしは思うのだ。
であれば、政治経済的手法だけでは問題は絶対に解決できないだろう。
(少なくとも現政権が続くであろうここ2年間は)
嫉妬そのものが人間の理性的精神活動から生まれるものではないことで(そもそも嫉妬する人間がその嫉妬心を自らコントロールすることが困難なことで)、この問題は袋小路に入り込む。
そこでわたしのIT化はなにをしようとしているのか、なのだな。
その一端は11・04でもお披露目したものである。
または、10月14日の戯言に続く、である。
2004/11/05 (金) ▲ ▼
【11・09大阪三人会の予習用PPT】
11・09大阪三人会の予習用PPTをダウンロードのページに置きましたのでご利用ください。
午前中、原稿を書きながら、同時進行的に11・09大阪三人会のPPTをまとめていて気がついたことは、絶対に持ち時間内では終わらない、ということ。
なので、予習ができるようにPPTを先に見ていただこうと考えたわけだ。
今回の内容は次のようなトポロジーを持っている。
・HUBとしてのわたし -ウィークタイズをつくる
・商品としてのわたし -贈与と交換のハイブリッド
・ミームヴィークルとしてのわたし -わたし自身を知るために
俗っぽいキャッチフレーズをつけるなら、「変化の時代に成功する三つの方法」とでもなるのだろう。
まあ、そんな話であるわけもないが・・・(笑)
【反省が足りない】
7時35分起床。
浅草は晴れ。
昨日の第3回実験的勉強会での講演用PPTをダウンロードのページに置きましたので、興味のある方はご利用ください。
講演は、自己採点で60点というところ。
贈与-去勢-交換と、想像界-去勢-象徴界と、種-去勢-個の、トポロジカルな展開が、説明になってしまい芸にならない。
ここにある「去勢」の主役がミームであるのだが、流石に2時間30分の枠では詳しい話はできないままであった。
さらに、純粋贈与と贈与の関係の中に価値の増殖が起こる、という部分はボランティアとのからみで話を準備していたのだが、結局割愛してしまった次第。
修行が足りない。
それは、この部分の「ことば」が、まだ借り物だからで、わたし身体の一部になっていないからだ。「反省」も足りない。
ということで、次は11・09大阪三人会である。
桃知さんゑ
大盛@11月9日が楽しみ♪ です
>それにしても久々の大阪である。
>鬼門の関西圏である。
この歳になるまで,その鬼門の中にいてたから気が付かなかったのですが,オリックス・近鉄の合併を見てふと考えると・・・・・
赤字赤字の街です。 ホンマ・・・・鬼門です。
大阪には景気の悪い話ばっかり。
球団の合併,大阪ドームの破綻などなど・・・・
考えたら,あれだけ強かった阪急ブレーブスや南海ホークス。ドラマティックな近鉄バファローズを,いとも簡単に売り飛ばす街ですからね。
大阪商人も大したこと無いのか・・・・それとも,ドケチな関西人の気質が身の破綻を招いたのか。
桃知さん,来られるのをお楽しみにしています・・・・・・って・・・・・・・
誰が行く気になるねん!・・・・・ですな・・・・
でも,鬼門は鬼門で面白いですよ!
その鬼門の中で藻掻いている我々のパワーを見に来てください。
では・・・・ドキをムネムネさせながら,手招きしながら,来阪をお待ちしています(不気味)。 |
2004/11/04 (木) ▲ ▼
【今日は】
午前7時30分起床。
浅草は快晴。
昨晩は、6チャンネルでダーウィンの番組を見ていた。
チャールズ・ダーウィンは、軍艦ビーグル号に乗って、5年間にわたり世界を一周したあとで、19世紀の社会を根本からゆりうごかす理論をあみだした。
自然淘汰(Natural Selection)である。
人間を含むあらゆる生き物は、自然淘汰によって進化してきた、と。
この考え方は、当時教会が主張する、人間は神の手によって神の姿に似せてつくられた、という考え方と真っ向から対立した。
昨日ちらっとふれたように、これは今でもドーキンスやグールド(死んじゃったけれども)に引き継がれてきたる論争なのである。
宗教のない文明圏(ハンチントンの言葉)に棲む私たちにとっては、今でも、と言うと、ホントかよ、と思うところもあるだろうが、世界の趨勢はそうだ、ということだろう。
ドーキンスの、『悪魔に仕える牧師』でも、『虹の解体』でもそうなのだが、そこまでムキになるのかよ、とわたしなんぞには思えてしまう。
だが、まあ、彼らには大問題なのだろう、などとわかったような口をきくわたしも、八百万の神々がそこいら中にいると思っている人であったりして、自分で自分の始末ができないでいる。(笑)
『虹の解体』
リチャード・ドーキンス(著)
福岡 伸一(訳)
2001年3月31日
早川書房
2310円(税込)
まあ、資本主義とキリスト教は同じ理論の上に生まれているわけだけれども、それは置いておいても、わたしにとっての大問題は、この自然淘汰が資本主義の世界に持ち込まれたときのNaiveな議論である。
つまり「強者の倫理と論理」の横行だ。
グールドはこれをトレンドとよぶのだろうか?
『悪意なき欺瞞』
ジョン・K・ガルブレイス(著)
佐和隆光(訳)
2004年9月30日
ダイヤモンド社
1680円(税込)
ガルブレイス氏(1908年生まれだから96歳だ)の最新著作は、経済学の巨人が書いた小さな、しかし示唆に富む本だと思う。
わたしは最近、新古典主義経済学(市場システム)への不信を、あからさまに書こうとはしていない。
けれども、その不信感に変わりがあるわけではない。
政治経済に関する本を読まなくなったわけでもない。
ただ、多くはわたしを失望させるだけであり、読んでその内容を検討するというよりも、なぜにこのようなミーム(「強者の倫理と論理」)が繁殖しているのかを探る材料であるだけだ。
現政権があと2年は続くとして、この政権を維持している「不平等」を「平等」とする不思議なミームの正体を知りたいと思っているし、そんな中で、わたし自身がコミットメントとシンパシーを倫理として生きていくにはどうしたらよいのだろうか、と考えている。
『悪意なき欺瞞』訳者である佐和隆光氏は「役者解説」で次のように書いている。
『もともと、サミュエル・ハンチントンによって宗教のない文明圏「日本文明圏」に封じ込められた日本において、アダム・スミスのテーゼがいとも簡単に受け容れられ、その挙句に「強者の倫理と論理」が、誰はばかることなく横行しはじめたのは、いったい全体、なにゆえのことなのだろうか、旧来の日本型システムが、「国土の均衡ある発展」「義務教育の地域格差の是正」「国から地方への交付金・補助金の給付」などといった平等主義に偏していたことは事実である。これを「不平等」と決めつけるエコノミストの主張が、小泉潤一郎政権を支持する都市住民の称賛を勝ち得ている。』(p138)
『悪意なき欺瞞』で、ガルブレイスが指摘している欺瞞はまさにその通りだろうな、とは思う。
だけど、では私たちが、コミットメントとシンパシーを倫理とした世界に生きるためには、なにをどうしたらよいのかは書かれてはいないし、そのヒントもないように思える。
まあ、彼に言わせれば主流経済学が主役の座から落ちれば問題解決なのだろうが、米国でも後4年はそれは望むべくもないようだ。
結局、既存の二極対立で考える経済学はここまでなのかもしれない。
ということで、今日は11・04第3回実験的勉強会である。
PPTはまとまらない。
それはトポロジカルなものが足りないからだ、と自己理解はしているつもりだが、けれど、講演の中で、次々と場面を変えるというのは簡単なものではない。
しかしこの壁いつか破らねば、と思う今日この頃、今日もまあ、骰子一擲だ。
ということで、先日みちのくプロレスの安比大会で食べた、スープカレーっぽい(というか単にうすい)カレーの写真があったので掲示。
この写真にたいした意味はない。
ただ、みちのくプロレスのサイト、新人募集の要項の中で、マジシャンを優遇するのは、じつにみちプロらしくて好きだな、と感じたのでそのネタフリのためだ。
会長の悪口を書くわけではないが、大阪プロレスの人財充実度をみるにつけ・・・なのだ。
→正のフィードバック
2004/11/03 (水) ▲ ▼
【選択の日々】
7時30分起床。
浅草はくもり。
今日の浅草は時代まつりで、我が家も一役買っている。
なので、午後からはそちらに時間をとられる予定である。
プロ野球の新球団は、予定調和的に楽天に決まった。
しかし、楽天が仙台に球団を持てるのは、ライブドアの堀江社長の骰子一擲があったからには違いない(まあ、月並みな言い方だが)。
それが無かったら、来期は10球団1リーグ制だったかもしれない。
(わたしはそれを支持していたのだけれども)
目先の成果は、楽天が漁夫の利よろしく持っていってしまったけれども、堀江氏の価値の増殖は楽天の比ではないだろうし、今回の選択において、「楽天>ライブドア」という価値の不等式は、多くのファンの方々にはないものだろう。
そういう意味では堀江氏の骰子一擲はこの先こそが大切なのかもしれない。
米国の大統領選挙の結果も大変に気になる。
不等式は「ケリー>ブッシュ」となるのか「ブッシュ>ケリー」となるのか。
『悪魔に仕える牧師』
リチャード・ドーキンス(著)
垂水雄二(訳)
2004年4月30日
早川書房
2520円(税込)
わたしのミームの師匠であるR・ドーキンスは徹底して宗教を嫌う人である。
彼の神様は「科学」であり、科学的に解明できないものは真理ではない。
しかし、米国での大統領選挙を見ていても、そこには何がしかの倫理観に基づいた負のフィードバックが働いているように思えるし、それが「接戦」という表現型をつくっているように思う。
そしてそこに流れる倫理観(つまり負のフィードバックの基準)は、宗教的なものではないのか、と思うのだ。
人は、宇宙の真実がベキ法則だろうが、人間の根源がDNAだろうが、自然淘汰が働こうが、そういうものとは無関係に(別の理論で)動いているのかもしれない。
生物としてのわたしは確かに存在するけれども、意志と精神を持った「自己」としてのわたしは、(身体を共有することで「生物」としてのわたしとの相互作用はあるけれども)それとはまた別に存在している。
しかし、それこそがR・ドーキンスの神である科学の根源であり、彼が嫌った宗教の根源でもある。
ドーキンスは自らミームという自己複製子概念を用いて、それを理解しようとしたのだろう。
ミームは存在している。
それは心に宿るウィルスのようにである。
宗教はミームとして存在している。
だからと言ってミームの存在を否定することは人間の否定でしかない。
科学さえも、ミームを利用しなくては、その普遍性を主張できない。
なぜなら、言葉も記号も数式もミームだからだ。
であるならばだ。
そこには「倫理」が必要なだろう。
それは選択の基準であり、負のフィードバックの基準である。
ドーキンスはその倫理を科学に求めた人だ。
デカルト・ガリレオの正当な後継者である。
精神の強い人である。
しかし、「ボロメオの結び目」というトポロジーは、私たちが生物であることで、またミームのヴィークルであることで、分裂しながら存在していることを教えてくれる。
わたし的には、倫理に科学を置くか、宗教を置くか、という問題はたいした違いのないことのように思う。
問題は、その倫理は、倫理として本当は正しいのか、という問いかける「こころ」をどこに持ちえるか、ではないだろうか。
それが哲学する心なのだろうが、それさえも、ミームによって養われるものである。
ああ、悩ましい。(笑)
ある方からのメール。
桃知様とそこに集う方々から、私はインターネットを通じて力をいただいております。
昨年の12月に、桃知様の独演会を聞いて以来、私も自分なりに、なぜ、論理構築のベースにミームがあるのか、ミーム以外でもいいのではないかと考えてきました。
最近になって、ようやくミームをベースにしなければならない(?)ことがわかってきました。(しなければならないという表現が適切ではないかもしれませんが、私はそのように考えるようになりました)
その間、桃知様はさらなるバージョンアップをされており、今回の勉強会では是非、それをもとに私自身の係数aを少しでも大きくしたかったのですが、残念です。
お体をご自愛なさって、桃知ミームを多くの人々に浸透させて下さい。 |
2004/11/02 (火) ▲ ▼
【価値の増殖(そして衰退)】
6時起床。
浅草は霧の中。多分晴れるのだろう。
どうも体調が思わしくない。
昨晩も帰宅後、ちょっと夜食をとったら吐いてしまた。
多分お疲れなのだ。
今日の予定は、事務処理と、原稿書きと、おとりさま(今年は三の酉)とムシキングである。
これはこれで結構ハードなスケジュールなのだが(笑)、「飲むことだ」がないので体調的には楽かもしれない。
昨日、宇都宮に向かう車中には、おば様軍団がおられ、わずか四十数分の移動の時間、少しでも静かなところで過ごそうとしてグリーン車を選んだわたしを落胆させた。
おば様たちの話は他愛のないもので、主役はキティちゃんだった。
彼女たちはキティちゃんの年齢を正確に覚えていて、11月1日で30歳なのだという。(どうやらそれは本当のようだ)
30歳、未婚・・・というような話で盛り上がっていたようだが、ああ、キティちゃんも負け犬ならぬ「負け猫」なのね、とわたしはひっそりと笑ってしまった。
『負け犬の遠吠え』
酒井順子(著)
2003年10月27日
講談社
1470円(税込)
11・04第3回実験的勉強会は、昨日の3名さまの申込をもって、満員御礼(フルハウス)、申込を〆切らせていただいた。
感謝!
『フルハウス』
スティーヴン・ジェイ・グールド(著)
渡辺政隆(訳)
2003年11月20日
早川書房
924円(税込)
わたしは職業的「喋る人」である。
それを生業の一部にしている
この職業は相手(ミームの届け先)があってこそ可能なものであり、わたしの評価は常に「聞く人」としての<他者>の中にある。
その評価はすぐに対価として戻ってくる場合もあるけれども、そのほとんどは、もっと長い視点で考えなくてはならない長〜いフィードバックだ。
もしかしたら戻ることもない。
しかしそれはそれでもよいのである。
この関係は職業でありながら、「贈与」とか「社会的交換」(村上泰亮)という関係性が色濃い。→第二種の情報。
わたしの価値の増殖(そして衰退)は、資本の増殖とイコールではない。
その価値の増殖(そして衰退)はどこからもたらされるのだろうか。
これって不思議だと思う。
多分、それは関係性(ネットワーク)の中からでしかないのだけれども、それは「他者の悦楽」(女の悦楽)と呼ばれるものなのだろうね。
2004/11/01 (月) ▲ ▼
【11月のセミナー】
昨日は、遠方より&懐かしい方のご訪問があり、昼間から気持ちよく飲んでしまった。
なので、早めに寝てしまった関係で、今朝は午前5時55分起床なのである。
浅草は真っ暗。
どうやら雨らしい。
11月は上記のセミナー案内にもあるように、現在3本のオープンセミナーを予定している。
■「11・04第3回実験的勉強会」
これは既に満員御礼状態なのだけれども、キャンセル+会場キャパを考えて、あと若干名さまの受付を継続中なのだ。
昨日書いたように、今回は実験的な部分が多い。
ずっと躊躇していた「ボロメオの結び目」を持ち出してしまった。
IT化と「ボロメオの結び目」・・・無謀じゃ。(笑)
PPTはいまだに試行錯誤中。
ストーリー・テーラーとしては試練のセミナーで、内容は最後までまとまらないかもしれない。
けれども骰子一擲なのである。
■「11・09大阪三人会」
演題は、11・04のショート・バージョンということになっている。
しかし、1時間で11・04の内容ができるのか、といえば、無理。
なので、抽出した内容は「ことば」についてである。
それはつまりは「ミーム論」なのだけれども、今回はそれを11・04同様に「ボロメオの結び目」に上書きしてみる。
・象徴界、想像界、現実界のミーム的な意味。
・「ことば」と「わかる」について。
全然IT化とは関係ないように思えるかもしれないが、それはあまいってことだ。(笑)
ITは技術だが、IT化は哲学(論理)である。
技術は哲学がなければ暴走する。
それにしても久々の大阪である。
鬼門の関西圏である。
■「11・17RICOH SolutionWay 岩手04」
『即!活用!「すぐに役立つIT化」』という演題。
岩手県では、建協さま、そして電業協会+組合さまでの、事業者団体ベースのIT化の取組をお手伝いさせていただいている。
それは、わたしの事業者団体ベースのIT化理論でいえば、まずはランダム+クラスター型の紐帯を意識した取組としてだ。
今回、11・17の盛岡での講演は、ここからの次のステップを示唆するものとしたく考えている。なので、両会員の皆様には是非に聴いてほしいのである。
それは、現実を覆うスケール・フリーな世界に対して、ランダム+クラスター型の紐帯をベースとした「広くて薄い紐帯」(ウィーク・タイズ)の可能性を追求するIT化である。
そしてそれは、事業者団体ベースのIT化が基底にあることで、『即!活用!「すぐに役立つIT化」』となることをご説明したいと考えている。
→申込書 RF041117.pdf 171KB
ということで、今日は栃木建協さまのIT特別委員会。
宇都宮へ行ってくる。
▼
■桃知商店謹製■
(c) Copyright TOSIO MOMOTI 1998-2004.All
rights reserved.
インデックス |Self Talking INDEX| 今日の戯言 | 2004年10月後半へ | 2004年11月後半へ|著作権|店主へメール
|ももこむ通信|About桃知利男|ダウンロード|依存リンク|店主経歴|