店主戯言050202  2005/2/16〜2005/2/28 "There goes talkin' MOMO"


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2005/02/28 (月)  
【悪党・朝に誓う】

午前6時30分起床。
浅草は晴れ。

慌しかった1週間を終え、今日は身の回りのことを集中的に整理しようと思う。
確定申告の準備も滞っているし、事務処理的なものも、先週は出来なかった。

今日は、そういうものを、しっかりとやろう、と心に誓う。

身体は、連日の宴会続きで少々疲れてはいるが、気力は萎えてはいない・・・はず。(笑)

しかし、先週は人生が凝縮されたような一週間だった。
岐阜に始まり、盛岡、そして札幌、岩見沢。

沢山の方々と出会い、話し、飲んで食べた。
このつながりを基に、さらにネットワークを広げていきたい。

広くて薄い紐帯。

2005/02/27 (日)  
【悪党・会心】

浅草に戻る。

昨日の「地域再生フォーラムU」で使用したPPTをアップした(掲示終了→必要な方はメールにてご連絡ください)
ダウンロードのページ

この講演は、自分で言うのもなんなのだけれども、会心の出来、といってよかった。

昨日の仕事は、露払いである。

それは、でしゃばり過ぎず、しかし己を殺さず、主題の余韻を残したまま、その余韻が再び輪郭をはっきりとあらわすかのように、岩井国臣氏へ、「場」を繋げることである。

多分、その仕事は、ほぼ完璧に出来た、かと思う。
それは、岩井氏の最初の言葉となって現れてくる。

「桃知先生の話は、私に、これについて話なさい、と方向付けをされたのだと思います。」

その通りです、と思った。
そして、それを理解していただき、とても嬉しかった。

わたしの講演の裏主題は、岩井氏と知的なキャッチボールであったのだ。

その投げかけに、見事に答えたいただいた岩井氏は、やはり、並みの国会議員ではなかったってことだ。

その投げかけの内容が、今回のPPTである。
これだけ見て、なにがなんだかわかるだろうか。

2005/02/26 (土)  
【悪党・反省する】

午前6時30分起床。
札幌は晴れ。

朝鮮人参茶を飲む。

今日は、午後から岩見沢市で行われる、空知建協 地域再生フォーラムUのために、午前中に移動。

早めに会場に入って、会場チェックを行い、その後、岩井国臣国土交通副大臣と一緒に昼食の予定。

昨日のわたしは、絶不調であった。
左目がなぜか充血していて、目やにが出るし、朝から食欲がなかったので、ろくなものも食べずに講演に臨んだ為、ガス欠してしまった。

普段、二時間の講演なら、むしろ時間が足りないぐらいの勢いで話せるのだが、昨日は、普段とは違い、とても時間の進むのが遅く感じられた。

それもこれも体調管理に失敗しているからである。
芸人失格なのである。

ボロメオの結び目的に言えば、身体のバランスの崩れが、無意識の次元に浸透しているわたしの芸の表現を、ひたすら邪魔しているような感じだった。

それは、身体と言葉との表出のハイブリッドに見事に失敗しているわけで、わたしの表現は、本来の意味を生み出せないままに過ぎていった。

本来の意味の喪失とは、とてもよくできた講演で起こるべきものなのだ。
それは、表現の中に、自分でも考えてもいなかった、予想もしなかった、新しい意味の創出があることだ。

それが講演のダイナミズムなのだが、昨日のわたしの講演における意味の喪失は、それとは全く逆の意味のものだろう。

それも元をたどれば、一昨日の暴飲に起因しているわけだ。
それは、わたしの無意識の中の、欲動だけの働きに起因している。

それを抑えきれない。
ただ、修行が足りない。
本当に反省。

昨晩は、お酒も控え、睡眠もたっぷりととり、体調の回復に努めた。
おかげさまで、今朝はかなり回復している。
左目の充血もだいぶよくなっていた。

本日使うPPTは、昨晩のうちに確認しておいた。
今朝、もう一度確認し、頭の中で1時間の講演をイメージする。

朝食も、早めにしっかりととろう。
とにかく万全の準備をして臨む。

準備が万全のものであっても、表現が、上手くできるとは限らないのは確かなのだが、それでも、そうするのが悪党でなくてはならない。

とにかく反省。

2005/02/25 (金)  
【悪党・眠い・・・】

8時30分頃起床。
札幌はよい天気である。

わたしゃ眠い。
昨晩は、ススキノで気の置けない方々とご一献。
結局、ホテルに戻ったのは、午前2時を過ぎていた。

この調子じゃ、朝ごはんは食べられないなぁ。

これから、今日の講演内容を再構築しなくてはならない。
脳味噌の中で、プランだけは出来上がっていたのだけれども、PPTとしてはまとまっていないのだ。

昨日のお題、「信号機のトポロジー」については、mixiでは、青色点滅が引っかかるとのご意見をいただいた。

例えば、
歩行者用の信号では、青→赤のとき、青が点滅します。これが自動車用信号での「黄色」の役目なので、完全な無意識というのとはちょっと違うように思えるのですが。青の点滅を見て「あぁ、もうすぐ赤になるから急がなきゃ」って意識するんだと思うんですよね。

では、なぜ黄色でなく青の点滅なのかといえば、単純にコストの問題だと思います。

青の点滅を無意識に黄色と感じるのが「全体を全体として理解しようとする能力=流動的知性」であるということなのかな?

これは、考えるととても楽しい問題なので、皆さんも、お時間があれば考えてみればどうだろう。

そしてご意見をいただければ幸甚なのだ。

ああ、もう一眠りしたい・・・。(笑)

2005/02/24 (木)  
【悪党・信号機のトポロジーについて書く】

午前5時起床。

今日は、岩手県のいきいきステップアップ委員会出席のため、早朝のはやてにて盛岡へ移動する。

その後、岩手建協さんにおじゃまし、夕方の便で、花巻から新千歳へ飛ぶ。
天候が心配だ。

今朝は、時間がない。

なので、信号機のトポロジーについて、書き留めて置いたものを載せてみたい。

←画像をクリックすすると大きな画像が表示されます。











上の図は、車道用交通信号機のトポロジーである。
車道用信号機は、赤を起点とした時、赤→青→黄→赤の順番に点灯する。

この逆はない。
つまり、赤から青に変わるとき、黄色は点灯しない。
なぜだろう。

それは、赤の時、自動車は止まっているからだ。(笑)
人間の、コントロール可能な状況に、自動車はある。

一方、青から赤に変わる時、それは突然に変わることはない。
必ず、赤と青の間に黄色がはいる。

これは、自動車が動いているからだ。
それは、人間が、通常自分の動きをコントロールするその能力の、限界を超えたスピードで動いている。

つまり、人間が、自分の能力を超えたもの(自動車)を制御するには、コントロールできるまでの「余裕」「時間」「遊び」が必要なのだ。

この黄色が存在するために、信号機は、赤と青という対立するものを抱えながらも、自動車という、人間の能力を超えたスピードで動くものの、交通をつかさどることができる。

黄色は、赤と青を結びつける蝶番なのである。
黄色は、赤と青という二律背反をハイブリッドし、夫々の個性を殺すことなく、その関係性に意味をもたせる。

ここで信号機は、赤、青、黄という別々の個性の並びではなく、それらが全体として機能する、意味あるものとなる。

一方、歩行者用信号機には、黄色がない。

赤に変わる時に、青が若干の点滅をするだけだ。

なぜだろう。











それは、もう、お気づきのように、
歩行とは、人間が、自分の身体をコントロール可能な状況内の運動だからである。

しかしそれは、黄色が存在しない、ということではない。
黄色はちゃんとある。
それは私たちの無意識の中にだ。

私たちは、横断するとき、無意識的に注意をする。
私たちの無意識に、黄色は存在するのである。

(車道の場合、その無意識だけではコントロールができないほど、自動車のスピードは、人間のコントロール能力を超えている、ということだ)

つまり、私たちは無意識的に、赤と青のハイブリッドを行い、歩行の、横断のシステムの意味を、理解している。

それは、赤と青を分離せず、赤と青を信号機の全体として理解しようとする「対象性の思考」が働いているからだ。

このように、無意識が支配的に機能し、全体を全体として理解しようとする能力が、流動的知性である。

流動的知性は、対立していると思われるものを、対立させるのではなく、その対立をハイブリッドし、全体としての意味を見出す能力である。

それは、普段気がつかないかもしれないが、普通に人間には備わっているものだ。

しかしこの能力を、我々は忘れているし、この能力を鍛えることも、していない。
わずかに、芸能や「道」の世界に、それが残っているだけだろう。

しかし、これこそが、わたしのIT化でいう、係数a を構成するもののひとつなのだ。

そして、この「対象性の思考」を使うことで、「非対称性の思考」が生み出してしまう閉塞を、乗り越えようとするのが、わたしのIT化なのである。

2005/02/23 (水)  
【悪党・2・22 岐阜での講演用PPTをアップする

昨日の講演会で使用したPPTをアップした。

→ 【DL】2・22 岐阜での講演用PPT(掲示終了→必要な方はメールにてご連絡ください)

実験的な部分も含めてあり、それは、20日に、悪党・手の内を少しだけ明かすで紹介した、信号機の話である。

と言っても、PPTには答えはなく、あくまでも答えはわたしの話の中にあるので、すみません m(__)m なのだが。

向井先生から昨日の写真を送っていただいた。
そこからの1枚。


そして、岐阜県建設産業再生ポータルサイトさまより。
http://www.gifu-ks.net/

先日の講演おつかれさまでした。
早速、先生の講演について当ポータルサイトのニュース、アルバム、フォーラムに掲載させていただきました。

フォーラムでは、先生の講演に関する感想などが書き込めるようにしています。
建設業者の書き込みがあるといいのですが。

(ざっくり)

なお、先生の肉声を昨日はじめてお聞きしましたが、なんとなく立川談志師匠の話し方に似ていると感じたのは私だけでしょうか。



【悪党・岐阜から戻る】

岐阜から戻りました。

岐阜県から褒めてもらいました。

皆さんから、祝福していただきました。

わたしを育ててくれた、岐阜県の皆さんへ、感謝を込めて。
Photocinemaです。

http://www.momoti.com/050222Gifu3/index.html

岐阜の皆さんのあたたかい心に触れ、ことばもありません。m(__)m

2005/02/22 (火)  
【悪党・岐阜へ向かう】

午前7時起床。
浅草は晴れ。

今日は、岐阜まで、表彰してもらいに行ってくる。

前にも書いたように、岐阜県の建設CALS/ECの推進に貢献があったとして、岐阜県建設CALS/EC推進協議会(会長 岐阜県副知事 棚橋 普様)から表彰されるのだ。

その表彰式が今日。
これにあわせて、講演会を設けていただいたのだが、それが(↓)。

2005年2月22日(火)講演:岐阜県大垣市ソフトピアジャパン(無事終了いたしました)

この講演は、とっくに満員御礼。
ありがたいことだ。

ただ、本来なら、岐阜で行うわたしの講演こそが、最新の「桃論」であるべきなのだろうだが、残念ながら、今回はそうではない。

今日の講演は、(今のわたしにとっての)実験的要素は少ない、というか殆ど無いかもしれない(まだ不確定な部分はある)。

ただ、今日受講される方々にとっては、今日の話は、とても新しいものと感じられるだろう。

なぜなら、それも仕方がないことで、
わたしが、ソフトピア・ジャパンで講演をするのは、2年か3年ぶりのことなのだ。

ここ数年、岐阜の皆さんが、自己否定的変態を繰り返す「桃論」に触れる機会はほとんどなかった。

それは、わたしのビジネス・スタイルに原因があることは、よくわかっている。
けれども、「桃論」は岐阜で生まれ、岐阜で育てられたのである。

ブランクはあるが、こうして再び、岐阜の地で講演ができることは、「桃論」の里帰りなのだ。

だから、おかげさまで、ちゃんと、元気に育っている「桃論」をお披露目したい。
「2・22 ソフトピア・ジャパン」を、記憶に残るような講演にしたい、と思わずにはいられない。

この講演会の開催にご尽力いただいた皆様に、深く感謝し、期待にそぐわないものとしたいと思う。
それが恩返し、というものだろう。
しかし気負うことはなく。

講演会終了後、懇親会を設けていただいた。
これも、多くの岐阜の皆さんのお力添えで実現できるものであり、深く感謝したい。

2005/02/21 (月)  
悪党・2・15 宮崎でのPPTをアップする

少し時間が経ってしまったが、2月15日に行われた、宮崎地区建設業協会 イントラネット開始セレモニーでの講演用PPTをアップした。

このセレモニーの内容は、宮崎地区建設業協会のホームページをご参照いただきたい。

■宮崎地区建設業協会
http://www.miya-ken.jp/

わたしは、このセレモニーが終わって、mixiの日記にこう書いた。
今日のおいらはとことん幸せな時間をすごした。
それは食い物でもなく酒でもなく。
自分の思想が現実化していく瞬間だ。

後ろ髪を引かれる思いで東京へ帰るだ。
宮崎地区建設業協会。
素晴らしかった。

なんとも締まらないテクストだが、喜びの言葉とはこんな締まらないものだろう、ということでお許しあれ。

この講演では、「狡兎三窟」を始めて使っている。
「狡兎三窟」プロトタイプのような意味を持っている。


ということで、ダウンロードは、ダウンロードのページからどうぞ。

■ダウンロードのページ
→ http://www.momoti.com/data/down.htm(掲示終了→必要な方はメールにてご連絡ください)


【悪党・「創作力トレーニング」を読んで感心する】

創作力トレーニング

原 和久(著)

2005年1月20日
岩波ジュニア新書

819円(税込)





岩波のジュニア新書である。
子供向けの本ではあるが、実に素晴らしい。
「桃組」はじめ、このサイトにおいでになっている方々には、是非に一読をお勧めしたい。

この本に書かれていることは、わたしがIT化においてやろうとしていること、そのものなのだ。

それは、なによりもまず、「表現する」ことのトレーニングである。

『日本の場合、学年が上がるにつれて、「理解力」や「正確さ」が「想像力」「発想力」あるいは「表現力」よりもはるかに重視されていくように思います。高校や大学の入試に、読解問題が大きな比重をしめていることがその一因になっているのかもしれません。』

『しかし、読解力の向上を重視するあまり、多くの場合、教室の中の学びが教科書の受動的な読みだけで終わってしまっていることはとても残念です。なぜなら、教科書に載っている文章の読解から一歩進んで、そこから受けた自分の感情や考えを誰かに表現してみることこそが、社会生活をおくる上ではとても大切だからです。そしてそのような技術を身につけるためには、実際に時間をかけて自分の感情や考えを表現してみなければなりません。』(原,pE)

わたしは、IT化における目的のひとつに、各々がHUB能力を持つこと、つまり繋がる能力を持つこと、広くて薄い紐帯を作れる能力を持つこと、をあげている。

それらの「繋がる能力」の基底になるのが「表現力」なのだ。
そして、その「表現力」の基本にあるものが「言葉」なのである。

『言葉は「内容」とかたち(形式)が一体となったもの。よかれ悪しかれ、言葉の「かたち」は、時として発話者の伝えようとする「内容」以上の情報を、無意識のうちに情報の受けてに伝えてしまうのです。』(p4)

内容はとても大切だが、内容(着眼点とも言い換えられる)がよくても、その表現の「かたち」(それはまずは語彙)を持っていなければ、その内容も伝えられない。

そしてその「かたち」を身につけることは、日本の伝統芸(例えば春風亭美由紀の俗曲)がそうであるように、「個性」(それはインスピレーションへと結びつく)を生み出す「基底」だ、ということだ。

「かたち」を身体で覚える。
それは表現の幅を持つこと、表現の自由度を高めることであり、繋がる機会を増やすことに繋がる。

言葉の「かたち」、その基本は、語彙にある。
だから鍛錬、つまりトレーニングは、いくつになっても欠かせないのである。

わたしが、この休日に書いた二つの日記的記述は、まさにトレーニングである。

【悪党・「生の材料」若しくは火を囲むエロスについて語る】と、
【悪党・カマンベールもんじゃについて語る】は、
普段使うことのない「かたち」を用いて書いてみようとする、鍛錬である(それがうまく行っているかどうかはわからないが・・・)。

例えば、【悪党・「生の材料」若しくは火を囲むエロスについて語る】では、普段使い慣れている「わたし」という一人称をわざと使わずに、「あなた」という二人称を用いて書くことに注力した。

また、【悪党・カマンベールもんじゃについて語る】は、敬愛するロラン・バルトのテクスト(正確にはその翻訳文)風(特に、『表徴の帝国』風)に書こうとしたものだ。

講演で、お話するように、この「店主戯言」は、わたし自身による「反省」の行為であり、鍛錬の一環であり、それをインターネットを通じて<他者>に晒すことで、IT化の実践を行っている、ということに他ならない。

2005/02/20 (日)  
【悪党・「生の材料」若しくは火を囲むエロスについて語る】

手前から、ミックス天、ゲソ天、桜海老天である。
いや正確には、それぞれの「生の材料」である。

おこのみ焼き屋の仕事は、ここまでである。

つまり、お好み焼き屋に、対価を支払って食する「おこのみ焼き」とは、西欧料理の影響下にある料理のように、積み重ねられ、勿体をつけられ、荘厳に膨れ上がり、 威信を纏い、完成形としてあなたの目の前に出現することを拒否した料理である。

それはさらに、高級なすき焼きの店や、高級料亭で食す鍋料理のように、あなたの斜め後ろに座った女性アシスタントがとりしきり、調理の過程を補助することもない。

おこのみ焼きが、あなたの目の前に現れるとき、その姿は、ただの「生の材料」である。

それは市場の実質なのであり、新鮮さ、自然さ、多様さ、さらには単なる素材を食事のドラマの約束へと変化せしめる、ひとつの器の中に押し込められた、しかし仕分けされた「生の材料」である.
(以上、ロラン・バルト風に・・・w)

「生の材料」であること
それが、お好み焼き屋を成立させている。

つまり、ここでは意味の逆転が起きる。
調理は対価を支払ったあなたが行うのである。

職人に調理してもらう、に対価を払うのではなく
職人に調理してもらわない、に対価を払うのである

職人が調理するのではなく
あなたが調理するに対価を払うのである。

だから、お好み焼き屋の職人は匿名である。
匿顔である。

寿司職人や、高級な天ぷら屋の職人や、日本料理店の板前のように、客にその姿をあえて見せることもなく、姿をあらわさないか、店の風景に同化していて、あなたにその存在を気づかせることもない。

こんな「生の材料」を提供する店の後戸の神は「火」である。
お好み焼き屋、焼肉屋、炭焼き屋、牛鍋屋、鍋料理、「杉」(笑)

あなたは、火を取り囲み、家族と、友人と、恋人と、時には不倫の相手と、そして接待客と、単なる素材が、食事のドラマへと変化する約束の時間と空間を共有する。

それは単なる食欲の共有、食費の共有ではなく、食事のドラマ、時間、空間の共有であることで、あなたの持つ、遠い記憶、縄文的な親和の記憶、幸せな記憶を呼び起こす。

そこには、勿体をつけられ、荘厳に膨れ上がり、威信を纏う必要の無い、ドラマと時間と空間がある。
人間という自然が、自然に振舞う、エロスの空間がある。
「生の材料」が食事のドラマへと変化する時に発する、エロスの充満がある。

だから、男と女は、一緒に火を囲んで飯を食べて、初めてなんぼのものなのである。


悪党・手の内を少しだけ明かす

昨日は、今日は、2月26日(土)地域再生フォーラムUでの講演用のPPTの作成に一日を費やしていた。

お題は「狡兎三窟(こうとさんくつ)」-地域再生のトポロジーとは−。

狡兎三窟、賢い兎は逃げ道(穴)を三つ掘る。
これは中国の古い諺だ。

この意は、穴がひとつでは逃げ切れず、二つ(二項対立)ではまだまだ危うく、ようやく三つあれば、安心できるだろう、ということだが、その諺からのインスピレーションで、今回は二律背反を妨げ、多様なものを多様として認める考え方に必要なものはなにかを語ろうとしていた。

つまり、二項だけでは対立が生じやすい。
例えば、

都市−田舎
大都市−地方・地域
市場経済−贈与経済
マーケット・ソリューション−ヒエラルキー・ソリューション
スケールフリー−ランダム

というような対立だ。

この対立が一旦生成してしまうと、弱いもの(不利なもの)に対して、圧倒的に不利な偏りを持つようになる。
つまり、スケールフリー性を持つ。

今回の「地域再生」という主題に即して言えば、地方の疲弊の根底に流れる問題は、この問題解決の当事者が、二律背反的な問題解決方法しか持ち得ないことだろう、と考えている。

そこで、殆ど忘れ去られた諺、狡兎三窟を引っ張り出してきてみた。

対立する二項の他に、もう一項を持つことで、対立する二項は、両立ができる、ハイブリッドできる、と考えている。

このような思考を可能とするのは、中沢新一流に言えば、「流動性知性」である。
それは、係数a であり、社会的知性であり、マリアビリティである。

そして、もう一項こそが「後戸」である。

この問題把握の仕方は、岩井国臣国土交通副大臣と共有のものである。
例えば、岩井氏の寄稿文:『二足の草鞋』(月刊誌「測量」2月号掲載)を一読していただければ、それはご理解いただけるだろう。


この三窟の理論(それはつまりは「種の論理」なのだが)を、わかりやすく説明するために、今回は、交通信号機をアナロジーとして用いることとした。

例えば、車道の交通信号機は青、黄、赤の三色であり、そのトポロジーは次のようになる。
車道の交通信号機の場合、赤と青は背反する二項である。

しかし、この背反する二項が、お互いをつぶしあうことなく両立し、同居し、同じ信号機の中にハイブリッドして存在する。

その為には「黄色」が必要なのである。
黄色の存在こそが、赤と青を両立させている。

黄色は、車道の交通信号機を、そして言うなれば、車道のルールを成立させている要であり、後戸なのである。
この三色が揃うことで、車道の交通信号機は成立している。

しかし、ここで疑問を持たれた方もおられたのではないだろうか。
では、なぜに、歩行者用交通信号機は二色なのか、ということだ。

確かに、歩行者用の信号機には黄色がない。
これでは、三窟の理論は成り立たないように思える。

しかし、ここにも三色あるのだ。黄色はある。
ただ、歩行者用信号機の黄色は、視覚的に見えない。

その、見えない黄色の存在とは何かの考察から、二項対立を、対立から両立へ、そしてハイブリッドへ、質的に変換させるための蝶番とは何かを、「種の論理的」に考えようとする。

まあ、これ以上は秘密だ。
秘すれば花である。

多分、前日のゼロックス・セミナーで試し打ちするかもしれない。
もしかしたら、2・22の岐阜でも使うかもしれない。

思考へのヒントは、車道用の信号機が黄色を点灯させるのは、青から赤に変わる時だけで、赤から青に変わるときには、黄色は点灯しない、ってことだ。

2005/02/19 (土)  
悪党・カマンベールもんじゃについて語る

午前7時45分起床。
浅草は・・・雨か?

昨晩は、午後7時5分着のANA便にて無事帰京。
タクシーにて帰宅、20分しかかからない。
金曜の夜ではあったが、首都高は空いていた。

夜は家族と粉を食べに出かけた。
たぬき通りにある六文銭

贔屓のカマンベールのもんじゃである。
生の食材
このもんじゃは、伝統を重んじながらも、異形をも積極的に飲み込んでしまおうとする浅草、そのものである。

最初に鉄板に具だけを乗せ、それをへらで細分化する。

もんじゃの具は、東洋の食べ物は、基本的には極小に向かう、という定理に従う。

もんじゃの具は、結合でもなければ密集でもなく、まずは極小に向かって散逸する(ビックバン)。


しかし、次の瞬間、その極小に向かった破片は、集合しながら土手を形成する。

それはやがて来る変態へのシンクロであるように、秩序を持つように。

秩序
その土手は、粗野ではあるが、しっかりした石積のように、ある秩序を備えることによって壁として機能する。

ここには秩序のある空間が存在する。

そしてこの秩序が、その空間に迎え入れ、塞き止めようとするのは、小麦粉の水溶液である。

正確には、小麦粉の水溶液に、ウスターソースをレンゲ三杯、塩、コショウ、味の素を少々加えて混ぜ合わせた、茶褐色の液体である。

しかし、この褐色の水溶液こそが、もんじゃなのである。
これだけで、もんじゃは成立する。

つまり、具はもんじゃではない。
この基底である、茶褐色の小麦粉の水溶液がないことには、ただの炒められた野菜のくずであり、チーズの破片である。

具は、この基底を迎え入れることで、新たな生命(存在意義)を得る。
そのために、その基底を逃がさないように、自らを幼稚ではあるが、秩序を持った壁にして、塞き止めるのである。

そしてクライマックスがやってくる。
秩序は、一瞬にして崩壊する。
爆発
崩れ行く秩序の空間で、
水溶液の水分は、鉄板で熱せられ蒸発し、具は、熱い鉄板と、水溶液の重層の中で、熱せられ、攪拌される。

具は、己の輪郭を失っていく。

チーズは今や姿かたちを失うほどに極小化し、水分を失いつつある水溶液と一体化を始める。

野菜のくずは、もはや生命の残骸である。

しかし、その極小は、極小としてもんじゃの中に生きるのである(無限小)。

もんじゃは、その極小を取り入れることによって、単純な茶褐色の小麦粉の水溶液の焼き物(もんじゃ)から、多層をなした無限小の表徴として存在する。

カマンベールのもんじゃ、大好きである。

2005/02/18 (金)  
【悪党・札幌にて】

午前7時、札幌にて起床。
札幌は快晴だ。

90万アクセスは、めでたく、熊本の北○さまがGETされた。
前後賞は、鹿児島の糸○さからご報告をいただいた。

ありがとうございます。m(__)m
記念品はこれから考えます。(笑)


さて、昨日はノーステック財団主催の北海道情報産業クラスター・フォーラムにて講演。

これは、北海道のIT産業と建設業とのマッチングを目的としているもので、約120名のIT産業と建設業、それから行政&etc.という、ハイブリッドな環境での講演であった。

講演内容は、1時間30分という時間枠もあり、桃論の中では、初心者向け、というかサマリー的な位置づけなものを行った。

このPPTは、後ほどアップしたく思う。
今朝はH"を使ってインターネットアクセスしている。
この細い回線では、ちょっと無理だ。

今回のフォーラムでは、わたしの他に、地元建設業者さんからの事例発表や、ベンダーさんからのプレゼンテーションもあったのだが、その中では、たぶん、わたしの話はかなり異質なものと感じられたのではないだろうか。

懇親会で話していて、ベンダーさんからのわたしへの興味は、まずは、わたしのプレゼン能力、表現能力についてのようだった。

主催者のある方は、落語と舞台芸能のハイブリッドを見ているようだった、と言っておられた。

そして誰も眠らない。
誰も帰らない。
そのことに驚かれていた。

それは、わたしの講演観おいては、当然のことでしかないのだが・・・。
プレゼンテーション、講演は芸である。

芸は表現である。
表現は、内なる私の変化(自己否定的変態)からしか生まれない。

それは身体が覚えるまで鍛錬しないと、まねしてもできないということだ。
わたしの芸は、まだまだだから、常に鍛錬を怠らない。

だから常に変わることができる。

ということで、〆は久しぶりに「ふじ田」へおじゃました。
わたしにおいて、北海道で一番うまい寿司屋だ。

写真はたらこの握りである。
この炙りは絶品だ。

これは表現であり、表徴である。
それは芸、つまり技術を備えたものだけが可能な表現である。

それは、自然が自然のままでは
決してあらわにしないものを、表出させる技術である。

芸もまた
人間という自然が、自然のままでは
決して表にあらわにしないものを、
あえて、表出させる技術である。









ということで、今日のわたしは、空知建協さまへおじゃまして、
2005年2月26日(土)地域再生フォーラムU(北海道岩見沢市)の打ち合わせ。
その後、帰京する。

2005年2月26日(土)地域再生フォーラムU(北海道岩見沢市)に関しては、岩井国臣国土交通副大臣のサイトにも紹介いただいている。

http://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/index.php


2005/02/17 (木)  
【悪党・アセスカウンターが間も無く900Kだと喜ぶ 】

午前5時20分起床。

間も無くアクセスカウンターが900000。
なんだかんだと凄いもんだなぁ。
継続はたしかに力か。

さて、900K を当てた方はご連絡ください。
粗品を進呈いたしたく思います。


さて、東北地方の大雪の影響で、昨日は花巻→札幌のJAL便は欠航。
結局、東京に逆戻りして、今日は仕切り直しで、今朝9時発のANA便で札幌へ向かう。

やはりこの時期、雪の影響は怖いね。
北へ向かうときには、スケジュールに余裕がないとアウトだな。

さて、昨日帰りのはやてでの一本。
銀河鉄道ビール。メーテルだな。
銀河高原ビール

2005/02/16 (水)  
【悪党・北へ向かう】

午前7時起床。
今日はこれから盛岡へ。

盛岡での講演終了後、花巻空港から新千歳へ飛ぶ。
盛岡も札幌もかなり寒そうである。

無事に札幌入りできることを心から願う。

ということで、今朝の更新はここまで。
出かける準備をしなくてはならない。
  インデックス

momo
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