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店主戯言050401 2005/4/1 〜2005/4/15 "There goes talkin' MOMO"


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2005/04/15 (金)  
【悪党・息抜】

午前7時起床。
浅草は 晴れ。

今日は 息抜をさせていただいた。
つまり 極力仕事をしない、と。

そんな中、本日発行した ももこむ通信 から。

今回から 「今日の一言」 というのを載せてた。
なるべくなら続けていきたいと思う。

■今日の一言  「白黒思考」

 人生は黒か白か だけではなく、
 黒と白の間にある灰色の部分に面白さがある

私は なにをそんな曖昧なぁことを
 人生は 白黒わかりやすいほうがいいではないか
 デジタルだって 0と1のbit 白黒なのさなどと
 思っていました
 (キャッチフレーズは「わかりやすい人生」)

今は 灰色とは 白と黒のハイブリッドであり
 その色の濃淡を如何に見極めるかに 人生の妙があり
 それが 日本人的な思考方法の基本なのだと 感じています

とかく 今という時代 思考は 白黒思考に陥りやすく
 それは 二元論的であり 二項対立の思考として閉塞してしまいます
 しかし 灰色の部分とは 二元論ではなく
 だからといって 一元論でもなく(濃淡がある)
 ただ 黒でもあり 白でもあり 黒でもなく 白でもない
 「あるべきようは」を語っているのだと思います

2005/04/14 (木)  
【悪党・反省の続きをする】

午前7時起床。
浅草は晴れ。

今朝も 4・12 新入社員研修(空知建協)の反省を書こう。

(研修で使用した資料(PPT及び配布資料)を 「ダウンロードのページ」 に置きましたのでご利用ください)

さて 「広くて薄い紐帯」という概念 について
 わたしの IT化論とは
 種と個のレベルで このネットワークを構築することを目的にしている
それは バーチャルでも リアル(F2F)でもだ

生態的にみたとき
 例えば 「私」が蛇だったとして
 「私」という蛇は 蛙しか食べない「種」であれば
 「私」といいう蛇は 蛙というひとつのリンクしか持たず
 その関係は強い

「私」という蛇の行動範囲は 「ネットワーク」の大きさとなり
そのネットワーク内の蛙を食べつくしてしまったり
蛙が なんらかの理由で絶滅してしまった場合
「私」という蛇は そのネットワークに棲むことはできなくなる

つまり
「蛙が絶滅すれば 蛇もまたそこには棲めない」
 =淘汰圧が働きやすい

 これつまり 「狭くて濃い紐帯」の関係である

 例えば 「私」が蛇だったとして
 「私」という蛇は 蛙も食べるし ネズミも食べるし 虫も食べるし
 まあ なんでも 食べる「種」 としよう
 つまり  「私」といいう蛇は 蛙以外に 複数のリンク持ち
 蛙とのネットワークの強度は 前者に比べずっと弱いし
 蛙以外との関係(ネットワーク)強度も 弱い

「私」という蛇の行動範囲は 前者と同じく「ネットワーク」の大きさであるが
この場合 
 この蛇が ネットワーク内の蛙を 食べつくす可能性は 少ない
 また 蛙が なんらかの理由で絶滅してしまっても
蛇は また別のものを食べながら  このネットワーク内に生存できる

生態的に見た場合
 食連鎖の関係は 複雑であればあるほど その域内(ネットワーク)で安定する

人間社会の場合
 食連鎖は 経済活動における お金の流れに 相当するだろう

しかし人間社会 (例えば「地域」)というネットワークは
経済的な交換だけで成立しているものではなく
 社会的交換も 強く働いている

それは 普遍経済学のトポロジーでは 交換経済 と 贈与経済の関係であり

故に 人間社会における ネットワークは
 食連鎖よりも さらに複雑となる

つまり 資本主義が空気のような今という時代に
 「私」は その二つのハイブリッドとしての 「商品」としてあるかもしれないが
 「私」という「商品」も
 交換価値(お金)でしか量れないようでは
 食連鎖的に 複雑なネットワークもまた 構築されるはずもない

「私」という個が 複雑なネットワークをつくる
 つまり たくさんのリンクを持つ「HUB(コネクター)」であろうとするとき

 その要は 単純な 交換経済だけの理論には ないし
 それはまた 単純な 個人主義も通用しないし
 ましてや 弱肉強食の理論など たいした意味もない
 (食い尽くすなら 食うものも滅びる)

この意味で 「個」が属する「種」でさえ
じつはネットワークであり(クラスター)
 「種」もまたネットワークであることで  「個(ノード)」とリンクがなくては
存在し得ない
 → クラスター型のランダムネットワーク

しかしそのクラスターが閉じてしまうとき
  「私」が たくさんのリンクを持ったUHBとなることもできない

では 可能性は どこにあるのだろうか

 スケールフリー・ネットワークとランダム・ネットワークとの
  ハイブリッドとしての 「広くて薄い紐帯」



だから それを どう構築していくかだ

玄田有史はいう
「お互いに尊敬と信頼の気持ちを持ちながらつながっている人間関係。それをウィークタイズ(weak ties・弱い結びつき)と言うのですが、これからはこの人間関係を大切にしなければなりません。 」(http://www.asahijobplatz.com/column/?id=25

そう 信頼と尊敬・・・
 その信頼と尊敬の関係 こそが「自己実現」だろう

しかし 「個」としての「私」が 種のものであることで
     「種」が 「個」の存在を前提とするものであることで
  信頼と尊敬を生み出す基底として 「種の論理」は機能する

 「個は種のミームの中で育ち
  また種は個の変化によるミームの変化を 内包している」

では 何をすべきなのか。

 (また、つづく・・・のか?)

2005/04/13 (水)  
【悪党・昨日の反省】

午前5時30分起床
 岩見沢は曇り

目覚めても どうにも身体のきれがわるく
1時間ほど ベッドの上で ただ 虚ろな時間をすごした

今は いつものホテルで 朝食をとりながら
  この戯言の更新を始めたところだ

 昨日は 空知建協さまで 新入社員研修であった
 今朝はその反省をしようと思う

内容は  広くて そして 浅く 
 IT化における 無意識の可能性
  つまり「自己実現」のお話をした

内容は高度(だと思う)だが 深入りは しなかった

新入社員の方々は 実務経験が薄い(もしくはゼロ)のため
わたしが 研修ではなした内容を
業務と結びつけるてイメージすることは できない
つまり「現実の重み」(係数 a :養老猛)は 低い

(その係数a の能力が 低いことを自覚していただくことが今回の目的のひとつであった)

そのため 講義中における 反応が鈍いのは 当然であり
 今回も その例外ではなかった けれども
それは すでに織り込み済みのことであり あわてることもなかった

ただ 課題に出した 「五重塔」の読後感想文を書く という「行為」を
実務を置き換えるかたちで
 「狡兎三窟」という ものの見方を それに照らし合わせ 広く薄く お話をした

  「五重塔」の読後感想文という課題は 
  「五重塔」の内容を云々するためではなく
 読後感想文を書くという 行為 そのものを 考えるために 使った

(本当は 内容にも ふれたかったのだが 時間がなくなってしまった)

「狡兎三窟」という 差異を認めながらも ことさらその差異を強調するのではなく
ただ全体としての意味を理解する
ハイブリッドな思考方法( 「あるべきようは」)の基底にあるのは

 無意識であり 流動的知性であり 対象性の思考であり
 係数a であり 現実の重みであり マリアビリティであり 社会的知性であり
 欲望であり 希望であり 無限集合であり 無限小であり
 自己であり シャドーであり 身体である

これらは あえて同義だと言い切ってしまうことで 自己実現の過程をお話した

人格が崩壊していない限り 今の自分はある
しかしその安定を少し傾けないと 成長はない

しかし 自我が自力で変化することもなく 
 自我だけで自分を変えることはできない

もうひとつの自分 より高次の自分 
 すわなち自己が 自我の可能性を引き出すことで 自我の成長はある

この過程が 「個性化の過程(インディヴィジュアリゼーション)」(ユング)であり
「自己実現の過程(セルフ・リアライゼーション)」でもある、と



その「自己実現」の方法(基本)を ITを使って行う方法を簡単に説明をした

それが 「反省の行為」であり
 たとえば サイボウズのようなイントラネットを利用して
  自分のことを  自分で書くという行為である

イントラネットは インターネット上にあるウェブログよりもさらに
 ペルソナの場であるだけに
  反省の行為は より高次になる(欲望を ただ表出させることはできない)

その行為は 自己実現の為の 基本であり
 繰り返すことでしか 身につかない型だ

つまり 繰り返すことで身体で覚える
  無意識(個人的無意識ではあるが)にろ過され蓄積される
思考方法の型だ
自我に自己を 取り込む 方法としての 基本型 だ

それが 自己実現 つまり個性化への 基本であることを
基本を 身につけることでしか 自我の成長はない 個性は生まれない
ということを お話した

(つづく・・・のか?)

2005/04/12 (火)  
【悪党・今日は新入社員研修】

午前5時30分起床
 札幌は曇り
  昨晩は 気の置けない方々と ふじ田で一献

「芋」をロックで飲んだりしたので
 二日酔い気味の朝だ

さて、今は 岩見沢へ移動してきて これから
 空知建協さまで 新入社員研修会である 

今日のわたしのお題は 「自己を実現する?」

これはよく知られた マズローの欲求五段階説では一番上にあるものだ
 (4段階目は「自我の欲求」)



 自己実現って簡単にいうけれども
 それじゃ 自己ってなに 自我とはなにが違うの

その自己を実現できるってなに
 自己を実現するためには どうしたらいいの  というような
問いに
人生の諸先輩方の 答えは いつも曖昧



今日のわたしのはなしは やはり どこか曖昧かもしれないが
 自我と自己の違いや 自己を自我に取り込むことで 
自我を育てることが 自己実現であることぐらいは はっきりとさせる予定だ

そのために 今日は これからはじめる


2005/04/11 (月)  
【悪党・普遍経済学的にみる】

午前5時30分起床。
福島は曇り。風がやや強い。

昨日の夕方から福島にきている。
午前中、ちょとした用を足し、午後から ANA 869 福島(1405) - 札幌(千歳)(1525)で 札幌へ入る。

さて、新聞によれば、政府は10日、21年に及ぶ内戦が終結したスーダンのため、総額1億ドル(約108億円)を拠出することを決めた。

財政危機の最中、なんでそんなに?とお思いの方も多いだろが、外交における経済的な部分は、多分に普遍経済学的な要素を孕んでいる、ということだろう。

普遍経済学の提唱者は、ジョルジョ・バタイユだが、最近では中沢新一のことばとして理解しているもので、それは、純粋贈与、贈与、交換のトポロジーとして理解される全体としての経済を理解する考え方だ。



普遍経済学では、「消費こそが資本主義の生命である」と考える。

生産が、経済活動のダイナミズムを生むのではなく、経済活動のダイナミズム を生んでいるのは (どのような形であれ)消費だ、ということだ。

このトポロジーにおいては、今回のスーダンへの1億ドルの拠出も消費である。
日本国民が生産した1億ドルを消費する。

それは多分、蕩尽といってもいいだろうし、ポトラッチ的な消尽だろうし、本来、純粋贈与的な意味合いの強いものである。

ただ、中東・アフリカ情勢を左右するスーダン和平の行方には国際的な関心も高く、国連安保理常任理事国入りを目指す日本として「アフリカ重視」をアピールするうえでも積極的な関与が必要と判断した、と新聞にはあるが、こうなると、これは純粋贈与ではなく「贈与」的な意味合いが強いことがわかる。

つまり、今回の1億ドルの拠出は、なんらかの形で見返り(国連安保理常任理事国入り)を求める消費である。

しかしそれが贈与的なものに足場を置く限り、ここには「純生産」としての「信頼関係」は生まれる(かもしれない)。

ただし、見返りの意味が強くなるのであれば、それは(国連安保理常任理事国入りへの)投資的な意味合いが強くなることを意味するだろう。

投資は 純粋贈与と交換の交わりに生まれてくる「資本」にあたる。

投資的な意味合いが強くなれば、生産は利潤をつくりだし、その利潤をもとにしてまた生産を拡大していく。そのために生産は行なわれる、という限定経済学的な、ものの考え方が露出してしまうだろう。

それが見え透いたものになるのであれば、信頼は生まれず、国連安保理常任理事国入りへの道は遠退くだけだろう。

なぜなら、1億ドルの拠出、つまりお金は「形の定まらない欲望」だからだ。
お金は、それを使うことによって欲望を叶えることができるものであり、「メタ欲望」であり、見え透いた欲望は、けっして信頼関係を生まないからだ。

2005/04/10 (日)  
【悪党・子供に将棋を教える】

午前6時起床。
浅草は くもり。

朝から 子供に 将棋を教えていた

子供の個性的な考えを大切に などというのは
 嘘だ とずっと前から 言っていて
  その度に 周囲からは 奇異の目で見られる
 
もって生まれた 個性とは 唯一ゲノムのことであり
 それは 遺伝子の表現型としての 身体のことである
  そして 表現としての個性(考え方)とは
   身体を通した 基本の 表現であるがゆえに
    個性なのである 

ある分野で 個性的 といわれるのは 
 基本 つまり 型 を 身につけたうえで
  それを 身体を通して 表現する
   中から 生まれるものだ

そして 身体とは 無意識である

   子供に 将棋を教えていると
    それがよくわかる
     教えて二日目になるが まだ 駒の動かし方が
      個性的といえば 個性的である
     自分のルールで 勝手に 駒を動かす  

    (世間がいう 個性とは その程度のものだろう)

 そかし それは個性などではなく
  単なる ルール違反であり
   基本 つまり型を 知らないだけである

   将棋を 覚える時には
  それぞれの 駒の 呼び名 並べ方
 そして 動き方 ルール そして将棋の定石を覚える
その上で ようやく 個性的は 生まれるだけだろう

ただ 子供にそれを教える ときには
 興味を失わせないように その覚え方を 躾ける

(それが 教え方 つまり教育 であろうか)

  躾けという字は 身のこなしが美しいである
   つまり 身体で 基本を 覚える方法を
    繰り返し 教えていく

 つまり 繰り返すことを 身体に(つまり 無意識に) 覚えさせる

 個性なんていうのは それから 先のはなしである
 わたしは ただ そう思う

2005/04/09 (土)  
【悪党・穏やか】

午前5時起床。
浅草は 晴れ。

絶好の花見日和が続けば 人の心も華やぐもので
 わたしのところも 一昨日 昨日と
  花見をしてきた

昨日は 墨田公園に出かた
 上野に比べれば 人では 地味ではあるが
   堤沿いに 咲き誇る桜は それは見事だ

堤防沿いを 歩きながら見る桜も なかなか いいものだ

帰り際に 墨提側にでていた 屋台で
 韓国風の 海苔巻きを買って お土産にした
  
もちろん 韓国海苔で 巻かれていて 江戸の海苔巻きとは
 まったくの別物なのだが
  またこれはこれで 春らしいなぁ と思うのは
まあ 陽気のせいだろう

穏やかな 週末だ

2005/04/08 (金)  
【悪党・2005年度前期 法政大学エクステンション・カレッジ開設】

午前4時30分起床。
浅草は 花曇。

今年も法政大学エクステンション・カレッジに講座を開設することになりました。
今回の講座は「情報を見る眼を育てる」「じっくり考える」そして「実践する」をテーマに進めたく思います。多くの皆様のご参加をお待ち申し上げております。

詳細・お申込みは(↓)
https://www.hosei.org/kouza/S053001.php
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 実践! 「考えるIT化」講座
    −人も育つ組織も育つ実践の建設業IT化−

 本講座は建設業におけるIT化の可能性を探求していく講座です。一見遠回りのように思える「考える」という手法を使うことによって、実は最も実践的である「考えるIT化」を身に付けます。そのため今年度は、「考えるIT化」の実践として、実際に本講座のブログを立ち上げ、受講者全員で“反省の共有化としてのインターネット”“広くて薄い紐帯の場としてのインターネット”を体験してもらいます。
 さらに、“現場のIT化の実践”“事業者団体ベースのIT化の実践”“イントラネットをミームプール(自社を見るめがね)とするための実践的な手法”を多くの事例から学んでいきます。そのために毎回2時間程度の講義とは他に多彩なゲスト・スピーカーを招き、動いている事例からその真髄を学びます。
 また、これらに必要な基本的な知識としての「ミーム論」や「ネットワーク思考」「開発主義論」「種の論理」「対象性の論理」なども必要に応じてわかりやすく解説していきます。
 なお、講義終了後は懇親会を行います。

■ セミナー概要
対 象  中小建設業経営者、IT化推進担当者、公共事業発注官庁職員、建設業のIT化に興味のある方

場 所  エクステンション・カレッジ セミナー室

定 員  15名 (定員になり次第締切) 

期間・時間  2005年5月14日(土)〜8月6日(土)、13:30〜17:30
第1回 5月14日(土)第2目 5月28日(土) 第3目 6月11日(土) 第4目 6月25日(土) 第5目 7月9日(土) 第6回目 7月23日(土) 第7目 8月6日(土)
※開催日は変更になることがあります。
※必要の応じて補講を設けることがあります。

■ 講義概要
・情報社会について考えよう
    →地場型中小建設業とは何か
     →日本の西欧型近代化から
    →情報社会の新しい秩序
     →創発と同調
     →非ゼロ性と協力
     →ベキ法則

  インターネットが社会的ネットワークにもたらした影響を、最新のネットワーク論を踏まえながら考察していきます。これを理解することで社会変化を捉える眼を持つことができるようにします。

・情報としてのミームについて考えよう
    →情報とは何か
    →ことばの持つ役割
     →コミュニケーションツールとしての言葉
     →考えるツールとしての言葉
     →反省の場としてのイントラネット活用

  情報としてのミームの理解を深め、言葉の持つ役割から、IT化の新しい方向性としての「考えるIT化」について学んでいきます。ここでは事例を交えながら、実践的な手法を学びます。

・建設業とIT化について考えよう
    →群れ合いから出会いの場へ
     →地域社会と建設業(種の論理)
     →インターネットを足場とした出会いの場へ
      →広くて薄い紐帯の可能性

  「広くて薄い紐帯」が、適応度としての可能性の高いことの理解を、実際にソーシャル・ネットワーキング・システム(SNS)を使いながら、実践的に感じ取ります。

■ 修了証書
 8割(6回)以上出席された方に発行します。
■ テキスト
 公文俊平 『情報社会学序説』 (NTT出版、2,050円)
※テキストは別途販売となります。
■ その他
 千代田区「講座講習バウチャー制度」対象講座

2005/04/07 (木)  
【悪党・にも桜は咲く】

午前6時起床。
浅草は 曇り。

オープンセミナーのご案内に、2005年4月22日(金)建設業IT化セミナー in 熊本を掲示しました。

演題は 『すぐに役立つIT化 基礎編』です。

「すぐに役立つIT化」であるために、今回はまず、企業におけるIT化とは、いったいはなにをするものなのか、そしてそのためには、何からはじめなくてならないのか、からお話しいたします。

それはIT化が扱う情報とはなにか、をあきらかにすることから始まり、その情報の持つ意味から、企業が行なうIT化を再構築するものです。

事例を ふんだんに織り込みながら、哲学的な内容を、わかりやすくより実践的にお話しいたします。

たくさんの皆様のお越しをお待ち申し上げております。


さて、昨日の暖かさで、浅草寺境内の桜は、ソメイヨシノも枝垂桜も、いっせいに花を開き始めた。


桜は、冬から春への 節目の表徴であり、その散り際から刹那的なものの表徴としてもよく使われる。

たしかに、この花の喜びを楽しむ時間は 短い。
であればだ、有限なものを 楽しめるときに楽しんでしまおう、という考え方は 悪いものではないだろう。

(わたしは そうすることに したわけだ)

いままでのわたしなら 桜は来年も咲くじゃないか、と桜が咲くことなど どうでもよかった。

ただそれは、身体を伴う心が 鈍感なだけだろうし、それはわたしの愚さそのものでもあった と思う。

心は (神経系からみれば)身体運動や知覚や思考過程の総体のようなものだろう。

それらは 明確な境界線があるわけではなく 一連の活動において連続している。

来年も これを楽しめるのであれば また楽しめばよい。
いまにしか 楽しめないことは ある。

しかしそれを楽しむことは 刹那的とは また違うだろう。

わたしには 花見と称して 酒を飲んで憂さを晴らそうという 魂胆はない。
        
           (でも飲もうとは思うが)

ただ、それは 桜の花の咲いている喜びを 楽しもう と思うからだ。

時間が有限なものとして感じられるのは(だからいまを楽しもうとするのは)、わたしという時間が有限であるからだろう。

明日のわたしは わたしではないかもしれない。
そのことで 有限な時間(わたし)は 意味を持てるように思う。

いまにしかできないことは 確実にある。
それは 今が楽しければよい、ということとは 確実に違う。

こうして 悪党にも桜は咲くことを ただ 楽しもうと思う。

2005/04/06 (水)  
【悪党・「読む薬」を読む】

午前7時起床。
浅草は快晴。

今日は私用で朝からばたばたとしていて、ようやく、店主戯言の更新である。

ここのところ、言葉で考え、その考えを言葉で整理する、ということが難しいような状況だった。

それは体調を崩したのが一因だが、それに追い討ちをかけたのは、たぶんバタイユだ。

風邪をひき体調を崩しながら読んでいたのは
 体調が悪いときには 読んじゃいけない本だった

昨日は 日中 一切の書籍を絶ち
  精神を 生産に集中させ
    夜は 「読めない本」からはじめのだが 立ち直りに失敗し
通販雑誌で思考をリセットし  最後に

 「増補 浮上せよと活字は言う」(橋本治)を読んだ

浮上せよと活字は言う増補 浮上せよと活字は言う

橋本治(著)
2002年6月10日

平凡社
945円(税込)






 実を言えばこの本
  久しぶりに引っ張り出してきたのだが
   私にとって 読む薬なのだな と再確認した
 
     (橋本治は) 純粋なのだ
  
   橋本治は 私より10歳ほど年上だが
  わたしよりも はるかに純粋に 活字の持つ力を信じ
 純粋に活字が 近代化(モダン)を
構築するもの(根源)であることを 信じている人だ

それはまるでマラルメ(「骰子一擲」を書いた詩人)のようにだ

わたしは そんな純粋さを そのまま受け入れることはしないで
 活字と非活字との 混合を求めて 今にいる

    (ハイブリッド)

 しかし 結局は橋本と同じように 本(活字)を読み
  テクストを書き
言葉(活字)を使って思考することを  言葉を使って思考を整理することを
 自分自身に求めている
  その差はわずかなもののようなのだが
   そんなに 小さいわけでもない
 
 なぜそうなのかは わたしは勝手に理解している
   それは 10歳という歳の差ゆえ
  人生を出発した時代が違うのだ ということだ

活字離れ といわれて久しいが
 わたしの世代は 橋本の世代とは 比べ物にならないぐらいに
  活字から離れていることが ふつうの世代であり
   実際 わたしは 殆ど書籍を読まなかった

   (雑誌とマンガは読んだが)

だから 言葉の持つ意味も
 言葉を使って思考することも
  ただ 知らなかったのだ それが わたしの 始まりだった 

 だからこそ今から7年前
  「浮上せよ」と活字は わたしの耳元で ささやいたのだ
 
   「読む薬」は その原点にある そんな本だ

2005/04/05 (火)  
【悪党・網走での講演内容について書く】

午前6時30分起床。
浅草は快晴。

体調はだいぶ戻りました。

まずは、読者さまからメールです。
網走のフォ−ラムに行った建設業の者です。大変参考になりました。経営者の部分の話もあったのですが、そんなに経営者がいなかったようにも見え残念でした。

やはり田舎に行くとまだまだ封建的で・・2代目・3代目になっても先代の会社をつぶすまいと・・守りに入っているとこらが多いようですね!!

今や社内にハブとなる者を教育・養成する事が経営者の一番のような気がしましたが・・・会社の基本ですよね・・経営者はやっぱり人を育てるのが一番の仕事であるのをあらためて認識しました。ご苦労様でした。

ご感想ありがとうございます。

この「地域再生フォーラム in 網走2005!」で使用しましたPPTをダウンロードのページにアップしましたのでお知らせいたします。

今回は、ハブ(HUB)やコネクターと呼ばれる機能、能力についての重要性に重きを置いての講演でした。

PPTでは、あまりかわりばえしないのですが、「広くて薄い紐帯」の説明に工夫を凝らしました。

ただそれは、講演では直接的には話していない内容ですので、ここで背景にある考え方を説明いたします。

例えばそれは、食連鎖からのアナロジー的な仮説です。
地域というのは(経済的に見れば) 交換の連鎖(お金のつながり)を持つクラスターです。

簡単に言ってしまえば、単純な連鎖ほど突然生じるカタストロフィー的な変化の影響を受けやすすく、複雑なネットワークほどその影響を受けにくく安定している。

ただし、複雑なネットワークの場合でも、要石(多くのリンクを持つ少数のHUB)への淘汰圧力は、その連鎖をを破壊しクラスターをも壊してしまう、ということです。

この仮説から考えられることは、以下のようになります。

ひとつはマクロ的(地域全体)なもので、地域社会が「公共工事という産業」をサーバーとした単純なクライアント・サーバー型のネットワークだとすれば、建設業というサーバーの破壊は地域の破壊を意味するだろう。

これは、一見してわかりやすいのですが、私はむしろ次のように考えています。

地域は単純なネットワークではなく、それ自体が、複雑な食連鎖の関係と同様に複雑な経済的ネットワークを持つクラスターである。

建設業という「種」は、この連鎖の重要なHUB(要石:キーストーン)として機能しているのではないか(スケールフリー性)。

この場合、建設業は多くのリンクを持った要石としての「種」なのであり、この「種」への集中的な淘汰圧力は、地域経済(つまり生態系)を根本的に破壊してしまう可能性が高いだろう。

さらに、スモールワールド・ネットワーク(6次の隔たり)がここでも機能するのなら(機能していると考える)、その影響は弱いネットワークを通じて他のクラスター(他地域)にも及ぶだろう(つまりその影響は計り知れない)。

そしてもうひとつはミクロ的(経営的)なもの。
個体(企業)が食連鎖において単純なリンクしかもたない(つまり受注先が限定されている)とき、そのリンクは強く極めて頻繁に相互作用をおこなう(強い紐帯)。なのでそれが壊れてしまえば破壊的打撃を受ける(淘汰)。

これらは、食連鎖、経済的連鎖では、とても単純で当たり前のことのように思えるのですが、地域経済での要石としての建設業という「種」への淘汰圧力は、もっと慎重におこなわれなくてはならない根拠をここに求めているわけです。

さらには「個」の戦略として、複雑なネットワークの中に自らを置くことは、淘汰圧力の強い環境の中では、生存には有利に働く、ということです。

この「複雑なネットワークの中に自らを置く」ことが、わたしの言う「HUB能力」です。

HUB能力は、経済(交換経済)的な視点からみれば単純なモデル化は可能なのですが、実社会はこれに贈与経済的なもの(信頼や尊敬またはその逆ベクトル)が大きく機能していますから、ことはより複雑ではあります。

しかし、方向性としてはこれでよいのだろう、と考えています。
つまり、「自らがHUBとなる能力を鍛える」。

2005/04/04 (月)  
【悪党・休養】

午前7時30分起床。
浅草は雨のようでしたが、今は晴れています。
でも外は寒いようです。

風邪でダウン気味です。
今日の予定はキャンセルして、休養日としました。

2005/04/03 (日)  
【悪党・日曜】

午前7時35分起床。
網走は小雨だった。

昨日もしっかりと講演をし、しっかりと飲む。

岩井副大臣とのコラボについてはまた後ほど。

副社長からの今回のことば

 「リージョナル・コンプレックス」

「数人のサークルから商工会や婦人団体などいろんな団体が地域にあって、行政も含め、それらが何か地域の共通項で結ばれている、そういう地域社会(リージョナルコンプレックス)がイキイキしている」

では、今日は休み。

2005/04/02 (土)  
【悪党・今日は網走で講演】

午前5時45分起床。
浅草は 曇り。

昨晩は、小栗さんとタロサと 浦和の「なんやかんや」さんで飲んだ。
久しぶりに、日本酒を楽しんだ。

最近は芋焼酎に偏りがちだったわたしの酒の嗜好も、昨晩で少し日本酒に戻ったような気がした。

久しぶりに降りた JR浦和駅は たいして変わっていなかったが、西口はなにか以前よりも寂しく思えた。

けれども、かつて蕨に住んでいた頃には、買いものは浦和の伊勢丹であり、浦和は近い、というよりも地元のようなものだったから、なにかとても懐かしかった。

今日は、地域再生フォーラム in 網走2005!のために、網走へ向かう。

JAL1183便   東京羽田 10:45発 → 女満別 12:25着

9時30分頃家をでればゆうゆう間に合うだろう。

今日の講演もしっかりとやる。

2005/04/01 (金)  
【悪党・丸七年】

午前8時35分起床。
浅草は晴れ。

昨晩は来客があり、少々飲みすぎてしまった。

さて、わたしがここにウェブログ(Web上にある日記)を書き続けて丸七年が過ぎた。

「継続は力なり」とは、うまいことをいうもので、書くことで学んできたことはたくさんある。

わたしの場合、この日記を書く行為が直接的に仕事とつながっていることもあって、その実感は一入(ひとしお)である。

さて、昨日の戯言に対してメールをいただいていた。
ありがとうございます。
近勝彦先生の文字に反応しました。

一度大阪市立大学で塩沢先生にご紹介頂いた事があります。その縁でIT資本論は読みました。
まとまりきっていない感もありましたが、興味深い内容でした。

グラッドウェルのティッピング・ポイント
これ、うちの提携先の外人コンサルタントが勧めてくれたので読んだのですがすごく面白かったです。

このあたりをきちんと研究しているのは、金融工学での複雑系経済学の応用だと思うのですが、ちょっとかじっただけではさっぱり理解できませんでした。
まだまだ研究途上だからかもしれませんので、わかりやすく説明できるところまではいってないのかも知れませんね。

>HUBがHUBに相互作用的に影響を与えあうことで、クラスター同士が繋が
>っていく。だから、わたしのような、実践的にことを考えなくてはならないコ
>ンサルタントが取り組まなくてはならない問題も、また明確なのだ。

最近、元の業界でのつながりの人と、今の仕事でのつながりの人を出会わせて何かできないでしょうか。というシーンがあるのですがなかなか難しいですね。

具体的な話しになると、たがいに知らないので、出来ないという悪い方向の事ばかりになってしまいます。

信頼とかリスクとか。考えないといけないことが多いです。

ティッピング・ポイントは、例えば山岸俊男の言葉では、相互依存行動と相補均衡における「限界質量」のことだし、物理学で言えば相移転の考え方になるだろう。

(今思えば、これもネットワーク論である)
       
「それは些細で重要とは思えない変化がしばしば不相応なほど大きな結果をもたらすことがある」(ブキャナン,p255) ということを意味する。

(つまり正のフィードバック)

このわたしの日記は、そうであったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。

ただ、この七年間を考えれば、それは些細で重要とは思えない変化が、しばしば不相応なほど大きな結果をもたらしていることも否定はできないだろう。


ティッピング・ポイントについて考えることは、人間社会でいえば欲望やアイディアがなぜ人々の間に広まったり、広まらなかったりするのか、を考えることだ。

そのアプローチは社会心理学であったり、物理学であったり、生物学であったり、疫学であったりとさまざまである。

(つまり、研究は多方面から行なわれてはいる)
(今はそれが相補関係になりつつあるのだろう)

そして、この問題を考えるのに、R・ドーキンスが示唆してくれた「ミーム」(meme)という自己複製子のアイディアは役に立つかもしれない、とわたしはずっと考えてきたわけだ(わたしのアプローチ)。

ただ注意しなくてはならないは、このような(ティッピング・ポイントのような問題)考察は、どうしてもその対象が「集団」になってしまう、ということだ。

つまり、「私」はなに、という問題を常に孕まざるをえない。

だからその時、「私」とは、ただの集団心理を構成する一個の(部品のような)「心」なのだろうか、と考えるとき、そこに「私」が個であることとは、どういうことなのかをみつけたいと思っている。

(わたしがわたしであること)
(「種」と「個」の関係 と その実社会での応用)

それが今は 「種の論理」ということだろう。
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