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建設業に貢献するIT化
考える技術!

店主戯言(浅草的思考)060401 2006/4/1〜2006/4/10 "There goes talkin' MOMO"


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2006/04/10 (月)  
【そんなに頑張ってどうするのだろう】

午前6時起床。浅草は曇り。
天候は崩れる気配。

さて小沢さんが民主党の党首になられた。
私は小泉さんを支持したことはないが、かといって民主党支持者でもないので、誰が民主党の党首になってもめでたくもないし悲しくもない。

ただ小沢民主党は、自民党/民主党の区分を、ほとんどなくしてしまうだろう。
ただ淡々と、リバタリアニズムの基本OS化が進んでいるように思える。



簡単に言ってしまえば、リバタリアニズムは、所有権を基盤にして、あとは市場に任せておけばなんとかなる的な、乱暴な発想だ。
ユートピア的な自由を目指す。
思想ですらない。
しかしそれの乱暴さが情報技術によって実装されてきているのが今の時代なのだと思う。

私が『桃論』を書いたのは、その最初の危機が顕在化したときだった。
CALS/ECは、そのリバタリアニズム的乱暴さの情報技術による公共事業への実装であると主張していたわけだ。
そして情報技術を逆手にとってその乱暴さから逃れようと試みた。
なのでCALS/ECの形骸化を私はその実践として賞賛したわけだ。(笑)

しかし情報技術云々の前に、リバタリアニズムのOS化はちゃくちゃくと進んでしまった。

唯物史観には「上部構造」「下部構造」という言葉がある。
唯物史観では歴史の発展は社会の生産力の変化を主たる要因としている。
なので生産力や生産関係、それに経済制度などを「土台」とか「下部構造」という。

そしてその「土台」の変化につれて変化していく政治、社会制度、宗教、芸術、文化等意識的なものを「上部構造」という。

リバタリアニズムの基本OS化というのは、唯物史観のそれとは違うのだが(そもそもリバタリアニズムは思想でさえない)、下部構造と上部構造のようなものがあると理解してもらえば理解しやすいと思う。

『リバタリアンは社会の基礎として特定の価値観に頼らない。コミュニタリアンのように伝統を大切にしようとか言わない。あくまでも身体の自己所有だけを根拠に、あとはそこから演繹される原理でいく。そして、そういう最低限の下部構造=「ユートピアのためのフレームワーク」のうえで、それぞれの人間がそれぞれ勝手にコミュニティを作るのはかまわない。したがって、そこでキリスト教原理主義者が原理主義者のコミュニティを作り、リベラルがルベラルなコミュニティを作るのはまったくかまわない、という発想なわけです。』(東浩紀:,『波状言論S改』,p279)

この流れの中では開発主義的な旧来の構造(構造改革の構造である)に準拠しているものは辛い。
開発主義はOS非適応な政策であることが決定的になる。
もちろん公共事業という産業は構造である。

では、どうしようか、である。

〈あきらめる/あきらめない〉のか。

あきらめないとすればそのストラテジーはどんなものなのか。

 真理の言葉を使うのか。
 愛の言葉を使うのか。
 権力の言葉を使うのか。
 貨幣の言葉を使うのか。

「機能の言葉」を使うのか。
しかし単なるビジネス戦略とは違って、この土俵では「機能の言葉」だけでは勝負にならない。

『もともとの目的をもっていない人は、「機能の言葉」に熟達しても、目的をもつ者たちに奉仕する「便利屋」になるしかないんですね。』(宮台真司:『波状言論S改』,p62)

『僕が言葉を投げかけたいターゲットには、「世のなかはこう動いているんだ」ということを――「どうせ世の中はこんなもの」ということも含めて――理解して賢くなってもらったうえで、「機能の言葉」を自在に駆使したポリティクスで勝ってほしい。ポリティクスを勝ち抜くための戦略的コミュニケーションを徹底的に身につけ、戦いに勝ってもらいたい。ネオコンとの闘いの土俵はそうしたものです。』(宮台真司:『波状言論S改』,p63)

私の基本戦略は宮台真司とたいしてかわらない。
批判もあろうが、どうやってもこの戦略しかないところまで追い詰められた、というのが本音である。

それに対する東浩紀の言葉もまた正しいのかもしれないけれども……。

『つまり「そんなに頑張ってどうするのだろう」という疑問が払えない。』(東浩紀:『波状言論S改』,p69)

■参考

松岡正剛の千夜千冊『アナーキー・国家・ユートピア』ロバート・ノージック
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0449.html

■参考文献

『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門

森村進(著)

2001年2月20日
講談社現代新書

756円(税込)





『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』

東浩紀、大澤真幸、北田暁大、鈴木謙介、宮台真司(著)

2005年11月25日
青土社

1680円(税込)








2006/04/09 (日)  
【TOP10】

午前7時35分起床。浅草は晴れ。

暖かく穏やかな日曜日である。
浅草寺にはたくさんの観光客。
 
その観光客に混じってお昼ごはんを食べてきた。

 

帰ってきて部屋に戻り、いつものように iTunsとBOSEのステレオセットをを使って音楽を流す。
iTunsスマートプレイリストには再生回数のTOP25があるのでちょっと見てみた。

とりあえずTOP10はこんな按配だった。



今日はこれについて書こう思った。
けれど音楽について書くのは難しい。
そして恥ずかしい。

それは音楽の体験というのはとてもパーソナルなものだからだ。
それを他者に伝えようとすれば、インパーソナルな場所でシンボル化された言葉を使うしかない。

手っ取り早いのは 〈すき/きらい〉の二分コードの言語である。
個人的な体験(パーソナル)を手っ取り早く伝えるにはインパーソナルな表現を使わなくてはならない。
それもなにか味気ない。

しかしそれが嫌なら、それはまるで公開恋文のようなものになる。
それが恥ずかしさを上塗りする。

曲(作者)と私の二の関係を三の関係に置き換える。
つまりそれは日常ではない。
異常な体験である。
特定の人への愛を他者へ伝えることがそうであるように。


1位 Jupiter(平原綾香)

Jupiter

平原綾香

2003年12月17日
ドリーミュージック

1050円(税込)




昨年の三月〜四月頃に集中して聴いていた。
なぜそうなのかは、この曲のレビューに書いたつもりだったので探してみた。
だが、それは店主戯言には未掲載だったようで見つからなかった。

どこに書いたのかと思えばmixi日記である。
 → http://mixi.jp/view_diary.pl?id=11357556&owner_id=241688

mixiをご覧になれない方のために複製を作成してみた。
 → Jupiter

この曲の歌詞はとんでいる。
今聴けば典型的な象徴界の欠如モデルであり中景がないことがわかる。

「1.5の関係」であり、ある意味「世界系」とでもいえるだろう。
「愛」という二の関係が、宇宙という一に直結している。

これを集中的に聴いていた頃、私はウェブログにある自我と鏡像関係を考えていた。
でもその頃はまだ「1.5の関係」を理解するツールを持ち合わせていなかった。

そんな私にとって、Jupiterはウェブログの世界を射影しているようにも思えた。
ユング的なものを感じていた。


2位 Inspiration(Gipsy Kings)

鬼平犯科帳のエンディングテーマである。
単に長谷川平蔵が好きなのである。
他意はない。(笑)


3位 明日(平原綾香)

明日

平原綾香

2005年1月26日
ドリーミュージック

1050円(税込)



Jupiterからのノリで購入したものだ。
TVドラマ「優しい時間」の主題歌だったがそれは見たことはない。

この曲は「中景」の呼び戻しのようなところがある。
つまり歌詞に「街」から出られないパトリ性もつ。
そのためJupiterに比べればはるかに多くの安心感を与えていることがわかる。


4位 traveling(槙原敬之)

 → http://www.momoti.com/myself/self051101.htm#051113


5位 Slip Sliding Awey(Paul Simon)

 → http://www.momoti.com/myself/self17.html#98/08/18

Paul Simonは長い間聴いてきた。
まだ歌い続けるつもりらしく新しいアルバムのリリースがアナウンスされている。

Surprise

Paul Simon

2006年5月9日
Warner Bros / Wea







6位 中央線(矢野顕子&小田和正)

 → http://www.momoti.com/myself/self060302.htm#060312

アルバム『はじめてのやのあきこ』の中では一番好きな曲だ。
人身事故や雷雨でよく止まる中央線というリアリティをモチーフとしているため中景が消えない。
けれども、なぜか生活臭くない。


7位 PRESTO(矢野顕子)

続けて矢野顕子。
私の音楽的好みの反映のようなものだろう。

この曲は『はじめてのやのあきこ』では弾き語りで歌われている。
しかしこの曲がなぜ「PRESTO」であるのかはこちらの方がわかりやすいだろう。
心臓の鼓動を刻むリズムと血液のように流れるピアノ。
「PRESTO」である.

 → 【パトリの桜】


8位 Driving All Night(DOUBLE)

「ハイブリッド」の考察の為に使った曲。
英語と日本語の歌詞のハイブリッド。
原曲に対するシュミラークル。
それ以上でもそれ以下でもないけれども、後の「マッシュアップ」の考察につながある意味大切な曲。

 → http://www.momoti.com/myself/self0206.html#020610
 → http://www.momoti.com/myself/self040402.htm#040425


9位 Canned Heat(Iamiro quai)

この曲は今回のTOP10では唐突なものだ。
私自身も驚いた。(笑)
しかしなるほど自宅ではよく流れてはいる。
基本的に私はスピード感のあるファンキーな曲がすきだ。
そして今聞けばROCKの正常進化の途上をみることができるものだと思う。
世紀末を反映した混沌としたハイブリドな音でもある。

シンクロナイズド

ジャミロクアイ

1999年6月7日
エッピックレコードジャパン

2520円(税込)




10位 Keep Tryin’

 → http://www.momoti.com/myself/self060302.htm#060315


以上、恥ずかしいお遊びまで。

2006/04/08 (土)  
【花祭り】

浅草寺は花祭り。
白い像を拝みにでかけた。
 

像ついでに上野動物園まで足を伸ばした。

 

リンリンは腹を出して眠っていた。
やっぱり ♂である。

 

動物園は楽しい。

常日頃、社会システム論なんていう、人間の過剰を考えていると、(飼育されているとは言え)動物の形態とその動きはとても新鮮だ。

こんなに多様な生物を生み出した進化のシステムというのは、改めてとても凄いものだなと思った。

お昼は動物園のレストランでカレーを食べた。
なぜか中村屋のチキンカレーだ。
880円。
 

途中雨に降られた。
300円のビニール傘を買ってそれをしのぐ。

すぐに雨はあがり、傘は無用の荷物になってしまった。
私が商人なら、一本100円で買い戻して、また300円で売るところだが、そんなことを東京の人間はしないらしい。

帰り道、上野にある沖縄のアンテナショップに寄って、TVで紹介されていた「笑味」を調達。
お一人様一本限り。
1350円。
 

それから土曜日なので雷門前の松喜に寄って、特売の切り落としを買う。

 

二列に並んで買う。




【パトリの桜】

午前7時10分起床。浅草は曇り。


PRESTO

  夕暮れの合言葉 言い出せないままで
  同じ匂い 僕らの匂い

  あいたかったんだ ずっと
  胸ん中落ちてきた木の実
  すっぱい味がした
  涙でてきたから
  あいたかったんだ ずっと
  あいたかったんだ 今日も
  明日も多分そうだろう
   (『PRESTO』 by 矢野顕子&岸田繁)

心臓の鼓動を刻むリズムと血液のように流れるピアノ。
選び抜かれたことばはパーソナルな心象をインパーソナルな共同幻想に結びつける。
パトリの歌だと思った。

PRESTO

矢野顕子
2006年2月1日

ヤマハミュージックコミュニケーションズ

1365円(税込)






■海蔵川堤

昨日は四日市で途中下車してしまった。

想いが爆発してしまった。
あれは幻だったのだろうか。

海蔵川堤の桜をみたいと思った。

満開であった。
 

ここで最後に花見をしてから八年も過ぎた。

いろいろなことがあった。

三日後に息子が生まれた。
住所も二度変わった。

あの楽しい時間を共有したみんなは元気だろうか。

息子は二年生になった。
私は疲れたり元気になったりを繰り返し歳をとった。

少しだけ世の中がわかったようなふりをするようになった。

海蔵川は相変わらず茶色に濁り 桜は満面の笑みだ。
遠くに見えるおもちゃのような屋台。

また みんなで花見をしたいと思った。


■源平団子

帰宅すると郡山の源平団子が届いていた。
開成山の桜の蕾は まだ固いことだろう。

 
 

2006/04/07 (金)  
【おいしいですよ!】

午前6時30分起床。浅草は曇り。

今日は津日帰り出張。
お供は4月1日にAmazonのおすすめにそそのかされカートに入れた『中沢家の人々・完全版』

中沢家の人々・完全版

三遊亭演歌

2005年7月27日
オーマガトキ

2300円(税込)






65分の大作だけれども、既に二度ほど聞いてみた。
唯一無二の高齢化社会落語だろう。

おもしろいですよ!
どもり万歳! じじい万歳!である。


この怒涛のイチゴがのったタルトフレーズは、パティスリー ナナン浅草店のもの。
一個 550円(税抜)。
おいしいですよ!

パティスリーナナン浅草店
東京都台東区浅草1-39-2
TEL.03-3843-4650
営業時間/11:00〜20:00 月曜定休(祝日の場合は翌日休)、月1回連休あり
アクセス/うちから自転車で5分程度



「おもしろいですよ!」とか「おいしいですよ!」というのは、個人的経験、身体的な感覚を他者に伝えようとしている。
反省はない。無反省の記号である。

しかし、画像付きの無反省の記号はある程度の説得力を持つだろう。
おもしろいのかもしれない…。
おいしいのかもしれない…。


オロナミンCドリンクのキャッチコピーに「おいしいですよ!」というのがある。
「おいしいですよ!」というと、私は脊髄反射的にオロナミンCドリンクを思い出してしまう。

この看板は1960年代後半から70年代前期のものだろうが、ここに反省はない。

時代背景からすれば、(60年代への)「抵抗としての無反省」(北田暁大)のようなものだろうか。

私が今朝書いた「おいしいですよ!」もじつはそこを狙ってはみたのだ。

つまり「抵抗としての無反省」。
「反省」への抵抗としての「無反省」である。

しかしこれが「抵抗としての無反省」なのか「抵抗として無反省」なのか単なる「無反省」なのかなんて、私のマスターベーションのようなもので、読んでいる方々にとってはどうでもよいことだろう。

それがどうであれ、コミュニケーション接続はある。
無反省の記号も当然機能を持つ。
つまり身体的感覚の伝達という困難、複雑性の縮減をしている。
機能の言葉である。

マーケッティングは戦略的には「機能の言葉」を使う。
私の最近の関心事は「感動」という身体的な感覚にある。
「感動」という記号が溢れている。
戦略的に「感動」が使われている。
感動だらけである。

動物化の時代、簡単に人間であることを確認するとなると「感動」は手っ取り早い。
複雑性を極端に縮減してしまう。
考えることを縮減できる。
だから、それがやたらに溢れている時代もなんだかなと思う。

全てが「おいしいですよ!」の世界も味気ない。

2006/04/06 (木)   
【Red Bull】

午前7時20分起床。浅草は晴れ。

■「Red Bull」って栄養ドリンク屋だったのね

私はF1をよく見るのだが、昨年からなんだかよく分からない目立つチームがあった。
「Red Bull」である。
 → http://sports.yahoo.co.jp/f1/2006/teams/rbr/

先日偶然「Red Bull」のTVCMを見てしまった。
アニメーション仕立てで缶入りドリンクを売りたいようだった。
それもセブン・イレブン独占販売。

お前はいったいなんなんだ?

早速購入。一本275円もした。
原産国オーストリア?

確かにあの雄牛のトレードマークがあった。
「Red Bull」って栄養ドリンクのことなのか?
 
これは日本の製品では「オロナミンCドリンク」だと思ってもらえばよいだろう。
炭酸入りの栄養ドリンクだ。
色も味もオロCによく似ている。
けれども、私には微妙にまずかった。

そもそもはタイの栄養ドリンクらしい。
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%AB

レッドブル ジャパン
 → http://www.redbull.jp/

なるほどねなのである。
そして「オロナミンC」と日本語で書かれたF1マシンを思い浮かべる。
ボディサイドのデザインは大村崑さんの例のやつである。
一人でクスッと笑う。
寂しい性格である。


■近況

毎年、年度末から年度初めは私にとっては最も自由になる時間のある時期だ。
つまり暇である。

この時期は、毎年どうでもいいような目標を立て、だらだらと過ごすことにしている。
今年も目標を二つ立ててみた。

ひとつはサーバー移行の段取り。
つまりこのサイトのあるサーバーの引越しの段取りだ。

8年間、Web日記の更新を続けているだけで、現在借りている100MBでは完全に容量不足になってしまった。
日記のテクストとその画像は日々増えていく。
資料を掲示するスペースも既にない。

新にやりたいこともある。
この店主戯言をブログ風(トラックバックの機能の付加)にしたいとも思う。
『桃論』を公開してしまおうかとも考えている。
『桃論弐』(IT化マネジメント論)を執筆段階で公開してしまおうとも考えている。

それで新規にサーバーを借りた。
2GBの契約なので容量的には十分だろう。

DNSの書換えや細かい設定等を含めて、本格的な引越しは黄金週間中になるだろうが、まあ今からぼちぼちとやろうとしているわけだ。


さてもうひとつは読書である。
二クラス・ルーマンの『情熱としての愛』をちゃんと読もうとしている。
まあ、「ちゃんと読めたらうれしいなぁ」という程度のものだ。
つまり過去にちゃんと読めなかったわけだ。

情熱としての愛―親密さのコード化

二クラス・ルーマン(著)
佐藤勉・村中知子(訳)

2005年5月
木鐸社

3675円(税込)






この本は、なにはともあれルーマンだし、なによりもそのタイトルに惚れて昨年購入した。
『情熱としての愛』だもの。
素晴らしいじゃないの。

でも内容はそんなロマンチックなものじゃないのね。(笑)
つまり読み切るには私の語彙が足りず、なんだかよくわからないRed Bullであった。

それで再度挑戦中という訳なのだが、今回は前回よりも読める。
しかし読めば読むほどルーマンってオヤジはRed Bullである。

2006/04/05 (水)  
【内臓系ジンギスカン】

午前8時20分起床。浅草は雨。

昨晩は気の置けない方々との会食。
「まるごと北海道」でジンギスカンを食べた。
内臓系があったのでオーダー。
 
上から時計回りに、ホルモン、ハツ、レバーである。
感想は……
やっぱりジンギスカンはフツーに食べたほうがよい。(笑)

PS.
この内臓系は羊のそれです。(笑)

2006/04/04 (火)  
【ロングテール】

午前8時10分起床。浅草は晴れ。
外出していた為、遅めの更新。


80対20の法則を覆す ロングテールの法則

菅谷義博(著)

2006年3月9日
東洋経済新報社

1575円(税込)







この本は下の図を含むプロローグしか読んでいない。
でもそれだけでも色々と考えさせてくれる。

(引用:『80対20の法則を覆す ロングテールの法則』,p5)

ロングテールについては、先月の盛岡でのミニ・ゼミナールで、情報の外部性(他者の意見に左右される)について説明をする際に、そのまくらとして使用した。

当サイトの読者の方にはおなじみのスケールフリー(80:20の法則)の裾野の長いものだ。

つまり「負け組」が沢山いるモデルだけれども、図にもあるようにその負け組(売れない8割)の方が勝ち組であるよく売れる2割よりも売り上げが大きいというグラフである。

例えば、米国のAmazonの本の売上げの半分以上は、販売部数ランキングの4万位以下のロングテールから上がっているらしい(らしいというのはAmazonからの正式なアナウンスではないということ)。

たしかに今や売れない8割である『桃論』(ちなみに私の著作である)でさえ、(日本の)Amazonでは月に1冊は売れている。

単純に『桃論』が売り上げの20万位にいたとして、20万位が月に1冊売れれば少なくとも其れよりも上位のものの売り上げは20万冊/月を超えることになる。

例えば、iTMS(アップルのiチューンズ・ミュージックストア)で取り扱っている曲は100万曲以上に及ぶ。2006年2月24日には累積ダウンロード数は10億曲を達成している。

しかしその100万を超える品揃えでさえ一回もダウンロードされなかった曲はないらしい。
ここにもロングテールが起きていることが想像される。

このモデルは、私的にはスケールフリーの「底が抜けている」状態、カットオフを無視してもよい状態であるように見える。

カットオフを無視してもよい、とはネットワークが無限である(もしくはそれに近い)ときのことだが、今までの私たちの経験では、無限を考える必要はなかった。
必ずカットオフはある。

例えばリアルな店舗における品揃えには必ず限界がある。
私の行動範囲と対人ネットワークにも限界がある。
現実問題として、リアルな世界では有限サイズ効果が働くのを当たり前としていたわけだ。

けれどもインターネットがフツーにある時代は、ある場所において、カットオフを無視できるようなネットワークが生まれてきているということだろう。

しかしそれは別に驚くに値しないし、私は以前から指摘し続けてきたものだ。

つまりインターネットには終点がない(ように見える)のだ(物理的な終点ではなく人間の営みの中では「ように見える」だけで十分である)。
つまりインターネットはカットオフが無いかのように広がり続けているように見える。

そしてインターネットにあるネットワークは維持コストがリアルな世界のネットワークに比べれば格段に低い。

商品を陳列する店舗も棚もいらない。
宣伝も、アソシエイトは趣味のブログを広告媒体に変えてしまう。
鏡像としての名指し、つまり情報の外部性(他者の意見に左右される)効果は、単純だがシステム化されてもいる(Amazonのマイストアの例は4月1日に例示した)
ここには訓練された店員は必要ないのである。

つまりロングテールがベキ法則(80対20の法則)を覆しているのではなく、バラバシがやったように、スケールフリーネットワークでは全てが自由でありコストがかからない、として扱えば、当然のようにその傾向(スケールフリー)はより強化され続ける、ということだろう。

金持ちは益々金持ちに。
貧乏人は益々貧乏に、である。

つまり「優先的結合」である。

なので私はスケールフリーを経済学的には市場原理主義の徹底として扱ってきた。
このシステムでは確実に中間層は減少し不平等は強化される。

システムが、成長の原則と優先的結合の原則に従うならば、ネットワークはスケールフリーとなる。


この本のようにロングテールをマーケティング的に考えるとたしかに面白いと思う。

ただ建設業の売れない8割ってなに?とか、売れない8割にいる「私」ってなに? と考えてもあまり現実的な問題とは思えない。

『桃論』が売れる2割になろうが売れない8割であろうがたいして意味はないのだ。
私がロングテール効果を享受しようとすれば、恐ろしいペースで本を書き続けることになるのだろうが、現実的に無理な戦略でしかない。

むしろロングテールが私の興味をひくのは、それが極端な不平等性を示しているにも関わらず、需要側から見ればとても便利であり自由なものに見えるということだ。

恐ろしく選択の幅が広いように見える(「ように見える」だけで十分である)。

それは個人の経験を超え、偶然性を孕み、誤配的なつながりを生み出しさえするシステムに依存しているが、そのシステムは何処かに「楽しさ」を孕むように見える。

無限(故に不可能)であるかのように思えた需要(人間の欲望)に対する商品の提供(商品へのアクセスを含む)が、供給側からはある程度可能になってしまっているように見える。
若しくは需要側から見れば、供給が無限に行われているように見える。

(「ように見える」だけで十分である)

つまりなんでもあるように見える。

その意味では(消費的には)我々は自由なのかもしれない。

その消費的な自由を制限しているものは所得(可処分所得)だけだ。
そこでは(その所得をめぐって)勝ち組と負け組が再帰的に生産される。
ロングテールは再生産される。
不平等は存在する。

しかし世の中の全ての人々が消費による自己実現を目指すならそれでいいかもしれない。
何らかの働く意思は生まれる(フリーターはここに入るのか?)。
社会はその意思に支えられる。
システム的には再挑戦のためのセーフティネットを張ればよい。
(現政府の戦略はこんなものだろう)

しかし現実社会はさらに複雑である。
問題はなにかといえば、新たな自由の発見である。

それは消費を通じての自己実現ではない。
ましてや仕事を通しての自己実現でもない。
自己実現しない幸い(自由)である(ニートやひきこもり的自由)。

それは悪いことではないのかもしれない。
この自由は法システム的には違法ではないのだから。

しかしこの第三の幸い(自由)をテールに持った社会構造が、ロングテールにならないとは限らない。
そしてそれはどんな世の中になるのだろうか、と思いをめぐらせていたりするのだ。
そしてそれはどこから生まれてきたのだろうか、と思いをめぐらせていたりするのだ。

2006/04/03 (月)  ▲
【パール柑】

午前9時20分起床。浅草は晴れ。
時々強い風が吹いている。

昨晩はツール・ド・フランドルを6時間ほど生中継で見てしまった。
体調は下降気味だったのでよせばよかったのだろうが、今日は事務的な仕事だけなので、心に引っかかるものもなく、悠々と寝ていたせいか体調は悪くない。

ツール・ド・フランドルはベルギーで行われているワンデーの自転車レースだ。
それが生中継で観ることのできる時代になった。
今度の日曜日にはパリ〜ルーべの生中継まである。

便利になったというような表現では足りないものがある。


今年初めて食した果物にパール柑がある。
私は最近これを一日一個食べるのが習慣になっている。
昨晩は自転車レースを見ながらこれを食べていた。
 
熊本県は天草の産。
大きさはグレープフルーツと同じぐらいである。
見た目もよく似ている。

ただ中身はかなり違う。
果皮はかなりかたく剥くのはちょっとした手間を要す。
ただ剥いている最中には文旦に似た香りが楽しめて楽しい。
 

種は多いが、果肉同様身離れは良いので食べやすい。
果肉は淡黄白色。
見た目と違ってジューシーで酸味も程よい。
ひとことで言い表せば「さっぱり」である。
 


2006/04/02 (日)  
【ガメラ】

午前8時40分起床。浅草は曇り。

今日は天候が崩れるとの予報。
昨日から伊豆に出かけている家人は、温泉卓球しかないな。

TVには「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」が流れている。

昨晩から日本映画専門チャンネルでは“24時間まるごとガメラ”である。
私は午後9時から平成ガメラ三部作をたて続けに観た。
観終えたのは午前3時。

昭和のガメラは対ギャオスまではリアルタイムに観て育った。
怪獣は破壊するモノのである。
(ガメラもゴジラ同様そもそもは破壊神であった)

スクリーンに映し出される破壊は、子供心になにか心地よかった。
ただそれは、「8時だヨ!全員集合」でドリフターズが見せた、セット破壊と同じ次元の快感であったと思う。

平成ガメラは少しリアリティを纏って怪獣オヤジの前にあらわれた。
それにインスパイアされたのか、私はガメラのフィギュアを集めだした。

('97 M1号 対レギオン版 ガメラ 21cm)

しかしこの収集も、子供の頃買ってもらえなかった経験の穴埋めなのか、と思った瞬間、物欲は止まってしまった。


ガメラの最新作「小さき勇者たち〜GAMERA〜」が今月下旬から公開される。
「ガメラと少年の心の交流」だそうである。
でも私はただ破壊する怪獣が見たいと思う。

今日の名指し。
4月2日
721 F1 決勝 12:50(お昼)

2006/04/01 (土)  
【鏡像(0324岩手でのミニ・ゼミナールの反省)】

午前7時起床。浅草は曇り。

PCを起動する。
占いを見る。



mixiの足跡をみる。


もっとわかりやすいのは此方の方か。
「マイミクからの紹介文」


Amazonのマイストアを覗く。
おすすめ商品が並んでいる。



思わず『中沢家の人々・完全版』をショッピングカートに入れてしまう。

かみさんからのメモ。
4月1日
 721 F1 フリー走行  8:50
     F1 予選    11:50

たった10分間にある鏡像。(笑)
これが「私」だとしても、別に不快ではない。
  インデックス

建設業に貢献するIT化
考える技術!

桃知商店 桃知利男
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