相補均衡―岐阜県と福島県のことから。

午前6時50分起床。浅草は晴れ。

朝は、Googleニュースのトップページを、ざっと読むのが習慣化して久しい(新聞はとっていない)。

これが世の中の動きのすべてではないが、まあこんな按配でおおよそ社会は動いている(らしい)ぐらいはわかる。

最近は、岐阜県の裏金問題と、福島県の談合問題が気になるのは職業的なもので、この手のものであれば、タイトルを読んだだけで、だいたいは理解できる(と思う)。

それは認知論でいえば過去把持装置が機能しているからだろうし、行動経済学でいえばヒューリスティクスでものごとを判断しているからだろうが、そんなことは今朝はどうでもよくて、この二つの事件で思うのは「相補均衡」(山岸俊男)というタームだ。

頻度依存行動

岐阜県にしろ福島県にしろ(まだ調査中だが)事件に関係した人間を〈善人/悪人〉の二分法で判断したら、皆悪人になってしまう。

しかし人間を〈善人/悪人〉の二分法で判断するのは、ほんとうは間違っていて、善人即悪人、悪人即善人というのがまともな考え方じゃないのかと思う。

つまり「善人でもなく悪人でもない」である。

たとえば県の職員が「組織ぐるみ」で裏金をつくっていたのは、それが悪いことだとわかっていても加担しなくてはならなかった方もいたということだ――たぶん最初は皆違和感を持ったはずだ。

しかしそうすることが、ある組織においてのESS(進化的に安定した戦略)なら、多くの方々はそれに倣うしかない。

つまりシステム(組織)のなかで、相補均衡をもたらすような頻度依存行動(皆がやっているから〈私〉もやる)が支配的になる。

だとしたら、問題はシステム(組織)にあるといえるだろう。

「組織ぐるみ」とはそれを指して使われる言葉だ。

談合も同様である。

談合は、公共事業という産業のシステム(組織)のなかで繰り返される公共財ゲーム(囚人のジレンマゲームの複数人版)のようなものだ。

(システムと〈私〉の)長期的な安定のためには、フリーライド阻止を含めたESS的な行動の選択は合理的(実践合理性)なものでしかない。

ということで、この二つの事件は、徳川の時代であれば御家お取り潰しなのだろうが、いまは潰す家もない――つまり県(行政)というのは不思議なシステムなのであって審級がほとんど機能していない。このあたりの見直しをしないと本当はいけないはずなのだが……。

つまり岐阜県の問題は、職員の給与カットぐらいでことは納まるのだろうが、問題は福島県の方で、ここには潰せる家が関係してしまっている。

つまり公共事業という産業は潰せる家なのであって、たぶんお咎めは厳しいものになるだろう。