「ももち どっと こむ」より

還暦祝い!平成30年9月15日(土)桃組「小さな勉強会」と「暑気払い」のご案内。山と山とは出会わぬものだが人と人とは出会うもの(また会う道もある花の山)。

2018年08月01日|イベント



Lesson6 ミーム論(3)―ミームってなに

ミームってなに

それでは、ミームとはなんでしょうか。『現代用語の基礎知識2001』(自由国民社)から引用すると、

・ミーム(meme)
 生物の遺伝子のように伝えられていく人間社会の習慣や文化。

と紹介されています。「文化の遺伝子」とでも解釈できるかと思いますが、本書でのミームの理解はこの程度で十分かもしれません。(ミームについての初心者向け入門書としては、佐倉統(監修),清水修(構成・文)石黒健吾(構成・編)『ミーム力、とは?―ヒトからヒトへ広がる不思議なチカラ』,数研出版,2001、をお勧めしておきます。)

ミームという考え方が生まれてきたのは、人間の文化システムを、生命のシステムである遺伝子だけで説明しようとするとどうも都合が悪いということからです。そこで人間の文化システムを生物学のアナロジーで考えてみよう、というところから生まれてきたのが、ミームという、生物の遺伝子のように伝えられていく人間社会の習慣や文化の自己複製子が存在するという考え方なのです。これを日本語の習得を例として考えてみましょう。

本書の読者の皆さんは、きっと日本語を特段に意識することなく自然にはなすようになったはずです。日本語をはなすのに特別な教育を受けたことはないはずです。小学校で国語の授業を受ける前に私たちはすでに日本語をはなしていたはずなのです。

それでは、この日本語をはなすという情報は何によって私たちに伝播され、そして後世に伝えられていくものなのでしょうか。私たちが日本語をはなす両親から生まれたのであれば、ほぼまちがいなく日本語を自然とはなすようになったはずです。そして私たちの子孫もたぶん日本語をはなし続けるはずです。

ミーム論的に、つまり生物学からのアナロジーでこの日本語の伝承を考えれば、まず「日本語をはなすという情報は生まれる前から遺伝子という自己複製子に刻まれていた情報なのか」という疑問が生まれてきます。これについては次のように考えることができるでしょう。

例えば、日本で日本語をはなす両親から生まれた子供が、生まれて間もなくの英語をはなす(日本語ははなせない)米国人夫婦との養子縁組が成立してニューヨークで生活するようになったとします。この場合この子は日本語をはなすようになるのでしょうか。答えは「否」でしょう。そればかりか、この子が順調に育てば、自然と英語をはなすようになるはずです。つまり、言語という情報(日本語とか英語)は、あらかじめ遺伝子に刻まれたものではないことがわかります。

では、なぜ私たちはいつのまに日本語をはなすようになったのでしょうか。それはこの情報が「模倣」という方法によって伝播され脳に蓄積されたからです。人は真似ることで学んでいるのです。

ついでに書きますが、この模倣による伝播は完全なものではないようです。ですから、方言もあればはやり言葉も生まれてくるのです。室町時代の言葉遣いと現代の言葉遣いが違うことは、能や狂言のような口承無形芸能でさえ、言葉遣いやイントネーションが変化していることでそれを私たちに教えてくれています。日本語の伝播は、不確実で複雑な経緯を経ながら進化しているものだといえるでしょう。

この日本語の伝承のような、まるで生命の進化システムのような動きをする人間の文化のシステムを「それはなぜ」と、生命のシステムのアナロジーとして考えるのがミーム論の立場なのです。

生物学的な観点からは、「文化とは、遺伝子によらずに次世代へと受け継がれていく情報の体系」と定義されます。「遺伝子によらず」というのは、ある人の脳から別の人の脳へと、学習と教育によって伝播するものが文化的情報だということです。ただし、この場合でも、ある人が自分自身で試行錯誤した結果習得されたものは文化とはいいません。その新しい形質が、観察学習や教育によって他の人に伝達されて、初めて文化と呼ぶのです。この文化的情報伝達の単位を、「ミーム」と呼んでいるのです。(佐倉,2001,p74-75)佐倉によれば、ミームは次のように説明されています。

ミーム(meme)とは、文化的情報の伝達単位である。生命情報の伝達単位が遺伝子であることからのアナロジーとして連想されたもので、いいかえると、文化システムを生命システムのアナロジーで記述するための基本的な概念である。(佐倉,2001,p13))

つまり、人間のさまざまな活動や人間そのものを、遺伝子とミームというふたつの情報系の複合体ととらえ、その人間の文化的な行動を生命システムのアナロジーでもって考察する立場が「ミーム論」の立場なのです。

このミームの最初の想定者であり名づけ親であるリチャード・ドーキンスが与えたミームの例には次のようなものがあります。

 旋律、アイディア、キャッチフレーズ、服の流行、ティーポットのつくり方、橋のつくり方

それでは、こんなものもミームと呼んでいいはずです。

2×4建築工法、在来木造建築工法、鉄骨工法、RC工法、測量のやり方、舗装やり方、車のデザイン、そして本書に書かれていること。

例えば、先の私の「身の上ばなし」にあった『「わからない」という方法』は、私が試行錯誤の結果として獲得したものです。橋本の『「わからない」という方法』という本は、つい最近読んだものです。そして、橋本治という人は「ああ、私と同じようなことをする人なんだなぁ」と共感したということです。

私における『「わからない」という方法』は、そもそもは私の実践を通してできあがってきた試行錯誤の産物だったものです。そもそもは『「わからない」という方法』という名前さえありませんでしたし、そのような呼び方があることも知りませんでした。これを私が内に潜めている限りは『「わからない」という方法』はミームと呼べるものではないのです。

しかし、私が本書を書くことで読者の方々に『「わからない」という方法』が伝わり、よし、私も同じように『「わからない」という方法』でやってみよう、と思った方がいるかもしれません。その方々は、さらに橋本治の『『「わからない」という方法』』という本を読むのかもしれませんし、私のはなしだけで満足するのかはわかりませんが、とにかく、そのやり方を模倣することになるでしょう。とすれば、『「わからない」という方法』はミームとなれるのです。

もっとも、私自身が橋本の本を読むことによって、自らの名前のないやり方を『「わからない」という方法』と呼ぶことにし、『「わからない」という方法』という呼び方を本書でも使っていますので、『「わからない」という方法』は、橋本が本に著した段階ですでに「ミーム」であったといえるでしょう。

そして金子が「ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である。」というときの、コミュニティにおける感動と人間性に対する信頼感を運ぶものもミームなのです。

それでは、「あくび」はミームでしょうか。これは時々伝染します。

米国のミーム論者(というより、マイクロソフト・ワードの開発者として有名)リチャード・ブロディによれば、「あくび」はミームではありません。なぜなら、あくびは行為であっていかなる情報の内部表現とも無関係だからです。(※ブロディによるミーム定義

ミームとは心の中の情報の単位であり、その複製が他の心の中にも作られるようにさまざまなできごとに影響を及ぼしてゆく。(リチャード・ブロディ,『ミーム―心を操るウイルス』,森敬之訳,講談社,1998,p45))

では、ここで先ほどの買い手が高級車に対してもっている信頼や偉そうに見えるミームを考えてみましょう。

ミーム論から見ると、自動車産業には自動車をつくる生産技術というミームがあります。その基本的な情報は模倣によって人の能から人の能へと伝播されるものです。しかしこの複製は遺伝子のように完全なものではありません。この複製の頼りなさこそが技術的進化にとって大きな役割を果たしています。デジタル情報である遺伝子に比べ、アナログ情報でしかないミームの複製は、例えば伝言ゲームのようにかなり頼りないものです。でもこの頼りなさこそが環境への適応能力、つまり技術的進歩を生み出す根源として機能しています。

「環境への適応能力という点から見れば、文化子は明らかに極めて有効な手段である。外界からのショックによる突然変異や受精によるゲノムの変化を待つまでもなく、個人の世界イメージが反省されつくり変えられる毎に、文化子には変異のチャンスが訪れる。個人の抱く環境像の変化を通じて、環境への適応は迅速され、個々の固体の生の中ですら大幅な適応が可能となる。人間が道具・機械といった人工物 artifact をつくりだすのも、一生の間に次々と世界イメージを保存しつつつくり変えるこの能力のおかげである。」(村上泰亮,『反古典の政治経済学要綱―来世紀のための覚書』,中央公論社,1994年,p123,)

でもそればかりではありません。自動車には、ブランド・イメージのようなもの、例えばスカイラインGTRやポルシェやフェラーリがもっているような、そしてホンダのF1伝説のような物語性や、それらが持つ美しいデザインのようなものがあります。そして、セルシオやメルセデスのようなアッパークラスには、なにか信頼感や俗な言葉でいうステータス性とかいうものが存在しています。私たちはこのようなものに心惹かれてしまうことが多々あるのですが、ではこれはいったい何ものなのでしょうか。

本書ではこれらもミームと考えます。ただしこれらは、自動車が勝手に内部表現として持って私たちに働きかけているものではありません。そもそも自動車はただの鉄の加工品です。心はありません。つまり、私たちが自動車のような商品に対して持っているイメージとでも呼べるようなものは、商品が発信源というよりは私たち買い手が商品に対して持っている「イメージのストック」と呼べるものです。

これは例えば、新聞広告とかテレビコマーシャル、雑誌やインターネット上の関連記事、そして口コミのようなものを媒体として、人の脳から脳へ複製されることで形成され蓄積されてきたものです。これらは模倣によって(他人と同じように思うことで)人々にひろまり、人間の脳(心)にストックされているメモリーなのです。

つまり、ミームとは、一人ひとりの人間が持っている生活世界イメージのようなものです。だからセルシオを自らのステータスを示すには十分だと考える人がいてもいいし、メルセデスのSクラスでなければステータスは表現できないと思う人がいても不思議ではないのです。もちろんカローラで十分という人がいてもいいのです。

ですから、社長の車が高級車であるのは、「買い手が車に対して思っている信頼や、この車に乗れば世間は偉そうに見てくれるだろというミーム」を購入しているからといえるのです。

本書では、このように「ミーム」をいささか広義の意で解釈していますが、このような視座を持つことで、市場を形成するふたつの立場である売り手と買い手にもそれぞれミームが存在することが理解できると思います。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2007年09月19日 13:29: Newer : Older


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