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店主戯言040402 2004/4/16〜2004/4/30 "There goes talkin' MOMO"


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2004/04/30 (金)  
【メタファー】

桃知@岩見沢である。
岩見沢といえば、朝飯を食べながらこの更新作業をするのが常になっているのだが、本日もご多分にもれず、である。

静岡講演の感想をいただいていた。
28日に静岡のaoiで行われた先生の講演を拝聴させていただきました。

私も建設業許可を主要業務の一つに掲げておりますが、先生のお話は今までの

「自分自身の常識」を覆されることばかりで、正直唖然としました。

しかし、お話を伺うと納得することばかりで、時間があっという間に過ぎてしまいました。

講演後の懇親会(熱血先生)には、参加することが出来ませんでした(残念)、すみません。

また是非静岡にお越し下さい。

ありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。
次回(機会がありましたらか)はF2Fもお楽しみください。

さて、「熱血先生」とは、静岡のホルモン屋のことなのだが、この店のメタファー(隠喩)は、昭和30年代の小学校であり、店内は、あの頃の小学校の木造校舎では定番であった、節つきの木材板がモチーフとして用いられている。

店内には黒板があり、ドアには校長室や体育館入り口とかの表示、メニューは通信簿、それに熱血とプリントされた赤いタオルを頭に巻いた(というかかぶった)体育会系の店員が赤いポロシャツで店内を駆け巡る。

新入社員であろうか、胸に「教育訓練中」(はっきり覚えていない)だかの文字の書かれた布を縫い付けてあり、この「縫い付けている」というのが、いかにも、我われ昭和30年代に小学校に通っていたものに郷愁を感じさせる。

つまり、この店は、ホルモン屋ではあるが、「懐かしさ」の再生産をしている、ともいえるわけで、それが強烈な熱血先生ミームを、お客にレプリケートするのであろう。

料理も工夫されているようで、価格も手ごろ感があり、結構な繁盛店となっている。

私たちが店を出る頃には、既に店内は満杯、空き待ちをしている方も結構な数おられた。(たぶん多くはリピーターであろう)

さて、このような、店の表現にメタファーを用いることは、今や古典的広告表現手法の一つではあるが、消費の主体のわれわれが、文化的な生き物である故に、訴求力は強い(要は表現側が勘違いしなければだが)。

そこで考えるのは、「公共工事という産業」のメタファー、建設会社のメタファー、現場のメタファーである。

情報の持つ価値のウェイトが大きくなる時代(つまり「今と言う時代」)には、多かれ少なかれ、企業の持つ内部なるものが、外部に表出される時代である。

この時代に、この時代の空気に気がつかない「公共工事という産業」は、自らの「言葉」を失い、「信頼できない」の再生産を、消費のミームに繰り返させているだけなのだ。

であれば、積極的に外部表現をしようというのが、わたしの主張であるが、そのとき、このメタファーの考え方はなにかのヒントを我われに与えてくれるのじゃないだろうか。

その可能性は、まずは現場のメタファーにあるように思う。

まずは、「何とかレンジャー的現場」とか。★\(^^;

2004/04/29 (木)  
【今日は岩見沢へ】

昨日の講演が終わり、懇親会(「熱血先生」という焼肉屋さんであった)で、たらふくビールを飲んだわたしは、帰りの新幹線で見事爆睡。

東京駅に着いても目覚めず、車掌様におこしていただいた、というていたらく。
とほほ・・・である。


昨日の講演は、基本中の基本の基本(なんだこれ)。

3時間の枠に入れるのは、とても苦労した内容だったのだけれども、熱心にはなしを聴いていただいた受講者の皆様には、誠に感謝なのである。

そして前田さまはじめ、主催の行研連の皆様には、大変お世話になり、改めて感謝申し上げる次第なのだ。(また、熱血先生へいきましょう)

尚、講演内容のPPTは、ご要望があったので、後ほどダウンロードできるようにする予定ではある。(たぶん連休中の作業になるので少々お待ちを)


大盛さまから。

桃知さんへ
お疲れさまです。 大盛です。
昨年末から年度末にかけて体調を崩していました。
だいぶ良くなったのですが,原因として「疲れ」がありました。
肉体的な疲れもあったのですが,世間様に疲れた面が大きかったです。

そこで。。。
桃知さんが 奥田民生 を聞くということなので,奥民のアルバムに記載されている,ある人のコラムを紹介させてください。
俺はこれを読み,強く共感したことを覚えています。そのくせ体調を崩したという情けない結果になりました。
今一度読んで,自分を作っていきたいと思います。 

・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
何故,ソロになってからの奥田民生はダラダラしているのか。
(中略)
ダラダラの原因は疲労感である。疲れるからダラダラするのだ。どうして疲れるかというと,思うように行かないからだ。人間,全てが思いどおりに行けば疲れないし,元気一杯でいられる。ところが現実はほとんど思うように行かない。そこで疲れてしまう。僕らは多くの場合,現実のどうしようもなさに疲れ果てている。ところが中には現実はどうにでもなると思っている頭の悪いヤツがいて,変に元気だったりする。
こういう人は自分は疲れない代わりに周りをやたら疲れさせるのである。
(中略)
(奥田民生の)ダラダラとしたロックとは単にダラダラしていればいいというわけでない。現実に対する疲労感を疲れた疲れたと嘆いているだけではロックにならない。日本における演歌やフォークは,そうした疲労感をただ慰安する形で機能する音楽だが,ロックはそうでない。そういうニヒリズムとは反対に,もっと理想主義的なのだ。確かに現実は疲れることも多い。しかしそれと闘い,変えていかなければ何も始まらないと考える音楽なのだ。だからいつもダラダラしつつもエネルギーに満ちて攻撃的なのだ。

厳しい現実に対する重い認識,そしてその現実と闘う強い意志。

それが一体化するとダラダラロックができあがる。どちらか一方がかけても駄目なのだ。
 
(奥田民生 FAIL BOX より  コラム筆者 渋谷陽一   
・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
文中の,
「厳しい現実に対する重い認識,そしてその現実と闘う強い意志」
という部分に,強く刺激を受けました。
俺はしばらく,ダラダラロック精神で邁進していきます。
今回体調を崩したことにより得たものが多くありました。助けてくれた人も居てます。
転けてもタダでは起きぬ関西人の心意気で,一生懸命ダラダラします。(難しそうですが。。。)

では失礼します。

はい、ダラダラしながらも、身体を大事にしてください。

ただ、わたしは渋谷陽一の文章には違和感がある。

ナイーブなのだろうけれども、音楽に対するアプローチは、英語のnaive さを感じる。(知識は豊富なんだろうけれども)

わたしは、奥田民生は、疲れた身体の波長にシンクロ(同一化)するので聞くだけで、別に攻撃的になるために聞いているわけじゃない。

「疲れた」を疲れたとしてとことん楽しむために聞いているようなものだ。
それはそれで気持ちがいいのだ。つまり、癒しでいいのだ。

音楽は、その音を、プチッと切った時に現れる空間というか場が現れるまで(つまり、音楽が流れているとき)が、全てであろう。

それ(プチッと切った時に現れる空間)は、現実離れした空間から現実に引き戻されたときに現れる空間とでもいえるようなものであるが、この静かな世界に、わたしは現実の重みを感じてはいる。

われわれは、バックグランドミュージックを背負って生きているのかもしれないが(地獄の黙示録を思い出した・・・(^^ゞ)、それはメディアに慣らされた脳味噌のせいではないだろうか。(これも反省の次元のない「は〜い、ぶりっど」ではあるが)


ということで、ゴールデン・ウィークの始まりである今日夕方、、わたしは岩見沢へ移動なのである。

松浦様から。

29日は岩見沢で三船と双璧な?鳥勢を予約しました。
鳥の半身のから揚げと塩ふりと手羽のから揚げが絶品のお店です。

わたしは、これで、また、飲んで、食って、喋っているだろう。

2004/04/28 (水)  
【たぶん何も変わってはいない】

今日のわたしは、静岡静岡音楽館AOi講堂にて講演である。
全くのオープンセミナーである(有料ではあるが)。
少々の当日参加も可能だと思うので、お暇な方も(お忙しい方も)、是非にご参加いただきたく思う。


本日紹介する『世間の目』という本は、一昨日の盛岡出張の帰りに、盛岡駅構内のKIOSKで購入したもので、たいして期待をもって購入したわけではなかった。

ただ、昨日一気に読んでしまうと、結構腑に落ちる指摘が多く、かなり脳味噌はよろこぶ本なのであった。

cover 『世間の目』

佐藤直樹(著)
2004年4月30日
光文社
1470円(税込)






渡る世間は鬼ばかりか、と言えば、「ばかり」ではないだろうが、確かに鬼もいる。

ただその鬼とは、個人としての人間のことではなく、「世間」という「種」が持つ目に見えないような力のようなものであろう。

「世間」を構成しているものを佐藤直樹はこう言うのだ。。

・贈与・互酬の関係
・身分の重要さ(目上・目下、先輩・後輩など)
・世間のなかでは、個人は存在しない

そして、世間ではなによりも目立たないことが大切だ、と。


最近紹介した以下の本には共通するところがある。

cover 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎(著)
1988年5月20日
講談社現代新書
700円(税別)






cover 『いま私たちが考えるべきこと』

橋本治(著)
2004年3月30日
新潮社
1365円(税込)






それは、橋爪大二郎にしろ、橋本治にしろ、日本と言う国に、近代(モダン)がないことを嘆いている、と言うことだ。

近代とは、西欧的な近代であり、個人を基礎とした「社会」のことである。

明治維新において、確かに、日本は西欧から「社会」を輸入し、前近代の崩壊を狙ったのだが、今我々が無意識に感じている(へんな言い回しだ)窮屈さは、「社会」ではなく、肥大化した前近代なのだと、わたしは感じている。

佐藤直樹は、日本にあるのは、「社会」ではなく、「世間」である言う。
そして、先の三つの構成要素を挙げているのだが、それはバブル崩壊後の資本主義の「中世化」によって、肥大化している。


小原信彦による「われとわれわれ」の意識のあり方。(佐藤,p264)

1・I-dentity 責任ある自立した主体的な「われ」の意識
2・We-dentity 「われわれ」の意識
3・we-dentity 狭い仲間うちでの「われわれ」の意識
4・i-dentity 3の「われわれ」と未分化で融解しあっている「内輪」の「われ」の意識

佐藤は、1の大文字の「I-dentity」が個人であり、2の大文字の「We-dentity」が「社会」だと言う。

そして問題は、4の「仲間うちのわれわれに依存しないと成り立たない内輪のわれ」つまり、「we-dentity」としての「i-dentity」が、日本における「情報化社会」をおおいつくしていることだと指摘する。

そしてインターネットにおける「匿名性」のあやふやさを指摘しているのだが、このある種の「かおなし」の危うさについては、次回の法政大学エクステンション・カレッジで触れる予定でいたものなので(当然に教材は「千と千尋の神隠し」)、わが意を得たり。

インターネットを使っても、結局狭い「世間」をつくるだけでは意味がない、と言うことなのだが、このあたりは、例の、「広くて薄い紐帯」と「狭くて濃い紐帯」の議論に通じる。

それは、「狭くて濃い紐帯」を形成するものが、インターネット社会の「広くて薄い紐帯」の領域にまで浸透してきている、ということなのだが、この傾向は、わたしも薄々(どころか、たぶんはっきりと)感じているところだ。

結局、全ての人間が変わらなければなにも変わらない(「信頼」は生まれない)、という酔った山岸先生の諦めのような言葉を思い出してしまうのだけれども、日本という「種」の持つ強力な「世間」性(前近代性と言ってもよいだろう)は、このままでは、インターネットが持つ(ユートピア的)精神文化さえも見事に日本的な「世間」に変質させてしまうだろう。

つまり、技術は世間を変えられないのかもしれない。

その大きな理由を「匿名性」という「かおなし」と、文字を忘れた「声の文化」、つまり反省の次元なしで行われるハイブリッド化にあるとわたしは感じている。

しかしそれを増幅してきたのは他ならぬテレビをつくりあげた、そしてケータイを、インターネットを作り上げた「科学」なのだが・・・。

故に苦悶し考える・・・。


cover 『フィロソフィア・ヤポニカ』

中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)






中沢新一が紹介するところの田邉元の「種の理論」は、このわたしの苦悶への一筋の光のようなものなのだ。

「反省」の次元を忘れたハイブリッドとしての「世間」を貫ぬける哲学。
そのヒントを、わたしは『フィロソフィア・ヤポニカ』にみつけようとしているわけだ。

2004/04/27 (火)  ▲
【こころの不自由】

午前7時に目覚める。

いよいよ明日に迫った4月28日静岡静岡音楽館での講演。
久しぶりの静岡講演であり、時間の許す方は、怖いもの見たさにでも、是非おいでください。

「講演芸」をさせていただきたく思います。


さて、昨日は、最終のはやて車中で、シンクロシステム(キング・サニー・アデ)を聞きながら、2時間ほど爆睡してしまったものだから、帰ってからなかなか寝付かれずに困った。

盛岡は、深夜に雪が降ったとかで、かなり冷え込んではいたが、久しぶりということもあり、お昼と夜は盛楼閣の冷麺という快挙達成。

まあ、わたしは、朝昼晩と冷麺で、もなんの問題もない人間ではある。
ただし、「盛楼閣の」、という但し書きはつくが。
それと、銀河高原ビールがあれば申し分なし。


さて、「思想の自由」は村上泰亮が目指した主要命題だが、「こころは」自由か、というとそうでもない。

思いのようにはならないのが世間である。

たとえば恋愛。
ある人を好きになったとする。それはこころの自由である。

ここでどのような行動を取るのか、考えるのもこころの自由である。

しかし、だからといって何もかもが思うように行くわけではなく、何らかの障害は存在するだろう。

その端的なものが相手から嫌われる、ということだ。

つまり、失恋。

まあ、これは不自由。
こころは、相手のこころを自由に左右することはできない。

だが、もっと根本的な不自由を抱えることになる。

ふられた。じゃ、ここで諦められれば楽でいいのだが、そうは問屋が卸さないのが人のこころのようなのだ。

未練である。(笑)

未練は、容易には断ち切れず、つまり、こころは自分のこころを左右できない。(ストーカー行為など)
これもこころの不自由だろう。

こころは自分のこころをも左右できない。

こころが不自由なのであれば、私たちの意識のコントロールが届かないところで、なにものかが意識や行動を動かしている。

無意識の次元の存在。


まにあ・1号さまからの法大レポート。

【 法政エクステンション第一回 】

本日のスピーカー、講師・北海道ゼロックス 吉川 ・桃知さん

●信頼の獲得に向けたコミュニケーションの確立(吉川)

< 発表概要 >

建設業のIT化について具体的事例と、自分の実際の経験をもとに「表現」。

< 所感 >

自分の発表について客観的に書くのは難しい。(笑ただ、「形だけのIT化と正解の思い込み」に陥らない為にはその芯に「哲学」が必要である。と言い切ってしまったわりに自分自身の「哲学」が整理されていない事を話してみて痛感。

そのあたりの未熟な部分が「時として度が過ぎるほど情緒的」になってしまったと反省。


●「反古典の政治経済学要綱」第一章

まず、「このハイブリッドな時代に私はどうやって自分を確認しながら生きる事ができるのか?」という投げかけからはじまる。

ご自身が、芸としての「講演」ではなく「講義」であると言っておられるとおり、かなり難解な内容ではあった。

情報とは何か?をとことん突き詰めて考えさせられる「講義」。

情報とはミームの事であるが、これは、超越論的な情報と解釈学的な情報に二分される。

・超越論的な情報・・・(村上によれば)密画的情報の事で、とにかく対象をミクロ(核)の部分まで詳細に捉えていこうとするも の。言いかえると科学的思考態度。

・解釈学的な情報・・・(村上によれば)略画的情報のことで、対象をイメージでとらえるという思考態度。

例えば「花」を対象とすると、超越論(密画)的情報・・・花びらは何枚で、おしべは何本、全体の大きさは何センチととらえられる。解釈学(略画)的情報・・・その花の「香り」はどんな風で、その花から温かみが感じられ、体温(生命)が感じられるかといったとらえ。

つまり、超越論はモノを「死物化」してとらえてしまう傾向がある。(精神とモノを完全に切り離す)そのとらえだけで情報の理解は本当に正しいのか?と投げかけられる。つまり、科学的に「証明」された事は正しいと皆が思ってしまっているが、それは本当に正しいのか?

現在の小泉・竹中に代表される市場原理主義は経済から「人間の感情」と言う要素をはずしてしまって、密画的経済いモデルを作ってしまっているがそれで本当にいいのか?と批判される。

●次に、決定的な商品力(技術力)で差がつけにくいこの時代でどう「差別化」を計ってゆくのか?の考察に入る。

売買とはミームの経済的交換のことである。この交換には・価格と量の情報、経験と解釈と信頼の情報(買い手の持っている買いたいという気持ちの束・・・ちなみに竹中はここをはずしにきている)が、ある。

商品とは技術のミームのことであり、「のれん」といえる。(これは人質としての信頼の担保でもある)公共工事という商売は、消費のミームからの「のれん分け」の事で消費のミームとの関係性を構築する作業が「信頼」につながる。

信頼とは:第二種情報(解釈学的、略画的)のことである。つまり、差別化の源泉になるものは信頼の獲得と構築であるとする。

●さらに、「人間(特に建設業)がインターネット社会にどう対応」していったら良いかを考察。養老のy=aXから「情報はただ流れている、問題はそれを見ることができるかどうか」に導き、係数aをボキャブラリ、キャパシティ、社会的知性この三つを称して「情報が見える能力」とされる。

そして、マリアビリティ(職業的可塑性)を高める事に全力をあげよとされる。たとえば、昨日まで現場でコンクリートを売っていた人間が、今日からすぐに化粧品のセールスマンになったとしてもそれができてしまう事。簡単に姿を変えられる事。ボキャブラリ、キャパシティ、社会的知性などの個人の係数aをあげる事でマリアビリティを高める。とされる。

ではどうやってこの係数aをあげるか・・・だあが・情報が見える能力(信頼)・・相手のことを信頼できる能力・情報が発信できる能力(信頼性)・・相手に自分を信頼して下さいという情報を出す能力

まずは、この「情報を発信できる能力」を高めてゆく事が重要でイントラネットによる「ITを使って自分自身を語る」というコトがその具体的表現形となる。

●そしてハイブリッド

「ハイブリッド」が何物であるか・・・というコトの解説は実は講義中でなく、その後の飲み会でようやく説明される。「ハイブリット」とは「多様性(もしくはその認識)」の事である。多様であるがゆえに「内在する矛盾」をかかえる事になるのであるが、この矛盾が実はダイナミズムになる。

< 所感 >

第一回からかなり「深い」内容で、理解度には自信がない。テキストをもう一度復習する必要が大

2004/04/26 (月)  
【トイレで暮らしている生物について】

うちのトイレで暮らしているオオクワガタのペアは、ほっておいたら、ちゃんと(?)産卵したようで、そこそこの大きさの幼虫となったので、一匹ずつ、菌糸ビンに移した。

ビンの数は7個(もっといるかもしれないが、今回見つけたのはこれだけだった)。
みんな無事成虫になってほしい。
ので、また暫くほっておこう。(あんまり人間が関与しない方が良いらしい)


同じくトイレで暮らしているニジイロクワガタが姿を見せた(冬季間は冬眠をしていたのようで、まったく姿が見えなかったのだ)。

こいつは玉虫色のクワガタできれいである。
オーストラリア原産で地元ではは天然記念物であり、個体数は少ないらしい。

しかし、人工的な繁殖に成功した日本では、本国よりも固体数が多いらしく、数年前に比べればかなり安い価格で取引されている。

なんだか変な種ではあるのだが、こいつを見かけると、なにか得をした気分になるから、不思議な魅力をもった(長谷川さんの言葉だと「チャーミング」な)クワガタなのである。

うちのトイレには、昨日からアトラスオオカブトのペアも仲間入りしているし、その他何種類かの甲虫がいるのだが、最近はなにがなんだか分からなくなってしまっている。

これらがトイレで暮らしているのは、我が家で一番温度変化が少ないところだからで、別にいじめているわけではない。(それどころかとても大事にされている・・・はずだ)


そして、うちにいるのは、全てが日本で繁殖したものの子孫で、生まれは日本である。

こういう昆虫(生物全般だろうな)を飼育するとき、大事なことは、家の中で飼い続けることであろう。リリースしてはいけない。


さて、昨日は休日であって、溜まっていた事務処理をそこそここなし(今一気力が欠乏していた)、スカパーでPRIDEをみる(向井田さま情報ありがとうございます)。

小川はいいねぇ。
好き。

それからF1をみて(バトン素晴らしい。M・シューマッハ強すぎ)、わたしのたまの休日は過ぎて行ってしまった。


こんなメールが届いていて、ちょっとあせる。

来る4月28日の静岡での先生のセミナーに参加させていただく者です。
ももちどっとこむ の 新建設業情報化講座から2001・2.25中小建設業とIT化、および、ももちどっとこむ基本姿勢 を読ませていただきました。

中小建設業界のIT化を阻害している最大の問題点と思われることにつきましてご意見を賜りたいと存じます。(以下の内容が静岡で予定されている講演に関係あれば当日、会場でのお話に含めてお聞かせいただいて結構です)

経営者が、まずわが社からIT化をしようかと思っても、現在の建設不況下の、ダンピングバトルのなかにあっては、IT化の即効性は期待できず、当分の間は財務体力の温存が第一と経営者は考えているのではないでしょうか。
IT化の必要性は感じていてもなかなか手が出せない状況にあると思われます。
岐阜県の状況もまじえてコメントいただけますか。

現在の異常な不況がやがて収斂され、公共工事に競争重視の市場が生成されてきた場合は、今度は、中小よりも人物金に優れた大手がITを武器に地方を席捲蹂躙してしまうのではありませんか?

中小建設業は競争重視市場よりも地域振興政策による公共工事に期待して生き残り、IT化に利便性と効率性を求めたとしてもデジタル革命を誘導するところまでは自らが望まないのではなかろうかと思うのですが、いかがでしょうか。

以上のことが中小建設業経営者の思惑にあれば、IT化はスカッとは決断されないと思います。

何をあせったのかと言えば、このサイト全然メンテナンスしていない、ということである。

ご指摘の部分は、今のわたしからすると、どちらもかなり古い情報となってしまっている。

ここ数年、まったくメンテナンスしていないのだから、当然といえば当然なのだ。
わたしは変わるが、情報は変わらないのだから。


さて、このメールにあるような疑問は、従来のIT化概念(情報化)を前提にされる限り、どなたでも持つものだと思うが、わたしの活動は、このメールのような疑問に答えるかたちで変化してきており、(完全ではないだろうが)それに答えられるだけのものは蓄えてきてはいる、と考えている。

なので、動学的にわたしを追いかけていただいてきた方々には、それが理解できている、と思うが、確かに、突然このサイトを見た方が、基本姿勢や、情報化講座を読まれたら、誤解をうけるだろう。

なんとか、しなくては、と思うのだ。

そして、なによりも、4月28日静岡講演(3時間)は、このメールの疑問に答えられるようなものにしたく思う。

3時間という難しい時間枠で、それがどこまでできるのか、また苦悶する(考える)。

ということで、本日は盛岡へ。
岩手建協さまIT特別委員会である。

2004/04/25 (日)  
【法政大学エクステンションカレッジ らうんど わん】

受講者は18名さまに増殖されておられたが、1名さま欠席のため、17名さまにて「らうんど わん」の開始。

最初に、今年度のわたしの誓い。
「まじめにやる」

ということで、今までやったことのなかった、最初の自己紹介を各自にしていただく。

前回までは、懇親会にてそれを行っていたのだが、今年は、その後の種と個の関係性に関する題材でもあったので、最初から表現していただく。

スタートは、まにあ・1号さまの表現から。

松山千春的プレゼンとでも言うか情緒的な emotionalな表現である。
時に、それの度が過ぎるきらいがあるが、基本を押さえておりうまいものである。

九州の現場を事例に「コミュニティ・ソリューション」の可能性を紹介し、そして、自らの趣味である鯉釣りを通じて感じた、袋型根固への誤解(釣りには釣り針が引っかかったりして邪魔なものであるが、魚類のためにはよいものであるとされる)からのインスピレーション。

日成建設さんのサイトを事例に、市民社会を射程においた情報発信の可能性を話す。

表現者としての自らの視座を、観察者から、行為主体と転換することで、市民社会という種の中の「私」はどう感じるのか、からの情報発信へのアプローチである。

一言で言ってしまえるのならば、「市民社会を射程におく」という、発信側の態度の可能性、それがまにあ・1号さまの表現である。

わたしの講義。
講演ではなく、講義であり、「芸」はない。

教科書である 『反古典の政治経済学要綱』(村上泰亮)から、第1章及び、第4章第15条以降の概観。

所謂、ミーム論から始める。
村上泰亮は、情報を非常に広義な意味で用いている。

それは、ドーキンスが言うミームと重なる。
つまり、わたしが情報とはミームである、と言うとき、それは、村上泰亮が言う、広い意味での情報である・・・。




ということで、講義は、超越論的な情報と解釈学的な情報とはなにか、へ続く。
約3時間弱の講義内容をここで再現する時間はないので、使用したPPTを掲示する。受講者の皆様は復習と次回の予習のために使っていただきたい。

ただし、ホワイト・ボードに書いた、略画的、密画的と超越論的と解釈学的の関係性。超越論としての科学的であることの問題点(デカルト・ニュートン主義、若しくはデカルト・ガリレオ主義的科学)の説明はPPTにはない。

参考文献を是非読んでいただきたい。

ひとこと言えば、我々はかなりの部分で略画的に認識している、ということである。
→はいぶりっど。

しかし、我々が足場にしている「科学的」という密画の哲学は、日常の我々から超越し矛盾さえしていると感じる。

色、熱、臭いというような感覚的性質は、我々の精神の中だけにあるものではない。

モノそのものには類似した性格はないという「デカルト・ガリレオ主義的科学観」(哲学)だけでは、我々の生はとらえようがないのである。

その結果として(逆説的に)、精神と身体を分離した次元である「反省の次元」を抜きにしたイメージ化(は〜い・ぶりっど)としての認識が蔓延する。→考えなくなる。


しかし、我々には、ハイブリッドを貫通する哲学が必要なのだ。

「ハイブリットな時代、私達はどうやって自分を確認しながら生きることができるのか?私達はどうやって他の人と繋がりながら生きるのか?」

それが、大森荘蔵の言うところの「重ね書き」である。

「らうんど わん」用PPT→ BDHELP0401.zip 2MB
   → http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip へ移動しました。
     「法大EC2004」フォルダです。2005/12/08 更新 

参考文献
『知の構築とその呪縛』 大森荘蔵(著)

は〜い・ぶりっどで使った音楽
cover
『Driving All Night』

DOUBLE







そして、懇親会でのわたしの疑問提示。

今はビジネスが全てだ、という考え方が基底にあることになんの疑問を持たないかもしれないけれど、やがてビジネスから己がリタイヤしたとき、わたしたちは、どのような哲学を持って、その非ビジネス的な時間を過ごすのだろうか。

我々の基底にある思想とか哲学とかは、そんなに都合よく切替が効くものだろうか。


長谷川さまからメールが届いたので、早速の追加掲示。

長谷川です。
おはようございます。
昨日は夜分にご自宅にまで上がらせていただき、奥様にコーヒーを入れていただき、さらに裕也ちゃまと虫の絵本を見ながらのお話、思い出すと恐縮に至りながらも、とても楽しい時間を過ごせていただきました。
法政桃塾から3次会のお寿司さんまで熱く盛りだくさんのメニューを体験いたしました。
先生には数々お世話様になりまして大変にありがとうございました。
深く心から感謝を申し上げます。

法政エクステンションカレッジでの吉川様のプレゼンテーション、信頼の獲得に向けたコミュニケーション確立、本当に素晴らしくって建設業に携わる私達に向けた暖かいメッセージをいっぱい感じてしまいました。
紹介くださった先進企業の事例は、それは新鮮で学ぶところの多いものでした。

なかでも、月間で近隣住民に配布する『工事だより』の盛りだくさんの内容と『短歌』(住民が詠んだ!!)には大感動!!です。
地域住民が近くでやっている工事に対して短歌を詠むということの事実に驚きビックリ!でした。
現場代理人の工事に対する取り組みや思い、地域住民に接する態度の一生懸命さは、時間を積み上げて、信頼性を持たれ、信頼の築きに繋がったと思いました。

『「思い出に 残る工事でありたい」の所長の言葉 熱意のこもる』
施工者と地域住民が一緒になって、工事の完成を願う・・・ステキです!
弊社でも本当にそうありたい・・・と思いました。
これからの建設業のあり方を考えながら、先進企業の事例を自社の立場に置き換えて可能性を探りながら帰ってきました。

先生のお話「ハイブリットな時代、私達はどうやって自分を確認しながら生きることができるのか?私達はどうやって他の人と繋がりながら生きるのか?」
哲学でした。二次会、三次会を通して先生からはいいお話をたくさんたくさん聞けました。
私は昨日のお話の内容をこなすのにはまだまだ時間がかかるようです。(笑
最近、店主戯言に出てくる”ハイブリット”、まだまだですが、今回の桃塾に出席したおかげで少し解ったようになりました。

昨日、出会った多くの皆様に感謝申し上げます。
いつもいつも考えることの課題が増えてしまいます。
でも、これから考える時はしっかりと根性を入れて考えます。

では、ごきげんよう。
取り急ぎ、御礼まで。

先生のANAのサンドウイッチ?トランクに入っていました。
気が付かないでごめんなさい。

ANAのサンドウイッチ?
あれはお茶菓子です。食べちゃってくださいませ。

2004/04/24 (土)  
【今日は法政大学】

桃知@芦別%6時に目覚める。
なんといっても、まだ酔っている(二日酔という)。

昨晩はヘロヘロでウコンを摂取するのを忘れていたのである。
(下呂っぱ)


酔っ払いモードついでに、酔っ払いの小言(イメージ化しており「反省の次元」にはいたっていない)。

例の閣僚の国民年金未加入について・・・

『小泉首相は23日夜、記者団に対し「閣僚も気づかない、払わないことがあるんだから、どういう改善策があるか、考えていかなきゃいけない。国民だって分からない、払ってないという方も多いと思いますよ」と述べ、複雑な制度に問題があるとの認識を示した。 』という記事にはさすがに頭にきた。

「国民だって分からない、払ってないという方も多いと思いますよ」だと。
はなしをどこかに転化する名人だな、このお方は。

これはそもそも加入していない、などというのがおかしい。
国会議員だろう。(議員立候補資格に国民年金加入用件はないのか)(笑)

わたしのところにはちゃんと請求書が届き、支払が遅れたら催促の通知は来る。

ので、支払いは忘れようがない。
(わざと忘れるという方法はあるけれど・・・。★\(^^;)

ただ、なんで最近社会保険庁から請求がくるのか、については、大いに疑問を持っている。こんなのは自治体の仕事なのである。

利権は仕事についてくるか。(笑)

ということで、今日は7時30分出発。
新千歳発、10時30分の便で、羽田へ向かう。

本日は、法大エクステンション・カレッジの第1回目。


2004/04/23 (金)  
【今日は芦別】

昨日は作業終了後、向井先生の緑の流線型で岐阜駅までお送りいただいた。

東海道新幹線の往復で気が付いたのは、やたらと揺れる、ということ。
たしかに、数週間ぶりで新幹線に乗ったのは確かだが、こんなに揺れたっけ?

さて、本日はANA 053 東京(羽田)(08:00) - 札幌(千歳)(09:35) で、芦別市建協さまへ。

郡上建協の前田理事長と岐阜県の浅井さまをお呼びしての勉強会である。
勿論、わたしの喋る時間もあるのだが、明日24日の法大向けPPTからのピックアップした内容になるだろう。

じろう@滝川です。
昨日、東京目黒で「IT社会とヒューマンパワーを考える」というシンポジウムを拝聴してまいりました。

田坂、金子、梶原と桃知さんの講演で事前にお勉強済みの方々のお話を一度にすべて聞けちゃうというとても贅沢な催し物で一人で興奮していました。

桃知さんの講演がミュージカル・漫談調とすると田坂広志氏の講演は、「クラッシック音楽のコンサート」調といった感じでしょうか。お話がとても心地よい響きでスーッと頭の中にインプットされていく感じです。

わずか、一時間でしたがとても貴重な体験でした。
詳細は添付ファイルをご覧ください

梶原知事は「これからの岐阜県は世界を目指す!」
といってました。
金子氏は「ソーシャルコミュニティ」を強調してました。

今日で、パソコン講習3日目。順調に進んでいるようです。

凄いメンバーの講演会である。(うらやましい)
お送りいただいた田坂氏の講演概要は、大変参考になった。

しかし、わたしの講演が「ミュージカル・漫談調」というのは、誠にありがたき褒め言葉であって、あはは・・・と、うれしい。

たしかにわたしはそれを目指してはいる。

スタンダップ・コミックという芸があるのだけれども、わたしが自分の講演でやりたいのはそれである。

スタンダップ・コミックは「面白く言う」芸であり、厳密には、スタンダップ・コメディ(「面白いことを言う」芸)とは違うのだが、まあ、どちらも日本語では「漫談」になるのでどうでもよいのだが・・・。

ということで、今朝は機中でPPTをまとめながらの移動なのだ。

2004/04/22 (木)  
【本日は岐阜日帰り】

まずは、阿久根建設さまより。

師匠並びにオブザーバーの皆様
平素お世話になっております。
やるやると言っておきながら、なかなか実現しませんでした
弊社ホームページ、やっとこさリニューアル公開にこぎ着けました。
http://www.akune.co.jp

現時点での出来具合は、60点くらいだと思っております。
やってみると肖像権だ、会計監査があるからだ、とかいろいろと制約が出てきたりして、どうも腰が引けている部分があります。

しかし何事もやってみないと、課題がよく見えてこないということが取り組んでみて、よ〜くわかりました。
何が足りないかはわかっております。
しっかりと外に向けてコミットするために、イントラに取り組んでいたのでした。
それを少し忘れておりました。
自分を思いを素直に表現する。
そうすることで読み手に思いが伝わり、人は感動する。
感動しなければ思いは伝わらない。
そして感動は人から人に伝播する。

これからぼちぼちと課題を解決していきます。
考えて、動いて、反省して、考えて、動く、この繰り返しなのですね。

今後ともご指導ご鞭撻の程、お願いいたします。


それから、ももこむ通信では既にお伝えしていた件。
(ももこむ通信から引用)

【4・6空知建協新入社員研修会用PPT】

空知建協さまより、4月6日に行った、新入社員教育用のPPTのダウンロードが可能になった旨の連絡を受けましたので、皆様にもお知らせいたします。
空知では、こんな新入社員教育をやったわけで(それが良いのか悪いのかは、たぶん彼らが一人前となったときに判断されるものでしょうが)、その一端をかいまみていただければ幸甚です。

■空知建協のホームページ(TOPICSからどうぞ)
 → http://www.ku-ken.net/


昨日の習志野市建設協力会さまの講演は、協会ベースのIT化のスタートアップであるので、基本を押さえたものとした。

それでも、148枚で構成されたプレゼンピッチの約半分を消化しただけとなってしまたので、今後の継続的な勉強会の中で、今回お話しのできなかった部分については適時触れていってみたいと思う。

また、習志野-浅草間の往復、運転手を務めていただいた、吉谷さん、ありがとうございました。

さて、本日は、岐阜県建築士事務所協会様でシステム設定である。
岐阜の予想最高気温は29℃。夏である。

夏服で行こうかと思う。

ところで、明日は芦別なのだが、岩見沢で6℃。
明後日は、法大エクステンション・カレッジで東京へ戻るのだが、24日は16℃の予想。

身体はつらいな。

2004/04/21 (水)  
【自己の可能性なんて、自分で見つける(信じる)しかないのだわ】

昨日の帯広での講演は、午前中の3時間という酒飲みのわたしにとっては(?)ハードな時間帯。

内容も時間配分の難しいものであったので、前半1時間45分、休憩10分、後半1時間115分という変則パターンになってしまった。


いわゆる事業者団体ベースのIT化に関しては、以下の3つの目標を掲げている。

1・IT化の理解と実践
2・発注者との協業と市民社会へのアプローチ
3・協会の新しい位置づけの確立

ただ、昨日の言葉を借りれば、「同じことをしても、基底に流れる考え方次第で、結果(表現型)はまったく異なる」わけで、上記の3つの目標にしても、その基底となる考え方(つまり哲学)がしっかりしていないと、プロジェクトは形骸化されたものでしかなくなることは言うまでもない。

例えば、「IT化」という言葉ひとつとっても、わたしの言う「IT化」は、単なるコンピュータ化やネットワーク化ではないし、ましてや、合理化や効率化の道具でもない。

効率化や合理化は結果としての付帯物であり、決して目的ではないのである。

そのようなIT化概念の表象を可能としているのは、IT化に「反省」という哲学的な概念を持ち込む、という突拍子のなさゆえなのだが、そのことで、我々はIT化を通じて、自己超越(自己実現)というマズロー的欲求の最上部に、到達できる可能性を考えるところまで、IT化を質的に転換し位置付けできているわけだ。

この哲学部分がマネージャー(できれば全てのメンバー)で理解されていないと、IT化は、ただの物理的マシンの機能の範疇を越えることはない。


長谷川さまより。

(ざっくり)

話は変わりますが、今、私はPPTを作り始めました。
パワーポイントは初めてなので、本でも読まないと出来ないかな?と。
でもやってみたら、忽ち、その面白さにハマってしまいました。
アニメーションが面白い、字が躍る、楽しい〜♪と、遊んでいた私に
→「今日の戯言」
自分自身の基底に流れる思想を省みるという訓練(つまり、反省の行為)
同じことをしても、基底に流れる考え方次第で、結果(表現型)はまったく異なるというのが、わたしのIT化論になるわけで、だから、「考えること」は大事なのよ

考えるときは、もうちょっと根性いれて、考えましょう

・・・そうでしたね。(-_-;)
もちろんPPTは中身が肝心なのですよね。
タイトルは「イントラネットを使ってミームの強化」を考えています。
難しいけど希望は・・・
自分の思いや考えが受け手にきちんと伝わるようなPPTを作りたいですね。
プレゼンテーションも送り手と受け手の双方向の対話になるといいと思うのです。
PPTと送り手の語りが、受け手の心に響くリズムと共感のメロディーになると面白いと思うのですが・・・。
考えると、問うことばかりで・・・ほんとに時間が足りない、難しいですね。
何事も練習や訓練を積まないと身体は覚えない・・・。

まもなくイントラネット導入から一年が経ちます。
これからは、もっと社員の環境を変化させていこうと思っています。
そして、環境の変化に適応していく能力、環境適応力を支えている能力を少しずつでも向上させていきたいと考えています。

とり急ぎ、近況報告まで、ごきげんよう。
水戸は晴れ、気温は上昇中、どうかお体をご自愛下さいませ。

あいかわらず鋭いお姉さまではある。

PPTをつくるということは、上記の「自己実現」と密接に関係する。
なぜなら、自己実現とは、次の二つのことだからだ。

ひとつは、「自己を表現する」ということである。
わたし(私たち)の日常は「表現」なのである。

でなくて、なぜこのHPを更新したり、PPTをつくったり、講演をしたり、仲間達とおしゃべりをする(F2Fの)必要があろうか。

表現することで、わたし(私たち)は生きている自分を実感できるに過ぎない。
表現をすることの機会なき方々は孤独である。


そしてもうひとつは、己の潜在的な可能性への気付きである。
じつは、これは「表現」によって引き出されるものである。

つまり、表現の中には、自己の内なるものの表現と呼ばれるものが存在しているが(この戯言がそうである、と言うか、わたしの活動の100%近くはそうである)、自己の内なるものなど、なにもしないでいて、簡単に理解できるはずもない。

つまり、ぼーっとしていれば、いつまでもぼーっとしているままなのである(失われた20年)。

その「ぼーっ」は、表現をしようとすることで、はじめて、ぼーっとしていたことに気が付くようなものである。(この気付きがないのは、ただのバカだからである)

つまり、表現をしようとすることで、はじめて、「自己の内側の深み」(西山,p63)は見えてくるのである。

これが「反省」の行為なのだが、その行為によって見えてくる「自己の内側の深み」の中に、自己の可能性は潜むだろう。

『私たちは学習することで発達していく。それはそのまま、私たちの潜在的な可能性を表現していくことでもある。』(西山,p63)

なので、わたしのコンサルテーションには「表現」はもれなく付いてくる。
そして、考えるときは、もうちょっと根性いれて、考えましょう(橋本治)なのである。


ということで、本日は、習志野市建設協力会さまにて4時間の講演(スタート・アップセミナー)。
懇親会終了後帰宅の予定。(たぶん遅くなる)

2004/04/20 (火)  
【仕事のハイブリッド化】

帯広で目覚める。
昨晩、けっこう遅くまでやってしまったものだから、今日の午前中の講演はちょっとつらいかもしれない。

8時30分にはホテルのロビーにお迎えが来ていただけるので、早めの更新としようと、(↓)のほとんどは昨日のうちに書いたものである。


関係ないのだけれど、今日の帯広の最高予想気温は21℃、東京は28℃。
明日は帯広6℃、東京22℃。(笑)


さて、本題。
本日は「仕事のハイブリッド化」。テキストは昨日に引き続き『文化生態学の世界』―文化を持った生物としての私たち

『いま起きていることは、これまで限られた職業にしか許されなかった「肉体労働と頭脳労働の融合」が、広い範囲で求められてだしていることである。』

『現場だけで閉じているような職業(農業、手工業、単純労働、セールスなど)に頭脳労働が求められ、デスクワークだけで閉じているような職業(一般事務、サービス、管理職など)に現場での肉体労働がもとめられる。』(西山,p185)

この指摘は、これが既に世の中に定着してきたというのではなく、これからの方向性がこちらにあるということである。→「未来から現在をとらえる」(西山,p186)

これは、わたしの最近の言葉で言えば「仕事のハイブリッド化」であり、バーレイとオールの言葉では「仕事の技術化」である。

つまり、『現場で起きていることを身体全体を使って見定めながら、同時に理論やモデルやアルゴリズムを用いて、頭の中で現象を再構成し、解析することである。一方で肉体労働をしながら、もう一方で頭脳労働をしているのである。』(西山,p185)

仕事の複雑化―現場と理論の融合
現場で対象に取組む
 生命系(医療、福祉、教育)
 物理系(資源、廃棄物)
 機械系(計算機、網)
表象
シンボル操作をする
 データとイメージ
 数式処理
 言語表現

管理
西山,p186・・・ちょと不満な表だなぁ)


つまり、これである。(↓)「フィードバック・ループ」




今という時代は、皮膚感覚に優れて、時代が抱えている問題点をすばやく指摘できる、という特性を持つ方々が多い。

彼らは直感的に物事を判断するのである。(それは別に悪いことではない)

その特性は、コミュニケーションやプレゼンテーション等も、それなりにこなす能力にも繋がっているのだと思う。

実際に現場PPT等をつくると、それはうまいものである。

また、そのような勉強をしたい、という方々も多いし、そのような部分のコンサルテーションも登場してはいる。

パワーポイントの使い方を勉強すれば、パワーポイントの使い方はうまくなる。
会話の勉強をすれば、会話は滑らかになる。

たしかにそれらの技術の習得は無駄なことではない。

しかし、それが、ビジネスの現場で成功しているのいかと言えば、そう簡単なものでもない。

それは、会話やプレゼンだけの問題ではなく、世の中kで言われている、「現在に生きる職業人として、必要とされる技術」を身につけただけで、ビジネスの現場で成功するとは言えないのは、皆さんも経験的に知っておられることだろう(まあ、これが「能力に対する信頼の担保」)。

しかし、それにしても、それはなぜなのだろう、とわたしは考えるのである。

わたしは、イメージ化(皮膚感覚とか主婦感覚とかいう○○感覚)(それ自体は悪いものではないと考えている)を貫く、自分自身の基底に流れる思想を省みるという訓練ができていないのである、と考えている。(つまり、反省の行為)

同じことをしても、基底に流れる考え方次第で、結果(表現型)はまったく異なる、というのが、わたしのIT化論になるわけで、だから、「考えること」は大事なのよ、そして「仕事のハイブリッド化」とは、「身体」と「考えること」のハイブリッド化なのよ、という結論で本日はおしまい。

本日は午前9時より3時間の講演。
終了後帰京。(といっても丁度した飛行機がな〜い。)

帰京後、お客様がおいでになるので、浅草にて一献の予定。

2004/04/19 (月)  
【表象の疫学】

今日のわたしは、明日の帯広建協さまでの講演に備えて、JAL1155  東京羽田(1335)→とかち帯広(1510)で、帯広へ飛ぶ。


cover 『文化生態学の世界』―文化を持った生物としての私たち

西山賢一(著)
2002年10月10日
批評社
2100円(税込)






最近の(というよりも、相変わらず、だな)わたしの興味は、「文化子(ミーム)」なのである。まあ、「子」を取ってひろく「文化」でもよい。

わたしは個として存在はしているが、考えれば考えるほどそれは完全独立した個ではなく、わたしの平凡な日常生活の再生産は、利己主義なわたしの共生の経緯でしかない。

その共生の規則をつくっているのが文化だろう。

昨日の橋本治ではないが、ここに、「私」は如何にして「私」以外の「私たち」と繋がるのか、その繋がる方法を考えている自分がいるわけだ。

主流経済学は、形式的な整合性を重視するため、利己主義を前提に市場や組織の理論を組み立てようとしてきた。ここには共生の原理は無い。最大化原理だけである。

最大化原理:伝統的な市場の原理→生産者は利益を最大にしようとして行動し、消費者は効用を最大にしようとして行動する。→せいぜいパレート最適。

多くの「分かったような気がしている方々」は、このとてもナイーブな理論を無意識に受け入れているのだが(曰く、時代の流れ・・・)、この無意識は文化であり、ミームである

しかし、我々は共生している。
わたしのようなものでも生きる権利は持っているらしい。
助け合いでも、競争関係でも、共に生きることが前提の社会に生きている。

つまり、最大化原理をいう経済学でさえ、共生を前提としなくては存在意味はないのである。

中には、経済活動の「私」と日常の「私」は違うのだといわれる方がおられるのも知ってはいるが、いったいどう違うのだろう?

そういう方々は大切な前提を見逃しているに過ぎない。

じつは経済学は『適切に決められたルールのもとでの自由競争』が基本デザインなのである。(西山,2002,p34)

『自由競争は利己主義を原動力として進められるが、ルールを決めてそれを守るというのは、共生という側面があって初めて可能になる。利己主義と共生とは、図と地の関係になっていて、一方に注目すると、他方は見えなくなってしまうのである。(西山,2002,p34)

『一方に注目すると、他方は見えなくなってしまう』
つまり、情報が見えない。→係数a (笑)


さて、文化子(ミーム)と名づけられた自己複製子の生い立ちは、遺伝子のアナロジーのため、遺伝子的(と同じような)な複製をする、と考えがちなのだが、どうも違うのである、というのが、最近のわたしなのである。

遺伝子とは、かなり違う性質を持った自己複製子、それがミームだと。

日常的な次元では移ろい易いのがわかるけれども(正確な複製は遺伝子に比べればかなり難しい・・・なぜならば人間の記憶はかなりいい加減であし、アナログであるから)が、無意識の次元では変わっていくのに変わらないように複製される。

『ミームでもっとも注目すべき点は「変わっていくのに、変わらない」ということだろう』(西山,2002,p104)


わたしが「広い意味での技術のミーム(広義の技術のミーム)」と呼んでいるものは、主として第二種情報によって構成されているとしているのだが、この広い意味での技術のミームから、「信頼」という情報の交換をピックアップして、それがなにものなのかを考える作業をわたしは繰り返してきた。(そのときに、山岸俊男先生の著作にめぐり合ったわけだ)

かつてのわたしの講演用PPTには、広義の技術のミームを「なんだかわからないけれども大切なもの」と書いていたけれども、最近は、「のれん」(人質としての信頼の担保)と書くようになっている。

が、しかし、そもそもミームが介在して複製されるこの「文化」というヤツは何ものなのだ。

それで、最近は「哲学」やら「文化生態学」あたりの書籍を穿り返していた。
そこで、出会ったのが「表象の疫学」なのである。

それはミームはどう生まれどう複製されるのか、へ「認知心理学」からのアプローチを加えたようなもの、としか今のところ表現できない。「表象の疫学」の理解は、まだまだなのである。


さて「文化生態学」は、ミーム論はあるし、「表象の疫学」は出てくるし、哲学はその基底に存在しているしで、当然にハイブリッドな学問であるが、わたしのように、経済学→生物学→社会心理学→哲学という経緯で、うだうだ考えてきたものには、たまらなく面白いのである。

なにしろ、35億年生き続けてきた生命に生き方を学ぶのである。(笑)

2004/04/18 (日)  ▲
【考えるときは、もうちょっと根性いれて、考えましょう(橋本治)】

cover 『いま私たちが考えるべきこと』

橋本治(著)
2004年3月30日
新潮社
1365円(税込)







橋本治による、『フィロソフィア・ヤポニカ』であり、「種の理論」である。

橋本治のこの本にしても、『フィロソフィア・ヤポニカ』にしても、「私」は如何にして「私」以外の「私たち」と繋がるのか、その繋がる方法を考えている。

その思考の方向性は、「個-種-類」の関係性の複雑さに直面せざるを得ないのだが、思考はそこに一元論的思想の限界を見ることになる。

つまり、「私」が「私」以外の「私たち」と繋がることは難しいし、橋本治流に言えば、そこには「答えはない」。

それは我々の日常においてそうなのであり、だから、わたしは考えるのである。

『我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生まれるのである。』(西田幾太郎)

だから『考えるときは、もうちょっと根性いれて、考えましょう』(橋本治)なのである。

2004/04/17 (土)  
【ぷら・い・べーと・2】

今日も昨日に引続きプライベートでR。(嵐山風)
このプライベートは、常日頃と使う脳味噌とはそれが違うのだが、それでも仕事のことは頭から離れないわけで、昨日から、ようやく『反古典の政治経済学要綱』の第1章を眺めるにいたり、24日に迫った法大エクステン・ションカレッジ初日の構想を考えていた。

受講お申込者は、定員を超えて17名さま、との連絡が事務局からあった。
わたしは当初、5名程度の、ウルトラマニアックな方々との、秘密会議のような講座を覚悟していて、今年の講座開講を決心したのだが、このへんな男の講座に、定員を超える参加申込をいただいたことに、心から感謝申し上げたい。

また、参加された皆様の知的な冒険心を、できる限り満たせるような内容にしたいという抱負と同時に責任を感じている。

今回の受講者の方々を見ると、初めての参加者もおられるが、わたしとのお付き合いが長い方もかなりおられ、これだと、外部からの講師招聘は基本的には必要ないな、と思う。

初日から、各自持ち時間30分〜50分で、バリバリと「自分のことを自分で語って」もらおうか、と考えていて、初日は、それは、まにあ・1号さまにお願いしようかと考えている。

それから、『反古典の政治経済学要綱』は、6章から成っているので、各回1章ずつやろうか、と。でも2章・3章はさらっとやろうかな、とか・・・、そんなことを今頃考えている、計画性の無いわたしである。

たぶん初日は、総論的に、わたしの今現在の『桃論』を語ることになるだろう。
これで4時間は過ぎてしまうが・・・。悩む。

まあ、楽しい悩みではある。

2004/04/16 (金)  
【ぷら・い・べーと】

芦別、網走と北海道ツアーを終え、本日からはプライベートな用事で公的活動はちょっとだけ休みである。(休みといっても別にすることがあるので、少しも休みにはならないのだが・・・)

活動の再開は、20日の帯広での講演からとなるが、ここでひとつ忘れていたことがある。

2月17日旭川、18日帯広での講演用PPTの掲示を忘れていた。

じつはそれぞれ違うPPTを使っているのだが、今回は18日帯広での講演で使用したPPTをダウンロードのページに掲示しておいた。

こうしてみると、甘いところだらけなのだが、2ヶ月ほど前のわたしの情報の記録としてみると面白い。

つまり、2ヵ月後のわたしは既に変化しているが、情報は変化していない、ということだ。

記録された情報とは意図的または恣意的に変更を加えない限りは不変のままなのである。

情報は不変、けれど人は変わる。

momo
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