建設業と限界集落とパラグライダー。

昨日書いた「絶滅危惧種へと向かう地方の指名競争入札。」には、この手の話題にしては珍しく、コメントもいただいていたし、とどさんからトラックバックもいただいていた。

とどさんの指摘は「限界集落」というものだ。

「限界集落」というのは、過疎化などで65歳以上の高齢者が人口の50%以上になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指すそうです。
(詳しくはこちらを参照ください)

たぶんこれから起こることは、限界自治体なのだろう。

そして今朝は、ある方からこんなメールをいただいた。

「絶滅危惧種へと向かう地方の指名競争入札」を見ましてため息をついています。パラグライダーをかじっておりますが、突風でパラのコントロールができなくなり、まさに螺旋状態で地上へ激突です。よければ死亡、悪ければ、余計な安全装置のおかげで、下半身不随で生き残りです。

高度が、高ければ緊急用のパラシュートが開きどこかへ不時着できるのに。パラグライダーは風向きと少しの風が吹いてこないと飛べないのです。ちなみに、航空法によると、パラは空中のごみ扱いです。すべて建設業にカブってきて、ひっじょうにかなしいいっ!!

空中のごみ扱い――なるほどうまい比喩だ。

しかし感心している場合ではないのだろう。

大田弘子経財相は、昨年11月のNHK日曜討論で次のように発言していた。

公共事業に依存してきた地域の立ち遅れはあるが、それについてはこれから考えていきいたい……。

しかし、未だに具体策はなにもないまま、地方への淘汰圧力は大きくなるばかりだ。

今この国で起きていることは、魔女狩りの様相を帯びてきたように思う。それはもしかしたら贈与(的共同体性)というシステムの消滅を狙っているのかもしれないが、贈与の原理そのものは、人類のESS(進化的に安定的な戦略)であるがゆえに(つまり無意識的なものだ)、たぶんなくなりはしないだろう。

ただ、贈与の原理がおびえきって機能しない社会をつくってみたところで、三位一体(ボロメオの結び目)はその均衡を失うだけでしかない。つまり全体としての経済はなりたたない。(引用:「北海道深川市長が逮捕されたこと、もしくは贈与の対象を置き換えること。」。

贈与(共同体性)的システムというのは、「ムラ社会」のことである。

ムラが退廃する原因はたしかに「ムラにある」(のかもしれない)。

「ここにいても自分たちの生活は成り立たない、ここにいても自分のあり方というものは理解されない」と思った若者たちはトカイという雑駁な泥沼に消えて、もう山間のムラには帰って来ない。(橋本治:『増補 浮上せよと活字は言う』:p68)

しかしそのムラのシステムを維持し利用してきたのは、国の政策(開発主義)でしかないだろう。

その責任の一端は国にある。

開発主義は、いつか幕引きをしなくてはならないことは十分承知しているつもりだ。

しかし今国がやっていることは、ご都合主義的にムラの原理がおびえきって機能しないシステムをつくっているだけにしか過ぎないと(私は)思う。

そしてあとは、自助努力と自己責任でおやりなさいと言っている。

世の中には自助努力と自己責任で生きていける人もいるだろう――私は少なくともそうして生きてきたつもりだ。

しかしなぜそれが可能だったのかといえば、私は生まれ故郷を捨てたからだ。そして私は、

そのムラを発展させムラ社会という閉鎖性を解き放つはずだった後継者達は、トカイの中で無意味な浪費を繰り返す。(橋本治:『増補 浮上せよと活字は言う』:p68)

であることを自覚している(つもりだ)。

開発主義の幕引きに軟着陸は無理なのだろうか。