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店主戯言050101  2005/1/1〜2005/1/15 "There goes talkin' MOMO"


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2005/01/15 (土)  
【発熱】

昨日の宮崎での講演は、当初の予定の100名を超え、480名の申し込みがあったため、会場が変更となり、急遽体育館での開催となった。

宮崎ということで、暖かいかな、と油断していたわたしは、その会場の寒さに冷え切ってしまった。

会場の皆様もとても寒そうなので、前代未聞、史上初の10分前終了という記録を残してしまった。

今朝の体温は37.4℃。
どうやら風邪をひいてしまったらしい。

平熱が35℃台のわたしとしてはちょっと応える高さだ。
来週は北海道ツアーなので、今日は大事をとって休むに徹しよう。

2005/01/14 (金)  
【悪党・@宮崎で飲んで食う】

8時25分起床。
天候はわからない。

昨晩は、少々飲みすぎたのか今朝は頭が痛い。

昨晩のビール。

まずは、一杯ってやつである。
場所は「ぐんけい」という店。



当然のように宮崎地鶏なお店。
(↓)はトリレバ刺。左は白(つまりフォアグラ状態)、右は赤。

それから「ささ屋」にて焼酎をのむ。

「申」
43馬力。

これのあとは、いつものように「霧島」。

(↓)はサービス。(笑)






そして〆はこれ。東風屋(こちや)の一倍。


とういうことで、今日は、これから打ち合わせ1件。
その後、講演をして、最終便で変える予定。

2005/01/13 (木)  
【悪党・起床】

午前7時起床。
浅草はハレ。


【悪党・今日は宮崎へ】

まずは、来週の19日、北見で行うセミナーのご案内から。

■建設業戦略的情報化セミナー

【日 時】 2005年01月19日(13:30より)
【場 所】 サンライフ北見2F
      北見市三輪一番地16 0157-23-1433

【概 要】 企業ベースのIT化入門編
ITで扱う情報とは何か?を考える事から始まり、上手なIT化、イントラネットを構築する術を学べる 実践的な内容です。

1. 「サイボウズOffice6 の紹介」(仮題)
  サイボウズ株式会社様
2. 「芦別市のIT 化の取り組み ~サイボウズを利用した受発注者間のデジタルコミュニケーション〜」(仮題)
 芦別市役所、芦別建設業協会様
3. 「哲学のあるIT 化-ネットワークと信頼とビジネスと-」(仮題)
  桃知 利男

今回はゲストスピーカとして、芦別建協・浅井副会長、芦別市役所・鈴木主任をお招きして、受発注者間のデジタルコラボの姿もご覧いただけます!
また、サイボウズ社より藤川様をお招きしてサイボウズの有効活用・最新情報をレクチャー頂けます。

【主 催】北海道ゼロックス・協力:サイボウズ株式会社
お問合せ先 : 北海道ゼロックス株式会社 北見営業所
          TEL 0157-68-1226 安田

お近くの方は是非においでください。m(__)m

それから、もう一本、1月20日、午後3時30分より、CALS/EC MESSE 福井コンピュータブースにて、ミニ・セミナーを開催いたします。
演題は「電子納品への取り組み事例と課題」(仮)
こちらも宜しくお願いいたします。


さて、今日は宮崎へと向かう。
明日、宮崎で打ち合わせと講演会があり、前日入りする。
今日は、宮崎入後、打ち合わせがあり、その後は気の置けない方々と一献やる予定だ。

宮崎での講演会は、400名以上の方の申し込みがあるそうで大盛況。
会場も、急遽体育館に変更されたとのこと。
わたしにしてみれば、ドームでコンサートするようなもだ。

昨晩のビール。
ブーン・フランボワーズ750ml
ベルギー・ビールなんだけれども発泡酒?

熟成させたランビックに木苺を漬け込み、さらにオーク樽で5〜6ヶ月熟成させたビール。香り、味ともにフルーツビールの女王と呼ばれていて、アメリカで1995年、ビール大賞を受賞している、らしいが、はっきり言って豚しゃぶにはあわない。(笑)

こいつのせいか、食べたら急に眠くなってしまった。












2005/01/12 (水)  
【悪党・日常に戻る】

午前7時起床。
浅草は晴れ。

昨晩は、今年初めて清司へ。
故に、昨晩のビールはこれ。

わたしが今まで飲んできたベルギー・ビールは、鮨にはあわないだろう。

フツーに生ビールでいいのである。

それから、井之上さんから頂いていた芋焼酎を水割りで二つ。

せいぜいそんなものなのである。










そしてこれが肴。タコ。
薄作りで、スダチと塩で食する。


ちょっと飲んで、〆は握りを五貫ほど。

コハダ、サバ、ウニ、トロ、アワビ。

精一杯の贅沢のようなものだ。

写真はウニ。
海苔でまかない。

悪党(職人)的仕事である。

こういうものに触れると、己の悪党的パッションが目覚めるのがわかる。


わたしは正月休み、夜は何処へでかけるでもなかった。
極力家で飯を食べた。
普段が旅の連続なのである。それでいいと思っている。

昨日は、一応わたしの仕事始めであって、自宅で事務的な仕事をこなすことから初めた。
と同様に、夜は外へ出た。
と同時に、思考が外へ向かいはじめることがわかる。

2005/01/11 (火)  
【悪党・今日からまじめに仕事をする】

7時40分起床。
浅草は晴れ。

なんの根拠もないのだけれども、O型人間のわたしは、なぜかB型人間と相性がよい(ような気がする)。

三遊亭歌之介 B型人間B型人間

三遊亭歌之介

キングレコード







三遊亭歌之介 爆笑龍馬伝爆笑龍馬伝

三遊亭歌之介

キングレコード







たぶん、だれが聞いても面白い。
爆笑系の落語?

「?」を付けてしまうのは、これを落語と呼んでいいのか、と思うところもあるからで、例えるなら、スタンダップコメディのようでもある。

いや座ってやるから、シットダウンコメディと呼ぶべきなのだろが、全編「まくら」のようなもの、と表現したらよいだろうか。

そしてそれは、新聞詠み的なところもあり、時の話題をうまく取り入れながら、テンポで惹き付けて行く表現スタイルだ。

とにかく、そのテンポ、噺のリズム感が凄い噺家さんだと思うわけで、わたしは、密かに(ってばらしている)歌之介に話のリズムを学ぼうとしていて、こうしてCDを聞いていたりする。

この二つのCDの間には、約3年の、時の時間経過があるのだけれども、自己否定的変態は確実にあるわけで、累積進化のようなものも感じる。

そして、彼の噺のかたちは、わたしの講演に、非常に近い形をもっている、と勝手に解釈していて、こういうのって、簡単なようで簡単じゃないんだよね、ってわたしは理解できるし、さらには、ほとんど同じ年でもあるし、同じ血液型だし、ついつい歌之介を応援してしまうのだ。


情報社会学序説情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる

公文俊平(著)

2004年10月28日

NTT出版
2100円(税込)




今年も、法政大学エクステンションカレッジに講座を持つ。
そのテキストをなににしようかな、と考えていて、その第一候補が、この、公文先生の本、「情報社会学序説」。

昨年テキストに使った、村上泰亮氏の『反古典の政治経済学要綱』が、記述できないままだった、「情報社会」の徹底的な考察を、今年は講座のメインテーマにしようと考えていて、情報社会のパラダイムを読み解きながら、そこでの「公共工事という産業」の生き様を考えようとしている。
となれば、村上泰亮の盟友、公文先生はうってつけなのかもしれない。。

わたしは、公文先生の考え方に、諸手を挙げて賛成というわけではないが、この本は、今、わたしが盛んに引用している、バラバシを初めとする「ネットワーク論」や、幹から根っこをたとれば、中沢新一や田邉元の哲学までを背景にもつ、日本における近代化の問題(開発主義)や、無意識的「創発や同調」の問題まで展開されていて、読み手が問題意識をきちんと持つことができれば、情報社会学の教科書としては、今のところベストだと思う。

それから、今実験的に使っている mixi を使いながら、今という時代に、「繋がる」ことの意味と問題点を、より実践的に考えていこう、と考えている。


昨晩のビール。

やはり戻るところは、銀河高原ビール。
これは、ヴァイツェン。


















2005/01/10 (月)  
【悪党・マルシンハンバーグを愛づる】

8時起床。
浅草は晴れ。

生命誌 愛づるの話。生命誌〈2003(37‐40)〉愛づるの話。

中村桂子(編集)

2005年5月1日
JT生命誌研究館

1600円(税込)




大阪府高槻市に、JT生命誌研究館というのがあるらしく、そこの館長さんが中村桂子先生だ。
中村先生は分子生物学者といってよいのだろうが、わたしなんぞが面識があるわけはなく、先生を知ったのは、GYROS7号でのインタビュー記事でであった。

曰く、『「人間ってなんですか」と聞いて、科学が「人間とはこういうものです」という答えを出したら困るでしょう。』

『「人間とはこういうものです」という本があって、それを読んだらおしまいというのだったら、明日から何をしていいか分からない。』(p16-17)

ここ数年、特に2000年を過ぎたあたりから、つまり人間のゲノム解析が進んだ頃から、「科学」的である世界では、なにかパラダイムシフトが起きているのだろうな、と感じることが多くなった。

それは人間や社会といったものに対する、還元論の限界、蜜画化と数量化の限界、二元論の限界、非対称性の限界、つまり科学的アプローチの限界とでも言えるものであることは確かだ。

今や、素朴に、「科学的」という言葉を使われる方に出会うと、その naive さに、こちらが恥ずかしさを感じてしまう。
(そういう方々に限って、還元論や、蜜画化と数量化や、二元論や、非対称性といった、言葉さえ知らない)

ただ、わたしが勝手に師匠と呼んでいる、R・ドーキンスなどは、ある種の頑固さをもって、その姿勢は変えてはいない。

それは、ある程度納得はしていて、そもそも古代中世の略画的描法である生物学の世界に(例えば人間の誕生についての神の関与)、彼は科学的を持って密画的世界を上書きしようとしているからだろう。

わたしも自身も、科学的を否定できない人だ。
長い間、そう教育されてきた。

しかし、哲学者、大森荘蔵が語ったように、知覚描写と物理的描写の重ね描きをしようとすることに対しては、違和感がないのも事実で、それはまた、ここ数年の自分自身への自己否定的変態の成果だとは思う。

『現代の密画的世界観に古代中世の略画的描法を重ねうるということ、そしてそれによって死せる自然を今一度活性化しうる、ということ』(大森荘蔵,「知の構築とその呪縛」,p71-72)

そしてそれが、中村先生の言葉の意味だろうとも思うのだ。

この重ね描きは、例えば8日に紹介した清水先生などもそうなのだけれども、「科学的」の方々が、(科学的であることの)自己否定的変態を行っている(つまりパラダイムシフトをしている)ことの表出をしているように思える(わたしが最初に知ったそれが、村上泰亮氏だった)。


さて、そのGYROSの記事を読んで購入したのが、この「生命誌〈2003(37‐40)〉愛づるの話。」と、既に紹介済みであるマット・リンドレーの「やわらかな遺伝子」の二冊だ。
(リンドレーについては、11月13日、14日の店主戯言を照会してほしい)

やわらかな遺伝子やわらかな遺伝子

マッド・リンドレー(著)
中村桂子(訳)
斉藤隆央(訳)

2004年5月3日
紀伊国屋書店

2520円



「生命誌〈2003(37‐40)〉愛づるの話。」の「愛づる」は、「めづる」と読んでいいのだろうけれども、中村先生は、「蟲愛づる姫」からそれを引用している。

それは、「愛でる」とはちょっと違った感覚を持った言葉だし、その違いは、「愛づるの話。」の中では、哲学者、今道友信氏との対談でより明確にされている。

それは「愛づる」の「愛」についての解釈である。
中村先生に言わせれば、それは命に対する愛である。

この解釈については、中村先生と今道氏の対話は参考にはなる。
(特に、今道氏の話は面白い。命の尊厳は当然だか、それはとても人間中心的であり、それが自然なのだ。科学の持つ好奇心の否定なんか、目から鱗が落ちる思いで読んでいた。)


この「愛づる」に関しては、わたしはちょっと違った(本質は違わないと思うけれども)感覚を持っていて、例えば、わたしは昨日、mixiの日記にこんなことを書いていた。


今日のビールのお供は、マルシンハンバーグ。
今でこそ、有り余らない財力と、食客としての才能のおかげで、美味しいハンバーグなんて、時間さえあればいくらでも食べることができるけれど、ガキの頃、ハンバーグといえば、これのことを言っていたわけで、その記憶は無意識に染込んでしまっている。
だから、時々、無性に食べたくなる。(欲動)

中学生の頃は弁当を毎日作ってもらっていて、よくこいつが弁当のおかずにはいっていた。
ストーブの近くで弁当を温めたりすると、結構強烈な匂いを教室中に振りまいていたものだ。

私はこいつを食べると「かなしみ」を感じる。
漢字て書くとそれは「愛」だけれども、後の人に心を残す、心にかかるというような心情だ。

こんな工業製品のようなものに「愛」を感じてしまうのは、私達世代の特徴なんだろうな、と思う今日この頃。
悪党の本質なのかと考えていたりした。
------------------------------->8

「蟲愛づる」と「マルシンハンバーグ愛づる」の何がどう違うのかは、今のわたしに語るの能力はない。
ただ、中村先生が「蟲愛づる」ように、わたしは「マルシンハンバーグ愛づる」ことができる。

そう、わたし達の世代は、このような工業製品のようなものを食べ育ってきた。
たしかにそれは栄養学的には問題はあるだろし、食文化などというものからも、大きく逸脱している。

しかし、これが「わたし」なのだ、と自覚したとき、また違う「愛づる」のかたちがあってもよいのだろう、と思う。
それは、モノに対する愛、というようなものへ続くなにかだ。


昨晩のビール。
よなよなエールよなよなエール。

ベルギービールと一緒に、楽天経由で、発作的に買ったのものなのだ。
期待していなかっただけに、うまいぞ、こいつは!である。

マルシンハンバーグとの愛称も良い。(笑)
がぶ飲み可。
取り扱い簡単。


だそうである。(笑)








2005/01/09 (日)  
【悪党・落語好き】

午前7時30分起床。
浅草は晴れ。

志の輔らくごのごらく(1)「はんどたおる」「死神」
(立川志の輔 2002年11月20日 ソニーミュージックエンタテインメント

談志曰く、志の輔は立川流の傑作。

昨日、久しぶりに志の輔を聴いていた。
といっても、生ではなく、CDである。

このCDにある「はんどたおる」は、志の輔の創作(新作)落語で、一昨年のANAのオーディオサービスで流されていたものだ。

その1ヶ月間、わたしは、ANAの機中で、何回となくこれを聴いていた。
そのたびに、ヘッドホンをし、本を読みながら、笑う、という、典型的な怪しいオヤジ的反応を表出させていた、恥ずかしい思い出の作品である。

「はんどたおる」は、今、聴き直しても、素直に、凄いなぁ!と思う。
夫婦の日常の会話を題材に、男と女の、悲しくもおかしい(遺伝子的と言ってもよいだろう)感性的なすれ違いを見事に描き出している。

「わかっているようで、相手のことは、なにもわからない」

その観察力と、表現力といったら、比類なきものだ。
勿論、表現としてデフォルメはあるが、志の輔には、それを感じさせない自然さがある。

まるで、聴衆の無意識をくするぐるように、テクストを、声化、声としての言葉化していく作業なのだ。
その言葉は、わたしの脳裏に、その場の状況を見事に展開させる。

落語は、声としての言葉を使う芸能である。
しかし、この声としての言葉は、日常の会話で使うそれとは、また違う性格を持っている。

それは、声でありながら、きわめてテクスト的なものであって、基本的な話の構成(情報だ)は、普遍的に記憶される(遺伝する)情報(ミーム)なのだ、ということだ。

だからこそ、落語には、古典と呼ばれるものが存在するのである。
それが落語の基底であり、型であり、種でもある。

だからこそ、その型をしっかりと自分のものとすることで、つまり型にはまることで、逆に型を超え、演じ手の個性が際立つ。
そこにエジソンの言葉が加わるとき、演じ手は天才と呼ばれるのだ。

「天才は1%のひらめきと99%の努力のたまものである」

この言葉の真意は、どんなに努力しようが、1%のインスピレーションがペケなら、努力は無駄だ、ということだけれども、落語とは、そういう構造を持った、奥の深ーい芸のなのだと思う。

カップリングされている大古典の「死神」は、そのことを再確認させてくれる。
志の輔にしかできないであろう、すげーオチが聴ける。

「フッ・・・」


昨晩のビール。カンティヨン・イリス 2002
イリスは、あやめ。

わたし的には、イリスといえば、ガメラ3の邪神「イリス」だけれども、そっちでもいいな、と思う(勿論賞賛の意でだ)ビールだ。

2年ほど熟成されていたこれは、飲んでみると、とんでもないビールであることがわかる。

まるで発泡ワインなのだ。
その香りは桃的でもある。(笑)

とりあえず1杯はできない。
したくてもできない。

しっかりしたボディ。
「プハー、ちくしょー、うめぇなー」は間違ってもできない。

姿勢を正して飲むビールである。
癖のあるチーズにあうのじゃないか、と思ったので、くさいチーズで飲んでみた。

案の定である。
アオカビ系なら、ばっちりだと思う。

今回は、2本購入していて、1本は暫く忘れてしまうことにしている。
賞味期限は、あと15年程ある。(笑)

熟成は、勝手にすすむのだ。(純生産)
また、なにかのお祝い事でもあるときに、こっそりと開けてみたいと思う。

しかし、今回気付いたこと。
フツーのビールが飲みたい。

2005/01/08 (土)  
【悪党・の読書】

午前5時30分起床。
浅草は晴れ。

正月に読んだもの中で一番面白かったもの。

場の思想場の思想

清水博(著)

2003年7月17日
東京大学出版会

2940円(税込)




清水先生曰く。
『「正解探し」は主客分離の方法であり、外側を探すだけでは、自分の存在を変えることはできないのである。転換期に必要なことは、自己に対する新しい問いかけを発見することであり、正解探しという安易な方法は長期的には役には役立たない。』

『残念ながら、日本の企業経営者やアナリストには思想性が低い人々が多い。彼らの多くは、米国の市場を外から見て、ハウ・ツーのレベルで米国の行き方を模倣しようとしているが、その反面、思想的変化―人間の心におきている個の存在の変化―とその意味を見落としてしまう。』

『それは第一に現在転換期の只中に生きている自覚が乏しく、第二にこの転換期が意味してしているものを知ろうとしないからである。これからの世界で必要になる個の存在の多様性に立脚するということを自分自身に引きつけて考えていないために、依然として画一的な正解を求めているように思われる』(場の思想,p25)


この清水先生の著作は、岩井国臣国土交通副大臣の 劇場国家にっぽん に紹介されていたことで、今わたしの手元にある。

劇場国家にっぽん

岩井国臣(著)

2004年7月22日
新公論社

1575円(税込)




つまり、村上泰亮、中沢新一、田邉元に突き動かされることでから始まった、わたしの「自己の変態的変革の道」の延長上に存在しているといってもよい。
楽しく読めた。違和感はない。

素敵に、ラジカルな思想が展開されている。
けれども、ある程度の素養がないとこれは読めないだろう。

といってもあきらめる必要もない。
ある思想に立ち向かう(つまりここでは著作を読む)ということは、自分の気持ちが何処まで、「自己の変態的変革の道」に素直かどうか、だけだもの。

本を読むことだって、理屈じゃないのさ。
ましてや損得の問題であるはずもない。

昨晩のビール。

わたしは、ベルギービールに関しては、ほとんどバージンだったものだから(シメイしか知らなかった)、元旦に、久しぶりに飲んだシメイが、なにかの鎖を壊してしまったらしく、楽しいことはなんでもそうであるように、ベルギービールの世界が知りたくて、しょうがない状態になっている。

これはオルヴァルというビール。
元旦に飲んだ、シメイ同様のトラピストビールだが、オルヴァルの方が、シメイ(ブルー)よりも、アルコール度数は低く、6.2%。

フルーティな香りが楽しめる。
香りが鼻から飛び抜けてくるような感覚。

陳腐な表現を使えば、まるでワインのようなビールでもあり、酒の飲めない家人さえ、その香りを誉めていたぐらいだ。

ベルギービールは約800種ほどあるといわれている。
1000年の伝統と、100を超える醸造所。

まるで、地ビール王国だ。

ユーラシア大陸の西と東(つまり東洋)は、文化的に、よく似ているといわれているけれども、このよなものを知ると、なにか納得させられてしまう。

地酒、地焼酎のようなものなのだろうか。
しかし、面白い。世界は多様性に満ち溢れている。

2005/01/07 (金)  
【悪党・クラスタリング係数からIT化を考える】

午前7時起床。
浅草はあったかい。

クラスタリング係数というのが、例のバラバシの本に紹介されている。

新ネットワーク思考新ネットワーク思考

アルバート=ラズロ・バラバシ(著)
青木薫(訳)

2002年12月20日
NHK出版

1995円(税込)



今、これを手軽に確認できる仕組みがあって、それが5日に紹介した mixi である。
引用:新ネットワーク思考より

上の図のようなクラスター型のネットワークは、濃い紐帯であり、この最もわかりやすい事例は中小企業だろう。

社員一人一人は、それぞれを知っている関係にある。つまり顔が見える。

各ノード(社員)は、均等に、それぞれと知り合いなのである。

このような関係にあるとき、各ノードのクラスタリング係数は1である。

しかし、実際の社会は、このような閉じたネットワークばかりでは機能していないし、今や、個人が、クラスタリング係数1のネットワーク内だけで生きていくことはできない(井の中の蛙である)。

今試行している mixi では、マイミクシィというシステムがあり、友人同士は、簡単に、これに相互登録できるようになっている。

今、桃組コミュニティ(クラスター)には、約50名ほどの登録があるが、このマイミクシィへの登録数で、各メンバーのクラスタリング係数を簡易的に計ることが可能になる。

例えば、マイミクシー数が30の方の場合(桃組メンバー内だけの数値)、30÷50で、この方の桃組クラスタリング数は0.6となる。

ちなみに、わたしの係数は1である。
これは当然のとこで、桃組は、基本的にはわたしとF2Fの関係にある方を招聘しているからだ。

エルデシュ数(※)に倣って、桃知数という概念を使ってみれば、桃組は、私から見ればすべて、桃知数1(M1)の方々で構成されるクラスターとなる。

しかし、この「M1」同士(つまり、わたしはすべてのノードと知り合いの関係にある)のクラスターといっても、各メンバーのクラスタリング係数は1にはならない。

実際、一番大きな方で、0.81、小さな方は、0.02である。
平均値は、今朝方では、まだ0.22強なのである。

つまり、平均では、5人に1人しか知らない、ということだ。
(この数値は、まだコミュニティが開設されたばかりであることを考慮していない。実際は、もう少し高い値であると思われる)。

こうして見ると、「桃組」という紐帯は、実は「狭くて強い紐帯」からは程遠いものであることがわかる。
つまり、これが「わたし」の「広くて薄い紐帯」なのだ。

わたしは、桃知数0(M0)の、HUBとして機能している。

mixi における桃組コミュニティは、やがて平均クラスタリング係数は1に近なっていくだろう。
しかし、決して1になることはない。

というか、桃組は、1になってははまずいのだ。(笑)

平均クラスタリング係数が1であるということは、このクラスターは閉じて均衡していることを意味する。

引用:新ネットワーク思考より

「均衡している」と表現すると、なにか安定したネットワークのように思えるだろうが、それは、まったく違う。

それは、クラスター自体がUHB機能をもたないことで、環境との新たな関係を作り出せないことを意味する。

自給自足の社会ならいざ知らず、ましてやビジネスの世界で、クラスタリング係数1の企業など意味をもたない。


そうならないために、クラスターは、何らかの方法で、外と繋がる方法を常に備えておく必要がある。

桃組の場合、その最も単純かつ効果的な方法は、「M1」の方々が、自らがHUB、つまり「n0」となって、新たなノードを確保していくことだ。
そして、「n1」、「n2」を、「M2」、「M3」としていくことだ。

じつを言えば、これが、わたしのビジネスの秘密でもある。
そしてこれは、理論的には、難しいことではない。

なぜなら、今、桃組に参加いただいている方々は、基底としてのクラスターを、桃組以外に持つ方であり、その意味では、既にHUBであるからだ。

でも、ことはそう簡単にはいかない。
そうしたところで、ここでの課題は明確である。

問われるのはHUBの能力なのだ。

桃組の場合、その第一のものは、なによりも「M0」としての、わたしのHUBとしての能力なのである。
これがだめなら、即どぼん!でしかない。

例えば、わたしが4ポートの馬鹿ハブ(ノンインテリジェント・ハブ)なら、ネットワークは、その能力を超えては広がらない、ということだ。

それを上回るネットワークを構築したくても、ポートが足りないし、トラフィックの整理も当然にできないだろう。

と同様に、「M1」つまり「n0」としてのHUBの方々(つまり、今桃組に参加されている方)も、同じことが問われる、ということだ。

そしてそれは、桃組のためではない。
桃組は、二次的は現象なのである。

むしろ、「M1」の皆さんが基底としている種(クラスター、例えば会社、協会、「公共工事という産業」)を、閉じさせないためのものであることに、気付いていただければ嬉しい。

M1は、その基底の種のHUBとして機能する。

ただ、桃組のようなバーチャルな組織とは違って、リアルな組織(具体的には、例えば会社)のクラスタリング係数は「>1」であることが必要となる。
1であることは当然であり、1より小さいことはありえない。

基本的に、リアルな組織では、バーチャルな組織のように、自由に参加したり脱退したりすることはできない。
つまり、基底のネットワークはある程度のメンバー固定性がある。

この固定性が、クラスタリング係数1を生み出すのだが、これが1のままでは、それは閉じたままだ、ということだ。

リアルな組織の場合、目指すべきは「1+α」なのだ。

この+αが、例えば企業が地域社会と繋がる、顧客と繋がるという力だ。
そしてこの+αを生み出すものが、個々人のHUBとしての能力である。

それは特に中小の場合は顕著だ。
大企業は、企業自体がHUB機能を持つ(ブランド・アイデンティティ)。

ここでわたしのIT化にでてくる、信頼の能力とか、係数a とか、マリアビリティというものが、なにものなのかが、理解されようか。

それは言うなれば、HUBとしての己の能力のことだ。
わたしは、適応度を「広くて薄い紐帯」をつくる能力といっている。

中小建設業は、生来クラスター係数1に収まりやすい紐帯であることを忘れてはならない。
それは、自社を取り巻く、環境としての「公共工事という産業」も、閉じたネットワークだからだ。(フラクタルな関係)

この中でで閉じてしまえば、御社のネットワークは<他者>と繋がることはない。
そして「公共工事という問題」も、ついには解決の道は見えないだろう。

つまり、HUB機能といっても、それがまた、今までの「公共工事という産業」という閉じたクラスター内でのネットワーク構築機能だけであってはならない、ということだ。

でもそれを否定するだけではなにも生まれない。
「公共工事という産業」は否定的自己変革の為の基底なのだ。

己が自己否定的な変態を可能とするには基底は必要なのである。
そしてその基底も、私が変わることによって、また変わる(種の論理)。

さて、とりあえずのまとめ。

広くて薄い紐帯は、常に、クラスタリング係数が1よりも小さくなるように。
狭くて濃い紐帯は、常に、クラスタリング係数が1よりも大きくなるように。

ここで必要な理解とは、現実は、スケールフリーとクラスターとのハイブリッドなネットワークだ、ということだ。

スケールフリー性の高い時代だからこそ、自らが「広くて薄い紐帯」のHUBになること。
その能力を自己否定的に進化させること。
その変化のための基底を常に持っていること。
それがIT化だ。

そのヒントは間違いなくインターネットに繋がることで得られる。
それと哲学する心があればよい。

※エルデシュ数については(↓)を参照。
 → http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%EB%A5%C7%A5%B7%A5%E5%BF%F4


湖畔の杜ビール(デュンケル)昨晩のビール。
湖畔の杜ビール(デュンケル)。

美味しい。
湖畔の湖とは、田沢湖のことだ。

飲むのは、これ1本だけである。
グラス一杯。

















2005/01/06 (木)  
【悪党・心の進化を模索中】

午前7時30分起床。
浅草はくもり。寒い一日になりそうだ。

まずは昨日の忘れ物。
一昨日のビール。(笑) それと昨晩のビール。
キリン ホワイトエール
(左)キリンのホワイトエール。(右)キリンのまろやか酵母。

どちらもチルドビールで、賞味期限は60日。
はっきり言って好きだ。

でもこれは、中小企業の苦悩の素のようなビールとでもいえよう。
大手にこれやられちゃったら、中小(地ビール)は、ある意味たまらない。

銀河高原ビールはつらい。

従来の、大手と中小の棲み分け(共生)のようなものが、なくなってきている。
それは、「公共工事という産業」も同じだろう。

その大きな原因は、一昨日書いたように、スケールフリー性をよしとするような風潮(ミーム)だ。
その naive さには、うんざりさせられっぱなしである。

今という時代、企業が経済活動の中心となっている時代、スケールフリー性(資本の理論の本性といってもよい)だけでは、ベキ法則が働くだけだ。

つまり、本当に新しいものなど、生まれない。

それは企業の場合、組織の理論が働くからだ(その根源は資本力、お金の力だ)。

お金の力を基底にした競争は、強いいものは益々強くなり、弱きものは益々弱くなる。

しかし、ここでの強さは、個人が強くなるわけではなく、組織というえたいの知れないものの力が強くなることで、個はただ種に解けるだけの存在になってしまう(カオナシ)。

種に解けた個は、創造の源の役目を果たせない。
つまり、変化は、種を基底とした個の自己変態的な活動がその源なのであり、種に解けた個に、それはできない。

起業とか、創業とか、新規事業参入とか、簡単に言われる方々は、このパラドックスを理解していない、素朴な方々だろう。

今必要なことは、個が種を基底に持ちながらエッジを立てるための政策だ。
その環境を如何に整備するか、だろう。

しかし、今の政策は、種に解けた個のためか、基底の種を持たない個(浮遊する個)を作り出すためにしか機能していない。

だからいつまでたっても構造改革とやらの成果は見えてこない。
それは、地方の疲弊や個人事業主の激減を知れば事足りることだろう。
(でも目をつぶって現実を見ようとしないか)


しかし我々は不平不満を言うだけではどうしようもない。
中小企業が、種に解けた個の集団であるならば、益々その力は弱くなることに気づくべきだ。
ここにもベキ法則は働くのだから。

今、我々のできることは、種に溶ける個の逆手を取ることでしかない。
しかし、環境は見事に逆風である。

であればだ、我々(「公共工事という産業」)が、種に解けた個の集団ではなく
基底を持たない浮遊する個でもなく
個々人のエッジの立った集団であるために
行動することは何かを見極め、やることはやらなきゃいけないのは当然のことだ。

しかしそれは、資本の理論に自らを合わせることではない。
組織の理論の強い時代、素朴な資本の理論は、まともには機能しない。


平和建設の五十嵐さんから、今年も前向きな写真が届いた。
(←クリックすると大きな画像が表示されます)

今年は、「より高く! より広く! そして 前へ!」だ。

師匠的な言い方が許されるのなら、今年も、この目標に向かって、それぞれに表現をしていって欲しい。

表現は、己の変化の表出であり、それはまた、新たな変化への始まりでしかない。

しかし表現は、なにも、言葉にあわれるものだけではない。

それは、まず自らの仕事に(現場に)表出するものだろう。

ただその表出を内省するために、テクストは必要なのだ。
しかしそれにフォーマットは不要だ。

骰子一擲は、表現がもたらす円環のメカニズムだ。
表現がなければ、入り口も出口もない。

そして円環的とは、自己否定的変態のことである。
自己否定ができないことは、人間として進化できないことと同意でしかないだろう。


最近の読書から一冊。
生命の進化と精神の進化
生命の進化と精神の進化

望月清文(著)

2004年12月12日

水曜社
2835円(税込)

(残念ながら、Amazonでは欠品中のようだ)


人間の自己否定的進化とは、心的なものである。
身体はただ衰えていくが、心は衰えない。

心は、毎日でも進化することが可能だ。
ただそれも、自己否定的姿勢があればのことだけれども。

望月先生は(↓)図のような、N字カーブの心の進化について書いておられる。
生命の進化と精神の進化,p285より引用 クリックすると大きな画像が表示されます)


図中、破線で下向きなものを、「動物的欲求に執着してしまった自我の歩む道」と表現している。
それが肉体の衰えとともに後退していくのは、ミームとジーンの関係として、わたしが講演で説明していることだし(あっちがだめになると理屈っぽくなるてことだ)、そしてそれ(動物的欲求)は、現実界(ラカン)からの欲動でもあるだろう。

確かに、わたしも肉体的には衰えを感じる歳である。
でも、わたしは、素直にN字カーブを描けない、動物的欲求への執着は捨てきれない。
様々な欲望をすべて否定することはできない。

わたしはただの俗人であり、神や仏の境地になんて、間違ってもたどり着かないだろう人間だ。
いくら偉そうなことを言っても、それ(動物的欲求)を捨て去ることは、一生できないだろう、と思う。

ただ、心と身体のハイブリッドな存在としての、つまり、身体を伴う精神としてのわたしは、今、何が自分にとって必要なことなのかぐらいは、理解しているつもりだ。

だから、苦悶している。
少しでも、精神的に進化できれば、と思う日々を、こうして過ごしている。

2005/01/05 (水)  
【mixi】

7時5分起床。
浅草は晴れ。

昨年末から試用していたmixi の仕組みが、なんとなくわかってきたところで、「桃組」関係者を mixi へ招聘し始めている。

mixi は、ソーシャル・ネットワーキングサイト(SNS)と呼ばれているもので、流行の blog+α の機能を持つ。

基本機能は blog ではある。
ただ、インターネットのオープン性の性格をそのまま反映はしていない。
クローズドとの中間的な場の性格を持つ。

中間的な場と言うのは、このmixi、誰でも簡単に参加はできないからで、これに参加するには「友人からの招待」という方法を経なくてはならないからだ。

これを約2週間程観察していて思ったのは、ここで、ウィーク・タイズ(広くて薄い紐帯)の形成過程を観察できそうだ、ということだ。



インターネットというスケールフリー・ネットワークの中に、膨大なコミュニティというクラスターを抱えた、mixi という中間的な場がある。

それはまさしく「広くて薄い紐帯」の場だと考えてもよいだろう。
そしてそこに大量に存在しているコミュニティは、共有感覚の場だ。

共有感覚が無くてはコミュニケーションは不可能である。
そして mixi には沢山の場がある。

しかし mixi も、基本的には匿名性を前提としたバーチャルな世界であり、ここで<他者>との共通感覚を確保することは、何処まで可能だろうか、という疑問が残る。

見ず知らずの方々と、バーチャルな世界で、匿名を前提に信頼関係を築くことは、私のような世代には難しいことだ。

ましてや、信頼関係もなく、ただ言葉遊びのような関係を作ることには、わたしにはなんの興味もない。

声的な文字。動物的な文字。
テクストの可能性をただ壊してしまうだけだろう。

なによりも、「広くて薄い紐帯」の形成には、ある程度F2F的経過(経験)が必要である(これはわたしの仮説だ)。
しかしバーチャルな世界では、現実的には(物理的に)F2Fができないことも確かだ。

その問題解決方法のひとつとして、mixi の特徴である「友人を誘う」ことは何処まで機能できるのだろうか。

この「友人を誘う」ということが、バーチャルな世界で、スモールワールドを作る鍵であるようにも思える。
(その機能的な意味についてはまだまとめきれていないが、ある程度、それもここで実証できるだろう)

今回作成した、「桃組」のコミュニティは、メンバー以外非公開とした。

これは閉じたクラスター(種)を想定している。

勿論、メンバーは mixi への参加が前提となっているので、個人、個人は mixi 内ではオープンな存在ではある。

まずは、ある程度の基底をこのクラスターに持って、個人はそれぞれに振舞うことからはじめてみたいと思う。

そして<他者>と如何に繋がるのかを実体験してみたいと思うのだ。

というこことで、「桃組」関係者には、合間を縫ってmixi へのご招待メールをお出ししている。

その作用はランダムなものだし、わたしの時間的な制限も加わっている。なので、まだ私には届かないぞ、という方はどうぞ自己申告してください。

また招待メールは届きそうにないけれども参加してみたい、という方も、自己申告していただければと思う。

ちょっとした実証実験である。
多くの皆さんが参加することで、今年1年、何が起きるのかを見ていこと思う。


第一建設さまより。
新年のご挨拶。


うん、新年早々美味しいメールをありがとう!

2005/01/04 (火)  
【悪党・の抱負】

午前2時30分就寝。(笑)

昨年、もっとも考えさせられ、そして今でも考え続けているものの。

スケールフリー・ネットワーク。

べき法則である。
(この図は公文俊平氏のコラムより引用)

スケールフリーの特徴については、ここで多くは書かない。

(是非、バラバシの「新ネットワーク思考」を読んでいただきたい)

例えばインターネットにおいては、少数のノードが、多くのリンクを持つことで、自らが流れをつくるようなハブになる現象が見られる(yahooとかamazonとか、楽天とかね)。
 → それは少数というよりも、極少数だ。

その形成に、どの程度の偶然性が機能しているのかはわからないけれど、インターネットは、ランダムな結びつきを持つだろう、という大方の予想を見事に裏切ってくれている。

このように、少数が多くを獲得する状況がベキ法則であり、たぶん、別名の80:20の法則という呼び方の方が有名だろうが、この法則は、あらゆることころで見ることができる。

例えば、藤原鎭男氏は、その著書、「共生の思想」において、原子番号と元素の存在量との関係、そして連歌の語彙と出現頻度の関係に、指数関係があることを指摘している。

同様に、大都市と地方の人口の関係、最近の、個人所得の関係などもにも、この関係は顕著だろう。

この関係性において、地方は疲弊し、東京一人勝の様相を示しており、今や、一億総中流などという言葉も、過去のものとなった。

この関係の、最もわかりやすい表現は、「金持ちは益々金持ちに、貧乏人は益々貧乏に」だろうし、勝ち組と負け組もでもいいだろう。

ここには、中間がないのだ。
つまり、このグラフは恐ろしく不平等な現象の表現なのである。

このような現象が、現実として、様々な世界に見られることは、民主主義や平等を善として教わった私たちの世代には、なにか受け入れがたいものだ。
これが現実にあることは否定できないにしても、精神的に違和感がある。

しかしたぶん、これは科学的には正しいのだ。
これは、私たちの外を見る目(科学的)では、そう見える再現性のあるものには違いない。

ここにわたしのジレンマがある。
地場型中小建設業を通して、地方の存在を考えているわたしには、簡単に、「はい、そうですか」「では地方の疲弊は仕方ないですね」とはいえない。

ならばだ、っこでわたしはもうひとつの目を使おうとする。
それは、わたし自身の内側を向く目であり、つまり、ここからの哲学の開始があった。

今回は、その答えのない今現在の行き詰まり(形而上学的思考のある時点の断面)を書こう。

今、わたしはこれを、自然の姿なのだと考えている。
自然が、自然として持つ本性なのだと考えている。

ベキ法則は、自然の状態の表現なのである。
だから、私たちの外を見る目では、そう見えるのも仕方がないだけだ。

では、私たちは、これを「自然だから」という理由で、甘んじて受け入れなくてはならないのだろうか。

なにか達観したふりをして、これを「あるがままのもの」と受け入れるべきなのだろうか。# 「あるがままのもの」については書きたいことが沢山あるけれども、今日は書かない。(笑)

わたしは、違う、と思う。

自然は、あるがままでは「あらぶる神」である。
だからこそ、人間は、環境(自然)との関係において、ミーム進化を続けてきたのだ。

自然なるものを、自然の姿のままではなく、その腸(はらわた)に素手を突っ込むように、自然が本来生み出さないものを表出させてきた。

(たしかにその行き過ぎはある)

けれども、それが技術だろう。
技術は我々の延長された表現型でしかない。

それも無意識と意識との境界面に現れる精神的なものとしてだ。
生命が生命であるために抑えきれない欲望こそがその源のようなものだ。

だから(たしかにその行き過ぎはある)

そしてその技術を操る職業的集団を、わたしは「悪党」と呼んでいる。
だから、考えてもみればよい。
わが国が技術立国というとき、それは「悪党」の国の意なのだ。(笑)

問題は、だから(たしかにその行き過ぎはある)なのだ。

だからこそ、悪党には、己の悪を否定しつづける哲学の行為、反省の行為が必要となる。

内省から生まれる精神的な進化こそ、悪党が身につけるべき精神的な技術なのだ。

そのことを、晦日に書いたように、観念を溜め、練り込み、こころを動かす徹底的な表現として構築していきたい。

それが、悪党の行う、己の悪を否定しつづける哲学の行為、反省の行為であることを、実践を通して明らかにしていきたい。

まあ、これが今年のわたしの抱負である。

 しかし、なぜに「ほうふ」は、負けを抱え込むと書くのだろうかね。
 なにか意味深な言葉だと思う。

さて、昨晩のビール。
元の鞘に戻る。(笑)

銀河高原ビール。

改めて、美味い、と思う。
























そして、三日とろろ。
これを食べると一年間風邪をひかないと言われているが、この習慣があるのは、北関東、南東北一円ぐらいだろうか。


2005/01/03 (月)  
【悪党・「ありえねー。」につて考える】

午前8時45分起床。
浅草は晴れ。

朝のうちに、浅草寺へ初詣に行って来た。
浅草寺は、正月三箇日の参拝客が100万人にもなる。
つまり、ご近所とはいえ、この時期はおいそれとは近づけないので、三日の朝のお参りとした。

ついでに、いつもの喫茶店で朝食とした。
朝からボルシチ。いつもより値段が高いように思う。
(いつもの価格を覚えていないので、思う、としか表現できないいい加減さ)
正月特別価格?


昨日の午前中は、カンフー ハッスルを観てきた。

確かに「ありえねー。」物語ではあったけれど、特段、想像力を超えているわけでもなかった。

つまり、殺戮の映画ではあるが、「ありえねー。」ことで、安心して身をゆだねることのできる映画だった。

わたしは、カンフー映画が好きだ。
わたしにとってのカンフー映画は、ただ無常に、人を殴り、蹴り倒す映画である。

そこでの、殴り、蹴り倒す理由は、ウルトラマンが怪獣を殺戮するぐらいに、いい加減でかまわない。
ただ、殴る、蹴る、ぶっ飛ばす。

カンフーは、その殴る、蹴るの一番強い奴、つまり殺生能力の一番高い奴を「達人」と呼ぶ。
考えてみれば、こんな危ない思想はないわけで、それはある意味パクス・アメリカーナ(米国覇権)も及ばないのかもしれない。

だから後戸の神としての「道」を、日本の武道は必要としたのだろうし、映画では「ありえねー。」が必要なのだ。

ただ、殴る、蹴る、ぶっ飛ばす。
でもそれは、ウルトラマンと同じように「ありえねー。」
ゴジラと同様に「ありえねー。」
これがカンフー映画の醍醐味だ。

  しかし、パクス・アメリカーナ(米国覇権)は現実のものだ。
  だから、前言は撤回されなくてはならない。
  怖いのはパクス・アメリカーナ(米国覇権)の方か。
  こいつの後戸の神はおっかねぇ。

この映画はエンタティメントとしてよくできている。
くすぐりどころのつぼを抑えている。
とにかく笑えるし、なんだか泣けるのだ。
勿論、ハッピーエンドである。

在りし日のドリフターズをまた思い出していたし、当然、ブルース・リーも思い出していた。
しかし、ブルース・リーは、草葉の陰で笑っているいることだろう。
「ありえねー。」

リアリティを追求しないことで、「ありえねー。」ことで、救われる映画もある。
わたしの内なる悪党的無意識は、安心して反応できる。

ワイヤーアクションだろうがCGだろうが、何でもよい。
身体は空中を駆け巡り、拳は空気を切り裂き、壁を壊し、蹴りは、相手の足を踏み、敵はサッカーボールのように飛び散る。

もっと、殴れ、蹴れ、壊せ!

でも、本当にあったら困るのだ。
あらぶる神(地球)が引き起こした津波のようにね。
 
 怖いのはむしろありえる現実だ。

「ありえねー。」からこそ、破壊は美しい…。
ということで、ついつい買ってしまった「破壊の神」。
ゴジラ2005
劇場限定版。
悪党は、○○限定版、というのに、とても弱い。



















カンフー ハッスルは、TVCMはがんがん流れているし、昨年ヒットした少林サッカーの印象も強かったので、さぞかし映画館は混んでいるだろうな、と出かけたのだが、さすがに正月、午前中ということもあって、道路もガラガラ、映画館も空いていた。

しかし、帰り道はうってかわっての大渋滞。
みんな浅草寺に向かっているわけで、成る程、お昼過ぎから皆さん活動を始めるのね、と大納得。
5656は、例の浅香光代さんの正月公演初日でごった返していた。
今日も同じだろう。

ということで、昨晩のビール。
正月といえば、恵比寿。(笑)


2005/01/02 (日)  
【悪党の正月】

午前7時20分起床。
浅草は快晴。

福は何処に招き入れるのか。
家に、であろう。

わたしの家にある、正月らしきもの。

奈良晒(麻)のタペストリー。
中川政七商店製(奈良県)。

奈良晒の素晴らしい質感をうまく使ったもので、伊勢海老のお飾りの絵があしらってある。

大きさは縦が150cmほどあり、写真で見る限りかなり存在感があるように思えるだろうが、この写真は、絵柄がわかりやすいように、コントラストを高めている。

実物は、もっと色合いが淡く、同色の壁に、溶け入るように存在している。

戦後生まれ、高度経済成長期育ちの悲しさか、歳時からは、縁遠くなっていたわが身だけれども、このようなものがひとつ家にあるだけで、また雰囲気が変わるのもの事実だ。

この絵には、縁起物が並ぶ。
特に、わたしの目を引くのは、干し柿だ。


干し柿は、「粉をふく」に通じて、幸福を表すものらしい。

それは、確かに、天然(自然)からの恵みだろうが、自然が自然のままでは生み出すことのない恵み(粉をふく)である。

人が皮をむき、秋の日光に当てることでもたらされる純生産。価値の増殖。「粉をふく」

幸福とは女の悦楽であろう。

そういう意味で干し柿は、確かに縁起ものなのだ。

そのような意味(情報)をまとうことで、大好きな市田柿も、また美味しい。(笑)

無限小。

さて、わたしの家にある、正月らしきものの二つ目は、本当に繊細な稲穂飾り。

わたしの書斎(仕事部屋)の入り口に、小さく、そおっと、飾られている。
稲穂も純生産を表す縁起ものと考えてもよいだろう。

それは、少しでも今年がよい年であるようにという、ささやかな悪党の願い。
また今年一年、元気で働いて、稲穂のような価値の増殖を得たい、と思う願望の表出のようなものだ。

この二つのモノだけで、まったく科学的ではない空間をつくりながら、悪党は、本当にささやかに正月気分を楽しんでいる。

それはささやかなハレの時空の演出である。
少なくとも、子供の頃には、己の内に存在した、その感覚を取り戻そうとするあがきかもしれない。

それは例えば、正月の新米の香りだった。
わたしの家では、大晦日の夜と、正月には新米が食えた。
それは、まさしく、ささやかなハレの感覚であり、正月の感覚だった。

しかしいつの間にかわたしは、ハレとケの区別のつかない人になってしまった。
平面的な日々を、時間を、長々と過ごしてきた。
高度経済成長期の時代、飽食の時代、お金さえあればなんでも手に入ると思っていた頃だ。

都市型の月給取りとして生きることが決まった人生では、進学が決まったとき、就職が決まったとき、結婚したとき、それが精一杯の男のハレであろう。

それ以降の人生が、共同体意識が崩壊した時空にあるとき、仕事こそがハレの場なのだ、といえるような時間がありえただろうか。

でも、今のわたしは、少しはハレの感覚を取り戻してはいる。

それは、結局は自分の心の中で起こる変化だ、ということにも気づいている。
それは、存在するモノへの感謝と共生の気持ち、繋がっているいる感覚、とでもいえるようなものだ。

そういうものを、ここ数年の反省で少しは持ちえた。

そして、この戯言を書きはじめて、今年で八年目になった。

大晦日のはなしから。
年越し蕎麦。

永坂更科(錦糸町)。
本店は麻布十番らしいが行ったことはない。

わたしは、蕎麦は、藪系がだめで、もっぱら更科系を愛好する。

永坂更科では御前そばという名で出ていた。蕎麦の実の中心核部分だけを使った真っ白な蕎麦だ。

ここは汁に特徴があり、あま汁とから汁の二つが出てくる。

客は、この二つをブレンドして好みの辛さに仕立てるわけだが、一般的に、江戸前の蕎麦の汁は、わたしには辛すぎる(というか味が濃すぎる)、というのが本音だ。

ここのも正直、あま汁もから汁も、ボディが強烈すぎて水で薄めたい衝動にかられる。
まあ、そんな奴は、江戸で蕎麦をたぐるな、といわれそうなのだが、縁起を担ぎたい悪党は、それでも年越し蕎麦を食べたい。

大晦日のビール。
山口県の旭酒造がつくる地ビール。

オッターフェストビールと名づけられている。
ケルシュである。

ケルシュは、アルコール分が比較的押さえられていて、ほのかに果実の香りがする。
すっきりとしてとても飲みやすい。

見たとおり、少し濁っており、これは上面醗酵ビールの特徴だ。
また、発泡性もさほど強くない(注ぎかたが悪かったので少々泡が多いが)。

最近、酒は軟弱なものを好む悪党にとっては、とても好きなテイスト、ということができる。
美味しいと思う。

値段は少々張り、酔うのが目的なら割高感はあるだろうけれど、ラベルに書いてあるように、“山口の山奥の小さな酒蔵”の、酒にかける夢と心を感じることができるだけでも、価値あるビールである。

泡と一緒に無限小が飛び回る。

大晦日の夜は、この無限小と、お好み焼き+焼きそば。
たまらない。(笑)


元旦のビール。
シメイ・ブルーキャップ

正月なので、ささやかな贅沢。
(子供の頃の新米の記憶のようなもの)

アルコール度数 9%のベルギービール。
というよりも、ベルギーの修道院にて、僧侶が醸造していることで有名な、まさに妖精からの贈り物のようなビールだ。

一旦出来上がったビールを瓶詰めする直前に、新しい酵母(とたぶん砂糖もだろう)を加える、二次発酵製法を採用している。

そのため、ビールにしては高いアルコール度数と、しっかりしたボディ、そして、まるでバラのような香りを楽しめる。

味も香りも、私たちが常日頃飲んでいるビールの常識を、はるかに超えており、とてもガブ飲みするようなものではなく、しようとしてもできない。

敬意を表して、グラスも、普段のシュピゲラウから、ホヤクリスタルのワイングラスに変えた。

このビールは、どちらかといえば、肉料理とか、チーズによくあうと思う。

しかし昨晩は、向井田さんから贈り物である、蒸ウニ。
それから、一昨日、偶然に見つけた(当然に生きている)上海蟹。
そして、牡蠣の燻製オイル漬、で楽しんでみた。

どれも、どちらかといえば、癖のあるものであり、濃厚という形容が似合うもので、それはチーズに負けず劣らずである。
つまりだ、案の定、美味かった、ということだ。(笑)
自然の恵みに、そして人間の知恵に、感謝しながら正月元旦を楽しんだ。
まあ、こんな正月。
じつを言えば、特に正月らしくもないのかもしれない。
けれども、ハレなのだ。
いつもと違うのは、外食ではない、ということだ。
普段(ケ)に外食の多いわたしは、ハレには自宅で飯を食べている。

2005/01/01 (土)  
【謹賀新年】

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いもうしあげます。

さて、恒例の一枚だけの年賀状。
「鶏」の籀文。

画像解説:

今年は酉の年。

であれば、鶏だろう、ということで、最初は素朴なインスピレーションから、「こけこっこー」と書こうと考えていた。

しかし、なにか、その音の間抜けさが気に入らなかったし、そんなに文字数の多い鳴き声じゃ、文字にしたときのバランスもとりにくい。

羊(めぇ)や申(うっきぃ)のような、音の切れがないのだ。

せめて、年の初めぐらいは、すっきりといきたい。

しかし、鳥は難しい。
鳥の難しさは、その多種多様性にある。
鳥の鳴き声は様々である。

雀(ちゅんちゅん)もいれば、雉(けんけん)もいるし、鳩(ぽっぽ)もある。
それで、一時は、「かぁ」(烏)というのも考えた

しかし、年の初めに烏もないだろう。
やはり、酉年の鳥は鶏だろう、という思い込みは深い。


それで、次のインスピレーションはこれだった。
鳴き声を書くのはあきらめて、王様に出てきてもらおうか、と考えた。

平等院・鳳凰像。
ご存知、新しい諭吉さまの裏面である。

でも、コピーして、印刷すること自体、とても問題が多そうなので、即刻却下となった。

そういうわけで、今回は、ちょっと変わったものでいこうか、とあいなった。
それが、尊敬する、白川静先生の常用字解から、鶏の籀文(ちゅうぶん:西周後期の金文の字様を残しているいくらか画数の多い字)の模写である。

読みは「ケイ」。

もちろん、ケイは形声であり、鶏の鳴き声を写した文字である。
ちょっとひねり過ぎかもしれないけれども、まあ、よし、とした。

今年はひねくれて丁度ぐらいでいきたい、と思うし。

cover 常用字解

白川 静(著)

2003年12月18日
平凡社

2940円(税込)




momo
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