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店主戯言040501  2004/5 /1〜2004/5/15 "There goes talkin' MOMO"


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2004/05/15 (土)  
【5・27桃熊会のお知らせ】

桃知@浅草で5時起床である。
眠い・・・。

町内は昨日より三社祭なのだが、わたしといえば、本日は葉月桃塾(空知建協葉月会さま主催の桃塾)の初日につき、8時のANA便で北海道へ向かうわけで、当然に今朝は忙しい。

ということで、本日は、突然「桃熊会」開催のお知らせである。

5月27日(木) 午後1時から午後5時30分
於:熊本現代美術館・アートロフト
電話:096-278-7500
http://www.camk.or.jp
セミナー受講料:3000円

第一部(1:00〜3:30PM)
熊本大学工学部教授・小林一郎氏+小林研究室
『情報化施工と3D-CG』
※小林先生は橋梁工学の権威で、熊本県CALS/EC推進委員会の委員でもあります。
近畿地建「大戸川ダム」や熊本県の「佐敷大橋」等、指導実績も多数お持ちです。

第二部(3:30〜5:30)
桃知利男
『「ハイブリッド」と「はいぶりど」』

懇親会参加費:5000円
於:菅乃屋・上通店(096-355-3558)
特に、懇親会参加ご希望の方は、早めにお申込下さい。

申込先
E-mail momotikumamotokai@hotmail.com

という按配なので、お暇な方も、そうじゃない方も、是非においでくださいませ。

わたしの演題は、「ハイブリッド」と「はいぶりど」なのだけれども、この講演用に小さなスピーカーを購入したのだ。(謎・・・というか、つまり、テーマは「音」なのである、が、つくずつ変なIT化だと思う)


ということで、今日の懇親会は、東日本で一番うまい焼肉屋「南大門」である。

2004/05/14 (金)  
【@宮崎】

昨日は、阿久根建設さまでの勉強会終了後、糸原さんに出水駅までお送りいただいて、「つばめ」にのる。(わすか二十数分なのだが・・・)

この新幹線は、新しいだけあって、さすがに素晴らしい。

フル規格なのだけれども、全ての車両の座席は4列であり、のぞみ、はやてでいえば、グリーン車と同じ配列なのだ。(ちなみ、つばめにはグリーン車はなく、全車両禁煙である)

4列シートであるので、当然に、一人当たりの占有面積はかなり広いのだが、その広さの理由は、4列だからだけではなく、シートのつくりそのものが、他の新幹線とはかなり違うからなのだ。

それはなによりも、背もたれ部分を含め、全体が薄く広いからであり、そしてシートが見事に身体を包みこむ感覚をもっているからなのである。

「薄さ」は、どうしても安っぽいイメージに繋がってしまいそうなのだが、このシートはちゃんと一工夫してあるところが素晴らしい。

それは西陣織と木の採用という意表をつくものなのだが、それはホントに素晴らしい造形と機能なのである。

これには、わたしは本当に驚いた。

そのデザインは(とても古い日本的なものなののリメイクの組み合わせなのだが)とても斬新なものとして、わたしの目には映った。

そして、もうひとつ。
このシートは、軽いのだろうなぁ、とも思ったわけだ。

詳しくは「つばめ」のサイトをあれこれみてほしい。

→わたしの願望。
 このつばめ型車両を、JR東日本は「はやて」に採用してほしいなぁ。


つばめの至福の時間はあっという間に終わり、1時間程の待ち時間を経て、鹿児島中央駅からは「きりしま」で宮崎へ移動。

わたしは1号車「グリーン席」にいたのだが、終点までの約2時間30分の間、この車両は、わたしの貸切だったのである。(つばめも空いていたし・・・大丈夫か?>JR九州)


ということで、昨晩は、橋邊さま植木さまとで、ホルモンで一献。
おかげさまで、今朝はしっかりとにんにく臭い。

その後、なぜか釜揚げうどんを食べて、日付が変わる前にホテルに戻り、ちゃんと寝たわけで、今朝は快調なのではある。

本日は、午後から宮崎地区建設業協会さまでIT推進員会。
終了後、帰京する。

2004/05/13 (木)  
【はいぶりっど】

桃知@阿久根市%雨&風が強い(大雨洪水警報)である。

 話は変わりますが、今年の新年独演会で、師匠が今年のキーワードは「ハイブリッド」であることを言っていたのを思い出します。
そしてこの理論をバーチャルとリアルの空間を通し体験し確立していきたいような事も言っていました。

 店主戯言にこの「ハイブリッド」という言葉が、いつ出現したかを検索しますと、2002/12/05 (木)【@札幌】■イントロダクションより出現して来ます。ここでは、「バーチャルな空間」と「リアルな空間」でのハイブリッド化、が書かれています。

 現在の「ハイブリッド」は情報が見える能力(係数a)を計数化だけでは理解できないような情報も、主観的に読み取る能力をつけることを(出力y)「ハイブリッド」と理解していいのだと思います。
(反省と言う行為の伴う世界)

 そして最近では急にひらがなの「はいぶりっど」が出てきました。
このひらがなの「はいぶりっど」がどうにも分かりにくものでした。
現在もはっきり言ってよく分からないのですが、「はいぶりっど」は反省の行為が伴わない世界で、狭くて濃い紐帯、感覚的、イメージ的であるということです。

 そこで私は何なのと考えました時に、もちろん「ハイブリッド」ではないし、この「はいぶりっど」にも及ばない存在であることに気づきました。と言うことはこれからまだ、「はいぶりっど」にも成れるし、「ハイブリッド」にも進化出来る。(きっと)

ここからもっともっと深く深く考えられないから「はいぶりっど」以下なのでしょうから、(もうこの辺で頭がパンクしそうです。)

まずは「はいぶりッド」に成れることを目標に頑張りたいと思います。

以上は、橋邊さまからのメールなのであるが、「はいぶりっど」を、わたしは、反省を経由しない認識の仕方、というような意味で使っている。

それは、皆さんが意識せずに生きている、今という時代の特性でもある、と理解している。(第二次声の文化)

つまり、その意味では、誰でもが「はいぶりっど」なのである。

「ハイブリッド」と「はいぶりっど」の理解には「広義の反省」(村上泰亮)の理解が不可欠であるように思う。(わたしもそれに気がつかなかったら、今頃こんなことはしていないだろう)

そしてそれには、「声の文化」と「文字の文化」の違い、テクスト(文字)というものでの理解を得たことによる人間の思考の進化、そしてそれによる個々人の自らへの無意識への働きかけ、というような哲学的なことを、あっさりでもよいので、触れてみることをお薦めしたい。


視覚(テクスト)は切り離す[解剖する] →文字の文化
音は統合する[聞くものを世界の中心に置く] →声の文化

これらのことのもつ意味は意外と大きい。

何気におこなう人間同士のコミュニケーションにおいて、わかるということは、ことばによるわかるが、ほとんどを占めてしまう。

わたしは、昨晩、阿久根建設の方々と懇親したわけだが(大漉の魚は絶品であった。さすが東シナ海)、その話される鹿児島弁は、ほとんど理解できないでいた。

つまり、わからない、のである。


しかしことばによる理解には、はなしことば(声=音)でわかる、と書かれたことば(文字=視覚=テクスト)でわかる、との違いも存在する。

テクスト(文字)の発見は、自己にある無意識の発見とつながり、さらには反省の次元の発見にもつながってきた。→視覚(テクスト)は切り離す[解剖する] 

しかし、テクストさえも一旦声化していることで、我われは意味を理解をしている。

それが声の文化→文字の文化という思考の進化が生み出した、我われの意味づけの仕方なのだろうが、今という時代、つまり、第二次声の文化の持つ特性は(それは印刷の発明にさかのぼるのだが)、個人的に文字が書くものから、大量に印刷されることで読むものへと変化したことから生まれたもののように思う。

つまり、書かない私(情報を消費するだけの私)は、テクストによる「反省の次元」を忘れ、「無意識の次元」をそれこそ無意識に生きている。(それを「はいぶりっど」と呼んでいる)

そして書くことは、限りなく声化・音化してしまうのである。

文字の声化(声的な文字)は、今やインターネットの世界に氾濫しているだろう。→BBS、掲示板、ケータイメール。

わたしはそれをインターネットの精神文化だとは思えないのである。
当然に、広くて薄い紐帯でもないのではないか?

狭くて濃い紐帯が、インターネットの世界に棲家を得ただけでしかないのではないのか?

そこにあるのは安心ではないのか?
一般的な信頼はあるのか?

という問題意識を持って、考えている。

インターネットの世界をみたとき、そこに溢れるのはテクスト、記号である。

しかし、それも我われの思考の進化なのだとしても、あくまでもそれらがテレビやラジオのように、一方通行だけであるなら、インターネットは、単なるテレビとラジオの延長系でしかないだろう。

そしてインターネットにおいても、書かない私は、テクストによる「反省の次元」を忘れ、「無意識の次元」を、それこそ無意識に生きるだけだろう。(はいぶりっど)

ということで、今日のわたしは、昨日に引続き午前9時より阿久根建設さまで勉強会。

終了後、宮崎へ移動なのである。

2004/05/12 (水)  
【ハイブリッド と はいぶりっど(何回目か?)】

昨晩は早めの就寝だったので5時に起床。
そのせいもあってか、仕事は危地的に進捗が悪く・・・。
といいながら、8時の飛行機に間に合うように家をでなくてはならないし・・・。うみゅ。


今日は、とりあえず昨日の【自己呈示とか表現とか】の続きを書こうか、と思う。

まず最初に、昨日の話題は、皆さん、それぞれの受け止め方をしていただいたようで、まさに、y=ax なのだなぁ、と思う。
まあ、わたしの表現にも、大いに問題はあるが・・・(笑)

わたしのいいたかったことは、「消費のミーム」とは、模倣と増幅なのであり、それも、かなりの部分で他人とのつながり(表現)に関係する模倣と増幅である、ということだ。

マスコミが流す情報の信憑性とか、ビトンを購入する人間は下品だとか、そういう批判をしているのではなく、そんなことはどうでもよいのである。

そんなことをいまさら批判しても、なにもはじまらない。

わたしが昨日の最後の部分で書いたことは、買う(モノ)を記号コードとして、つまり言語活動として、コミュニケーションと交換のシステム(表現)とするのか、それとも、モノに頼らない表現(つまり「ハイブリッド」な出力-y-)によって、コミュニケーションと交換のシステムとするのか、ということの基底に流れているものは、たいしてかわらない。

だから、我われは、たいして自分自身に疑心暗鬼にならずに生きているのだ、ということである。

つまり、「はいぶりっど」な社会では、批判は批判にならない。
それもまた、ただの記号になっちまうだけである。

だから、我われが直面している現実とは、そうであれば、それをちゃんと理解することから始めなくてはならない、ということだ。


つまり、最近のわたしの興味というのは、「消費のミーム」が、どのように構築されていくのか、ということであり、それをさまざまなアプローチから考察しているだけである。

なぜなら、「消費のミーム」が模倣と増幅の繰り返しなのだとすれば、一時、一断面の「消費のミーム」の逆もまた真となりえるのだろうなぁ、と曖昧に考えるからである。

まずいがうまい
うまいがまずい

それは「技術のミーム」と「消費のミーム」がこんにちわをして、「情報的相互作用」(村上泰亮)のしている途中の断面なのである。

ミームは動的に変化し続ける。

だから、「情報的相互作用」の一断面である「消費のミーム」としての「公共工事ダメダメミーム」も、動的に変化し続けるのだろう、とわたしは考えている。

ただし、それが、世間(日本的市民社会)という主体のものであることで、決定的な意味を持っているだ、と考えている。

「はいぶりっど」な時代に、マスメディアは世間を向き情報を発信し、世間はまた情報を作り出す。
「はいぶりっど」は、情報の略画的模倣を増幅する装置なのである。

それは、マスコミの一方的な情報発信から生まれたものではなく、むしろゴフマン的情報の相互作用による情報の再生産のようなものであろう。

『エゴ(=自分)が他者の前に自己自身を呈示するとき、彼の行動が全体として実際に吸収し、具体的に示している以上に、彼のパフォーマンスは社会の公的に評価する諸価値を吸収し、具体的に示そうとする傾向がある』(E・ゴフマン)

それは、たぶんに恣意的であり、微妙さを孕むものであり、そこでの情報は、えてして、発信者の予想もつかないシニフィエになり、それはさらに、シニフィアンを生み出し、されにそれがシニフィエを生み出す・・・という、どうどうめぐり(というか、意味の入れ子のようなものだと感じている。

世間に根を下ろしている「はいぶりっど」とは、それをアナログコピーし増幅する装置なのである。

逆に「ハイブリッド」は、情報の誤植を極力減らす方向へ我われを導くだろう。
→情報が見える能力(係数a)
(言語による「分け方」はデジタル化なのであり、デジタルコピーのようなものなのだ)

しかし、「はいぶりっど」な「消費のミーム」に、それ(ハイブリッド)を求めても難しい。

なぜなら、我われは、たいして自分自身に疑心暗鬼にならずに生きているじゃないの、ということになる。

だからといって、「公共工事という産業」が消費(モノ)を表現に使えるのか?といえば、それは難しいだろう。

つまり、我われ(「公共工事という産業」)には、「はいぶりっど」な表現こそ困難なものであるのに、やっていることは、相も変らぬ「はいぶりっど」なのじゃないかい、というのが、昨日の戯言のいわんとしているところなのだが、裏読みの期待が大きすぎたか・・・。(笑)


多くの表現者(広告の世界でいえばマーケターと呼ばれる方々がこれにあたる)は、そこでは、経験に裏付けされた、表現者としての己の直感(sense)のようなものを信じ、その編集にあたろうとするのだろうが、ことビジネスの世界では、表現者(=判断者)が、主観的であることに対しては、非常にストイックなのである。

しかし、現実には、我われは少々の計数的客観性と、それよりはずっと大きな主観によって、ものごとの判断を迫られているに過ぎない。

それは、消費のミームという、略画的世界が、たぶんに恣意的であり、計数化が難しいからに他ならないのだが、だとすれば、表現者としての判断者は、計数化だけで理解できないような情報(第二種情報である)を、主観的に読み取る能力が少しでも多く必要であろう(それは、あたかも優秀なマーケターのようにである)。

そして、そのときに必要とされる表現者の態度が、わたしにとっての「ハイブリッド」なのだ、ということであり、それは、短絡的理解過ぎるかもしれないが、世阿弥のいう「秘すれば花」としての芸なのだ。

つまり、「はいぶりっど」な時代に、「はいぶりっど」な解釈をすることだけでは、我われは、ただ自らも「カオナシ」として、単なる、消費とモノを記号とする表現者であることで終わってしまうだろう。

それが、「公共工事という問題」の解決には、なんの寄与もしていないことを、再確認していただければ、と思うのだ。

ますは、わが身からであろう。
という呪縛をかける・・・のである。(笑)

ということで、今日のわたしは、鹿児島県は阿久根建設さまで勉強会なのである。

2004/05/11 (火)  
【自己呈示とか表現とか】

『エゴ(=自分)が他者の前に自己自身を呈示するとき、彼の行動が全体として実際に吸収し、具体的に示している以上に、彼のパフォーマンスは社会の公的に評価する諸価値を吸収し、具体的に示そうとする傾向がある。』(E・ゴフマン)


桃知@断酒は、はや3日が過ぎ、体調はすこぶるよいのであったが、この二日間で予定していた原稿を書く、という仕事は、まだ、ぜーんぜん手付かずであり、今日はなんとかしたいと思うのだが・・・(わからん)。


さて、昨日の晩飯は近所の洋食屋にハンバーグを食べに出かけた。

繁盛店なのだが、珍しく店内に客はおらず、わたしの両親程の年恰好の店主夫婦が、カウンターで8チャンネルのグルメ番組をみていた。

それは、視聴者から推薦のあった店に、局のアナウンサーが取材(というか食べに)訪れ、そのレポートを見た、スタジオのゲストと観客が、その料理を「たべたい」かどうかを点数で評価し、その点数によって、店の所在地(地図)がより詳細に拡大されて画面に映し出される、というものであった。

正直、わたしは宣伝にはなるな、と思ったのだが、おかみさん曰く、この番組の取材依頼がきているのだそうである(それで夫婦揃ってTVをみていたそうだ)。

しかし、この番組をみていたおかみさんは、やっぱり断るわ、というのだった。

わたしは、そのlことばを聞いた瞬間、ああ、もったいない、と思ったし、なに気取ってんだろうねぇ、とも思った。

しかし、今度はご主人曰く、食べもしないで料理を評価することなんてできるのかね、である。

ああ・・・、とわたしは打ちのめされた。
(自分で書きながらでなんなのだが、この表現はやや大げさである。が、そのぐらいのインパクトを、主人の「ことば」はもっていた)

さすがは職人、というべきなのだろうか。
わたしのような俗人とは、もっているプライドが違う。

この番組で料理を評価する方法は、料理を実際に食べてのものではなく、料理を実際に食べているレポーターの表現をみてのものであり、その評価とは、料理に対する評価、というようりは、レポーターの表現に対する、己の思い込み度のようなものなのだ。

それが職人魂にカチンときたのだろう。


たしかに、我われのまわりにあふれるグルメ情報は、己の実体験をまったく経ずに、なにかイメージだけが一人歩きしているものが多い。

それをあたかも自分の経験を経たもののように錯覚してしまうところが人間にはあるのだろう。そしてその情報に、今まで何度裏切られたことか・・・。

まずいがうまい
うまいがまずい

わたしについていえば、実際に自分で食べたものに対しては、それなりの自分の評価がある。(解釈学的な蔓の情報「第二種情報」)

(と考えることで)、世の中に溢れる情報が、わたしの思うそれとは全く正反対であっても、その評価を変えることは、まずはない。

わかる、とは、「ことば」で分けることだが、しかし「本当にわかる」とは、やはり、身体が覚える、身体で分かる、ということなのだろう。

つまり、それは己の五感を駆使した解釈学的な「わかる」なのであり、それはつまり「わたし」がちゃんと「わかる」ことなのだ。

しかし、「表象」のもつパースペクティブ性というやつは、それが「ことば」(記号)としてあらわれた途端に、他人の「わかる」を自分の「わかる」にしてしまう。

それも本来解釈学的である「第二種情報」をだ。
恐ろしきは、人間の脳味噌である。

それが模倣と呼ばれるものであり、共感と呼ばれるもので、文化の源であり、社会的な存在としての人間のもつ生来の癖なのではあろう。

しかし、わたしは、なによりも自分でちゃんと「わかりたい」と思うのだ。
ちゃんと「わかりたい」と思うこと、これが「ハイブリッド」である。

であれば、地を這うしかないだろう、というのが「わからないという方法」なわけで、なので昨晩も「わからないという方法」で食べた。

店の名前は秘密だけれど、うまくてボリューム満点!とだけ書いておこう。


さて、先日の日曜日は、たまには家族で銀座へ、ということで、松屋のルイ・ビトンのコーナーへ家人と出かけた。

銀座松屋のビトン売り場はでっかい。
二階建ての売り場なのである。

そしてそこには、溢れんばかりの人がいた。

わたしは、失われた20年の後半(今のわたしのことばだと「はいぶりっど」な時代)には、ビトンのセカンド・バックとブリーフケースと財布と、それからその他諸々たくさんを購入・所有(つまり消費)していた(いまでも、探せばどこかにはあるのだろう)。

だが、今は、(なぜか、単純に)まったくこのブランドには興味がなくなっているので、商品など観察するわけもなく、本当に沢山いらっしゃる「お客さん」の観察でもしようと思ったのだが、特段変わった方々がいらっしゃる由も無く、直ぐに飽きた。

東京は景気がよい、とはいうが、銀座に、1個数万円から数十万円もするバックなどを(最近は洋服や靴や時計まで売っているようだ)買い求めに、沢山の方々が集っている姿は、やはり異様としか思えない。それもGAPの紙袋を提げてだもの。(笑)

「エルメスと100円ショップ」、「ビトンとユニクロ」という、いささか使い古されたタームが頭をよぎった。(これもミーム)


しかし、異様であろうがなんであろうが、これも「今という時代」に現実に存在する「消費のミーム」なのではある。(「はいぶりっど」な)

わたしが、消費に、「ミーム」ということばを使う意味は、このような消費のスタイルは、人間が社会的な存在であるから故のものなのであり、純粋に自然に湧き出てくる人間の欲求ではないだろう、ということである。

つまり、この行動の源は、個人の欲求というようりも、種にある文化が個人に内面化された結果なのだ、ということだ。

わたしは、「エルメスと100円ショップ」、「ビトンとユニクロ」というような消費のスタイルは、ヘンだ、とは思うが、特段良いとも、悪いとも思わない。

そのような行動(選択)が少なからず(全然少なくはないのだろうが)おこなわれているのは、これが文化として(文化が生み出した)消費スタイルに他ならないからである、と考えるだけである。

わたしはこれが、ヴェブレンのいう「みせびらかしの消費(衒示的消費)」(差異表記記号を通した明示的なステイタスの誇示)である、という指摘も否定しないけれども、ボードリヤールの消費に関する次の指摘は、頭の片隅に入れておいても損はないだろう、と思う。

1・消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
2・消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
3・消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号コードとして、つまり言語活動として定義される。
(「記号の経済学批判」)

消費の定義はむしろミームにある。(だから消費のミーム)
そう考えると、消費スタイルとは、「模倣」されたものなのである。

模倣の推進エンジンは、「差異」確認による自分の位置確認(他人とのつながりの確認)だと考えるのだが、この意味で、今という時代のヴェブレン的消費の見せびらかしは、もっていない者に対するものではなく、もっている者に対する自分の位置の再確認なのかもしれない。


ところで、わたしといえば、その昔、ビトンを消費していたころを考えると、それがわたしの心の中にある、なんだかわからない隙間を埋めていたのは確かなのである。

それじゃ、なぜ今は興味がないのか、といえば、わたしは、ビトンを消費することにかわる、こころの隙間を埋める方法をみつけたからであろう。

それが「ハイブリッド」(出力・表現を伴う反省の行為)である、と自分では考えているのだが、であるとすれば、ブランド品を消費することと、「ハイブリッド」は、人間のもつ、同じような心理的特性から生じていることには、ならないだろうか。

わたしは「なる」と考えている。
それを「自己呈示」と呼んでよいのだろう、と思う。

つまり「表現」はそのひとつである。

ということで、今日のわたしは原稿書き、というプレッシャー付きの休みなのである。午前中は、浅草寺に行かなくてはならないのだ。

2004/05/10 (月)  
【法政大学エクステンション・カレッジ らうんどつー(その2)】

長谷川さんの代理に出席された奈良さんの反省文が、メーリング・リストに届いていたので掲示。

長谷川です。
早速、奈良からの報告が入りました。
当社のイントラからの転載です。


人を育てる建設業IT化講座に出席して・・・
差出人: 奈良英樹(工事部) 2004/5/10(月) 11:31

5月8日、長谷川社長が出席する予定だった標題の講座に代理として出席して参りました。

桃知先生には、前日弊社にて講演して頂いたのに引続き連日の受講となった為、 自分では急激にお近づきできたものと思い込んでおります。

その前日の講演後、急遽自分が社長の代理で標題講座に出席する旨を長谷川社長より桃知先生に伝えられました。

その際に「受講するに当り、今からできる準備は何ですか?」
と桃知先生へ尋ねた処、
「『反古典の政治経済学要綱』の第4章を読む事。」
との回答であった為、家に帰り一夜漬けで何とか読んで備えました。
(というより「眺めて」が正しい表現か・・・)

「難しい内容だよ。」と聞いていた通り、 自分と違う次元の内容である事が即座に判明した為、眠気との戦いとなってしまい、 はっきり言って全く理解不能状態で、不安なまま受講となりました。

自分がその本と格闘している頃、 桃知先生を囲む懇親会を我が社屈指のベテランチーム?により開催されていました。

翌日判った事ですが、桃知先生は相当量呑まれたのか、 もしくはよほど体調を崩されていたのか、随分苦しまれたようです。
(しかし、講座開始時にはほとんど平然とされていました。すごい回復力&気力!)


さて、講座の内容なのですが、 特別にプログラムはなかったようなので、
 @砂子組熊谷部長によるPPTへの取組み状況発表
 A桃知先生による講義(前半)
 B桃知先生による講義(後半)
だったと自己解釈させて頂きます。

@では、
熊谷部長の、人の良さそうな優しくかつ熱意のある口調で、 砂子組さんが今までに制作した竣工時PPTの代表作(2作)を部分的に見せて頂きながら、更にこの講座用に用意されただろうPPTを用いて、 それに沿った砂子組さんの今までの取組み状況の発表がなされました。

実は熊谷部長の発表を拝見させて頂くのはこれが2度目でした。
昨年11月に行なわれた「建設フォーラム」において聴かせて頂いたのですが、 熊谷部長は、その時よりもぐっと締まった発表をされるようになられたなと感じました。(偉そうに言ってますけど・・・)

多分今回は、もう気心の知れた中での発表で、のびのびとされていたからかな?

しかし、砂子組さんの現場代理人の方々の発想と行動には、 改めて目を見張りました。

自分も現場代理人として、現場で業務を行なう事がありますが、 これほどまでに真剣に現場へ取り組んだ事があったのかな?と思うと少々情けなくもあり、まさに「反省」させられました。

北海道と茨城との環境・人間性の違いはともあれ、 発注者はもちろん地域社会へ強力にアピールできるのは本当に凄いですね。
そして、何よりも「情熱」の必要性を痛感させられました。

A・Bでは、 桃知先生によるまさに「ももちワールド」でした。

自分は幸い、前日に会社で基礎講座?を受講していた為、 すぐに馴染めるお話でした。

「千と千尋の・・・」に始まり、「アイフル犬」への展開。
但し違っていたのは、前日の説明が「初心者」へのものだとすると、当日は「ももちワールド先住民」へのものだった事でしょうか?

桃知先生は、多分使い分けされたのでしょうが、 話法自体が、幼稚園生と大学生くらいの違いがあったように思います。

いずれにしても先駆けて聞いていた為に「おさらい」として良く理解できた部分だと思います。

しかーし、「反古典の政治経済学要綱」の内容に話が及んだ際には、自分の理解力のなさを感じ、がっかりしました。

何よりも、桃知先生がおっしゃっていた”語彙”が貧困な為に何を言ってるのかさっぱり・・・の部分が多々ありました。 (これから語彙が増えるよう努力せねば・・・)

それに対し、桃知先生の持っておられる知識には改めて驚きました。
まず、いろいろな本を読まれ勉強されている。
そして、物事をあらゆる角度から柔軟に理解されている。
更にあの人を引き付ける話術。

「努力する、型破りの天才指導者」
失礼勝手ながらこう思いました。(ちなみに読んでみると良く分かりませんね。)

あとは、竣工時PPTがクローズアップされる中、 桃知先生曰く「『施工前』段階でのPPTを制作する。」ですが、 全くその通りだとは思います。

ただ、まだそれだけのものを作る能力はないのが事実で、 今後のスキルアップがより要求される・・・。

とにかくこの講座で理解できた点は、
 @.第U象限(市民社会)で生きていくように頑張る。
 A.”反省”行為を怠らない。
でありました。(これだけで良いのだろうか?)


講座終了後・・・

用事があったお一人を除き、懇親会が開かれました。
桃知先生は、宣言通り?ウーロン茶を飲まれていました。
あそこは多分「焼き鳥屋」なのでしょう。

なんか良く分からないけれども辛い鶏肉が非常に美味しかったです。
(ここで初めて明かしますが、デジカメを自車内に忘れてしまい、 何も撮れずショックでした。その為画像が全くないのです。)
桃知先生とはここでお別れとなり、その後二次、三次、四次会へと続きました。

非常に久しぶりに呑んだので、とても楽しく、そして呑み過ぎました。
(翌日の午前中は使い物にならなかったです。)


今回、温かく新参者を受け入れて下さった桃知先生はじめ皆様に感謝致します。
又、このような場を与えてくださった長谷川社長に感謝致します。
もしも機会があるのならば、また参加したいです。

ありがとうございました。

非常に立派な反省の文である。

土建屋は文章を書けない、といった某県の建協の会長さんがおられたが、ちゃんと書けるのである(勿論、書く機会とその「場」がなくてはそれもできないが・・・)。

その機会を提供するのも経営である。

そしてその機会としての自らの自己言及(self-reference)の「場」がイントラネットだと、社員自らがきちんと理解して行動するのは、種の力(平和建設ミーム=哲学)であろう。

それはつまり経営の基底に流れる重低音のことなのだが、それは静的ではなく、常に動的に変化している。

その変化のエネルギーこそが、個々人の反省の行為なのであり、こうして奈良さんは、自分の持っている世界イメージを、またひとつ重ね書きしているわけだ。

それは、奈良さんだけのミームではなく、同時に種の力(平和建設ミーム)に上書きされることで、また種の力(平和建設ミーム)も動的に厚みをましていくだろう。

あっぱれ!である。(笑)



【法政大学エクステンション・カレッジ らうんどつー】

まにあ・1号さまのレポート

■砂子組・熊谷氏講演■

【地域とともに歩む建設業を目指して・・・】

・砂子組さんがOA化からIT化に取り組んできたあゆみを時系列 に沿って紹介。
・イントラの取り組みを紹介・砂子組の「表現型」としての「竣工検査時発表PPT」を紹介

サイボウズでのイントラ構築から桃知氏への出会いそして、表現型としてのPPTに至るまでの流れを、折々の苦労談を交えて発表。

OA〜IT化へのあゆみは、「経験・知識・ノウハウ」といった資産がかつては完全に全てが「個人に帰属」し組織としての力になっていなかったところからスタートと回顧される。

イントラネットが現在は会社の業績に大きく寄与している点を強調。それは、「会社の業績は現場の実績」であり、それは「現場は代理人の意思決定」によりもたらされるものであるとの事。

その意思決定は何によりされているかというと、周囲の状況、社長のアドバイスなど、つまり、代理人の「意思決定への要素」イントラにちりばめられているとの事。

そして、現場代理人が自らの意思で市民社会へのコミットメントを目指そうとし始めている事がイントラにより加速されていると説明。

< 現場PPTとう反省の行為の効果 >

1:着工から竣工までを客観的に振り返ることが出来る。
2:あの時こうしておけば・・・という「反省」が見えてくる。
3:現場運営上のポイント(問題点)などが見えてくる

IT化とは仕事全般に付加価値を与え、信頼を売る事である。企業の目的は儲け続けることである。それは現場で稼ぐ!と言う事である。

しかし、最近は「それだけではないのではないか?」と感じているとの事。現場代理人はサラリーマンではない。時代が変化しているので、常にみずから変化しようとし続ける、変わろうとし続ける、この姿勢こそが大切なのではないかと感じてきているとの事。

そして、この「PPTをまとめる事」が目的であってはならない。常に変革を求め、変わり続け、変化を楽しめるようになりたいとの事。

< 所感 >堂々として、胸を張られた発表態度には感心させられた。また、地域住民への真摯な取り組みが受け入れられ、「感謝」された事例には感動すら覚えた。

自分の自分達の仕事に対し、誇りを持てている姿勢にはうらやましさすら感じるほどであった。

・素晴らしい発表に感謝します。ありがとうございました。


■桃知さん講義■

【今の時代に中小建設業がIT化でめざすもの】

(公共工事依存型の)建設業は自ら事業を起こしているわけではなく、(あたかもそう思えてしまうが)実は消費のミームからの「のれん分け」なのである。つまり、「公共事業という産業の、のれん分け」とは「発注者からの、のれん分け」と言う事が出来る。

中小建設業の本家本元はつまり発注者である。発注者から「のれん分け」をしてもらう上で(建設業を営む上で)最低限満たさねばならないものが「建設業許可」「経審の点数」「営業年数」「ISO9000S」など、つまりこういったものを持っていれば「店」(建設業)を営んで良いということであったわけである。

本来「のれん分け」とはのれん分けした先が自立するようにする。親を超えて自立しようとする。これが本来の意味での「のれん分け」の世界でであるのである。通常、親・本家本元はのれん分けした先への物心にわたる支援はいつまでもない。

ところが、親・本家本元である発注者がいつまでも支援を続けてしまったというのが現在の建設業の姿なのである。なので、のれん分け先がいつまでもひとり立ちできない。のみならず、支援がとぎれてしまったとたん、のれん分け先が(自立できないがゆえに)ばたばたとつぶれてしまう・・・これが現状の姿なのである。

われわれ(地場型中小建設業)が現在直面している状況は、市民社会からの「公共工事ダメダメミーム」、つまり市民社会の台頭という現実なのである。この環境下では本家本元の発注者が「市民におもねざるを得ない」という現実がある。つまり、発注者が消費のミームたる市民社会に対し説明責任を果たしえない状況になってしまい、本家本元がのれん分け先である中小建設業とミゾをつくってしまう。のみならず、中小建設業を切り離してしまう。(保身)という状況がおこってしまう。

切り離されてしまった建設業界は何処へ行けばよいというのだろうか?混沌(カオス)の世界しかない。


本家本元が役所だけであれば、役所だけを裏切らないやり方だけで実はよいのである。つまり役所から言われた事だけ忠実にやっていればよい。ところが、本家本元たる役所からの「のれん分け」の条件は前述の通り「建設業許可」「経審」・・・などであり、実は、これは極めて模倣しやすいものである。つまり、本当の意味での競争力、差異などははじめからないと言えてしまうものである。そこへきて、昨今の発注者側はともすると業者をツブそうとしている。(できれば半分くらいまでに・・・・?)

競争力、差異がなければ何処の業者をツブしてもかまわないのでは?

これからの時代は、真の意味での競争力、差異を求めていかなくてはならない。そのアプローチは「公共工事の民間的アプローチ」である。ターゲットは当然に市民社会。

情報化の目的はコアコンピたんすを目的と知った経営にある。しかし、いまの建設業に真に経営資源を集中すべきコアは本当にあるのか?

ウチにしか出来ない仕事!、俺にしか出来ない仕事!と思っていても実は他で出来るところが沢山あり、出来る人が大勢いる。他に頼んで出来てしまうような事は本当のコアではない。

現在の、「のれんの発行元」は市民社会であるということに気づかねばならない。業界内では、信頼、安心していた状況も、外(市民社会)からみると信頼でもなんでもないのである。

かつては、のれん分けの本家本元としての役所の言う事だけを聞いて来た業界だが、これからは真の、のれん分けの本家本元としての市民社会との信頼の構築に向けて踏み出さなくてはならない。(役所をつらぬいて・含めて)市民社会に「思い」を届かせる。

ここに至り「のれん」とは「コアコンピタンスそのもの」と言い換えることが出来る。ここでの、「のれん」「コンピテンシー」とは

環境(消費のミーム)市民社会との関係性・信頼の編集能力

である。そして、ここにITを用いるべきなのである。


【そして、その具体的戦略】

きっかけとしてはどうしても、「事業者団体(建設業協会)イントラ」が欲しい。

1:協会イントラでの発注者との「共生」

2:着工前PPT、施工計画PPT等で完成構造物をイメージさせてしまう。

3:協会イントラでの現場情報の共有  市民社会はここにはまだ入れない。市民社会にはHPなどで現場情報を公開する。

4:竣工時PPT。ここで公共工事という産業の「種」を超えて市民社会へ「表現する」


【はいぶりっど・と・ハイブリッド】

ハイブリッド:デカルト的自我の世界、無意識の世界、反省と言う行為 の伴う世界。

はいぶりっど:匿名性、イメージ化、反省と言う行為を伴わない(考えない世界。

文字の文化から声の文化へ。人間は文字を用いるようになり「反省」という行為が生まれた。文字は言葉で意味をつけて「自分と他の事物」を分ける(外から見る)音(声)は「自分を事物の中心に置く」(自分が中心)

つまり、

・文字で表される世界・・・自分は分けられて事物の外・音で洗わせられる世界・・自分は事物の中心

TVがイメージ化、匿名性、考えない・・・という文化を創ってしまった。現在の市民社会(個々人というより世間)は匿名性のゆえに、人(他人)の言葉を借りてモノをいうのが特徴である。従って、「市民社会とコミットする」というコトは、どの時代よりも感覚的な時代であると言う事を踏まえて、判りやすく「現場を」「建設業」をアピールすべきなのだ。

1:発注者を貫き(含めて)市民社会にアピールする(PPT,HPなどで)2:市民社会から帰ってくる「情報」を見る(これには情報をみる力がど  うしても必要)3:反省4:反省を踏まえ、改めて、発注者を貫き(含めて)市民社会に再度アピールする。

この1〜4のステップを限りなく何度も繰り返す。

【村上亮泰抄読:第4章】

あまりにも難解で、まとめきれず。改めて復習(反省)の後まとめます。

「あまりにも難解で、まとめきれず。改めて復習(反省)の後まとめます」とのことなので、講義で使ったPPTに補足を入れておきましたので、受講生の皆さんは「反省」用にご利用いただきたい。

「らうんどつー」用PPT→ BDHELP0402.zip 3.1MB


次回は、第五章をできるところまで「読む」が、今まで2回の講義を受講されたことで、驚くほど内容が咀嚼できるようになっている、はず・・・なのである。

ただ、「社会的交換」という、講演では絶対にやらない部分の理解が少なからず必要となるので、参考文献として、できれば下記を読んでおいて欲しい。


cover 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎(著)
1988年5月20日
講談社現代新書
700円(税別)







2004/05/09 (日)  
【完全休養日】

今日のわたしは完全休養を決め込んでいた。
なので、吉谷さんからいただいたアミノ酸の塊を飲んで、休んでいた。

吉谷さん、ありがとう。m(__)m


さて、老婆心ながら師匠のハードスケジュールから来る過労について気にしておりましたが、師匠は最近ウコンをお飲みですが、ウコンは肝臓の機能を助け、胆汁(解毒作用)を通常の1.5倍となりますが、最近気が付いたのは、ウコンだけでは、極度のストレス、暴飲暴食?、睡眠不足から来る肝臓への負担は軽減されないと言うことです。

私も飲み始めは、効果がありましたが、日に日に薄くなる効果について疑問に思うことが多くなりましたので、薬局へ行き探してみました。

自分で自分を語れば、自らもハードスケジュールが多いので、お酒を飲まなくても
ストレスが肝臓に溜まり、肝機能を低下させてしまう事を実感しています。
特に、春先は花粉症の薬を飲み続けますので、肝臓にも負担をかけてしまうようですが。
そこで。。。

ウコンの効果を更に上げるとのと、肝臓の細胞の再生を促すヘパリーゼと言うアミノ酸の塊を最近飲み始めましたが、ことのほか調子が良くなっています。

http://www.kusuriyasan.org/tokidoki/heparyezepurasu.htm

法大での講義内容については、明日のココロダ。

2004/05/08 (土)  
【胃液吐くまで(By つるちゃん)】

昨日の平和建設さんの勉強会について書きたいのだが、なにせ、目覚めたのは9時過ぎ。

なぜかというと、なんだか不調なのである。

昨晩は、折角いただいたおいしいものを(まるで、千と千尋にでてくる「カオナシ」のように)全てもどし、帰りの車(平和建設さんの車でお送りいただいたのだ。感謝)では、死んだように爆睡。

そして、帰ってからまた胃液を吐くという体たらく。
今朝起きたら、片岡鶴太郎の歌う「胃液吐くまで」という曲が頭の中でリフレインしていた。

どこかが不調なサインなのだと、理解はしている。
でも、今日も法大エクステンションカレッジなのである。

家人からは、酒を飲んだら→生き地獄、という謎のことばをいただき、わたしは呪縛されてしまっているわけで、今日のわたしはウーロン茶の予定である。

長谷川社長からいただいてきた、ウコン茶でも飲もう、と思ったらうまい具合に長谷川さんからメールが届いた。

おはようございます、長谷川です。

先生の講演、本当に素晴しい!
とっても素敵でした、熱かった!
先生の発言「平和建設は30度ヅレている!」には爆笑。
さらに「長谷川紀子は変!」にも可笑しくて爆笑でした。
みんなの顔には明らかにくったくのない同調の笑顔が・・・?!
私はなんとも複雑な気持ちになりましたよ。(汗

昨日は久しぶりにとっても感動いたしました。
なんと言っても弊社で社員と一緒に聴けた講演は最高でした。
さらにこの一年で私の理解が進んでいる事実に気付き喜びました。

そして今朝、サイボウズを見てビックリしてしまいました。
早朝、5時28分から書き込んでいる今関部長、他の管理者達の堰を切ったような書き込み、なんかうるうるしてしまいましたよ。
今日の朝だけで、書き込みが30、40以上もあるのです。
桃知ライブの効果がテキメン!
こんなに反応の良い社員がたくさんいることに感謝いたしました。

桃知先生、どうもありがとうございました。
会社の成長と社員の成長、自己実現や達成感をグッドマッチさせて
これからは可能な限り「地域社会に羽ばたく建設会社」を目指します。

今後とも、ご指導よろしくお願いいたします。
それでは、取り急ぎ昨日の御礼まで。
ごきげんよう。

2004/05/07 (金)  
【声的な文字】

午前5時起床。
浅草の朝は今一冴えてこないが、昨日よりは確実に温かな日となる予感のする色の朝である。


昨日は、習志野市建設協力会さまにて、協会イントラネット(サイボウズoffice6)の利用講習。
予想よりもスムーズにことは運ぶ。

この取組にあせりは無用である。
しっかりと地に足をつけて、除除に自らをステップ・アップしていけばよい。

我われはなにかに向かって動き始めたのである。
その「なにか」がなんだかよくわからなくてもよいのである。

「なんだかよくわからないけれども大切なもの」は、きっと皆さんの心の中でひっそりと胎動を始めていることだろう。

我われが、これから、自らのために、そしてパースペクティブ的に他者のために、考え、学ぶことは、山ほどある。

それは、、IT化を実践するときに孕む、「自分さがし」というようなものかもしれない。


cover 『声の文化と文字の文化』

ウォルター・J・オング(著)
桜井直文他(訳)

1991年10月31日
藤原書店
4305円(税込)






(↑)は、最近のわたしの「はまりもの」である。

人間の文化は、声の文化→文字の文化→第二次声の文化、と変化してきた、と考えることができる。

今という時代とは、「第二次声の文化」である。

それ(第二次声の文化)は、わたしのいう「はいぶりっど」(反省の次元のない理解と出力)としての文化なのだが、それさえも「文字の文化」を経てきたものゆえに(歴史経緯的)、始原的な「声の文化」とは既にわけが違う。
(始原的な「声の文化」など、もう知る由もないのである・・・。声は消えてしまう)

例えばわたしは、リアルなコミュニケーション(狭くて濃い紐帯)も、バーチャルなコミュニケーション(広くて薄い紐帯)のどちらも大切だ、といういいかた好むが、この理解には「はいぶりっど」としての「第二次声の文化」の理解はやくにたつだろう。

つまり「狭くて濃い紐帯」とは、主として「声の文化」を基底にもつものなのであり、「広くて薄い紐帯」とは、主として「文字の文化」を基底にもつものなのである。

我われはこの二つの紐帯の「ハイブリッド」の時代に、「はいぶりっど」として生きている。

「はいぶりっど」、つまり、反省の次元を経由しないでものごとを理解し、表現しようとしてしてしまう。

その「はいぶりっど」な言説は(文字を使うにしても)、浅く、感覚的でありイメージ的であり、はかない。
そこでは、論理的な「ことば」は既に失われてしまっているのである。

そのような「はいぶりっど」な言説とは、文字の「声化」なのだと感じている。
そして、「この文字の声化」は、音の持つ性質に重なるだろう。

視覚は切り離す[解剖する]。
音は統合する[聞くものを世界の中心に置く]→現場PPTにおけるBGMの効果を見よ!

文字の声化(声的な文字)は、今やインターネットの世界に氾濫しているだろう。
→BBS、掲示板、ケータイメール。

声的な文字は、文字を見る(視覚→読む)自分を、本来その対象の外側にいるところから、音的に世界の中心に置くことで、自らに「ひきこもる」今という時代に生命をえた。(これは音楽の「音」の持つ力でもある)。

しかし、これらは一概に悪いもの、とはいえないのである。

声化した文字による「はいぶりっど」的なコミュニケーションは、声を失った「世間」にとっての「ある種の共感」の足場と表現の技術を生み出したのかもしれないからだ。

たしかに、なにかで「つながっている」という感覚は存在している。

しかし問題は、そのなにかでつながる、ということの意味である。

それが、「カオナシ」としての「世間的つながり」(狭くて濃い紐帯)に容易に陥る危険性は、(それが声的であるが故に)高い、ということである。(インターネット社会の匿名性)

これをあえて(よくないものとして)意識して「書こう」というのが、わたしの意図するところである。
故に、わたしのコンサルテーションは、あえて「匿名」を否定している。

しかし、本来、言霊として人の心に響く「ことば」とは、「声の文化」(たとえば「芸」)の持つ音の魔力である。

言霊とは、本来「声の文化」のものであろう。

しかし、文字も「言霊」をもつことができるだろう。
文字で書かれた小説に中にも「魂」の存在を我われは感じることができる。(勿論全てではない)

その多くは、純粋な作家個人の体験に還元してしまうような、私小説的なものにおおいと感じるのだが(たとえば柳美里)、それは極めて反省的次元を経由したものなのだと考えるのだ。

その純粋さとしての「魂」は強烈なのである。
その純粋さこそが「ハイブリッド」と考えてよいと思う。(あくまでも「はいぶりっど」ではない)

そしてその純粋さとしての「ハイブリッド」が生み出すものこそが、信頼の基底をなすものだと考えている(一般的な信頼である)

桃論的IT化とは、「書くこと=文字の文化」の重要性を基調とした「信頼の構築」の取組である。

それもインターネット上での「書くこと=文字の文化」による、社会的に不安定で機会コストの高い社会における「信頼の構築」の試みである。(売名)

それはあくまでも「反省の次元の」復活としての「文字の文化」と「声の文化」の「ハイブリッド」としてのものなのだが、自らの書くことが、「はいぶりっど」な「声的な文字」でしかないとき、はたして「反省の次元」の復活としての「ハイブリッド」はあるのか、「言霊」はあるのか、「信頼の構築」はなるのか、といえば、それははなはだ不安なのである。

以上、永田さん流にいえば、これで「1時間48分」書きました(笑)なのだが、こうして論理的(支離滅裂的ともいう)に考える時間を持つこと、そしてそれを「ことば」で表現しようとすること(バルネラブル)、これがわたし流の「反省の行為」なのである。

ということで、今日は平和建設さまで勉強会。
水戸へ向かう。

2004/05/06 (木)  
【秘すれば花】

今朝は8時には吉谷さんが迎えにきてくれる。
習志野市建設協力会さまで勉強会なのである。

協会ベースのIT化は、最初から高度なことをする必要はまったくない。
まず、IT化の「きっかけとしてのイントラネット」なのである。

まず最初は、全員がインターネットで繋がる、ということである。
そして、協会としてIT化に取組むという、その姿勢こそが大切なのである。

そこからしか、市民社会(消費のミーム)を射程とした表現型は生まれないだろう。

なぜなら、協会ベースのIT化は、わたしのことばいう「公共工事という産業」のIT化につながるのだが、そこには「発注者」の姿がなくてはならない。

この「発注者」と一緒に考える(片務的にではなく)ということを、発注者に対して働きかけるのは、まさしく「種」としての協会の役割なのである。


ということで、本日のひとこと。(笑)

「秘すれば花なり秘せずば花なるべからず」

世阿弥の「風姿花伝」の有名な一節である。

観客が予想もしない演出こそが驚きと感動を生む。しかしそれを悟られると演出の効果は失われてしまう、ということで、まあ、絶えず表現の鍛錬に(芸にだな)精進しろ、ということである。

これは、芸というか、表現者への戒めのことばではある。
現状に満足してはいけない、と。

しかし、いつも同じ芸なのだが、なんど みても凄い!という芸もあるのも確かだが・・・。(マンネリズムの極意)

まあ、このマンネリズムの極意のようなものは、名人芸と呼ばれるようなものであり、我われ若造が及ぶ境地(ところ)ではないだろう。

我われのできることは、表現者として(現場も会社も、この時代は、記号としての表現者であり、「秘すれば花」は経営の極意でもある→それについては後日書く)、表現を続けることだけだろう。

それは悲しいほど終わりがない。

ただ、シニフィアン→シニフィエのスパイラル的繰り返しの中から(反省を伴うスパイル・ループから)、我われのキャパシティが育まれ、芸は身体にしみこむ(身体が覚える)。

そして、いつかは「秘すれば花」が「わかる」身体になりたい、と思うのだ。

では、今朝は忙しいので、これまで。

2004/05/05 (水)  
【文化・記号マーケティング】

昨日は、おそい昼食を、久ぶりの野田岩(わたしが日本で一番うまいと思ううなぎやで、わたしはもっぱら日本橋高島屋の特別食堂を愛用)とした。

かさね重(しらやきとかばやき)で4千円超(税込み)。午後2時頃にいったのだが、ゆうに30分待ち。

うなぎを食う、というのであれば、今や日本中どこでも食することはできよう。

そのとき、うなぎのもつ栄養素を考えて、とか、費用対効果を考えて、うなぎを食べようという方がいらっしゃっても不思議ではないが、わたしが野田岩にいくのは、栄養素や費用対効果や見栄の問題ではなく、ただ sense of wonderを感じたいからである。

それはトラデショナルでありながらも、常に新鮮な驚きをわたしに与えてくれるものである。

野田岩の sense of wonderの基軸は、間違いなく熱いご飯にある。
そしてそれに対比するように「ある」、おそろしいほどに洗練された白(しらやき)と黒(かばやき)。

この極めて単純な組み合わせだけで、わたしの無意識の深遠から湧き出る欲求は完璧なまでに充足されてしまう

それはあきらかに「安くて良いもの」ではないのである。
確かに良いものではある。が安くはないのである。

こういうのを、「凄い!」としか表現できないわたしがもどかしい。
(あいかわらず「なんだかかわからないけれど大切なもの」なのである)

cover 『文化・記号のマーケティング』

星野克己(著)
岡本憲一(著)
青木貞茂(著)
福田敏彦(著)

1993年7月10日
国元書房
2854円(税込み)




最近、構造主義哲学つまりレヴィ=ストロース〔Levi Strauss 英語表記だとリーバイストラス、つまり「リーバイス」なんだなこれが(笑)〕を学んでいて思うのは、「ことば」は、まさしく言霊(ことだま)である、ということだ。

つまり、そまつに扱ってはいけない。
ことばこそがミームである。

我われが文化を伝承できる生物であるのは、結局は「ことば」を使う生物であるからに他ならない。

そして文化とは(「ことば」による)「分け方のシステム」なのである。

動物((人間)は分節をおこなう。
まずそれは自然界に対してである(第1次分節−生物的分節)。

我われはまずは自然界を分類しているはずだ。
例えば、食べられるものと食べられないもの、害のある生き物とない生き物、住むところができるところとできないところなど。

そして我われは「ことば」という記号をもって自分の取り巻く世界(世界観)を形成する。(第2次分節−文化的分節)

それが名づけとその体系化である(同様に、絵・絵画・音楽・画像などによる分節もおこなう−ミーム−記号)。

この第2次分節において、事物や行動に意味が生じる。
「機能的意味」と「象徴的意味」である。

機能的意味は桃論でいうと「狭い意味での(狭義の)技術のミーム」に近く、象徴的意味は「広い意味での(広義の)技術のミーム」に近い。

事物のもつ意味は、その用途ないし機能によってまずは定まり、機能的意味が発生する。

耐久性がある、精度がいい、性能がいい、使い勝手がいい、栄養がある、味がいいなど。

それは、消費のミームからみれば、生理的・経済的価値をもたらす、という意味である。


一方、事物(モノ)の機能とは別に、他の何かを表すシンボルとしての意味が生じる場合がある。これが象徴的意味である。

その人の人間性を表す、ある気分になれる(癒しか?)、TPOに合う、時代状況に合う、流行に合う、人と差別化できる、同一化できる、人間関係をつくるなど。

それは、消費のミームに、心理的・社会的価値をもたらすものである。

売買とは「技術のミーム」と「消費のミーム」の「相互作用の結果の握手(同意・了解・コミット)」でしかない、というのが桃論だが、上記のような記号論的アプローチはこういう。

『商品は、それが消費される場では、記号の集合体として、消費者にとってのある意味を担っていくが、その意味が個々の消費者にとって価値があるとされるとき、つまり、機能的価値かあるいは象徴的価値をもたらすときに購入と使用が起こることになる。』(福田敏彦,p183)

これをミーム論からみればこうなるだろう。

→消費のミームによる技術のミームのもつ第一種情報と第二種情報(村上泰亮)の形成。

→もしくは、消費のミームによる新たな第二種情報の形成(消費のミームによる技術のミームの意図しなかった新たな意味づけ)。


「文化マーケティング」を福田敏彦はこう定義している。

『文化マーケティングとは、ある文化コードの中で展開する、企業ないしはその他の組織体と顧客との間の、商品・価格・流通・販促に関連した諸要素をメディアとしたメッセージの交換−つまりコミュニケーション活動−である』(福田,p184)

この定義は、ミーム論(文化子論=文化的側面アプローチ)という動的(dynamic)な視点から市場(消費のミーム)を考察してきた我われには、全く違和感がないものであろう。

→市場は静的(static)ではなく動的(dynamic)なのである。

ただ、この定義においては、「信頼」というメタ情報に対する視点は欠如している。
これはちゃんと指摘しておかなくてはならない。

それ(信頼)を前提条件として考えているのかもしれないが、昨今の企業経営に関する事件を考えてみれば、「信頼」こそが経営の基底に流れる重低音であることを否定する方々はおられまい。

この定義はその視点に欠如があり、物足りない。
なので、わたしはこう修正してみた。

『文化マーケティングとは、ある文化コードの中で展開する、<信頼の構築を重低音とした>企業ないしはその他の組織体と顧客との間の、商品・価格・流通・販促に関連した諸要素をメディアとしたメッセージの交換−つまりコミュニケーション活動−である』


反古典の政治経済学(村上泰亮)を基底に置く桃論は、市場の考察に対して、市場均衡分析という静的(static)なアプローチをする主流経済学に比べて、はるかに動的(dynamic)な視点を持とうとしている。

村上泰亮の「ことば」を借りるとこうなる。

『新古典派の経済学は、産業化の分析ではなく、市場均衡の分析にすぎない。すなわち、それはまず第一に、産業化の推進力であるダイナミックな(動学的な)要素−技術革新・労働や経営の誘因など−を切り捨てた分析であり、第二は、理想化された市場だけを取り上げて、それ以外のさまざまな経済主体間の調整メカニズムを切り捨てた分析なのである。(村上,p97)→法大エク受講者向け解説ではある。(^^ゞ


些細な違いはあるだろうが、「文化マーケティング」は、市場の考察に関しては、基本的には桃論と同じ視座を持つと考えてもよかろう。

であれば、ミーム論からの技術論的なステップ・アップ(消費のミームとのコミュニケーション手法)として(あくまでも「信頼の構築」(山岸俊男)という視座を重低音に持つ必要はあるが)、我われの実践的活動には大いに参考となるものだと思う。

今という時代は、中小建設業(経営層、現場)は優れたマーケター的能力・視座(消費のミームを読む能力と表現型)を必要とされている。

もしくは既に、中小建設業や「公共工事という産業」も情報化され記号化され商品化されている、ともいえるのだ。


我われは、このマーケッター的能力や視座といった、今までの「公共工事という産業」には無縁であった「キャパシティの壁」を乗り越えることで、我われの「中小建設業のIT化」という桃論的活動も、またひとつステップアップしたい(「世間」という壁を越えたい)と考えている。

だが、それもこれも、「公共工事という産業」の(わたしの「ことば」でいうところの)「キャパシティ・アップ」にかかっているのは当然のことであるが、動くのはわたしではなく、皆さん一人ひとりでなくては意味が無い。

そして、事業者団ベースのIT化→個々の企業のIT化→現場情報共有(発注者の参加)→現場PPTとつづく桃論的IT化は、この文脈上にある最初のステップである。


ただ「文化マーケティング」を「技術論的」といってはいるが、『文化・記号のマーケティング』という本にしても、これら「記号論(semiotics)」からのマーケティングに対するアプローチは、その記述は哲学用語にあふれており、つまりその内容は哲学的(特に記号論近辺)である。

つまり、哲学的な語彙(ことば)を持たないと、理解し実践に結びつかないのも確かなのだ。(表面だけの理解に基づく活動は簡単に見透かされるだろう→「秘すれば花」の理解)

最近のわたしの活動の中心は、その(実践を通しての)体系化といいうことになるのだろうな、と自己分析してはいるが、こう書くと、「何をえらそうに」と、「カオナシ」がスパイト行動を起こすのもたしかなのではあるが、そんなのは、かまっちゃいられない、のである。

2004/05/04 (火)  
【カオナシ】

朝から(今頃、先)月末の仕事。

休みがあると「気が緩む」というのは確かで、先延ばしにしようとするベクトルは確実に働き、気ばかりあせるが身体は動かない。

こうしてみると、以外に身体は正直者なのであり、この身体の正直さはどこから来ているのか、などとくだらないことを考えては、正直のご褒美に、ビタミンCのサプリメントを身体にあげたが、べつになんの反応もない。

目先の問題は、5月7日の平和建設さんでの勉強会と、5月8日法大での資料の準備、それから原稿の締め切りも間近なのだ、ということであり、これもなんとかせにゃいけない、とは思うが、思うだけでは、わたしの行動のエネルギーは身体へは伝わらず、まだ明日があるさ、と堂々巡りを繰り返している。

結局、わたしの行動エネルギー伝達装置は、「切羽詰り」という1段トランスミッションなのかと、半ば腹立たしく思うのだが、どうやらわたしは高性能スポーツカーというよりもカブ以下の部類らしい。

それにしても、今日の天候はあまりすぐれず、老眼鏡(デスクワークのときは老眼鏡愛用。普段は遠近両用)越しに見える浅草の空は、どんよりと重い。

風邪も強くなってきているようで、雨がふりだすのは時間の問題だろう。


教材用の「千と千尋の神隠し」を見ていて、いまさらながら、なるほどなぁ・・・、なのである。

カオナシという黒いマントのモノは、自分の声はなく、自分が飲み込んだ相手の声を借りてしかはなしができない。

この自分の声を持たないカオナシが、相手の最初のコミュニケーションに使うものは、相手の好きなものの贈与である(哲学用語では「贈与の一撃」)。

彼が見たみんなが好きなものは「金」であった。
(よーく考えよう。お金は大事だよ)

たしかに、多くは、「金」でなんとでもなった。
→大宴会→バブル、人の欲のメタファーか。

しかし、千の心は「金」では動かなかった・・・、と。
(わたしは動く!★\(^^;)

挙句の果てに、川の神様謹製の団子を食べさせられて、げろ吐きまくりの大暴れで大迷惑。
そして、また、ただのカオナシに戻っていく。

カオナシは最後まで正体不明なのである。→匿名のメタファー。

これは世間である。
というよりも、わたしを含む世間のことなのだろうなぁ。

まあ、銭婆と編み物をするカオナシは「わからないという方法」を実践し始めた世間とも見えるが。

2004/05/03 (月)  
【ほっ・ぴぃー】

やる気があるのか、といえば、ないわけで、昼間っから浅草ROXSあたりで、牛筋煮込とホッピーでうだうだし、帰ってからPPVで新日の東京ドーム大会を見ている。

K1というブランドはやはり凄いのだろう。
新日のような、デコード化した(前進しか生き残る道のない)プロレスは、K1との「はいぶりっど」でしか、もはやドームでの興行はできないのだろうな、と思う。

・ノルキアVS吉江(総合格闘技ルール)
ルールがよく分からないが楽しい試合。(笑)
冗談のような試合なのであるが、裏拳→バックドロップ→フライングボディプレス→キャメルクラッチで吉江の勝ち。こういう試合は(身体の大きな人間の試合はそれだけで)、プロレス的で好き。

・オフェアー(WWE→K1)VS棚橋(プロレスルール)
オフェアーはキャリア4年、日本でいえば、まだグリーンボーイ。
無芸、これにつきる。

・武蔵VS新発田(総合格闘技ルール)
武蔵に蹴られたら痛いに決まっているじゃないか。

・ボブ・サップVS中邑(プロレスルール)
いつの間にかサップはIWGPのチャンピオンで、数日前にはラスベガスで試合していたはずの人が、プロレスとはいえ、こんな短いインターバルで試合をするというのは、売れっ子というか、この人なしでは、興行が成り立たない、というのか、今のリングビジネスのしんどさなのだろうなぁ。

しかし、サップってつお〜い。

ということで、今日は、なにも考えず、イメージ化だけでおしまい。
これから大洋VS巨人戦である。

2004/05/02 (日)  
【エネルギー放出週間】

世の中は黄金週間というやつであって、連休である。
この黄金週間というのは、第2次産業従事者における、現代の「ハレの日」(レヴィ=ストロースのいう「冷たい社会」における周期的祝祭)なのだと理解してみた。

いってみれば、日本の産業化の中で生まれた「サラリーマン」の集団ガス抜きなのだろうな、などと、くだらないことを朝から思う。

それで自分は、といえば、サラリーマンではないので、いつでも連休といえば連休(毎日が祝祭若しくはその逆)なのであって、世間様のことばを借りれば、5月5日まではただ「休める」というだけの日なのであった。

しかし、「休める」というのは、いったい何が休むのか、と考えると、これもまた不思議なのもので、多くの場合、「休める」とは、会社活動(多くは生産)を一時停止する、という意味であって、対象となるサラリーマンの多くは(休めない職種の方もいるので)、会社にいる時間よりも、多大な肉体的・精神的エネルギーを消費をする(エントロピーを捨てる)ことになるのであるが、それは休んでいるのだろうか。

考えるに、そのエネルギーの消費が、また仕事に戻ったときの生産性に寄与するものなのだとしたら、自らの仕事を通して自己実現・自己超越を可能にする、などという理想主義的命題を掲げるわたしにとって、人間は産業化における生産に必要の無いエネルギーを持っていて、それをどこかに捨てないことには、産業化も成り立たない、という仮説がなりたつのだが、そんなことを考えるのは馬鹿なのかもしれない。


わたしといえば、今年のこの時期は、「文化」という名で呼ばれる錯綜体(浅田彰)とカオス的に戯れる予定で、まずは「ことば」で遊ぼうか、と考えてはいた。

まあ、やろうとしているのは、昨日書いた、カタカナの「ハイブリッド」と、ひらがなの「はいぶりっど」についての自分なりの定義なのであるが、そんなことはどうでもよくなっているのが「今朝」なのである。

タロサから。(今朝の興味の対象)

ども。タロサです。ご無沙汰でやんす。

戯言の奥田民生の話。私も渋谷陽一氏のコラムについては違和感がありますね。

どうもこの渋谷さんってのは、「ロック」=「反社会性」という意識が強いのではないかと思います。日本にロックを根付かせた最大の功労者ではあると思いますけど、そこでストップしちゃってるのかな?師匠の言う「naive」とは言いえて妙って感じ。

は〜い、ぶりっどではないですけども、すでに音楽のジャンルは、これがロックとか、あれが演歌とかいうもんじゃないと思います。

例えば、日本のアイドルシーンを塗り替えたつんく♂にしても、シャ乱Qの音楽の根底に流れるのは演歌だったり、演歌歌手の坂本冬美がロックコンサートに参加してみたり、クイーンのボヘミアン・ラプソティはオペラをベースにしていたり、まぁ、そんな感じに音楽には境界は無くなっていて、そのテイストをうまく組み合わせることで新しい音楽が生まれてくるんだと思うんですね。

で、一番大事なことは、その音楽によって自分が何を表現したいのかってことであって、それがロックでありフォークであり演歌であって、無理にロックとは何か、演歌とは何かと枠にはめたがるのは、すでに音楽オタクになってしまった人だけじゃないかと思うんであります。

俺的には、ニューミュージックという言葉が(すでに死語ですけど)生まれた瞬間に、境界は無くなっていると認識してるんですけどね。

そもそも、奥田民生って、ソロになってからダラダラした音楽になったと思ってないんですけど。ユニコーンの頃からダラダラしてたような気がします。
アルバム「服部」のジャケット、「おどる亀ヤプシ」、「ヒゲとボイン」なんてネーミングは、もうそれだけでダラダラ感一杯。(笑)

んじゃまた。

わたしは音楽なんざ、「癒し」以外に、なんにもできない、と考えている。

その秩序だった構造は面白いとおもうけれども、音楽を表現として持たないわたしにとっては、それは「気持ちいい」という「はいぶりっど」な感覚が全てであり、それは悲しみの同化、喜びの同化、怒りの同化ではあるが、といっても、とても瞬間的なものである。

音楽を聴いて革命を起こそうとか、人生をそうこうしようとか、その瞬間は思うかもしれないけれども、それが持続したためしはない。(たぶん、わたしの講演もそんなものかもしれないなぁ、と考えるのだが)

どんな音楽を聴くのか、というのは、たぶんに恣意的であり、音楽は浅く広く(気持ちがよければ)なんでも聴くし(昨日の飯田出張の折、往復の特急あずさの車内で聴いていたのは、ジュジュと呼ばれるアフリカの民族音楽である)、気分がよければ時々歌う。

わたしはシンクロシステム(キング・サニー・アデ−ジュジュ)を時々口ずさんではかみさんからお小言をいただいている。

ただ、それだけなのである。

しかし、されど、音楽なのではある。
なくては生きてはいけない。

わたしは、音楽と、ビールと、本と、ウコンと、このサイトでの反省の行為がなければ、たぶん生きてはいけない。

わたしは音楽は「癒し」だというけれども、面倒なことばを使えば、それは、人間が本来持つ、エントロピーの増大による一様化、無秩序化に抗する、エントロピーを捨てる作業、そして「ネゲントロピーを食べる」(シュレディンガー)ために、なのではないか、と思う。

つまり、構造的には先に書いた「黄金週間」でのエントロピーを捨てる作業と同じなのである。

たぶん、この時代に生きるために、自分の生活には必要とされていない(本来誰もが生の必然として持っている・ためこんでいる)エネルギーを、我われは音楽を媒介にしたり、「黄金週間」を媒介にしたり、それこそ、お酒や広義の「遊び」を媒介にして、捨てているのである。

つまり、「休む」ということは、充電ではなく、自らに蓄積した余分なエネルギーを捨てていることと同義なのかもしれない。

2004/05/01 (土)  
【定義:「公共事業という産業」】

鱸です。 お久しぶりです。

> この時代に、この時代の空気に気がつかない「公共工事という産業」は、
> 自らの「言葉」を失い、「信頼できない」の再生産を、消費のミームに
> 繰り返させているだけなのだ。
>
 本日の戯言の一節ですが・・
 居酒屋さんのリピータに絡めて 「提供側が想定した価値」に対して、
 受け手が反応(提供側の想定どおりである必要もない・・)したケースを
 紹介されています。

 こうした一般的消費行動と公共事業における行動では、何かが違う(少なく
 とも、受け手各自が自分の思うがままのサービスを選べない )のですが、
 根っこで共通するものがあるはず  とは思ってます。

 それが現場なのでしょうか? たしかに現場も一つだと思いますが、
 もっと語らせたいところがあります。 それは社会資本整備・維持管理に
 関わるエージェントの方々だと思ってます。

                  意味不明、以上


わたしが使う「公共工事という産業」という「ことば」は、これは発注者と受注者を包括的に含む概念であり、ここにわたしは特別な区別をしていない。

それはご承知だと思う。

ずっと、わたしはその視点で語ってきてるのであって、それは最近のわたしのことばでいうと「のれん」(人質としての信頼の担保)分けの関係になる。

「のれん分け」としての受注者は、そもそもどこから「のれん分け」したのかといえば、これは「発注者」なのである。

【暖簾分(け)】
―する
その店に長く勤めた店員に、同じ屋号の店を開くことを許す(し、物心両面に相応の支援をする)こと。また、そうして出来た店。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


つまり、本来「発注者」は、本家であり、本店であり、元祖なのである。
地場型中小建設業の生い立ちは、その「のれん分け」でしかない。

その意味で、公共工事に依存する地場型中小建設業は官製としての性格が強い、とわたしは主張している(勿論それを可能にしたのは「開発主義」に他ならない)。

しかし、この「公共工事という産業」という「本店-分店関係」にとって悩ましい問題は、本来、「のれん分け」先に「独り立ち」させてナンボの本家が、「のれん分け」先に、ずっと「物心両面に相応の支援」を続けることで、本家の優位性を保つ、という戦略をとり続けてきた結果(これも「開発主義」)、本店が、物心両面にわたって提供できるものが empty 状態に陥り、すでに支援が出来ない状況になっても、「独り立ち」できるの「れん分け」先がほとんどいない、という状況なのである(これも開発主義の持つ負の一面ではある)。

なので、本来この状況を打破できるのは、本家、つまり、鱸さんがいうように「発注者」となる。

しかし本家としての発注者は、既に、ひらがなの(反省の次元を使わない=イメージ化=はなしことばの文化)「はいぶりっど」化した市民社会(消費のミーム)に語る「ことば」を「市場原理」しか持たないのである。(それは「はいぶりっど」のエージェントとしての政治の限界だと思う)

その意味で、わたしは既に、発注者が単独で行う、消費のミームの編集という第二象限アプローチの存在には限界を感じているのだ。

だから、その上で、「公共工事という産業」のIT化を考えている。

それは端的にいえば、カタカタの(反省の次元をもつ=反省=書きことばの文化)「ハイブリッド」なのである。

このカタカナの「ハイブリッド」は、ひらがなの「はいぶりっど」のために、現場のメタファーを必要とするだろう、ということである。

つまり、主体は表現者としての「受注者」(のれん分け先)であり、その表現の射程は、本店(発注者)を貫き、第二象限の消費のミームへ向かうことになるだろう。

そのとき、「今と言う時代」の「公共工事という産業」の「のれん」が、どこから「のれん分け」されたものかを、我われは確信することになる、というのが最近のわたしのIT化論なのである。

そして、ここまで考え抜いたところで、我われに必要とされる表現の構造は、居酒屋のリピータ確保戦略と同じものなのだ、というのが、昨日のわたしのはなしなだ。

つまり、鱸さんのことばでは、「こうした一般的消費行動と公共事業における行動では、何かが違う(少なくとも、受け手各自が自分の思うがままのサービスを選べない )のですが、根っこで共通するものがあるはずとは思ってます。」ということである。

以上、構造主義哲学をかじったので、ちょっとやりたかった表現なのではあった(笑)。

尚、「少なくとも、受け手各自が自分の思うがままのサービスを選べない」という鱸さんの指摘は、公共財の持つメタ的性格であり(だから「公共」-第二象限)、わたしのIT化論では大して問題ではないばかりか、それだからこそ、表現が、より「第二象限の消費のミームへ向かうことになる」だけの理由でしかない。

しかし改めていうが、本店(発注者)に、その力というかシステムはないようである。

ではどうするのか、それがカタカナの「ハイブリッド」と、ひらがなの「はいぶりっど」のIT化論なのだが・・・。

以上、たぶん、ほとんどの方々は何をいっているのか、わからないはずである(それはわたしのせいである)。

だいたい、カタカナの「ハイブリッド」と、ひらがなの「はいぶりっど」という「ことば」の定義さえ、まだ口頭でわずかな方々に語っただけなのだから、今の時点では、理解されなくてもしょうがないのだ(だから、鱸さんの意見もまた可なのである)。

ということで、連休中にでも、このカタカナの「ハイブリッド」と、ひらがなの「はいぶりっど」については、ぼちぼちと書いていこうと思う(ただし説明するには、まだまだわたしの内部で、ことばの咀嚼が出来てい部分があり、ことば遣いは、思いっきり面倒なものとなってしまうかもしれない-今日の戯言のように)。

ということで、今日のわたしは長野県飯田市へ日帰り出張。
北沢建設さまで勉強会である。

明日からは、ちょっとだけ連休なのだけれども、原稿書きが待っている。

momo
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