イントラネットは零細企業に必要か
しかし、この考え方に対しては反論もあります。例えば、このようなものが代表でしょう。紹介するのは、私が主催するメーリングリストに投稿された意見のやりとりからの抜粋です。最初の問題提起はこうです。
イントラネットは、零細企業に必要か?
たしかに現場は、家から3Km以内にあり、イントラネットを組んでまでデータを共有する必要はありません。会社に戻ってLANで十分可能です。
信頼の構築による淘汰から再生へ
しかし、この考え方に対しては反論もあります。例えば、このようなものが代表でしょう。紹介するのは、私が主催するメーリングリストに投稿された意見のやりとりからの抜粋です。最初の問題提起はこうです。
イントラネットは、零細企業に必要か?
たしかに現場は、家から3Km以内にあり、イントラネットを組んでまでデータを共有する必要はありません。会社に戻ってLANで十分可能です。
中小建設業の経営において、最も大切なものでありながら最も軽視されてきたものに「コミュニケーション」があります。その多くは、経営層と社員、社員と社員、本社と現場のコミュニケーションの欠如です。しかしコミュニケーションがない、という経営はありえませんし、経営とは円滑なコミュニケーションから成立できるものでしかありません。
では、ちょっと具体的なはなしに入りましょう。現在、企業ベースの私のコンサルテーションでは次のふたつを当然の前提としています。それは、
これまでの「IT化=環境×原理」の理解を前提に、まずは個々の企業でのIT化について考えてみましょう。これまでの議論をもってしても「なぜIT化が必要なのか」という疑問はぬぐえてはいないでしょう。私は、この疑問に対する答えを、かつて次のように書いたことがあります。
私たちは、既存の権威がすでに機能しなくなりつつあることを知っています。アカウンタビリティやパブリック・インボルブメント(PI:政策形成の段階で人々の意見を吸い上げようとするために、人々に意思表明の場を提供する試み)が、昨今の公共工事でいわれている背景には、市民社会という公共工事に対する「消費のミーム」の主の台頭と同時に、「既存の権威」の崩壊という問題があります。それは「ヒエラルキー・ソリューション」の崩壊のはじまり、といってもいいでしょう。
結局、公共工事に対する「消費のミーム」とは、「発注者」と市民社会との関係で簡単に変化するような曖昧なものでしかありません。ここではそれを、「プリンシパル・エージェント問題」(省略して「エージェント問題」)として考えてみましょう。
「マーケット・ソリューション」の台頭は、中小建設業に「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が、機会費用の増大で高く付き過ぎる、と多くの国民が感じるところから始まっていることは確かです。そうしてこう繰り返しているのです。
「世の中、飼い慣らされた金魚ばかりだから餌がたくさん必要になって国の財布はすっからかん、挙句の果てに借金までしなくちゃならない」。
さて、「公共工事という産業」を維持してきた「安心のシステム」とでも呼べるものをどのように解釈するにせよ、このシステムは、仕事量という環境パラメータの増減によって、いとも簡単に機能できたりできなくなったりすることは明らかです。つまり、「全員に行渡る仕事がある」という環境では、この行動原理は機能しますが、「全員に行渡る仕事がない」という環境では機能することはできません。なぜなら、この「安心のシステム」の構成員が自ら忠実な構成員足ろうと思えるのは、構成員として満足できる仕事の配分を受けることが可能な状態(もしくはそう思える状態)が継続されている場合にしかありえないからです。
本書では、「安心の担保」に依存した権限と統制力による秩序の維持方法を、「ヒエラルキー・ソリューション」とみなした議論を行っていますが、官製談合などは、正確には「(裏)ヒエラルキー・ソリューション」とでも呼んだ方がよいかもしれません。
中小建設業の「狭義の技術ミーム」は、たとえばふぐの調理免許のようなものです。これは相手の「能力」に対する期待としての信頼を担保します。ふぐ屋を開業するには調理免許は最低限の適応課題であり、これも「技術のミーム」には違いありません。この調理免許という狭義の「技術のミーム」は、調理人のふぐを調理できる、という技術(能力)に対する信頼を形成することはできます。
ここまでの理解を基に、私たちは、ようやく中小建設業における「技術のミーム」と、その「技術のミーム」が形成してきた「消費のミーム」や「ソーシャル・キャピタル」を考察することになります。それは、公共建設市場における中小建設業の競争力とかコア・コンピタンスはなにか、という考察を意味するのですが、ここでは、「コア・コンピタンスってなに」という方々のために少し寄り道をします。
さて、これからのはなしは、私と親交のある電気工事業の社長さんのはなしです。この会社は電気工事業が本業ですが、付帯的に電化製品の物販も行ってきました。ご多分に漏れず、最近は量販店がたくさん近所に進出してきて物販部門の売り上げはじり貧状態、いよいよこの物販部門の存続打ち切りを本気で考えざるをえない状況になってしまったわけですが、このはなしを社長からうかがっている時に、この物販部門で電化製品を購入される方々にみられるある行動についての興味深いはなしを聞くことができました。
売り手には正しい情報があり、買い手には正確な情報がないという、両者間での情報量に大きな差異がある場合のことを「情報の非対称性」といいます。これにはアカロフの「レモン市場」という有名なモデルがあります。(J.A.アカロフ,『ある理論経済学者のお話の本』,幸村千佳良ほか訳,ハーベスト社,1995)
さて、ここからは、市場を形成する情報とはなんだろうか、という考察を始めます。それは、市場に流れる情報としての「信頼」とはなんだろうか、を考えることを意味していますが、ここではまず、自分自身、つまり「自己」という存在を考えてみましょう。
さて、ここからは、金魚論から展開した「中小建設業のIT化=市場×IT化」の「市場」という部分の考察を始めますが、その市場についての概観は、すでに今までの考察の中である程度は略画的に描いてきています。
お気づきの方も多いと思いますが、本書の市場を考察するアプローチは、皆さんにとっては、少々風変わりなものであるはずです。それは「社会的交換」をベースに産業化を再構成する考え方をしているからなのですが(これは村上泰輔が「開発主義」の考察で行った方法を援用しています)、この特徴は「マーケット・メカニズム」にだけ依存しているとされる交換行為(つまり売買)を、「経済的交換」として「社会的交換」の特殊ケースとして位置づけているところにあります。つまり経済的交換も、結局は人と人との相互作用であると捉え、私たちの日々の生活から切り離されたものではなく、社会的交換を下敷きにしておこなわれているもの、と考えることを意味しています。このようなアプローチの特徴は、今までの本書の議論ではいたるところにみることができたはずです。
たとえば、今までの「情報化」は、本社や支店といった事務所にサーバーを置いて、事務所で働く社員にパソコンを配布し、事務所内のLANを構築するといった、どこかの教科書に書かれていたか、ベスト・ソリューションと呼ばれるものを担いでやってきたベンダーさんが作っていったものでしょう。
なぜコンピュータへの投資が業績の向上に結びつかないのかを深く考え分析する経営者もほとんどいません。もちろんコンピュータを売る方は「そんなことはない」といい張るだけでしょう。そして、こういうのです。
「あなたの使い方が悪いから」
しかし、この「市場のルールによるIT化の阻害」だけで、「中小建設業のIT化」の遅れをいうのも不十分なのです。それは、いくらコンピュータにお金をかけても仕事はとれないという感覚は、大なり小なり行われてきた、個々の企業における情報化投資においても存在するからです。つまり、ミクロ的な個々の経営においても、「なにかがIT化の阻害をしている」ということです。
では、自治体発注の工事に性能規定方式のような、真正の「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが問題解決策なのかといえば、これは中小建設業の終焉を意味するだけでしかありません。
さて、このような「発注者がものを作るという視点」を維持しながらおこなう「マーケット・メカニズム」の公共工事への導入は、制限付き一般競争入札制度のように、自由競争ではなくただの指値制度にしかなれません。このような調達のシステムできちんと積算をして入札に臨む業者はいないでしょうし、この入札制度は最低制限価格を予想するギャンブル化してしまっています。落札できるのもできないのも時の運、このような市場で、どうしたらいい会社になれるのか、などと考えることは、考えること自体が無駄なことでしかありません。こうして中小建設業は思考さえもとめられてしまうのです。
それは、発注者側に「モノを作る視点」が存在し続けているためです。つまり、この入札制度を導入する発注者は、「マーケット・メカニズム」を表面に出すことで、「公共工事という問題」から自らを切り離そうとはしていますが、「公共工事という問題」に内在する発注者の機能、つまり、開発主義の文脈での公共工事の存在意義と発注者の役割は、旧来の文脈をそのまま引きずっているからです。それは、「地場経済の活性化と雇用の確保」という目的 →配分を重視したルール(ヒエラルキー・ソリューション)が、この「制限付き一般競争入札制度」でも前提となっている、ということです。でもそれは当然のことでしかありません。
ここではまず、「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査表」(表3)を見てください。(出展:http://www.city.matsusaka.mie.jp/)
しかし、私たちが目にする現実は、「配分のルール」によるIT化意欲の欠如だけでは、中小建設業におけるIT化の遅れは説明できない、ということです。つまり、「配分のルール」の対極の方法として台頭してきている、自称「マーケット・ソリューション」にも、「配分のルール」と同じように「市場のルールによるIT化の阻害」をみることができるのです。
公共建設市場を、発注者(自治体)を頂点とした関連図でみると、ここには[図3]のようなふたつのヒエラルキー構造(ピラミッド)をみることができます。よくマスコミが知ったかぶりで、「スーパーゼネコン→準大手→中小建設業」という、ひとつのヒエラルキーで中小建設業の位置を説明しようとしていますが、それは今のところは大間違いです(でも将来はそうならないとは限りませんが)。
それでは、なぜ「中小建設業のIT化」は遅れてしまっているのでしょうか。いろいろある意見の中で、核心を突く答えをひとつピックアップするとなればこれでしょう。
「いくらコンピュータに投資をしても仕事はとれない」
[表1] 開発主義政策のプロトタイプ・モデル
(村上泰亮, 『反古典の政治経済学 下 二十一世紀への序説』,中央公論社,1992,p98-99)
さて、私たちは、IT化の現象としてのインターネット社会、「情報」の正体としての「ミーム」という眼鏡をもってIT化を考えるという準備を終えましたが、もうひとつ本書が中小建設業のIT化を考察するときに基盤とする考え方があります。それは、「中小建設業のIT化=中小建設業×IT化」という方程式にある「中小建設業」そのものの理解です。これは、「制度・慣行=環境×原理」という方程式の、制度慣行を中小建設業と置いて考察をする作業となります。つまり中小建設業という産業を成立させている「環境と原理」を考える、ということです。
私の家には、私と家人のために、ISDN回線とADSL回線、 2台の電はなし機とファックス、 3台のテレビセット、 2基のファイファイ・システム、 2基のDVDシステムとインターネットに接続された 3台のコンピュータがあります。そのほか何百冊という本、何十枚かのCDとDVDとビデオもあります。では、どのようにしてこれらは存在するようになったのでしょうか、そしてそれはなぜなのでしょうか。
本書では、主流が生成されるメカニズムを大変重視しています。このことは、ミームが主流であったりそうでなかったりする、つまり文化形成のメカニズムを知ることで、私たちがさんざん耳にしてきた、「中小建設業にIT化はいらない」という文化をつくりだしてきた仕組みを知ろうとすることを意味しています。それは、逆説的には「中小建設業にIT化は必要だ」というミームは文化を形成できるのかを考える基盤になることを意味しています。ここではその概観を見てみることにします。
それでは、ミームとはなんでしょうか。『現代用語の基礎知識2001』(自由国民社)から引用すると、
・ミーム(meme)
生物の遺伝子のように伝えられていく人間社会の習慣や文化。
では、「ミーム」についての理解をはじめる前に、ひとつの問いを持ちだしましょう。それは、「なぜ社長の乗る車は高級車なのか」という問いです。会社で社長用の車を購入する時、皆さんの会社でも、それが新車であれ中古車であれ、高級車とよばれるものを例外なく選択するはずです。その行為の良し悪しはここでは関係がありません。問題は「それはなぜなのか」ということなのです。
本書では、IT化と情報化を明確に区別していますが、ここではIT化と情報化を簡単に分別する方法を書いておきます。それは、簡単にはこんなふうに理解してもらえばよいかと思います。
「コミュニティ・ソリューション」は、その位置を「コミュニティへの方向性」に置く問題解決方法です。これは、コミュニティを形成するメンバーとの積極的につながりを構築することで問題を解決しようとするもので、例えば「オルフェウス室内管弦楽団」による「オルフェウス・プロセス」(※ソロやコンダクターを務めることのできる力を持った一流の演奏家の集まりですが、世界で唯一の指揮者のいないオーケストラとしてそのコモンズの問題解決方法)や「リナックス・コミュニティ」(リナックス・コミュニティには企業組織のような権限によるヒエラルキーはなく、リーナスが最終的に下す決定をコミュニティ・メンバーが承認するというルールが出来ています)(金子,2002,p49))がその事例とされています。
では最初に、「ヒエラルキー・ソリューション」について簡単にまとめておきます。これは選挙のようなシステムで、権限を第三者に委譲することで問題解決を図る方法なのですが、アローのいう「選挙によって選ばれた政治体制による政治的決定」の最高機関を「政府」とすれば、インターネット社会ではこの問題解決方法の存在価値は薄くなるものでしかありません。
ここでは、インターネット社会の特性をベースに、社会的、経済的な問題に対する既存の問題解決方法の問題点をまとめておきましょう。ここでの考察は、後に行う公共工事依存型の中小建設業が抱えるさまざまな問題(公共工事という問題)の考察にある示唆を与えてくれることになるはずです。
金子郁容は、『新版 コミュニティ・ソリューション―ボランタリーな問題解決に向けて』でインターネット社会を「ふたつの方向性」を持つ象限(※平面を直交した二直線で分けた四つの部分)によって描きだしています。(金子郁容,『新版 コミュニティ・ソリューション』岩波書店,2002)
ここでは、そのふたつの方向性を、金子によるインターネット社会の描写をなぞることで理解を進めたいと思います。そのふたつの方向性とは次のようなものです。
グローバルへの方向性
G(global)軸
・世界が平滑化しグローバル・スタンダードが支配的になる
・マーケット・メカニズムが一層重要になるグローバルな活動が必要とされる
コミュニティへの方向性
C(community)軸
・文化的・経済的多様性と分散化が進む
・たくさんの新しい関係性が発生し多種多様なコミュニティが形成される
さて、私の身の上ばなしもこの辺で終わりにしたいと思います。ここでは私の思うところを簡単にまとめておきましょう。
まず、インターネットが革命であることは、マクロ経済学者には理解しにくいだろうということです。なぜなら、彼らの問題解決方法は、個人と問題を切り離すことで成立しているからです。そういう方々にとって、インターネットの存在はファックスの延長上に考えることで十分な理解になってしまいます。しかし、個人の世界イメージの中では、これは「革命」に相当するようインパクトを持っているのです。
私は、今では「答えのない」コンサルタントを明言しています。この「答えのない」コンサルタントというやり方も、既存のコンサルタント業界では絶対に認められない方法論のはずです。コンサルタントは「知っていること」が唯一の売りものなのであり、「知らないこと」はなにも売るものがないことを意味するからです。しかし、私は全く逆の方法を行っています。これを橋本治に倣って「わからない」という方法と呼んでいます。
それでも私は、インターネットは「革命」だというのです。
確かに、マクロ経済学の見地からは、私の仕事のスタイルは、旧来からあるやり方そのものなのです。ただ、インターネットという安くて手軽で爆発的な普及効果を持った情報伝達手段を、それも早い段階で利用することで、ちょっと合理的で効率的に、そして「さきがけ」的に形成されてきたものでしかありません。つまり、私の行動は「さきがけ」としての勇気は賞賛されるでしょうが、そこには革命と呼べるような「新奇さ」はないということです。
以下は、『ホワイトカラー真っ青』(原題は「White Collars Turn Blue」) と題された、クルーグマンの論文からの引用です。(翻訳は山形浩生がおこなっています。http://www.post1.com/home/hiyori13/krugman/lookbackj.html)
本書は「IT化」の本らしく、まず「IT化」についての理解からはじめることにします。しかし、IT(情報通信技術)やIT化に関する議論をするとき、特にそれが本書のように制度や組織のあり方まで意見が及ぶような場合には、これはどんな論者でもそうなのですが、それぞれがある仮説に立って自らの「IT化論」を語っていることを理解しておく必要があります。IT化が社会に与える影響をそれぞれに仮定して理論の展開をしているのです。IT化に関してはどこかに定まった見解があるわけではありません。