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店主戯言041203 2004/12/21〜2004/12/31 "There
goes talkin' MOMO"
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2004/12/31 (金) ▲ ▼
【悪党・年末の挨拶】
良いお年をお迎えください。
【悪党・正月の準備はなにもしていない】
午前8時起床。
浅草は曇り。
昨晩、飲んだビール。
「ブラウンの風」
秋田県の地ビールらしい。
クイーンズ伊勢丹錦糸町店にて購入。
本当は銀河高原ビールを調達に行ったのだけれども、家人から、この瓶が欲しいとのリクエスト。
1リットル瓶である。
レトロスペクティブではある。
値段もそこそこに張る。
これで1900円弱。
まあ、なかなかに美味しい。
料理の邪魔をしない味とでも言おうか。
昨晩は豆乳鍋にこれをあわせたのだけれども、邪魔にはならなかった。
でも、個人的には、銀河高原ビールに軍配をあげてしまう。
正月の準備はなにもしていない。
いつものように本を読んで過ごしている。
ジャイロス#9
この本からの引用をふんだんに織り込み(メモ的にである)、今朝方、試行中のblogの日記にこう書いた。
日記というぐらいだから、毎日書こうと決めていたのだが、忘れてしまうものだ。
ここでは、書くよりも、つい読んでしまう。
それは私の個人的な興味からだけれども。
ここでの経験は浅いが、利用してみて今更のように思うのは(ここに限らず)、blogにある文字は、限りなく声に近い、ということだ。
声的な性格を持った文字がこの場を埋めている。
それはデジタルにおいて記録保存されているとはいえ、とても刹那的な存在だろう。
それはまた、貼り付けられる画像にも現れている。
画像はスナップ写真的である。
記念写真やその基である絵画的なものは、まずはない。
それは、テレビや映画という動画の経験の一断面でしかない刹那的なものだろう。
声的な性格を持った画像。
記録されているにもかかわらず消えていくのだ。
ここでは、自分の気持ちや経験を、反省の次元に持ち込むよな表現は(意識的に)避けられている。
観念を溜め、練り込み、相手を動かす徹底的な表現を考えることは、ない。
すべてが表層的であり、皮膚感覚的であり、言葉は魂を伴わない。
しかし今更それを批判しても仕方が無いだろう。
デジタルな文字=声的な文字は確実に機能し始めている。
ハイブリッド(はいぶりっど)な存在としてである。
それは近代が生み出した自我の形成パターンの変更を要求しているのだろう。
つまりこのハイブリッドな世界を貫く、基底がほしいのだ。
声的な文字は、アンカーを打ち込む基底を失っている浮遊する(魂の)破片のようなものだ。
如何すれば僕たちは、この声的な文字が繋がる、基底を持てるのだろうか。
まあ、こんな風に書いた。
声的な文字は、如何にして繋がるのだろうか。
薄くて広い紐帯というとき、わたしは、いまだにF2Fの必要性を持ち出さずにはいられない。
それは、言葉、文字(テクスト)による反省の行為を失っているところに生まれる「声的な文字」(携帯のメールがその典型であり、インターネットの多くを覆うblogの文字だ)が、信頼というような無限小をまとうには不可欠な体験だからだ。
ということで、落としどころはこれか。(笑)
しかしだ、個人的な思いとしては、F2Fを抜きにしても、観念を溜め、練り込み、相手を動かす徹底的な表現を考えていきたい。
文字(テクスト)で、だ。
これが、今年の反省と来年への誓いか。(笑)
2004/12/30 (木) ▲ ▼
【遅い朝食】
頂き物。
岩見沢建協さんからいただいた、鮭、たらこ、いくら。
日本の食卓の定番だろう。
お米も、桂さんからいただいていた秋田小町を食べつくし、今朝から、これまた頂き物の魚沼産こしひかり。
わたしは、普段から、飲用に水道水は用いていない。
基本的には、ミネラル・ウォーターを、まとめてネット上で調達している。
理由のひとつは、運ぶのが重いからで、ECだと、玄関まで運んできてくれる。
ただし、お茶やコーヒーは別で、例えば緑茶は煮沸した水道水の方が、どんなミネラル・ウォーターで入れるよりも美味しいと思う。
今日の水は、東北建設さんからいただいた、還元水。
例によってすべて頂き物。
感謝。
【悪党・前向き】
午前9時起床。
浅草は晴れ。
ここのところ、嬉しい知らせが二件ほどあって、わたしのこの統合失調症的な動きも、なにかしら、かたちにはなるのだなぁ、と感心している。
しかしそれも、わたしの動きだけでは、どうにもならなかったのは確かで、広くて薄い紐帯の機能を、さらに実感しているし、こんなわたしを、お引き立てして下さっている皆様には、感謝しても感謝しつくせない。
この嬉しい知らせの詳細は、年明けにでも、おいおいと書いていこう。
ただ、つくづくと思うことは、続けることと、実践することの大切さ、ということか。
悪党・近影
東京都内、それも皇居のすぐそばで、こんな格好していれば、それは当然にあやしまれるわな。
丁度、雪が雨に変わった頃。
でも相変わらずの寒さ(0℃〜1℃)。
これだけ寒けりゃ、犬ぞり以来の、パタゴニアのダスパーカーってことになったわけだ。
別に、ミレナリオを見に行ったのではない。
ミレナリオは、雨天のために中止だと、アルバイトが気の抜けた声で、伝えていた。
ただ、ほんとに寒い一日だった。
夜に向かって天候は回復していった。
昨晩は、この日で某社を退職された方と、遅くまで飲んだ。
ある程度、年を取ってからの、退職、転職、独立、起業は、決して楽なものではないし、実際にそうしたわたしから言わせてもらえば、やはり大変さ。
できれば、平穏安泰に人生を過ごせれば、それはそれで素晴らしいだろうと思う。
しかし、世の中には、それじゃ気が済まない人間だっているのだ。
そのは理由はともかく、そこで引きこもるのではなく、私の内なるパッションの表現として表出する私であるとき、そういう方々を、実践者、とわたしは呼びたい。
栗ちゃんも、年内いっぱいで、今の会社を退職されたようだけれども、彼女の日記でもわかるように、前向きであることで、文章(表現)も明るい。
(↓)前向きな宿神−ウルトラマン
わたしも、ともすると、後ろ向きに出来事を観察して、それになにやら理由をつけたりすることが多い(コンサルなんていうのは、そういう仕事が多いのだ)。
それを評論家的態度、と呼んでもいいだろう。
つまり、評論家は結果を見てから、その結果が生まれた原因を論じている。
しかしそれは、実践者には必要のないスタンスだ。
実践者は評論家である必要はない。
実践者にとって大切なことは、希望する結果を出す原因を、自分の内につくりながら、その効果を表現し続けることだ。
その無限ループの中に、私は生まれる。
常に変態的に自己否定し変革するものとしての自分である。
しかし、希望する結果を出す原因を自らの内につくりだすことは、科学的であることを捨てることではない。
ただ、評論家的態度を捨てることだ。
ただ、パッションを内に、自らに実践を課することだ。
(動き出せ!えぶりばでぃ!)
そして、そこにあるものをプラスすればよい。
略画的思考、対照性の思考。
それは、ちょとした考え方の違い。
結果から原因を論じるのではなく、希望する結果を持って、その原因を自らの内につくりだす。
すべては未来を志向する。
そしてそれは、基底(種)を身体で覚えこむこと、しかし1%
のインスピレーションを感じながら、骰子一擲を繰り返す、そんな態度からしか、実現できない夢。
エジソン曰く、である。
「天才は1%のひらめきと99%の努力のたまものである」
この言葉の真意は、どんなに努力しようが、1%のインスピレーションがペケなら、努力は無駄だ、ということだ。
だから、実践者は、1% のインスピレーションを大切にする方々である。
それは、決して、評論家的態度からは生まれない。
そして、中沢新一流に言えば、それは無意識の領域からしか生まれない。
略画的思考、対照性の思考。
人には、遺伝的なものとしての得て不得手はある。
しかし、どんなに才能があろうとも、それを生かし切れない方々のなんと多いことか。
そういう人は、未来を志向していない。
そして、遺伝子的なものを超えたところにみずからを置く。
略画的思考、対照性の思考
しかし、科学的であることも捨てない。
ただ、略画的思考、対照性の思考を上書きをする。
無意識を鍛える。
実践者は骰子一擲を繰り返す。
そのとき必要なのは、絶えることのないpassionだ。
2004/12/29 (水) ▲ ▼
【悪党・雪は嫌い】
浅草も雪だ。
浅草寺も花やしきも白い。
言問通りを大粒の雪がまう。
寒い。(↓)白い浅草寺。
わたしんちのベランダから見える花やしきのスペースショット。
(斜めになっているが、ピサの斜塔じゃない。わたしのカメラ位置がそもそも曲がっているのだ)
スペースショットはもちろん、ジェット・コースターも、花やしきはぜんぜん動いちゃいない。
開店休業状態だろう。
浅草寺も、ただ、白いだけだ。
ガサ市(境内の裏側で行われている〆縄市)もおわるのだけれども、これじゃ片付けも大変だろう。
夕方、丸の内に行くのが面倒になってきそうな雪だ。
でも、こんなんでめげていたら、空知の皆さんには、笑われるだけだろうな。
さて、わたしは、こうして、また画像を貼り付けている。
これにはじつは実験的な狙いがあるのだけれども、手の内は、まだ明かさない。(笑)
【悪党は偏食する】
午前7時起床。
浅草は雨。
昨日に引き続き、浅草寺の片隅に棲む宿神。
目玉親父もいれば、当然に、鬼太郎もいる。
ひっそりと万歳をしている。
(それともお手上げか?)
昨日、食べたもの。
八木沢さんからいただいた、豚のたたき。
(八木沢さん、ありがとうございます。m(__)m)
わさび醤油にて、朝に食べる。
無菌豚。じゃないと、こんな食べ方は無理だろうね。
ANNAN浅草店のアップルパイ。ここは名の通った店。
お昼ちょっと前に行ったのだけれど、オーブンが使えるスタッフがいない、ということで、お目当てのスフレを食べることができなかった。
わたしは、こういうのが大嫌い。
じゃ、店を開けるな!と。
店の技術を提供できないのに、店をあけるか、フツー。
土木屋が、技術者なしで営業するか、フツー。
わたしがいう哲学の無さは、こういうところに現れる。
たぶん?技術はすばらしいのだろうが・・・。
しかたなしに食べたのがアップルパイだったのだけれども、食べないで帰ればよかった。(ToT)/~~~
でも、店の天井を飛んでいた、こいつは魅力的だったなぁ。
気を取り直して、夜は、近所の喜美松さんへ。
たぶん、ここは内臓系好きにはたまらないところ。
すべて豚のホルモン。それも刺身。一見無謀。
なんの刺身かわかるだろうか。
(↑)は、タンのタタキ、キャンタマ、小袋、レバー。(少し食べた後の写真)(笑)
(↑)は、ハツ、シロ、ガツ(茹)、ガツ(生)。
写真はすべて半人前ずつ盛り合わせにしていただいたもの。
美しいだろう。
念入りな下ごしらえと品質の管理。
じゃ、ないとこんなものはできない。
それを技術という。
刺身で、ホルモンを出すぐらいだから、モツ焼きも当然にうまい。
レバー焼きなんて、絶妙のミディアムなのだ。
店構えもステキなのだけれど、写真とるのを忘れた、というか、あんまり知られたくない店。
いつも混んでいる。入れないときもある。
そして、なによりも、美味くて財布にやさしいからね。(笑)
今日は、夕方に丸の内。
夜にお客様がお一人の予定。
2004/12/28 (火) ▲ ▼
【悪党・フニャフニャ】
午前6時起床。
今朝は冷え込んでいる。
昨日、朝の散歩の途中、浅草寺の裏側(東北)に宿神(目玉親父)を発見。
宿神は、ひっそりと考え込んでいた。
(↓)浅草はオレンジ通り、みうらやさんのフカヒレらうめん。
昨日の遅い昼食。
麺はコシのないフニャフニャ系。
それに、フニャフニャのフカヒレあんかけスープがのっている。
つまりスープはフニャフニャ+麺もフニャフニャのWフニャフニャ。
これに紅香酢を少量かけて食べる。
フニャフニャ好きにはたまらない一品なのだ。
うどん:
も、そうなのだけれど、シコシコとコシのあるものよりも、わたしは、じつは、フニャフニャ系が大好き。(笑)
夕方は錦糸町へ出かけ、トム・ハンクスのターミナルを観る。
率直な感想:
感動したくてもできない、友情物語でも恋愛物語にもなりきれない、というような、フニャフニャ系の映画。(笑)
トム・ハンクスは相変わらずうまい。でも、わたしには、キャサリン・ゼタ=ジョンーンズ演じる、アメリア(CA)が魅力的だった。
といっても、できるキャリア・ウーマンじゃない。
ただ、待っているだけの、フニャフニャ系の女。
ちょと統合失調症気味。
待っている女の必需品はポケベル(ペイジャー)。
その昔、ポケベルを会社から渡されていた頃を懐かしく思い出す。
あんなに身体に悪いものはなかった。
アメリアは、一旦は、ペイジャーを投げ捨てる。
けれども、でも、やっぱり元の鞘へ戻っていく。
いいぞ!フニャフニャ女!と思わず声をかけたくなった(このあたりは深いな→自己の否定の否定)。
そして彼女をはじめ、各登場人物の、台詞が、わざとらしくも、カッコいい。
けれど、台詞なんざ、いちいち覚えていないわけで、たぶんDVDが出れば、購入してまた見るのだろう。(スピルバーグ、一粒で二度美味しい)
← 映画館のある、錦糸町は楽天地の門松。きちんと浅草系。
( ̄ー ̄)ニヤリッ
#一番上の縄の結びは、ずばり46歳以上(50代か)と見た。
#フニャフニャ系なのだ。★\(^^;
今回は、午後6時からの上映だったのだが、結構な客入りで、240席ほどの館内は、半分ほどは埋まっていただろうか。
ゴジラやハウルとは違い、客の年齢層も高い。
今は、やたらとTVがつまらないから、また(徐々に)映画に人が集まってきているのかもしれない。
今、TVは、ある意味、表現の多様性を失っているように思う。
それは、自己否定できない悲しさ故だろう。
自己否定できないとは、自らの内なる悪を直視できない、ということだ。
それは倫理を失い、変態的自己変革の機会を失う。
変態的自己変革ができないのであれば、表現は生まれない。
表現が生まれなければ、なにものとも繋がらないのだ。
TVは、今、繋がらない。
ただ、情報を垂れ流しているだけだろう。
自己否定:
しかしそれは「自分探し」や「正解探し」でもない。
「正解探し」は、主客分離の方法、自分の外側を探す。
科学的という方法はこれだ。
しかし外側を探すだけでは私は変わらない。
表現をもたない。
外側を探すだけの者は、すべてが借り物の言葉に過ぎないことに気づくべきだろう。
そこには言霊がない。
ただ、自分の身に起こる、楽しいことも、悲しいことも、そのすべてを受け止めながら、その上に、私の変態的変革の道を見つけること。
それは、私の価値観を、私自身で何度も否定すること。
私の存在を、常に私に問いかけるからこそ、私は変われる。
変われるからこそ、私は表現を持つことができる。
それに気づくべきだろう。
(といっても、気づけないのが、種に解けた個なのだ)
昨晩は、珍しく外食をせずに、自宅に帰ってから夕食を食べた。
食べたのは贈与、延岡のG3からいただいたチキン南蛮。(ありがとうございます。m(__)m)
チキン南蛮は、宮崎生まれのフニャフニャ系の食べ物だ。
鳥の胸肉をやわらかく揚げて、それを甘酢タレに漬け込み、タルタルソースをかけて食べる。
いただいたものは、その一式がセットになっているもので、どこでも、このフニャフニャが楽しめる優れもの。
なによりも便利なのは、チンすれば出来上がり、ってことだろう。、
(しかし、「電子レンジで暖める」を、「チンする」というのもへんなミームだよな)
これにビール。
フニャフニャ系のわたしは、それで十分なのだ。
2004/12/27 (月) ▲ ▼
【悪党は機嫌が悪い、もしくは「荒ぶる神」】
7時47分起床。
浅草は晴れ。
悪党が、ふざけた休日を送っているとき、スマトラ島沖で地震があった。
多くの方々が被害を受けた。
これは人事ではないだろう。
いつ、私たちの身に起きても不思議ではないことだ。
地球は、確かに私たちを生んだ母かも知れない。
が、と同時に、私たちの運命をもてあそぶ「荒ぶる神」でもある。
その「荒ぶる神」の行為を、自然淘汰(Natural
Selection)と呼ぶのかもしれないが、確かに人類は、限りなく自分勝手な、この「荒ぶる神」のおかげで、地球に生まれた。
そして、この「荒ぶる神」との関係を、如何に良好に保つことができるのかを、ずっと考え、実行してきた。
言葉も、宗教も、科学も、芸能も、土木技術も、骰子一擲さえも、そこから生まれたミームでしかない。
今年、私たちは、忘れかけていた「荒ぶる神」の存在を、再確認したのではないだろうか。
東京駅地下街にあった、フツーの門松。
浅草の男根門松に慣れちまうと、やっぱり、これじゃつまんないよね、と思う。
昨日は、朝方から所用で丸の内へ。(別にミネラレナリオを見に行ったのではない−都度のご指摘ありがとう。(^o^)/)
昼食を、丸ビル内のベトナム風フレンチの店でとる。
客筋は、場所柄からかカップルが多く、店の雰囲気も悪くはない。
こじゃれた店である。
ランチのコース(2940円)をオーダーした(といってもメインはビールだけれどもね)。
酒飲みは、酒だけ飲めればいいのか、といえば、絶対にそんことはなくて、美味しく飲むために、料理にも気を使う。
そんな酒飲みにとって、この店は、残念!なのであった。
前菜の、鯛のカルパッチョ、生春巻きまでは、よかった。
れども、メインディッシュの肉料理はいただけなかった。
煮豚の汁気の無さも許せなかったけれども、付け合せのマッシュポテトが一番の問題点だ。
どうも粉っぽいのだ。これは、粉使っているんじゃないのかと?
粉状のものにミルクを加えれば、たしかにマッシュポテトだろう。
が、そんなものは使わないだろう、フツー、なのである。
(もしも、粉じゃないとしたら、どうやったら、こんなまずいマッシュポテトになるのか教えてほしい)
ベトナム+フランス(植民地としての歴史的背景)。
しかし、何をハイブリッドしようが、美味しくないものは美味しくない。
それは、料理哲学が、料理技術と両立していないないからだよ。
マッシュポテトを粉で・・・、呆れる。
ここ(↓)までは、よかったのだけれども・・・ねぇ。残念!
こうなると、ビールも美味しくなくなるので、ペリエをチェーサーにしてしまう、という軟弱さ。
こうして、わたしの機嫌の悪い休日が始まったわけだ。
2004/12/26 (日) ▲ ▼
【悪党・ひさしぶりの早起き】
午前5時起床。
浅草は、真っ暗だけれども、たぶん晴れるのだろう。
TVのニュースは、ドン・キホーテで、火事があったことを知らせている。
連鎖。
媒体は言葉。記号。
欠けているのは倫理、種。
倫理や基本と呼べるものが欠けている種は、言葉や記号に抑圧された、無意識的欲望だけが一人歩きしているようだ。
(↓)うちの近所にいる、ゴロちゃんとピカちゃん。
つい最近まで、その存在を、見落としていた。
このことを某blogに書いたら、ある方から、こんな書き込みをいただいた。
この「ゴロ・ピカ・ドン」を見て思ったのだ。
ああ、これは、ドリフターズだよ、と。
いかりや長助、高木ブー、中本工事だよ、と。
そして昨晩は、ドリフターズ1968年の映画 「やればやれるぜ全員集合!」を観ていた。
ドリフターズの役どころは、福島の田舎から、夢と希望だけを胸に、東京へ出てきた方々。
でも、夢と現の区別はつかない、統合失調症的な方々。
たぶん、’68当時は、そんなにも珍しくない存在。
山谷がまだ、生き生きとしていた時代。
書こうと思えば、高度経済成長の底辺を支えた労働者を描く映画だ、といえないこともない。
笑いは、この役どころがすべて。
南東北への差別的笑いとでも言えようか。
加藤茶の「まぢがってました」(繰り返されるフレーズ。これは、見ているうちに、かなりはまる)
思うに、戦後からこの当時まで、東京で作られる映画の多くには、怪しげな東北弁を使う役者が多い。
当時の東京では、東北出身の方々が沢山おられたのは間違いないだろう。
そんな中で、このような映画で、彼らはなにか、カタルシスを得ていただろうか。
見どころなんてほとんどない。
加藤茶の「まぢがってました」
「ビバノンノン」の元歌
それと、ちらっと出てくる’68の「花やしき」
これらにつきるか・・・、知っている人は・・・いないだろうね。
昨日は、秩父の山口組さまで打ち合わせ。
お昼は、ちちぶ屋さんという蕎麦屋で、鴨蕎麦をいただいた。
わたしは更科系は大好き。
ここは更科系、とても美味しくいただいたのだ。
秩父を訪れたのは今回が初めて。
知っているのは、三峰神社と、沢山のお祭りがあるってこと。
それからここは、その昔、関東−東北−日本海をつなぐ交通の拠点のひとつであったこと。
これだけ旅をしていても、まだまだ、知らないところばかり。
ましてや、表面だけ見るのでは、その地の背景(「後戸の神」とでも呼ぼうか)はわからない。
この関東地方の始まりの地については、いろいろと知りたいことばかりだ。
ということで、今朝は丸の内までいってくる。
2004/12/25 (土) ▲ ▼
【悪党・すべてを忘れ肉を食らう】
7時起床。
浅草は晴れ。
そろそろ門松が並び始めている。
近所の門松は、わたしがかつて住んでいた地域とは、まったく違った特徴がある。
なんだかわかるだろうか。
そう、縄の結び方だ。
これは明らかに男根を表現している。
そもそも本家本元である浅草寺の門松は、大きな松ノ木と竹を根元で切り、それをそのまま立ててある(切立:きりたて)。
その潔さ、力強さは、他に比類無きものだが、その縄の結びが(↓)なわけだ。(その昔は本木だったのかも知れない)
なぜ、こうなのかについては今のところまったく不明(ネット上にも見つからない)。
でも、なぜか、縄文的でうれしいし、まあ、浅草寺は観音様だものねぇ、などと、またろくでもないことを考える罰当たりなのであった。
昨晩は、聖なる前夜に、何もか忘れ、肉を食した。
それも和田金のロット番号付の松坂牛をだ。
当然に、このような高価なものを、自分で調達できるはずもなく、これは、松阪は、丸亀産業さまからの頂き物(贈与)なのである。
昨晩は、これを、すき焼きにしてみた。
不思議なことにわたしは、肉を食らう時、脳みそが野生に戻るのか、すべてを忘れ食することに専念できる。(笑)
悲しいことも、嬉しいことも、みんなないのだ。
ただ肉を食らう。
至福のひとときを、丸亀産業さま、ありがとうございました。m(__)m
一方、これにあわせるビールも、盛岡の工藤さんからの頂き物(贈与)である。
銀河高原ビールだ。
それを、お気に入りの、シュピゲラウのビアグラスでいただく。
シュピゲラウは贈与品ではなく、今年の夏、DAIMで見かけて一目惚れして購入したものだ。
そんなに高価なものではないけれど、すらりとした姿で、銀河高原ビールの、やや濁りのある液体を綺麗に包みあげる。とてもよい組み合わせだと思う。
さらに、銀河高原ビールは、肉にとてもよくあうのだ。盛岡では、このビールとレバ刺は、わたしの定番なのである。
魚との相性は、たぶんだめだろうが、肉に関しては今、日本でこのビール右に出るものはないと思う。
つまりだ、和田金の牛肉+銀河高原ビール、黄金の組み合わせで、わたしはクリスマス・イブを過ごした。
贈与をいただく。
じつにクリスマス的だろう、と思う。
でも、日本ではこれを、お歳暮っていうんだよね。(笑)
つまり、贈与の気持ちは、どこでもおんなじなのさ。
こうして皆様の贈与によって、楽しい時間を過ごすことができた。
贈与は、わたしの金銭的な力を失なわせないばかりか、それはわたしの血となり肉となり、心のエネルギーにもなる。
そして、丸亀産業の皆さんや、工藤さんご夫婦の顔を思い浮かべ、皆さんの幸せを思う。
ということで、本日は秩父へいってくる。
2004/12/24 (金) ▲ ▼
【悪党・インスタントクリスチャンになる日】
7時起床。
浅草は晴れ。
今日はクリスマス・イブ。
つい最近まで、わたしは、なんとなくクリスマスというイベントを嫌っていた。
表の理由は、わたしはクリスチャンじゃないから、だったのだけれども、本当の理由は、そのなんとなしの嘘っぽさへのテレではないかと思う。
嘘っぽさを演じることへのテレと言ってもいいだろう。
そのなんとなしの嘘っぽさというのは、多くは、TVのようなマス・メディアが作り出す、クリスマスのイメージに対する抵抗のようなものだったように思う。
貧乏な時代だったらともかく、これだけモノが市場に溢れている時代に、クリスマス・プレゼントなんてなんの意味があるのだろうか?
毎日ケーキが食べられる時代に、クリスマス・ケーキになんの意味があるのだろうか?
飽食の時代、毎日がクリスマスじゃないのか?
と、思っていた。
でもね、最近は少しは人間らしくなったのか、プレゼント(贈与)=商品(交換価値・使用価値)+※a(無限小)を少しは感じられるようになったせいか、まあ、それはそれで素晴らしいじゃないか、と思うようになっている。
山鹿市管工事業協同組合さまから。
(ざく)
先だっての桃熊会主催の桃知セミナーに於きましては当組合の理事長他面々が感銘を受けて帰って参りました。
これは毎回のようです。
(ざく)
理事長からクリスマスプレゼントを届けなさいとの指示がありましたので、ほんの粗品ですがお受け取り頂きますようお願いいたします。
12月23日頃に到着すると思われます。
最後になりますが、くれぐれも健康に留意され、来る年も良きひととせでありますようお祈り申し上げます。 |
ということで、昨日、山鹿からクリスマス・プレゼントが届いた。
山鹿灯篭である。
ありがとうございます。m(__)m
実物は、ガラスケースに入っていて、電気で明かりが灯るようになっている素晴らしいものだ。(山鹿灯篭については、「↓」のサイトをご覧ください。)
→http://g4.pos.to/onsen/toro.htm
山鹿市は、熊本の県北にある小さな市である。
そこから、山鹿市管工事業協同組合の方々には、桃熊会の度に、参加いただいているのだ。
正直、山鹿については何も知らなかった。
けれど、前回の桃熊会の懇親会で、次は八千代座でやろう、という話が出ていて、その実現に向けて動いている。
こうしてわたしは、少なからず、山鹿とはつながっていくのだ。
無限小。
広くて薄い紐帯。
2004/12/23 (木) ▲ ▼
【悪党・無限小につて補足する】
ハッシーより。
(ざっくり)
文章からは、過去にない純生産を得ているようだが、
ふむふむ、今日の戯言には無限小が散らばっり過ぎではなかろうか! あ〜悩ましい、
仕事にならないー、 |
ルミナリエの話は、そんな大袈裟なものではない。(笑)
こんなのは、酒飲んだらよくやっているのだよ。
まあ、先日紹介した(↓)を読んでね、ルミナリエを観たりすると、こういう文章になる。誰でもね、たぶん。(笑)
精霊の王
中沢新一(著)
2003年11月20日
講談社
2415円(税込)
無限小は面白いよね。
水はH2Oだけれども、それに1000mlあたり、Naを1.16mg、Caを1.15mg、Mgを0.8mg、Kを0,62mg加えると、ボルヴィックの栄養成分表記と同じだから、ボルヴィックになるはず、なんだけれども、ならないんだね。
なぜなら、ボルヴィック村の大地をろ過された際に、上の記号で表記できるようなもの以外のミネラル分が溶け込んでいるからで、この記号で表記できるようなもの意外のミネラルが、たとえば無限小って考えるとわかりやすいかも、ってね、昨晩、杉で飲みながらそんな話をしていた。ご近所のお母さん達相手にだ。(笑)
もうひとつ例をあげれば、塩だね。
塩は専売公社(そんなものはもうないね、JTだ)がつくると、NaClが99.5%以上になる。
けれど、塩田法なんかで作られた塩は、混じり物が多いがゆえに美味しいわけで、つまりミネラルの存在、無限小の存在だね。
ゼロではないけれども、限りなく小さい。
それで、たとえばこの無限小としてのミネラルは、人間の肉体の健全なる活動には不可欠だといわれている。
同様に、ミーム論者のわたしとしては、人の心にも同様に無限小は機能すると考えているってことだ。
その心の無限小は、いつもは活動を停止してしまっているのかもしれない。
そんな状況で、美しい絵を見ようが、映画を見ようが、音楽を聞こうが、小説を読もうが、芸を楽しもうが、感動はないだろう。
じゃ、心の無限小はどうしたら動き出すのだろうのか、ってことだね。
それが、種さ。
【悪党・神戸ルミナリエに喜ぶ】
午前7時40分起床。
浅草は晴れ。
バスと新幹線の移動が続いてしまったためか、腰がいたい。
一昨日、神戸のルミナリエをみた。
遅い時間帯だったためか、比較的空いており、会場へはすんなりと着くことができた。
この入り口を見たとき、わたしの第一印象は「これは女性器だなぁ」であった。
「みほと」までついている。
永遠と続くかのようなその連なり、そしてその奥にあるであろう闇と光は、まるでヴァギナのメタファーのように思えたのだ。
それじゃ、この電飾の中を進む俺は精子か、などとくだらないことを考えながら、歩いていた。
そしたらだ、出た、のである。
なにが?
子宮が、だよ。
闇に浮かぶ子宮が、電飾の通路の向こう側にあったのだ。
にやり。
写真ではわかりにくいだろうけれど、ここは、電飾に囲まれた空間を形作っている。
それは、光の生まれれる場所。
闇と光の境界
生まれるのでもなく、生まれないのでもない、〜でもあり、〜でもある、というような潜在力の空間だ。
連なりをくぐりぬけた人々は、この子宮のような空間に吸い込まれるように入っていく。
わたしも、その中に入っていく。
そして、その中心で空を見上げれば、闇と月。
わたしは確信した。
これは子宮なのだ、と。
それも再生(新たな誕生)の子宮なのだ、と。
それは、神戸の震災後、復興のシンボルとしてはじめられた、という、この行事の生い立ちに明らかだろう。
まさに、再生なのである。
そして今や、私たちは、電飾のヴァギナを通り、子宮にたどり着く。
そこでまた、新たな生(エネルギー)を得て、再生するのだろう。
ハイブリッドなものとして。
それは、光と闇とのハイブリッド。
闇という自然的、野生的なものと、電飾という人工的、科学的なものとしてのハイブリッド。
神戸ルミナリエ、この対象性の芸術は、予想以上に素敵だった。
2004/12/22 (水) ▲ ▼
【悪党・いつものように二日酔い】
午前8時起床。
神戸は晴天。
今日は時間がないので、神戸の話は後ほど。
これから、ちょっこら淡路島まで行ってくる。
夜は「杉」の予定だ。
2004/12/21 (火) ▲ ▼
【悪党・無限小でしょうね(笑)と書いて、今日は出かける】
8時10分気象 起床。
浅草は晴れ。
12月ならではの、2度目の改ページをしてみた。
今流行(はやり)のblogなんて存在していない頃から、こうしてホームページ・ビルダーで、ページを更新しているけれど、この方法の欠点は、画像やテキストが多くなってくると、ページそのものが重くなってしまい、テキストの入力さえ、支障が出るようになってしまうことだ。
今、別にblogを試していることは以前にも書いた。
けれど、わたしには、まだ、この方法の方がしっくりときていて、しばらくはこの方法を変えることはないだろう。
上野さまから。
刈屋建設の上野です。
土曜日は大変お世話になりましてありがとうございます。
写真遅くなりました。すみません。
(すぐ送りたかったのですが昨日帰ってすぐ消防の忘年会があり何もできずに経過してしまいました。)
今回の忘年会は今までとも趣が違って本当に印象に残る時間を過ごせました。
春風亭美由紀さんの三味線と踊りを生で拝見して感動を覚えました。(酔って少し寝てしまいましたが・・・情けない)
それと美由紀さんの教養というか知識の豊富さにまたびっくりでした。
三味線の話だけでも浄瑠璃からの生い立ちや津軽三味線との違いなどさすが芸人さんだと思いました。
その話し方もずっと姿勢がよく表情豊かに話されるのが印象的でした。
桃知さんが書いていた「芸というのは様式の美」という言葉が本当にぴったりでした。
個性はこの基本を体に染み込ませてから初めて個性が生まれる。
そして「基本がない個性は個性ではない」の桃知さんの言葉でしゃきっと目覚めました。
基本の大切さをもう一度考えてみたいと思います。
桃知さんも喘息で大変そうでしたので無理せず体に気をつけてください。 |
どうもありがとうございます。m(__)m
喘息はなんとかおさまってきて、体調はここ3週間では、もっとも良い状況かもしれない。
年末は、できれば、おだやかに、本を読んでいたい、と思う。
精霊の王
中沢新一(著)
2003年11月20日
講談社
2415円(税込)
この本はまだ読み終えていない。
購入は早かったのだけれども、ちょっとやばいのじゃないのか、という思いがあって、扉を開くのをためらっていたのだ(それは後述)。
でも今は、これを今年中に読み終えたいと思っている。
わたしにとっての今年は、中沢新一の年だった。
それは、偶然に購入したフィロソフィア・ヤポニカから始まってしまった。
しかし、それからの思考の展開を、ここに書こうとは思わない。
というか、書ききれない、けどちょっと書こう(どっちなんだ)。(笑)
フィロソフィア・ヤポニカ
中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)
長い間、自分自身のことからしか、物事を考えることができないでいた。
それをベースのIT化論を組み立ててきた。
それは、わたしは、いかにして存在できる(食える)のだろうか、と考えていた、ということと同義である(当たり前だ、そもそもわたしは、中年の無職者だったのだから)。
今でも、その傾向は強い、でも、少しは違ってきている。
インターネットの世界に登場したばかりの頃、わたしは市場主義者であり個人主義者であり、「強い個としてのわたし」(単純に書けば「金儲けできる私」)を、その文脈の中で見つけようとしていた。
しかし、やがて、なんとなくこの商売が板についてきた頃、飯が食えているのは、資本の理論ばかりではないことに気が付いてきた。
「広くて薄い紐帯」の存在である(もっとも、その頃、この語彙は私にはなかったけれど)。
この関係(ネットワーク)は不思議さに満ち溢れていた。
インターネットという、スケールフリー・ネットワークの中では、確かに、わたしの資本の理論の部分が、なにか功を奏したことは否定しない。
しかし資本の理論といっても、わたしの実力などたいしたものではない。
この程度の実力では、絶対に構築できないであろう関係が、なにか別の力添えを得て、つくられていくように思えた。
このなにか別の力添えとはなんだろうか。
なにが広くて薄い紐帯を生み出してくれたのだろうか。
ここで、わたしの興味の対象(IT化論)は、この不思議なネットワークに向いていくことになる。
広くて薄い紐帯の秘密が、ミームが運ぶ、感動や信頼と言ったとき、何かパラドキシカルなものを感じていた。
それが、山岸俊男氏の言う、安心と信頼の違いであるかもしれないし、そもそも、山岸の言う「信頼」の、「西欧的よそよそしさ」に感じていたものなのか。それははわからない。
わたしは、長いこと安心の世界にいたことで、信頼を忘れていたのは確かだろうし、今という時代が、「社会的に不安定で機会コストの高い時代」であることで、信頼が必要なことも認めざるを得ない。
そして、わたしの資本の理論の部分が、少しは信頼のように機能したのかもしれない。
しかし、そうだとしても、それ(信頼)を、結局、資本の理論でスコープしなくてはならないのなら、ベキ法則の中で、わたしの信頼なぞ、どこかに消えてしまうだけだろう。
つまり、わたしは、資本の理論のいう「使用価値」や「交換価値」だけでは、スコープされた「強さ」の中には存在できたはずがないのである。
そんな価値(実力)は、そもそも持ちえていないのだ。
それでは、何故わたしは存在するのか。
それもインターネットのグローバル性が言われ続けていた中で、超ドメスティックな存在として。
ヒントは、わたしの持っている「芸人」への憧れと畏敬にあるように思えた。
(最近それを出しすぎている―といゆか種明かしをし過ぎている。「秘すれば花」からすると失格!残念!というか切腹!なのである)
わたしが求めた「強さ」とは、わたしの資本の理論の部分に、無限小のようにまとわりつく、その芸人的なものではないのか、と考えている。
いうなれば、交換価値や使用価値だけではないものの存在である。
それは超実数としてのなにか、つまり、ミームが運ぶ、感動や信頼をつくりだしているものだろう。
であれば、ようやくわたしは、広くて薄い紐帯のヒミツを見つけられるのかもしれないと思った。
このときキーワードは「芸人」(古典芸のだけれどもね)だったのである。(笑)
わたしは今、無理しなくとも、つながるべくしてつながることはあるのだ、と思うようになっている。
では、そのつながるべくしてつながるのだ、と言うとき、そのつながる基底にあるものは、いったいなんだろうか。
それは、私たちのだれもが基底に持つはずの「後戸」の空間にみなぎるものを感じることがたとき、という注釈ではないのか。
(「後戸」については、精霊の王を読んでもらうしかない)
それが精霊の王を途中まで読んでの感想である。
「後戸」の多くは、今は眠っている。
それは古典芸能や職人的な世界に、かろうじて生き残っている。
しかし、私たちが共振するとき、そこにはなにか後戸の空間を感じることがある。
その後戸の空間の、生き生きとしたエネルギーを受けて、私たちは、現実の世界において、共振し、協働し、何かを生み出すことができるのだろう、と思う。
中沢新一は言う。
『私はしばしば、この列島で発達した技術的思考の深層の部分には、いまもこのような「宿神敵思考」のエッセンスが行き続けているのではないだろうか、という思いにかられる。ソニーやホンダや島津製作所や浜松ホトニクスなのどの技術のもっとも創造的な部分に、「宿神的なもの」が潜んでいる形跡はないが、現代テクノロジーの先端で「六輪一露」のトポロジーが有効な働きをおこなった確かな痕跡はないか。私は目を凝らして観察を続けているのだ。』(精霊の王,p266)
『このような視点に立って、日本人が得意としてきた技術の世界を見直してみると、そこに「一神教的テクノロジー」とは、根本的に違う思考方法が有効に働いてきたことを確認できるのである。性質の違うものを、単一の原理に無理やり従わせて均質にならしてしまうのが「一神教的テクノロジー」のやり方であるとするならば、異質なものを異質性をもったまま、お互いの間に適切なインターフェイス=接続様式を見出すというこの列島で発達したやり方は、「多神教的テクノロジー」とよぶことができるかもしれない。』(精霊の王,p267)
こうして引用してみれば、確かに、二元論的な科学を信奉する方からは、中沢新一の論理は、トンデモ本の世界だろう。(笑)
しかし、まあ、それは読みが浅いだけ。
これは一元論、西欧的科学の二元論とは根本的に違う(このあたりは量子論の議論のようなものか。というよりも議論にもならないかもしれない。中沢新一を読んでいなければ、反論もできないのだから。だからわたしは読むことに決めたのだ)。
中沢新一の話を、IT化の話にスコープすれば、『異質なものを異質性をもったまま、お互いの間に適切なインターフェイス=接続様式を見出す』ことが、広くて薄い紐帯のヒミツなのかもしれない、と書くことができる。
ではそのとき、私たちには、いったい何が必要なのだろうか、だね。
たぶんそれはとても簡単なものかもしれない。
でも、簡単すぎて見えないものなのかもしれない。
無限小でしょうね。(笑)
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